2010年10月01日

60回

月刊寺島実郎の世界 2010年9月25日OA分

~欧州を旅して―17世紀オランダと日本。今日に与えるインパクト~


木村>  先週は「2010年夏の総括―円高に対する戦略的対応」というテーマでお送りしましたが、たいへん触発される内容で、いまの日本の現状を考えさせられるお話を伺いました。
 今週前半は「寺島実郎が語る歴史観」をお送ります。テーマは「欧州を旅して―17世紀オランダと日本。今日に与えるインパクト」です。
 私は以前、長崎に勤務をしたことがあるので17世紀のオランダに非常に興味がかきたてられます。

寺島>  日本史上1600年にリーフデ号というオランダの船が大分に流れ着いたということがあったのです。その辺りがきっかけになってオランダとの関係が江戸幕府の時代を通じてもの凄くよくなりました。オランダだけが長崎の出島を通じて日本の貿易相手、別の言い方をすると西洋社会に開いている窓のようなものとなり、歴史的な関係が深い、ということは誰もが知っているはずです。
 私は今般、またオランダに行って踏み固めている問題意識があります。それは、17世紀はオランダにとって黄金の世紀と呼ばれましたが、それが世界史にどのようなインパクトを与え、日本近代史をどのように変えたのか、さらに我々自身が今おかれている状況にどのような影響を与えてきたのかという疑問です。このテーマについて、しっかりと体系的に考えていこうと思っています。このシリーズでも、何回かそれに関連したお話をしようと思います。
 私は、岩波書店が出版している月刊誌『世界』の中で『脳力のレッスン』を連載していますが、連載が100回を超えて、いよいよ来月10月に単行本の3巻目が出版されます。それは「問いかけとしての戦後日本と日米同盟」というテーマで十数回に渡って連載したものを体系的にパッケージしたものです。これからは、『脳力のレッスン〈4〉』に向けて、シリーズの一気通貫の問題意識が「17世紀のオランダのインパクト」というもので連載をしてみたいと思っています。本日は、その入口のような話だと思って聞いて頂きたいと思います。
 17世紀のオランダは、絵画好きな人にしてみると、レンブラント、フェルメール等が出たオランダでもあり、世界史的に見ると海洋大国としてのオランダでもありました。オランダにとっとも、最も輝いていた時代だったのです。その事実がどれほど日本史に連環があるのかという一つのきっかけの話だけをしておきたいと思います。
 以前、この番組でお話をさせて頂きましたが、ロシアにとって非常に大きな存在であったピョートル大帝という人がいて、1705年に日本語学校をサンクトペテルブルグに創ったという話をしました。大阪出身の漂流民の伝兵衛がサンクトペテルブルグまで連れて行かれて、「お前、日本語学校をつくれ」とピョートル大帝に言われて出来たのです。これはペリーの浦賀来航の150年も前の話で、ロシアが日本の存在や極東に目を向けたきっかけになったのです。
 ピョートル大帝は身長2メートルを超す大男だったらしく、不思議な話なのですが、1697年皇太子の時代に、自分がロシアの皇太子である身分を隠して、オランダのアムステルダムで船大工として修行をしていました。それは、つまり、それほどまでに関心があったということで、このことがピョートル大帝を変えたのです。彼は欧州歴訪をしたのですが、特にアムステルダムで船大工の修行をしたことによって、アムステルダムのような船で往来をする水の町をつくろうと考えて、ロシアのバルト海の出口にサンクトペテルブルグの建設に着手しました。それが1705年に日本語学校をつくれと言った前後なのです。その頃、日本人が漂流民としてやってきましたが、それ以前すでに彼の視界の中には、オランダでの修行時代に長崎の出島や東インド会社等を通じて、東洋に大きく張り出しているオランダという情報が入っていたに違いありません。
 そのような知見が広がっていたために、極端に言うと日本人が漂流民として連れて来られても彼はそれほど驚かなかったのです。そのことがロシアのアジア、つまり極東に対するロマノフ王朝の関心なり、野心なりの一つのきっかけになって、後の1860年にウスリー河の東側を中国から手に入れて、そこに人口的にウラジオストックという町の建設を始める大きなきっかけになりました。ウラジオストックはロシア語で、「東に攻めよ(東征)」という意味で、いかにも東アジアに対する野心をむき出しにしたような都市の名前で建設を始められたということです。150年前にサンクトペテルブルグの建設を始めたピョートル大帝の問題意識がじわじわとロシアを東へ東へと向かい、ついに極東に現れ出たロシアとなったのです。
ウラジオストックの建設に象徴されるようなロシアのアジア進出に対する緊張感、それが例えば1804年にレザノフが長崎にやってきたように、ペリーが浦賀に来航する半世紀も前にロシアが日本の扉を叩いたということなのです。日本においては開国を求める圧力、ある種の恐怖心が、例えば、「蝦夷地を守らければならない」ということになって、それが後に北海道開拓や蝦夷地開拓等の問題意識に繋がっていくということになります。
 私が盛んに言っていることですが、私の故郷である北海道に、極東ロシア、すなわちロマノフ王朝が張り出してくる野心と、北海道、当時の蝦夷地を防衛し開拓しなければならないという日本の問題意識とは、まるで双生児のようなものなのです。
つまり、世界史は繋がっているのだということです。これがもの凄く重要なことで、ただ単に17世紀のオランダがそこにあって、ピョートル大帝なる人物が気まぐれにオランダに行って船大工の修行をしていましたということで話がプツンと切れるのではなくて、それがサンクトペテルブルグ日本語学校、そこからさらに極東への野心、そして日本近代史へのノック、そこからその後のペリー浦賀来航へと繋がっています。
ペリーの浦賀来航については今度ゆっくりとお話をしますが、「17世紀オランダ」がいかに基点になっているのかということに我々は気づかざるを得ません。それは何かというと、一言でアメリカ合衆国とは何かというときに、意外と知られていない事実があります。ピルグリム・ファーザーズ(註.1)がメイフラワー号でボストンの近くの岬に辿り着いたということがアメリカの歴史の原点で、必ず語られる話なのです。ピルグリム・ファーザーズはピューリタン(清教徒)弾圧によってイギリスから新大陸を求めて直接行ったと思われがちなのですが、実はイギリスからオランダのデルフトというフェルメールの故郷の町の近くの教会で10年間も亡命生活を送っていました。つまり、ピルグリム・ファーザーズはオランダからアメリカに旅立ったということです。
ニューヨークはニューアムステルダムだったということはよく知られていますが、まず「17世紀のオランダ」が張り出していって、それがいつの間にかイギリスが力を持つにつれてニューヨークに変化して、東部13州の独立となり、そこからやがて西へ西へと動いたアメリカ合衆国の発展が西海岸に辿り着いた後、いよいよ太平洋が見えてきて、中国が見えてきて、捕鯨船の話等も含めて、要するにその関心がペリーを浦賀にやって来させるということになったのです。
したがって、この話も繋がっていて、オランダを真ん中にポーンと置いて考えているわけではありませんが、ロシア、ピョートル大帝からやって来る力学と、アメリカ新大陸からアメリカ合衆国に向かってくる力学が、やがて、東からも西からも日本へと向かって来るのです。そこで、日本史は世界史の中にどのような相関の中にあるのかという時のイマジネーションとして、この話がもの凄く重要で、ここをしっかりと立体的に描き切っていこうということが今度の私のモチベーションなのです。この話にまつわる話が続々とあります。そのお話をしていくことが、これからのこのシリーズの中で出てくる話だと思って頂きたいのです。

木村>  「東インド会社」という言葉を一つとってみても、我々に印象強く残っているのは、そのずっと後の、イギリスの東インド会社です。しかし、オランダは寺島さんがおっしゃるように、17世紀に入ったところで東インド会社をつくりました。そのような意味において、我々は歴史を忘れているけれども、オランダというところから世界をみる、日本をみるということが大事なのですね。

寺島>  歴史は立体感をもって見ることが大事なのです。つまり、西洋史と日本史の対比年表をつくって、年代を平面的に記憶する形でやっても歴史はいつまでたっても頭の中で広がりません。立体感をもって、そのダイナミズムの相関をイマジネーションの中に置けるのかどうかということが、歴史を深く理解することなのだという話です。このことをこのシリーズを積み上げることによって伝えていきたいと思います。

木村>  いま、ちょうど、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』で、長崎が龍馬の亀山社中の拠点として出てきています。そこでオランダに対して我々も関心をもっています。

寺島>  何にしても、まさにオランダなのです。
ちなみに、私はロンドンで大変なものを手に入れてきました。それは1858年(明治2年)にイギリスのタイムズがつくった「長崎出島の図」というものを、そのようなものを専門に売っている店でみつけて買ってきたのです。長崎の出島に繋がる話も非常に面白い話がたくさんあるので、ぜひじっくりとお伝えしたいと思います。

木村>  寺島さんが以前、お話になったと思いますが、ペリーの浦賀来航に幕府は慌てたと言われているけれども、そうではなくて実はオランダを通じてその情報を掴んでいましたね。

寺島>  ペリーが行くという通報は事前に受けていました。浦賀の奉行所の対応をみていてもわかりますが、もの凄くシステマティックで、「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌ができるくらい、慌てふためいたとなっていますが、それは事実ではありません。日本は日本なりの覚悟をもって迎えうっていたと思います。

