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2010年08月29日

第56回

寺島>  まず、私と西部先生との関係からお話をさせて頂きます。西部さんは私と同じ北海道の札幌の出身であり、私にとっては見上げるような存在で、学生時代に60年安保に生きてこられたかたです。そして、私は大学時代に70年の全共闘時代を送ってきました。西部さんは私の高校の隣の札幌南高校の先輩で、「西部邁」という名前は我々の心にその頃から響いていました。
 私があらためて西部さんと向き合う形になったのは、1975年に西部さんが出された『ソシオ・エコノミックス』という本で、我々の世代で社会科学を学んだ人間にとっては大変にインパクトを受けた本を出版されて、新古典派の経済学から一歩前に出て、社会経済学総体を睨むようなアングルから時代を議論し始めてきた人物が登場したということで、私は感激しました。
 更に、西部先生の奥さんは、札幌で小学校から高校まで通っていた私の同級生のお姉さんなのです。そのようなこともあって、初めて西部さんとお会いした時に、「僕は君の少年時代からの悪行を知っているよ」と言われてドキッとして、それ以来、私は毒気を抜かれたようになっています。そのような縁も引きずっています。
 西部さん自身が60年安保の中心人物の一人として戦後日本をいまの局面においてどのように考えているのかということと、現代日本がおかれている状況についてお話を始めて頂けたらと思います。宜しく御願い致します。

「世界を知る力―次の日本へと―」

西部>  当時は皆、あれやこれやと理屈っぽく、全学連がどうとか、60年がどうとか、色々なことを言うけれども、19、20歳のガキにとっては何か敗戦民族の悲しさ、情けなさによって、本当のことが言われていないという感じがありました。小さい声で言いますけれども、あれから65年が経って依然として私が思っていることは、「敗戦属国」、「隷従」、「服属民族」はやりきれない奴らだということです。何故日本人に生まれたのだろうということが私の根深い部分にあります。
 そもそも、私の場合は、「好きか嫌いか」といと考えるのははっきりしていて、小さな声で言いますが、好きな女性とか、嫌いな女性については、かなり敏感に考えますけれども、アメリカという太平洋の向こう側の国について、好きか嫌いかということをテーマにすること自体が、私にしてみれば敗戦民族のトラウマであると思います。
 しかしながら、私が安保条約の問題についてあれこれ東京の街を走り回ったり、たいしたことは行なっていないけれども、その手のことを行なっていた最大の理由は、反米ではなくて、更に申し上げると安保条約のことはどうでもよくて、日本人がこれを巡って何かしら嘘っぽいことを行なっているということをなんとなく感じていたからという程度のものだったのです。私はそのような気持ちはいまもなお、ずっと続いています。
 私はそのような人間なために、いまから理屈っぽく述べてみると、1950年代、1960年代、1970年代のいわゆる冷戦構造なるものについても、おそらく世間とはかなり違った感覚で受けとめていたと思います。つまり、アメリカにつくか、ソ連につくかなどというくだらない議論をなんでしているのかと私は子供の頃に思っていたのです。いまにして理屈をつけてみると、私はアメリカもソ連も一卵性双生児とまでは言わないけれども、二卵性双生児くらいに似通った国なのだと認識しています。
結論を申し上げると、フランス革命から近代社会が始まって、ジャコバン(註.1)が左側に座っていて、「自由、平等、博愛」と言っていて、左側に座ったために左翼になったらしいのです。日本において左翼というと社会主義と強い関係があると思いがちですが、マルクスとエンゲルスが「コミニスト・マニフェスト」=「共産党宣言」を出したのは1848年だったので、フランス革命から60年近く後なのです。つまり、左翼はその前に作られたフランス革命時の言葉なので、自由、平等、博愛、もっと広げて言うと、合理主義とか、科学主義、技術主義等を唱えた人たちが左翼のはしりだということになります。
 さて、そのように考えたのであれば、米ソについては両方とも同じで、アメリカは典型的でいまもなお自由だ、平等だ、博愛だと言って、本当にそのようであるかはともかくとして、それらを最高の理念、価値として掲げて世界中にふりまいているのです。そのような国は何処かと訊ねれば、いまどきは小学生ですらアメリカだと答えるのです。そうすると、歴史上の言葉の流れでは、アメリカは立派な左翼国家であるということになるのです。
 したがって、左翼主義は、「近代主義」=「モダニズム」なのです。自由、平等、博愛、合理、科学、技術等々を100%信じ込むかのような形によって、国家の運営なり、個人の生活なりを方向付けようとするのがモダニズムであると考えると、アメリカこそが立派な1つの「プロトタイプ」=「見本」なのです。それにかなり遅れて出てきたのがソビエト・ロシアなのです。勿論、アメリカが個人主義を原理として近代主義を実現しようとしたことに対してソビエト=ロシアは、かつての中国もそうですが、集団主義、計画主義、統制主義等という形によって近代主義を実現しようとした。方法は個人主義か集団主義かという大きな差はあるけれども、要するに、ほとんどソーセージのようなもので……、これは食べ物ですね。双生児のようなもので、とにかく、似た者同士だということです。
そうだとすると、戦後日本は厄介なものになります。左翼主義、別名で近代主義、この2つのタイプとしてのソ連とアメリカのどちらにつくかをもって保守と革新を区別するということは、私にしてみれば完全におかしな話なのです。しかも、学者やジャーナリストだと言われる人が、戦後一貫として、65年間も「保守だ」、「革新だ」と言い続けているのです。
 私は保守の端くれのはずなので、はっきり申し上げますが、保守、つまり、政治用語としてのコンサバティブとは、その国の歴史の流れ、或いは、その流れの中に保存されている国民の言わば歴史の知恵のようなものを保守=コンサーブして、それを現在という新しい状況の中にいかに活かすのかということです。こうしたことをコンサバティブだとするならば、アメリカはコンサバティブと全く正反対にある、両方の反対側にあるものであって、そのようなもののどちらにつくかで学会もジャーナリズムもビジネス界も、延々と半世紀を超えて行なっていること自体を、私は「お願いだから少しはわかってくれ」と言っていますが、のれんに腕押し、焼け石に水、ごまめの歯ぎしりのようなもので、もうどうにもならないのです。
日本人は近代、近代と言います。こればかりは明治このかた近代化、近代化で、現在もそのような御託を並べている人が存在すると思います。しかし、近代というのは、先程から申し上げているように、「モダン」です。これは面白い言葉なのです。これの類似語は模型、モデル(=model)です。もう1つはモード(=mode)で、流行や様式という意味です。あっさりと言うと、モダン=近代は何かというと、「モデル」。更に説明をすると、誰にでも簡単にわかるという意味において、単純である。つまり、単純なモデル=模型をモード、つまり、誰にでも広がるような、大量に流行するようなモードとして生きるような時代がモダンだということです。
 大の大人がそのような単純な模型の大量流行をもって、これをご立派なこととしている子供の文明に他ならぬ、モダン・エイジ近代というもの、その両極端であるアメリカ型でいくのか、それとも、ソ連型でいくのかによって、何十年間も喧嘩をしているのです。
そう言えば、先日、アメリカの新聞に、鳩山由紀夫さんのことを「ルーピー」(=loopy)だと書いてありました。私はこの言葉を知りませんでした。環状線でクルクル回っている状況をループ(=loop)と言いますが、それに「y」をつけて形容詞になり、loopyになります。この新聞は、鳩山さんが沖縄問題で行なっていたことに対して、「鳩山はルーピーではないか」と書いていたのです。別に鳩山さんに限らず、同国人として厭味を申し上げるのは私の好みではありません。しかし、最近は同国人が本当にいるのかどうかもおぼつかなくなってきていて、全国かき集めたのであれば、1万人くらいは同胞がいるのではないのかと思っています。残りの1億1千799万人は私の同胞ではないような気がしています。そう言えば、私は最近、日本列島の列島を使って「列島人」という原稿を書いています。これは小さい声で申し上げますが、括弧で括って説明をつけ加えると、「優等」、「劣等」の「れっとう」と言いたくなります。私は、この「れっとう」は普通の、物質的な意味ではなくて、日本民族がこれだけ豊かな技術なり、金銭なり、なんなりを持ちながらも、少なくとも戦後は眠りこけていて、ほとんど、夢幻の世界で私も同席しているのでないのかというくらいの気持ちでいます。だんだん年を取って、このような事を何回も思っているために、すっかり現実になってしまい、いま私がこの会場にいることすら夢、幻かというくらいの感じで話しています。
さて、結論を申し上げると、私はあの大東亜戦争は当然起こるべくして起こった戦争であり、佐高信さんが何を言おうが、私はそうであると考えています。しかし、日本のあの戦争に問題があったとしたら、寺島実郎先生からどんなお叱りを受けようとも、私は、あの当時のことをいうと、大東亜共栄圏、或いは、八紘一宇等に関して、「それはないだろう」ということなのです。つまり、色々な民族や国民がいて、宗教、言語、習慣の違い等が生じる中で、「一宇」とは、総てが一つの家で暮らすという意味なので、内輪揉めが起こるのは当り前で、共栄圏といっても、一緒に栄える時もあるとは思いますが、ともかく軋轢が高まって、喧嘩だの、殴り合いが始まるのです。
話が逸れましたが、アジアはそう簡単にはまとまりません。そうすると、大東亜戦争の大問題は、何故アメリカがフィリピンにいたのだ、何故オランダがインドネシアにいるのだ、何故フランスがインドシナにいるんだということによって、アジアを白人諸列強の植民地から解放することが、本気かどうかはともかくとして、日本人にとっては立派な大義名分であったけれども、解放した後に日本人はアジアに一体何をして貰いたかったのかということについては何ひとつ提示しなかったのです。そして、大東亜だの、八紘一宇だのを行ないました。
そのようなことをしていたので、アメリカが出した自由民主、リベラル、デモクラシーといわれたご立派な理想であると勝手に思い込んだ。私に言わせてみれば、結論は簡単で、何がリベラル、デモクラシーだということになります。それは何故かというと、自由といっても各国民の国柄なり、国民性なり、国家に限らず、地域でも家庭も含めて、自由を野放しにすれば、やりたい放題になるにきまっています。民主と言っていますが、民主は世論に、そして、世論においても、その国の国民の常識に基づいているのならば立派なデモクラシーであるけれども、その国の国柄も常識も何もかも半世紀をかけてぶっ壊して、蹴っ飛ばして、その国民が民主だ、世論だと言えば、当然、それは愚かな民人の多数決が始まるだけなのです。
このように考えると、自由民主を本当に内実あらしめるためにも、日本をはじめとするアジア各国が、自分の国の歴史なり、国柄なり、この場合の国は閉鎖的な意味ではなくて、外国との関わり方も含めて開かれた意味において、そのようなことをしっかりと押さえなければ、アジアもへったくれもないのです。日米同盟などというものも在りはしないのです。このようなことを日本人があの時に、あれだけ優秀な人たちがいたにもかかわらず、どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったのか、驚き呆れ果てます。
そのようなことが戦後ますますわからなくなって、皆が「自由だ、民主だ」と言っているのは、言えば言うほど、空疎に、何もかもが蒸発して、ヒステリー現象を起こして、トタン屋根の上の猫のように、技術だ、金だ、世論だと煽りたてられて、熱いトタン屋根の上で1億2千800万人の可哀想な巨大な猫たちがぴょんぴょんと跳び跳ねているのです。私は犬よりも猫が好きなのですが、猫の喩を出したのは事の流れで、私の本意ではありません。いずれにしても、トタン屋根の上の無数の猫のように跳び跳ねているのです。
これ以上話すと二人から叱られますので、突然終わります。

<後半>

寺島>  私は最近、佐高さんとの対談集(『新しい世界観を求めて』)を毎日新聞社から出版して、彼の目を見ながら5回くらい話をしてみて、「佐高さんとは何者なのか」ということを自問自答しながら議論をして、大変に深いものを感じました。これから佐高さんにお話をして頂くのですが、いま日本がおかれている状況、及び健全な産業指導者を世の中に物凄く持ち出してきたのは佐高さんであると思います。このような視点からお話をして頂けたらと思います。
佐高>  寺島さんより過分なご紹介を頂きましたが、本日、3人共通で知っている、どうしてもご紹介したい人物が北海道の北洋銀行の頭取だった武井正直さんです。武井さんはバブルの真っ盛りの時に、当時、北洋銀行の頭取として、バブルに乗っかった融資を断固としてやらせなかった人です。当時のバブル真っ盛りの銀行の頭取としては、下からも突き上げられて、「黙っていても儲かる時代に、何故やらないのだ」と言われていたそうです。その時に、武井さんは「こんな馬鹿な時代が続くはずがない」と言いました。つまり、バブルの時に、銀行の経営者たちや、大蔵官僚のようなとんでもない人たちが誰もバブルが崩壊することが見抜けなかったのです。しかし、武井正直がひとりいるではないかという話です。つまり、経営論等も最後は哲学に行き着くのだということです。その経営者が哲学をもっているかどうかということになります。当時、大蔵省の役人は武井さんに、「もっと融資を増やせ」と言ったそうです。武井さんはそれを撥ね退けたために、大きな北海道拓殖銀行が崩壊した際にそれを引き受けるという奇跡的なことを行なうことができたのです。
 これから少しはまともな事を言わないとまずいと思うので申し上げます。先程、西部さんはアメリカとソ連は一緒だというお話をして下さいました。地雷廃絶運動というものがあって、クラスター爆弾廃絶の話も絡んでいます。こうした兵器廃絶運動からみると、アメリカ・ロシア・中国がならず者国家なのです。これはどのような意味なのかというと、この3ヶ国が地雷もクラスター爆弾も持っているにもかかわらず、その廃絶の条約に加わらなかったということです。現在もこれらの国々は加わっていなくて、日本はアメリカに遠慮をしながら、NGOの運動等でようやく加わりました。
 この運動の中心はノルウェイやカナダ等で、その国々からみると、繰り返しになりますが、アメリカ・ロシア・中国がならず者国家となります。そのような世界地図を日本人はもつことができなくて、アメリカ、ソ連で動いてしまっています。
もう1つは、寺島さんに教えられた「バンドン会議の精神」です。これはアメリカとロシアのどちらかにつくのではなくて、太平洋戦争まもなくの時に、中国の当時の周温来やインドのネルー等が中心となって、アメリカとソ連の両方に寄らない新たな平和を推進していくということです。
つまり、日本のある種のまともな保守の政治家は、アメリカと中国の両方にバランスを取りながら外交をやってきたのです。アメリカと中国の外交関係は八方美人どころか、十六方美人です。しかし、それを確実に壊したのは小泉さんです。小泉単純一郎はアメリカしか見ませんでした。小泉さんはアメリカと中国という二次方程式が解けなくて、安倍晋三さんは一次方程式も解けませんでした。更に、福田康雄さんは最初から解く気がなくて、麻生太郎さんは方程式の意味がわからなったという話になります。つまり、世界地図を様々な意味において、いろいろな形に変えていくことが必要だということです。

(註1、ジャコバン派。ジャコバン政治党派の経緯は複雑であるが、ここでは、マクリ・ミリアン・ロベスピエール、サン=ジュスト等が中心となった急進的共和派を指す。
1792年から始まった国民公会(communication national)=フランス立法機関。
ここで、ジャコバン派は左側に座ったことから「左翼」の語源となる)

西部邁 Susumu Nishibe (評論家)
1939年生まれ。東京大学経済学部卒業。東京大学教授を経て、評論家として活動。雑誌『表現者』顧問。政治・経済・社会・文化の全般にわたる思想評論を継続。著書に『福澤諭吉―その武士道と愛国心』(文藝春秋)、『国民の道徳』(新潮社)、『無念の戦後史』(講談社)ほか多数。

佐高信 Sataka Makoto (評論家)
1945年生まれ。慶応義塾大学法学部卒。郷里の高校教師、経済誌の編集長を経て、1982年に独立。 著書に『逆命利君』、『魯迅烈読』(ともに岩波現代文庫)、『石原莞爾 その虚飾』(講談社文庫)、『西郷隆盛 伝説』(角川学芸出版)、『失言恐慌-ドキュメント銀行崩壊』(角川文庫)ほか多数。『週刊金曜日』発行人。

第57回

寺島>  西部さんに、更に補足する形で御発言頂きたいことがあります。日本人の多くは、この国の戦後なるものを大きく否定してきて、我々自身がいつのまにかアメリカを通じてしか世界を見ない人間になってしまっている状況の中で、アメリカなるものとしっかりと向き合っていくという気迫を持たないまま、ナショナリズムを語っています。西部さんは5年前の戦後60年の時に『無念の戦後史』(2005年講談社出版)という本を出されていて、その中で大変面白い切り口で戦後を捉えています。「15年周期論」というものを書かれていて、1945年に敗戦し、15年経った1960年の時に安保改定という大きな壁にぶち当たりました。それから更に15年が経たった1975年にベトナムのサイゴン陥落、中国の文化大革命の終りという転換点がきていました。そして、1990年には冷戦の終焉。1989年にベルリンの壁が崩れ、1991年にソ連が崩壊していく状況に出くわしていきました。
西部さんの本の中で中国を隣国としてもつということを地政学的な宿命といいますか、理由として中国の脅威があるからこそ、対米追従は必要だというロジックにいつのまにか吸い込まれている日本。それに対して、更に、中国を仮想敵国だと腹の中で思いながら、口先で日中友好と唱えていることの虚構があります。
したがって、西部さんの本の中には、アメリカと中国との関係をしっかりと睨みつけていく構想力がなければならないという思いにさせられる記述が盛んに繰り広げられています。私は西部さんに『無念の戦後史』を踏まえて、あれから5年経っていますが、いまの情況をどのようにお考えになっているのか、お話を伺いたいと思います。
西部>  少し話がそれますが、ヨーロッパでヨーロッパ人と物凄く仲良くなる方法を紹介します。私が何回かやってみて全て成功していますが、さりげなくアメリカの悪口を言うのです。簡単にいうと、「アメリカは困った国だね」と言うと、ヨーロッパ人はニヤッと笑って、「お前はなかなか話のわかる日本人だな」ということになるのです。
 しかし、ヨーロッパにいるかぎり、実はアメリカ人とも仲良くなることができるのです。それは、アメリカ人に「ヨーロッパ人の傲慢にも困ったものだね」と言うと、「話のわかる日本人だな」ということになって、私は「ああ、外交は簡単なものだ」と思ったことがあります。
 そのような意味において、私はヨーロッパを好き嫌いで言っているのではなくて、さすがに文明の先達だけあって、空恐ろしいところがあると思いました。その理由を1つだけ申し上げると、シュペングラーという『西洋の没落』という本を書いた人物がいます。その本を読むと恐ろしいですよ。この本は何も西洋の没落のことを書いた本ではありません。しかし、一部の日本の右翼か自称保守かわかりませんが、簡単に申し上げると、彼らが、1980年代に、「シュペングラーが言ったように西洋は没落する。これからいよいよ日本の番だ」と書いていました。彼らは本の内容をキチンと把握していません。あの本に書いてあった内容は、あらゆる文明が春夏秋冬という季節の循環を追って、最後には衰弱して滅びていく。これはメソポタミアであれ、エジプトであれ、インドであれ、中国であれ、全部入っています。そして、最後に自分たちの西洋のことを「我が西洋は今や完全に秋から冬に差し掛かっている」と論じているのです。
 ヨーロッパがいささか文明の先達である理由は、自分たちはいよいよもって、ここまで栄華を極めた結果で、冬に至っていると認識していたことです。
この本が出版されたのは1919年で第一次世界大戦が既に終わった後でした。
 ヨーロッパは第一次世界大戦の結果、凄まじいことになり、自分たちは没落すると感じたと思います。シュペングラーのことは別にして、ヨーロッパ全体でいうと強かれ、弱かれ、自分たちには、もうこれ以上華々しい季節がくるはずがないと。春が終わり、夏も過ぎて、どうやら秋なり、冬なりがきているようだけれども、何も喜び勇んで早目に滅亡することはあるまいと。これは滅亡を間近に控えるが故に、自分たちの子孫のことを考えて滅亡を少しでも先に延ばすべく、ある種の大人の感覚、歴史の感覚を呼び戻そうとか、或いは、ある種のバランス、矛盾に対して、それこそ矛盾にどのように耐えて上手くくぐり抜けることが出来るのかということです。しかし、上手くといっても、結局のところ人間は言葉の動物ですから、しっかりとした言葉、成熟した言葉によって、家庭、学校、コミュニテティー、国家、国際関係であれ、ヨーロッパ人は物凄い勢いで言葉の訓練を積んでいます。アメリカや日本等の比較でいうとそのような傾きがあるのです。
 日本はそのあたりの感覚は、10年、20年でどうなるものではありませんが、ある意味においてはヨーロッパ以上に長い歴史、しかも、一貫した持続する歴史をもっている国であるのに、たかだが1回戦争に負けて腰を抜かして、腰を抜かすだけならばよいのですが、いつまでも長い間腰を抜かしたまま、腰を抜かしたついでに相手にしがみついています。そのような情けないことはそろそろ止めて、日本人は日本語でも英語でも何語を使って構いませんが、日本語を中心にして自分たちの歴史のセンスなり、人生の感覚なりを成熟させて鍛えていく以外に、我が文明は残ることはできないと知るべきなのです。
 このように考えていくと、現在は完全に病気であると思わざるを得ない具体例を2つ挙げて話を終わりにしたいと思います。皆さんが御存知だと思いますので政治と経済のことを例に挙げます。
まず、経済のことですが、IT革命論です。このようなものは簡単に詐欺だとわかるのです。私は携帯電話も持たないような人間で、人から借りて使うこともありますが、持ちたいとは思いません。これは技術の問題を言っているのではないのですが、IT革命の「革命」の意味は将来のことをITで計算して予測することができるということなのです。例えば、証券においては、これまでのデータを使用すれば、この証券とあの証券をあわせれば、平均収益率がいくらで、分散危険率はいくらで、という具合に、将来を計算できるのです。私ははっきりと申し上げて、馬鹿も休み休み言えと言いたいのです。将来を予測できるという嘘の話で、サブプライムローン等も全部最初から詐欺だとわかっていて、ぶっ壊れていくのです。
 次に、政治の話ですが、マニフェストです。マニフェスト政治は、政策の数字と期限と段取りをあらかじめ選挙民にアピールして訴えて、選挙民に選択してもらって選ばれた政権与党になって、それを基本において実行できなければ、選挙民に対する社会契約に違反したということで政権交代すべきだということです。しかし、もしも政策の数値、期限、段取りを選挙民に問うて決められるなら議会が要らないでしょう。私はパソコンも持っていませんが、世間の多くの人は持っていて、あのようなマニフェスト政治がいいのだと言うのであれば、日本国民に、「今期の政策AからZまで。賛成の政策に○、反対の政策に×、わからなければ△をパソコンで入力して下さい」と問うてみればいいのです。そうすると、コンピューターが集計してあっさりと決まるわけです。どのように決るのかというと、名古屋に脱税……、いえ、減税日本という政党があって、例えば、「今月の政策、税金ゼロ」と掲げたら、おそらく、10人中6人くらいは賛成ということで、たちどころに国家は崩壊してくださるということです。
この程度のことを大の大人が行なっているということです。しかも、それが異様に偏差値の高い人、異様に情報が溢れ返っている中、猫も杓子もITだの、マニフェストだのと叫んでいるこの只中で行なわれていて、これ自体が完全に文明の没落に入っているということです。
 最後に一言だけ付け加えさせて頂くと、本当に自分たちの言葉、外国も含めて、言葉というものを杜撰に使えば、文明は冬どころか吹雪に入るのだということです。

寺島>  ずっとお話を聞いていたいのですが、ここで、佐高さんに1つだけ踏み込んで頂きたいのは、城山三郎さんをいろいろな形で触れられていて、本も出されていますけれども、日本の健全な経済の在り方について異様なこだわりをみせた人に視点をおいてきたことが佐高さんの特色であると思います。
私はいま実際に動きながら色々と考えていますが、かつて、日本の明治維新からある時代まで、国の目的と帰属している組織の目的と個人の目的が、重なり合っていて、自分が頑張れば国にもきっと役に立つことになるのだと疑いなく生きられた時代がありました。そして、いま我々が生きている時代は組織、つまり、企業で働くサラリーマンも含めて、分かり易くいうと、国家の論理と企業の論理が乖離し始めています。特に、グローバル化の中で、例えば、自分が帰属している組織が、もしも国境を超えて利益を探求していくビジネスモデルをエンジニアリングしていくことを何の制約もなく展開するのであれば、極端に申し上げると、国を捨ててでも企業が生き延びればよいと腹を括るのであれば、いまの日本の産業人の限界がそこにあると思いますが、法人税が高過ぎるだの、CO2排出25%削減は重過ぎるだのということで、日本をほぼあきらめかけて、それが第3次と言おうが、第5次と言おうが、海外進出ブームによって円高を梃にどんどん海外に展開していく方向感に出ています。
このように非常に難しい時代の中で、「社畜」(しゃちく)という言葉を使って企業に魂を売り渡してきた人間に対して激しい問題意識を提起してこられたところに佐高さんの価値だと思うので敢えて聞くのですが、少し真面目な問いかけで恐縮なのですが、城山さんの基本精神を見つめてこられて、日本のいまの資本主義のおかれている状況について、いま語っておくべきことがあれば、一言補強して頂けますでしょうか。

佐高>  敢えて申し上げるのならば、西部さんとのテレビ番組「西部邁・佐高信の学問のすゝめ2」(CS放送朝日ニューススター)の毎週の話の中で、最近、意見が一致し過ぎるほど一致しています。この間、村上春樹の『1Q84』を取り上げて話をしたのですが、その時に、人類の「類」、「種」、個人の「個」があって、村上春樹は個人からいきなり「類」=人類に飛ぶのです。一番、葛藤の多い「種」、つまり、国家や民族等の問題はスポーンと抜かして、個人の話がいきなり人類に結びつくということです。そこに、一番大きくて厄介な問題が飛んでいるのではないのかという話をしました。
 いきなり「個」にいくのと、いきなり「類」にいくのと、「種」で止まってしまうという問題があります。「類」を見据えずに「種」で止まるのも問題があります。それが非常に難しい狭い道だけれども、両方を意識していくという困難な道があり、それは武井正直さんが「こんな馬鹿な時代が続くはずがない」という言葉の中に、両方を見据えたものがあるのではないのかと思います。あの時代に、一方では、住友銀行の磯田一郎さんが持て囃されていました。その当時、おそらく、武井さんは臆病な経営者だと言われていたのではないかと思います。磯田さんを一番持て囃していたのはおそらく日経だったと思います。そして、その日経を滅茶苦茶にしたのは、鶴田卓彦という、いま横綱審議会の委員長だという物凄く皮肉なことになっているのです。
みんなの党も全く同じで、党の名前に「みんなの党」と恥ずかしげもなくよくつけるなあと思います。「みんな」というのは、必ずみんなを騙す時に使う言葉なのです。それに何故引っかかってしまうのかという思いがあります。騙される側の責任もあり、竹中平蔵さんに何回騙されればいいのか、或いは、小泉純一郎さんに何回騙されればよいのか、先程申し上げたように、まさに、みんなの党は小泉さんの亜流もいいところでしょう。それに何故引っかかるのか、という話をさせて頂きました。私は根っから良い人なので、西部さんほど毒舌が効きません。

<後半>

寺島>  時間がいっぱいになりましたので、パネラーの皆さま方から、最後に手短に「未来へ」というテーマなので、絶望感に満ちたメッセージから一歩前に出て、未来に向けて、何か希望の光はあるのか、或いは、どのようにあるべきなのかということについて一言ずつ頂いてこのパネルを終えたいと思います。

西部>  私はあまり外交のことは知りませんが、例えば、日本ではイタリア人というと、大変遊んでいると思われがちですが実は、ヨーロッパ人はキチンと知っていて、ヨーロッパの民族、国民は数多いけれども、一番の働き者はイタリア人なのです。つまり、表では肩を揺すりながら冗談を言っているけれども、ひとたび場面がパッと変わると、簡単に申し上げると、女房、子供、もしくは友人のために骨身を惜しまず働きまくるということを知っています。結論を言うと、ヨーロッパ人はイタリア人についていけないのです。何故かというと、スピード感覚が見事で、裏表の切り替えも凄く真似出来なくて、時々腹が立つことすらあるのだそうです。しかし、我がヨーロッパからイタリアがもしも消滅したのであれば、非常に面白くない、残念である、いてくれなくては困るという感覚があるのです。
私はこのことに関して、日本に期待するところがあります。それはイタリア的な独立した民族で、しかも、先程の佐高さんのお話のように、個人のみならず、「類」としてであろうが、「種」としてであろうが、いかにもイタリア的なものの食い方、飲み方、喋り方、振舞い方、町の作り方なのです。私はイタリアをべた褒めしているのではなくて、もしも、日本が働き者で良いものを作るけれども、冗談は上手だし、酒の飲み方もうまくて、日本がこの地球上からなくなったのであれば残念だと思われるような国、もっと言えば家庭、学校等を、どんどんつくろうと思ったらつくることができるのです。

佐高>  私は石原莞爾のことを書いたことがあります。彼は私の郷里の隣の鶴岡市(山形県)の生まれで、彼が中心となって五族協和を唱えていました。これは中国、朝鮮、モンゴル等が五族で、それにユダヤを加えて六族協和といったら、さすがの石原莞爾も引いてしまったという話があります。
この五族協和の考え方を上から押しつけようというのはとんでもない話ですが、そうではない形の五族協和の精神のようなものは新たに根ざしてよいと思います。五族協和の精神によって、満州建国大学がつくられました。この学生歌が、「蒙古放浪歌」で、もうすぐ西部さんが歌い始めると思いますが、満州建国大学は五族協和を実践しようとして、朝鮮民族の出身は何割と決めました。それを決めた学生たち、そこで学んだ学生たちが全て日本帝国主義に抵抗するように反日になっていくのです。私はそれでもよいだろうと思いますが、そのような形で、ある種の理想は何回も敗れるもののために、理想が敗れることを承知で試みることがあって然るべきだと思います。それを1つ求めることが考えられてもよいのです。

寺島>  どうもありがとうございました。私はお二人の存在そのものが日本を面白くしていると思います。お話の中で、「日本がいなくなったら淋しいと思われる国になりたい」という気持ちが私の心に響きました。皆さんには、「このような視点があるのだなあ」と一つでも二つでも感じとって頂けたことと思います。

第58回

寺島>  今年の初めにまさに本日のフォーラムのタイトルにもなっている『世界を知る力』(PHP新書出版)という本を出しました。読者の皆さんから返ってくる反応をじっと見ていて「ああ、そうなのだなあ」と私なりに感じることがありました。それは、日本の若い人たちも含めて、冷戦型の世界から世界がどのような方向に向かっているのか、つまり、冷戦型のものの考え方や見方からどうにか抜け出さなければならないという問題意識を共有しているということです。多くの日本人は地政学的なものの見方が大好きで、地政学の本が極端に売れるような国なので、ゲオポリティカル(Geopolitical)にものを考えます。それは、西部さん的に言うと、「東と西が角を突き合わせていて対立しているようだけれども根っこは一つだった」という話にもなるのですが、要するに、「KGB対CIA」と言った戦いの構図のような、ユーラシア大陸を巡って東と西が陣取り合戦を繰り広げていているというものの見方が大好きで、地政学的にものを考える傾向が非常に強くなってしまったということです。
 『世界を知る力』は、「いま、ネットワーク型によってものを考えないと世界は捉えられない」というところに勘所があります。例えば、中国本土=中華人民共和国のGDPがいよいよ今年日本を追い抜くという単純な話ではなくて、中国が今、ネットワーク型発展の中にあって、中国本土と香港、シンガポール、台湾という中華系の人たちが活躍しているゾーン、つまり、華僑圏の中国の相関が深まっているために中国本土がより大きく見えるパラダイムの中にあるというロジックをもって、大中華圏論を切り開いていっており、そこが『世界を知る力』の一つのポイントになっています。実は日本自身もこのようなネットワーク型の中でかろうじて支えられているということに気がつかなければなりません。
 今年6月、経済産業省が「産業構造ビジョン2010」という新しい産業政策論のビジョンを発表しました。これは経産省が作ったものとしては官僚の作文を超えて、結構、思いがこもっている中身になっています。私もかなり本気でこの作業に参画していて、私の思いも入っています。このビジョンについて議論した産業構造審議会には日本の名だたる産業人が参加していましたが、いまの日本人の産業人の問題意識の中に、日本は韓国に押し負けているという、被害者意識のようなものが議論の中に滲みでてきています。例えば、いま中南米の国々が続々と地上デジタル方式において、日本方式を採用してくれていて、8カ国になっています。これは日本において、びっくりするくらいめでたい話でもあります。グローバルスタンダードを握りたいとか、先端技術によって前に出たいと言っていながら、NHKのハイビジョン方式で一敗地にまみれ、常にじっと手を見るという思いをしてきた国であるのに、中南米では珍しいくらい日本方式が採用されてきているという状況になっています。
私がワシントンに行って米州開発銀行だの、米州圏に関わる人たちと話をしていると、「アメリカも切ないなあ」と思える状況が見えてきます。要するに、御膝元の中南米の反米感情の裏返しで、「アメリカの方式だけは採用したくない」という空気が漂っていて、ベネズエラのチャベス大統領がアメリカに毒づいたり、ブラジルのルーラ大統領もアメリカに対して「なにするものぞ」と構えています。
このような状況下で、とにかくアメリカ方式は採用したくないということが強い理由で、まるで漁夫の利を得るように日本方式が採用されているという面もあるのだということがよくわかります。
しかし、ここからがポイントですが、肝心のテレビ受像機に関しては韓国に席捲されてしまっています。こうした状況のほか、アブダビの原子力プロジェクト受注で韓国に負けたということ、オリンピックのメダルの数等にまで言及しながら、なにやら韓国に押されているという空気が被害者意識になって、日本に苛立ちをもたらしています。「何故、韓国はV字型に経済回復をしているのに、日本はもたついているのだ」という類の話が今度の産業構造に関する議論の背後にも滲み出てきます。
韓国について少し踏み込んで話をさせて頂きますが、私は韓国を過大評価する必要はないと思います。経済構造的に申し上げると、薄っぺらな部分があります。「ヒュンダイ」、「LG」、「サムスン」の3つの世界に冠たるブランドになった企業を育てています。このような意味においては、中国経済の現状と照らし合わせると、まだ韓国のほうがましだとも言えます。中国も、「中国の台頭」と言いますが、先程の「ネットワーク型によって拡大している」という話に加えて、世界の全てのメーカー企業のアンダーテイカー(下請)となって、生産立地を引き受けて、工場を稼働させて付加価値を高めてGDPを増やしていく構図が見えてきます。中国発のブランドは極めて数えるほどしかありません。海外で、「あなたは中国の企業をどこか知っていますか」と質問をすると、まず知っている人はいません。これが中国の実態とも言えます。ただ、これから間違いなく研究開発力を高めていくでしょうから、中国発のブランドが我々の目の前に登場する時代も来ると思います。しかし、まだそのようなステージにはきていません。韓国は少なくとも3つの企業、ヒュンダイ、LG、サムスンを育てました。この3つの企業の売上高を足すと韓国GDPの35%に相当するという構図になっています。日本はトヨタが物凄い会社だといっても、GDPの5%も占めているという状況ではありません。要するに、日本産業の強みをキチンと意識しなければならないことは、エレクトロニクスから自動車等、あらゆる分野にブランドと呼ぶことができる企業を重層的に戦後育ててきたことということです。私は海外で、「香港の夜景を思い出してくれ」とよく言いますが、あのネオンサインは伊達ではなくて、日本企業が持っているポテンシャルを象徴しています。
ただ、韓国財閥経済の強みもあります。グリップが効くのです。財閥なのでターゲットを絞り込んで戦う時の効率が物凄く良いのです。例えば、日本の経済人の一番愚かな議論は、「内需が大事か、外需が大事か」というもので延々と続けています。しかし、内外需一体の総合戦略が必要だということは間違いありません。
韓国に迷いがない理由は「内需がない」と腹を括っているためで、外需一本にかけているからです。しかも、BRICs狙いで、ブラジル、ロシア、インド、中国にターゲットを絞って、そのマーケットで戦い抜くことを想定したフォーメーション・プレイに出ます。迷いがないために進撃する時には強くて、ジェットコースター経済のように1997年のアジア危機によって一旦、ズドンと落ち込みましたが、半導体を梃に甦りました。そして、リーマンショックで再び落ち込みました。これでとどめを刺されたかと思ったら、またV字型回復になりました。それもいま申し上げたような非常にグリップの効いた財閥経済であるということがポイントの1つです。
2番目に、言葉は悪いのですが、二番手経済をしっかりと守っていて、先頭に出てグローバルスタンダードを構築しようとか、先端的な技術によってグリップしようと始めから考えずに、二番手をエンジョイするのです。もっとも良いと思うスタンダードにパクっと喰いついて、技術においても見極めて「これだ」というものに絞り込んで戦ってきます。二番手で並走してきて、スケート競技のように、ゴールする寸前にパッと足を出すのです。差し込まれているほうは苛立つのですが、戦略としては見事だという部分もあるということです。
更に、3番目にガバナンスです。日本経済の弱点の1つがガバナンスで、例えば、何故、アブダビで原子力発電プロジェクトにおいて、韓国に負けたのかというと、色々な分析が出てきていますが、一言でいうとすれば、韓国の場合、韓国電力を窓口にしてパッケージ・ディールで分かり易い、統合力のあるプレゼンテーションをしていたということです。あの時、日本はフランスと戦っているつもりで、韓国のことはコンペティターとして想定していなかったのです。更に、技術的にも全然問題外だとみていました。しかし、韓国はフルターン・キー・ベースによって工期を完成させると胸を張り、しかも、オペレーションを60年間任せるという60年間のオペレーション保証までつけました。
アブダビのような産油国で原発というのは何故だというと、いわゆる油が枯渇した後のエネルギー政策を考えているということなのです。韓国は人材研修の一環として、アブダビの原子力の人材を育てるためにソウル大学原子力工学部までパッケージにして人材を引き受けて育てるということが提案の中に入っています。
日本のいまの弱点は何かというと、全体のバラバラ感です。競争主義、市場主義の徹底も結構なのですが、エンジニアリング会社、商社、メーカー企業、そして、最後のオペレーションに参画する電力会社のトップ、というように数珠繋ぎのように並べてプレゼンテーションを行なうことになります。日本人で一番嫌われるタイプというのは、はったりをかまして、実行出来ないことをぶち上げる人間で、逆に評価されるのは応分の責任で自分が果たすべき役割を誠実に実行してみせますというタイプです。アブダビの原発プロジェクトでは、日本人なりの誠実な姿勢で数珠繋ぎのようなプレゼンが延々と続きました。一方の韓国の場合は、韓国電力の一人の人間が最初から最後まで、「私に任せなさい」という形でぶち上げるために、とてもわかり易いのです。日本の場合は、無責任ではないけれども、「生真面目な愚かさ」というものでバラバラ感が漂います。さすがに、それでは戦えないということに気がつき始めたため、ここにきてシステム輸出等のパッケージによって戦うという方向をとり始めています。いよいよ、原子力も国際展開会社をつくってパッケージで行なう方向に進んでいます。これは非常に教訓を残したと言ってよいと思います。
いずれにしても、「韓国に負けている」という被害者意識が日本人に襲いかかるわけなのですが、昨年の日本の貿易収支は2兆8千億円の輸出超過となっています。日本経済が輸出超過によって外貨を稼いで成り立っていることは皆さんもご存知かと思います。分かり易くいうと、不況に喘ぐ日本で、輸出超過をすることによって外貨を稼いでしのいでいる状況が現下の日本経済であるということです。
そこで、韓国と台湾についてですが、彼らと向き合っていると彼らなりの日本に対するフラストレーションがあります。それは彼らにとっては日本に対する輸入超過を抱えていて、その大きな原因は何かというと、日本の中間財、つまり部品を買ってくれているということです。彼らの国々は日本の部品を買って、最終製品に埋め込んで、それを海外に輸出して外貨を稼いでいる構図になっています。彼らには日本に首根っこを掴まれているような感じがあるのです。台湾はOEMの島のようになっていて、日本から技術と部品を背負わされて、その中でオペレーションをする工場のような機能を果たしています。
このように、日本の部品を買ってくれて最終製品にして、海外に売って外貨を稼いで豊かになった人たちが大中華圏から日本に昨年、263万人やって来てくれて、韓国からは159万人やって来て、日本の銀座や秋葉原等で大変な購買力を支えくれています。何がポイントかというと、近隣を窮乏化させて日本だけが繁栄している構図をつくることを考えること自体がおかしな話で、近隣を豊かにしてそれが日本を支えてくれるという構図の中でシナリオを書いていかなければならないということです。
日本人の意識の中で遠ざかっていることなのが、かつて、韓国や台湾は、その地域にいる人たちにとっては甚だ不条理な時代だったと思いますが、一時期日本のフラッグの下にあった地域だったのです。いまから100年前の1910年日韓併合から35年、朝鮮半島が日本領土の時代がありました。彼らにとっては不条理な時代だったと思います。しかし、日本人としては、かつて日本のフラッグの下にいた地域が日本の中間財を買ってくれて豊かになっていって、それが日本を支えてくれている構図に対する理解と見識が必要です。つまり、そのようなネットワークに日本の繁栄、日本の経済がかろうじて支えられているという認識が物凄く重要であるということです。日本自身もネットワーク型の中におかれているのです。今後も日本のシナリオについて視界においていかなければならないことは共存共栄のネットワークの中で、アジアの国々とどのように向き合っていくことが出来るのかということです。これが物凄く重要なポイントです。被害者意識だけを高めて、何するものぞということだけではこの国の進路は描けないのだと思います。
 
