第57回

寺島>  西部さんに、更に補足する形で御発言頂きたいことがあります。日本人の多くは、この国の戦後なるものを大きく否定してきて、我々自身がいつのまにかアメリカを通じてしか世界を見ない人間になってしまっている状況の中で、アメリカなるものとしっかりと向き合っていくという気迫を持たないまま、ナショナリズムを語っています。西部さんは5年前の戦後60年の時に『無念の戦後史』(2005年講談社出版)という本を出されていて、その中で大変面白い切り口で戦後を捉えています。「15年周期論」というものを書かれていて、1945年に敗戦し、15年経った1960年の時に安保改定という大きな壁にぶち当たりました。それから更に15年が経たった1975年にベトナムのサイゴン陥落、中国の文化大革命の終りという転換点がきていました。そして、1990年には冷戦の終焉。1989年にベルリンの壁が崩れ、1991年にソ連が崩壊していく状況に出くわしていきました。
西部さんの本の中で中国を隣国としてもつということを地政学的な宿命といいますか、理由として中国の脅威があるからこそ、対米追従は必要だというロジックにいつのまにか吸い込まれている日本。それに対して、更に、中国を仮想敵国だと腹の中で思いながら、口先で日中友好と唱えていることの虚構があります。
したがって、西部さんの本の中には、アメリカと中国との関係をしっかりと睨みつけていく構想力がなければならないという思いにさせられる記述が盛んに繰り広げられています。私は西部さんに『無念の戦後史』を踏まえて、あれから5年経っていますが、いまの情況をどのようにお考えになっているのか、お話を伺いたいと思います。
西部>  少し話がそれますが、ヨーロッパでヨーロッパ人と物凄く仲良くなる方法を紹介します。私が何回かやってみて全て成功していますが、さりげなくアメリカの悪口を言うのです。簡単にいうと、「アメリカは困った国だね」と言うと、ヨーロッパ人はニヤッと笑って、「お前はなかなか話のわかる日本人だな」ということになるのです。
 しかし、ヨーロッパにいるかぎり、実はアメリカ人とも仲良くなることができるのです。それは、アメリカ人に「ヨーロッパ人の傲慢にも困ったものだね」と言うと、「話のわかる日本人だな」ということになって、私は「ああ、外交は簡単なものだ」と思ったことがあります。
 そのような意味において、私はヨーロッパを好き嫌いで言っているのではなくて、さすがに文明の先達だけあって、空恐ろしいところがあると思いました。その理由を1つだけ申し上げると、シュペングラーという『西洋の没落』という本を書いた人物がいます。その本を読むと恐ろしいですよ。この本は何も西洋の没落のことを書いた本ではありません。しかし、一部の日本の右翼か自称保守かわかりませんが、簡単に申し上げると、彼らが、1980年代に、「シュペングラーが言ったように西洋は没落する。これからいよいよ日本の番だ」と書いていました。彼らは本の内容をキチンと把握していません。あの本に書いてあった内容は、あらゆる文明が春夏秋冬という季節の循環を追って、最後には衰弱して滅びていく。これはメソポタミアであれ、エジプトであれ、インドであれ、中国であれ、全部入っています。そして、最後に自分たちの西洋のことを「我が西洋は今や完全に秋から冬に差し掛かっている」と論じているのです。
 ヨーロッパがいささか文明の先達である理由は、自分たちはいよいよもって、ここまで栄華を極めた結果で、冬に至っていると認識していたことです。
この本が出版されたのは1919年で第一次世界大戦が既に終わった後でした。
 ヨーロッパは第一次世界大戦の結果、凄まじいことになり、自分たちは没落すると感じたと思います。シュペングラーのことは別にして、ヨーロッパ全体でいうと強かれ、弱かれ、自分たちには、もうこれ以上華々しい季節がくるはずがないと。春が終わり、夏も過ぎて、どうやら秋なり、冬なりがきているようだけれども、何も喜び勇んで早目に滅亡することはあるまいと。これは滅亡を間近に控えるが故に、自分たちの子孫のことを考えて滅亡を少しでも先に延ばすべく、ある種の大人の感覚、歴史の感覚を呼び戻そうとか、或いは、ある種のバランス、矛盾に対して、それこそ矛盾にどのように耐えて上手くくぐり抜けることが出来るのかということです。しかし、上手くといっても、結局のところ人間は言葉の動物ですから、しっかりとした言葉、成熟した言葉によって、家庭、学校、コミュニテティー、国家、国際関係であれ、ヨーロッパ人は物凄い勢いで言葉の訓練を積んでいます。アメリカや日本等の比較でいうとそのような傾きがあるのです。
 日本はそのあたりの感覚は、10年、20年でどうなるものではありませんが、ある意味においてはヨーロッパ以上に長い歴史、しかも、一貫した持続する歴史をもっている国であるのに、たかだが1回戦争に負けて腰を抜かして、腰を抜かすだけならばよいのですが、いつまでも長い間腰を抜かしたまま、腰を抜かしたついでに相手にしがみついています。そのような情けないことはそろそろ止めて、日本人は日本語でも英語でも何語を使って構いませんが、日本語を中心にして自分たちの歴史のセンスなり、人生の感覚なりを成熟させて鍛えていく以外に、我が文明は残ることはできないと知るべきなのです。
 このように考えていくと、現在は完全に病気であると思わざるを得ない具体例を2つ挙げて話を終わりにしたいと思います。皆さんが御存知だと思いますので政治と経済のことを例に挙げます。
まず、経済のことですが、IT革命論です。このようなものは簡単に詐欺だとわかるのです。私は携帯電話も持たないような人間で、人から借りて使うこともありますが、持ちたいとは思いません。これは技術の問題を言っているのではないのですが、IT革命の「革命」の意味は将来のことをITで計算して予測することができるということなのです。例えば、証券においては、これまでのデータを使用すれば、この証券とあの証券をあわせれば、平均収益率がいくらで、分散危険率はいくらで、という具合に、将来を計算できるのです。私ははっきりと申し上げて、馬鹿も休み休み言えと言いたいのです。将来を予測できるという嘘の話で、サブプライムローン等も全部最初から詐欺だとわかっていて、ぶっ壊れていくのです。
 次に、政治の話ですが、マニフェストです。マニフェスト政治は、政策の数字と期限と段取りをあらかじめ選挙民にアピールして訴えて、選挙民に選択してもらって選ばれた政権与党になって、それを基本において実行できなければ、選挙民に対する社会契約に違反したということで政権交代すべきだということです。しかし、もしも政策の数値、期限、段取りを選挙民に問うて決められるなら議会が要らないでしょう。私はパソコンも持っていませんが、世間の多くの人は持っていて、あのようなマニフェスト政治がいいのだと言うのであれば、日本国民に、「今期の政策AからZまで。賛成の政策に○、反対の政策に×、わからなければ△をパソコンで入力して下さい」と問うてみればいいのです。そうすると、コンピューターが集計してあっさりと決まるわけです。どのように決るのかというと、名古屋に脱税……、いえ、減税日本という政党があって、例えば、「今月の政策、税金ゼロ」と掲げたら、おそらく、10人中6人くらいは賛成ということで、たちどころに国家は崩壊してくださるということです。
この程度のことを大の大人が行なっているということです。しかも、それが異様に偏差値の高い人、異様に情報が溢れ返っている中、猫も杓子もITだの、マニフェストだのと叫んでいるこの只中で行なわれていて、これ自体が完全に文明の没落に入っているということです。
 最後に一言だけ付け加えさせて頂くと、本当に自分たちの言葉、外国も含めて、言葉というものを杜撰に使えば、文明は冬どころか吹雪に入るのだということです。