木村>  寺島さんがおっしゃる、我々はイメージを「立体的」に、そして、「相関」をキーワードに、これからオランダを軸として語られる世界、歴史のいろいろなお話が益々出きて、その中に発見も沢山あるだろうと思いますので楽しみに待ちたいと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの皆さんからのメールを御紹介してお話を伺います。
 ラジオネーム「マージナルマン」さんからです。「ポッドキャストで拝聴させて頂いております。先日の、アジア太平洋フォーラムの講演内容に触発され……」。この講演は、アジア太平洋研究所推進協議会のリレー講座のことです。「この講演内容に触発され、先週シンガポールに行って参りました。52歳、サラリーマン営業職。時間がない、金がない。でも、一番世界を見ないといけないと思い、自費でかつ、有給休暇を使って1週間行ってきました。シンガポールがここまでパワーがあるとは……。若者ではなく、我々のように既に後半に差し掛かっている世代にこのような刺激は必要です。グレーターチャイナに飲みこまれないように、あとどれだけ日本に貢献できるか、再度、力が湧いてきました」というメールを頂きました。
 寺島さんが先日のリレー講座の中で「シンガポールは重要なところだ」とおっしゃったお話に触発されて、とうとう出かけてしまったのですね。

寺島>  素晴らしいことだと思います。要するに、グレーターチャイナ=大中華圏は、中国を本土の単体とだけ考えずに華僑圏との相関で考えるという視点が大切であると私は盛んに言っていますが、シンガポールが大中華圏の南端として中国の成長を東南アジア諸国連合に繋ぐ基点になっています。いまでは医療センタ-化をして、シンガポール自体が病院のようなもので、中国で金持ちになった人たちを吸収して検診を受けさせたり、入院をさせたりするというファンクション、つまり大中華圏の役割を果たしている話をしました。しかも、淡路島くらいの面積で、工業生産力もなく、人口もなく、資源の産出力もないような国が世界に冠たる経済国家になって、2008年の1人当たりGDPが購買力平価で49,000ドル、33,000ドルの日本より16,000ドルも多いという状況になっているというお話もしました。とにかく、シンガポールを見ることによって触発されるという話だったのです。
 ところで、私は「ユニオンジャックの矢」ということを盛んに言っています。かつての大英連邦の埋め絵と言いますか、中東のドバイ、UAE、インドのバンガロール、シンガポール、そして資源大国化するオーストラリアのシドニーをロンドンから繋ぐと一直線であるという意味です。ちなみに、私がPHP新書から出版した『世界を知る力』の中に、絵で描かれています。
 そのユニオンジャックの矢とグレーターチャイナの南端の接点がまさにシンガポールなのです。そのファンクションがスパークして、リンクをして、世界に冠たる付加価値を生み出す目に見えない財、ソフトウェアであったり、システムだったり、技術であったり、サービスだったりするものが集約しているという話を私は盛んにしてきています。メールを下さったこのリスナーの方のように、現場に飛んで体感してくれると、いかにシンガポールが元気な国かがわかると思います。例えば、いま話題になっているローコストキャリアのような安い航空サービスによってインドネシアやマレーシア等から人を引っ張ってきています。2つのカジノもオープンしましたが、これがまた凄まじい施設です。
 私が最近もっと驚いているのは、日本の老舗の料亭や銀座の名門の寿司屋等がシンガポールに進出していることです。そのようなことで、アジアのダイナミズムがプールされていると言いますか、大中華圏のエネルギーであり、ユニオンジャックの矢であるものがプールされてきているのです。シンガポールを体感することによって、アジアがどのように変わりつつあるのかということにピンと来るのです。しかも、定点観測のように見ていると、中東からやって来る人たちの動きや、オーストラリアからやって来る人たちの動き、世界の金融関係の人たちがシンガポールにやって来る動きがわかります。
 私は働き盛りの人が行っていることが凄くよいと思います。それは何故かというと、そのような人こそが、いま世界がどのように変わっていっているのかということを理解しなければならないからです。そのような面では、非常に嬉しいメールですね。

木村>  しかも、メールの最後に「力が湧いてきました」と書いてあって、本当に力強い言葉がありました。メール文の真ん中のほうには「ホテルでは1日1回、ダウンロードしたこの番組の講演内容を毎日繰り返し聴きながら、そして、帰りのシンガポールの空港では『世界を知る』最終章、加藤周一氏との対談の話を読みなおす」と書いてあります。

寺島>  これは、我々としても張り合いがありますね。

木村>  それを具体的な力にして下さっているライジオネーム「マージマルマン」さんに、心からの寺島さんからのエールを送りたいですね。

寺島>  まったくその通りです。

(註1、Pilgrim Fathers。イングランドは16世紀のヘンリー8世からエリザベス1世の時代に、ローマ教皇庁から独立したイングランド国教会をつくった。17世紀にかけて国教会の改革を行なおうとした清教徒たちは、弾圧を受けた。彼等は信仰の自由を求めて1620年にアメリカ東海岸に辿り着き、理想の社会を創ることを目指した)

2010年10月のスケジュール

■2010/10/1(金) 05:45頃~
TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」
※マンスリー出演

■2010/10/1(金) 06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

■2010/10/8(金) 05:45頃~
TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」
※マンスリー出演

■2010/10/10(日) 08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2010/10/15(金) 05:45頃~
TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」
※マンスリー出演

■2010/10/16(土)08:00~
讀賣テレビ(日本テレビ系列)「ウェークアップ!ぷらす」

■2010/10/22(金) 05:45頃~
TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」
※マンスリー出演

■2010/10/22(金) 21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

□2010/10/23(土) 05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2010/10/24(日) 07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/10/24(日) 08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2010/10/29(金) 06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

□2010/10/30(土) 05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2010/10/31(日) 07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

第59回

月刊寺島実郎の世界 2010年9月18日OA分

~2010年夏の総括―円高に対する戦略的対応―~

木村>  今年の夏はとてつもない暑さで、たまりませんでした。この酷暑ということになると、もうひとつの暑い夏であったといえます。それは急激な円高で、9月に入ってつい先ごろ、15年ぶりの円高水準となりました。この円高水準とは一体何が起こっているのでしょうか。

寺島>  私は9月上旬にずっと欧州を動いていました。木村さんのお話の「円高」が凄まじくて、実感として2年前と比べると、日本円のほうが対ユーロで4割強くなってしまって、イメージとしてはお店ではバーゲンセールを行なっていて、5割引きになっている商品は、5割引きから更に6掛けで買う事ができる感じなので、実感としては7割引きのような物もあります。日本円がそれくらい極端に強くなっているということです。

木村>  そこで、今回は、「2010年夏の総括―円高に対する戦略的対応」というテーマでお話を伺いたいと思います。

寺島>  何故、こんなに円高になってしまったのかというと、「避難通貨」という言葉が当てはまると思います。これは、日本経済がもの凄く評価されていて、日本円に対する評価が高まったために円高が進んでいるということでは必ずしもなくて、「ドルやユーロよりはましだ」ということで資金が円に向かっているという緊急避難の場として、円に短期的な資金が流入してきているということです。
 したがって、実力以上の円の評価であるということは間違いありません。それは何故かというと、相対的に日本はまだ国内に貯蓄があるからです。つまり、なんだかんだ言いながらも、国債を日本国内で消化できるだけの国民の貯蓄があるということで、「1,500兆円の個人金融資産」という話題をこれまでにもあげてきましたが、リーマンショック以降、目減りしていて現在は、1,400兆円くらいといわれています。100兆円減ったとはいえ、それでも「日本は国内に貯蓄がある国」という評価が比較的安定している日本の経済という意味においては、つまり、いまは欧州やアメリカが非常に苦しんでいるためにその避難通貨として短期的な資金が一斉に円に向かっているという現下の状況においては、円高をどのように考えるのかについて、そろそろ日本人はある固定観念から脱却しなければならないというところに至っている、という気持ちを私はもっています。