<後半>
 
寺島>  先程、少し触れましたが、1910年日韓併合がありました。1905年の日露戦争の5年後のことです。これは本当に考えさせる出来事だったと思います。私は自虐史観でも何でもなくて、謝罪をするべきだという単純な文脈で答える気持ちはありません。ただ、閔妃暗殺から日韓併合に至るまでのプロセスをみると、まさに、明治近代史の二重性というもので、自分自身が開国迫られていつ植民地にされるかもしれないという恐怖心の中から、開国、近代化へ踏み込んでいって、富国強兵、殖産興業によって力をつけてきて、日清、日露と越えていくうちに、自信が奢りに繋がっていく瞬間を迎えたことに気付きます。「親亜」、親しむアジアによって、アジアに最も共鳴心をもって向き合わなければならなかったはずの国が、遅れてきた植民地帝国になり始めて、日本自身が新手の植民地帝国として「欧米がやっていることを日本がやって何が悪いのだ」という感覚を芽生えさせてきます。調べると、日韓併合は実はアメリカのハワイ併合がモデルとなっていることがわかります。1898年にスペインとの戦争に勝ったアメリカがフィリピンとグアム島とハワイに触手を伸ばしてハワイを併合します。そのプロセスが日韓併合のモデルになったのです。
 アメリカは100年目の謝罪ということで、100年経ったところで、上下両議院で「ハワイ併合は騙し討ちで汚いことをして申し訳なかった」と謝罪決議をしました。アメリカの謝罪は分かり易くいうと、ごめんなさいと謝っているけれども、カラカウア王朝を復権させるとか、ハワイを独立させるという話ではありません。あれはあれで悪かったというメッセージにしか過ぎません。しかし、日本もごまかしてはならない部分があって、日韓併合に至るプロセスを正当化できない部分があるということを腹に括っておかなければならなりません。
 それから50年経って、敗戦を経た1960年には安保改定が時代の大きなテーマでした。1951年のサンフランシスコ講和条約から約9年経って、日米安保10年目の見直しということで60年安保改定を迎え、戦後の日本の中で最も熱い政治の季節でした。
60年安保は今から50年前となりますが、当時の日本の輸出30.1%、輸入39.2%がアメリカとの貿易だったのです。日本が飯を食っている基盤構造がアメリカとの貿易で成り立っているという構造の上に安保が議論されていたのが50年前だったと言ってよいと思います。
冷戦が終わって、いまどうなっているのかを確認するためにこの数字に触れたいと思います。それは日本の貿易総額に占める比重の数字なのですが、対米貿易に関してはわずか13.5%に落ちました。中国との貿易は20.5%なので2割を超えました。そして、私が盛んに繰り返し申し上げている大中華圏、つまり、中国、香港、シンガポール、台湾という中華圏との貿易が30.7%で3割を超して、アジアとの貿易が49.5%になっています。今後の日本の貿易に関して間違いなく言えることは、アジアのダイナミズムとどのように向き合うのかということなのです。
もう既に、この国の経済がアジアのダイナミズムと相関して生きていかざるを得ない構造になっているにも関わらず、勿論、アメリカとの関係も今後大事なのですけれども、どのようにそこの折り合いをつけていくのかということが見えないために混迷しているのです。このアンバランス感が外から見た時に誠に滑稽に見えます。柔らかくアメリカとの関係も大事にしながらも重層的にアジアとの関係を果敢に主体的につくっていく方向に舵を切らざるを得ない状況にあるのです。つまり、戦後なる日本に生きてきた人間が、これから21世紀を生きていかなければならない世代の人たちにどのような日本を残す気持ちでいるのかという根性が問われているのだと思います。
そのような文脈で、外交安全保障はどのようにあるべきなのか、産業経済政策、つまり、いままで日本が豊かになることができたメカニズムが必ずしも機能しなくなってきた矢先に、どのような構想をもつのかということが間違いなく問われていて、そこから逃げてはならないということです。日本がいま、やらなければならないことは戦後なるものに折り合いをつけなければならないということです。

2010年07月28日

第55回

木村>  先週は「寺島実郎が語る歴史観」をダイジェストでお聴き頂きました。今朝は寺島さんの最近発行された出版物、或いは、論説等を基にして、これらに触れながらお話を伺いたいと思います。1つは先月30日に毎日新聞社から発行された対談集の『新しい世界観を求めて』、もう1つは岩波書店から発行された月刊誌『世界』8月号(7月8日発売)の中の、『脳力のレッスン』連載第100回の特別編で普天間問題を取り上げて、「日米同盟は進化させねばならない―普天間迷走の総括と今後―」という内容になっています。
 まず、参議院選挙の結果についてですが、民主党大敗がメディアで大きく言われました。そこで、この選挙の結果をどのように見るのかというあたりからお話を伺いたいと思います。

寺島>  表層観察をすると、「自民党」が健闘して、「民主党」が大敗し、行き場のない票が「みんなの党」を押し上げることになりました。しかも、鳩山政権から交代して、鳩山・小沢というカードを引っ込めて、菅というカードに表面を取りかえて、せっかく支持率が6割以上になっていたのに不用意に消費税と言いだしたために、バンと反発をかってしまったのだと捉えがちなのです。しかし、もっと構造的な部分で約1年近くになった政権交代後の民主党の政策軸のブレや歪みに対して国民の不安や不満等がたまって結果的にこのような票になったのだと思います。
 それでは実際に自民党が勝ったのかというと、決してそのようなことはなくて、全国の比例の得票率は前回2007年の参議院選挙の時に自民党は31.4%を取り、今回は24.1%で得票率が落ちています。民主党も前回40.5%から31.6%に落ちています。このように自民党も民主党も落ちているにもかかわらず、何故、44議席もあるなかで民主党が10議席も減らす結果になったのかというと、一人区、つまり、1人しか当選者を出せない区において、前回、民主党は23勝6敗だったのですが、今回は8勝21敗で、全くここが逆転してしまったからです。何故このようなことが起こるのかというと、一人区は分かり易くいうと、政権与党に対して支持する票と疑問をもつ票の2つに割れて勝負になるということです。その結果、今回は自民党しか民主党に対する批判を受けとめる党がない形になり、自民圧勝になるのです。
 つまり、それほどまでに民主党に対する失望感があり、それは外交安全保障だけではなくて、経済産業政策を含めて、この党の政策の軸が見えないからです。「どうも期待していても思うようにいかない」という気持ちが、民主党に対する支持をためらわせた大きな理由だったと思います。それは、イデオロギーや信念や政策軸等がしっかりと見えて、そこに確信をもって投票をしているのではなくて、行き場のない泡のようなものが移ろっていて、その時の流行りの力学、つまり、今回の場合はみんなの党に流れていっているということです。
 要するに、政治の状況が非常に移ろい易くなっているということです。例えば、いま支持を得ているものが1年後には泡のように消えていく場合もあるのです。つまり、それを消えない、確信をもって支持してくれるものに変えていくことが政治家の力量であり、政策であり、政策思想なのだということです。
 いまの日本の中に、極端に言えば「レッテルの違う中身の同じ瓶」という言い方があって、二大政党といっても、中身はほとんど同じなのにレッテルだけをその瞬間、瞬間で流行りそうなものに作り変えて提示されてくることに対して国民が迷いを通り越して、ある種の失望感の中に嵌り始めているのだと思います。
 私は「代議制の民主主義の鍛え直し」ということを言い続けています。何故、いま代議制民主主義がこんなにも移ろい易く、薄っぺらなものになっているのかというと、実は、「民主主義とは何か?」という原理原則に還った時に、私はよく代議制民主義という言葉を選ぶのですが、「代議制」に比重をおいて、代議制民主主義を議論する場合と「民主主義」に比重をおいて、傍点を打って議論する場合とでは同じ代議制民主主義でも意味が違います。
これはどのような意味かというと、もしも、民主主義に比重をおいて、つまり、国民の世論、意識を正確に反映する政治を実現することが民主主義なのだということであるならば、いま我々の心の中に段々と大きくなってきているものは、「直接主義が可能なのではないのか?」、「直接民主主義のほうがよいのではないのか?」という気運です。
私は学生時代に政治学を大学院まで学んだ人間ですが、代議制民主主義の重要性を盛んに教え込まれました。その時にどのようなことを議論したのかというと、古代ギリシャ、ローマのような直接民主主義は、タウンミーティングができるような、見渡して肉声が届くような範囲においては、全員が票を入れて意思決定をするという方式が成り立ちます。
しかし、全国民に投票権が与えられるような形の大衆民主主義の下においては、意思決定と「大衆」=「国民」を繋ぐ「代議者」=「パイプ役」が必要になるのです。そのパイプ役が大切なのだという意味において、代議制が重要だということです。つまり、国民の世論の代弁者であり、国民をリードする代議者の役割が大切なのだと教わりました。
しかし、いま我々が直面しているのは、IT革命で、皮肉にもIT革命によって間に挟まっているものが排除されて直接繋ぐということが可能になってきたというところに物凄く意味があります。いま、技術的にネットでの投票、ネットでの意思確認をする方法論をしっかりと踏み固めていくのならば、あるテーマに関して国民がいま何を考えているのか正確に掌握することは必ずしも不可能ではないことに段々近づきつつあるのです。
例えば、家に送られてきた選挙のハガキを握りしめて近所の投票所に行って、本人確認はしていますが、本当にその人なのかどうかは指紋をとっているわけでもなく、ハガキに顔写真がついているわけでもなくて、恐らくこの人だろうという判断によって赤鉛筆でチェックをして投票させているのが現在の投票の仕組みなのです。もしも、声紋鑑定なり、なにかのレジスタ制にして、しっかりとした本人確認の下にネットによって国民の意見を正確に掌握しようと試みるのであれば、そのようなことも可能かもしれないのです。つまり、分かり易く言うと、直接民主主義が可能かもしれないという時代に近づいているために、代議制が根底から揺らぎ始めていることに気がつかなければならないということです。
自分たちが投票したことがない人が首相になって、代議者を通じて隔靴掻痒と言いますか、自分たちの意思がいつまでも伝わらない情況に苛立ちを覚えて、しかも、二院制になっていて、この国の英知が結集されて、一番よい政策が実現されていくプロセスが目の前に見えるのかというとそうではなくて、代議制の仕組みを通じていれば通じているほどややこしくなっていくのです。
例えば、参議院の選挙の度に多くの人が溜息をついていると思いますが、「何故このような人たちが出てくるのでしょうね」と思うような人たちが選挙に出てきます。それは、一概にタレント議員が悪いという文脈ではなくて、およそ、恥やそのような心があるのであれば、政治は人の生き方や社会の在り方に影響を与えるところに自分が踏み出そうとすることですから、恐ろしいまでに自己制御が効いていなければならないし、禁欲的でなければならないのですが、敢えて言うならば鉄面皮の人たちが出てきて、更に一度選挙区では落選をした人たちまでがゾンビ議員のように比例区で甦ったりします。国民にとってみれば、政治の仕組みそのものが一体どのようになっているのかという気持ちになると思います。
そこで、代議制民主主義の鍛え直しとは、政治の究極の目標は政治で飯を食う人を限りなく少なくすることなのです。政治で飯が食えるということが本当は極めて例外でなければならないのです。みんな額に汗して働く仕事をもっていて、みんな世の中のために一肌もふた肌も脱いで、お役に立とうという気持ちで、例えば、アメリカの地方議員は給料のほとんどがなきに等しいくらいで、PTAの役員のように、ボランティア活動のようなつもりでやる気がなければとてもやっていられません。アメリカの下院議員がどんどん辞めて代わっていく理由は、一言でいうとおいしくない仕事だからなのです。例えば、子供の教育に金がかかるのに、そのようなところで代議者をやっていても金儲けにならないのです。しかし、日本の場合は、孫子の代まで政治家を譲っていこうとします。それは何故かというと、それがおいしい仕事だからなのです。
そこで、まず、ここのところにきて盛んに唱える人が増えてきていますが、代議者の削減です。これは菅首相までが、国会の質問に明確に答えていましたが、民主党は前回のマニフェストで衆議院議員を80人減らして、参議院議員を40人減らして合計120人、国会議員を減らすのだと言及しました。自民党も含めて、そのようなことを盛んに言っています。なかには、国会議員の数を半減すべきだと主張している党も出てきています。
仮に120人減ったとして、代議制に伴うコストだといって仕方がないと思っていた議員1人当りにどれくらいのお金がかかっているのかというと、どんなに少なく見積もっても、直接人件費プラスアルファくらいで約2億円かかっています。

木村>  今度は新しい議員会館が出来て千何百億円というお金がかかりましたね。

寺島>  そのような類の間接コストの話をし始めると、その何倍もかかってしまっているのです。
 そこで、代議制民主主義を鍛え直す時のいろはの「い」は、代議者の削減です。これは幸いなことに市町村合併によってこの10年間で、地方の代議員、例えば、市町村会議員は日本全体で約2万数千人減っています。この先50年間、日本も人口が3割減ろうとしているために、どんなに少なくとも120人の削減が必要です。いま、日本はアメリカの1人当りの国会議員数の3倍もいます。つまり、日本はアメリカの上下両議院議員の数の国民1人当りに対する比率の3倍の国会議員を抱えているということです。
 更に、アメリカが踏み込み始めていることは議員の任期制限です。つまり、上院議員ならば州ごとに決めていますが、2期12年までしかやってはいけなくて、その後は立候補できません。下院議員であれば、こちらも州によりますが、6年から9年の任期になっています。分かり易くいうと、アメリカは、「政治を職業として飯を食ってはならない」という方向にいき始めているということです。それも行き過ぎではないのかという意見もあって、憲法で職業選択の自由があるのだから、むしろ、それこそが憲法違反ではないのかという意見までもがアメリカで出ています。おそらく日本でもそのような議論が出てくると思います。
 しかし、このように代議者として飯を食うことがいかに厳しいのかということを思い知るような形で、むしろ、職業としての政治を選ぶ人を育てなければならないのです。これが、私は今度の選挙あたりから我々が真剣に考えなければならないことの1つだと思います。

木村>  ある意味では、いまの代議制民主主義の在り方を深く根底から問いかけるお話であると共に、一方では、寺島さんのお話を伺って少し溜飲が下がったように感じておられる方もいると思います。それくらい、いまの我々が目にする政治状況がいかにもうつろだということもあります。そのことについて後半にお話を伺います。

<後半>

木村>  冒頭に触れました寺島さんの本『新しい世界観を求めて』は、佐高信さんとの対談集になっていますが、私は、興味深くという意味で非常に面白く読ませて頂きました。

寺島>  佐高さんは政治的な思想信条やものの考え方において、もしかすると私と対極にいるような人かもしれません。しかし、ある意味において心が通い合う一点があります。敢えて言うのであれば、世代といいますか、戦後という時代に生きてきた人間としての共通責任という問題意識において、話せば話すほどスパークしてくる部分があるのです。
 そこで、戦後という時代に生きる責任ということなのですが、大げさに言えば、いまのままのような情況で、この後、日本で生きていく世代にバトンを渡してよいのかということです。例えば、敗戦国としてとにかく経済によって復興しようとして這い上がってくる過程で、置き去りにしてきてしまったもの、それは、この国に戦後60年経っても外国の軍隊の基地があり続けて、アジアとの関係に決定的な信頼関係をつくることが出来ないまま21世紀を迎えて今日に至っているという事実です。いまだにアメリカ頼りで21世紀の新しいアジア情況の中を生きていこうというところにとどまっている国だということです。そのような日本の限界を実は中国もロシアもASEANの国々の人たちもじっと見ていて、日本は技術をもった優れた国だけれども、所詮、アメリカ周辺国にしか過ぎないのだというところに目線がきているのです。典型的なのですが、米軍基地の抑止力論なるものがこの半年間で大きなことが2つ変わっているのです。冒頭お伝えした、月刊誌『世界』8月号の論文をそのような文脈で読んで頂きたいと思います。
 まず、アメリカの外交防衛政策が大きく変わろうとしています。オバマの軍事戦略がしっかり見えてきました。一言でいうと、縮軍です。つまり、海外の同盟国に軍事基地までおいて、そこを守ったり支援したりするということはアメリカの能力において段々できなくなってきたということです。「それぞれの国が自分の国をしっかりと守ることを後ろから支援するような方向に行かざるを得ない」ということをゲイツ国防長官が言い、ここのところ続々と発表されてきたアメリカの驚くべき戦略転換があります。例えば、これから5年間に1兆ドルの軍事予算を削減すると言っています。これは1年間でいうと、2,000億ドルです。しかし、皮肉にも、縮軍に入れば入るほど基地維持費の70%を負担してくれる日本に基地を持つ意味が彼らにとって重要になってくるのです。
 そこで、日米同盟の「シンカ」を盛んにいまの政権は言っています。その「シンカ」は深めるほうの「深化」なのですが、私が今度の論文で敢えて使っているのは進めるほうの「進化」です。そろそろ日本人も冷戦を前提につくった仕組みの日米安保や、日米同盟を冷戦を超えた時代においてどのようにしていくのか、それは日米同盟を止めるべきだという次元の話ではなくて、アメリカを利用出来る限りにおいては、アジアでアメリカと日本との関係をテコに日本の存在感を高めていくという戦略をとるのも強かに展開するという意味において非常に重要なのです。日本が中国と向き合っていく時、また、ロシアと向き合っていく時に、アメリカと手を切って日本独自にということを考える必要もありません。
 しかし、一方で、アメリカだけに頼ってこの複雑なゲームを超えていけると思うことも誤りなのです。いまは物凄くしなやかな大きな構想力が問われている局面にきているのです。そのような中で、少なくとも日本にある米軍基地管理権、つまり、米軍が駐留していても管理権は日本側が取り返していくというプロセス、地位協定上の基地のステイタスを日本が管理権を持っているという基地の性格に変えていく努力をテーブルの上に載せられなければ日本はこれから国際社会の中で、多くの国がしのぎを削っていかなければならないような状況の中で、アメリカ周辺国に過ぎないという目線を超えていくことはできないであろうと思います。いま、日本は物凄く重要な局面にきているのです。つまり、日本の戦後を真剣に総括するのであれば、私は必ずこのまま次の世代にバトンを渡してはならないと思います。我々の世代の間に解決しなければならない大きな問題があります。その1つがアメリカとの関係をしっかりと組み立て直して軌道にのせなければならないという責任感なのだといえます。私は佐高さんと話をしていて、立場も違えば議論の論点も違うけれども、共鳴心が働いている部分の1つがそこなのだと実感しました。

2010年06月27日

第54回

<咸臨丸150周年への思い>

木村>  先週の放送は「日本経済再生への道」というテーマでお話を伺いましましたが、もしかすると長い間悩んできた日本の社会に光が見えるかもしれないと感じました。ただし、その場合も我々1人1人がそこに参画していくことも大事であることが寺島さんのお話によって伝わってきました。
 今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「咸臨丸150周年への思い」です。NHK大河ドラマの『龍馬伝』でも咸臨丸が出てきました。

寺島>  今年は、咸臨丸なる船が万延元年=1860年に太平洋を渡ってサンフランシスコにいってからちょうど150周年です。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎等を乗せていたのです。これは何のためにかというと、幕府が最初にアメリカに送ったミッション、つまり、使節団がワシントンを訪れましたが、それに随行する形で咸臨丸は太平洋を渡っていきました。
私は今般、その咸臨丸についてサンフランシスコに行って調べてみました。これをきっかけに私なりに非常に考えさせられたことがありました。ある種の臨場感をもって聞いて頂きたいのですが、ちょうどいまのシーズン6月の話になります。咸臨丸はアメリカのサンフランシスコを5月8日に立って日本に向かっていて、浦賀に6月22日に帰ってきました。分かり易くいうと、いまのシーズンに太平洋を今度は逆に日本に戻っていたのだということです。
咸臨丸はオランダが造ったのですが、長さ36.6メートル、幅8.6メートル、重量620トンという小さな船なのに96人も乗って渡っていきました。
いずれにせよ、日本にとっては最初の日本人だけで太平洋を渡ったということになっていますが、実際はアメリカの海軍の軍人が10人乗っていました。それは日本の近海で測量船が座礁して帰りの船がなくて、一緒に乗っていったのですが、これらの人たちが結構太平洋の荒波を越えていく時に支援をしてくれたのです。彼らが書き残している資料があって、「牢獄に閉じ込めて、大地震に遭っているようなものだ」とあって、つまり、めちゃくちゃに船が揺れる中をグロッキー状態で太平洋を渡っていったということです。
私は咸臨丸のことを調べていて、いくつかとてもおもしろいエピソードに出くわしました。まず、福慶應大学の開祖福沢諭吉なのですが、当時、彼は27歳で勝海舟は37歳でした。
福沢諭吉がアメリカに辿り着いて非常に印象深いエピソードを福翁自伝に書いています。「アメリカの建国の父と呼ばれているジョージ・ワシントンなる人物がいるようだが、その人の子孫はいまどうしているのだろうか?」と彼はサンフランシスコで聞いたらしいのです。そうすると、誰もが顔を見合わせて「知らない」と言ったのだそうです。そこから彼は面白いことを書いていて、「日本で言えば、源頼朝や徳川家康の子孫のようなはずなのに、その人がいまどうなっているのか知らないなんていう話を聞いてびっくりした」。別の言い方をすると、その瞬間にアメリカの民主主義が何事なのかということを彼なりに感じ取ったのです。

木村>  そこの感性の鋭さがありますね。

寺島>  氷川清話の中で、勝海舟はアメリカを渡って帰ってきて、報告のために御老中に呼び出されたことを書いています。「君は一廉の人物だからアメリカを渡って何かを発見しただろうから言ってみろ」と言われたそうです。勝海舟は少しへそ曲がりな人なので、「およそ人間が住んでいる所は世界中どこに行っても、どうも変わりはないようです」と答えたのです。しかし、「いやいや、そんなことはないだろう。君のことだから何か違いを発見しただろう」と問い詰められて、「かの国(アメリカ)では上に立つ人は利発な人が多いようでございます」、つまり、利口な人が上に立っているということです。そうすると、そのように答えた瞬間に「無礼者!」と怒鳴られたという話を面白おかしく書いていました。
 このように、福沢諭吉や勝海舟等の色々な物語を残しながらアメリカを見たということが日本において大きな意味をもったミッションだったということが、その後の彼らの役割を思い起こしてみるとよくわかります。ただし、我々が誤解してはならないのは、福沢諭吉も勝海舟もワシントンには行っていないのです。つまり、正使の一行はサンフランシスコから南下して、現在のパナマ運河があるところのパナマまで行って、その当時はまだ運河がなかったために陸路を汽車に乗って越えました。おそらく日本人で初めて汽車に乗った人たちになると思います。カリブ海側に出て、アメリカの軍艦に送られてワシントンに行っています。日本人にも多いに誤解があるけれども、本当は勝海舟も福沢諭吉もサンフランシスコだけを見て帰ってきたに過ぎないのです。
 ところで、咸臨丸から100年経った時が1960年です。多くの人がピンとくると思いますが、1960年は日米安保改定の年だったのです。咸臨丸から100年経ったところで考えてみると、日本は戦争に敗れ、1951年にサンフランシスコ講和条約を結んで、日米安保の体制に踏み込んでいきました。それから9年後が1960年なのです。ここで、臨場感をもって考えて頂きたいのですが、6月15日に全国で580万人の人がデモに参加して、国会を人の渦が取り巻くような大デモとなり、安保反対闘争が盛り上がって戦後日本で最も熱い政治の季節だったということが、咸臨丸から100年経った1960年で、いまからちょうど50年前だったわけです。
 当時、樺美智子さんという東大生だった女子大生が踏みつぶされたような状況で亡くなりました。先日、私は若い学生などと一緒に話をしていて時代の変化を感じたのが、「女子大生の樺さんが何故、国会なんかに行っていたのですか?」という質問を受けたことです。いまの若い人たちは率直にいうとそのような感覚なのだと思います。例えば、iPadの発売に1,500人並ぶという感覚は理解できるけれども、何故、女子大生が国会に行って踏み殺されるような目に遭わなければならなかったのかということについて、おそらくイマジネーションの中に入ってこないのだと思います。若い人たちが自分の私生活に関わる自分の関心領域や好きなことなどのために並ぶという感覚は理解できるけれども、少なくとも、50年前の大学生が日本の将来や国家や安全保障等の関して深く問題意識をもって、全国で580万人の人たちがデモに参加する時代があったということを歴史認識の中でどのように理解するかということがとても大事で、少なくとも自分の利害打算を超えたところで人が動いていた時代があったということを考えなければならないということを話しました。ここのところが大きなポイントだと思います。
 以前、この番組でも話題にした1955年にバンドン会議があって、日本はじわりとアジアに還り始めました。アメリカとの協調関係を軸にしながら、西側陣営の一翼を占める形で西側にコミットして東側と向き合うという冷戦の時代を生きるためにアメリカとの同盟関係によって生き延びていこうという選択をしてから、1960年にもう一度、国民にとって大きな転換点がきたのです。
 そこで、面白いのは1960年に不思議なことに大阪市が寄贈する形で、サンフランシスコの小高い丘の上のゴールデンゲイトブリッジを見下ろす場所に、咸臨丸100年記念碑が建立されたのです。これは大阪市がサンフランシスコと姉妹都市だとういうことが理由らしいのですが、その時の除幕式には9年前の日米安保の立役者であった吉田茂氏が太平洋を渡って出席していました。つまり、まだ、咸臨丸100年が日米双方で大きな話題になっていた時代だったのです。
 しかし、今回、日本側のメディアの一部に「そう言われてみれば、咸臨丸から150年だ」というような記事がポツポツとは出ていますが、「咸臨丸150年とは」とか、「あれを機会に日米関係150年を振り返るとどうなるのか」という話は一向に出てこなくて、そんなに話題にすらならない状況で、日米双方で盛り上がりもないというところに、いま我々が生きている時代のある種の特色があるのだと思います。
その背景にある構造を調べてみて驚きましたが、いまからちょうど50年前、日本の貿易の輸出と輸入を合わせた貿易総額の内、アメリカとの貿易比重が36%の時代だったのです。つまり、4割近くがアメリカとの貿易によって飯を食っていた国だったということです。当時、日米安保を今後どのようにするのか、という議論をしてみても、現実に日本人が飯を食っている種の貿易の4割近くがアメリカとの貿易で生活を成り立たせている国という状況で、そこがしっかりと日本を金縛りのようにしていたために、アメリカとの同盟を軸にして生きていくという選択肢はそのような文脈においても、ある面では必然でもあったし、逃れようがない部分もあったのだと思います。
しかし、あれから50年が経って、昨年の日本の貿易総額において、対米貿易の比重はわずか13.5%にまで落ちてきていて、中国との貿易比重が20.5%になっているのです。そして、アジアとの貿易比重がほぼ50%というような国に変わってきたのです。
経済における日本とアメリカとの関係で、たまたま、いま貿易だけの数字だけを使ってお話しをしましたが、投資においても、人の動き、つまり、海外渡航者の数においてもアメリカとの関係がどんどん細っていっています。例えば、アメリカの西海岸に訪れている日本人の数は2000年がピークだったのですが、この10年で半分になってしまいました。それくらいに日本人の存在感が西海岸でも消えて、中国人と韓国人だけがやたら目立つような構図になりました。
このような状況を背景にしても、ここに1つの歪みのようなものが見えてきます。日本の場合、いまだに経済の関係においてはアメリカとの関係がどんどん薄くなってきています。しかし、外交安全保障の関係においては極端に言うと、アメリカとの関係は9割くらい頭の中で引きずっています。その枠組みから1歩も出られない状況の中で喘いでいるというところにある種の日本のアンバランス感があるのです。外から見ていると、例えば、アジアの目線から日本を見ている時に、滑稽な空気が漂っています。分かり易くいうと、アジアは日本にとって一番のビッグ・カスタマーなのです。つまり、毎日ビジネスをし、商売をしている相手で一番重い存在になってきているアジアが貿易の5割を占めています。そして、中国が20%を超すという状況になって、一番の取引先に対してまだアジアとの関係、中国との関係が信頼できず不安なために、昔ながらの同盟関係に物凄くしがみついて、アメリカという用心棒に頼っていないと不安で仕方がないのです。積極的にアジアとの関係を安全・安心な関係に作り直していくのだと構えるのではなくて、あくまでもアメリカに頼っていないとアジアとの関係は信頼できないという構図の中にうずくまっているというその辺りの滑稽感が日本に対するアンバランス感となり、日本をアジアのリーダーとして敬愛する気分が萎えてきている空気を私は本当に感じています。このことが咸臨丸150年という時に考えざるを得ないのです。
最後に、咸臨丸はどうなったのかという話だけはしておきたいと思います。咸臨丸は明治4年に太平洋を渡っていってから、11年後に函館の西の海岸で座礁して沈んで最後を遂げます。私は個人的にも北海道出身の人間なので思いも熱いのですが、「ああ、咸臨丸は結局、最後は北海道の函館の近くの海岸線で座礁して沈んだのか……」という思いは何か胸に迫るものがあって、非常に複雑な気持ちになります。

木村>  寺島さんのお話で、いまを生きる我々が咸臨丸100年と150年の時代の対比の中から考えるべきことはとても重いと感じました。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方々からのメールを紹介して寺島さんにお話を伺います。
30代前半の男性、ラジオネームSegawaさんからです。「僕はアメリカで会計を専攻する者です。勉強する傍ら、Podcastで番組を楽しく聞いています。今回のお話は全て本当に面白くかつためになりました。全て目からウロコが落ちる内容でした」。これは5月の放送で大中華圏をはじめとするお話の回のことですね。
 次に、20代後半の男性、ラジオネームZIMAさんからです。「バンドン会議の番組を聴いていて、久しぶり熱くなりました。現在日本のブランディングを再構築するために化粧品業界で働いていますが、30手前になって『我々のアジアの繁栄』を共に生きる覚悟をしました」。このように番組を聴いて下さって覚悟をされた方もいます。
 東京でお聴きの女性、ラジオネームてるみーさんからです。「このような硬派な番組をあることをとても嬉しく思います。私は社会や政治的な個々の問題に対し真剣に考えていくと自分がどう感じてどう考えるかだけではなく、どう行動するか? 社会をどう変えるか? 変えたいのか? まで考えています。普段から考え続けていると自分が行動したところでなかなか社会は変わっていかないことに対し、なんだかひとりで焦って空回りしている部分があるのも事実です。そんな時にこの番組に出会い、立ち止まって、どう生きるかというところまで広げて考えると、個別の問題での行き詰まり感というのが気にならなくなってきました」。このメールの内容はリスナーの方が寺島さんの『世界を知る力』のある通奏低音のようなところを受けとめて下さっているように感じます。

寺島>  ある種の限界は当然分かりますが、メディアの役割といいますか、私は本当に知は力であると思っていて、若い学生諸君とも向き合っていますが、事実をしっかりと知るということと、それを踏まえて、できるだけ世界を広く見渡していく努力をしてみるということと、自分の足元を掘り下げて、鳥の目と虫の目という言い方をしますが、地に足のついたものの見方や考え方を身につけていくことが必要だと思います。この種の放送等はそれに若干の刺激を与えて考えるヒントを与えることがぎりぎり限界であると思いますが、とても大事なきっかけとなっているということを感じると我々送り手側として感動します。

木村>  それと共に、勿論、身の周りには難しい問題がたくさんあるのですが、生き方としてこの番組を聴いていると行き詰まり感が気にならなくなって、そのようにして力を得るということの大切さがこのメールに表れていて、この番組は凄い聴かれ方をしているのだと感じました。

寺島>  できるだけ歴史認識を深める話題と時代に直接向き合う話題を組み合わせながら、良い内容にしていきたいと思います。

木村>  前半で咸臨丸100年、150年の時代の移り変わりがありましたが、先程のメールの中で「30手前になって『我々のアジアの繁栄』を共に生きる覚悟をしました」と書いてありますが、いかがでしょうか?