寺島>  ずっとお話を聞いていたいのですが、ここで、佐高さんに1つだけ踏み込んで頂きたいのは、城山三郎さんをいろいろな形で触れられていて、本も出されていますけれども、日本の健全な経済の在り方について異様なこだわりをみせた人に視点をおいてきたことが佐高さんの特色であると思います。
私はいま実際に動きながら色々と考えていますが、かつて、日本の明治維新からある時代まで、国の目的と帰属している組織の目的と個人の目的が、重なり合っていて、自分が頑張れば国にもきっと役に立つことになるのだと疑いなく生きられた時代がありました。そして、いま我々が生きている時代は組織、つまり、企業で働くサラリーマンも含めて、分かり易くいうと、国家の論理と企業の論理が乖離し始めています。特に、グローバル化の中で、例えば、自分が帰属している組織が、もしも国境を超えて利益を探求していくビジネスモデルをエンジニアリングしていくことを何の制約もなく展開するのであれば、極端に申し上げると、国を捨ててでも企業が生き延びればよいと腹を括るのであれば、いまの日本の産業人の限界がそこにあると思いますが、法人税が高過ぎるだの、CO2排出25%削減は重過ぎるだのということで、日本をほぼあきらめかけて、それが第3次と言おうが、第5次と言おうが、海外進出ブームによって円高を梃にどんどん海外に展開していく方向感に出ています。
このように非常に難しい時代の中で、「社畜」(しゃちく)という言葉を使って企業に魂を売り渡してきた人間に対して激しい問題意識を提起してこられたところに佐高さんの価値だと思うので敢えて聞くのですが、少し真面目な問いかけで恐縮なのですが、城山さんの基本精神を見つめてこられて、日本のいまの資本主義のおかれている状況について、いま語っておくべきことがあれば、一言補強して頂けますでしょうか。