木村>  ある固定観念とは何でしょうか。

寺島>  日本は輸出志向の通商国家なので、「輸出にとっては円安のほうが有利である」という固定観念が日本人の中にあって、輸出産業によって支えられている国のために、輸出産業にマイナスのインパクトがある円高は、日本産業にとってマイナスだという前提があります。しかし、現実問題として、日本のものづくり産業の製造業が10年前、20年前と比べて何が一番違うのかというと、海外生産立地です。それは個々の企業の戦略によって差はありますが、ざっくりと言うと、特に大企業等は海外に生産の比重を移して、海外生産比率5割を超すという企業が当り前のように存在しています。海外に生産工場をもっている企業からしてみると、今度は海外で生産したものを日本に輸入してくる時には円高環境がもの凄く有利になるということです。
 実は、戦略的に前向きに対応した企業ほど、世論的に「大変だ」と言っている割には落ち着いているのです。それは何故かというと、日本の生産構造が変化してきて、例えば自動車産業においても日本メーカーが日本国内で生産している車の台数よりも、日本メーカーが海外で、例えば欧米等で生産している車の台数のほうが圧倒的に多いからなのです。
 そのような状況を前提にすると、「日本は輸出志向の産業だから円高は好ましくない」という前提自体が少し揺らいできます。そこで、円高の戦略的活用の話をしたいと思います。もしも本気で円高はまずいということで、これを止めようとするのであれば、例えば菅首相までが重大な決意をもって言及しましたが、かつて日本が盛んに行なった為替市場に介入することが考えられます。しかし、「市場介入することによって円安に反転させられますか?」ということをしっかりと問いかけたとしても、やれることはもの凄く限られていて、仮に5,000億円、1兆円の国費を投入して為替市場に介入しても、その効果は極めて薄いだろうと言わざるを得ません。それは何故かというと、協調介入といって、日本が介入することに合わせて欧米が一緒に動いてくれるという状況ではなくて、日本だけが単独で介入したとしても、これは表現が悪いのですが、「太平洋に目薬をうつようなものだ」と言うように、その程度の効果しかないということです。
 国内の景気活性化のために内需拡大の必要があるということで盛んに日銀に圧力が向かっています。日銀がもっと金融緩和をすればいいではないかと言う人がいます。事実、つい先日、日銀が新しい方針を発表した「量的緩和」、つまり市場に投入するお金の額を10兆円くらい増やす政策をとりました。しかし、量的緩和といっても、あるいは、金利を引き下げて金融を緩和するといっても、実は、日本経済はここ13、4年に亘って異常な低金利で、公定歩合が1%を割るという状態が延々と続いています。欧米もリーマンショック後、金利を下げたり金融緩和に転じて金融政策によって刺激をするという方法をとりましたが、日本の場合には既に13、4年も内需拡大ということで懸命に超低金利政策をとって、量的にもジャブジャブになるくらいまで金融を緩和してきて、これ以上一体何を追加するのだという状況なのです。
そのような状況下で、日銀に期待しても限度があります。そうなると、日本を円安にもっていくことができる政策は非常に限られているということになります。そこで、奇妙なことを言うと思われるかもしれませんが、私は魔法のように円高を反転させられる政策があると思っています。ある意味では簡単なことなのですが、ただし微妙な問題があって国際社会の常識では禁じ手とされてきましたが、絶対的に効果があります。どうすればよいのかというと、短期資金のホットマネー、つまり、短期資金が円へ、円へと向かってくるわけですから、日本に対する短期資金の流入に対して日本政府が税金をかけるのです。「それはなしだろう」という手です。つまり、日本が単独で日本への資金流入に介入するという、しかも税金をかけてそれを財源にするなどということを始めたら、各国からとんでもない話だとブーイングが起こるに決まっています。ただし、アメリカも自国への資金還流を促すために、つい3、4年前まで、米系多国籍企業という海外で活動している企業が上げた利益を本国に送金してくれたのであれば、その利益に対する税金を割り引くとか、インセンティブを付けるという政策を行なっていました。このように税を調整弁にするということは、極端に珍しいことではありません。
したがって、日本が短期資金の流入を浴びせかけられて、極端な円高で、実力以上の円高になっていることを絶対に避けるというのであれば、自分の資金を使って為替に介入するよりも、流入してくる資金に税金をかけて、特にマネーゲーム的なホットマネーを許さないというスタンスで日本が自己主張するという手もないわけではありません。しかし、そんな禁じ手までを打って円高を回避することがよいのか、それとももう一度先ほどの話に戻って、円高を戦略的に活用して日本が強い意志をもって動き始めることによって、欧米をして「日本を円高にしておくとまずい」という気持ちにさせるような、戦略的意識を持った行動をしたほうがよいのか。私は、後者のほうがもの凄くインパクトがあって重要だと思います。
例えば、私がパリでOECDの人たちに会ったときに、「日本人は利口な人たちだから、これだけ円高になってしまうとそれなりのお考えがあるのでしょう? 一体どのような戦略をお持ちですか?」という質問を必ず受けていました。いま企業でしたたかなところは、大型のM&A等を海外に仕掛けています。強くなった円、つまり1ドル360円していた円が90円を割るというというところまできていて円の価値は4倍になったということですが、この4倍になった円の価値を利用して大型のM&Aを仕掛けている企業等は現実にどんどん出てきているのです。しかし、国家としてどのような戦略意志を持って円高を梃子にして行動をとろうとしているのかということは見えない状況です。
そこで、例えば政府が5,000億円のお金を準備して為替に介入するよりも、政府が準備した5,000億円をさらに民間資金の5,000億円とマッチングして1兆円のファンドを作って、これをベースに大いにしたかかに、戦略的に、日本経済の最大の弱点である資源やエネルギー等の海外依存度が高い分野に対して、長期的な戦略意志をもって大型プロジェクトを買ったり、先端的なエネルギー関連の技術を買うことが効果的であるし、長期的展望のある戦術だと言えます。先日、私が驚いたことは、UAEアラブ首長国連邦がドイツの環境技術を物凄い勢いでオイルマネーによって抑えていっていることです。このように、現在、政府系ファンド=SWF(=Sovereign Wealth Fund)というものがあります。韓国や中国も行なっていて、政府のファンドを海外で展開していくという手に出ています。
日本が政府のお金を雪だるまの芯のようなものを中心として、民間企業と一緒にパッケージにして戦略的に動き始めて、海外の資源やエネルギー、技術等に対して動き始めたほうが欧米の視点からすると、「これはまずい。あまり円高にしておくのはよくない」ということで、円安にもっていかなければならないという意志を持ち始める要因となるのです。むしろ、日本に問われているのは、それくらいの戦略意志で、ダラダラと一体この国は何をしようとしているのかわからないところが非常に問題なのです。先ほど申し上げたような短期的に極端に効く薬のように税金をかけて円高を止めるという手もなくはありません。しかし、これは禁じ手であって国際社会においてはブーイングを受ける。しかし、もし日本が強い意志をもってこのような形で動き始めれば物凄い迫力があって、そのほうが「やはり」ということで、日本の力を際立たせる重要なきっかけにもなります。
そのような全体的文脈によって円高を考えるべきで、円高を逆に利用するのです。「海外に買い物に行きましょう」という話だけではなくて、戦略的な発想で活用するということが日本人の知恵として重要な局面になってきているのだということを私は言いたいのです。

木村>  中国は国家ファンドとして、ある時には世界的に摩擦を起こすこともあるくらいの展開を始めています。これは中国に対する「元」の切り上げ圧力との関係によってある種、世界の目を集める戦いになっているケースが既に出てきていますね。

寺島>  日本の産業が成熟していくプロセスであると腹を括るくらいの発想が必要になります。以前、この番組でも申し上げたことがありますが、そもそも日本円がスタートした明治3年の時には1ドル1円だったのです。戦争が始まる直前の昭和15年の段階で、公定レートでは1ドル2円、それが、敗戦を迎えて360円になり、戦争によって180分の1に価値が落ちました。そこから、日本円はいかにも安過ぎるという話になって1971年にニクソンショックがありました。そして、1985年のプラザ合意があって、段階的に匍匐前進のように円を強くしていきました。自分の国の通貨の価値が失われていくという悲しみよりも、自分の国の通貨の価値が高まっていくということのほうがよっぽど大事なのです。
私は国際社会を、1970年代のロンドンから80年代のニューヨークを動いてきました。1970年の大阪万博から5年経った1975年にロンドンにいた時分に、日本円は市中の銀行では受け取ってもらえませんでした。私はよく冗談半分に言うのですが、当時、富士銀行のトラベラーズチェックをもってホテルで出してみると、「フィジー島の銀行か」と言われて受け取ってもらえないという思い出があります。自分の国の通貨が国際社会において評価を高めていて、しかもいま、実力以上に評価されているという状況をどのように考えているのか、ということが非常に大事なのです。

木村>  そこに戦略的活用、あるいは、戦略的対応に意味があるということがわかりました。そこで、それをどのように実行するのかというお話を後半にお伺いします。

<後半>

木村>  寺島さんに伺った前半のお話で、禁じ手というものもあるけれども、これはまず、おいておく。そして、戦略的な円高の活用となると、これを実行する力は経済界だけではなくて、日本の政治の力に重要な課題が出てくる。さて、できるのかどうなのか、いかがでしょうか。

寺島>  まったくそのとおりです。これは決して楽観的な議論はできません。まず、企業ベースで申し上げると、マクロの数字で考えて頂きたいのですが、日本の個人金融資産は現在約1,400兆円であると先ほど申し上げました。この数字は、いま世界の株式の時価総額の3分の1に当ります。つまり、理論的な仮説の話になりますが、あらゆる企業の株式の3分の1は押さえられるというくらいの資金規模なのです。したがって、海外にこれから活動を展開して広げようとしている企業ほど思いきったM&Aに出てきていて、M&Aの案件が今年に入ってどんどん増えている理由がよくわかります。
さらに、海外生産立地はここへきて、円高を梃子にASEAN等に生産拠点を求めて一生懸命動き始めている企業が日本の中にも多くなっているのですが、これは逆の意味でいうと、日本産業の空洞化を招きかねないのです。何故ならば、ものづくりの基盤が海外へとどんどん出ていってしまって、残された日本列島はどのような産業で飯を食っていくのかという問題が出てきます。そのような問題意識も含めて、日本における望ましい産業構造はどのようなものかということです。
こうした議論でほとんど欠けているのは、例えば日本に向かってきている海外からの資金を還流させて、やがて日本に潤いをもたらすであろう様々なプロジェクトをアジアにしっかりとつくっていくという国家の意志です。例えばまた、ロンドンの金融市場のもつ力は、中東のオイルマネーをロンドンの金融市場にバーンと引きつけて、そこで再投資の仕組みをつくって、私がよく申し上げる「ユニオンジャックの矢」のように、かつて大英帝国が支配していた中東地域のプロジェクトやインドのIT関係のプロジェクト、シンガポールのプロジェクト、オーストラリアの資源関係のプロジェクトに、その資金を還流させて回していくのです。そのような企業なり、プロジェクトが成功して、それがまたイギリスを潤していくというような流れをつくっていくということです。
 日本は「円高をどうする」とばかり言って、分かりやすく言うと自分のことばかりを考えていましたが、ようやく「産業構造ビジョン2010」というものが発表されました。この番組でも話題にしましたが、日本の産業政策の骨格が薄ぼんやりと見え始めています。しかし、日本自身の産業構造をどこにもっていくのか、アジアに対してどのように踏み込んでいくのか、あらゆる意味においての戦略意志が問われているのです。特に、韓国と比較して感じることは、ヒュンダイ、LG、サムスンはなんだかんだ言いながらも、韓国の産業政策や国家戦略とリンクしながら動いていて、企業の利益なり、プロジェクトなりをそのようなものと結びつけていく視点があるのです。日本はある意味においては成熟してしまったと言ってもよいのですが、各企業がそれぞれ国家意志とは別のところでプロジェクトを組んでいます。先ほど敢えて私が政府のお金を雪だるまの芯のようなファンドにし民間企業の資金をマッチングして…と申し上げた意味は、そこのプロセスの中で国家と企業が問題意識を共有していかなければ実行できないということです。したがって、そのような共有のプロセスをつくって日本国が持っているポテンシャルを集約し、海外に一定の戦略的な手を打っていくということを実行しなければなりません。「政府が行なったらよいではないか」という話し方をしていない理由はそこにあります。政府をコアにしながら、民間の力を合わせて行なっていくのです。
 昔はよく、「日本株式会社」だと言われてきました。しかし、私は現場に立ってきたのでよくわかるのですが、それは誤りで、各国は国家の意志とその国から生まれた企業の戦略的な意志をうまく統合しながら海外でプロジェクトを打っていくのです。例えば、世界銀行の案件等を追いかけている人たちの話を聞いていると、フランスはもの凄くて、海外プロジェクトを行なう際に、軍事援助さえパッケージにして攻め込んでいくというくらいなのです。日本にはそのような手は使えません。そうすると、ますます意志をしっかりともって、もたれ合いではなくてよい意味での官・民の連携が、これからの日本の将来を切り開いていく大きな鍵なのだと思います。