寺島>  私もそのメールを読ませて頂きました。特に20代、30代の若い人たちは自分の職場での役割期待の中にどんどん埋没していかざるを得ない時期なのだと思います。私自身も商社という世界に入り込んで、あらゆる意味においてストラッグルしていました。しかし、その時のことをいま思い起こしてみれば、企業を超えた勉強会や専門家との研究会等に参加するようになって自分の視界を広げるために、本当に自分なりにストラッグルしていた20代、30代であったとつくづく思います。
 したがって、自己満足しないで、できるだけ機会を捉えて、研究会や異業種の勉強会等に参加していく努力をしていく時間管理です。これは意志がないとなかなかこのようなことはできません。志がなくてはなりません。このような面で私はよくマージナル・マンという言い方をしますが、いろいろな境界を生きるということです。つまり、会社の中で役に立たないような人間では話にならなくて、それはプロフェッショナルという意味において自分がそこで飯を食っている世界なのだから会社の中でもキチンと評価される折り合いをつけなければなりません。同時にそのようなところで内輪の評価を受けて満足するだけのではなくて、1歩でも2歩でも何か食いついていかなければならないということです。これが大事であると思うし、その1つのきっかけになるような番組していきたいと思います。

木村>  本日の後半はメールを御紹介させて頂いたリスナーの皆さんに寺島さんからまた熱いメッセージが語られました。

第53回

<普天間米軍基地問題を如何に考えるか>


木村>  本日はテーマに入る前に、普天間問題についてお話を伺いたいと思います。
これが結局、鳩山政権を大きく揺さぶって総理の交代にまで繋がっていきました。いま、あらためて寺島さんはこの問題をどのように捉えて考えていらっしゃいますか。

寺島>  鳩山外交が挫折した理由は何かというと、普天間問題を沖縄の基地の負担軽減問題に封じ込めてしまったところにあります。鳩山さん自身は感性の人、センチメントの人で沖縄に対する同情心が人一倍強くて、沖縄に日本の米軍基地の7割以上が集中しているという、あまりにも荷重な負担だという熱い思いがあるために、「少なくとも県外」と言ってしまったのです。
本当は普天間問題のどこを議論しなければならないのかというと、アメリカとキチンと向き合って、日本におけるアメリカの基地の問題、日米同盟の在り方について、政治家として、リーダーとして次にどこにもっていくのか、何を目指しているのか等ということについてしっかりと語りつくして、沖縄に対してもアメリカに対しても向き合わなければならなかったのに、何とか負担軽減ができないのというあたりに論点をおいてしまったのです。例えば、沖縄県外で基地を引き受けてくれるところがあれば、この話は一件落着なのですかというと、実はそのような話ではないのです。そのあたりのことで迷走してしまったところが大問題であったのだと思います。
 本来、これをきっかけにして日本の安全保障や日本の進路等に関わる議論をしっかりと行なわなければならなかったにもかかわらず、負担軽減をどのようにするかという次元で終始してしまったのです。民主党政権になって、盛んに政治主導と言い出しました。私はいろいろな官公庁の新たなる動向をみていて、確かに政務三役が主導してく方向にもっていく省庁が多いのですが、その中で外務省と防衛省だけはある面においては未だに実務官僚がある種の縛りをかけているのです。彼らの後ろにアメリカという存在があり、アメリカが「うん」と言わなければこの話は動かないというロジックが金縛りをかけていて、今回の普天間問題の迷走においても、鳩山氏のセンチメントとは別に、これが一種の羽交い絞めをしたというあたりがポイントだと思います。つまり、本来ならば、アメリカの基地の安全の問題、ヘリコプターの墜落の事件や暴行事件等がきっかけとなって、普天間移転という問題が起こってきているのにもかかわらず、当事者であるアメリカ自身が懐手をして、「俺が気に入る場所が見つかったらもってきてくれ」という空気になってきて、国内問題として内輪もめ的な話だけになってしまったのです。
問題はそのようなプロセスの中で、政治家として菅さんにもそのまま引き継がれているテーマでもあるけれども、今後の日本の安全保障の構想力が問われているのです。冷戦後20年が経った時点で、「冷戦後の世界においてどのようにしていくのか?」ということについて、どのようなビジョンと構想をもっているのかということ無しには永遠に普天間問題さえも解決できないのです。
 そこで、結局誰もが感じたことですが、「米軍基地が何故、日本に必要なのか」という時に、「抑止力」という言葉が盛んに登場してきました。

木村>  脅威があって、それに対する抑止力が必要という論ですね。

寺島>  例えば、北朝鮮の現実の脅威や中国の潜在脅威等に対して、アメリカという重石のようなものがいなくなってしまったら、日本は不安であるというロジックに引っ張られる人たちが日本の国民の中に大変多かったと確認したことも大きなポイントの1つだったと思います。
 そこで問題になるのは、確かに東アジアを不安定にしてはならないという時に、日本人としてしっかりと考えなければならないことは、日米同盟の質を新しい時代においてどのようにしていくべきなのかということです。中国の台頭という力学、アメリカと中国が一段とコミュニケーションを深めている状況下で、アメリカという国とどのように同盟関係を進めるのかという意味においての新しい日米関係の進化を図らなければならないところにきていると思います。その際に、ボトムラインとして腹の中においておかなければならないことは、今年戦後65年が経とうとしている時に日本の自立自存をかけて、アメリカに過剰に期待し、過剰に依存してこの国の安全を図るということから、どのように自立心を高めていくのかということが問われていることも確かです。
 一方では、抑止力として何らかの形で日本の安全を確保するためにアメリカとの軍事同盟が大事であるという気持ちを持っている人が多いということも確かです。そのような時に、どのようにしたらよいのかというと、質をよく吟味する必要があるのです。極東の安全保障において重要性をもった基地なのかどうかということを段階的に吟味して、段階的縮小を図ることと、基地の管理権を日本側に1つずつ取り返していくことです。日本に存在している米軍基地は世界で展開している米軍基地の中で例外的であるということはこの番組で何回も言ってきていますが、アメリカ側が占有権を持っていて、占領軍の基地のまま自由自在に使ってよいということになっています。これからは日本側が管理権をもって、安全等の様々な問題を担保しながら抑止力として米軍が共有して存在しているという形の基地に段階的に変えていく努力をし始めなければならないと思います。
 要するに、何がポイントなのかというと、冷戦を前提にして日米安保条約が結ばれて、冷戦の時代が終わって、新たにアジアが動き始めている時代に不安定を起こしてはならないけれども、日米安保改定から50年を経て、アメリカとの関係もキチンと再設計しなければならない時にきているのです。これは普天間問題は鳩山政権の挫折という形でいまは見えていますが、この問題は何も解決されないまま我々は引き続いてこれに向き合っていかなければならなくて、まだ入口の扉にさしかかった程度の話なのかもしれないのです。これは相当腹を括って日本人としてこれから考えていかなければならいテーマだということを本日はまず申し上げておきたいのです。

木村>  これはリスナーの皆さんと問題意識を共有するだけではなくて、問題提起としては菅内閣に突きつけた形になっていますが、ある意味においては、最大のエールを送っていると受けとめて欲しいと思います。

<日本経済再生への道>


木村>  さて、もう1つの今朝のテーマ「日本経済再生への道」についてお話を伺いたいと思います。もしかすると、これも「強い経済、強い財政、強い社会保障」を掲げた管内閣への問題提起でもあり、かつ、エールかもしれません。
 今年のお正月にNHKスペシャルで「メイド・イン・ジャパンの命運」が放送されましたが、「日本は何で食べていくのか、日本は何を作るのか」というコメントが繰り返し流れました。成長戦略という言葉は何年も聞いてきているのですが、再生への道は何故始まらないのかという苛立ちばかりが募ります。

寺島>  6月に相次いで発表になった経済産業省の2つのビジョン構想がありました。1つは「産業構造ビジョン2010」を取りまとめる委員会と、それと並走する形でエネルギー基本計画の見直しをする委員会があって、私は両方の委員会に参画しています。ちょうどそれらのレポートが出たところなので、その方向感について語りたいと思います。
 まず、産業構造ビジョンについてお話しいたします。今回の産業構造ビジョンの大きな問題意識は、技術では日本の産業は大変に優れているのに、例えば、UAEの原子力のプロジェクトで韓国に敗れたとか、南米の地上デジタル方式で日本方式が続々と採用されているにもかかわらず、テレビの受像機の市場においては韓国に席捲されているという状況で、技術では優れているのにプロジェクトや事業で押されている日本をどのようにしていくのか、はたまた、中国の存在感がぐんぐん高まってきて、日本の存在感がどんどん落ちていって、一体これはどうしてくのかという点にあります。このビジョンの取りまとめに関しても相当踏み込んだ形で今回、私は参画しています。
 今回の方向感の中で、いままでと違う一番大きなポイントは何かというと、政府の役割です。つまり、ついこの間まで新自由主義時代といわれて、小泉構造改革と盛んに言っていた時代がありました。あれは一体何だったのかというと、競争主義と市場主義を徹底させて、各企業が競争して切磋琢磨すれば、どんどん効率化が進み、生産性が上がり、競争と市場を梃にして、経済の活力を高めていこうという考え方が日本の産業をどのようにしていくかという時の基盤になったのです。
しかし、ここのところにきて、世界で成果を収めている国のやり方を見ていると、ガバナンスといいますか、日本は昔、「日本株式会社」といわれて、官と民とが一体になって戦略を組んでいると盛んに批判されたものですが、いつの間にか、日本自身がそのようなことから市場機能を大事にしていくという方向にいきました。事実、肝心要のところで、例えば、為替のコントロール等の色々な政府の機能が働いている経済の方がうまくいっているのです。いわゆる悪口を言う人は、シンガポールを「笑顔の北朝鮮」等という言い方をする人もいます。「開発独裁国家」という言葉があるくらい国家のガバナンスが効いている国がうまくいっているのです。そのような国を見習っていこうというのではなくて、要するに、市場機能を活かしていくのだけれども、新たな官・民連携で、官の役割をしっかり踏み固めたシステムをつくっていこうということが今回の大きな問題意識なのです。
もう1つは産業構造において自動車産業に過剰に依存し、「一本足打法」というくらい、「自動車だけの産業国家なのですか?」と言われかねないくらいの状況なのです。今度のビジョンでは、「戦略5分野」で、「八ヶ岳構造」という8つの峰がそびえているような産業構造の国にしていこうということで、例えば、インフラ関連のシステム輸出、つまり、新幹線等のパッケージで官・民、力を合わせて海外に売っていくというような戦略産業分野であるとか、新たに文化産業論が出てきて、コンテンツやファッション、音楽や漫画さえ含めて、最近でいうと、若い人が「クール・ジャパン」というように、アジアのみならず世界に日本のそのような文化産業をぐっと押し出し始め、それらを一段と加速させていこうという流れがあります。更に、少子高齢者社会に向けて医療、介護、健康、子育て等の分野、また、先端技術の分野に照準を合わせていくことで、今回相当腰の入った新たな産業構造への転換を目指していくような構想が語られ始めました。したがって、1つの物語がようやく見えてきたのです。今後の重点分野はここだというようなキャッチフレーレズだけではなくて、それをどのようにして、しかも、それをやることによってどれくらいのJOB=雇用を創出していくのかということです。分かり易くいうと、先程木村さんがおっしゃったように、日本人はどのような産業で今後飯を食っていくのかという話がストーリーとして見え始めているということです。
私は本日この番組を聴いている若い人たちも経産省の今度の産業構造ビジョンのサイトにアクセスして、是非それを見て、若い感性によって「俺たちはこのように思う」という意見をどんどん言って、刺激をして行くという参画型のアプローチをして頂きたいと思います。

木村> そこの問題をどのように実現していくかについて後半でお話を伺います。

<後半>

木村>  前半のお話で「戦略5分野」、「八ヶ岳構造」という言葉が出てきました。これらを実現していくためには、政治や人任せにするのではなくて、若い人たちもそこに参画をしていくことが必要です。寺島さんの立場で、これを実現していくためには、あるいはこれまでにやろうとしてなかなか産業政策が実現できなかったものを具体化してくにはどのようなことを考えていかなれければならないのでしょうか。

寺島>  これは本当に簡単なことではなくて、課題として、問題意識と思って聞いて頂きたいのですが、年収300万円くらいの確保ができる新しい仕事をどのように創出していくのかということです。いま、日本は額に汗して働いている総労働人口の3分の1以上が年収200万円以下で働いている状況になっています。したがって、豊かさの実感もなくて、ある種のギリギリ感や苛立ちも溢れてきています。
 今回、経産省の産業構造ビジョンが出ましたが、これを経産省の話だけに終わらせてはなりません。例えば、農林水産省に関連する分野では、日本は食糧自給率を高めることが課題となっています。海外から年間6兆円の食糧を買っていて、それによって我々は生きている国になってしまっています。その自給率を40%からカロリーベースで60%まで上げていこうという時に、例えば、農業生産法人のように、システムとしての農業を行なって、そこに若い人たちが参加できるような株式会社農業のようなプラットホームが見えてきて、農耕放棄地という統計上は農地になっているけれども、実際にはほったらかしになっていて何も作られていないような農地に多収穫米や雑穀等を作って、それを日本の鶏や豚に食べさせるような仕組みによって、1つの生産法人のようなものができてくれば雇用が生まれます。そこで、例えば、都会のサラリーマンをやっていた人が農業生産法人、或いは、流通法人の中で、営業マンや経理の担当者として働くなどして、農業や食という分野を新しい仕事を生みだす仕組みとしてつくりなおしていくのです。
 事実、既に日本の農業生産法人は1万を超すくらい増えてきています。そのようにつくってきたものが海外で日本の食材は安全で美味しいと評判になり、昨年は4,000億円くらいにまで食べ物が輸出されている時代になってきたのです。このようなメカニズムを更に拡大していくのであれば、そこで仕事を見つけ、飯を食べ、しかも、年間300万円以上の収入を得ることができる人たちを増やすことができます。この分野において、ザックリと申し上げて100万人は増やせるという推計値があります。
 このようにして仕事を創り出していき、活き活きと300万円以上の豊かな収入を得て、参画して、しかも、日本の食糧自給率を高めることに貢献しているという実感を味わうことのできる仕事をどのように生みだしていくのかということです。ただ仕事の数を増やせばいいというのではなくて、若い人たちが納得して感動できる仕事を創造していくシナリオが物凄く重要です。
例えば、今度の産業構造審議会のビジョンを他の省庁のいわゆる成長戦略で出してくるシナリオとしっかりと結びつけるのです。私はいま、たまたま農業や食の話をしましたが、これだけではなくて、総務省が推進している次世代ICT(註.1)、つまり、IT方面の技術革新の中からどのような仕事が生まれてくるのかということです。それは、いま話題になっているiPad等が定着していく中で、それらを使って新しい仕事や感動できるような仕事を増やせるのかということが凄く重要であり、このような物語をしっかりと描き切れるような産業構造ビジョンでなければならないのです。そのようなものに1歩踏み込んだところが今回初めて、「何で稼ぎ、何で雇用をするのか」という議論が出てきていて、若い人たちの希望がみえてきたと思います。自分はどのような分野で実際に稼いで自立して仕事をしていくべき人間なのかということを選択して考えることができるのです。これが非常に重要なのです。
 そのような意味において、産業構造ビジョンのようなものが実際に自分たちの生身の人生をどのように変えていくのかという実感によって読み取って頂きたいのです。「いや、こんなものでは薄っぺらだ」と思ったのであれば、また更に提言したり、参画したりして、そのようなことを吸収しながら、我々、政策科学に参画している人間もそのようなところから問題意識を高めていかなければなりません。今度のシナリオは少し生身の匂いがするのです。

木村>  つまり、これは経済産業省のビジョンだけれども、農林水産省も、総務省も、あらゆるところが連環をして1つの政策としてこれをどのように力を合わせて実現していくのかというような発想がなければならないということですね。

寺島>  そのようなことだろう思います。

木村>  これはこの番組でも引き続き深めていきたいと思います。

(註1、International and communication technology。ITという同義語だが、海外ではITからICTという表現が使用されるようになっている。情報通信技術)

2010年05月30日

第52回

寺島>  近隣の日・中・韓3ヶ国の連携あたりから、東アジア共同体の構想への段階的接近の議論が主流なのですが、ここで1つ、我々はASEAN動向に物凄く強い問題意識をもっておかなければならないという話をしておきたいと思います。
 ASEAN=東南アジア諸国連合は、今年1月にインドとの自由貿易協定を発効させました。中国との自由貿易協定も同じく今年の1月に発効させています。いま日本企業は、ASEANに対する関心を異様なほど高め始めているからです。何故かというと、これから日本企業における大きなターゲット・マーケットは、当然のことながら、インド、中国になっていくからです。日本の産業人は、インド、中国を狙った時に日本国内に生産立地していることに対する息苦しさを次第に感じ始めています。一時のドイツがそのような空気で、東ヨーロッパに進出していった時期がありますが、いまは特に素材型の産業を中心に、例えば、政権が変わって、CO2の25%削減という何やら合理性、科学性のないような目標に向かって立ち向かおうとしています。それは産業にとって物凄いプレッシャーだという判断があります。更には、やたらに法人税が高いだのなんだのと言い始めている理由は、日本に産業立地をしているよりも、インド、中国を狙った生産基点に移したほうがよいという問題意識が高まってきているからです。
そこで、私は、いまインドネシア再評価が非常に行なわれているのだなあと、つい先日の訪問で実感したことがありました。それは、ASEANに生産拠点をもつことによって、自由貿易協定があるのでインドと中国に対して関税上のメリットがある生産を展開できるということがとてつもなく大きいということで、しかも、2015年にASEANはASEAN共同体に踏み切ることに合意して、動き始めています。つまり、5年以内にASEAN共同体ができるということです。したがって、日本が東アジア共同体と言おうが言うまいが、先行してASEAN共同体が5年以内にできてくると思わなければならないのです。勿論、ASEANの中には色々な事情を抱えた、段差のある国々があるわけですから、単純にはいかないという話もありますが、いずれにしても、ASEAN共同体がリアリティーを帯びてきていることに変わりはありません。そうすると、「ASEANの中で」と考えた時、一時期日本企業がタイに物凄く肩入れをしていて、何千という物凄い数の日本企業がタイに進出しました。しかし、ここのところにきて、タクシンがどうしたこうしたという政治の混乱の中で、タイに対して「この先どうなるのかわからない」という失望感が漂っています。
ついこの間までベトナム・ブームだったのですが、ベトナム人は非常にクレバーで、オペレーションしてみると非常に信頼度が高いのですが、社会主義国であるという壁があったりして、ここのところにきてベトナムに対する熱が少し冷めています。
これからのASEANにとって、いまベトナムとシンガポールとの連携が物凄く重いのです。シンガポールは頭脳国家で、頭脳だけで生きているような国で身体がないのです。その身体を肩代わりするかのようにベトナムがシンガポールとの連携を深めていっているのです。この軸の動き方が非常に興味深いのですが、そのような中でフィリピンがまだまだだという状況を踏まえて、インドネシアは、世界最大のイスラム国家ですが、インドネシアの安定感がここにきて際立ってきています。そして、日本産業の問題意識の中で、インドネシアに生産立地をという1つの流れがスッと浮かびあがってきます。
ASEANと日本の自由貿易協定を順次、国別に発効していっている状況なのですが、これからの日本おいて、ASEANにどのように踏み込むのかということが凄く重要になってきます。日本の戦略としては珍しく戦略的だといわれているのは、「ERIA構想」で、要するに、経産省が年間10億円の予算をASEANに提供して、ASEANのシンクタンクをスタートさせたのです。これは既に動き始めてから1年半くらい経っています。経産省の西村さんが事務局長としてワークしています。ERIAではなく、ASEANの方の事務局の事務局長として動いているのはタイのスリンさんという人です。彼は先日、日本にやって来ていました。その前の週には中国に呼ばれて大歓待を受けていたようです。中国もASEANに物凄い秋波を送り始めています。
そのような流れの中で、日本は、ASEANの事務局のブレーンタンクとして、或いは、シンクタンクとして、ASEAN共同プロジェクト等を企画・推進していくということです。ASEAN共同プロジェクトは、例えば、メコン川のデルタ開発や、ベトナムからタイに繋がる回廊等の大型のインフラ・プロジェクトを中心に、ASEANバックアップで日本が展開しようとするようなものをERIAというシンクタンクで共同研究をしてASEANに力を貸そうということで、そのシンクタンクの設立を計ったのです。これは、ある意味においては、有効に機能し始めているとも言えます。事実、アジア総合開発計画が、つい数カ月前に、ERIAが提起する形によって動いて、日本の思惑の中でASEANをサポートしていくという狙いにおいて、ERIAは有効だという部分を見せてきています。
しかし、ERIAが、ASEANの事務局、そもそも、ERIAを何処につくるのかということで揉めました。マレーシアだ、タイだ、シンガポールだという綱引きの挙句に、ジャカルタに落ち着きました。何故、ジャカルタになったのかというと、ASEANの事務局がジャカルタにあるからなのです。ASEAN事務局と並走する形でERIAが動いています。そのERIAに役割期待が高まれば高まるほど、中国がERIAの役割に注目し始めて、中国も日本と同額くらいのお金を出してでもERIAを取り込もうという動きに出てきています。
したがって、何も中国と綱引きをしていけばよいというような話ではなくて、ERIAが次第に日本の思惑通りに動くようなシンクタンクとして有り続けるかどうかというと、むしろ、ASEANの戦略目的の中で、どんどん国際機関化して、中国のみならずオーストラリア等も出資しようとしているために、やがて、これがアジア開発銀行のような国際機関としての性格に近づいていくと思います。そうすると、日本のアジアとの接点において、例えば、力を合わせて研究開発すべき共同プロジェクト等が受け皿となって研究開発していく部隊が必要になってきます。そこが、これからお話をしようとしている大阪のアジア太平洋研究所構想の話に近づいていきます。
元々の話は、「大阪駅北地区先行開発区域プロジェクト」が始まりで、これは分かり易くいうと東京の汐留のようなものです。
いま、巨大な大阪駅で、かつて、JRがもっていた土地の再開発プロジェクトが進んでいます。問題は、最初に私自身がこの構想に巻き込まれたのは、「一体そこに何をつくるべきなのかという話について、知恵を貸して下さい」という話から始まったのです。私は、「大阪は、ひととおりの器物といいますか、ハードの物はありますよね。商業施設をどうするのか、ホテルをどうするのか、という発想ではダメでしょうね」と言いました。瞬時に言ったのは、フランスのパリにアラブ世界研究所という機関があって、これは1973年の石油危機の年に構想を発表して、20年かかりましたが、この研究所を設立しました。アラブ22ヶ国に根回しして、4割はアラブ22ヶ国が出資、6割はフランスが出資するという形になっています。アラブ世界研究所は9階建てで、凄く面白い形のビルなので御存知のかたもいると思います。
そのことによって、フランスのパリの情報力といいますか、分かり易くいうと、中東やアラブ、石油等に関心を持ち、利害を持つ関係者ならば、パリに行かざるを得ないという情報の磁場をつくってしまったのです。エッフェル塔の下にOECDの本部があって、そこにIEA=国際エネルギー機関が併設されています。私はパリに年に2、3回、足を運んでいますが、観光に行っているわけではなくて、やはり、行かざるを得ないという情報の磁場があるためなのです。それはIEAやアラブ世界研究所等があるためで、つまり、パリが人を惹きつける装置をもっているからなのです。勿論、OECDがあるように他の国際機関もあります。
しかし、大阪のみならず、日本、東京もそうですが、そこに行かなければしょうがないと思うような、情報の磁力線のようなものが何か1つでもあるのかという話になります。したがって、まず、パリのアラブ世界研究所にアナロジーを取って、更に、ジュネーブ・モデルという言い方がありますが、いま日本を観光立国化しようという話が進んでいて、中国人の海外出国者が5千万人に迫っている状況で、10年以内に1億人を超すと言われています。日本は、いまその1割を日本に惹きつけようという観光立国論を絵に描いた餅のように描いています。観光客を惹きつけることによって日本に活力を与えようということです。1割といっても1千万人で、それに、台湾、香港、シンガポール等の中華系の人たちの観光客の数を加えて、1千数百万人の人たちがやってくることをもって、観光立国、観光立国と言っているけれども、現実問題として、具体的に何処から来ているのかというと、大中華圏の1千数百万人と韓国の来訪者を当てにして、観光立国論を描いているのです。
先日、私が台湾で講演した時に、このような文脈で話をしていたら、新聞記者がバッと手をあげて「日本人に覚悟はおありですか?」と、質問をしてきました。私はそれを聞いてギョッとなりましたが、これは、どのような意味かというと、1千数百万人の中華系の人間を受けいれるだけ度量があるのかという問題意識のことなのです。たしかに、これは凄まじいことで、それだけのことを行なうとしたら、文化に対するインパクトまで出てくると思います。
もし、本気でそれらの人たちを惹きつけていくことになると、2泊3日で3万5千円等というツアーで客をかき集めても観光立国は成り立ちません。世界中の観光立国で成り立っている国々を調べるとわかりますが、お金をもって情報に対する強い欲求があって、質、量ともにそのような人たちをターゲットにして観光立国論を組み立てなければならず、安手の観光ツアー客をたくさん増やすことによって観光立国が成り立つというものではないのです。
そこで、先程申し上げたジュネーブ・モデルの話になりますが、ジュネーブは15の国連機関があります。かつて、国際連盟の時代の本部があったこともあります。結局、WTO=「世界貿易機関」もジュネーブにいきました。そして、ILO=「国際労働機関」もジュネーブにあります。私がワシントンにいた頃、GATT=「関税および貿易に関する一般協定」が進化して、いよいよWTOができるとなった頃、日本は通商国家なので、WTOの本部こそ日本に引っ張ってくるべきで、私は、ワシントンから出張して、「大阪か東京にWTOの本部を実現するべきだ」と、当時の日本の最高指導者にブリーフィングした思い出があります。しかし、「WTOって何の話ですか?」という反応が返ってきて、こちらのほうが驚いてしまいました。
つまり、あっという間にベルリンとジュネーブが綱引きを始めてジュネーブに落ち着いていったということです。ジュネーブに15の国連機関があるために、年間40万人の国連関係者がジュネーブを訪れます。その少なくとも数倍のジャーナリスト、大学の先生、専門家等の人たちが、例えば、ILOやWTOがあるために、また、国際会議やシンクタンクがあるために、しかたなしに、ジュネーブを訪れます。したがって、ジュネーブでは、1泊500ドル以上もするホテルがいつも満杯になっているという状況におかれています。つまり、それが観光立国である1つの基軸なのだということです。そのような惹きつける磁場がなければツアー客をかき集めて、その数を増やしても観光立国にはならないのです。
そこで、例えば、大阪の北ヤードで国際的な人たちを惹きつけるといっていますが、質、量ともに高いレベルを狙わないとダメなのです。何故ならば、情報の磁場が必要だからです。その1つの基本構想がアジア太平洋研究所なのです。
まず、アジア太平洋研究所が何を行なうところかというと、株式会社シンクタンクでもなくて、財団法人シンクタンクでもないタイプのシンクタンクで、日本では殆どないタイプのシンクタンクです。第3のシンクタンクと言ってよいと思います。要するに、中立系で、企業も、個人も、学会も、大学も、行政も、みんなで力を合わせて支えているというタイプのシンクタンクがないのです。つまり、私が「第3のシンクタンク」と申し上げた意味は、日本に中立系の国際情報を発信できる磁場をつくろうということが大きな狙いで、国際的な共同研究、リージョナル・スタディ(Regional Study)=地域研究を中軸にしながらも、共同研究、つまり、アジアの共同の利益になるようなプロジェクトを積み上げていくのです。これは、明らかに共通の利益になるようなプロジェクトを積み上げていくということです。例えば、エネルギーに関する共同備蓄構想や日本の環境技術をより広いアジアにおいて活用していくようなスキームをつくる共同研究等は日本の利害に関わるだけではなくて、アジアの共通利害にもなるために、段階的にそのようなものを積み上げていく流れをつくっていくことが大事なのです。明らかにプラスになるようなものを積み上げていくということにするのが、段階的接近法としては大事なのだということを共同プロジェクト研究においてのヘソです。私はアジア太平洋研究所構想のフィージビリティ・スタディ(Feasibility Study)(註.1)を行なってきて、ここに大きなニーズがあるのだと気がつき始めていることは、例えば、「留学生30万人計画」というものがあって、日本に30万人の留学生を惹きつけようとしていますが、惹きつけて量を増やせばよいというものではなくて、「出口プラン」、つまり、それらの人たちが卒業してその後どのようにするのかという話が重要なのです。
アメリカに何故、中国の留学生の一流の人間が行きたがるのかというと、アメリカという国はその点でとても優れていて、中国人の留学生を企業が雇って、シリンコンバレー等で育てて、自分たちが進出していく中国の先頭を切って走るポジションにつけていきます。日本企業は中国をはじめとするアジアからの留学生に対してそのような視点で向き合っているところは、ないとは言い切れませんが、まだまだ少ないのです。したがって、今後、本当にアジアからの留学生を育てる気持ちがあるならば、出口のところに工夫が必要なのです。
いま、アジア太平洋研所構想の大変な力になってくれているのは、立命館大学の坂本和一先生で、彼は別府につくった立命館アジア太平洋大学の学長を務めたかたです。2千数百人のアジアからの留学生が別府で勉強をしています。それらの人たちが、例えば、日本に残って研究を深めたいという場合に、止まり木として使えるような磁場が必要なのです。そのことを日本企業で働くためのチャンスを拡大する基点にしていくためにも大きく狙っていかなければならないと思います。そのような狙いが共同研究と共に大変に重いのです。それと同時に情報発信、できれば、かつての『論座』や『フォーサイト』、『世界週報』、かつての東洋経済が出版していた『オリエンタル・エコノミスト』等の類の情報発信を英文と日文によって行なっていくようなメディア、月刊誌にするのか、季刊誌にするのかは別にして、発信力があるメディアをこの研究所が握ることが日本にとっても世の中にとっても、大変に意味があることであると思います。
要するに、これから日本が東アジア共同体と言おうが、アジア太平洋に向けて、しかもダイナミズムを取り込んでいくためには、ベースになる情報の基盤がなければ発言などはできないのです。日本で、「堂々とものを申したらよい」という類のことをぶち上げる人がいますが、堂々ともの申そうにも発言する中身を支える情報もないような発言がどれほどのインパクトを与えるのかということをよく考えなければならないのです。
したがって、アジア太平洋研究所構想に総ての思いを込めるわけではないですが、日本の将来にとって非常に重要な装置なのだと思っています。日本の知的セクターの磁場を広げていかなければインテリジェントな職業がこの国からなくなってしまいます。
そのようなことをしっかりと考えていきたいという意味で、皆さんにお話を聞いて頂いたのです。ありがとうございました。

(註1、Feasibility Study。実現の可能性を検証するという意。費用対効果調査。費用便益調査)

第51回

―シンガポール・バーチャル国家論―

寺島>  シンガポール・バーチャル国家論についてですが、いま我々の国家観を立て直さなければならなくなってきています。つまり、かつて、豊かな国、強い国は植民地主義が吹き荒れた時代には「大英帝国は陽が沈む時がない」という表現があったくらいで、世界中に植民地をもって、植民地に於ける資源の産出力によって国家の格が決まるという時代がありました。しかし、産業革命がイギリスで起こり、世界に伝播して、工業生産力モデルという表現があって、工業生産力をもった国が豊かで強い国であるという時代を迎えたのです。日本の通商国家モデルも、工業生産力モデルの変形だと言われています。
 しかし、シンガポールはバーチャル国家モデルという新しい先端的な実験国家だと表現するアメリカの経済学者も出てきています。つまり、資源産出力もない、工業生産力もない、人口もない国で、何があるのかというと、目に見えない財の創出力です。例えば、技術、システム、ソフトウエア、サービス、ロジスティックス等の目に見えないバーチャルな価値に対して先頭を切って生み出す力によって、国家が国家として繁栄する仕組みをつくり上げたところに、シンガポールのシンガポールたる意味があるのです。
 私はグレーターチャイナをもっと柔らかく考えなければならないと考え始めています。つい最近、私はシンガポールを訪れましたが、今年の2月からカジノがオープンし始めていました。実際に私がカジノに行ってみますと、シンガポーリアンから入場料を100ドルとっていて、かなり高額なので、なかなか壁が厚くて、シンガポールの人には抵抗感があるだろうと思います。しかし、外国のパスポートを持っている人は無料で入場できるので、例えば、近隣のマレーシアやインドネシア等、インドネシアにはシンガポールの人口の倍に当る1,000万人の中華系の人がいるわけで、そのような人たちを惹き寄せるのです。
シンガポールのカジノは異様な熱気で、我々がアトランタシティーやラスベガス等で感じるような洗練されたカジノとは違って、少し粗野で引いてしまうような空気がなくもありません。そのような中で、更に、第2カジノが秋に向けてオープンされます。とにかく、シンガポール経済は人を惹きつけることによって活性化しようとしていることがよくわかります。
更に申し上げると、私は香港でANAのアジア戦略室の人たちと議論をして痛感した部分がありました。それは、日本の活性化にとって、「ここが来るな」と思っているところは、シンガポールの先行モデルなのですが、LCC(Low Cost Carrier)=ローコストキャリア、ジャカルタ―シンガポール、クアラルンプール―シンガポール等を繋いでいる安い航空運賃によって人を惹きつける方式のことです。シンガポールの第5ターミナルは、ライオンエアー等のローコストキャリア専門のターミナルとしてオープンしています。私が確認して驚いたことがあって、ジャカルタ―シンガポールが往復4,200円、マレーシア―シンガポールが往復3,000円台だということです。分かり易くいうと、東京―ソウルを往復7,000円~8,000円位で繋ぐフライトというイメージで捉えて頂きたいのですが、要するに、飲まず食わずで、水1杯のサービスもないということですが、現実に、それでも安いほうがよいという人がいるのです。しかも、オペレーションに対してもコストをかけないので支店もなければ営業所もなくて、ネットによって総ての航空券の販売を行なっているのです。日本も観光立国にしようという動きがあって、一生懸命議論されていますが、今後、日本の地方空港や関西国際空港等を考えた時に、このローコストキャリアをどのように持ち込んでくるのかということが凄く重要なキーワードになってくるのです。つまり、人を動かすということです。それでなくてもJALがあのような形になり、ANAも、そのとばっちりを受けて苦しみ抜いている時に、ローコストキャリアが入ってきたのであれば、日本の航空会社は吹っ飛んでしまうのではないのかという感覚があるはずです。そこで、知恵の出し所で、かつて、時計会社のセイコーが、安売り時計との攻勢で苦しみ抜いていた頃、企業が行なう戦略で第2ラインと呼ばれるもので、セイコーの場合は、「アルバ」というコストを下げた時計をつくって立ち向かう方式を採用しました。私は日本のANA、JALがローコストキャリアの航空会社とジョイント・ベンチャーをつくって、サービスを受けたり、飯を食べたい人やテレビを観たいという人は高いお金を払ってもJAL、ANAを使って動けばいいし、そのようなものが必要ない人たちは、数千円のコストで人を動かすというベースをつくっておく、つまり、第2ラインをつくっておくことによってローコストキャリアを上陸させていくような方式もあるだろうと思います。いずれにしても、アジアのダイナミズムを取り込んでいかなければならない状況になっているという意味なのです。
そこで、段々と大中華圏ということで何が言いたいのかという意味が伝わっていると思いますが、確認をして頂きたいことがあって、『世界を知る力』(PHP研究所出版)の81ページを開いていただくとユーラシア大陸の地図が出ています。本を持っていない方は頭の中でイマジネーションを働かせて頂けたら私の言っている意味がわかると思います。これはシンガポールとは何かということの理解を深める上で必要な図なのです。ユーラシア大陸の地図に頭の中でイマジネーションをしてプロットしていってもらいたいのですが、大英帝国イギリスのロンドン、中東の金融センターのドバイ、IT大国化するインドのバンガロール、シンガポール、資源大国として一段と力をつけてきているオーストラリアのシドニー、これらを点でプロットして、線で結ぶと一直線になるというくらい真っ直ぐなことに驚くはずです。これが世に言う「ユニオンジャックの矢」というもので、大英帝国の埋め絵が効いているということです。まず、英語圏であるということ、イギリスの法制度、リーガルを共有していること、更には、イギリスの文化、例えば、サッカー、ラクビー等を含めてスポーツから文化を共有しています。これは後の日本の東アジア共同体の議論にも関わりますが、イギリスは不思議な国でシンガポールから引き、結局、香港からも引いていきました。しかし、引きながら尊敬されています。イギリスの影響力をそのような形では充分に残して引いていって、ユニオンジャックの矢が絵空事ではなくて、いぜんとしてある種の機能を果たしています。ビジネスの世界にいる人なら、このラインが新しいビジネスモデルをエンジニアリングする上において、物凄い意味を持っているということがよくわかると思います。
シンガポールは、ユニオンジャックの矢の中におかれている点と、大中華圏の南端だという点において接点を持つことになるのです。この瞬間に頭の中でスパークして、シンガポールとは何かということがイメージできるはずです。
私はシンガポール観光局の回し者ではありませんが、度々、学生にも「いま、安いコストで海外に行けるのだから、とにかくシンガポールに行ってじっと考えてみなさい。何かが見えてくる」と言っています。この夏にでもシンガポールをご覧になれば、アジアがどのようになってきているのかということが100万回の話を聞くよりも、瞬時に納得ができると思います。
とにかく日本の生業が変わってきているということです。かつて、日本は主にアメリカとの貿易によって飯を食っている国だと言っていれば間違いありませんでした。しかし、それがあっと言う間に変わって、日本は今や、中国を中核とする大中華圏で3割、これは対米貿易の倍以上です。アジアとの貿易で5割、ユーラシア大陸との貿易で74%、つまり、4分の3はユーラシア大陸との貿易によって飯を食う国に変わってしまったということです。冷戦が終わってからの20年間で、大きな構造の転換が起こったということがすぐ分かるはずです。1990年には対米貿易の比重が27.4%で、中国との比重はわずかに3.5%だったのです。これがこの20年間の日本の国際関係を考える時の大きな変化のベースです。
昨年、米国に対する輸出超過は3兆2千億円で、韓国に対する輸出超過は2兆4千億円、台湾は1兆7千億円となっていますが、これは東アジアについて考える時に大変重要な数字なのです。段々と冷静になって考えてみると、「韓国は何故蘇ったのか」という話と、そこの結びつきなのですが、大中華圏で4兆8千億円の日本側の出超で、中国に対しては1兆2千億円の入超なのです。しかし、大中華圏全体で4兆8千億円の輸出超過で、韓国に対して2兆4千億円の輸出超過となり、つまり、ここで7兆2千億円輸出超過になって外貨を稼いで日本は産業を成り立たせていることがわかります。これは米国に対する輸出超過の倍以上となっているのです。
韓国、台湾を動くと、向こう側から見た苛立ちがわかります。例えば、韓国については、日本側からみれば、韓国にしてやられているという先程の認識が受け入れられがちですが、韓国にしてみると、ある種の苛立ち、「何故、韓国は日本に対して2兆4千億円も輸入超過になっているのだ」という構図があり、それは何かというと極めて明解で、中間財だということです。つまり、日本の部品を入れて、それを最終製品に埋め込んで世界に向けて輸出して韓国経済が成り立っている構図だからです。
したがって、別の言い方をすると、中間財の輸出超過によって韓国が活躍して世界に最終プロダクトで稼いでいる構図は、日本にとって大変な恩恵をもたらしているということなのです。
台湾も同様で、台湾に行くとフラストレーションが漂っていて、OEM(註.1)の島のようになっていて、日本のデジカメの大半は台湾でつくっていると考えるとわかります。要するに、日本の部材を入れて最終製品にして世界に輸出している構図になっているために、彼らはある種の苛立ちがあります。先程、中国を中核とする大中華圏という議論を組み立てましたが、日本を中核とする、日本のネットワークということでいうと、韓国、台湾もそのような文脈においては、日本のネットワークの中で動いている産業構造だともいえるのです。そこで、日本人の狭量さと言いますか、心の狭さなのですが、韓国が成功を収めると、嫉妬心や猜疑心の中でムラムラしたり、苛立ったりするという構図が働きがちで、あまり余計なことは申し上げるつもりはありませんが、引いて言うと、先程の大英帝国の話と結びつけながら考えて頂きたいのは、韓国、台湾は、かつて、日本のテリトリーの中にあったのです。これは歴史上の事実として、良い悪いは超えて、ファクトとしてということです。かつて、靖国神社には5万人以上の韓国、台湾籍の人たちも眠っています。変な言い方になりますが、日本の軍人として一緒の戦いの中で死んでいってくれた人たちです。日本人の感覚の中に、そのような感覚がないということが恐ろしいのです。要するに、共鳴心が働いていないということなのです。これから本当に日本の発展、東アジアとの連携等を考える時に、結局、東アジアの繁栄が日本に大きな恩恵をもたらしていて、その中で自分たちも進んでいくという構図が日本の針路として有り得るべき方向なのだという感覚が浮かんでこないとならないわけで、隣の人の成功を妬む構図の中でしかものを考えないような国が発展するわけがないのです。
日本を取り巻く人流の変化として、日本人の出国者、訪日外国人の2009年の数字をみると、日本がいま、いかに大中華圏と韓国からの来訪者によって支えられているのかということを最近、皆さんも実感していると思います。銀座や秋葉原等に殺到してきている近隣の国々の人たちの購買力に支えられている部分があります。これらの人たちの購買力を内需というのか外需というのかと議論することも意味がないというほど、アジアの連携は進化し、その関係も深まっています。やたらに、中華系の人と韓国人が温泉に行っていたり、銀座を動いていたりするのが目立つなあと感じるのが数字の意味なのです。昨年、アメリカから日本にやって来た人たちは7万人減って、ついに70万人になってしまいました。一方、大中華圏からやって来た人たちは263万人で全体が2割近く減っている中で、韓国159万人でした。韓国からの来訪者がウォン安によって前年と比べるとグッと減ったように感じますが、昨年11月から反転してきていて、いま、物凄い勢いで増え始めてきているのです。
したがって、日本にとって、これらの人たちが持つ意味がいかに重いのかということがわかるはずです。それについて、日本人出国者を見ながら触れていきたいと思いますが、月刊誌『世界』(岩波書店出版)の私が書いている連載の中で、日本人出国者1,545万人という構図の中身を分析しています。これは、御存知のようにこの数字はどんどん減ってきていて、その理由に新型インフルエンザの影響や、9・11以降、海外に出ることのストレス等、いろいろとあって、2000年という年に日本の海外出国者がピークで、1,782万人だったのです。しかし、そこからどんどん減って、1,545万人にまで減ってきているというのが現下の日本人出国者なのです。
ここで、少し確認しておきたいことは、アジア太平洋研究所構想に繋がっていく問題意識についてです。皆さんが、どれほどそれを感じておられるか、違和感を感じておられるかどうかわからずに私はお話をしていますが、日本という国は、いま物凄く内向きになっています。内向する日本になっているということです。この1,545万人の海外に出ていった人の内訳を見てみると、約2割が団塊世代よりも上で、定年退職を終えた60歳以上の占める比重が多いのです。次に、若い女性です。若い女性が元気で、中年も含めて、毎週末、韓国のアイドルグループの<東方神起>を追いかけてソウルに行く女性もいて、出国者の数を稼いでいるのは若い女性なのです。同じ若いジェネレーションの中でも、男性の比重が凄く小さく、数字でいうと65対35くらいで女性のほうがアクディヴです。ここで肝心なのは、壮年男性、つまり、働き盛りの男性が世界を見ていないということです。これは日本の特色なのです。見ていたとしても仕事のために出張で行っているのです。経済状態が悪くなると出張が減り、昨年も16%くらい減っています。要するに、会社がお金を出してくれる形での海外出国のチャンスは壮年男性にはあるのですが、経済状態が悪くなるとこの数字がグーンと圧縮します。いま、壮年男性で自分のお金で自分の趣味や目的意識のために海外に出るという人はほとんどいないと言ってもよいくらいなのです。何故なら、そんな暇もないし、お金の余裕もないということで、世界を見ていないのです。実は、このことが日本の空気を物凄く内向きにしている一因です。グローバル化だの、国際化だのと言葉は飛び交うけれども、実際は完全にグローバル化疲れ、国際化疲れに入っているというのが日本の現実だと言ってよいと思います。海外に出て行ってストレスを感じるくらいだったら、国内の温泉に行っていたほうがよいというくらいの空気が漂っているのです。
私が長い間、育てられてきた商社の世界でさえも、現実問題で海外赴任を好まずという人たちが出てきているのです。商社で海外に行かなかったらどうするのだと思います。このようにまるで世の中が変わってきているのです。