佐高>  敢えて申し上げるのならば、西部さんとのテレビ番組「西部邁・佐高信の学問のすゝめ2」(CS放送朝日ニューススター)の毎週の話の中で、最近、意見が一致し過ぎるほど一致しています。この間、村上春樹の『1Q84』を取り上げて話をしたのですが、その時に、人類の「類」、「種」、個人の「個」があって、村上春樹は個人からいきなり「類」=人類に飛ぶのです。一番、葛藤の多い「種」、つまり、国家や民族等の問題はスポーンと抜かして、個人の話がいきなり人類に結びつくということです。そこに、一番大きくて厄介な問題が飛んでいるのではないのかという話をしました。
 いきなり「個」にいくのと、いきなり「類」にいくのと、「種」で止まってしまうという問題があります。「類」を見据えずに「種」で止まるのも問題があります。それが非常に難しい狭い道だけれども、両方を意識していくという困難な道があり、それは武井正直さんが「こんな馬鹿な時代が続くはずがない」という言葉の中に、両方を見据えたものがあるのではないのかと思います。あの時代に、一方では、住友銀行の磯田一郎さんが持て囃されていました。その当時、おそらく、武井さんは臆病な経営者だと言われていたのではないかと思います。磯田さんを一番持て囃していたのはおそらく日経だったと思います。そして、その日経を滅茶苦茶にしたのは、鶴田卓彦という、いま横綱審議会の委員長だという物凄く皮肉なことになっているのです。
みんなの党も全く同じで、党の名前に「みんなの党」と恥ずかしげもなくよくつけるなあと思います。「みんな」というのは、必ずみんなを騙す時に使う言葉なのです。それに何故引っかかってしまうのかという思いがあります。騙される側の責任もあり、竹中平蔵さんに何回騙されればいいのか、或いは、小泉純一郎さんに何回騙されればよいのか、先程申し上げたように、まさに、みんなの党は小泉さんの亜流もいいところでしょう。それに何故引っかかるのか、という話をさせて頂きました。私は根っから良い人なので、西部さんほど毒舌が効きません。

<後半>

寺島>  時間がいっぱいになりましたので、パネラーの皆さま方から、最後に手短に「未来へ」というテーマなので、絶望感に満ちたメッセージから一歩前に出て、未来に向けて、何か希望の光はあるのか、或いは、どのようにあるべきなのかということについて一言ずつ頂いてこのパネルを終えたいと思います。

西部>  私はあまり外交のことは知りませんが、例えば、日本ではイタリア人というと、大変遊んでいると思われがちですが実は、ヨーロッパ人はキチンと知っていて、ヨーロッパの民族、国民は数多いけれども、一番の働き者はイタリア人なのです。つまり、表では肩を揺すりながら冗談を言っているけれども、ひとたび場面がパッと変わると、簡単に申し上げると、女房、子供、もしくは友人のために骨身を惜しまず働きまくるということを知っています。結論を言うと、ヨーロッパ人はイタリア人についていけないのです。何故かというと、スピード感覚が見事で、裏表の切り替えも凄く真似出来なくて、時々腹が立つことすらあるのだそうです。しかし、我がヨーロッパからイタリアがもしも消滅したのであれば、非常に面白くない、残念である、いてくれなくては困るという感覚があるのです。
私はこのことに関して、日本に期待するところがあります。それはイタリア的な独立した民族で、しかも、先程の佐高さんのお話のように、個人のみならず、「類」としてであろうが、「種」としてであろうが、いかにもイタリア的なものの食い方、飲み方、喋り方、振舞い方、町の作り方なのです。私はイタリアをべた褒めしているのではなくて、もしも、日本が働き者で良いものを作るけれども、冗談は上手だし、酒の飲み方もうまくて、日本がこの地球上からなくなったのであれば残念だと思われるような国、もっと言えば家庭、学校等を、どんどんつくろうと思ったらつくることができるのです。

佐高>  私は石原莞爾のことを書いたことがあります。彼は私の郷里の隣の鶴岡市(山形県)の生まれで、彼が中心となって五族協和を唱えていました。これは中国、朝鮮、モンゴル等が五族で、それにユダヤを加えて六族協和といったら、さすがの石原莞爾も引いてしまったという話があります。
この五族協和の考え方を上から押しつけようというのはとんでもない話ですが、そうではない形の五族協和の精神のようなものは新たに根ざしてよいと思います。五族協和の精神によって、満州建国大学がつくられました。この学生歌が、「蒙古放浪歌」で、もうすぐ西部さんが歌い始めると思いますが、満州建国大学は五族協和を実践しようとして、朝鮮民族の出身は何割と決めました。それを決めた学生たち、そこで学んだ学生たちが全て日本帝国主義に抵抗するように反日になっていくのです。私はそれでもよいだろうと思いますが、そのような形で、ある種の理想は何回も敗れるもののために、理想が敗れることを承知で試みることがあって然るべきだと思います。それを1つ求めることが考えられてもよいのです。

寺島>  どうもありがとうございました。私はお二人の存在そのものが日本を面白くしていると思います。お話の中で、「日本がいなくなったら淋しいと思われる国になりたい」という気持ちが私の心に響きました。皆さんには、「このような視点があるのだなあ」と一つでも二つでも感じとって頂けたことと思います。