2010年09月26日

過去の動画 2010年9月25,26日

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2010年09月19日

過去の動画 2010年9月18,19日

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2010年08月29日

2010年9月のスケジュール

■2010/9/3(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

■2010/9/11(土)05:00~
フジテレビ(関東ローカル)「新・週刊フジテレビ批評」

■2010/9/12(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2010/9/18(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/9/18(土)08:00~
讀賣テレビ(日本テレビ系列)「ウェークアップ!ぷらす」

□2010/9/19(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/9/24(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

□2010/9/25(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2010/9/26(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/9/26(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

第56回

寺島>  まず、私と西部先生との関係からお話をさせて頂きます。西部さんは私と同じ北海道の札幌の出身であり、私にとっては見上げるような存在で、学生時代に60年安保に生きてこられたかたです。そして、私は大学時代に70年の全共闘時代を送ってきました。西部さんは私の高校の隣の札幌南高校の先輩で、「西部邁」という名前は我々の心にその頃から響いていました。
 私があらためて西部さんと向き合う形になったのは、1975年に西部さんが出された『ソシオ・エコノミックス』という本で、我々の世代で社会科学を学んだ人間にとっては大変にインパクトを受けた本を出版されて、新古典派の経済学から一歩前に出て、社会経済学総体を睨むようなアングルから時代を議論し始めてきた人物が登場したということで、私は感激しました。
 更に、西部先生の奥さんは、札幌で小学校から高校まで通っていた私の同級生のお姉さんなのです。そのようなこともあって、初めて西部さんとお会いした時に、「僕は君の少年時代からの悪行を知っているよ」と言われてドキッとして、それ以来、私は毒気を抜かれたようになっています。そのような縁も引きずっています。
 西部さん自身が60年安保の中心人物の一人として戦後日本をいまの局面においてどのように考えているのかということと、現代日本がおかれている状況についてお話を始めて頂けたらと思います。宜しく御願い致します。

「世界を知る力―次の日本へと―」

西部>  当時は皆、あれやこれやと理屈っぽく、全学連がどうとか、60年がどうとか、色々なことを言うけれども、19、20歳のガキにとっては何か敗戦民族の悲しさ、情けなさによって、本当のことが言われていないという感じがありました。小さい声で言いますけれども、あれから65年が経って依然として私が思っていることは、「敗戦属国」、「隷従」、「服属民族」はやりきれない奴らだということです。何故日本人に生まれたのだろうということが私の根深い部分にあります。
 そもそも、私の場合は、「好きか嫌いか」といと考えるのははっきりしていて、小さな声で言いますが、好きな女性とか、嫌いな女性については、かなり敏感に考えますけれども、アメリカという太平洋の向こう側の国について、好きか嫌いかということをテーマにすること自体が、私にしてみれば敗戦民族のトラウマであると思います。
 しかしながら、私が安保条約の問題についてあれこれ東京の街を走り回ったり、たいしたことは行なっていないけれども、その手のことを行なっていた最大の理由は、反米ではなくて、更に申し上げると安保条約のことはどうでもよくて、日本人がこれを巡って何かしら嘘っぽいことを行なっているということをなんとなく感じていたからという程度のものだったのです。私はそのような気持ちはいまもなお、ずっと続いています。
 私はそのような人間なために、いまから理屈っぽく述べてみると、1950年代、1960年代、1970年代のいわゆる冷戦構造なるものについても、おそらく世間とはかなり違った感覚で受けとめていたと思います。つまり、アメリカにつくか、ソ連につくかなどというくだらない議論をなんでしているのかと私は子供の頃に思っていたのです。いまにして理屈をつけてみると、私はアメリカもソ連も一卵性双生児とまでは言わないけれども、二卵性双生児くらいに似通った国なのだと認識しています。
結論を申し上げると、フランス革命から近代社会が始まって、ジャコバン(註.1)が左側に座っていて、「自由、平等、博愛」と言っていて、左側に座ったために左翼になったらしいのです。日本において左翼というと社会主義と強い関係があると思いがちですが、マルクスとエンゲルスが「コミニスト・マニフェスト」=「共産党宣言」を出したのは1848年だったので、フランス革命から60年近く後なのです。つまり、左翼はその前に作られたフランス革命時の言葉なので、自由、平等、博愛、もっと広げて言うと、合理主義とか、科学主義、技術主義等を唱えた人たちが左翼のはしりだということになります。
 さて、そのように考えたのであれば、米ソについては両方とも同じで、アメリカは典型的でいまもなお自由だ、平等だ、博愛だと言って、本当にそのようであるかはともかくとして、それらを最高の理念、価値として掲げて世界中にふりまいているのです。そのような国は何処かと訊ねれば、いまどきは小学生ですらアメリカだと答えるのです。そうすると、歴史上の言葉の流れでは、アメリカは立派な左翼国家であるということになるのです。
 したがって、左翼主義は、「近代主義」=「モダニズム」なのです。自由、平等、博愛、合理、科学、技術等々を100%信じ込むかのような形によって、国家の運営なり、個人の生活なりを方向付けようとするのがモダニズムであると考えると、アメリカこそが立派な1つの「プロトタイプ」=「見本」なのです。それにかなり遅れて出てきたのがソビエト・ロシアなのです。勿論、アメリカが個人主義を原理として近代主義を実現しようとしたことに対してソビエト=ロシアは、かつての中国もそうですが、集団主義、計画主義、統制主義等という形によって近代主義を実現しようとした。方法は個人主義か集団主義かという大きな差はあるけれども、要するに、ほとんどソーセージのようなもので……、これは食べ物ですね。双生児のようなもので、とにかく、似た者同士だということです。
そうだとすると、戦後日本は厄介なものになります。左翼主義、別名で近代主義、この2つのタイプとしてのソ連とアメリカのどちらにつくかをもって保守と革新を区別するということは、私にしてみれば完全におかしな話なのです。しかも、学者やジャーナリストだと言われる人が、戦後一貫として、65年間も「保守だ」、「革新だ」と言い続けているのです。
 私は保守の端くれのはずなので、はっきり申し上げますが、保守、つまり、政治用語としてのコンサバティブとは、その国の歴史の流れ、或いは、その流れの中に保存されている国民の言わば歴史の知恵のようなものを保守=コンサーブして、それを現在という新しい状況の中にいかに活かすのかということです。こうしたことをコンサバティブだとするならば、アメリカはコンサバティブと全く正反対にある、両方の反対側にあるものであって、そのようなもののどちらにつくかで学会もジャーナリズムもビジネス界も、延々と半世紀を超えて行なっていること自体を、私は「お願いだから少しはわかってくれ」と言っていますが、のれんに腕押し、焼け石に水、ごまめの歯ぎしりのようなもので、もうどうにもならないのです。
日本人は近代、近代と言います。こればかりは明治このかた近代化、近代化で、現在もそのような御託を並べている人が存在すると思います。しかし、近代というのは、先程から申し上げているように、「モダン」です。これは面白い言葉なのです。これの類似語は模型、モデル(=model)です。もう1つはモード(=mode)で、流行や様式という意味です。あっさりと言うと、モダン=近代は何かというと、「モデル」。更に説明をすると、誰にでも簡単にわかるという意味において、単純である。つまり、単純なモデル=模型をモード、つまり、誰にでも広がるような、大量に流行するようなモードとして生きるような時代がモダンだということです。
 大の大人がそのような単純な模型の大量流行をもって、これをご立派なこととしている子供の文明に他ならぬ、モダン・エイジ近代というもの、その両極端であるアメリカ型でいくのか、それとも、ソ連型でいくのかによって、何十年間も喧嘩をしているのです。
そう言えば、先日、アメリカの新聞に、鳩山由紀夫さんのことを「ルーピー」(=loopy)だと書いてありました。私はこの言葉を知りませんでした。環状線でクルクル回っている状況をループ(=loop)と言いますが、それに「y」をつけて形容詞になり、loopyになります。この新聞は、鳩山さんが沖縄問題で行なっていたことに対して、「鳩山はルーピーではないか」と書いていたのです。別に鳩山さんに限らず、同国人として厭味を申し上げるのは私の好みではありません。しかし、最近は同国人が本当にいるのかどうかもおぼつかなくなってきていて、全国かき集めたのであれば、1万人くらいは同胞がいるのではないのかと思っています。残りの1億1千799万人は私の同胞ではないような気がしています。そう言えば、私は最近、日本列島の列島を使って「列島人」という原稿を書いています。これは小さい声で申し上げますが、括弧で括って説明をつけ加えると、「優等」、「劣等」の「れっとう」と言いたくなります。私は、この「れっとう」は普通の、物質的な意味ではなくて、日本民族がこれだけ豊かな技術なり、金銭なり、なんなりを持ちながらも、少なくとも戦後は眠りこけていて、ほとんど、夢幻の世界で私も同席しているのでないのかというくらいの気持ちでいます。だんだん年を取って、このような事を何回も思っているために、すっかり現実になってしまい、いま私がこの会場にいることすら夢、幻かというくらいの感じで話しています。
さて、結論を申し上げると、私はあの大東亜戦争は当然起こるべくして起こった戦争であり、佐高信さんが何を言おうが、私はそうであると考えています。しかし、日本のあの戦争に問題があったとしたら、寺島実郎先生からどんなお叱りを受けようとも、私は、あの当時のことをいうと、大東亜共栄圏、或いは、八紘一宇等に関して、「それはないだろう」ということなのです。つまり、色々な民族や国民がいて、宗教、言語、習慣の違い等が生じる中で、「一宇」とは、総てが一つの家で暮らすという意味なので、内輪揉めが起こるのは当り前で、共栄圏といっても、一緒に栄える時もあるとは思いますが、ともかく軋轢が高まって、喧嘩だの、殴り合いが始まるのです。
話が逸れましたが、アジアはそう簡単にはまとまりません。そうすると、大東亜戦争の大問題は、何故アメリカがフィリピンにいたのだ、何故オランダがインドネシアにいるのだ、何故フランスがインドシナにいるんだということによって、アジアを白人諸列強の植民地から解放することが、本気かどうかはともかくとして、日本人にとっては立派な大義名分であったけれども、解放した後に日本人はアジアに一体何をして貰いたかったのかということについては何ひとつ提示しなかったのです。そして、大東亜だの、八紘一宇だのを行ないました。
そのようなことをしていたので、アメリカが出した自由民主、リベラル、デモクラシーといわれたご立派な理想であると勝手に思い込んだ。私に言わせてみれば、結論は簡単で、何がリベラル、デモクラシーだということになります。それは何故かというと、自由といっても各国民の国柄なり、国民性なり、国家に限らず、地域でも家庭も含めて、自由を野放しにすれば、やりたい放題になるにきまっています。民主と言っていますが、民主は世論に、そして、世論においても、その国の国民の常識に基づいているのならば立派なデモクラシーであるけれども、その国の国柄も常識も何もかも半世紀をかけてぶっ壊して、蹴っ飛ばして、その国民が民主だ、世論だと言えば、当然、それは愚かな民人の多数決が始まるだけなのです。
このように考えると、自由民主を本当に内実あらしめるためにも、日本をはじめとするアジア各国が、自分の国の歴史なり、国柄なり、この場合の国は閉鎖的な意味ではなくて、外国との関わり方も含めて開かれた意味において、そのようなことをしっかりと押さえなければ、アジアもへったくれもないのです。日米同盟などというものも在りはしないのです。このようなことを日本人があの時に、あれだけ優秀な人たちがいたにもかかわらず、どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったのか、驚き呆れ果てます。
そのようなことが戦後ますますわからなくなって、皆が「自由だ、民主だ」と言っているのは、言えば言うほど、空疎に、何もかもが蒸発して、ヒステリー現象を起こして、トタン屋根の上の猫のように、技術だ、金だ、世論だと煽りたてられて、熱いトタン屋根の上で1億2千800万人の可哀想な巨大な猫たちがぴょんぴょんと跳び跳ねているのです。私は犬よりも猫が好きなのですが、猫の喩を出したのは事の流れで、私の本意ではありません。いずれにしても、トタン屋根の上の無数の猫のように跳び跳ねているのです。
これ以上話すと二人から叱られますので、突然終わります。