(註1、Original Equipment Manufacturer。他者ブランドの製品を製造すること)

第50回

―東アジア共同体への視界―

寺島>  演題は「東アジア共同体への視界」です。いま、日本を取り巻くアジア、そして、世界が一体どうなっているのかということから確認をしていくような議論に踏み込んでみたいと思います。
 まず、いま、日本くらい時代認識が非常にグルーミーと言いますか、悲観論が漂っている国は少ないということが私の印象です。ここのところが国の外と内との大きなギャップなのだというところから話をしていきたいと思います。
 2010年、今年の世界経済見通しについてですが、世界のエコノミストが出している平均的な予測値を毎月出している機関=「コンセンサス・エコノミックス」の予測なので若干の政治的な思惑が出ている数字ではなくて、エコノミストの平均的な予測値だというところに意味があるのです。
 まず、見ていただきたいことは、実質GDP世界全体という部分で、これは地球全体のGDPが昨年マイナス2.2%だったというところから少し考えて頂きたいと思います。
2009年、それまでは今世紀に入って世界経済は異様なほど順調に拡大して、「人類の歴史始まって以来の『高成長の同時化』なのではないのか」という表現がなされていましたが、サブプライム問題が2007年に露呈して、2008年秋にリーマン・ショックが起こって、ついに昨年、地球全体のGDPの実質成長率がマイナスに転ずることになってマイナス2.2%となりました。しかし、この段階で確認しておかなければならないことは2010年に3.1%成長という数字が地球全体のGDPに関する展望として出てきています。この数字は2月の予測値なのですが、1月の時には3.0%だったのです。更に、12月の時には2.9%、11月の時は2.8%でした。つまり、1ヵ月進むごとに0.1%ずつ上方修正されてきているというトレンドは、1年過ぎて振り返る時がきたら、まず間違いなく3%台の実質成長を世界経済は遂げるだろうと認識してよいと思います。
次に、見ておきたいことは2010年、上から下までマイナス成長ゾーンがないと異様な高成長の同時化サイクルに再び戻ったと気がつくはずです。つまり、日本も2年連続マイナス成長を続けていましたが、さすがに世界のエコノミストも今年の日本の経済は昨年のマイナス5.3%よりは、プラスの1.5%くらいの実質成長だろうとみているということです。EUが苦しみ抜いていますが、それでも水面上に出て1.1%です。
問題はアジアですが、昨年、BRICsが2つに割れました。世界の成長エンジンと言われている中国、インド、ブラジル、ロシアが2つに割れて中国8.7%、インド7.0%という数字で好調を持続したことに比べて、ブラジルはマイナス0.2%、ロシアはマイナス7.9%というようにマイナス成長に転じました。
そこで注目したいのはインドネシアで、いま物凄く好調です。昨年、世界経済がマイナスに落ち込んでいたにもかかわらずインドネシアは4.5%のプラス成長だったのです。インドネシアは日本の人口の倍で2億3千万人です。世界最大のイスラム国家という表現もありますが、大中華圏との相関が大きくてインドネシアは1千万人くらいの中華系の人をも抱え込んでいます。それらの人たちはビジネスの世界で大変な力をみせていて、イスラム系の人とのぎくしゃくが10数年前の虐殺暴動のような事件を起こしたりもしているわけです。いずれにせよ、インドネシアが今年は既に6%近い成長軌道を走るだろうと言われています。
OECD(経済協力開発機構)がここのところ言い始めている表現なのですが、「BRICs(ブリックス)という表現は捨てよう。BRIICS(ブリークス)と呼ぼう」というものがあります。これは、間に「I」が1つ入って、この「I」が「インドネシア」の「I」です。つまり、G20にも入ってきたインドネシアなのです。最後の「s」が複数の「s」ではなくて、サウスアフリカの「S」だと言われているくらいで、世界の成長エンジンが多角化してきていることを表現しているのです。
エマージング諸国(註.1)の経済見通しですが、まず、近隣の韓国、台湾についてお話しますと、韓国は凄まじいことになっています。昨年の年初に間違いなくマイナス成長であろうという予測値が出ていたのですが、後半にV字型に回復してきて、結果的にはプラス0.2%、わずかながらもプラス成長ゾーンに出たのです。今年は韓国は5%台の成長を実現するであろうという予測値が出てきています。
台湾も昨年のマイナス2.9%からプラス4.9%で、香港もマイナス3.0%から4.8%にプラス成長軌道になってくるであろうと予測されています。シンガポールも6%近い成長を実現するのではないかとエコノミストの平均的予測値が出てきています。
いま、日本の経済界、および、経産省の産業構造審議会の成長力に関する新しい委員会ができてきて、日本の成長戦略をまとめようという段階に入っています。私もそのメンバーに入っていますが、そこでの「日本は何故韓国に押し負けているのか」ということが議論の論点になってきています。これは韓国が何故V字型回復をしたのかということでもあり、これは本題にも関わることなので踏み込んでおこうと思います。
韓国経済はひっくり返して言うと「底が浅い」とも言えます。ジェットコースターのような軌道を辿ります。1997年にIMFクライシス、アジア通貨危機が起こった時に、韓国経済はドーンと落ちて、そこから半導体等の産業を基軸にしてめきめきと盛り返してきて、またリーマン・ショックによって谷底に落ちて、ジグザク行進のように動いていきました。そして、いま、V字型回復の局面にあると言ってよいと思います。
何故このようなことになるのかというと、まず、財閥経済で極端な構造になっていて、ヒュンダイ、LG、サムスンという3つの世界に冠たるブランドとして認知されている企業を育てています。しかし、この3つの企業の売上高を合計すると韓国GDPの35%になるという極端な構造になっているのです。要するに、3つの会社が浮上すれば韓国も浮上して、3つの会社が沈めば韓国も沈むということで、ある意味においては非常に危うい構造になっているということです。財閥経済は意思決定のスピードも早くて、ガバナンスが効いているために進む方向が定まって進み始めると大きな成果を上げるというものなのです。
いま、日本の産業界が物凄く話題にしていることは、UAEの原子力のプロジェクトで、韓国に敗れてしまったことです。それと、いま、日本の地上デジタル方式が南米の国々で続々と採用されるようになったことです。ブラジルもベネズエラも日本の地デジ方式を採用してくれました。これは日本にしてみれば珍しい話で、グローバル・スタンダードを握るとか、ディファクトスタンダード(註.2)を一歩前に出る等と言い続けている日本にとっては、滅多にないほどの成果だったわけです。しかし、先日、私はワシントンの米州会議に出席して議論をしていたのですが、なるほど、そのような力学なのだなあと思ったことがありました。それは、アメリカも切なくて、御膝元の中南米の反米感情が物凄く強くて、とにかくアメリカの技術だけは採用したくないというベネスエラのチャベスやブラジルのルーラによる漁夫の利が日本の地デジ方式の採用に向かわせているという力学を感じるのです。しかし、これは日本にとっては、めでたし、めでたし、では終わらないために話が複雑で、せっかく名誉としての日本方式を採用して頂いているのに肝心のテレビ受像機は南米で韓国企業に席捲されているのです。
したがって、技術では勝っているのにプロジェクトやビジネスでは後塵を拝す日本に対する焦燥感が、韓国に対する目線になって、いま問題意識を駆り立てています。韓国が財閥経済だということなのですが、何故、韓国がV字型回復をしたのかというところがポイントで、間違いなく言えることは「迷いがない」ということです。つまり、日本の経済人の議論の中で、一番愚かな議論は「内需が大事か、外需が大事か」というもので、韓国に迷いがない理由は、そもそも内需がないからです。人口は日本の半分ですから外需で生きるしかないと腹を括っていて徹底的な外需思考なのです。しかも、ターゲット・オリエンテッドでBRICsの南米ブラジルや中国等の市場に照準を合わせて勝負をかけてきます。
更に、もう一点とてつもなく重要なことは、非常に表現が悪いのですが、悪口を言う人は「コバンザメ経済」という言い方をします。これは、背中に張りついてくるということで、例えば、先端的な技術によって他の国をリードしようとか、グローバル・スタンダードを自らの国のスタンダードとしてリードして確立しようということを考えません。日本の先端的な技術や日本のスタンダード、アメリカのスタンダード等のうち、これだと思うものの背中に張りつくのです。そして、そのスタンダードと先端技術を受け入れて、二番手方式というもので、二番手で張りついてきて、ゴールが近づいた瞬間に刺し返すような、スケートでいうと最後の瞬間に足を出すということです。考えようによっては苛立つというのはわからなくもありませんが、要するに、そのようなことで韓国は思いもかけない勢いでV字型回復になってきているわけです。そのような東アジアの情勢を視界に入れながら、どうしても確認しておきたい話に結びつけていきたいと思います。
昨年、2009年の貿易統計が出てきました。日本の貿易構造に占める比重についてですが、日本がどのような生業の国になってきているのかということを示す重要な数字なので、私はたえずこの数字を確認しながら進んでいます。つまり、昨年の日本の輸出と輸入を足した貿易総額の相手先の比重という意味で、米国との貿易の比重が13.5%まで落ちました。日本経済に関わってきた人ならば、おそらく、「本当なのか」と言いたくなるくらい、この数字が小さくなっていることに驚くと思います。それに比べ中国との貿易比重は20.5%で、中国との貿易が日本の貿易の2割を超えるようになったということです。つまり、いかに、日本が中国との貿易に支えられて景気を回復しようとしているのかという数字があぶり出されてくるのです。大中華圏が30.7%という数字で、私がこれまで何度も触れてきたグレーター・チャイナ=大中華圏との貿易が3割を超しました。
そこで、少し踏み込んでおきたいのは、「グレーター・チャイナとは何か」ということです。私がこの1年間くらいの間に、自分の思考を深め、進化させ、悩みながら様々な人たちと議論をして手応えを感じている論点が大中華圏という切り口なのです。
大中華圏とは、中国を本土単体の中国とだけ考えないという考え方です。中華人民共和国という単体の中国として捉えずに、中国と香港と華僑国家といわれている人口の76%が中華系の人によって占められているシンガポールと台湾を包括する捉え方です。シンガポール、台湾は政治的イデオロギー体制の壁があるけれども、つまり、シンガポールも台湾も反共国家のために、政治的には大きな壁があるということですが、産業的には一段と連携を深めているゾーンだという捉え方がグレーター・チャイナという捉え方なのです。
私が言おうとしている「中国はネットワーク型によって発展を遂げている」という切り口は、誠に正鵠を得ているという反応が返ってきます。これは、どういうことかというと、私が約3ヶ月前に出した新書で、『世界を知る力』(PHP新書出版)が若い人から女性にまで読まれ始めている状況で感じることがあって、何がポイントかというと、それは、ネットワーク型によって世界の状況を考えるという見方に対する反応なのです。
そこで、このように考えて頂けたら段々とわかってくると思います。1989年にベルリンの壁が崩れました。そして、1991年にはソ連が崩壊しました。つまり、社会主義対資本主義の図式であらゆることが議論されていたものが大きく変わり始めたということです。冷戦が終わってから約20年経って、ソ連崩壊後のロシアは今日に至るまで、いろいろな意味において苦しみ抜いています。東欧圏といわれた国々も苦闘しています。しかし、中国だけが天安門事件から20数年、やけにコンスタントに成長軌道を走っていることに違和感を感じる人も多いと思います。何故、中国だけが成功しているのでしょうか。
それをどのように説明するのかというと、まず香港についてです。1997年に香港返還があり、昨年、2009年、中国からの海外渡航者は4,766万人になりました。それに対して、日本の海外渡航者数は1,545万人だったのです。つまり、日本の海外に出ていった人の数の3倍以上も上回るくらいで、中国人が海外に出ていく時代が来たということです。しかし、中身に一歩踏み込むと、その約半分は香港、マカオだと推定されていて、香港、マカオに行った人も海外渡航者に数えているということです。つまり、香港と本土の中国との関係がそのようなものになってきつつあるということなのです。
次に台湾についてです。陳水扁の政権ができて8年間続きました。そして、台湾独立かと言われた時期があって、台湾海峡にさざ波も立ちました。しかし、砲弾は飛び交わなかったのです。それどころか、台湾、香港の資本と技術を中国本土に取り込み始めたのです。台湾人が生産立地のために中国本土に100万人以上が移住して住み始めました。それくらい中国本土の生産力を支える形で台湾企業が動いているのです。要するに、台湾のエネルギーを本土に取り込み始めたということです。中国の大きな支えになっている力はその相関なのです。
加えて、シンガポールです。シンガポールは淡路島の面積もない小さな島です。この存在自体が謎めいています。それは何故かというと、工業生産力もない、人口もない、土地もないために資源産出力もないような国にもかかわらず、1人当たりGDP、購買力平価ベースにおいては、日本を1万ドルも凌駕するような繁栄する国になっているのです。シンガポールのほうが日本よりも上回っているという感覚は日本人にはわからないと思います。何故、どのようにして、シンガポールがこのような状況になったのかというと、まず、「シンガポールは大中華圏の南端として中国の10%成長力をASEAN諸国につなぐ基点になりつつある」という表現があります。つまり、シンガポールが華僑圏の国として、中国の発展エネルギーをASEAN=東南アジア諸国連合につなぐベースキャンプの役割を果たしているということです。更に、「シンガポールは大中華圏の研究開発センターだ」という表現があって、経産省で日本の成長戦略に関する議論が行なわれた際に、「医療ツーリズム」という言葉が重要だということで提起されているという報告が出ていましたが、これは、いわゆるメディカル・ツーリズムで、中国本土から昨年45万人の金持ちになった中国人がシンガポールに行って、検診を受けたり、病院に入院したりしています。何故かというと、シンガポールはバイオの研究に物凄くインセンティブをつけていて、バイオ研究を梃に、医薬品、つまり、薬剤の研究開発を進めているからです。そのために、シンガポールに入院しに行こうと中国から病気になった人を惹きつけているのです。そのことを医療ツーリズムという言い方をされて、医療を梃に人を惹きつける観光であると表現され始めています。

(註1、EMERING諸国。高度経済成長を見込める新興国家群の事)
(註2、De Facto Standard.国際機関が定めたものではなく、結果として「事実上標準化した基準」の事。⇔De Jure Standard)

2010年04月25日

第48回

-普天間混迷が教えてくれたこと-

木村>  今朝のテーマは「普天間混迷が教えてくれたこと」です。この番組では普天間基地の移設問題について寺島さんに何度かお話を伺ってきておりますので、私たちの問題意識としては、いまメディアが伝えている「とにかく5月末までに結論を出さなければならないから時間がないのだ」という論調と、もう1つはキャンプ・シュワブだ、ホワイトビーチだ、徳之島だという、「候補地はどこになるのか」という論調の2つに絞られています。私たちはこのメディアの報道に幾分、違和感を感じながらずっと見てきましたが、寺島さんは「普天間混迷」ついてどのようにご覧になっているのでしょうか。

寺島>  私は普天間基地問題をどれだけ柔かく考え新たな構想力を燃やせるかどうかが日本の将来に関わっていると思います。自ら制限時間付きのジグゾーパズルのようなものにしてしまった政権の愚かさについて日本人として真剣に考え直さなければならないと思います。
そもそも普天間問題は、普天間基地の安全に関わる問題です。2004年8月に沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜ちたという事件が起こりましたが、あまりにも住宅密集地に近いところにこのような基地があって危険であるということが背景になっているのです。仮に、普天間基地の中に現在のまま海兵隊の戦力が留まっていようが、アメリカ側にこの基地を安全にオペレーションする責任があるということは間違いないのですが、「移ってやってもよいから自分たちも納得ができて、満足できる代替案があったのであればもってきて下さい」という懐で、安全を確保するための挙証責任さえ、日本側が背負う形となって、日本があちらへ行き、こちらへ行きとジグゾーパズルをやっているようになってしまいました。本当であればアメリカも一緒になって並走して安全という問題をどのように解決すればよいのかというところで、最後の最後まで責任を共有していなければなりません。しかし、いつのまにか日本側だけが全部背負って走り回っているという変な空気になっているということです。
 この6ヶ月間にわたる迷走劇をじっと見ていて、私は問題の本質で確認できたことがいくつかあります。まず1点目は、「アメリカは本気で日本に基地を持ち続けたい」という気持ちがあるということです。これはどのような意味かというと、いままでは、もし、日本側が基地の縮小や地位協定の改定等についてごちゃごちゃ言ってくるのであれば、我々はいつでも日本から引き揚げてもよいというくらいの恫喝のシナリオとも言えるようなものを効かせていたのですが、政権が代わって、もしかしたら日本側が基地の縮小のようなことを言いだしてくるかもしれないと感じとった瞬間に、米軍がいま日本に存在していることがいかに重要であるかという、世に言う、抑止力論を持ち出し、極東の安全のために、或いは、日本の安全のためには米軍が基地をここに持っているということがいかに大事なことなのかということを、あたかもキャンペーンをするかのように日本側に訴え始めてきました。
そのことによって「なるほど」と思いました。アメリカは日本に基地を置き続けたいのだということが見えています。その判断の後ろには日本側が米軍の駐留コストを7割も負担しているという構図があるわけです。つまり、ほぼ、占領軍の基地のステータスのまま、占有権を持った基地を、受け入れている日本側が7割もコストをもってくれて、基地をもっていられるというのは既得権からいっても、居心地からいっても、こんなによい基地はないわけです。つまり、アメリカの本国に基地を置いておくよりも日本に基地を置いておいたほうがコストを7割ももってくれるので一番安上がりな基地をアメリカとしては展開できるということです。
また、その間、新たな基地のもつ意味も見えてきたように思います。いま第三海兵隊が普天間に駐留していて約70機のヘリコプターをもってオペレーションしているといいますが、実際はおそらく半分以上がアフガニスタンに展開していて、ほとんどもぬけの殻に近いような状態になっていると推定されています。実際に沖縄第三海兵隊の所属の人たちがアフガニスタンに出ていって、かなりの数の戦死者まで出していると言われています。これがどのようなことを意味しているのかというと、沖縄の基地、もっと言うと日本に展開しているアメリカの基地全体が、抑止力のためにと言うけれども、「日本を守るために」とか、或いは、「極東の安全のために」という文脈をとっくに通り越して、「不安定の孤」という表現がありましたが、まさに、アメリカの米軍再編の中で、ユーラシア大陸を睨んだ、つまり、中東から中央アジアまで睨んで、アフガニスタンのオペレーションにも大変に大きな役割を果たしていて、完全に日本の基地がアメリカの戦争に組み込まれているということを、この間より鮮明に示してきたと言ってよいと思います。
しかも、先日、キルギスタンで革命騒ぎが起こりました。キルギスタンの米軍の空軍基地はアフガニスタンのオペレーションにとって大変に重要な意味がありましたが、ここも失いかけています。このようになってくると、今後ますますアメリカにとって、日本における米軍基地が大変に大きな意味をもってきていることは間違いありません。
ここで1点目を整理しておくと、当り前のように聞こえるかもしれませんが、アメリカは本気で日本にこれから先も長期にわたって基地を展開し続けたいのだということが確認できました。
2点目は先程木村さんがおっしゃったメディアの論調にも関わることですが、この間、私が日本のメディアの報道や色々な人との議論を通じて感じていることは日本人国民の中に、「米軍にいて欲しい」と言いますか、「米軍にいてもらわないと不安だ」という気持ちがあるということです。例えば、北朝鮮問題があり、中国が軍事力をつけてきている状況下で、「もしもアメリカがいなくなったら日本が困る」という空気が漂っているのです。つまり、冷戦が終わって20年も経ち、戦争が終わって65年経って、政権も代わってこれから21世紀の日本とアメリカの軍事的な協力関係をしっかり見直して、新たな方向性を求めようという考え方をとるのではなくて、「いままでのままがよいのだ」という考え方で、現状を変えることよりもなんとか穏便に落ち着かせたいというだけの空気が漂っているということです。極端に言うのであれば、新しく出来た日本の政権にアメリカと向き合って、「冷戦後の新しいアジアの秩序のために日米のどのような軍事協力関係が必要なのか正面から向き合え」と言うのではなくて、「何もしないでいままで通りに落ち着かせろ」というような空気が漂っているということを我々は確認したのではないのかと思います。更に、別の言い方をすると、それほどまでに日本人は戦後65年という米軍基地に関する不変の構造の中に浸りきっているということです。
私が盛んに論文で書いてきていることなのですが、「ひとつの独立国に外国の軍隊が駐留し続けているということは不自然なことなのだ」ということさえ不自然とも思わなくなって、「抑止力」という言葉にしがみついて、そのためにはいてくれたほうがよいという空気のほうへ日本人のかなりの部分が傾斜しているということを私はこの間に確認したのではないかと思います。

木村>  それは、ちょっと溜息をつきながら確認したと言わざるを得ませんね。

寺島>  そのようなことを踏まえて、どのような方向へこの話をもっていけばよいのかということになってくるのです。
 この局面で日本人が腹を括るべきことは、まず、普天間問題の解決は、先程申し上げたように、ジグゾーパズルがどこかにはまって決ればそれで一件落着という話ではなくて、21世紀の日本という面で考えたのであれば、戦後というものを終わらせるためにも、日本における基地のあり方の問題を根本的にいま見直して、そして、その見直しの方向をアメリカ側にしっかりと見せて、日米の戦略的対話という仕組みを提案して基地の使用目的や地位協定のあり方等をしっかりと提起する方向づけしていかなければならないということなのです。しかし、まず、いまのような空気を前提にしたのであれば、アメリカも居続けたいと思い、日本人もいままで通りのほうがいいのではないのかと思う人が多いかもしれないという局面の中で、日本が独立国である限り踏み込まなければならない方向は少なくとも何だろうかと私自身も考え始めています。
それは何かというと、日米地位協定においては、理論上3つのタイプの基地が存在することになっています。1つ目は米国が占有権を持って利用している基地で、日本にいま駐留している米軍の大部分の基地はこの性格の基地だと思います。これはほとんど占領軍のままのステータスを確保していて、日本人はアメリカが海外で展開しているほとんどの基地がそのようになっているのだろうと思いがちですが、実はそうではなくて、極めて稀なタイプです。2つ目は米軍が管理権を持っていて、自衛隊が共有しているというステータスの基地です。3つ目は日本側が管理権を持っていて、そこに米軍が駐留しているというタイプの基地、或いは、利用しているというタイプの基地です。具体的に言うと、北富士演習場は米軍が使ったりしていますが、日本側が管理権をもっている基地です。これは世に言う「シンガポール方式」というものです。フィリピンに駐留していた米軍がフィリピンから引き揚げさせられたことがありましたが、その当時、シンガポールのリー・クアンユーは東南アジアに軍事的空白が起こってならないと、まさに抑止力を働かせるために米軍基地があったほうがよいということでシンガポールが受け入れたのです。ただし、管理権はシンガポールが握ったまま渡さずにいて、いまでもシンガポールにそのように米軍が駐留している基地があります。
ここで、問題は抑止力が必要であると双方で思っているのであれば、この3つのタイプの基地のうち段階的に基地のステータスを第3のタイプの基地に近づけていき、少なくとも日本が独立して自立した国民国家であり、自立自尊の精神をもって向かわなければならないのならば、占有権を外国の軍隊に与えているというステータスは不自然であるということに気がついて、いっぺんにではなくてよいから、日本側に管理権をもったタイプの基地に切り替えていくという方向に踏み出すことが、フェイズ1として日米の軍事的な同盟関係を変えていく時の一歩なのではないのかと思います。抑止力をお互いに認識し合っている関係において一歩改善して踏み込むために、この段階の基地に近づけるということは反対のしようがないリアリティーのある話なのです。
今度はフェイズ2として、日本にある米軍基地の施設のそれぞれの使用目的をしっかりテーブルにつけることを考えるべきです。1993年の冷戦が終わった後、ドイツは、自国に駐留している全米軍基地の使用目的を個別にしっかり吟味して優先順位をつけて段階的に縮小していく方向に踏み込みました。そして、基地の地位協定を改定してステータスをドイツが主権をもつ形にもっていったのです。しかし、日本は1990年代にそれを行なわないまま21世紀に入ってしまって、冷戦が終わって20年も経っているのに冷戦を前提としてつくった日米安保の仕組みのままに固まってしまっているのです。したがって、フェイズ2として今度は個別の基地を目的ごとに吟味して段階的に日本から米軍基地を縮小していくプロセスに入っていくことも大いにあってよいと思います。
フェイズ3として何十年かかるかわかりませんが、仮に、どんなに時間がかかろうが、最終的にはアジアの情勢をよく見ながらバランスがとれた形で日本という国に外国の軍隊が駐留している状況をなくしていくのです。これは偏狭なナショナリズムで言っているのではなくて、国家が国家である限り、この意思を失ってはならないということが大変大きなポイントで、国際社会の常識なのです。

木村>  寺島さんのお話に「段階的」という言葉が出てきたという背景について後半でお伺いします。

<後半>

木村>  寺島さんのお話の前半で、3つのフェイズということで段階的に接近するというお話を伺いました。この番組で我々が寺島さんからお話を伺ってきた重要な点は、冷戦から、或いは、冷戦が崩壊して終焉して、これだけの時間が経った時に我々は脅威というものを一体何なのかと考えるのかということです。更に、寺島さんが連載されている月刊『世界』(2010年2月号・岩波書店)の「常識に還る意思と構想」の中で、「自分のおかれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな表情」と書いていらっしゃるのですが、これは我々にあってよいのかという警鐘の部分をいま敢えて3つのフェイズでと言わなければならない背景は一体何なのでしょうか。

寺島>  「核抑止力」という言葉がありますが、よく日本人は溜息をつきながら、そうは言っても日本はアメリカの核の傘によって守ってもらっている国だからというところで、じっと手を見るという空気があるわけです。しかし、3月5日にオバマ大統領自身が「核抑止力という考え方そのものが冷戦の時代の遺物であって、時代遅れだ」と言い始めていました。そのような発想に立って「核なき世界」に向かって、まさに、ワシントンにおいての核サミットのようなものをアメリカが主導して世界を変えていこうとしている時に、日本自身が抑止力という枠組みの中にじっと収まっているのではなくて、一番前に出て核抑止という発想自体に強い問題意識をもって検証しなければならない局面にきているはずなのです。
 事実、核抑止論は冷戦の時代の産物であるということは全くその通りで、要するに、西と東が向き合っていた時に核で先制攻撃をしたのであれば、相手からも核で自分のところに報復攻撃をされるかもしれないという恐れがあったために、お互いに核攻撃を自制すると言いますか、ためらう状況がありました。それによって均衡が成り立つので核の傘にいればむこうが核攻撃をしてこないだろうという理論が核抑止論というものです。
 しかし、核抑止論は相手が正気であるということが前提になければ成り立たない議論です。つまり、相手が先に攻撃してしまったら反撃されてしまうかもしれないという正気があるために攻撃をためらうということです。しかし、例えば、北朝鮮問題や核によるテロ等というものは相手が正気の沙汰ではないから危ない話なのです。そのような狂気の沙汰かもしれない国が核を持つことの危うさとか、テロリストが核を持つかもしれない危うさをどのように制御していかなければならないのかという時に核抑止論というのは原理原則論から言っても成り立たないのです。
 日本が核の傘の中にいれば安全だとか、アメリカが守ってくれていればこの国は安全なのだというところから、本当は頭を柔らかくして自分の主体的努力によって極東の安全をつくり、自分の国をしっかりと守っていくという意思をもたなければならないのです。
アメリカに対して過剰な期待と過剰な依存によって、この国は安全で豊かな国としていられるなどという状況ではないために話は複雑になっているのです。
 そのような状況であるにもかかわらず、先程、「溜息まじりに」という言葉を我々は使っていますが、それでもなおかつアメリカの軍事力に依存して生きていたほうがこの国はよいと、その方が金がかからないと議論する人が日本には多いのです。つまり、この国には軽武装経済国家で日本が自前で防衛することよりも金がかからないためにアメリカに任せた方がよいのだという人さえ白昼堂々いるわけなのです。このような状況であることの現実をしっかり踏まえて、ここは溜息を抑え、先程申し上げた、まず、フェイズ1に向かうのです。「戦略的曖昧さ」という表現がありますが、つまり、抑止論というものは、剥いても、剥いても中身が見えない玉葱のようなもので、本当に抑止力があるのかどうかはわからないけれども、それでも日本には米軍がいたほうがよいと思っている人がそんなに多いのであれば、せめて一歩踏み込んで日本国の国家としての威信にかけても民族としての自律心にかけても、まずは第一歩として少なくとも日本が管理権を持った形の抑止力の方向に一歩近づけましょうという考え方が先程申し上げたフェイズ1なのです。
 現実的に還って、本当は抑止力論の虚構ということにある段階で気がつかなければならないのですが、その前に、それでもなおかつ、そのようなことにしがみつきたいと思っている人が多い現実を踏まえたのであれば、段階的に接近して国民世論をつくって進み出していくしかないということが本日私がお話ししている趣旨です。

第49回

-戦後日本のアジア復帰~バンドン会議とは何だったのか~-

木村>  先週の放送では「普天間混迷が教えてくれたこと」というテーマでお話を伺って随分考えさせられるところがありました。このことについてはもっともっと深めていかなければならないと感じました。
 今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「戦後日本のアジア復帰~バンドン会議とは何だったのか~」です。バンドン会議というのは1955年にインドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議です。この時に、我々は戦後生まれなので歴史として学んだことですが、スカルノ大統領の「新しいアジア・アフリカよ、生まれ出でよ」という開会演説がとても新鮮で鮮烈な印象がありました。寺島さんは何故いまバンドン会議を取り上げて、これについて語ろうと思われたのでしょうか。

寺島>  アジアと位置関係が日本の宿命のテーマと言ってもよいと思いますが、日本はアジアの国でありながらアジアではないというような空気で生きている歴史を背負っています。これはどのような意味なのかというと、明治維新を迎えて誰もがよく知っている福沢諭吉の『脱亜論』がありました。これは1885年(明治18年)に出ているのですが、福沢諭吉は周りの隣国の開明を待って、つまり、混乱している国々の目が覚めるのを待って、共にアジアと歩んでアジアを興すという考え方は手間取るし、そのような猶予はない、と論じました。日本は西洋列強をひたすら学んでアジアに手を煩わされずに、そのようなアジアから脱して生きていこうという考え方です。
 しかし、その同じ頃に樽井藤吉が『大東合邦論』を書いていますが、これはアジア主義の典型的な本で、アジアを1つの国家のように統合していこうという考え方の走りのようなもので、アジアと力を合わせてこの国を生きていくという考え方の中心であるような本が出たのです。このように対照的な論文が2つあったのです。
 要するに、日本の近代史は福沢諭吉の『脱亜論』と樽井藤吉が『大東合邦論』が、糾える縄の如く、バイオリズムのように繰り返されてきたと言ってもよいということです。極端にいうと、西洋、アメリカを含む欧米との関係がまずくなるとアジア還りになるというバイオリズムのようなものを繰り返してきました。日本はアジアの中で最も前に出て近代化を進めるために富国強兵を進めて、この番組でも何度か「親亜」という表現を使いましたが、親しむアジアが「侵亜」=侵すアジアに変わり、日本も遅ればせながら列強の一翼を占めるという形によって、アジアに軍事的な侵攻をするという方向に傾いていき、大東亜共栄圏の夢を追いかけて一敗地にまみれて挫折をしました。大東亜共栄圏の挫折の中から、1945年の敗戦を迎えて、戦後日本は何処へ向かうのかという時期に向き合ったのです。そこで、1945年から、先ほど話題に出た1955年に行なわれたバンドン会議までの10年間が日本の戦後の進路にとって大切な時期だったのです。
 日本は1951年にサンフランシスコ講和条約で日米安保という路線に入っていって、世に言う「吉田外交」でアメリカとの同盟関係を軸にして日本を復活、成功させていく路線に向ったのです。
敗戦後、日本はあの戦争をアメリカへの敗戦と総括したのですが、厳密に言えば、中国とアメリカとの連携に敗戦したということが第二次世界大戦=アジア太平洋戦争の正確な認識であるべきなのです。しかし、日本はアジアに負けたとは一切思わなかった、思いたくなかったのです。日本は、アメリカの物量にねじ伏せられたのだと思い、アメリカのような物量豊かな国に復活しようとして「アメリカとの同盟関係を軸に」という路線を歩もうとしたことも不思議ではなかったとも言えます。
戦後の日本の視界からアジアが消えて、ひたすらアメリカとの同盟を踏み固めて戦後復興、成長するという路線に入っていこうということが1951年のサンフランシスコ講和条約においての日本の選択でした。その時に、この番組でも話したことがありますが、インドがサンフランシスコ講和条約には署名しなかったのです。日本に対しては「あなたたちはわずか6年前までアジアの解放とか、大東亜共栄圏と言っていたのに、もうすっかり忘れてアメリカの一翼を担う形で戦後復興という方向にお進みになるのですか」と言わんばかりのメッセージを発信していたのです。もしも、日本に駐留している米軍が全部引き揚げるならばインドはサンフランシスコ講和条約に署名してもよいという変な条件を出して署名をしなかったのです。翌年、インドは日本との単独講和に応じてくれたのですが、このインドのスタンスが日本のボディに物凄く効いているわけです。
そして、1949年に中国共産革命、中華人民共和国が成立して周恩来とネルーの間に協定が結ばれて中印関係が復活し、アジアに中国とインドの存在感がじわっと高まってきました。先程、木村さんが話題にしましたが、1955年にインドネシアのバンドンに中東からエジプトにかけて我々からすると胸が躍るような戦後世界史の中心に立ったようなリーダーたち、ネルー、周恩来、スカルノといった、まさにヒーローとも呼べるような人たちが一堂に集まりアジア・アフリカ会議が開かれました。アジア・アフリカが当時冷戦構造によって東と西にどんどん分断されていく中で、第三極といいますか、中立主義を保っていこうということを掲げたインド、或いは、アメリカのアジアにおける影響力に対して一線を構えて新たな国づくりを始めていた中国等がそれぞれの思惑の中でアジアに新しい胎動を引き起こさんがために、一堂に介するという会議でしたが、その招待状が日本に届いて、その時に日本はどうしたものかと迷ったのです。この話が過去のものではない不思議な因縁を感ずるのですが、その時の日本の政権は、鳩山政権だったのです。つまり、いまの鳩山由紀夫首相の祖父の鳩山一郎政権だったというわけです。外務大臣は重光葵さんでした。先程、不思議な因縁を感じると申し上げましたが、その時に、鳩山外交が目指したものは前任の吉田外交とは違って、対米自主外交、つまり、アメリカから一定の距離をとって中国、ソ連との国交を回復していこうとすることと、アジアとの関係を重視していこうとする考え方をじわっと示そうとしたのです。しかし、既に日米安保体制の中に組み込まれ、サンフランシスコ講和条約を終えて日本がある路線のもとに歩み出していましたから、バンドン会議に出てよいかどうか、アメリカに了解をとろうとしていました。
最初、アメリカはバンドン会議の開催そのものに反対だったのです。何故ならば中立主義、共産主義等のアメリカに敵対してくるか、アメリカの利害にそぐわないような人々が主導していくようなアジアになってはよくないのということで、バンドン会議そのものに対しては物凄くネガティブな雰囲気で構えていたのです。したがって、日本もそのような会議に出ていって大丈夫なのだろうかということで、アメリカに御伺いを立てたのです。しかし、インドや中国等を牽制するために、アメリカの同盟国である国がバンドン会議に出ていくことによって、インドや中国等が主導していってしまうことを中和する、流れを変えるために日本が出ることをダレス国務長官の判断によって、むしろ、大いに結構なのではないのかという形で後ろから支援するような空気が存在したのです。日本は実に及び腰でしたが、そうは言いながらも日本がアジアに復帰する最初の会議になったわけです。本当であるならば、先程申し上げた、周恩来やネルー等に対応していくためには鳩山首相自身が出ていくべきだったのかもしれません。せめて、重光外相が出ていくべきだったのかもしれないのに、日本が及び腰だったために、後に日中関係において大変活躍しますが、当時の肩書は経済審議庁(経済企画庁の前身)長官であった高碕達之助氏をバンドンに送りました。しかも、物凄く制約を与えて、羽交い締めにして、あまり目立った動きをしないように「おとなしくしていろ」というくらいの指示によって送り出されたのです。
バンドン会議が重要なのは、まず、中国が共産中国になってから初めて国際社会に周恩来が登場してきて存在感を示し始める最初の会議で、世界史的には非常に大きな意味をもっていたからです。1971年に国連で台湾が追放されて、中華人民共和国が中国の正当な政府だという形になるまでには微妙な情勢だったのですが、バンドン会議において、台湾を一切呼ばずに中国の周恩来だけを呼んだというところに大きな踏み込みがあるのです。中国が正面をきって国際会議に登場してきた最初の舞台でした。
日本にとっては、戦争に敗れた後、国際社会に復帰する大きな舞台になりました。冒頭に申し上げたように、日本自身が日本はアジアの国なのか、アジアの国ではないのかわからないような、つまり、御都合主義的にアジアに関わってきていたにも関わらず、アジアは日本を忘れなかったといいますか、少なくともバンドン会議に日本を招き込んでくれたのです。そのことによって日本が極端に言うとアジアに復帰することができて、その後のアジアにある種の経済関係等を確立していくことができる大きなきっかけとなったといいますか、道をつけてくれたような会議だったわけです。
しかも、その時に高碕達之助と周恩来が秘密会議を開きました。これが後の日中国交回復の伏線になっていくという意味合いにおいても、バンドン会議は大きな意味があるといえるのです。更に、私が話してきた文脈の中でおわかりのように単なる過去の思い出話だけではなくて、今日でもこのテーマを引きずっているのだと思います。皮肉にも鳩山政権という流れの中で対米協調を軸にしながらもアジアとの位置関係をどのようにとるのかということに向き合っていて、東アジア共同体という言葉が出てきたりする大きなポイントなのです。
私は先月、インドネシアのジャカルタを訪れてASEANの事務局の人たちとも色々と議論をしてきました。ASEANは、結束を固めて2015年迄にASEAN共同体をつることを目指しています。ASEAN・インドの自由貿易協定が1月に発効しました。ASEAN・中国の自由貿易協定も1月に発効し、つまり、ASEAN=東南アジア諸国連合がどんどん結束を固めつつあるという状況下の中で、日本が東アジア共同体と言おうが言うまいが、まず、東南アジア諸国連合の共同体が出来あがっていくであろうという状況です。アメリカとの関係や先週この番組で議論をしたような日米同盟をどのようにするのかというところを考え込みながら、アジアとの位置関係をどのように重層的に結びつけていくのかということで、極端に言うならば、15年前のバンドン会議の時に日本自身が悩みながら踏み出していった状況から考え直してみても、いま抱え込んでいるテーマと基本的にはそんなに差がないのです。
そのような中で、まさにアジアダイナミズムが噴き上げてくるような時代に、「さて、日本はどのようにしていくのか?」という時に、バンドン会議の歴史をしっかりと調べて考えるということは物凄く参考になると思い、私はいまバンドン会議関係の資料をたくさん集めていて、ひとつ書きあげてやろうと思っています。