<後半>

寺島>  私は最近、佐高さんとの対談集(『新しい世界観を求めて』)を毎日新聞社から出版して、彼の目を見ながら5回くらい話をしてみて、「佐高さんとは何者なのか」ということを自問自答しながら議論をして、大変に深いものを感じました。これから佐高さんにお話をして頂くのですが、いま日本がおかれている状況、及び健全な産業指導者を世の中に物凄く持ち出してきたのは佐高さんであると思います。このような視点からお話をして頂けたらと思います。
佐高>  寺島さんより過分なご紹介を頂きましたが、本日、3人共通で知っている、どうしてもご紹介したい人物が北海道の北洋銀行の頭取だった武井正直さんです。武井さんはバブルの真っ盛りの時に、当時、北洋銀行の頭取として、バブルに乗っかった融資を断固としてやらせなかった人です。当時のバブル真っ盛りの銀行の頭取としては、下からも突き上げられて、「黙っていても儲かる時代に、何故やらないのだ」と言われていたそうです。その時に、武井さんは「こんな馬鹿な時代が続くはずがない」と言いました。つまり、バブルの時に、銀行の経営者たちや、大蔵官僚のようなとんでもない人たちが誰もバブルが崩壊することが見抜けなかったのです。しかし、武井正直がひとりいるではないかという話です。つまり、経営論等も最後は哲学に行き着くのだということです。その経営者が哲学をもっているかどうかということになります。当時、大蔵省の役人は武井さんに、「もっと融資を増やせ」と言ったそうです。武井さんはそれを撥ね退けたために、大きな北海道拓殖銀行が崩壊した際にそれを引き受けるという奇跡的なことを行なうことができたのです。
 これから少しはまともな事を言わないとまずいと思うので申し上げます。先程、西部さんはアメリカとソ連は一緒だというお話をして下さいました。地雷廃絶運動というものがあって、クラスター爆弾廃絶の話も絡んでいます。こうした兵器廃絶運動からみると、アメリカ・ロシア・中国がならず者国家なのです。これはどのような意味なのかというと、この3ヶ国が地雷もクラスター爆弾も持っているにもかかわらず、その廃絶の条約に加わらなかったということです。現在もこれらの国々は加わっていなくて、日本はアメリカに遠慮をしながら、NGOの運動等でようやく加わりました。
 この運動の中心はノルウェイやカナダ等で、その国々からみると、繰り返しになりますが、アメリカ・ロシア・中国がならず者国家となります。そのような世界地図を日本人はもつことができなくて、アメリカ、ソ連で動いてしまっています。
もう1つは、寺島さんに教えられた「バンドン会議の精神」です。これはアメリカとロシアのどちらかにつくのではなくて、太平洋戦争まもなくの時に、中国の当時の周温来やインドのネルー等が中心となって、アメリカとソ連の両方に寄らない新たな平和を推進していくということです。
つまり、日本のある種のまともな保守の政治家は、アメリカと中国の両方にバランスを取りながら外交をやってきたのです。アメリカと中国の外交関係は八方美人どころか、十六方美人です。しかし、それを確実に壊したのは小泉さんです。小泉単純一郎はアメリカしか見ませんでした。小泉さんはアメリカと中国という二次方程式が解けなくて、安倍晋三さんは一次方程式も解けませんでした。更に、福田康雄さんは最初から解く気がなくて、麻生太郎さんは方程式の意味がわからなったという話になります。つまり、世界地図を様々な意味において、いろいろな形に変えていくことが必要だということです。

(註1、ジャコバン派。ジャコバン政治党派の経緯は複雑であるが、ここでは、マクリ・ミリアン・ロベスピエール、サン=ジュスト等が中心となった急進的共和派を指す。
1792年から始まった国民公会(communication national)=フランス立法機関。
ここで、ジャコバン派は左側に座ったことから「左翼」の語源となる)

西部邁 Susumu Nishibe (評論家)
1939年生まれ。東京大学経済学部卒業。東京大学教授を経て、評論家として活動。雑誌『表現者』顧問。政治・経済・社会・文化の全般にわたる思想評論を継続。著書に『福澤諭吉―その武士道と愛国心』(文藝春秋)、『国民の道徳』(新潮社)、『無念の戦後史』(講談社)ほか多数。

佐高信 Sataka Makoto (評論家)
1945年生まれ。慶応義塾大学法学部卒。郷里の高校教師、経済誌の編集長を経て、1982年に独立。 著書に『逆命利君』、『魯迅烈読』(ともに岩波現代文庫)、『石原莞爾 その虚飾』(講談社文庫)、『西郷隆盛 伝説』(角川学芸出版)、『失言恐慌-ドキュメント銀行崩壊』(角川文庫)ほか多数。『週刊金曜日』発行人。