木村>  寺島さんがおっしゃるように、いまアジアは世界で経済の成長、発展ということにおいては最もエネルギーに溢れた地域です。そこで、バンドン会議が、戦後日本が戦後のアジアと再会するということを通して、我々がこのアジアで日本がどのように生きていくのかということを考える時に、非常に示唆するものが深いということがわかりました。そして、いま改めてバンドン会議を見つめ直してみたいと思いました。
<後半>

木村>  今週の後半はリスナーの皆さんから頂いたメールを御紹介してお話を進めたいと思います。
 寺島さんがお出しになった『時代との対話』という対論集に対して、プレゼント募集もしまして、「是非私も欲しい」というメールも含めて、たくさんのメールを頂きました。
先ず、東京でお聴きの女性のリスナーの方からでラジオネーム「アンアン」さんからです。「東京の大学に通うため昨年4月長崎から上京しました。前回の放送を聴き、一番心に残ったのは就職についてです。今の時代就職氷河期で、これから先、自分の将来を決めていかなければならない私は自分の未来に漠然とした不安を感じていました。そんな時、このラジオを聴き、『稼ぎのためではなく、自分を高めていける仕事をみつけること』というコメントがとても心に響きました。現在、モラトリアム期で自分の将来について模索中ですが、自分を高めていける天職に出会えるよう充実した大学生活を送っていきたいです」という内容のメールです。
もう1人のリスナーの方のメールも御紹介します。岡山でお聴きのラジオネーム「焼きニンニク」さんからです。
「3月27日放送の中のリスナーからのメールで『就職先が決まらない。景気がよくなったら就職も容易にみつかるのか』という問いかけに対する寺島さんのお話に実に感動、賛同できました。僕はトラックの運転手をしていますが、仕事をしていて配送先のお客から『御苦労様』、『ありがとうございます』と言われるのが一番嬉しい瞬間です。この時世、決して給料も多くなく、なんとか生活している状況ですが、僕がしている仕事が人に感謝されているとわかった時、この仕事をしていてよかったなあと思います」
お2人のメールを読んだ私の感想なのですが、ある意味ではこのように放送を届けている側の我々も心励まされます。

寺島>  私も大変やりがいがあります。盛んにこの番組でも何カ月に渡って話題にしてきた私の書いた本『世界を知る力』が若い人たちに読まれていることを実感する瞬間が多いのです。

木村>  数だけ言うのはよくありませんが、既に20万部に迫っているようですね。

寺島>  要するに、「知」は力なのです。私は御紹介したリスナーの方のようにトラックの運転をしながら生きている人も、学生さんでこれから自分の就職や仕事等を考えようとする人も、やはり、「知る」ということが凄く大事だと思います。知れば知るほど自分がやらなければならないことが見えてくるのです。これが教養であり、知性であって、謙虚な気持ちになって人の意見に耳を傾けながら吸収すると、少しずつだけれども物事が見えてきて、更に、物事と物事の関連性が見えてくるのです。そのような中から自分に相応しい生き方とは何なのかとか、生活を成り立たせなければならないので稼ぎも大事だけれども、努めとして世の中の役に立つ仕事とどのようにバランスをとっていくのか、納得ができるものをどのように手ごたえのあるものに創り出していくのかというところなのだと思います。
 私は教育にも関わってきていますが、この辺りのことで若い人たちが力をつけていって、自分の人生を自分で創造していってくれることを本当に切望しています。

木村>  その意味においても『世界を知る力』は、つまり、世界を知るということは全体をトータルに地球規模によって物事を考えるということと、その力が1つ1つの生活の1コマ1コマを深く考えることになります。これが繋がった大きな力になってくるということがとても大事なところになると思います。

寺島>  本当にその通りです。知ることによって自分がわかってくるのです。

木村>  その意味においては、このようにリスナーの皆さんからメールを頂くと、このように寺島さんのお話を皆さんに届けているという放送の意味を我々も改めて確認することができて、是非とももっともっと多くの皆さんからこのような反響も頂きたいと思います。
 実は、リスナーの方からは他にも「スマートグリッド」や「環境問題」等の内容のメールも頂いているのですがテーマが大きいので改めて、これらを1つのテーマにしてどこかで取り上げて寺島さんにお話を伺いたいと思います。

寺島>  腰を入れて話しましょう。

2010年03月28日

第46回

「日本は、何故韓国に押し負けているのか」

木村>  今朝のテーマは「日本は何故韓国に押し負けているのか~日本再生、ガバナンスの復権~」です。
 先月、イギリスの経済紙の「フィナンシャル・タイムズ」が「韓国はもう弱者ではない」という内容の記事を掲載して話題になりました。日本の経済誌においても「韓国経済のV字型回復が突出して元気がよい」という言葉で語られています。この勢いをいま、寺島さんはどのようにみていらしゃいますか?

寺島>  これはオリンピックのメダルの数をみてもわかるように、韓国はなにやら元気だと誰もが思っていると思います。我々も韓国の経済がリーマン・ショック以降、ズドーンと落ち込んで相当ダメージが深いとみていました。しかし、昨年は日本と同じように実質マイナス成長になるのではないのかとみていたら、意外や意外、後半に物凄い勢いによって盛り返してきて、通期プラス0.2%で、要するに水面上にきたのです。今年は5%くらいの実質成長をするであろうということで、日本がせいぜいプラス1.5%と言っている時に、韓国は際立って元気だという印象があります。
 私がここのところ色々な経済人たちと話をしていると、必ず話題に出てくるのが韓国に押されているという話です。先日話題にもなったUAE、中東のアブダビの原子力発電所のプロジェクトで日本は韓国に負けました。日本の意識としてはフランスと競合しているはずだったのに、なんと韓国に敗れたのです。この原子力の敗北は物凄く日本の経済人にショックを与えました。
一方、南米においては、日本の地上波デジタル方式が続々と採用されています。例えば、ブラジルに加えて昨年の11月にはアメリカに毒づいているベネゼエラのチャベスまでが日本方式を採用しました。グローバル・スタンダードを目指す日本としては、甚だ好調に南米で日本方式が採用されていることはめでたい限りなのです。
 では、何故、日本方式が採用されているのか。私は次世代のICTの総務省のタスクフォースの座長をやっているため、とりわけそのようなことに関心があるのですが、よく調べてみると、私がワシントンに行って中南米関係の人たちと話していて感じるのは、アメリカのお膝元の中南米は反米感情が強く、ブラジルのルーラ大統領にしても「アメリカの技術だけは採用したくない」という空気があり、漁夫の利で日本方式が採用されているのです。
ところが、放送の施設には日本方式が採用されて日本の機械が売れるのですが、肝心のテレビの受像機は韓国のメーカーがブラジルを席捲していっています。まさに、韓国の勢いに押されているわけなのですが、そこで、今回の放送では、それは一体何故なのだろうということを問いかけてみたいと思います。
「ジェットコースター経済」という言い方があって、IMFクライシスが1997年に起こった時に、韓国経済はドーンと落ちました。

木村>  アジアの通貨危機に端を発した時ですね。

寺島>  そして、谷底に落ちたかと思ったら、またスーッと這い上がってきて、そこからまたリーマン・ショックで谷底に落ちて、極端なデコボコ状態になることを「ジェットコースター経済」と呼ぶのです。
これは何故かというと、まず、悪い言い方をすると、非常に経済構造が薄っぺらいということです。韓国経済は財閥経済になっていて、「ヒュンダイ」、「サムソン」、「LG」という3つの財閥グループが象徴的な企業として世界に名前を轟かせているのですが、この3つの企業グループの売上高を足すと韓国経済の35%になるという状況になっています。この3つが好調であると、韓国経済も鰻のぼりで、3つ企業がこけると韓国経済全体がこけるというくらい、ある面では深みがないのですが、この3つがまさに今、蘇っているのです。それは何故かというと、「迷いなき戦略」をとっているからです。いまの日本の経済人がいろいろと議論していることで、ある面においては一番愚かな議論は「内需が大事か、外需が大事か」というものです。「これからは外需に依存してはならない」、「内需だ」、という議論を繰り返しています。一方、韓国はそもそも内需がないといいますか、人口4,800万くらいの国で日本の半分以下で内需といっても知れているために、腹を括って外需に攻めているのです。輸出攻勢をかけて、ターゲットを絞り込んで、世にいうBRICs、特に韓国の場合は中国、ブラジル等に照準を絞るのです。ロシアに行っても韓国企業の攻勢は非常に感じますが、まさにBRICs狙いで迷いなく外需を攻めています。
また、悪口を言う人は「小判鮫商法」という言い方をしますが、ピタっと張り付いて先頭に出ない。つまり、日本のように先端技術によって世界一の技術を確立して勝負をしようとか、グローバル・スタンダードをつくって先行しようというような発想ではなくて、アメリカのスタンダードだとか、日本が開発した先端技術やスタンダード等にピタっと張り付いてきて、二番手の強みというか、戦略的No.2戦略という形で、最後のゴールが近づいた時にスッと差し返すのです。
そのような形の戦略に徹していて、日本人からしてみると、神経を逆撫でにしてくる部分もありますが、ある意味においては鮮やかな部分もあります。
更に言うと、ガバナンスが効いていて、一種の責任体制が明確です。「束ねが効いている」という言い方をしておきますが、例えば、先程申し上げましたが、アブダビで日本は負けたという話は、そもそも中東の産油国で原子力を行なうということは、油が無くなった後のことを考えて原子力発電のようなものに今から手をつけておこうという発想があるわけで、向こうサイドに情報や技術の蓄積があるわけでも何でなくて、つまり、全くわからない状態で待ち構えているということです。それらの人たちに韓国のプレゼンテーションというものは単純明快で責任体制がはっきりとしていて、「フルターン・キー・ベース」(註1)という言い方になりますが、つまり、「俺に任せてくれたのであれば、全部完成までお任せでやってみせますよ」ということです。更に、完成した後60年間オペレーション、つまり、稼働させるものを全部やってあげますという形で胸を叩くので、相手からすると頼りになって、任せやすいのです。
一方、日本サイドは生真面目で優秀な人たちがゾロッと並んで責任分担によって、例えば、リレー方式によってプレゼンテーションしていきました。自分の専門のところをキチンと責任をもって言える範囲で、無責任なことに胸を叩くということは日本人の性格からしても合わないので生真面目に積み上げて「誠実にやってみせますよ」というプレゼンテーションになるわけですが、長いプレゼンテーションになっていまします。そうすると、何も知識がない人たちにとっては、訳がわからないのです。要するに、束ねが効いて胸が叩ける、ガバナンスが効いている状態ではないのです。
韓国の場合はイ・ミョンバク大統領が6回、向こうのトップに電話をかけたということがよく話題になりますが、これが明確な責任体制によって胸を叩ける、束ねが効いている状態なのです。日本は新自由主義によってそれぞれが頑張って効率化を進めていくのならば、きっと良い方向に向かうであろうという発想でやってきました。つまり、バラバラ感なのです。そのバラバラ感を束ねていく方向感が必要です。ファイナンスから、メーカー企業からオペレーションを行なう電力会社まで含めて、一体となって、しかも、政府がバックアップしてやらなければダメだと思います。
それと同じようなことがベトナムの原発受注においても起こっていて、こちらは日本がロシアに敗れました。日本の企業としては非常に切ないのですが、ロシアやフランス等は軍事協力とパッケージにしたりするのです。ベトナムのケースで言われているのは、「ロシアは潜水艦まで供与して原子力のプロジェクトをとっていく」ということです。そのように、軍事協力までパッケージにしていくことができる国とは日本は違うのです。したがって、ファイナンスから、責任遂行体制から完成した後のオペレーションまで、しっかりとしたガバナンスの効いたプロジェクト・エンジニアリングができないとこれからはダメなのだということが大きな教訓としてなってきており、ブラジルの新幹線やこれから出てくるであろうインフラ関係の海外のプロジェクト等に関して、「システム輸出」という言葉が盛んに使われ始めています。つまり、システムとして海外に輸出して展開していくような力を持たなければならないということです。
ここで、もう1つ重要なことを申し上げなければならないことがあります。それは、例えば、中国が日本のGDPを追い抜いていくとか、韓国がやたらと元気で、いま申し上げたような話が聞こえてくると苛立ちと焦燥感もあって、最近の日本人の心理に、「押されている」という雰囲気の中で、なにやら近隣の国に対して不愉快な空気が漂って、日本がとり残されているような空気を醸し出している議論も少なくありません。
 ここで更にもう1つ重要なことを申し上げると、韓国や中国等の発展、或いは台湾の経済的な発展は、腹を大きく括ったのであれば日本にとっても大きなプラスなのだということをしっかりと認識しておかなければなりません。
 それはどういうことかというと、昨年、日本の貿易の輸出と輸入において、韓国に対して日本側が2兆4千億円の輸出超過になっていました。韓国はこのことを大変に問題にしていて、日本から2兆4千億円も物を多く買い過ぎていて、これが韓国経済のひとつの限界だと問題を感じている人たちもいるわけです。
何故そのようになるのかというと、中間財といわれる部品を日本から輸入して、韓国の製品の中に埋め込んで、それを最終製品にして世界に売って外貨を稼いでいるという構造になっているということです。ベースのところでは日本の技術や、先程申し上げたように日本のシステム等に大変に依存しています。つまり、部品を日本から買って製品をつくって売っているということは、日本にとってみるとお得意さんのようなものです。
同じように、台湾においても日本側が1兆7千億円の輸出超過となっています。OEM(註2)にという言葉がありますが、日本側が注文したものを日本の部品によってつくり、例えば、デジタルカメラ等をつくって世界に輸出をするという形になっています。これは日本にしてみると、韓国や台湾だけが繁栄を動かして享受しているのではなくて、つまり、日本とのネットワーク、連携の中で彼らも繁栄していっているのです。
中国に対しては例外的に1兆2千億円、日本の輸入超過ということになります。しかし、考えてみると日本はアメリカに依存して貿易によって飯を食っている国だといわれていましたが、昨年のアメリカに対する輸出超過は3兆2千億円だったのです。韓国と台湾と香港とシンガポールだけで8兆4千億円の日本側の輸出超過となっていました。
分かり易く申し上げると、アジアの繁栄が日本の景気浮揚や繁栄にもつながっているということです。更に、この番組でも話題にしたことがありますが、いまいかに多くの来訪者が韓国や中国等から日本に訪れているのかというと、昨年はウォン安で韓国からの来訪者が大幅に減っていたのですが、11月くらいから急に増えてきていて、160万人くらいでした。また、中国から日本にやって来た人は101万人で、つまり、そのような人たちが、銀座や秋葉原等で日本の需要を喚起してくれている部分もあるわけです。事実、秋葉原の電気街では、中国や韓国等の来訪者が買い支えてくれているような部分もあって、このような需要を内需というのか、外需というのかという議論さえも虚しい話なのです。
そのようにアジア近隣の経済と連携しながら日本経済は浮揚しているということをよく考えなければならないのですが、何か奇妙な被害者意識に駆られて、日本だけがとり残されているというような空気になるのはいささか行き過ぎた議論であり、また、歪んだ議論であって、我々は常にここで話をしてきたように、ネットワーク型の発展の中においてアジアは相互持ちつ持たれつの中で、繁栄に進んでいくのだということを認識しなければなりません。近隣を窮乏化させて、日本だけが繁栄しているという構造よりも、韓国の人たちも繁栄し、中国の人たちも繁栄して、その中で日本が繁栄していくストーリーを描くのだというくらいの腹がないとこの話は終わらないのです。

木村>  そのストーリーについては後半にもう少しお話を続けて伺いたいと思います。
<後半>

木村>  前半のお話で、入口は韓国経済を「ジェットコースター」、ある意味では「V字型」ということで、いま勢いがよくて元気がよいというところから入っていきましたが、その出口は我々がアジアとの連携によってどのように生きていくのかということに対しての認識が深まらないとこの問題はキチンと捉えたことにならないということで、その共存、共栄という道をどのように描くのかという時に、寺島さんがおっしゃっている「ガバナンス」の問題が出ました。日本は一体どのようなものをもって、その時に対応すべきなのでしょうか?

寺島> 技術的にもファイナンス力においても日本が持っているポテンシャルは大変に高いものがあるわけです。それらをどのように有効に使って、ネットワーク型経済の中において日本自身の繁栄を描き出せるのかという、一種の知恵比べのようなものだと言えます。
私は先日から台湾等を動いていて、日本人の感覚に取り戻さなければならないこととはこれなのだなあと感じることがありました。それは、大英帝国の持つ懐の深さです。例えば、我々が気がつかなければならないことは、台湾も朝鮮半島も、つまり、韓国も、かつて、たとえ一時期とはいえ、更にそれらの国々の人たちにとっては大変に迷惑なことだったとはいえ、日本のテリトリーの中にあった地域なのです。つまり、それが良かったとか悪かった等という話ではなくて、かつて、歴史的な事実として日本が治めていた地域だったわけです。
しかし、日本人の中に、かつて、日本のテリトリーだったという感覚を持っている人たちがどれだけいるのだろうかというくらい、突き放したような空気があります。私が先程、「大英帝国」と申し上げた意味は、大英帝国がインドから引き下がり、シンガポールからも引き下がり、香港からもついに1997年に引き下がりましたが、大英帝国の文化が残したもの、敢えてその言葉を慎重に使いたいと思いますが、ある種の敬愛の気持ちを残しながら、かつて、植民地だったところから去っていったのです。したがって、それぞれの地域がいまだに英連邦のスポーツ大会や、単に言語を共有しているということだけではないものによってイギリスという国に対する不思議な空気を持っています。
かつて、日本のテリトリーにあった人たちが日本に対して持っている、距離感というものは一体何なのだろうかということを考えると、私は敢えて申し上げたいことは「国の徳」、と言いますか、「民族の腹の括り方」と言いますか、「格」と言いますか、要するに、木村さんが先程おっしゃった共存、共栄に向けて、かつて日本人だった人たちが住んでいた地域に対する器の大きさ、つまり、力を合わせていくことができる度量なのだと思います。これがこれからの日本に問われてきます。そこには、ネットワーク型の発展を遂げなければならない時代だと言う背景があります。
そのような中にあって、私が台湾に行っても感じますが、日本の技術に対する尊敬の気持ちや信頼の厚さは大変なもので、日本の中小企業と台湾の中小企業の連携等は大きなひとつの流れをつくりつつあります。そのように力を合わせて中国本土の市場に上陸していこうという動きの例がいくつもあります。韓国の例も、先程、私は「小判鮫商法」という言葉を使いましたが、二番手として後ろにくっついてきてというような言い方もできますが、ある意味においては日本の技術に対する信頼があるからこそそのような形の展開になっているわけで、ここはまさに共存、共栄のシナリオをリードしていくことができるよういなガバナンスとリーダーシップが問われています。
したがって、東アジアの連携がこれから物凄く重要になってくる中で、本当に日本に問われていることは、国としての格と徳です。敢えて踏み込んで言うのであれば、昨今、例の「子ども手当」だ、「高校無償化」等の関連で、朝鮮人学校には金を出さいないほうがよいというような類の議論がありますが、ここは話が全く違いますという話で、アメリカをみていても感じますが、アメリカの懐の深さがあって、不法侵入して来ているような人の子供でも、その子供たちに罪は問わないどころか、英語を話せるような子にして教育をしてあげようというくらいのことを国の税金を使って行なっています。日本国のGDPに貢献し、税金を払っているような人たちに対して、敢えて、反日的な空気をつくるような選択をする狭量さ、心の狭さは一体何なのだろうかと思います。これは民族の懐が試されているのだと思います。話の筋が少し違うかもしれませんが、私は朝鮮や台湾等の問題を考える時に、一回腹を括らなければならないところはそのような点にあるのではないかと思います。

木村>  これはとても大事なところにお話がきたと思います。この問題について、またこの番組でもより深めていきたいと思います。

(註1 フルターンキー:設計や製作・組み立て・試運転指導・保証責任までの全てを請け負う方式)
(註2 OEM ORIGINAL EQUIPMENT MANUFACTURER=他社ブランドの製品を製造する事)

第47回

<時代との対話~21世紀初頭を振り返って~>

木村>  先週の放送では「日本は何故、韓国に押し負けているのか~日本再生、ガバナンスの復権~」というテーマ設定でしたが、今後も引き続き深めていくお話だと思いました。我々が自己認識として日本、或いは、日本がアジアの中でどのような存在かということを深めることがとても大事なのだということがわかってきました。
 今週の前半のお話は「寺島実郎が語る歴史観」で、『時代との対話~21世紀初頭を振り返って~』というテーマでお伺いします。寺島さんが3月2日に出版会社のぎょうせいから出された対談集を元にお話をお聞きしたいと思います。
今回は、抽選でこの番組をお聴きになっているリスナーの20名の方々に、『時代との対話』をプレゼントして頂けるということになっておりますので、この後、是非、楽しみに最後までお聞き逃しなく。

寺島>  年末にPHP新書から『世界を知る力』という本を出して、この番組のリスナーの方々のお陰もあって、書いた本人がびっくりするくらい売れていまして、本が売れないこの時代に現在17万部売れています。しかも、今度、いま紹介をして頂いた『時代との対話』の出版会社の「ぎょうせい」は、日本版の「フォーブス」という雑誌を出していた出版社です。その「フォーブス」の中で、私が対談を続けてきたものを主として集めた対談集で、特に21世紀に入って9・11が起こってから時代に混迷が深まる中で、「これは」という人たちを相手に、私が対話をしたものをとりとめたものが『時代と対話』なのです。

木村>  「はじめに」の書き出しで、「時代を生きることは,時代を生きる人間と対話することでもある」という文章から始まります。

寺島>  私は本当にその思いを深めているのですが、まさに、時代を生きている生身の人間としての、しかも、私が心の中で関心を抱いたり、敬愛をできるような人と時代について語ってみるということがいかに刺激的なことかということを私自身も非常に強く感じました。それらの人たちが持っている自分自身、この時代の中で果たすべき役割についての自覚、つまり、自分は何をするためにこの時代を生きているのかということに対する強い問題意識を受けとめながら、私自身も大きな刺激を受けました。
そのような中で、対話の相手だった人たちから共通して感じとったことがあります。例えば、『時代との対話』の本の中に出てくるように、私は加藤周一さん、朝日新聞の船橋洋一さん、姜尚中さん等の対談や、藤原帰一さん、榊原英資さん、堺屋太一さん、国連の明石康さん、緒方貞子さんの対談を含めて、最後の方は建築家の安藤忠雄さん、宇宙飛行士の毛利衛さん、佐藤優さん等の方々との対談を続けました。私は「一点の素心」という言葉が大好きなのですが、これはお祭りの時の「ソイヤ」という掛け声と関係があります。何故、「ソイヤ、ソイヤ」と言って神輿を担いでいるのだろうかと疑問に思い、調べてみると、「そい」というのは「素意」なのです。これは私が先程申し上げた「素心」と同じで、素の心、軸のぶれない心の奥にある、筋道を立てて、心の底にある真心と言いますか、一点の素心なのだと思います。時代がどんなに揺れ動いても、崩れない問題意識や方向感があって、「素心をもっている人」という言い方があるくらいで、まさに、「ソイヤ」もそうなのだと思います。そのようなものを求めて、自分たちは神に対して「素意や」なのです。つまり、「素の心をもっている」ということを掛け声にしているのが、お祭の掛け声というわけです。いずれにしても、私はこれらの人たちとの対話に素心を感じました。
この対談集を読んで頂くとおわかりになると思いますが、この中に私がいまでも一番心に残っていることがあります。それはこの本の一番最初にもってきた加藤周一さんとの対談です。加藤さんは亡くなられてしまいましたが、「知の巨人」と盛んに言われていて、20世紀を代表する日本の知性であったと思います。9・11が起こって、日本がイラク戦争に引き込まれていった時、「日本の知識人や日本のメディア等に関わっていたインテリと呼ばれる人たちの言葉がどんどん軽くなっていき、時代の混迷の中で、まさに、日本が素心の欠けた国になっていっている」という類のことを私が話題にしました。その時に、加藤さんは、「知的活動を先に進める力は単なる知的能力ではない。一種の直感と結び付いた感情的なものだと思います」と語りました。そこで、加藤さんは「戦慄くような怒り」という言葉を使ったと記憶しているのですが、要するに、知識というようなものは時代を生き抜いていく上で、何の役にも立たなくて、時代が抱えている問題や納得がいかない不条理なことに対する感情的に戦慄くような怒りが、もしも失われてしまったのであれば、それはもはや知識人でもなければ、人間でもないという類の空気のことを彼は表現していたということです。

木村>  加藤さんとの対談の冒頭で、寺島さんが生まれた年に加藤さんが論文をお書きになったとありましたが、加藤さんが「あなたは生まれた時にすぐに読んだわけではないでしょ……」とジョークで返していましたね。

寺島>  80何歳の加藤周一さんが、ギョッと私を睨んで「人間には戦慄くような怒りがなかったら知的活動とは言えないのだ」という表現をしました。「いくら頭が良くてもダメなので、目の前で子供を殺されたら怒る能力がなければなりません」と。「或いは、一種の感情を生じないとダメです。もしも、それを平気で見ていられるのであれば、いくら頭が良くてもダメです。情報を集めただけではどうにもならない」という言葉を繰り返していたのですが、加藤周一をして加藤周一にせしめたというのは、この空気なのです。世の中に博識の人はいくらでもいるし、本当に森羅万象に通じたような人もいるかもしれませんが、やはり、我々は目の前にある出来事に対する問題意識を持たなければダメなのです。
私が言いたかったのは、綺麗事の言葉によっていまの日本を「ふるさとは地球村」的な、美しい言葉で納得してしまったり、核の問題に関心のある人が、広島の慰霊碑の話を引いて「二度と過ちは繰り返しません」という言葉に納得してしまったりするのですが、どのように繰り返さないのか、どのようにふるさを地球村にするのかというところの方法論に対する強い問題意識と方向感がなければダメだということです。
 したがって、私は彼が喋ったロジックよりも、彼の身体から溢れだしていたような時代に対する怒りようのような、情念のようなものが伝わってきて、この対談をした時には私は物凄く心に響きました。

木村>  これは寺島さんがお出しになった『世界を知る力』について、前にこの番組でお話を伺った際に「つまり、知識というものは一体何のためなのか」という質問をした時に、たしか寺島さんは「不条理に対する怒り」という言葉を使われたと思いますが、そこに通じるものがあるということですね。

寺島>  それは、ひょっとしたら、私が加藤周一さんからのり移ったように引き継いだものかもしれません。経済学者で『自動車の社会的費用』の筆者でもある宇沢弘文さんと対談をした時もそうですが、私は全ての人と対談をした時に常に心の中に問題意識がありました。それは何かというと、「目の前にいるこの人物は、何故この人物になったのか」、「どのような経験とどのような体験を後ろに背負いながら、このような人物になってきたのか」ということに踏み込みたかったのです。私は宇沢さんとの対談の中で、この世代の人たちが戦争をどのように受けとめたのか、敗戦をどのように受けとめたのかということを聞き出そうとして、宇沢さんに話題を向けた時に、彼が話した言葉を思い出します。「人は人によって育てられるのだ」と思ったことは、戦前の旧制第一高等学校の校長をやっていた安倍能成さんから与えられた影響が大きかったということです。戦争に負けた時に、一高の寮に進駐軍のジープでやって来た、将校たちに安倍さんが対応をしました。将校たちは一高の寮を進駐軍のために接収するというように言い渡しにいたのです。その時に、安倍さんが立ち向かって、「一高はリベラル・アーツのカレッジである。リベラル・アーツは人類がこれまで残してきた遺産を学問でも、芸術でも専門を問わず、ただ、ひたすら吸収して、ひとりの人間としての成長を遂げると同時に、その大切な遺産を次の世代の子供たちに伝えるのだ。聖なる営みをするところなのだ。ここは聖なる場所なのである。占領というような世俗的な目的には使わせない」と言ったのだそうです。彼はそれを見ていて、その瞬間に何かを感じ取ったのだということを私に話してくれたのです。これは凄い話です。そのような状況下になった時に、高校の校長が見せた知性の瞬間に、おそらく、それを見ていた学生たちが感じたものは大きいと思います。私はそのことが物凄く心に響いて、このことによって、安倍能成が宇沢弘文さんを生んだのだと思いました。
 「この人をして、このようにせしめたものがあるのだ」ということがこの対談集の中で、それがいくつもの場に表れ出ていると思います。

木村>  最後のところで、この方との対談だったかと、意表をつくような人で、元外務省で情報の専門家と言われた佐藤優さんでしたね。

寺島>  この人は、まさに、博覧強記な人で、ある意味においては大変に巨大な知性を持った人であるというのが私の印象です。一番共鳴心が働いた部分は、いまの時代に対する、本質的なところにおいての見抜き方です。ポイントは「ポピュリズムの先にはファシズムがある」という捉え方です。つまり、例えば、人気とり的な政策や、大衆受けするような政策、ともすると、拍手がおこりがちな方向に世の中が進んでいったのであれば、ワイマール共和国の中からヒットラーが出てきたように、フランス革命の混濁の中から、みんながポピュリズムに走って自己主張し、多くに期待だけが高まっていくだけの状況の中では、行き着いたところは結局、ナポレオンだったように、「ポピュリズムの先にファシズムが来る予感」が起こるのです。この言葉は対談の最後のところに出てきますが、これは凄く大事なポイントだということです。このあたりのことを抉り取ることができたというこことが佐藤さんとの対談における1つの成果だったのです。また、1人1人の人たちとの対談の中に、確認したこと、確認し得なかったことがあるけれども、やはり、対談というものは、ある緊張感の中で、大変に刺激を受けて時代を感じ取ることができる大きな機会だったと思います。私にしてみると、初めての対談集なのです。非常に意味のある対談集であったと自分でも思っています。

木村>  いまの寺島さんのお話を伺ってみて、「時代との対話」を読む時に、更に深まりというものがあるのではないかと思います。つまり、お二人が非常に和気あいあいのうちに問題を深めていたり、ということがあるけれども、実は、そこに良い意味での精神の緊張感があって、その中で問題が考えられて、深められていくのだと思いました。その緊張感を知ることも「時代との対話」を読む時に我々の大きな刺激となるのではないかと思います。
 
<後半>

木村>  後半ではリスナーの方からのメールを紹介してお話を伺おうと思います。
 先ず、東京でお聴きのラジオネーム「タバター」さんからです。
 「私はこの春、大学を卒業しますが、未だに就職先が決まっていません。世の中不景気というのはよくわかりますが、就職する段階になって初めて実感したというのが本音です。このまま就職できなければ、就職浪人ということになります」という内容のメールで、切実な思いが語られていて、「一体この就職難はいつまで続くのでしょうか?」という問いかけがあります。
 もう1人のリスナーの方のメールも御紹介します。大阪でお聴きのラジオネーム「かずま」さんからです。
 「小学校で教員をしております。寺島さんのお話を聴くにつけて、自分自身がもっと世界のことを知っていかねばならない。もっと視野を広げ、視点を増やしていかねばと感じています。学校教育でこれから何が大事なのか。また、今までやってきたことの中で何を捨て、何を続けていけばいいのか考え、実践する今日です」ということで、学校教育への示唆を頂ければというメールです。

寺島>  お二人の質問の根底にあるものについてお話しします。私は昨年の4月から多摩大学の学長をやっていて、実際に就職戦線に出ていっている学生の話を聞いたり、それをサポートしている職員の人たちの苦闘がよく分かっていて、大変な時代だということを実感しています。
そこで一緒に考えたいと思うことは、ただ会社に正社員として入ることができればそれでことなれりなのかというと、そのようなものではないのです。どんな仕事であれ、ある種の持続的な志をもって自分の人生を設計し、立ち向かっていってもらわなければならないということが強い問題意識としてあるのです。ただ会社に入れればよいというものではありません。会社に入ったとしても大きな流れとして、例えば、人生をかけて立ち向かうことができるような仕事に出くわせるかというと、必ずしもそんな容易な時代ではないわけです。
要するに、このような時代は仕事に対する考え方を考え直さなければならないのです。分かり易くいうと、時間を切り売りして、それでも飯を食わなければならないために、生計を成り立たせる仕事を探しているのか、それとも、人生をかけてその仕事を通じて自分を高めていく仕事を探しているのか、両方が一致しているものを見つけることができるのであればこんな素晴らしい話はないけれども、そう簡単にはいかないということです。
そのような時に、失ってはならないものは志です。本当に自分は何をしたい人間なのかということを分かっていない人のほうが結構多いのです。我々も若い頃に、本当に志をもって自分の職業を選択していったのかというと、そのようなものではなくて、日本人の傾向は就職よりも就社なのです。つまり、昔から自分のJOBを何にするのかというよりも、「○○会社」に入ることが人生の目的のようなことになりかねない状況があったわけです。
そこで、敢えて言うのであれば、私は盛んに「稼ぎと務め」と言い続けています。要するに、生計を成り立たせるために、人生においては、嫌な仕事かもしれないけれども働かなければならないということがあるのです。しかし、そのようなもので、ただ満足をしていてはならないし、納得していてはなりません。務めというものは社会的な貢献や自分を必要としていることや自分を高めることができるような仕事で、そこに立ち向かっていくという問題意識を失ってはならないのです。
したがって、生計を成り立たせながら、なんとか歯を食い縛って自分が本当にやりたいと思う仕事を見つけ出していくという気迫や問題意識を失ってはならないということで、志の部分が問われてくるわけです。
私は就職で苦しんでいる学生たちに申し上げたいことは、例えば、「景気が良くなったのであれば良い仕事がたくさんあるでしょう」などという話ではなくて、自分の人生、自分の能力、自分の気質をしっかりと見つめて、友達、社会の中で自分がどのように思われているのか、何に自分が向いているのか、何をするために生きているのか等ということを若いうちに悩みながら真剣に考えてみることが必要です。残念ながら、そのように時間を割り当てなければならない時期もあるかもしれないけれども、ただただ稼ぎのためだけの仕事に、やがて、この状況を乗り越えてやるぞという問題意識だけは若さを込めて立ち向かってもらわなければ困ります。私はそれが仕事というものだと思います。
とにかく、景気が早く回復してというような話ではないというとこをしっかりと考えて自分の仕事を通じて世の中を良くし、国を高め、そのような仕事に自分は立ち向かっていくのだという志を失ってはならないのです。私はここが重要なポイントだと思っています。

2010年02月28日

第44回

<世界を知る力―余談 発売後の余波―>


木村>  寺島さんが昨年12月にPHP新書からお出しになった『世界を知る力』がいま大変話題になっているということを取り上げて、今朝のテーマは「世界を知る力―余談発売後の余波―」です。
 寺島さんにとってはおそらくこれまであまり馴染みのないイベントかと思いますが、この本において、サイン会が大きな書店では催されて、ある意味においては生の形で読者と接するということになったと思います。そのことを通じて、いまどのように感じられていますでしょうか。

寺島>  私自身、手ごたえがありました。元々、この本は若い人に「いま自分は世界をどのように見ているのか」、また、見るだけではなくて「どのようにすべきなのか」ということを語りかけるために、私にとっては初めての試みなのですが、語り言葉で書きました。
 今までのように講演会というよりもサイン会という形にしたことで少し熱い思いにもなりました。普通に語りかけるように話をしてみましたし、読者カードや手紙を下さる人たちの反応を見ていてこの本には意味があったと思います。よく「目からウロコでした」という表現によってレスポンスが返ってきます。いままで我々が、特に、社会科学等を学んできた人間が、いつの間にか陥りがちな世界に対する見方は、日本人が冷戦型の世界観を持ち続けているということです。それは一種の地政学的見方というもので、言わば、東と西が角を突き合わせてKGB対CIAの戦いのような、または、「007」、「ゴルゴ13」等のようなイメージで世界を見ているとだんだんものが見えなくなってきてしまうのです。世界がネットワ-ク型によって動いているということを色々な事例で語ったことがこの本だったわけです。
1つのポイントが「大中華圏」です。中国を中国本土の中華人民共和国としてだけで捉えずに、中国と香港とシンガポールと台湾といういわゆる華僑圏の海の中国と、本土の陸の中国との相関のネットワークの中で捉えると、どのように世界が見えてくるのかということをこの本の中で語ろうとしたのです。

木村>  「華人ネットワーク」という言葉でも語られていましたね。

寺島>  私はそこを大中華圏という言葉によって表現して見せました。
 そこで、私がここのところ1カ月の間に体験してきたことを皆さんにお話することによって、よりネットワーク型で世界を考えるということの意味がわかって貰えるのではないのかと思っていて、そのような話題について触れてみます。
 先日、私は台湾と香港と駆け抜けてきて、ちょうど旧正月の時とぶつかりました。物凄く中華系の人たちが動いているのだなあと実感しました。そこで、今日のボトムラインで大事に踏まえたい数字があります。それは、昨年、中国人の海外渡航者、つまり、中国から外に訪ねた人の数がついに5,000万人を超したということです。それに対して、日本人が海外に出国した人は1,545万人なので3倍を大きく超えるような人が中国から外に出ていくようになったというわけです。実は、その内の約半分くらいが香港、マカオだと言われているので、実際にそれ以外のところに出ていった人たちは2,500、600万人くらいというイメージになりますが、それでも、日本において海外に出ていった1,500万人よりも1,000万人以上多いということになります。
 私が台湾で講演をしていた時に、ある質問者から「日本人はその覚悟がありますか?」と質問を受けてドキッとなりました。これはどういうことかというと、5年くらいの間に中国人が海外に出ていく渡航者が約1億人になると推定されていて、その内の10%が日本に来ると言われています。つまり、観光立国日本を目指す日本が、中国からの旅行者を海外出国者の10%=1,000万人を惹きつけようとしているからなのです。もし、日本に中国の観光客が1,000万人来るようになったのならば、昨年、中国の人が日本にやって来た数は101万人だったものが10倍になるということになります。しかも、昨年、日本にやって来た外国人の数字が出てきましたが、1番多かったのは韓国人で159万人でした。しかし、これはウォンの貨幣の価値が弱くなっていて、ウォンが安くなって日本にやって来ることが大変苦しくなっていたためで、前年と比べると33.4%減ってしまいました。それでも1位は韓国からの渡航者だったのです。
 日本に昨年やって来た外国人の第2位は台湾で、102万人でした。つまり、中国の101万人がほぼ肩を並べてきたということになります。中国から日本に来るためには、まだビザの規制等があって、段階的には緩和はされてきていますが、それなりの規制があって、来日する中国人の数はおさえられています。にもかかわらず、101万人だったのです。もし、ビザ規制が緩和されて、全く自由になったのであれば、本当に1,000万人の中国人が日本に渡航することになるでしょう。それプラス、台湾、香港、シンガポール等の人たちがやって来ることになると、先程の「覚悟があるのか?」という意味は、数字の上では1,000万人を超す中国及び中華系の人たちが日本を訪れてくれて、めでたし、めでたしと聞こえるかもしれないけれども、非常にネガティブな見方をする人からすると、観光はそれを支える基盤がないと大変な混乱が生じて、観光地においての治安等の様々な問題が想定されるということです。
 マナー等の問題も含めて様々な悩ましい問題があります。ここで、もう一度整理をしてお話をすると、大中華圏と中国本土と台湾と香港とシンガポール、つまり、中華系の人によって1つの磁場が形成されている地域、その相関の中において発展が展開されている地域から昨年263万人の人が日本にやって来ました。そして、韓国からやって来た人が159万人です。観光立国日本は結構だけれども、これらの人たちが、その方向にバーンと向かっていくと、日本という国のあり方そのものが問われなければならないような様々な問題が起こる可能性があり、実はそれは既に目の前にきているのです。
 いま、銀座に行っても、秋葉原に行っても、地方の温泉に行っても、旧正月組の中華系の人たちで溢れかえっています。ある意味においてはこれが日本の需要、消費を支えてくれているとも言えます。
 それが既に事実になってきているわけです。そのようなポジティブな日本を支えてくれているという現実と、それを迎えて更に発展させて、日本に対してよりよい印象をもって帰っていく観光客となっていく流れをつくることの間には、まだまだ大きな壁が横たわっているという部分があります。
 いずれにせよ、中国と香港とシンガポールと台湾と一口に言っても、イデオロギー体制も異なっている別々の国で、シンガポールも台湾も反共国家で本土の中国に対しては壁があって、そこの相関が非常に見えにくいけれども、現実の人の動きやものの動きや資本の動き等において、この一群のグレーターチャイナ=大中華圏の相関関係が深まっているために、やたらにダイナミズムが中国を中心にして吹き荒れているように我々が感じられるという真っ只中にあります。
 そこで、もう1つの話題として触れておきたいことがあります。それは、東京に駐在しているシンガポールの大使が私のところに訪ねてきてくれたことです。私の中国という存在を単に本土の中国が、今年GDPで日本を追い抜いていくという視点を超えて、香港問題をうまくマネージメントして、台湾のエネルギーを本土に取り込んで発展しているという見方が非常に興味深いというところから色々と彼と議論をしていったのです。
 私はシンガポール大使の目線が非常に参考にもなりましたし、あらためて私が言うところの「ネットワーク型によってアジアを見る」ということの意味を彼がうまくフォローしてくれたという感じがしました。私は「シンガポールという国は、淡路島の面積もない小さな国で工業生産力もなくて人口も少なくて、はたまた資源もない。しかし、このような国が世界に冠たる経済国家になって、日本の1人当たりGDPを凌駕しようかというくらいの国になっています」と申し上げました。その理由はというと、シンガポールは目に見えない財を創出しているからなのです。つまり、技術、サービス、システム、ソフトウエア等の目に見えない財をつくることによって国家が国家として繁栄する時代がきているということです。これがバーチャル国家というものの見方であると私の本で強調したわけです。ここのあたりに共鳴していて、しかも、シンガポールの存在が右に本土の中国の湧きかえる様なエネルギーをASEAN、東南アジアに繋ぐ基点になるという役割を果たして、左にインドを睨んで、インドのエネルギー、人口の8%くらいが印僑というインド系の人によって占められているのがシンガポールの特色でもあります。しかも、本の中にユーラシア大陸の図が書いてあって、イギリスのロンドンと中東の金融センターのドバイと、IT大国のインドのシンボルともいえるバンガロールと、シンガポールと、オーストラリアのシドニーを線で結ぶと一直線になるという「ユニオンジャックの矢」の議論をしています。英語圏であり、イギリスの法制度を共有して、イギリスの文化も共有しているという連携軸が物凄く意味があるのだという話をしています。私はそれと中国との相関がシンガポールをして世界に冠たる経済国家にしている大きな要素だということを書いています。
 それについて、シンガポール大使が言った言葉が面白かったのですが、「寺島さん、そもそもシンガポールは大英帝国がインドと中国との貿易の基点としてつくった町だったのです。当然のことながら、歴史的に中国とインドを結びつけて生きてきました。それがDNAのようなものです。したがって、大英帝国がある時にはアヘンをインドから中国に送り込み、それを返す刀で買ってきた中国の産品をまたロンドンに持っていくための中継基点だったわけです。別の言い方をすると、実はその埋め込み装置がいまでも生きているということです。いまでもそのままワークしているのが、あなたのおっしゃる『ユニオンジャックの矢』なのではないでしょうか」という話をしました。この話は面白いというか、その通りだと思いました。
 この段階で私が申し上げておきたいことは、実は中国の台頭を解く謎は、中国とグレーターチャイナの相関が中国をして安定的成長軌道を走らせているという説明は極めて説得力があり、その通りであるという反応が台湾の人たちの議論の中からも湧き上がってきていて、シンガポールのそのような人たちと話をしていても同じで、本土の中国の人たちも自分たちが20年前の天安門事件以降20年間、香港返還や、台湾の独立問題という時期を経て、ギリギリ、香港、台湾のエネルギーを取り込んで中国という存在が世界に向けて躍動しているという見方は、「ああ、その通りなのだなあ」と感じるように、逆に、彼らも目からウロコであったと思います。よくわからなくない、説得力があると感じるわけです。
 したがって、この本が1つの刺激剤となって、私が台湾に行って講演しました。昨年の北京大学の講演あたりが1つの閃きとなってこの本をまとめるための背景になっているわけですが、このように、まさに、大中華圏の人たちによって、この本が1つの素材となって、メルティング・ポット(=melting pot)という言い方がありますが、ちょうどチョコレートがポットの中で溶けていっているように、グレーターチャイナという議論がだんだんと成熟してきて、色々な示唆を受けて面白いと思いました。
 更に申し上げると、私が知らなかったことで、本土の中国がもつ脅威に対して微妙な心理をシンガポールも台湾も持っているということがありました。私は全く知らなかったのですが、1971年に本土の中国が国連においての代表権を取って、台湾が追放されて国際社会の中で立場が逆転してしまいました。その時にアメリカが台湾を切り捨てて出ていった時に、残された基地にシンガポールの軍隊がやって来て、訓練をしていました。シンガポールの若者は必ず一度は台湾に行ったことがあります。それは何故かというと、必ずシンガポールから台湾に行って訓練を受けているからなのです。私はその説明を受けて、あらためて不思議な感慨を覚えました。

木村>  驚きの話もありましたが、もう少しこのお話について後半で深めたいと思います。

<後半>

木村>  寺島さんはこの本の「異国に乗り込んだ『場違いな青年』」という項目で、「情報は教養の道具ではない」という非常に興味深いイスラエルのシロア研究所の体験を踏まえながら、つまり、世界を見るということはどのような意味のあることなのかということを最後に述べていらっしゃいます。

寺島>  たしかに、「世界を知る力」というと、何か世界に目を見開いて教養を高めましょうというようなイメージのタイトルに捉えられがちですが、私は教養を高めるために世界認識を深めましょうということを言っているのではなくて、極端にいうのであれば、世界が抱える課題や不条理等に対する怒りや問題意識をもって、それらの解決ために向き合っていく力でなければ世界を知る必要さえないかもしれないというくらいの気持ちでいます。
 そこでまさに、私が自分で見てきたものが何だったのだろうかということを問題意識の中に据えていますから、溢れ返る世界における貧困や差別、様々な不条理等に対して、世界を議論しなければならないというように思っていて、安楽椅子に座って「時にこれから世界はどうなりますか?」等とコーヒーを飲みながら議論をしている話ではないのです。
要するに、そのような中で、自分にとってこれだけは許せない、或いは、これは自分も背負っていかなければならない問題だということをどのように感じ取るのかということが物凄く重要だということです。
私が中東において、特にイスラエルで目撃したこと等は、民族、宗教が複雑に入り乱れている地域に大国が関わって、いかにその地域を血まみれにし、不条理なものにしてしまったのだろうかということに対する怒り、日本がこの地域に関わるべきスタンスはどうなのだろうかというように、自分のこの地域に対する見方はどのようにあるべきなのかということにまで跳ね返ってきます。これは、なにも中東だけではなくてアジアにおいてもいえることです。更に、日本の歴史そのものも様々な意味において、日本自身が不条理な存在であると世界から見られていた時期もあります。そのようなものを超えてつくってきた戦後というものは一体何だったのかということを考え直さなければなりません。
私は今回特に台湾に滞在していた時にその思いがしましたが、おそらく我々はその感覚を失ってしまったのだと感じたことは、台湾と韓国はかつて歴史の事実として、それが良いとか悪いとかという意味で申し上げるのではなくて、いまから65年前まで、ある期間日本のテリトリーでした。そして、これらの国の人たちは日本人として生きた時代があって、兵隊にまで徴兵されて、極端にいうと、日本人として戦ったといってもよい時期がありました。少なくともこの近隣地域の問題を考える時に、複雑な思いを込めて、かつてこの地域は日本が日本のテリトリーとしていた時代があったということを忘れてはならないと思います。それは、いわゆる覇権主義的な意味ではなくて、先程、大中華圏と申し上げましたが、大中華圏はイメージとして、中国が支配力を強めている地域ではなくて、ネットワークの中にあるのです。日本が韓国や台湾問題に関して日本の政治的な意図で何かができるような時代ではなくて、勿論、領土的野心などというものを一欠けらも持ってよい時代ではないけれども、かつて、植民地主義が吹き荒れた時代の中で日本自身もそのような地域を大きく巻き込んだ、政治的な展開をしていた時期がありました。そのことによって、過去の思い出話ではなくて、今現在も台湾や韓国でそのことを背負って、悶々として生きている人たちにも現実に出会うことがあるのです。しかも、台湾と韓国の温度差があって、台湾は比較的に日本が統治をしていましたが、韓国がそうではなかったという言い方をする人もいますし、統治していた期間の問題もあります。しかし、たしかに、韓国は日本に対して深いわだかまりを共有しながら、例えば、日本の企業が韓国の企業とジョイントを組んで、戦略的提携をしてうまくいっているというケースは滅多にありません。一方、台湾はどちらかというと日本にとっては戦略的パートナーとして、一緒に手を携えてジョイント・プロジェクトをもって中国に乗り込んで成功しているというケースが多いのです。
そのような意味において、覇権主義的な発想とは一切違う意味で日本もネットワーク型によって日本の次なる展開を考えていかなければならないと思います。私は、このあたりが「世界を知る力」の次の問題意識であるという気持ちでいるのです。

木村>  このことを通して、ものの見方、世界の見方において、我々がどのようにあるべきか、ということを共に考えようではないかということですね。
 寺島さんのお話を伺って、若い世代の人も含め、これだけ多くの読者がこの『世界を知る力』を手にしているということをふまえると、これから日本に色々な期待、希望というものを持てるという思いも感じました。

第45回

<水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い>

木村>  先週の放送では、「世界を知る力余談―発売後の余波―」というテーマでお話を伺いました。
 今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」をお送りします。テーマは「水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い」で、水上達三さんという方が登場人物となります。

寺島>  私はこのコーナーでは歴史というところで、私にとって存在感が重いというだけではなくて「一体それは誰だ?」と皆さんが思うような人を取り上げていきたいと思っています。
私は1973年の石油危機の年に三井物産に入社しました。大学院を卒業してからなので普通の人よりも遅れて社会参加をした形となり、私は三井物産という会社に育てられてきたという部分もあるわけです。
 そのような中で、戦後の三井物産のまさにキーパーソンが水上達三だったのです。どのような人であったかというと、戦後の三井財閥の中核企業でもあった三井物産は1947年、戦争が終わって2年後の7月にGHQ、つまり、マッカーサーの総司令部によって解散命令を受けました。世に言う財閥解体です。これは私が生まれる前の月に起こったのです。その月に三井物産という戦前の三井財閥の中核であった企業は解散させられたのです。これは、ある面においては進駐軍の狙いだったとも言えます。日本の経済力の1つの中核で、しかも、これからの日本を考えたのであれば、これを潰しておかなければならないということと、経済民主化ということもあって、世界の歴史で1つの民間企業が受けた途方もなく例がないほどの苛酷な解散命令だったと言われていました。一私企業が進駐軍によって「おまえたちは解散だ」と。これは旧三井物産で部長以上だった人が2人以上で新しい会社をつくってはならないとか、商号を使ってはならないとか、旧三井物産の従業員が100人以上で新しい会社を組織してはならない、資本金20万円以上の新会社の設立をしてはならないという厳しいものだったのです。つまり、大きな会社はつくってはならなくて、二百何十の小さな会社が雨後の筍のように、色々な部門ごとに旧三井物産ということでつくられました。
その時に、旧三井物産の物資部の部長代理にすぎなかった43歳の水上達三が資本金195,000円でつくった会社が「第一物産」だったのです。当時43歳だった水上達三が、まさに、荒野にレールを敷く思いで、まったくあてどない荒野に出たようなものです。突然、会社が解散となり、「おまえたちで生きていけ」ということで、仲間と一緒に小さな商社をつくってなんとか生き延びようとしたのです。
水上さんが会社の名前を何故「第一物産」としたのかというと、「天下第一物産という意味でつけた」ということで、やがて、三井物産が統合になった時の中核会社に自分たちがなってやろうというくらいの気迫と大きな構想があったと言えると思います。その後、1959年から12年後に三井物産大合同をしていくのですが、水上さんがつくった会社がスタートを切った小さな会社の中で、結局、頭角をあらわしていき、中核会社となっていったわけで、水上さんの見識や指導力が大変なものであったと分かります。
私が三井物産に入社した時には、水上さんは相談役にひいていたのですが、新入社員だった私と意外なほど縁がありました。私は調査部という部署に入っていて、水上さんのものの見方や考え方に触れる機会がありました。当時、水上さんから「1週間後までに調べてくれ」と依頼されて、私が書類を持っていくと、水上さんは鋭い人でマクロの経済統計とミクロのビジネスの動きを結び合わせながら物凄く的確で鋭いコメントが返ってきたことを思い出します。
1973年に入社した私に水上さんが「日本の輸出が1日1億ドルを超したよ、君」と言われた言葉をいまでも覚えています。つまり、日本が年間365億ドル=1日1億ドルの輸出ができる国になったということが、彼にとって物凄く感慨深かったのだと思います。それはどのような意味かというと、戦後の日本において1970年代まで売る物がないために買う物も買えない状況で、日本が海外に輸出するようなものがないために外貨を稼ぐことができなかったのです。そのような時代、つまり、終戦後という時代に日本人は物凄く歯を食いしばって頑張ったわけなのです。
例えば、ニューヨーク駐在の商社マンといったら格好よくみえると思いますが、その頃の日本の貿易の前線を支えた商社マンたちは何をしていたかというと、「三条燕の洋食器」(註.1)の見本とクリスマス・ツリーのランプの見本を大きなボストンバッグの中に入れて、けんもほろろの応対を受けながら売り歩いていたのです。
私がニューヨーク、ワシントンに勤務していた頃、先輩たちが訪ねて来て、私たちに「おまえたちは生意気でダメになったなあ」と厭味を言ったものです。それは何故かというと、彼らの感覚からすると、クリスマス・ツリーのランプの見本をけんもほろろの応対を受けながら売って歩かなければならなかった時代は、駐在員としてせめて駐在している間に少しはお金が貯まって、例えば、「ゴルフセットを1セット持って帰れたらいいなあ」ということが夢だったわけです。そのような思いをして輸出をしないと外貨を稼ぐことができなかったのです。外貨を持っていないと買いたい物が買えない、例えば、食糧や資源等が買えないというようなことを経済論的に「国際収支の天井」という言い方があって、国際収支の天井が張り付いているために、その天井よりも高いものは買えないのということです。
そのような時代がどんどん続いて日本経済が輸入超過という状態を出した年が1965年で、安定的な輸出超過を実現したのは1973年と1979年の2度の石油危機を経た、1981年からなのです。つまり、この30年間くらいの間ということです。日本人はいまや、自動車産業をはじめとする隆々たる輸出産業が育って、外貨を稼ぐことができることが当り前のことのように思っていますが、そのような産業群があったからこそ、海外から食糧を買ったり、資源を買ったりして今日の日本を築いていったわけです。
分かり易くいうと、先程申し上げたように、水上達三さんたちは荒野にレールを敷く思いで、クリスマス・ツリーのランプと三条燕の洋食器を売りながら日本の戦後の産業の創生を支えた人たちということです。
その後、私は水上達三さんについて調べて感慨深いことがありました。まず1つは人間山脈であるということで、人間はひとりでは育たないということです。水上さんは山梨県の甲府中学校の出身者で、中学の先輩の影響を大変に受けたそうです。彼が尊敬してやまなかった人物は東洋経済の石橋湛山で、戦後、首相にまでなりました。水上さんは石橋湛山主宰の勉強会にいつも参加をしていました。
 石橋湛山は甲府中学校の伝統としてクラーク博士の影響を物凄く受けた人物です。それは何故かというと、これは話がややこしくなりますが、私の故郷北海道で、クラーク博士というと札幌農学校で現在の北海道大学です。クラーク博士が日本にやって来て、実はクラーク博士は8カ月しか日本にいませんでした。つまり、第1期生だけしか教壇に立っていないということになります。第2期生の人たち、その中には内村鑑三もいますが、実際はクラーク博士の顔も見たことがなかったのです。しかし、先輩たちが「クラーク博士という人が昨年まで教壇に立っていて彼はこんなに情熱がある素晴らしい人だった」と、あの有名な「Boys Be Ambitious」の世界を語り継いでいって大きな影響を与えているということです。
 クラーク博士に直接薫陶を受けた1期生のひとりで大島正健(註.2)という人がいました。この人がその後に甲府中学校の校長となって赴任していくのです。大島正健の影響をもろに受けたのが先程からお話ししている水上達三だったわけです。
 水上さんが影響を受けた石橋湛山は自分の「湛山回想」という本の中で、「自分の意識の底に常に宗教家的、教育家的な志望が潜んでいたことは明らかであり、私は大島校長を通じてクラーク博士のことを知り、これだと強く感じたのである。つまり、私もクラーク博士になりたいと思ったのだ。私はいまでも書斎にクラーク博士の写真を掲げている」と書いてあります。ここのポイントは何かというと、クラーク博士がアメリカからやって来て撒いた種のようなものが大島正健という校長を通じて石橋湛山に繋がり、石橋湛山を尊敬してやまなかった水上達三が戦後日本の貿易を支えて頑張って戦ったのです。私はこれがまさに、人間山脈であると言いたいわけです。人間の影響が脈々と伝わっていくもので、小さな1粒の種がそのように大きな影響を与えて、戦後の日本の貿易の戦線を支えていく人になっていったと言ってよいと思います。
水上さんは不思議な存在感があって「このおじいさんがそんなにこの会社の偉大な先輩なのか」というくらいの若干、距離感、違和感等を感じながら、当時、若造としての私は見ていました。しかし、ただ者ではないという空気を漂わせて、まさに、先程申し上げたように、情報に対する異常な感度を持っていたのです。
 そこで、水上さんの人生を調べてみると、面白いことがあって、水上さんは一橋大学、当時の東京商科大学を卒業していて、入社した途端に6年間も群馬県の高崎出張所に追いやられてしまいました。本社勤務どころか、高崎出張所の所員として6年間も働くことになって、普通の人間であれば腐ってしまうと思うのですが、不思議なことに彼はその6年間が自分にとって物凄くプラスになったと言っていました。もしも、本社に勤務していたとしたら、そんな新入社員の若造等には回ってこないような書類が、出張所が小さいために回って来ていて、会社が全部わかるということです。その時に彼は色々なビジネスのことを考えたりするために物凄く勉強になったそうです。
 更に申し上げると、水上さんは終戦を北京の支店長代理のような形によって北京で迎えました。そして、そこから1年半くらいの間、中国で抑留されることになりました。その時に千何百人の引き揚げ者を率いてくる団長として日本に帰ってくるのですが、その逆境に立った時の強さが感動的なのです。彼の日記等が残っていますが、それらを見ると、分かり易くいうと、北京で敗北した国の捕虜として収容所に入れられていたようなもので、彼は北京で一生懸命に努力をして短波放送が聴くことができるラジオを手に入れました。そして、インドやオーストラリアやサンフランシスコから短波によって色々な国の放送が流れてきていて、敗戦後の日本がどのような状況になっているのかということに関して一生懸命に情報を集めて、それを聴いて、リーダーとなって引き揚げ者を率いて日本に帰ってきたのです。
 私が彼を「ただ者ではない」と思う理由は、情報に関する感度、敗北して打ちひしがれている時に彼が見せた力や、高崎出張所に追いやられたらふて腐れるだろうと思うところをひょっとしたらこれは自分にとってプラスになるかもしれないと考えていく力等があるからなのです。これは若い人たちにも非常に参考になると思います。
 それが水上達三という人で、戦後、解散されて多くの三井物産社員が野に放たれ、打ちひしがれている中で、「天下第一物産」をイメージして会社に「第一物産」と名前をつけて、そこから戦後の三井物産の統合を彼が中心となって推し進めていったということは誠に感慨深い話なのです。
我々はそのような人たちの歴史の中を生きて、戦後の日本がつくられているのだということを忘れてはならないと思います。水上さんは「貿易立国論」という本まで書いています。

木村>  日本貿易会の会長もなさっていましたね。

寺島>  私が三井物産に入社した年に日本の輸出が1日1億ドルだったものが、現在はその20倍になりました。その20倍の外貨を稼ぐ力を持っているからこそ、我々は気楽に食糧を海外から輸入しているわけです。昨年は約60兆円の食べ物を海外から買っていますが、食糧自給率40%という妙な国をつくってしまったのです。それも外貨を稼ぐことができる力があるからこそ、そのようなことが成り立っているわけで、そのことを思うと不思議な感慨を覚えます。

木村>  「荒野にレールを敷く思いをして」という言葉を寺島さんがおっしゃいましたが、水上達三という人の存在を通して経済人の経綸、思想、或いは、志について考えさせられました。
<後半>

木村>  後半ではリスナーの皆さんからのメールを紹介してお話を伺います。愛知でお聴きの「86ラブ」さんからです。「最近、トヨタの問題が随分マスコミで取り上げられています。アメリカのレクサスブランドのアクセル・ペダル問題だけでなく、日本でもプリウスのブレーキ問題で揺れているトヨタですが、世界のトヨタの信頼が崩れて日本の自動車産業が窮地に立たされる可能性はあるのでしょうか? 寺島さんは今回のトヨタ問題についてどのように感じていらっしゃいますか?」。

寺島>  これは対応がまずかった等、色々な議論がありますけれども、今回我々は、トヨタの立場に立って議論をしてみたいと思います。
 私は3、4年前くらいから似た話はアメリカで聞いていました。その時にフロアー・マットの不具合があって、フロアー・マットが挟まってブレーキがきかなくなってしまうというクレームの問題が耳に入ってきました。おそらく、トヨタはフロアー・マットが挟まるなどという話はユーザーの自己責任で、自分でフロアー・マットをキチンとしていれば挟まるわけがないので、そのようなクレームをメーカーに対してつけてくるべきではないというニュアンスで最初の頃は捉えていたと思います。
 更に、いま話題に出たアクセル・ペダルの問題もトヨタが日本で車をつくって輸出していた時代ではなくて、アメリカで走っているトヨタの7割以上の車が高級車を除いてアメリカ製のトヨタで、現地生産を深めれば深めるほど、部品の現地調達比率を高めてくれという要請を受けて、日本から部品を持っていって組み立てるだけではなくて、現地の部品メーカーの会社を使ってやってくれという流れの中で、アメリカの部品メーカーの会社を採用していかざるを得ない状況があるわけです。アクセル・ペダルの不具合に関していうと、トヨタにしてみればそれこそ愛知県のトヨタを支えている部品工場から調達していたならばこんなことは起こらなかったという思いがなかったとは言えないと思います。
 そのような様々な複雑な思いに加えて、トヨタが世界一の自動車メーカーになってしまって、GMを追い抜いてビッグスリーを1つずつ追い抜いていっている時からトヨタに対するアメリカの自動車産業の関係者には、フランクにいうと嫉妬心とも猜疑心ともつかない空気が高まっていったと言ってよいと思います。
 そこで、トヨタは我々からみても物凄く慎重にそのような人たちの神経を逆なですることがないように努力をし、気を遣っているなあと思うことが私がワシントンにいた時に何回もありました。
 例えば、これは4、5年前くらいの話になりますが、ワシントンというところは皆さん御存知のようにありとあらゆる利害関係者が跋扈していて、「揉め事屋」といってよいような弁護士、はたまた「ロビイスト(Lobbyist)」と称して問題を政治化させてそれをまたマッチポンプのように片付けて自分の生活に繋げていく人たちがたくさんいて、アメリカの政府がどうのこうのという話ではなくて、そのような人たちが問題化させるケースが多々あります。例えば、トヨタの子会社にトヨタ通商という会社がありますが、トヨタ通商がイランのアサデガン石油の開発に一部資本参加していました。そのことを見つけ出して、「トヨタという会社はイランを支援している。そのような会社の車は不売運動を起こしてボイコットすべきだ」等ということを本気になって回覧板を回していた人たちもいました。
 したがって、当時、トヨタはパッと動いてアサデガン石油のプロジェクトから完全に引いて、トヨタはそのようなことには参加しないという形の意思を表明したりして物凄く気を遣っていたということです。しかし、それらの人たちのように、先程のフロアー・マットだ、アクセル・ペダルだという話がだんだんエスカレートさせていく力学がワシントンに存在していて、これは大変に悩ましいことなのですが、このファクターも決して小さくはありません。ただ、ここではっきりしておかなければならないことは、トヨタは既に世界に冠たるチャンピオンの会社になったということです。グローバルカンパニーとして耐えなければならない試練があって、盤石の対応を求められるのです。先程、冒頭でトヨタの立場になっていうと……、という話をしましたが、逆に言うとトヨタは本当に堂々と王者の戦いをしなければならない立場になっていて、正面からこのような問題に対応していかなければならないという中におかれているということです。トヨタ以外にも日本のいくつかの企業は既にそのようなレベルになってきています。トヨタは見本になるような姿勢を引き継いでいなかければならない立場になってしまっているということを我々は肝に銘じなければならないのでないでしょう。

木村>  それはある意味においてはこれからの日米関係という中で、日本の私たちがどのような道筋で生きていくのかということについて、いま「学習」しているということでもあるのでしょうね。

(註1、新潟県にある都市で、古くからある産業で「燕の洋食器」、「三条の刃物」と呼ばれる程、優れた商品を生産してきた。現在では、伝統的な職人技から最先端のテクノロジーを駆使した製品をつくることで有名)
(註2、文学博士。「札幌農学校」の第1期生としてクラーク博士の教育を受けた教育者、宗教家、言語学者)

2010年01月26日

第43回

<為替変動の歴史―1ドル1円の時代から戦後1ドル360円の時代を経て、いま―>

木村>  先週の放送では、2010年という年に私たちが年の初めに世界をどのように見るのか、或いは、日本のこれからに対してどのような課題を見ておくべきなのかというお話を伺いました。
 今週の前半は「寺島実郎語る歴史観」をお送りします。テーマは「為替変動の歴史―1ドル1円の時代から戦後1ドル360円の時代を経て、いま―」です。
 私も1ドル360円の時代はわかりますが、1ドル1円という時代があったのですね。

寺島>  日本円は明治4年、1両、2両から、「円」という単位の通貨のスタイルにしたスタート時点に1ドル1円だったのです。
そのような歴史観に基づいて、最初にリスナーのみなさんに対するイマジネーションを投げかけるために「ティー・カップの悲劇」というお話をしたいと思います。これはどういうことかというと、戦後、日本円は1ドル360円だったのですが、その頃、イギリスの1ポンドは1,000円、正確に申し上げると1,008円でした。
私は総合商社の三井物産で働いてきたというキャリアのある人間ですが、これは先輩の話になりますが、1950年代に実際に起こった話で、当時、彼がロンドンに出張していた時に、その頃は外貨割り当てというものがあって、外貨は勝手に持ち出せないくらいの時代で、日本にお土産を乾坤一擲、何か買って帰ろうということでウエッジウッドの紅茶のカップをロンドンの名門百貨店「ハロッズ」に買いに行ったらそうです。すると、小さなティー・カップとお皿の1セットが25ポンドだったそうです。つまり、25,000円ということです。当時、サラリーマンの平均月収が1万円という時代でしたから、彼にとって2カ月半の給料をかたむけて1脚のティー・カップを手に入れたということになります。それはまさに宝物です。彼はそれを買って日本に帰ってきて、そのようなものでお茶は飲めないと言いますか、神棚に飾っておくような気分で宝物として鎮座させていました。
イギリスという国の面白さは同じティー・カップを現在もつくり続けているというところで、彼は、その後、ロンドンに出張する度に同じティー・カップを1脚ずつ揃えていったのだそうです。ざっくりと申し上げて、いま、そのティー・カップと同じものが当時の倍の値段の50ポンドになっています。1ポンドを200円くらいとして、せいぜい1万円です。いまの給与水準からすると、月給の2カ月半分を投入したというどころか、彼の感覚ではおそらく40分の1、或いは、50分の1くらいに値が下がってしまったということになります。しかも、平均月収がそれだけ上がっているために、相対的な価値観はもっと安くなっている感じだと思います。つまり、月収の40分の1から50分の1の感覚になるけれども、為替の相対的な感覚からいうと、それこそ価格が100分の1も安くなったように感じると思います。
要するに、それくらい為替は怖いもので、まったく同じ物であるのにも関わらず、まるで魔術のように価値がかわってしまうのです。例えば日本円の価値が高まっているために、更に、我々の経済生活が豊かになって月収が増えているためにそのような感覚になるということです。それが逆になってしまうと、何10万円の日本円を積み重ねても、その通貨の信用がなければまったく相手にされません。
私は1975年に人生で初めてロンドンに行ったのですが、当時、イギリスは「1ポンドは2ドルになった」と嘆いていました。つまり、イギリスは1900年頃、1ポンドは5ドルで、100年前と比べると1ポンドはドルに対して半分以下に価値を落としたということです。
そこで、日本の話題なのですが、冒頭に申し上げたように、日本が最初に「円」という単位の通貨を採用した1871年(明治4年)に1ドルは1円でした。1897年(明治30年)になって日本は初めて金本位制、つまり、日清戦争で日本が勝ち取った賠償金によってこの制度に切り替えて、1ドル2円の固定相場にしました。戦争に入る頃は実勢レートにおいては1ドル4円前後であったと言われていました。つまり、太平洋戦争になる真珠湾攻撃の直前、1ドル4円で日本は戦争に入っていったと言ってよいと思います。しかし、戦争に負けて、ドッジ・ライン(註.1)によって1ドル360円に決められました。これを分かり易くいうと、「敗戦とは何だったのか?」ということで、戦争に負けたことによって、日本の円の価値がドルに対して90分の1になってしまったという言い方もできるのです。
そして、360円から、1971年にニクソン・ショックが起こって、戦後の日本人が「為替は動く」という衝撃を受け、200円台に入っていき、その後、じわじわときて、ついに100円を割り込んで、現在は90円台にあります。仮に、ほぼ100円前後として、もしも、デノミをやって、100分の1に切り上げたのであれば、1ドル1円になるということですから、スタート時点に戻ったようなことにもなりますが、ここで、今年に入って、もう少し円安にもっていかなければならないという空気さえあるという話題が報道されていました。

木村>  菅大臣が財務相に就任という時にそのような発言がありましたね。

寺島>  日本人は日本という国の生業で、輸出志向の国になっているために、輸出にとっては円が安いほうが戦いやすく、我々は兎角そのような空気に引っ張られて、円安のほうがこの国にとっては有利であるということで、円安になると株が上がる傾向があります。
先週お話しした話の中においても、実は石油価格が1年前に比べると倍以上にもなっているのですが、石油価格が高くなることによって資源やエネルギーの価格が高くなっても、いわゆる日本国の通貨である円の価値が強くなっているために、高くなっている部分を吸収している部分も大いにあります。つまり、円高によって吸収しているということです。これが円高のメリットです。外から物を買う時には自分の国の通貨の価値が高まっているということのほうがよっぽどよいわけです。
そこで、私がいま話題にしておきたいことがあります。それは、バランス感覚ということで、日本円は安ければ安いほどこの国の経済にとってはプラスであるという考え方も固定観念で、戦後の日本の産業に対するあまりにも凝り固まった考え方であるということです。ただ一方的に円高になればよいというものでもありませんが、長期的な視点から申し上げると、自分の国の通貨の価値が国際社会において、じわりと緩やかに価値を高めていく状況のほうがはるかに健全なのです。
むしろ、通貨の価値が認められずにその通貨を受け取ってももらえないという状況の悲劇というものを戦後の日本人はあまり味わったことがなかったために身にしみていないのですが、私が1975年にロンドンへ行った時、日本のトラベラーズ・チェックは受け取ってもらえませんでしたし、市内で日本の円札を持っていっても銀行で受け取ってその国の通貨に替えてはもらえなかったのです。自分の国の通貨が国際社会において評価をされなかったことの虚しさや悲しさのほうがよっぽど強いのです。
 そのような意味において、ソ連崩壊後のロシアのルーブルが悲惨でした。それと同じ様に、日本人としていましっかりと考えなければならないことは、「円安のほうがよい」という単純な話ではなくて、日本国の通貨の価値を産業力、技術力を高めることによってじわじわと緩やかに上げいく方向にして、この国の産業と経済のありかたをもっていくということのほうがよっぽど大事で、腹を括る必要があります。そのような歴史観を持つべきであるということを話題にしておきたいのです。

木村>  そのようなプラス思考になることによって産業も気合いを込めて、気持ちだけではそう簡単にいかない話かもしれませんが、現状の状況を乗りきっていくために何をするのかということを産業界も考えるべきだということですね。このように思考を変えることによって強くなれる、或いは、光も見えるかもしれません。

寺島>  「隣の中国が必要以上に元を安く持ち堪えていてけしからん。もっと元を強くすべきだ」という意見がありますが、これは中国にとって物凄く資源が高くなってくる時等にはボディーにきいてくるわけです。そのような意味において、しっかりと考えなければならなくて、為替の問題については物凄く歴史認識が必要であるということです。

木村>  寺島さんのいまのお話を伺っていると、いつも寺島さんがおっしゃる「世界を広い視野で見なければいけない」ということに通じると思いました。
 ここで、リスナーの方からのメールを紹介します。東京のラジオネーム「テリーマン」さんからです。年齢は25歳から29歳の年代のかたです。
 「寺島さんが放送の中でお話しされていた『世界を知る力』、大変興味深く拝読させていただきました。この『世界を知る力』のテーマになっていたと思うのですが、広い視野で物事を見るという視点から寺島さんは今年どのような年になると思われますか?」。
 まさに、これが先週からのテーマになってきたわけですけれども、「広い視野で物事を見る」というところが、為替の問題について、或いは、経済、政治についても、我々の課題なのではないでしょうか。

寺島>  私はリスナーの方に感謝のメッセージとして発言をしておきたいと思います。いま、リスナーのかたが言ってくださった『世界を知る力』は、先月、PHP新書から出版された私の新刊のタイトルです。この本は驚くほど多くの人に読まれていて、東京の書店等の新書本ランキングのトップになっているくらいで、既に7刷りというところまできています。しかし、本が売れていることに「めでたし、めでたし」という話ではなくて、ここにきて私は非常に気にしていることは、新潮社が出版していた「フォーサイト」という世界情勢に関する雑誌が廃刊になったり、かつて、我々が非常に参考にした時事通信社の「世界週報」という雑誌もなくなり、総合雑誌も含めて世界を知るための回路だったような雑誌がどんどん廃刊になっていることです。日本人はこれだけグローバル化された時代だと言いながらも、実は、世界を見る力、世界を知る力がどんどん萎えてきているという危機感があります。
そのような中で、このリスナーの方が言ってくださっているように、私が書いた『世界を知る力』は、より広い視野から世界を考えてみようではないかということで、「時空を超える視界」という章を敢えて設けて、兎角我々が特に戦後を生きてきた日本人がいつの間にかあまりにもアメリカに依存し、アメリカに期待をしてきた時代を生きたために、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という人間になってしまったということを指摘して、書き出していきました。
今年は「龍馬伝」がNHKで大河ドラマとして放送が始まりましたが、日本人は相変らず日本近代史は黒船がやって来たことに衝撃を受けて、この国の近代史は始まったという見方をとりがちです。しかし、実はそうではなくて、ユーラシアとの相関、例えば、ロシアや中国等とどのような相関によって生きてきたのかという目線さえもいつの間にか失っているというところを私は、『世界を知る力』の中で盛んに書いています。つまり、いつの間にか戦後の日本人は米国と併走した冷戦の時代ということに頭が凝り固まった形で物事を見る人間になってしまったということです。いまだに、地政学的に世界を見るという世界観の本が凄く受け入れられ易いのですが、実はそうではなくて、グローバル化経済の中で世界はネットワーク型に発展していて、アジア、アフリカ等の小さな国々までがそれぞれ発言力を持って、世界に向けて発信してくるという時代になっていることを認識しておかなければなりません。
個人の場合で申し上げても、ネット情報の時代において個人各々が自分のブログ等を使って発信しているという状況で、これも一種の全員参加型の時代に向けての象徴的な出来事です。発信ということで申し上げると、特定の大きなメディアだけが発信できるというような時代から、多くの人たちがそれに参画していくことができるという時代になったわけです。我々はネットワーク型によって緩やかに世界を見ていくということを視界の中に捉えていかなければこの時代は見えません。これが『世界を知る力』の根底を流れている問題意識なのです。

木村> 後半では、もう1つ今年の課題を「日米関係」というところにおいてお話を伺います。

<後半>

木村>  もう1人、リスナーの方からのメールを紹介します。ラジオネーム「かねちゅう」さんからです。
 「日本の社会、或いは企業について縦割り、部分最適、タコつぼ現象の実態からなかなか抜け出せないように感じております。寺島さんの坂の上の雲と歴史観、全体知のお話を大変興味深く伺いました」。
 いま、私たちが新しい年を迎えてどのように踏み出すのかという時に、もう1つ大きな課題になってくることは「日米関係」をどのようにしていけばよいのかということだと思います。ここのところをそのようなタコつぼに入らずに、広い視野で深く、ものを考える時に何がポイントになってくるのでしょうか?