第57回

寺島>  西部さんに、更に補足する形で御発言頂きたいことがあります。日本人の多くは、この国の戦後なるものを大きく否定してきて、我々自身がいつのまにかアメリカを通じてしか世界を見ない人間になってしまっている状況の中で、アメリカなるものとしっかりと向き合っていくという気迫を持たないまま、ナショナリズムを語っています。西部さんは5年前の戦後60年の時に『無念の戦後史』(2005年講談社出版)という本を出されていて、その中で大変面白い切り口で戦後を捉えています。「15年周期論」というものを書かれていて、1945年に敗戦し、15年経った1960年の時に安保改定という大きな壁にぶち当たりました。それから更に15年が経たった1975年にベトナムのサイゴン陥落、中国の文化大革命の終りという転換点がきていました。そして、1990年には冷戦の終焉。1989年にベルリンの壁が崩れ、1991年にソ連が崩壊していく状況に出くわしていきました。
西部さんの本の中で中国を隣国としてもつということを地政学的な宿命といいますか、理由として中国の脅威があるからこそ、対米追従は必要だというロジックにいつのまにか吸い込まれている日本。それに対して、更に、中国を仮想敵国だと腹の中で思いながら、口先で日中友好と唱えていることの虚構があります。
したがって、西部さんの本の中には、アメリカと中国との関係をしっかりと睨みつけていく構想力がなければならないという思いにさせられる記述が盛んに繰り広げられています。私は西部さんに『無念の戦後史』を踏まえて、あれから5年経っていますが、いまの情況をどのようにお考えになっているのか、お話を伺いたいと思います。
西部>  少し話がそれますが、ヨーロッパでヨーロッパ人と物凄く仲良くなる方法を紹介します。私が何回かやってみて全て成功していますが、さりげなくアメリカの悪口を言うのです。簡単にいうと、「アメリカは困った国だね」と言うと、ヨーロッパ人はニヤッと笑って、「お前はなかなか話のわかる日本人だな」ということになるのです。
 しかし、ヨーロッパにいるかぎり、実はアメリカ人とも仲良くなることができるのです。それは、アメリカ人に「ヨーロッパ人の傲慢にも困ったものだね」と言うと、「話のわかる日本人だな」ということになって、私は「ああ、外交は簡単なものだ」と思ったことがあります。
 そのような意味において、私はヨーロッパを好き嫌いで言っているのではなくて、さすがに文明の先達だけあって、空恐ろしいところがあると思いました。その理由を1つだけ申し上げると、シュペングラーという『西洋の没落』という本を書いた人物がいます。その本を読むと恐ろしいですよ。この本は何も西洋の没落のことを書いた本ではありません。しかし、一部の日本の右翼か自称保守かわかりませんが、簡単に申し上げると、彼らが、1980年代に、「シュペングラーが言ったように西洋は没落する。これからいよいよ日本の番だ」と書いていました。彼らは本の内容をキチンと把握していません。あの本に書いてあった内容は、あらゆる文明が春夏秋冬という季節の循環を追って、最後には衰弱して滅びていく。これはメソポタミアであれ、エジプトであれ、インドであれ、中国であれ、全部入っています。そして、最後に自分たちの西洋のことを「我が西洋は今や完全に秋から冬に差し掛かっている」と論じているのです。
 ヨーロッパがいささか文明の先達である理由は、自分たちはいよいよもって、ここまで栄華を極めた結果で、冬に至っていると認識していたことです。
この本が出版されたのは1919年で第一次世界大戦が既に終わった後でした。
 ヨーロッパは第一次世界大戦の結果、凄まじいことになり、自分たちは没落すると感じたと思います。シュペングラーのことは別にして、ヨーロッパ全体でいうと強かれ、弱かれ、自分たちには、もうこれ以上華々しい季節がくるはずがないと。春が終わり、夏も過ぎて、どうやら秋なり、冬なりがきているようだけれども、何も喜び勇んで早目に滅亡することはあるまいと。これは滅亡を間近に控えるが故に、自分たちの子孫のことを考えて滅亡を少しでも先に延ばすべく、ある種の大人の感覚、歴史の感覚を呼び戻そうとか、或いは、ある種のバランス、矛盾に対して、それこそ矛盾にどのように耐えて上手くくぐり抜けることが出来るのかということです。しかし、上手くといっても、結局のところ人間は言葉の動物ですから、しっかりとした言葉、成熟した言葉によって、家庭、学校、コミュニテティー、国家、国際関係であれ、ヨーロッパ人は物凄い勢いで言葉の訓練を積んでいます。アメリカや日本等の比較でいうとそのような傾きがあるのです。
 日本はそのあたりの感覚は、10年、20年でどうなるものではありませんが、ある意味においてはヨーロッパ以上に長い歴史、しかも、一貫した持続する歴史をもっている国であるのに、たかだが1回戦争に負けて腰を抜かして、腰を抜かすだけならばよいのですが、いつまでも長い間腰を抜かしたまま、腰を抜かしたついでに相手にしがみついています。そのような情けないことはそろそろ止めて、日本人は日本語でも英語でも何語を使って構いませんが、日本語を中心にして自分たちの歴史のセンスなり、人生の感覚なりを成熟させて鍛えていく以外に、我が文明は残ることはできないと知るべきなのです。
 このように考えていくと、現在は完全に病気であると思わざるを得ない具体例を2つ挙げて話を終わりにしたいと思います。皆さんが御存知だと思いますので政治と経済のことを例に挙げます。
まず、経済のことですが、IT革命論です。このようなものは簡単に詐欺だとわかるのです。私は携帯電話も持たないような人間で、人から借りて使うこともありますが、持ちたいとは思いません。これは技術の問題を言っているのではないのですが、IT革命の「革命」の意味は将来のことをITで計算して予測することができるということなのです。例えば、証券においては、これまでのデータを使用すれば、この証券とあの証券をあわせれば、平均収益率がいくらで、分散危険率はいくらで、という具合に、将来を計算できるのです。私ははっきりと申し上げて、馬鹿も休み休み言えと言いたいのです。将来を予測できるという嘘の話で、サブプライムローン等も全部最初から詐欺だとわかっていて、ぶっ壊れていくのです。
 次に、政治の話ですが、マニフェストです。マニフェスト政治は、政策の数字と期限と段取りをあらかじめ選挙民にアピールして訴えて、選挙民に選択してもらって選ばれた政権与党になって、それを基本において実行できなければ、選挙民に対する社会契約に違反したということで政権交代すべきだということです。しかし、もしも政策の数値、期限、段取りを選挙民に問うて決められるなら議会が要らないでしょう。私はパソコンも持っていませんが、世間の多くの人は持っていて、あのようなマニフェスト政治がいいのだと言うのであれば、日本国民に、「今期の政策AからZまで。賛成の政策に○、反対の政策に×、わからなければ△をパソコンで入力して下さい」と問うてみればいいのです。そうすると、コンピューターが集計してあっさりと決まるわけです。どのように決るのかというと、名古屋に脱税……、いえ、減税日本という政党があって、例えば、「今月の政策、税金ゼロ」と掲げたら、おそらく、10人中6人くらいは賛成ということで、たちどころに国家は崩壊してくださるということです。
この程度のことを大の大人が行なっているということです。しかも、それが異様に偏差値の高い人、異様に情報が溢れ返っている中、猫も杓子もITだの、マニフェストだのと叫んでいるこの只中で行なわれていて、これ自体が完全に文明の没落に入っているということです。
 最後に一言だけ付け加えさせて頂くと、本当に自分たちの言葉、外国も含めて、言葉というものを杜撰に使えば、文明は冬どころか吹雪に入るのだということです。

寺島>  ずっとお話を聞いていたいのですが、ここで、佐高さんに1つだけ踏み込んで頂きたいのは、城山三郎さんをいろいろな形で触れられていて、本も出されていますけれども、日本の健全な経済の在り方について異様なこだわりをみせた人に視点をおいてきたことが佐高さんの特色であると思います。
私はいま実際に動きながら色々と考えていますが、かつて、日本の明治維新からある時代まで、国の目的と帰属している組織の目的と個人の目的が、重なり合っていて、自分が頑張れば国にもきっと役に立つことになるのだと疑いなく生きられた時代がありました。そして、いま我々が生きている時代は組織、つまり、企業で働くサラリーマンも含めて、分かり易くいうと、国家の論理と企業の論理が乖離し始めています。特に、グローバル化の中で、例えば、自分が帰属している組織が、もしも国境を超えて利益を探求していくビジネスモデルをエンジニアリングしていくことを何の制約もなく展開するのであれば、極端に申し上げると、国を捨ててでも企業が生き延びればよいと腹を括るのであれば、いまの日本の産業人の限界がそこにあると思いますが、法人税が高過ぎるだの、CO2排出25%削減は重過ぎるだのということで、日本をほぼあきらめかけて、それが第3次と言おうが、第5次と言おうが、海外進出ブームによって円高を梃にどんどん海外に展開していく方向感に出ています。
このように非常に難しい時代の中で、「社畜」(しゃちく)という言葉を使って企業に魂を売り渡してきた人間に対して激しい問題意識を提起してこられたところに佐高さんの価値だと思うので敢えて聞くのですが、少し真面目な問いかけで恐縮なのですが、城山さんの基本精神を見つめてこられて、日本のいまの資本主義のおかれている状況について、いま語っておくべきことがあれば、一言補強して頂けますでしょうか。

佐高>  敢えて申し上げるのならば、西部さんとのテレビ番組「西部邁・佐高信の学問のすゝめ2」(CS放送朝日ニューススター)の毎週の話の中で、最近、意見が一致し過ぎるほど一致しています。この間、村上春樹の『1Q84』を取り上げて話をしたのですが、その時に、人類の「類」、「種」、個人の「個」があって、村上春樹は個人からいきなり「類」=人類に飛ぶのです。一番、葛藤の多い「種」、つまり、国家や民族等の問題はスポーンと抜かして、個人の話がいきなり人類に結びつくということです。そこに、一番大きくて厄介な問題が飛んでいるのではないのかという話をしました。
 いきなり「個」にいくのと、いきなり「類」にいくのと、「種」で止まってしまうという問題があります。「類」を見据えずに「種」で止まるのも問題があります。それが非常に難しい狭い道だけれども、両方を意識していくという困難な道があり、それは武井正直さんが「こんな馬鹿な時代が続くはずがない」という言葉の中に、両方を見据えたものがあるのではないのかと思います。あの時代に、一方では、住友銀行の磯田一郎さんが持て囃されていました。その当時、おそらく、武井さんは臆病な経営者だと言われていたのではないかと思います。磯田さんを一番持て囃していたのはおそらく日経だったと思います。そして、その日経を滅茶苦茶にしたのは、鶴田卓彦という、いま横綱審議会の委員長だという物凄く皮肉なことになっているのです。
みんなの党も全く同じで、党の名前に「みんなの党」と恥ずかしげもなくよくつけるなあと思います。「みんな」というのは、必ずみんなを騙す時に使う言葉なのです。それに何故引っかかってしまうのかという思いがあります。騙される側の責任もあり、竹中平蔵さんに何回騙されればいいのか、或いは、小泉純一郎さんに何回騙されればよいのか、先程申し上げたように、まさに、みんなの党は小泉さんの亜流もいいところでしょう。それに何故引っかかるのか、という話をさせて頂きました。私は根っから良い人なので、西部さんほど毒舌が効きません。