寺島>  私はリスナーの方に本当にご興味があれば読んでいただきたい本があります。それは岩波書店の月刊誌「世界」2月号(2010年1月8日発売)で、私が最近力を入れて1万字の論文を書きました。それは「常識に還る意思と構想」というタイトルで、今後の日米関係のあり方について踏み込んで書きました。
ここで私が言いたいことは、普天間問題だけが日米関係の課題ではないということです。普天間のことだけで日米関係にある種のさざ波が立っているというような視点がとられがちなのですが、根底から考えなければならないことは、今年という年は戦争が終わってから65年経っているということです。日本人の内、8割以上が戦後生まれで、60年安保の年からちょうど50年の節目です。そして、冷戦が終わった時から既に20年が経っているわけです。
しかし、いまだに日本人が冷戦後の世界に正面から向き合っていなくて、冷戦を前提としてつくられた日米安保条約に縛られた日米同盟が継続されてきているのです。我々はかつての革新勢力の人たちが言っていた反米や反安保、反基地等の固定的な枠組みの中で議論するのではなくて、例えば冷戦の時代に吉田外交と言われた、つまり、日本が西側陣営の一翼をしめる形において戦後復興を成し遂げていくというプロセスの中で、日米安保が日本を守ってくれる仕組みとして有効に機能したことを冷静かつ、積極的に評価する立場の人間であっても、冷戦が終わって20年が経ち、1990年代には同じ敗戦国であったドイツが冷戦後のアメリカとドイツの関係をしっかりとテーブルに載せて、基地の問題において在独米軍基地を24万人から4万人に削減して、米軍との間の地位協定を大きく見直したような議論をするべきなのです。
しかし、日本は1990年代のクリントン政権の頃に、むしろ、アメリカ側のほうが見直したほうがよいのではないのかというような空気をもっていた時代があったにもかかわらず、その時に、アジアでは「冷戦がまだ終わっていない」という問題意識と宮澤政権以降の短命政権が交替するということによって、一切、本質的にそのようなものを見直さないままに21世紀に入ってきてしまいました。そして、21世紀に入って9・11が起こった後、アメリカのイラク戦争や米軍再編等の議論に冷静な判断もないままに組み込まれていったのです。
ここで政権が代わりました。日本側もアメリカ側も政権が代わって、いよいよ21世紀の日米同盟のあり方をテーブルの上に載せて、その中で基地問題や基地の地位協定の問題等をしっかりと議論していく必要があります。そのような枠組みの中で長期の構想とビジョンがあって、普天間の問題が再び位置づけられるべきであり、普天間問題だけでにっちもさっちもいかないというような空気になる必要は全くありません。ここのところで日本人が本当の思考力、主体的にものを考える力を取り戻さないと日本の未来は開けないのです。
それは実はアメリカにおいても大事なことで、アメリカをアジアから孤立させずにこれから長い間アジアにおいてアメリカの存在を高めていくためにも、同盟国である日本がアメリカとの関係を過剰な依存や過剰な期待の構造ではないものにしていくということが大事なプロセスなのです。しかし、いままでのあり方を一切変えたくないという人たちの恐るべき固定観念がそれを阻んでいたのです。
私が一番驚いていることはマスメディアについてです。メディアの人たちが「何事もいままで通りでよいのだ」というような、いままでのことを変えようとすることに対しての異常なまでの拒否反応を起こすことに首を傾げています。ここでしっかりと考えていただきたいことは、私の世代が、つまり、分かり易く言うと、戦後日本によって飯を食わせてもらってきた人たちが、これほど平和で安定した時代を生きて、徴兵令もない時代の日本を次にどのような形で創造的に引き継いでいくのかということに対して、そろそろ責任ある議論をしなければならいないと思います。私は「いままで通りでよいのだ」というわけにはいかないということだけは強調したいのです。

(註1、1949年戦後日本の経済的復興と安定のために、当時デトロイト銀行頭取で、GHQの経済顧問として来日したジョゼフ・ドッジJoseph Morrell Dodgeが立案した財政金融引き締め政策。その中に複数為替レートの改正による1ドルを360円という単一レートの設定がある )

2010年01月24日

第42回

<2010年・国際状況>

木村>  本日は2010年になって初の放送となります。21世紀に入って10年となり、私たちはいまどのようなところに立っているのでしょうか。明るい気持ちになれないまま、なんとなく重圧感がある新しい年を迎えた人も多いと思います。そこで、寺島さんに私たちが新しい年に世界と日本をどのようにみていくべきなのかということを伺います。

寺島>  私は新年にあたって、敢えて、明るい展望を語るという意味ではありませんが、日本人が必要以上に悲観的になっていることが少し気になっています。
 私は昨年12月の上旬にはアメリカに行き、年末のぎりぎりまでシンガポールに行っていたのですが、日本だけがなにやら必要以上に暗いと感じました。これはどのような意味かというと、「除く日本」で、日本は2008年、2009年と2年連続マイナス成長の時代を過ごし、2008年は前年比マイナス実質0.7%で、2009年に至ってはおそらくマイナス5.3%くらいでマイナス成長の中をあえぐ日本の姿が見えるために、我々は兎角、グルーミーになってしまうのです。
しかし、世界経済をじっとみてみると、必ずしも悲観的なことばかりではありません。たしかに、2009年の世界全体の実質GDPはマイナス2.2%くらいだったであろうと言われています。アメリカがマイナス2.5%で日本が先程申し上げたようにマイナス5.3%ですが、例えば、BRICsと呼ばれる中でも二極分化が起こっていて、中国はプラス8.5%、インドはプラス6.6%で中国とインドが物凄くスピードを上げて経済を拡大しています。
世界のエコノミストの平均的な予測値を発表している機関で「コンセンサス」というところがありますが、世界中のエコノミストの平均的な予測値として2010年についてプラス2.9%の成長予測が出てきています。つまり、世界全体でいうと昨年はマイナス2.2%だったけれども今年はプラス2.9%で、これがおおかたのエコノミストの平均予想値ということです。今年、アメリカはプラス2.7%で中国はプラス9.6%という予測がでています。更に、インドはプラス7.9%で、ほぼ8%成長という予測です。昨年のロシア経済においては、マイナス7.9%のマイナス成長だったのですが、今年はプラス4.1%という数字がでていて、ブラジルもプラス5.1%です。
つまり、BRICsと呼ばれる国々、新興国がぐっとスピードを上げて経済を拡大していくということです。一方、先進国も日本さえプラス1.5%という成長予測がエコノミストの平均的予測値となっています。世界全体がプラス2.9%拡大する予想の中で、日本がプラス1.5%となると少し弱含みですけれども周りを見渡してもらいたいのです。それはどのような意味かというと、世界中が再び成長エンジンをふかし始めているということが現下の世界情勢なのですが、むしろ、私はそれに対して少し懸念があります。それは、「何故そのように世界経済が好調なのだ?」、もしくは、「好調軌道に戻りつつあるのだ」ということですが、分かり易く申し上げると、金融超緩和の流れの中において、またぞろ、マネーゲーム化してきているということです。各国は景気を下支えするために必死の財政出動をして、更に、金融超緩和という状態で、アメリカに至ってはゼロ金利を続けています。
世界のGDPが55兆ドルで金融資産が148兆ドルという2008年の数字がでていました。前年の2007年に世界のGDPは54兆ドルで、金融資産においては2007年に194兆ドルもあり、金融資産が2007年にGDPの3.6倍に膨れ上がっていたのです。そこから、みなさん御存知のサブプライム問題やリーマンショック等が起こり、2008年には148兆ドルまで世界の金融資産を圧縮していたのです。金融資産というのは、株等のあらゆる金融資産です。しかし、昨年、おそらく、世界経済はGDPにおいて54兆ドルくらいまでに2ポイントくらい圧縮したけれども、金融資産は再び、180兆ドルくらいまで戻っただろうと推計されていました。分かり易くいうと、お金がダブついていたために、ここのところにきて例えば石油の価格等でも2007年8月に一時、147ドルという水準だったバーレル価格が、2008年の年末にはなんとバーレル34ドルまで下がった。ニューヨークの石油先物市場の価格がその前年のものが、30ドル台まで落ちていました。それが再び昨年の年末に77.8ドルで年を越しました。したがって、前の年の年末と比べると再び石油価格は倍の価格水準になってきているということになります。その背景にあるものは、あり余っている過剰流動性といわれているお金が、何処に向かうかによって、つまり、金融資産が肥大化したり、株が上がったり、石油価格が上がったりする等というある種の不安含みで,、実は、世界経済は我々が思った以上のスピードによって回復軌道にあるのです。
 したがって、懲りない人々がまたマネーゲームを繰り広げるという可能性があって、「めでたし、めでたし」とはとても言えませんが、そのような中で、日本だけがうずくまっている状況なのです。
まず、番組の冒頭で私が確認しておきたいことがあって、これをどのように捉えるのかによって非常に微妙だけれども、日本を除く世界の国々は、既に相当なスピードで拡大軌道にあるけれども、その背後にある構造は非常に危ういものを抱えていて、またぞろ、一種のインフレ願望のようなもの、マネーゲーム願望のような空気の中に入りつつある世界なのだということがまず、本日確認しておきたいことの1つです。
もう1つは、昨年を振り返って、いま世界がどのようになっているのだろうという時に、途方もなく重要な話題は先月、COP15というコペンハーゲンで開催された環境問題に関するルールづくりの会議があって、誰もが注目をしていたと思います。
 私は「COP15の衝撃」という言葉が非常に適切だと思います。これはみんなあっけにとられて沈黙しているというのがいまの状況で、一体あれは何だったのか説明できる人は世界中何処にもにいないと思うくらい何事も決らなかった会議だったと言ってよいと思います。
 それは一体何だったのかというと、この番組でも何度も申し上げていますが、全員参加型秩序の時代が始まっているということを示したというもので、例えば、日本の立場からいうと、新政権の鳩山首相が前政権よりもはるかに意欲的なCO2削減目標を掲げて、国連において、なんと1990年比で25%CO2削減をすると胸を張って言ったのです。
 それならば、さぞかし日本が積極的に環境問題に取り組んで、見事な国だということで拍手でもおこるのかと思ったら、とんでもない話で、例えば、アフリカの国々等から、むしろ罵詈雑言を浴びせられたような空気がかえってくることになってしまったのです。それは何故かというと、先進国がいかにハッスルして意欲的な数字を掲げて「2020年に向けてCO2削減します」と言ってみても、途上国からみると、自分たちにどれくらいの環境対策のお金が回ってくるのか、はたまた、環境問題に立ち向かっていく技術の移転がなされるのかというところに関心があって、日本がどんなに意欲的な目標を掲げようとも、平たい言葉で申し上げると、「勝手にどうぞ」というもので、「大いにおやりなったら結構ではないのですか?」という話になり、ちっとも拍手がおきません。
 要するに、これは何かというと、国別にCO2の排出目標額を出して、「お前よりは俺のほうがより責任をとるべきだ」という形のルールによって環境問題に対応していこうという方法論の限界が見えてきているということです。本来、国境を越えたはずの、地球全体で立ち向かわなければならない問題に、また国境線の問題の話を持ち返してきて、「途上国も責任をもて」、「専ら先進国が出してきたのだから、先進国が責任をもつべきだ」等、とりわけ、アメリカ、更にそれを揺さぶる中国等の姿を我々は目撃してしまったわけです。更に、中国がいかにアフリカに対して影響力があるのかということも目撃しました。
 分かり易くいうと、「混沌」と言いますか、全員参加型秩序によって全員が声をあげて勝手気ままに自分たちのルールを異種格闘技のような形で叫んでいるような状況に世界がいまあるということを確認したと言ってよいと思います。そのことによって我々は少し冷静になって、考えなければならないことは、この番組でも何度も申し上げましたが、世界は冷戦が終わった直後のソ連崩壊によってアメリカだけが唯一の超大国になっていたわけですが、これからはアメリカが一極で仕切っていくのだという時代ではありませんということだけははっきりしています。いくらアメリカが言っても束ねきれません。いままではG8の8つの先進国によって対外ルールについて合意をすれば世界がついてきていた時代もありましたが、それも期待できません。ついこの間までG20の20カ国がいよいよ世界のルールづくりに参加してきて、先程も話題にしたBRICsの中国やロシアやインド等までが世界の様々なルールに対して発言をし、力をもってきています。
 しかし、そのG20の20カ国ですらルールを仕切りきれていません。アジア、アフリカ等の小さな国々までが自己主張をし始めていて、この混沌としたゲームをどのように仕切るのか、全員参加型の時代のルールをどのようにつくるのかという試練の時期にさしかかっていることを示したものがCOP15の衝撃だったのです。
つまり、日本が1歩も2歩も前に出て、25%削減というような大きな数字をぶちあげることによって尊敬されたり、みんながついて来るという時代ではなくて、全員参加型の時代のルールづくりを我々自身も学ばなければならないということです。それはただ単に、国別の総量排出目標をリードすることによってルールがおのずと決っていく等ということではなくて、新しいルールづくり、つまり、世界の問題を解決していく新しい方法論、これは政策と言ってよいと思いますが、そのようなものが問われているということです。
私は今後一段と国境を越えたマネーゲームとなると思います。それに伴い環境問題についても、為替の取引き等の際に広く薄く課税をしていき、国際機関がその税金によって集めたお金を途上国に技術を移転する時の財源にするという国際連帯税の話をこの番組でも盛んに話題にしてきましたが、多くの人たちはあの話を「なんのこっちゃ?」という気分で聞かれていたと思いますが、段々と世界がそこに向き合い始めているのです。つまり、そのようにしなければ誰もが納得するルールはできないからです。全員参加の時代において、「俺よりもお前のほうがより責任をとるべきだ」というような話をしていたのではいけません。やはり、みんなが納得する、「それは仕方がないな。自分もそのような形で一部受け持っていこう」という気持ちにさせるようなルールにはならないのです。
昨年の12月にCOP15によって目撃してきたことは、ほとんどの人たちは立ちくらみ状態で「あれは一体何だったのだろう?」と唖然として、誰も何も言わなくなってしまった状況です。それをもう一度考え直して「ああ、世界はそのような時代に入っていて、その象徴的な出来事が12月に起こったのだ」と考えるべきだと思います。

木村>  「その中で、日本は……」ということになると思いますが、そこのところは後半に伺います。

<2010年・日本の状況>

<後半>

木村>  前半のお話で寺島さんから昨年の12月の「COP15の衝撃」ということで、全員参加型の時代の新しいルール、新しい方法論、つまり、そのような世界の捉え方に根差す新たな世界をどのようにしていくべきなのかという方法論が必要であるというお話を伺いました。その中で、「日本はどうなのか?」と。先程のお話でも経済の回復についても「日本を除く」という話があって、少し切ないところでもありました。

寺島>  私は昨年を振り返って、お話をさせていただいていますが、日本も政権交代が起こって、新政権によって年を越しました。それによってそろそろ見えてきたことと、見えてこないことがありますので整理をしてお話をしたいと思います。
 年末に新政権による来年度の予算案が出てきましたが、その中で少なくとも見えてきた方向だと言えることは、公共投資を前年比18%更に減らすということです。例えば、子供手当に象徴されるようなものに予算をつけたために、福祉や教育等に関する予算を10%近く増やすということになってきました。このことは鳩山政権が掲げている「コンクリートから人へ」ということの象徴的な予算の配分だということが仮りに見えてきました。
 これを世界史的に考えてみると、冷戦が終わってから日本も世にいう「グローバリスム」なるものの波の中に呑みこまれて、アメリカを震源地とするいわゆる新自由主義によって市場における競争を重視する経済に向かって日本を変えていかなければならないということで、小泉構造改革だのなんだのと言っていました。しかし、新自由主義の挫折という流れの中から日本はいま悩み込みながらも極端な福祉国家を目指せるほど高福祉、高負担を目指しているわけではありませんが、子供手当のようなものをみていると、ほんの1歩ですが北欧型の福祉社会のようなものを日本にも導入していこうとしているということが薄ぼんやりとした形ですが、見えつつ年を越したと思います。
 しかし、敢えて申し上げると、「分配の公正とは何か?」という問題があって、私が気になることは、例えば、普通に働いているサラリーマンの家計、つまり、勤労者家計可処分所得という言い方があって、年金や税金等を払った後に実際に使えるお金は2000年には月あたり473,000円だったものが、昨年の選挙の直前の統計をみると、1月から7月迄の平均は412,000円で、61,000円も落ちました。つまり、ごく普通のサラリーマン平均的な年収が73万円くらい減っているということになり、物凄く世知辛くなっているわけです。
一方、会社もここのところへきて、リストラに次ぐリストラ、効率化に次ぐ効率化によって競争主義、市場主義の徹底を進めてきているためにほとんど余裕のない状態になっており、苛立っているサラリーマン、ごく普通の平均的な市民がその苛立ちを前政権批判のようなものにぶつけて、政権転換が起こりました。そして、政治、公に対してそのようなことを解決してくれるように大いに期待をしているために、子供手当的なものに物凄く拍手がおこります。しかし、国民として本当に考えておかなければならないことは、自己責任というものをどこまで社会が追及することがよいのか、それとも、政治や政府等が解決してくれることを期待することがよいのかという時に、この問題は大変に悩ましいのですが、例えば、過剰に政治に期待をしていくということになると、その期待が「票」なので、投票を惹きつけなければならないためにポピュリズムと言いますか、受け狙いが出てきます。そのツケは巨額の財政赤字になったり、その財政赤字を補てんするために、やがては大変な額の税金を負担するということになっていく可能性があります。要するに、ここで我々がしっかりと見据えておかなければならないことは、「日本は将来どのような国にしていけばよいのか」ということに関しては、まだまだ何も見えていないということです。そして、気をつけなければならないことは、政治家のレベルを超えた社会が実現できなくなることです。はたして、このようなことでよいのかというと、政治主導が必ずしも国民主導になっていくのかどうか。私は過剰な期待をしているとその期待の反動によって起こってくることのほうが恐いと思います。

木村>  困難な時こそ光明を見たいという気持ちがありますが、その光明の中にこれだけの課題があるということを私たちがしっかりと認識しておかなければ、この光明は力にならないということも真実であると感じました。

2009年12月27日

第41回

木村>  先週の放送ではPHP研究所から出版されたばかりの寺島さんの新刊『世界を知る力』をめぐって、世界に対して我々がどのように向き合うべきなのかという事を具体的な例を踏まえながらお話を伺いました。リスナーの多くの方々も世界の見方について随分刺激され、触発されたと思います。

        <寺島実郎が語る歴史観〜『坂の上の雲』>

 今回は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「坂の上の雲」という事でお送りします。現在、同じタイトルでNHKのドラマが放送されているところですが、司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』も書店には山のように積まれていて、関連の書物だらけです。
司馬さんの歴史観に対しては色々な意見がありますが、さて、寺島さんはいったい『坂の上の雲』にどのような眼差しをもっていらっしゃるのかという事に、まず、第一の興味と関心があります。

寺島>  私は以前、PHP研究所の新書で『われら戦後世代の坂の上の雲』という本まで出しています。国家の目的と自分が所属している組織、秋山真之にとっては海軍だったのですが、更に、個人の人生の目標が連なっているように何の矛盾もなく連なっていた明治という時代の思いと、いま我々が生きている時代において個人が個人に向き合って国家のテーマや自分のテーマに帰属している組織のテーマ等さえもずれ始めている時代の目的意識のとりかたの難しさを悩みながら考えた事があります。
 いずれにしても我々は明治という時代をもう一度キチンと認識し直す事が凄く重要です。NHKは3年にわたって年5回ずつドラマをつくっていくそうなのですが、本木雅弘さんが秋山真之で阿部寛が真之の兄役の好古を演じています。私は大変に興味深くこのドラマがどうなっていくのか注目しながら観ていきたいと思っています。
 私の秋山真之に対する関心は必ずしも司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』の影響ではありません。島田謹二の著書に『アメリカにおける秋山真之』という有名な名著があって、それによって私は秋山真之という存在に非常に関心をもっていたのです。例えば、秋山真之は日露戦争の日本海海戦の天才参謀と呼ばれて、あの時に「天気晴朗なれども波高し」という電信を日本の艦隊全部に発信しました。軍人が書いた文章として、「本日天気晴朗なれども波高し。皇国の荒廃はこの一戦にあり、各員憤励努力せよ」という文章が浮かんだという事に私は非常に驚きました。つまり、軍人が指令を出す文章としてあまりにも美しい文章なのです。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の衝撃は何なのかというと、秋山という軍人になった人が少年だった四国松山の時代から、正岡子規と大変な親交を深めていたという事実があったということです。更に、正岡子規と一緒になって大学予備門から東京に上京してきて、生活をして正岡子規の影響を受け、文章や文化的教養等に対して物凄い人が軍人として生きた時代なのだという事も衝撃を受けました。お兄さんの好古の存在、こちらは陸軍のロシアのコザックと戦った日本の軍を率いた責任者だったのです。

木村>  フランスでその当時ではもしかしたら傍流かもしれないというところへ行って騎兵について学んだのですね。

寺島>  司馬遼太郎さんの長い、長い『坂の上の雲』の小説のラストシーンとして、好古が死ぬ瞬間が描かれているのですが、それに私は本当にしびれました。彼は死ぬ間際、歳をとって四国に帰って先生をやっていた好古が死ぬ間際に「奉天へ」と叫んで死んでいったのです。この「奉天へ」の意味は何かと言うと、好古がロシアのコザックと戦い合った中国の地名の「奉天」なのです。自分の若い時代の事が一時も頭から離れなかったのだという事なのです。つまり、それくらいの思いを込めて日本国の運命を背負っていたのだという事で、一番心に沁みるシーンの一つとして死ぬ瞬間に「奉天へ」と叫んで死んでいった男がいたという衝撃があったのです。これには私はとても驚きました。
 そして、真之についてですが、私は変な縁があって引きずっているのですが、ワシントンにいた頃に秋山真之について調べていたことがあります。秋山真之は、ワシントンに駐在武官としていたのです。その時に、マハン大佐というアメリカの海軍戦略論においては名だたる人がいて、1892年に「海上権力史論」という日本でも訳された本を出した有名な海軍戦略の大家といわれている人を秋山真之はわざわざニューヨークまで訪ねて行ったりしていて、とにかく必死になってアメリカの東海岸において勉強していた秋山真之を私自身が興味をもって追いかけていたのです。それは何故かというと、私は商社の人間として情報の仕事をしていた立場だったのですが、彼は海外戦略の情報というところで生きてきた人で、彼が明治の時代を生きた生きざまは全く時代は違うけれども、組織における情報の責任を担わされてワシントンに配置されていた私の心に共鳴するところがあってとても興味をもっていたわけです。
私が勤務していた三井物産のワシントンのオフィスはホワイトハウスの斜め前にありました。「1701ペンシルヴァニア・アベニュー」といって、ワシントンで名刺を出すと「1600ペンシルヴァニア・アベニュー」がホワイトハウスで誰もが知っている事なので、「えっ? あなたはホワイトハウスの隣にオフィスを持っているのですか?」と驚いた反応がワシントニアンほど返ってくるような場所に私は毎日いたのです。私のオフィスのビルの斜め前に「オールド・エグゼクティブ・ビルディング」という重厚なビルがホワイトハウスの横にあって、これは昔、海軍省だったのです。その海軍省のビルの3階に海軍文庫というものがあったのだそうです。そして、秋山真之が古今東西の海軍戦略、戦術に関する本を毎日のように通いつめて勉強していた場所がその海軍文庫だったのです。
私が夜、残業で遅くなってクルッと椅子をひっくり返してライトアップされている「オールド・エグゼクティブ・ビルディング」を眺めながら、あの3階のあのコーナーに海軍文庫があって、あそこに秋山真之が100年前に通いつめていたのだなあという思いがいつもあったのです。
秋山真之が言い残している驚くべき言葉があって、現代人からすると非常に違和感のある言葉に聞こえるかもしれませんが、秋山真之は、「自分が1日怠ければ日本が1日遅れる」と言っているのです。もし、私がいま同じ言葉を言ったのであれば、「この人は誇大妄想ではないのか?」と思われるくらいみんなが驚くと思います。
その後、秋山真之は翌年の1898年に米西戦争、つまり、アメリカとスペインとの戦争が起こった際、キューバに対するアメリカの攻撃を観戦武官としてアメリカの戦艦に乗ってずっと目撃していました。この事が日本海海戦において彼のバルチック艦隊を迎え撃つ閃きとして物凄く意味があったのです。しかも、その後、勝利を収めたアメリカが今後、カリブ海を支配していくぞと言わんばかりに展開をして各地を訪れました。秋山真之は、その船に同乗して半年間一緒に生活をしています。例えば、最初にベネズエラを訪れた日本人は誰かを調べてみると秋山真之なのです。つまり、秋山真之の体験はどのような事かというと、物凄い集中力によって古今東西の海外戦略論を読み込んだ文献研究とフィールドワークのように現場を自分の目で見て体験した報告書を頭に叩き込んだ事が日本の運命を変えたと言ってもよいくらいの大きな意味をもってしまったという事です。
したがって、一人の人間が歴史に果たす役割は限られているけれども、明治という時代の「坂の上の雲」という事を何故、司馬遼太郎さんが書かねばならないと思ったかという話なのですが、まさに、「自分が1日怠ければ日本が1日遅れる」という思いを込めて、研鑽に励み文献を読んだ人物を描く必要があったからだと思います。ここで笑える話が1つあるのですが、当時、日本大使館の駐在武官で現在の大使にあたる公使がいて、有名な星亨でした。彼は物凄い文献を集めたり、書物を買う事が好きな人で自分のライブラリーをつくっていたらしいのです。しかし、秋山真之が黙って本を持っていって読んでしまうために、係の人が「黙って本を持ち出さないでくれ」と注意をしたのです。そして、彼は「星公使が忙しすぎて、とても本をお読みになれないだろうから代わりに読んであげているのです」と言ったらしいのです。つまり、それくらいのある種のずうずうしさも含めて、彼が読み込んだ文献と体験が日本を変えたという事です。私はそのような時代だったという事が明治時代を理解する上にとっては非常に意味があると思います。それを我々にまたひきつけて考えた時に、どのように見えるのかという事が私の思いなのです。

木村>  先週、寺島さんにお話を伺った『世界を知る力』の本の中においても、この事が触れられていますが、つまり、「知」というものと、それに立ち向かう時の覚悟と志というものに非常に深く関わる秋山真之のエピソードもあれば、彼がドラマの中、或いは小説の中では「どのようにすれば喧嘩に勝てるのか考えているのだ」という「考える」部分においての深い思考について寺島さんのお話から随分触発されるところがあります。
 後半では、もう少し司馬遼太郎さんの歴史観に触れてお話を伺いたいと思います。

<後半>

木村>  あらためて、いま、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』がこのように社会に注目されているという事について寺島さんはどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。

寺島>  司馬さんの歴史観は、明治時代の日本はある意味においては成功モデルだったのですが、昭和という時代に入って歪み、増長し、転がり落ちるようにして無謀な戦争に駆り立てられて、日本を敗戦という形で一旦は破滅させてしまったという事に対する深い、深い反省という思いがその底辺にありました。極端に明治という時代や幕末維新時代等に光を当てて、結局、「昭和史は失敗の歴史」であり、「明治史は成功の歴史」であったという事で司馬史観というものには少し歪みがあると批判をする人がいるくらいなのですが、それでも戦後の日本人の教育を思い出していただくと我々が日本近代史を理解した理由は極端に言うと、司馬さんの本によって触発されて目を開いていったという部分もあるという事です。
それは何故かと言うと、戦後の日本において、社会科の教育、特に歴史教育は縄文や弥生時代から始まって、大概は江戸時代くらいで息切れをして、先生は近代史をほとんど語らなかったからです。更に言うと、時間がないからという理由だけではなくて、語れなかったのです。近代史の評価があまりにも難しすぎたからとも言えます。
日本近代史は二重構造になっていて自分自身が西欧列強の圧力の中で追い詰められて、植民地にされてしまうかもしれないという不安感の中で開国、明治維新を迎えました。今度は殖産興業だ、富国強兵だという形によって力をつけてくると、自分自身が新手の植民地帝国へと変わっていき、アジアに対して、親しむアジアの親亜から、侵すアジアの侵亜へと反転していくという二重構造を持っているのです。したがって、日本近代の評価は物凄く難しいという事になるわけです。
そのような中で、彗星のごとく東洋の小国を上昇させた明治の人たちがどのような日本をつくりたかったのか、また、どのような思いで国づくりに関わっていたのかという事をできるだけ目を開いて知るという事は凄く意味があります。
私は秋山真之を調べていて、凄く面白い彼の言葉に出くわしました。彼はワシントンに駐在の後、日露戦争を戦う旗艦となった船のほとんどはイギリスが建造していて、その建造した戦艦を引き取る、或いは、それをチェックするためにイギリスに半年間くらい駐在していました。その時に、パリにも行っていて、1900年5月12日に彼はエッフェル塔に上っています。その後に、軍人たちがエッフェル塔にまず度肝を抜かれて、海外に来て日本の貧しさを語りました。欧州の国々に比べて日本はいかに資源がなくて、大工業国になるといっても大変であろうと。しかも、日清戦争には勝ったけれどもロシアとの戦い等が目の前に迫っているという状況下において、軍人たちがいまおかれている状況で、はたして戦争ができるのだろうか? というくらいの話だったのです。その時に、秋山真之が語っている言葉があって、それは島田謹二さんの秋山真之研究の中で書き残している言葉にも出てきますが、日本のインテリのあり方に通じて、「わしたち日本人のインテリは、どいつもこいつもみんな狭い意味の小専門家なのだ。海軍の仕事をしている奴は海軍だけで他の事は顧みない。海軍以外の事は何も知らない。日本人の持つ特徴はつき合っていれば西洋人にはすぐわかるのだ」と言っています。これは何かと言うと、先日から議論している「全体知」の事なのです。先程、秋山が「天気晴朗なれども波高し」という文章を書いたと申し上げましたが、天才参謀と呼ばれた軍人としての能力が優れていたというだけではなくて、人間としての全体観と言いますか、そのような人が日本の運命を担って、その瞬間に立ったというわけです。したがって、私は明治を支えた人たちの教養の深さに驚嘆しますし、正岡子規のような友人と心から共鳴し合える軍人がいたという事実のほうが日本の力という事を語る上において非常に重要なのだと思います。私は彼がエッフェル塔に上ってこのような言葉を言い残している事は凄い事なのだと思っています。

木村>  物事を本当に深く突き詰めるという事は、日本の言葉では「突き詰める」と言うと何か狭くなっていくようなイメージをしてしまいがちですが、実は、突き詰めるとそこには広い世界が広がるという意味になると思います。そのような意味において寺島さんのおっしゃる「全体知」に、随分考えさせられながらお話を伺いました。

第40回

<『世界を知る力』>

木村>  今月15日に寺島さんがお書きになった『世界を知る力』がPHP研究所から出版されました。今回はこの本に触れてお話をお伺いしたいと思います。
 まず、この本を開くと「はじめに」というところで、「いま、あなたが百数十年前の日本にタイムスリップしたと想像してみて欲しい。場所は東北のとある山村地帯。あなたはそこで暮らす一人の若い女性に着目する。毎朝にわとりの鳴く前から起きだして、川に山に畑に休む間もなく働く女性。とんでもない労働量だなとあなたはきっと目をむくことだろう。けれど何カ月、何年と観察するうちに一つの疑問が脳裏に浮かんでくる。この人、この村から出たことがあるのだろうか?」と『世界を知る力』の書き出しに書いてあります。私は「東北のとある山村地帯の光景を思い浮かべて欲しい」という意表をつく書き出しに引き込まれて、これはどのような展開になるのだろうかと思いました。つまり、いま寺島さんがこのような書き出しで、『世界を知る力』を何故書かなければならないのだろうかという事なのです。