<後半>

寺島>  時間がいっぱいになりましたので、パネラーの皆さま方から、最後に手短に「未来へ」というテーマなので、絶望感に満ちたメッセージから一歩前に出て、未来に向けて、何か希望の光はあるのか、或いは、どのようにあるべきなのかということについて一言ずつ頂いてこのパネルを終えたいと思います。

西部>  私はあまり外交のことは知りませんが、例えば、日本ではイタリア人というと、大変遊んでいると思われがちですが実は、ヨーロッパ人はキチンと知っていて、ヨーロッパの民族、国民は数多いけれども、一番の働き者はイタリア人なのです。つまり、表では肩を揺すりながら冗談を言っているけれども、ひとたび場面がパッと変わると、簡単に申し上げると、女房、子供、もしくは友人のために骨身を惜しまず働きまくるということを知っています。結論を言うと、ヨーロッパ人はイタリア人についていけないのです。何故かというと、スピード感覚が見事で、裏表の切り替えも凄く真似出来なくて、時々腹が立つことすらあるのだそうです。しかし、我がヨーロッパからイタリアがもしも消滅したのであれば、非常に面白くない、残念である、いてくれなくては困るという感覚があるのです。
私はこのことに関して、日本に期待するところがあります。それはイタリア的な独立した民族で、しかも、先程の佐高さんのお話のように、個人のみならず、「類」としてであろうが、「種」としてであろうが、いかにもイタリア的なものの食い方、飲み方、喋り方、振舞い方、町の作り方なのです。私はイタリアをべた褒めしているのではなくて、もしも、日本が働き者で良いものを作るけれども、冗談は上手だし、酒の飲み方もうまくて、日本がこの地球上からなくなったのであれば残念だと思われるような国、もっと言えば家庭、学校等を、どんどんつくろうと思ったらつくることができるのです。

佐高>  私は石原莞爾のことを書いたことがあります。彼は私の郷里の隣の鶴岡市(山形県)の生まれで、彼が中心となって五族協和を唱えていました。これは中国、朝鮮、モンゴル等が五族で、それにユダヤを加えて六族協和といったら、さすがの石原莞爾も引いてしまったという話があります。
この五族協和の考え方を上から押しつけようというのはとんでもない話ですが、そうではない形の五族協和の精神のようなものは新たに根ざしてよいと思います。五族協和の精神によって、満州建国大学がつくられました。この学生歌が、「蒙古放浪歌」で、もうすぐ西部さんが歌い始めると思いますが、満州建国大学は五族協和を実践しようとして、朝鮮民族の出身は何割と決めました。それを決めた学生たち、そこで学んだ学生たちが全て日本帝国主義に抵抗するように反日になっていくのです。私はそれでもよいだろうと思いますが、そのような形で、ある種の理想は何回も敗れるもののために、理想が敗れることを承知で試みることがあって然るべきだと思います。それを1つ求めることが考えられてもよいのです。

寺島>  どうもありがとうございました。私はお二人の存在そのものが日本を面白くしていると思います。お話の中で、「日本がいなくなったら淋しいと思われる国になりたい」という気持ちが私の心に響きました。皆さんには、「このような視点があるのだなあ」と一つでも二つでも感じとって頂けたことと思います。

第58回

寺島>  今年の初めにまさに本日のフォーラムのタイトルにもなっている『世界を知る力』(PHP新書出版)という本を出しました。読者の皆さんから返ってくる反応をじっと見ていて「ああ、そうなのだなあ」と私なりに感じることがありました。それは、日本の若い人たちも含めて、冷戦型の世界から世界がどのような方向に向かっているのか、つまり、冷戦型のものの考え方や見方からどうにか抜け出さなければならないという問題意識を共有しているということです。多くの日本人は地政学的なものの見方が大好きで、地政学の本が極端に売れるような国なので、ゲオポリティカル(Geopolitical)にものを考えます。それは、西部さん的に言うと、「東と西が角を突き合わせていて対立しているようだけれども根っこは一つだった」という話にもなるのですが、要するに、「KGB対CIA」と言った戦いの構図のような、ユーラシア大陸を巡って東と西が陣取り合戦を繰り広げていているというものの見方が大好きで、地政学的にものを考える傾向が非常に強くなってしまったということです。
 『世界を知る力』は、「いま、ネットワーク型によってものを考えないと世界は捉えられない」というところに勘所があります。例えば、中国本土=中華人民共和国のGDPがいよいよ今年日本を追い抜くという単純な話ではなくて、中国が今、ネットワーク型発展の中にあって、中国本土と香港、シンガポール、台湾という中華系の人たちが活躍しているゾーン、つまり、華僑圏の中国の相関が深まっているために中国本土がより大きく見えるパラダイムの中にあるというロジックをもって、大中華圏論を切り開いていっており、そこが『世界を知る力』の一つのポイントになっています。実は日本自身もこのようなネットワーク型の中でかろうじて支えられているということに気がつかなければなりません。
 今年6月、経済産業省が「産業構造ビジョン2010」という新しい産業政策論のビジョンを発表しました。これは経産省が作ったものとしては官僚の作文を超えて、結構、思いがこもっている中身になっています。私もかなり本気でこの作業に参画していて、私の思いも入っています。このビジョンについて議論した産業構造審議会には日本の名だたる産業人が参加していましたが、いまの日本人の産業人の問題意識の中に、日本は韓国に押し負けているという、被害者意識のようなものが議論の中に滲みでてきています。例えば、いま中南米の国々が続々と地上デジタル方式において、日本方式を採用してくれていて、8カ国になっています。これは日本において、びっくりするくらいめでたい話でもあります。グローバルスタンダードを握りたいとか、先端技術によって前に出たいと言っていながら、NHKのハイビジョン方式で一敗地にまみれ、常にじっと手を見るという思いをしてきた国であるのに、中南米では珍しいくらい日本方式が採用されてきているという状況になっています。
私がワシントンに行って米州開発銀行だの、米州圏に関わる人たちと話をしていると、「アメリカも切ないなあ」と思える状況が見えてきます。要するに、御膝元の中南米の反米感情の裏返しで、「アメリカの方式だけは採用したくない」という空気が漂っていて、ベネズエラのチャベス大統領がアメリカに毒づいたり、ブラジルのルーラ大統領もアメリカに対して「なにするものぞ」と構えています。
このような状況下で、とにかくアメリカ方式は採用したくないということが強い理由で、まるで漁夫の利を得るように日本方式が採用されているという面もあるのだということがよくわかります。
しかし、ここからがポイントですが、肝心のテレビ受像機に関しては韓国に席捲されてしまっています。こうした状況のほか、アブダビの原子力プロジェクト受注で韓国に負けたということ、オリンピックのメダルの数等にまで言及しながら、なにやら韓国に押されているという空気が被害者意識になって、日本に苛立ちをもたらしています。「何故、韓国はV字型に経済回復をしているのに、日本はもたついているのだ」という類の話が今度の産業構造に関する議論の背後にも滲み出てきます。
韓国について少し踏み込んで話をさせて頂きますが、私は韓国を過大評価する必要はないと思います。経済構造的に申し上げると、薄っぺらな部分があります。「ヒュンダイ」、「LG」、「サムスン」の3つの世界に冠たるブランドになった企業を育てています。このような意味においては、中国経済の現状と照らし合わせると、まだ韓国のほうがましだとも言えます。中国も、「中国の台頭」と言いますが、先程の「ネットワーク型によって拡大している」という話に加えて、世界の全てのメーカー企業のアンダーテイカー(下請)となって、生産立地を引き受けて、工場を稼働させて付加価値を高めてGDPを増やしていく構図が見えてきます。中国発のブランドは極めて数えるほどしかありません。海外で、「あなたは中国の企業をどこか知っていますか」と質問をすると、まず知っている人はいません。これが中国の実態とも言えます。ただ、これから間違いなく研究開発力を高めていくでしょうから、中国発のブランドが我々の目の前に登場する時代も来ると思います。しかし、まだそのようなステージにはきていません。韓国は少なくとも3つの企業、ヒュンダイ、LG、サムスンを育てました。この3つの企業の売上高を足すと韓国GDPの35%に相当するという構図になっています。日本はトヨタが物凄い会社だといっても、GDPの5%も占めているという状況ではありません。要するに、日本産業の強みをキチンと意識しなければならないことは、エレクトロニクスから自動車等、あらゆる分野にブランドと呼ぶことができる企業を重層的に戦後育ててきたことということです。私は海外で、「香港の夜景を思い出してくれ」とよく言いますが、あのネオンサインは伊達ではなくて、日本企業が持っているポテンシャルを象徴しています。
ただ、韓国財閥経済の強みもあります。グリップが効くのです。財閥なのでターゲットを絞り込んで戦う時の効率が物凄く良いのです。例えば、日本の経済人の一番愚かな議論は、「内需が大事か、外需が大事か」というもので延々と続けています。しかし、内外需一体の総合戦略が必要だということは間違いありません。
韓国に迷いがない理由は「内需がない」と腹を括っているためで、外需一本にかけているからです。しかも、BRICs狙いで、ブラジル、ロシア、インド、中国にターゲットを絞って、そのマーケットで戦い抜くことを想定したフォーメーション・プレイに出ます。迷いがないために進撃する時には強くて、ジェットコースター経済のように1997年のアジア危機によって一旦、ズドンと落ち込みましたが、半導体を梃に甦りました。そして、リーマンショックで再び落ち込みました。これでとどめを刺されたかと思ったら、またV字型回復になりました。それもいま申し上げたような非常にグリップの効いた財閥経済であるということがポイントの1つです。
2番目に、言葉は悪いのですが、二番手経済をしっかりと守っていて、先頭に出てグローバルスタンダードを構築しようとか、先端的な技術によってグリップしようと始めから考えずに、二番手をエンジョイするのです。もっとも良いと思うスタンダードにパクっと喰いついて、技術においても見極めて「これだ」というものに絞り込んで戦ってきます。二番手で並走してきて、スケート競技のように、ゴールする寸前にパッと足を出すのです。差し込まれているほうは苛立つのですが、戦略としては見事だという部分もあるということです。
更に、3番目にガバナンスです。日本経済の弱点の1つがガバナンスで、例えば、何故、アブダビで原子力発電プロジェクトにおいて、韓国に負けたのかというと、色々な分析が出てきていますが、一言でいうとすれば、韓国の場合、韓国電力を窓口にしてパッケージ・ディールで分かり易い、統合力のあるプレゼンテーションをしていたということです。あの時、日本はフランスと戦っているつもりで、韓国のことはコンペティターとして想定していなかったのです。更に、技術的にも全然問題外だとみていました。しかし、韓国はフルターン・キー・ベースによって工期を完成させると胸を張り、しかも、オペレーションを60年間任せるという60年間のオペレーション保証までつけました。
アブダビのような産油国で原発というのは何故だというと、いわゆる油が枯渇した後のエネルギー政策を考えているということなのです。韓国は人材研修の一環として、アブダビの原子力の人材を育てるためにソウル大学原子力工学部までパッケージにして人材を引き受けて育てるということが提案の中に入っています。
日本のいまの弱点は何かというと、全体のバラバラ感です。競争主義、市場主義の徹底も結構なのですが、エンジニアリング会社、商社、メーカー企業、そして、最後のオペレーションに参画する電力会社のトップ、というように数珠繋ぎのように並べてプレゼンテーションを行なうことになります。日本人で一番嫌われるタイプというのは、はったりをかまして、実行出来ないことをぶち上げる人間で、逆に評価されるのは応分の責任で自分が果たすべき役割を誠実に実行してみせますというタイプです。アブダビの原発プロジェクトでは、日本人なりの誠実な姿勢で数珠繋ぎのようなプレゼンが延々と続きました。一方の韓国の場合は、韓国電力の一人の人間が最初から最後まで、「私に任せなさい」という形でぶち上げるために、とてもわかり易いのです。日本の場合は、無責任ではないけれども、「生真面目な愚かさ」というものでバラバラ感が漂います。さすがに、それでは戦えないということに気がつき始めたため、ここにきてシステム輸出等のパッケージによって戦うという方向をとり始めています。いよいよ、原子力も国際展開会社をつくってパッケージで行なう方向に進んでいます。これは非常に教訓を残したと言ってよいと思います。
いずれにしても、「韓国に負けている」という被害者意識が日本人に襲いかかるわけなのですが、昨年の日本の貿易収支は2兆8千億円の輸出超過となっています。日本経済が輸出超過によって外貨を稼いで成り立っていることは皆さんもご存知かと思います。分かり易くいうと、不況に喘ぐ日本で、輸出超過をすることによって外貨を稼いでしのいでいる状況が現下の日本経済であるということです。
そこで、韓国と台湾についてですが、彼らと向き合っていると彼らなりの日本に対するフラストレーションがあります。それは彼らにとっては日本に対する輸入超過を抱えていて、その大きな原因は何かというと、日本の中間財、つまり部品を買ってくれているということです。彼らの国々は日本の部品を買って、最終製品に埋め込んで、それを海外に輸出して外貨を稼いでいる構図になっています。彼らには日本に首根っこを掴まれているような感じがあるのです。台湾はOEMの島のようになっていて、日本から技術と部品を背負わされて、その中でオペレーションをする工場のような機能を果たしています。
このように、日本の部品を買ってくれて最終製品にして、海外に売って外貨を稼いで豊かになった人たちが大中華圏から日本に昨年、263万人やって来てくれて、韓国からは159万人やって来て、日本の銀座や秋葉原等で大変な購買力を支えくれています。何がポイントかというと、近隣を窮乏化させて日本だけが繁栄している構図をつくることを考えること自体がおかしな話で、近隣を豊かにしてそれが日本を支えてくれるという構図の中でシナリオを書いていかなければならないということです。
日本人の意識の中で遠ざかっていることなのが、かつて、韓国や台湾は、その地域にいる人たちにとっては甚だ不条理な時代だったと思いますが、一時期日本のフラッグの下にあった地域だったのです。いまから100年前の1910年日韓併合から35年、朝鮮半島が日本領土の時代がありました。彼らにとっては不条理な時代だったと思います。しかし、日本人としては、かつて日本のフラッグの下にいた地域が日本の中間財を買ってくれて豊かになっていって、それが日本を支えてくれている構図に対する理解と見識が必要です。つまり、そのようなネットワークに日本の繁栄、日本の経済がかろうじて支えられているという認識が物凄く重要であるということです。日本自身もネットワーク型の中におかれているのです。今後も日本のシナリオについて視界においていかなければならないことは共存共栄のネットワークの中で、アジアの国々とどのように向き合っていくことが出来るのかということです。これが物凄く重要なポイントです。被害者意識だけを高めて、何するものぞということだけではこの国の進路は描けないのだと思います。
 
<後半>
 
寺島>  先程、少し触れましたが、1910年日韓併合がありました。1905年の日露戦争の5年後のことです。これは本当に考えさせる出来事だったと思います。私は自虐史観でも何でもなくて、謝罪をするべきだという単純な文脈で答える気持ちはありません。ただ、閔妃暗殺から日韓併合に至るまでのプロセスをみると、まさに、明治近代史の二重性というもので、自分自身が開国迫られていつ植民地にされるかもしれないという恐怖心の中から、開国、近代化へ踏み込んでいって、富国強兵、殖産興業によって力をつけてきて、日清、日露と越えていくうちに、自信が奢りに繋がっていく瞬間を迎えたことに気付きます。「親亜」、親しむアジアによって、アジアに最も共鳴心をもって向き合わなければならなかったはずの国が、遅れてきた植民地帝国になり始めて、日本自身が新手の植民地帝国として「欧米がやっていることを日本がやって何が悪いのだ」という感覚を芽生えさせてきます。調べると、日韓併合は実はアメリカのハワイ併合がモデルとなっていることがわかります。1898年にスペインとの戦争に勝ったアメリカがフィリピンとグアム島とハワイに触手を伸ばしてハワイを併合します。そのプロセスが日韓併合のモデルになったのです。
 アメリカは100年目の謝罪ということで、100年経ったところで、上下両議院で「ハワイ併合は騙し討ちで汚いことをして申し訳なかった」と謝罪決議をしました。アメリカの謝罪は分かり易くいうと、ごめんなさいと謝っているけれども、カラカウア王朝を復権させるとか、ハワイを独立させるという話ではありません。あれはあれで悪かったというメッセージにしか過ぎません。しかし、日本もごまかしてはならない部分があって、日韓併合に至るプロセスを正当化できない部分があるということを腹に括っておかなければならなりません。
 それから50年経って、敗戦を経た1960年には安保改定が時代の大きなテーマでした。1951年のサンフランシスコ講和条約から約9年経って、日米安保10年目の見直しということで60年安保改定を迎え、戦後の日本の中で最も熱い政治の季節でした。
60年安保は今から50年前となりますが、当時の日本の輸出30.1%、輸入39.2%がアメリカとの貿易だったのです。日本が飯を食っている基盤構造がアメリカとの貿易で成り立っているという構造の上に安保が議論されていたのが50年前だったと言ってよいと思います。
冷戦が終わって、いまどうなっているのかを確認するためにこの数字に触れたいと思います。それは日本の貿易総額に占める比重の数字なのですが、対米貿易に関してはわずか13.5%に落ちました。中国との貿易は20.5%なので2割を超えました。そして、私が盛んに繰り返し申し上げている大中華圏、つまり、中国、香港、シンガポール、台湾という中華圏との貿易が30.7%で3割を超して、アジアとの貿易が49.5%になっています。今後の日本の貿易に関して間違いなく言えることは、アジアのダイナミズムとどのように向き合うのかということなのです。
もう既に、この国の経済がアジアのダイナミズムと相関して生きていかざるを得ない構造になっているにも関わらず、勿論、アメリカとの関係も今後大事なのですけれども、どのようにそこの折り合いをつけていくのかということが見えないために混迷しているのです。このアンバランス感が外から見た時に誠に滑稽に見えます。柔らかくアメリカとの関係も大事にしながらも重層的にアジアとの関係を果敢に主体的につくっていく方向に舵を切らざるを得ない状況にあるのです。つまり、戦後なる日本に生きてきた人間が、これから21世紀を生きていかなければならない世代の人たちにどのような日本を残す気持ちでいるのかという根性が問われているのだと思います。
そのような文脈で、外交安全保障はどのようにあるべきなのか、産業経済政策、つまり、いままで日本が豊かになることができたメカニズムが必ずしも機能しなくなってきた矢先に、どのような構想をもつのかということが間違いなく問われていて、そこから逃げてはならないということです。日本がいま、やらなければならないことは戦後なるものに折り合いをつけなければならないということです。

過去の動画 2010年8月28,29日

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