寺島>  私はいままで本をだいぶ出してきていますが、「難しい」とか「わかりにくい」とかと言う声もありました。この春から大学の学長という形で多摩大学に関わっていて、若い人たちと語る機会が増えていますが、自分がいままで見てきた世界やいま進行しつつある世界の事等を若い人たちに向かってしっかりと語りかけてみるとしたらどうだろうかと思いました。
いま、木村さんが読んでくださった部分ですが、一生のうちに一度も自分の村から出たことがなかったという人が大半だったというのが、いまから100年前どころか戦前の日本の東北の現実だったと思います。しかし、今、我々の行動圏が思いもかけない程のスピードで拡大してきていて、極端に言うと「アジア日帰り圏」と言って、羽田空港から1日8便ソウル便がでていますが、ソウル辺りは日帰りで行く事ができるようになりました。ただ、我々はいま世界中に旅行だ、ビジネスだと動くようになったにもかかわらず、本当に世界認識が深まっているのだろうかという時に、必ずしもそうではないのです。我々がいかに固定観念と言いますか、ある枠組みの中でしかものを考えない、見ないというところから突き破れないでいるのです。それをどのようにしたらよいのかという問題意識が私の心の中に非常に強くありました。
私自身もそうですが、戦後の日本を生きた日本人は、我々の先輩たちが体験した事がないようなテレビの登場やインターネットの登場等の情報化という時代を生きて、先輩たちよりも世界を見る見方が広がっていると思いがちですが、実はそうではなくて、却って極めて限られた固定観念の中でものを見るようになってしまいました。もっとズバリと言えば、戦後の日本人はアメリカを通じてしか世界を見ないという事で、この番組でも何回か話題にしてきました。
この本の冒頭の第1章が「時空を超える視界」というタイトルで、自分の固定観念を脱却していくためにはという事で話題にしていて、ロシアの話をしています。これはどういう事かと言うと、日本近代史は1853年のペリー浦賀来航から始まって、日本近代、開国、明治維新という時代が来るのだと思いがちなのですが、実はその思いこみ自体が極めてある意味においては戦後的なものであり、そのような事よりも150年も前からロシアの日本への接近があったのです。かつてこの番組でもお話した事があるように日本の国際社会への緊張感をもたせたのは、開国を迫ってくるロシアであり、ロマノフ王朝の極東に対する野心でした(註.1)。その野心に呼応する形で私の故郷である北海道の蝦夷地を守らなければならなかったわけで、世界史の中で日本がまるで世界から離れた島のように見えるけれども、後の北海道開拓等という事が極東ロシアと双生児のように見事にユーラシアの歴史と相関しながら生きてきたという事を視界に入れなければならないのです。
そして、中国との2000年以上に渡る歴史がいかに我々の体内時間のごとく体の中に埋め込まれるように日本人、日本文化の中に存在しているという事を理解してくると、自分たちがいかに戦後なる時代、アメリカの影響をあまりにも受けてしまったがために、アメリカを通じてしか世界を見ないという見方を身につけてしまっているかという事に気がつき始めると思います。私はその気づきのきっかけになるような本を出してみたいと思った事が理由の一つでもあります。
もう一つは、日本人は地政学的にものを見る事が凄く好きで、世界が力比べをしていた東西冷戦の時代を生きているために、ユーラシア大陸の地図の中の陣取り合戦のようなイメージによって世界を考えがちです。しかし、いま我々が世界を見る時に認識しなければならないのはネットワーク型の世界観で、例えば、中国を中華人民共和国とイコールで捉えてはならないという話をこの番組でも話してきましたが、「大中華圏」という中国を基点にして中華民族の香港、シンガポール、台湾等の人たちがネットワークによって相関し合いながら中国のダイナミズムのようなものをつくりだしている構図等を理解していく必要があるのです。このようなネットワーク視点によって世界が動いているという事に気がついてくると、例えば、大英帝国は憔悴しつつあるように見えるけれども、以前お話しした大英帝国が埋め込んだ「ユニオン・ジャックの矢」という話のように、ロンドンと中東のドバイと、IT大国化して一段と力を見せ始めているインドのバンガロールと、シンガポールとオーストラリアのシドニーが地図で書くとちょうど一直線上になっているという事がこの本でも描かれていますが、その相関が世界の動きの中においてどのような意味があるのかという事が見えてくると、世界の見方が変わってきます。更に、世に言うユダヤ・ネットワークが世界をどのように動かしているのだろうかという事が見えてくると、メルカトル図法の平面地図の中で世界の国々という形で配置されている国と国との関係だけではなくて、ネットワークによって関係をもちながら世界が動いているという事に気がついてきて、それだけでもものの見方や考え方が変わってくるのです。
そのような中で、私がここで若い人たちに刺激を与えて考えてもらいたいと思った事は、自分たちのものの見方や考え方を柔かくして、虫の目と鳥の目という言い方がありますが、虫が地べたを這うようにフィールドワークをして自分の足元にある問題を見つめて、鳥が大空から世界を見渡すように世界を大きく見渡して、鳥と虫の目を持ちながら世界認識を深めていくと日本がどのようなところに置かれているのかという事や、日本国で生きてきている一人の若者である自分がどのようなところにいるのかという事等が少しずつだけれども見えてくるということです。このような気づきがやはり大事なのだという事を私はこの本によって色々と語りたかったのです。
そして、それをできるだけ分かり易い話し言葉で、若い人たちにとって手に取りやすい新書本にしました。私にとっては少し実験的だったのですが、いままでの作品の中では少し毛色の変わった口述型、つまり、喋り言葉型の本として、『世界を知る力』というタイトルでまとめてみました。それが年末にかけて皆さんの近くの書店でも販売していると思います。若い社会人の人たちや、いま自分たちが生きている時代が何やらよく分からない人たちに手に取ってもらえると、書いた私としては非常にやりがいがあったと思います。

木村>  本の「はじめに」の終末の部分で、「私自身、約40年間にわたって世界を知る試みに次ぐ、試みの中で生きてきた。その中で実践してきたことを問わず語りに語り始めようと思う」とあります。まさに、いまお話しになった事が語られ始めるというところで、一つ一つは具体的に世界で起きた事や歴史上の事実等を取り上げながら、それらを寺島さんのお話を聴きながらそこにずっと引き込まれていくうちに、ものを見る見方であったり、ハウツーではなくて、ものの考えかたであるという事が問わず語りに伝わってきます。このように本ができているのですね。

寺島>  まさに、木村さんに言っていただいているのですが、私は1973年の石油危機の年に日本の商社の三井物産に入社したのですが、この会社が直面したイランの石油化学の大きな問題、いまでも戦後日本の最大の海外プロジェクトである石油化学コンビナートのプロジェクトがありました。1979年にイラン革命に襲われて、イラン・イラク戦争に襲われ、悲劇のプロジェクトとなった「IJPC」(註.2)の問題です。この問題をどのように解決していくかという時に、私は若い時代ですから末席で情報活動に参画し、世界中の中東問題の専門家、とりわけイランの専門家を訪ね歩いてイスラエルのテルアビブ大学のシロア研究所に行ったのですが、その時の話もこの本の中に書いています。分かり易く言うと、世界中をとぼとぼと動き回り、まさにフィールドワークで当って砕けろの精神で入手できる情報やネットワーク、人脈等にあたりながら手ごたえを感じた事、メモをとったり等してやってきた事を思い出しながらキチンとまとめたのです。
 これは体験的なアプローチでもあり、何か文献を読んで頭の中で頭でっかちに描いたものではなくて、私が足腰を使って感じとってきた事の本音の部分ですから、そのような意味においても面白いだろうと自分でも思います。何故ならば、戦後の日本の社会科学が世界を分析する手法は演繹法と帰納法という言い方がありますが、分かり易く言うと、一つの理論があって、その理論、例えば、マルクス主義という理論があって、その理論によって世界を説明してみせる方法論か、自分が日常的に体験したり現場をフィールドワークしたものの中から一般原則のようなものを見い出して、原則やルールを描き出そうとするアプローチ、二つに一つしかないアプローチによる社会科学の方法論に慣れ切ってきた部分があるわけです。

木村>  演繹と帰納は切断されていましたね。

寺島>  そのような意味において、勿論、両方のアプローチを大事にしながら、なおかつ、仮説法と言いますか、閃きによってひょっとしたらこの事とこの事は関係があるのかもしれないと思って、自分が動き回る事で段々気がついてくることがあります。例えば、私がイスラエルに何度となく行っていて、ある時にイスラエルのテルアビブからダイレクトにニューヨークに飛行機で飛んだ事があります。その時に、ニューヨークタイムズの記事とテルアビブのエルサレムポストの記事は殆ど同じだった事に気がつきました。つまり、全米600万人存在するユダヤ人の内の240万人がニューヨークに集中していると言われていて、ニューヨークは「ジュー(=ユダヤ人)ヨーク」と言われるくらいユダヤ系の人たちが多いのです。ニューヨークはいかにユダヤ系の人たちが文化的にも情報的にも大きな影響力を持っている地域なのかという事に気がつくと言いますか、そのように様々な事に対して相関が閃いた瞬間がいくつかあるわけです。その関係性というものに気づいていくと、段々、探偵小説の謎解きのごとく少しずつだけれども世界がわかってきます。おそらく、それでも私自身がもっている世界認識は極めてまだまだ断片的なものであり、だからこそ必死になって全体知と言いますか、全体をどのように捉えたらよいのかという事をまだまだもがき苦しまなければならないと思っています。しかし、これが一つのものの見方や考え方の方向性を若い人たちに提案できるのであれば、それはそれで意味のある事だと思います。

木村>  そこで、どんどん心がときめいてくるところなのですが、もう少し後半にお話を続けて伺いたいと思います。

<後半>

木村>  今回は寺島さんがお出しになったばかりの本『世界を知る力』に関わってお話を伺っていますが、これまで見えていた世界や身の周りの社会にもう一つの社会が見えてくると言いますか、違うものが見えてくるというような実感がありました。つまり、これまでもっていた、形づくられていたイメージや観念等が「はたしてそうなのだろうか?」という思いに揺さぶられる体験をこの本によってできるのです。

寺島>  私は今月の初めにアメリカ東海岸を動いてきたために、いま木村さんがおっしゃった話によって敢えて申し上げるのですが、いまの一番生々しい話題で、直近の日米の関係について言うと、私は日米同盟によって飯を食っている人たちが当り前だと思っていることを飛び越えなければならないと思います。日米関係等には極端に言うと何の関心もない人に、常識にかえって「いまの日米の同盟関係の軸になっている日米安保に基づく米軍基地がこのような状況になっていますが、あなたたちはどのように思いますか?」と客観的に偏見でも余談でもなく、事実を事実として示した時に、はたして世界的なインテリ、或いは、知識人、ジャーナリスト等と呼ばれる人たちがどのように思うのかという事を色々と語りかけて議論をしてみると、殆どの人はあらためてそのような事を質問するとびっくりするのです。アメリカ人でさえも、「えっ! そんな事になっていたのか」とびっくりするような状況があるのです。
具体的に言うと、戦後65年が経ち、冷戦が終わってから20年が経とうとしているのに、冷戦を前提とした仕組みであった日米安保をベースに、日本に4万人の米軍兵力が存在していて、その家族と軍属を入れると9万人になります。広さは1010㎢なので東京23区の1.6倍の米軍基地が現在も存在しているのです。しかも、米国が世界に展開している大規模海外基地の内の上位5つの基地の4つが日本にあります。それが、横須賀、嘉手納、三沢、横田です。全土基地方式という言い方があって、日米の政府代表による日米合同委員会がどこを基地として提供するのかを決める事になっているために、国会においての承認なしに、全国どこにでも基地が提供できるという状況になっているのです。横田、横須賀、座間、厚木等をはじめとする米軍基地が首都圏を取り巻く形で、いまだに存在しているという事実があります。
そして、駐留経費の7割を受け入れ国である日本側が負担しているのですが、本来の地位協定においてはそのようなっていなかったにもかかわらず、7割日本側が負担するという状況におかれています。しかも、在日米軍の地位協定上のステイタスは、「行政協定」(註.3)をそのまま引っ張っているために、日本側の主権が極めて希薄で歪んだ状態になっています。極端に言うと、不平等条約と言いますか、地位協定にもない日本側コスト負担がどんどん増大していくようなプロセスがありました。私も日米安保は当り前の事で今後も日米間の同盟関係が大事だと思っている立場の人間で、これを「いますぐ止めてしまえ」というような話のために言っているわけではないのです。しかし、いままでのこのような仕組みがいつまで続いても当り前だと思っている感覚から、(アメリカを通じてしか世界を見ないという事の一つの話題でもありますが、)我々自身が陥っているところから踏み出す勇気もなく、議論をする勇気もないのがこれまでの日本の姿です。日米同盟が崩れるという不安感によって、例えば、本来ただしていかなければならない筋道さえも議論の俎上に乗せないまま、我々は60数年間を過ごしてしまったわけなのです。我々の子供たちの時代に引き継いでいくという事に思いを寄せた時に、本当にこのままでよいのかという気持ち、つまり、アメリカとの本当の意味においてのこれからの長い友好関係を大事にする人間だからこそ、ただして筋道をしっかりと求めていかなければならないという事に気がつかなければなりません。
この事を何故今日の話題の中でお話ししているのかと言うと、つまり、固定観念から脱却していくために問題を解決していく時に視界を広げる事がどうしても必要だからです。私はその事が語りたいのです。

木村>  変わる世界という中で、我々がどのように世界を見ていくべきなのか、そこに非常に深い示唆を私もこの本によって得ただけに、是非、若い人たちにもこの本を手に取って紐解いてもらいたいと思います。

(註1、ロシアの使節団が初めて訪れたのは1792年のことで、漂流民の大黒屋光太夫の一行を日本に帰国させるためという事と、日本との通商を求めるためであった。この時、使節団の団長であるアダム・ラスクマンは親書を携えて来航したが、幕府老中の松平定信は受取を拒否。第二次遺日使節団は、その約束の履行を求める目的で1804年ニコライ・P・レザノフを団長としてロシア皇帝アレクサンドルⅠ世の親書を携えて来日している)
(註2、Iran-Japan Petrochemical Company。日本側の事業会社である「イラン化学開発」とイラン側の「イラン国営石油化学」が50%・50%の出資比率で創った合併事業)
(註3、行政協定は、「日米安全保障条約」に基づく具体案を示したもので、1952年に締結されて、1960年の「日米安保条約」改定に伴い、「日米地位協定」として正式な条約となった)

2009年11月29日

第39回

<戦後なる時代~赤胴鈴之助と月光仮面と団塊の世代~>

木村>  先週の放送では「平成維新、外交と内政~日米同盟と東アジア共同体~」というテーマで、我々がいまどのような大きな転換点に立っているのかという事と、そこでものを考える時にどのような視点が必要なのかというお話を伺いました。
 今週の前半は、「寺島実郎が語る歴史観」をお送りします。テーマは「戦後なる時代~赤胴鈴之助と月光仮面と団塊の世代~」で、なかなか楽しみな設定です。私は赤胴鈴之助と月光仮面はテレビで放送された時のテーマソングは歌えますし、まさにこの世代です。今朝はどのようなお話になるのでしょうか?

寺島>  毎日新聞が1957年に行なった全国の少年の意識調査の中で、「一番好きな存在」として第1位だったのが、赤胴鈴之助だったというくらい、我々の世代はある種の影響を受けています。

木村>  まさに、団塊の世代ですね。

寺島>  実は、私は「赤胴鈴之助」の全巻を手に入れて週末に読み返しました。赤胴鈴之助は、戦後なる時代を考える上で我々自身の体の中に相当な影響を与えている事があるために敢えて話題にしていきます。
マニアックな話になりますが、赤胴鈴之助は、我々の世代ならば知っている人もいると思いますが、「イガグリくん」という漫画で大ヒットした福井英一さんが作者です。当初、広島の学習雑誌に単発ものの作品として掲載されました。信じられない話なのですが「泣きむし鈴之助」という名前で描いた作品を素材にして、「赤胴鈴之助」を「少年画報」という少年雑誌で連載を開始しました。第1回目は福井さんが描いたのですが、その直後、33歳で過労によって亡くなってしまったのです。そして、第2回目から急遽、福井さんが始めた連載を引き継いでくれと白羽の矢が立って、武内つなよしさんが引き継いで描いたのです。第2回目から赤胴鈴之助は作者が変わったという形でスタートしたのです。赤胴鈴之助の主題歌で、「剣をとっては日本一」というフレーズで有名な歌は誰もが知っていると思いますが、赤胴鈴之助こそ、様々な意味で我々のヒーローであり、アイドルだった時代がありました。
 赤胴鈴之助はお父さんを亡くした孤児なのですが、江戸=東京に出てきて、神田お玉ヶ池の千葉周作の道場に入って、そこから育っていくという物語です。赤胴鈴之助を思い出して頂くと「真空斬り」という技の事が浮かぶと思います。剣を使って人を殺すのではなくて、手で空気の渦捲きをつくって人を倒して失神させるという、真面目に考えるとそんな事はあり得なくて科学的な話ではないという事になりますが、真空斬りが彼の勝負手だったのです。

木村>  決して命を殺めないでやっつけてしまうわけですね。

寺島>  それがどのような事から成り立っていたのかと言うと、一種の平和主義と言いますか、いかにもいかにもの戦後と言いますか、つまり、武力をもって問題を解決しないという戦後憲法のようなものが日本に登場して、1951年サンフランシスコ講和条約が結ばれて日本がようやく独立国に入ったけれども、まだまだ戦後なる時代をひたすら生きていた時代の事です。その時に、真空斬りこそ、大げさに言うと平和憲法の象徴のようなものだと言えるでしょう。つまり、人を殺めない、武器をもって倒すのではなくて、真空斬りで人を気絶させるという事を勝負手にした少年剣士が登場してきたという発想と、「親はいないが元気な笑顔」という歌のフレーズがありましたが、「親はいないが」という事こそ、その時代を生きた少年にとってはとてもしびれました。我々の周りには親のいない子はたくさんいたのです。何故かと言うと戦争によってお父さんを亡くした子供たちが我々の先輩の世代にはたくさんいたからです。
 つまり、凄く冷静に考えてみると、親はいないが元気な笑顔で戦争を引きずった時代の日本において、そのメッセージが非常によくわかり、更には、真空斬りに象徴されるような、平和主義のようなものがそこに横たわっているわけです。しかも、この時代に「少年画報」という月刊漫画雑誌が一大ブームで、みんな貧乏だったためにこのような雑誌が買う事ができる子供が周りには滅多にいなかったのですが、ピーク時には80万部を発行していました。みんな回し読みをしていたので、読んでいる人は発行部数の10倍くらいはいたと言われていて、ほとんどの少年たちが「少年画報」や「少年」等の月刊誌を読んでいて、1960年代に入って少し日本が豊かになってきてから、週刊漫画雑誌の「サンデー」、「マガジン」等の時代に入っていくのです。その一つ前の団塊の世代の文化をつくり上げたものとしてこのメディアは非常に面白いのです。
 余談になりますが、先程、申し上げましたが、赤胴鈴之助を全部読みなおしてみて、自分との不思議な因縁と言いますか、赤胴鈴之助との縁を感じました。それは何故かと言うと、私はいま若い人たちの研修の場にするために、世田谷にあった3万冊の書籍を神田のすぐ近くの九段に移して、今年の春から「寺島文庫」をスタートさせました。私はいま力を入れていて、若い人たちの色々な研究会ができてきています。その場こそ、まさに先程申し上げた、神田お玉ヶ池の千葉道場の近くにあるのです。
 次に、真空斬りの不思議な話なのですが、この技は箱根山に赤胴鈴之助が修行に行って、出会った大鳥赤心斎という先生に教えてもらった技でした。その場所が強羅なのですが、その強羅こそ私の箱根においての物書きの場のすぐそばなのです。私がふと思った事は不思議だなあという感覚で、赤胴鈴之助の道場が私の寺島文庫のところにあり、真空斬りを身につけた修行の場が私の物書きの場である箱根の強羅であったわけです。
 この話の面白さは、現代の漫画としてはちっとも面白くないだろうなあと思っていたら、登場人物のネーミング自体が爆笑ものだったのです。横車押之助(よこぐるまおしのすけ)というキャラクターもいましたが、このように名前を見ればキャラクターがわかるのです。また、真空斬りを教えてくれた大鳥赤心斎先生をやみ討して殺したのは火京物大夫(ひきょうものだゆう)です。これは誰がみても卑怯者にみえるわけです。要するに、名は体を表すではないのですが、人の名前に物凄く特色づけていると言いますか、私はこれに影響を受けたのだと思いますが、人にやたらと変なあだ名をつける傾向があって、赤胴鈴之助を読み過ぎたたせいなのかと今頃になって気がつきました。
 いずれにせよ、それほどまでに赤胴鈴之助は我々の世代の少年たちに大きな影響を与えました。その後、吉永小百合さんの主演で、赤胴鈴之助のラジオ・ドラマ番組がラジオ東京、いまのTBSラジオですが、昭和32年、1957年の1月からラジオ放送が始まり、その後、テレビドラマにもなりましたが、その時に、千葉周作先生の娘役で登場してきたのが、「さゆり」という名前の役名で彼女が演じました。吉永小百合が大女優になったきっかけとなった作品が赤胴鈴之助のさゆり役で自分と同じ名前の役名というのも不思議な話だと思います。
 続いて、「月光仮面」です。どこの誰かは知らないけれど……、月光仮面は誰でしょう」という歌(註.1)のフレーズが耳に残っていると思いますが、誰だって月光仮面が誰だかわかっているというストーリーでした。いきなり登場して来る白装束の月光仮面は、コンセプトとして明らかにアメリカの「スーパーマン」の影響を受けている事がわかります。アメリカの影響を受けながら、何やら不思議な奴が登場して来るのですが、アメリカのスーパーマンが空を飛ぶような超人的な能力を身につけている事に対して、月光仮面は超人でも何でもなくて、ごく普通の人がオートバイに乗っているという、今にしてみれば少しもたついたような話だったのですが、ある意味において不思議な違和感、つまり、オートバイに乗って現われる等身大の悪を懲らしめるヒーローだったのです。極端に特技を身につけているわけでもない人が少年の心を揺さぶったという事は、いかにも日本の戦後らしいのです。
 したがって、団塊世代の戦後の先頭を走ってきた人たちのある種の心象風景の中に、日本のテレビ文化の最初の時期を少年少女として過ごしてきた人たちの頭の中の残影として、赤胴鈴之助や月光仮面等が残っているわけです。
 ここからは少し真面目な話になりますが、先程申し上げたように赤胴鈴之助という存在自体が戦後の日本の陰の部分であり、お父さんのいない子供たちが健気に生きていき、しかも、真空斬りが人を殺めたりしないで空気を動かして人を失神させていくという技に象徴された平和主義のようなものを身につけていました。それはどこか爽やかで貧しい時代ではあったけれどもそのようなものをヒーローにしてきた少年時代を背負っていたのです。であるが故に、良いところばかりではなくて、若干綺麗事に走ると言いますか、自分たちが本当に泥まみれになって不条理のようなものを体験した事がない世代でもあるわけです。
これはどのような意味かと言うと、私が中東問題に巻き込まれ、イスラエル等を訪れた時期の事ですが、イスラエルが戦争になるかもしれない状況になった時に国外に退去してくれと言われて、その時に私と同じ世代の人間で日本からある情報活動のためにイスラエルに来ていた人が、国外に脱出せずにレバノン侵攻作戦で動くイスラエル軍の動きをフォローする等と言って国道1号線のところで物凄い爆音を立てて動く軍隊や砂煙を上げる戦車の動き等を見ているうちに、これは冗談ではなくて失禁し、気を失って放心状態になってしまいました。更には、精神的におかしくなってしまって日本に送り返された人に私は会った事があります。私は彼と話をして思った事は、「彼だけではない」という事です。戦後を生きてきた日本人には、銃口を突き付けられて「お前は自分の思想を変えろ」と言われたり、或いは、銃口を突き付けられた恐怖の中で生きた事がない。例えば、兵隊検査によって並ばされて全裸で張り倒されて、こんな不条理がこの世の中にあってよいのかというような軍隊生活を幸いな事に体験した事がないのです。圧倒的にぶちのめされるような不条理という状況になった事がない世代という事です。
心象風景の中に月光仮面と赤胴鈴之助という世界を背負ってきた世代、つまり、団塊の世代がいよいよ高齢化社会を支える中核世代になっていく時代が迫っています。昭和20年生まれがいよいよ来年に65歳になるわけです。戦後に生まれた人間が65歳に到達するという時に、65歳から60歳にかけての世代が、言わば団塊の世代だと言ってもよいと思いますが、これらの人たちが背負ってきた戦後なるものを試されると言ってもよいと言いますか、それが単なる綺麗事の世代で終わるのか、それとも、いよいよ責任を背負って戦後なるものに新しいけじめと方向づけを与えなければならないという事に向かっていくのか、いま凄く大事なところにきているのだと思いながら赤胴鈴之助を読んでいたのです。

木村>  言葉がうまくあたっているかわかりませんが、爽やかさと同時に持たなければならない苛酷なタフさというのでしょうか、問われると少し言葉がよどんでしまうという思いがあります。私も同じ団塊の世代を生きてきて、もう一度あらためて足元を考えてみるきっかけにしたいと思います。

寺島>  また、「鉄腕アトム」等についても議論をしてみたいと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方からのメールを元にお話を伺いたいと思います。福岡のラジオネーム「森林おじさん」さん、50歳台後半の方からです。
 「事業仕分けのニュースを観て感じた事ですが、今回の税金の使い方を考え直すというスタートは大事なことで、いずれは手掛けなければならない大手術の幕開けだと思います。問題なのは収入、歳入が少ないのに借金をしてまで使おうとするバブルな考え方ではないでしょうか。日本全体が財政的に破産状態にあるのに全く気にせず予算を要求する姿勢は納得いきません。やはり、歳入に見合った支出にまず戻し、借金を返せる強い体質をつくりあげる必要があるはずです。そこからが本当の日本再建のスタートではないでしょうか」というメールです。
 もう1通メールをご紹介します。東京のラジオネーム「カナリヤ」さん、社会人1年生の方からです。
 「このような番組が将来に役立つはずだと確信して勉強のつもりで聴いています。行政刷新会議の事業仕分けは来年度予算の概算要求から無駄遣いを洗い出すそうですね。そもそも概算要求でおよそ95兆円を計上した事自体、今年度の政府の予算をかなり上回っているのですが、何故なのでしょうか。一体、この国の財政は今後、持ち堪えられるのでしょうか。僕たちの世代にとっては今のような状況ですと将来が不安になります」。
 寺島さんは事業仕分けと日本の予算のあり方をどのようにお考えでしょうか。

寺島>  リスナーの方たちの問題意識の鋭さと的確さは本当にその通りです。何故このような事になってしまっているのかというと、要するに、いま行なおうとしている事の正しさと共に、しっかりと確認しなければならない事は、官僚が思いついたような事業にお金をつけて、どんどん肥大化してきたものを一旦、ここで精算しようという事で、前政権がコミットしたような話を全部テーブルに載せて、本当にそれらが必要なのかどうかを見直すという作業の重要性を我々はしっかりと理解しなければならないし、事実、そのような形によって無駄遣いがなされてきたという事も明らかになってきている部分もあるわけだからです。
 しかし、このような種類の予算の無駄を排除しようという事だけで政治のエネルギーが使われていくと、本当の意味においての未来志向の構想も削られていくという事になります。変な言い方になりますが、このようなやり方だけを行なうと後藤新平が出てこないと言いますか、政治がリーダーシップをとって体を張ってでもやらなければならない事があるはずなのです。それは、例えば、東京が関東大震災に襲われた後、後藤新平は昭和通りという幅の広い通りをつくったのです。その時にみんなは大反対をして、こんなものに金を使うのはとんでもないという話だったのですが、東京の将来を見据えたのであれば、これくらいの幅の広い道路を災害対策等のためにつくっておかなければばらなかったので、珍しいようなまともな道ができたわけです。
 無駄を排除しようとすると、日本がちまちまとした国となって、大きな構想に向かわなくなってしまいます。しかも、恐れるべきはポピュリズムというもので、要するに、みんなから拍手がおこるような政策にお金をつけていこうとする迎合主義です。これはどのような意味かと言うと、例えば、前政権が給付金によって1人、12,000円を配布していました。これは瞬間風速的には12,000円を貰わないよりは貰ったほうがよいだろうと拍手がおこります。子供手当についても生活が苦しい中で、子供手当の26,000円を貰えたのであれば、それは大変結構だという話になりがちです。しかし、家計にそのような形で税金によって集めた金を直接投入して景気に刺激を与えようとか、少子高齢化対策だという色々な名前の下に、そのような形によってお金を使っていく事でどんどん財政を肥大化させていったのであれば、先程のリスナーの方の質問にもあったように、バランスがとれなくなると言いますか、それはやったほうがよいのかもしれないけれども、どうしてもやらなければならない事なのかというものにどんどん拍手がおこるために金がついていってしまう結果を生みます。我々はどこかでけじめをつけなければならないのです。そして、ポピュリズムをしっかりと抑えきっていかなければならないと思います。誘惑は感ずるけれども、つまり、それは票に繋がるから、このような制度の下にはそちら側の方向に引っ張られる可能性があります。しかも、無駄を排除するという議論に何ひとつ反対する必要がないという事で与しがちなのです。しかし、その前提に大きな日本の未来を見据えた政治のリーダーシップと言いますか、未来に対する構想力をしっかりもっていないと本当にエネルギーが無駄遣いになっていく国になってしまうという事なのです。

木村>  私たちが何をしなければならないのかという事で、キチンとした議論ができるかどうか、これからの番組の中においても是非、寺島さんにそのような視点からもお話を伺っていきたいと思います。

(註1、原作者は森進一の歌唱で有名な「おふくろさん」の作詞者として知られる、川内康範)

第38回

<平成維新、外交と内政~日米同盟と東アジア共同体>

木村>  今月13日にアメリカのオバマ大統領が大統領に就任して初めて日本を訪れて、鳩山総理大臣と日米首脳会談に臨みました。注目されたテーマの日米同盟については「深化を目指して来年に向けて日米間で協議を始める事になった」と伝えられています。
 今朝のテーマは「平成維新、外交と内政~日米同盟と東アジア共同体」です。この平成維新は政権交代の事を意味するのだろうとイメージできますが、これはおそらくお話の最後にどのような意味があるのかという事が見えると思います。そこで、日米同盟と東アジア共同体なのですが、この東アジア共同体は鳩山首相が雑誌に論文をお書きになって、ニューヨークで中国の胡錦濤国家主席との首脳会談においても触れられました。このような事で一挙に議論が百花斉放と言いますか、様々に取りざたされています。
 しかし、考えてみると20年位の非常に長い間の議論が背景にあって、いま、日米同盟と共にこれが何故議論されるのかというところに我々は注目する必要があると思います。

寺島>  東アジア共同体がいま語られなければならない理由は、その前提として日米同盟をどのようにしていくのかという事が絡みついてくるからです。その辺りからお話をしていきたいと思います。
 9月に鳩山さんが首相に就任して初めてオバマさんと会った時に、「未来志向の日米関係」という言葉を使って、「方向性としては未来志向で行きましょう」という事だけが議論になりました。今回は2回目の面談で、未来志向の中身に半歩前進して新しい姿が見えてきました。
 私が大事だと思った事は普天間基地をどのようにするのかというプロジェクト・チームの話は別として、今後1年間かけて日米同盟の中身をじっくりと協議するという事がテーブルの上に載ってきた事です。それは何故かと言うと、21世紀の日米関係というものを問題提起すると、「何か日米間にきしみが起こっているのではないのか?」、「懸案事項でもあるのではないのか?」という形で、今まで通りの日米関係であればよいという人たちから強烈な疑問視と反発を受ける構図になっているからなのです。
冷戦が終わったと言われてから今年で20年になり、再三この番組でも申し上げてきたようにベルリンの壁が崩れてちょうど20年になるわけです。そして、日米安保改定と言って日本が戦後の政治の季節で一番荒れ狂っていた1960年安保の時から来年でいよいよ50年となります。しかも、冷戦が終わってから1990年代に、世界史的には冷戦型のシステムについて大きな見直しが行なわれました。特に、欧州においてドイツやイタリアに駐留している米軍基地のステイタスや基地施設が存在している目的等を真剣に検討をして、基地を縮小していこうとか、ドイツとイタリアが地位協定上のステイタスの主権を取り戻していこうという流れが起こりました。
しかし、日本はとても不思議な事に、1993年に宮澤内閣が倒れて自民党単独政権が終わって社会党と自民党の連立さえも含めて、短命政権が物凄い勢いで変わるというように、政治が物凄く不安定な1990年代を過ごしました。本当ならば腰を据えて冷戦が終わった後の日米関係を考えなければならかったのです。何故ならば日米安保条約は冷戦の時代を前提として成り立っていた条約であり、ソ連を中心とする東側に対して西側としてどのように力を合わせて安全保障を確保するのかという事で「核の傘論」も含めて、まさに冷戦型の構造だったわけです。しかし、冷戦が終わってからも見直さないままに、敢えて言うならば小手先の見直しですませてきました。1990年代にガイドラインの見直しを行いましたが、この時に日本が非常に大きく踏み込んだ事は、日米安保極東条項を緩めて、条約の適用範囲をアジア・太平洋地域に拡大した事です。つまり、極東という地域だけの安全保障の事が対象だったのにもかかわらず、事態の性格で危機を認定するという事になったために、極端に言うのであれば、中東で何か事が起ころうが、中央アジアで事が起ころうが、米軍がそれに対して対応して動く事を日本にとっても共通の利害に関わるという形で無制限に極東という縛りが拡大していってしまう方向に日米安保の体制を見直したという事がガイドライン見直しだったと思います。(註.1)

寺島>  そして、21世紀に入って9・11が起こりました。アメリカは衝撃を受けて、アフガニスタン、イラクへと進軍していきました。我々の認識として、アメリカはテロとの戦いにまなじりを決して向き合わなければならないのですが、アメリカにとって物凄く利害のあるテロとの戦いで「不安定の孤」という言葉が出てきて、イスラム原理主義が力をつけてきている不安定の孤、つまり、中東から中央アジアまでのびる孤のような地域に対して、米軍を再編してしてでも立ち向かわなければならない動きが起こって、2003年11月に米軍再編というテーマが現実化してきて、それに呼応する形で日本も米軍再編と並走するように走ってきました。
 しかし、冷静になれば分かることなのですが、テロとの戦い、9・11後の言わば、脳震盪状態で思考停止になってアメリカについて行くしか仕方がないだろうと言っていた時とは違って、中央アジアで事が起こった時に、~我々は昨年、グルジアにおいての紛争を目撃しましたが~、日本がどこまで日本の国益としてそれを受けとめるべきなのかという事についてキチンとした方針を定めなければならないのです。つまり、日本がアメリカの戦争にすべてついていける程の覚悟と体制があるのかと言うと、そのような事は全くないわけですから……。むしろ、日本の国益をもう一度しっかりと見直してアメリカと連携して動くべき事とそうではない事をキチンと決めておかなければ、無制限にアメリカと行動を共にする事になってしまいます。
 イラク戦争の最大の教訓は、同盟国であり友人であるアメリカでも間違える事があるという事です。アメリカは間違ったという事を前提にしてイラク戦争に反対したオバマさんまで大統領にして、チェンジを図ったわけです。これはアメリカ国民の選択としてイラク戦争は間違った展開であったというところから成り立っています。しかし、不思議なことに日本はイラク戦争を支持して、イラク戦争と並走した選択をとったにもかかわらず、「アメリカの無謬性」という言い方がありますが、アメリカは決して間違いをおかさないという事について根底から考え直すことをしませんでした。しかし、日本はアメリカとどのような適切な位置関係をとっていけばよいのかという事を考えないままに、日米同盟という名前の下に限りなくアメリカについていく事、そして、日米安保の枠組みを守っていく事がこの国の安全と安定のためには大切なのだという固定観念の中に今でも嵌り込んでいると言っても誇張ではありません。そこで、これは本当に誤解をなきように何回も繰り返し申し上げておかなければならないのは、反米や反安保、反基地等という昔の革新勢力の人たちが言っていたような三題噺を繰り返しているわけではなくて、未来志向の視点においてアメリカとの関係を今後も大事にしていきたいと思っている人たちこそ、今までのようにアメリカに対して過剰に期待をしたり、過剰に依存したりしているような日本でよいのだろうかという問題意識を強く持つ必要があるのです。
そのような視点から日本における米軍基地をしっかりと見直してみると、これは反基地というところに議論が飛ばないまでも、冷静に考えると、現在、東京23区の1.6倍の面積に相当する米軍基地が日本にあります。その基地を維持するためのコストの7割を日本側が負担しています。米国側の資料をじっと見ているとアメリカが海外に持っている大規模海外基地のトップ10ランキングを見てみるとトップ5の内の4つが日本にあるのです。北から申し上げると、三沢、横田、横須賀、沖縄の嘉手納です。そのような視点で考えると、「何故、日本にアメリカの超大型海外基地がトップ5の内の4つも入っているのか?」、「そのコストの7割を日本側が何故負担しているのだろうか?」という素朴な疑問がわくはずなのです。
これは、敢えて踏み込んで言うと、日本が7割も駐留コストの負担をしているために、アメリカ軍にしてみれば最も有利な海外基地という事だからです。色々な理由をつけてみても、日本、とりわけ沖縄に米軍基地を配置している事がアジアの不安定から日本を守るためには大切なのだという説明が返ってきます。それは、半分くらいは重要なポイントでもあるのですが、日本人としてそろそろ考え直さなければならない事は、「本当にそうなのか?」という問い直しです。これは冷静に時間をかけて一つ一つ基地の使用目的を点検して、日本側の主張を明確にし、段階的に基地を縮小して地位協定上の日本の主権をしっかりと確立していく方向に向かわなかったのならば、アメリカとの関係においてだけではなくて、日本と世界との位置関係おいて日本が大人の国だというように認識されると思わないほうがよいと言えます。敗戦後のある限られた期間に外国の基地が存在しているという事は占領軍という形で大いにあり得る事ですが、敗戦後65年経っても、更には、この先100年先まで米軍基地がいまのまま在ってくれてもちっとも構いませんという程の感覚になってしまっている国民が国際社会の中でしっかりとした自覚をもった国民であり、民族だというように見られるのかという事については甚だ疑問を持たざるを得ないわけです。とにかく、まず日本は戦後65年というけじめに向けて、更には日米安保50年というけじめに向けて、アメリカとの関係を大事にしながらも、経済におけるアメリカとの関係により踏み込むためにFTA(註.2)を同時に持ち出し、日米の産業協力の仕組みも勿論前向きに進めるために提案するのです。その一方では、基地安全保障の問題についてはしっかりとした自覚を持って向き合うべき局面にきているわけです。そこで、東アジア共同体の話と繋がります。
それは何故かと言うと、日本がどんなに時間をかけても自律という志向を強めていくという事をこちらサイドで考えるのであれば、もう一方のサイドに近隣のアジアとの信頼関係の問題が横たわっているのです。前回の放送でもその話に触れましたが、韓国の責任ある立場の人が私のオフィスに来て議論をしていったのですが、ここの部分について深くうなずく事は日本は東南アジアとの関係においては戦後、一定の信頼関係を確立していく上でうまくやってきた部分があるけれども、肝心要の中国と韓国との近隣の関係において、本当の意味の信頼関係を確立しているのかと言うと、そういうわけでもなくて未だに潜在的な意識の中における相互不信がくすぶっているという現実があります。
中国は米軍が日本に駐留していて東京のすぐ近くに米国の陸軍第一本部の指令部があるという構図こそ、不思議に思わなければならないのですが、それは中国側にかつての日本軍国主義の復活を押さえる瓶の蓋として機能しているのだという認識があるので、日本が自律志向を強めるとすると、それは中国にとって不安であると言いますか、むしろアメリカが日本に今まで通りに駐留してくれるほうが中国にとっても、日本にとっても利益になると考えている人たちもかなりいます。
韓国も日本という国の歴史問題を引きずり、日本に対して潜在的なある種の不信感を持っています。一方、日本側にも中国が軍事的に力を強めてくる事に不安を抱いている人たちは沢山いますし、経済的に力をつけてきている事に対する不安感を抱いている人たちも沢山います。問題はそれを否定したり、腹を立てたりするのではなくて、相互不信を率直に認め合って、相互不信を解消していく方向として東アジア共同体という事を言い続けなければならないのです。

木村>  そこで、それをどのように目指していくのかという事については後半にお伺いします。

<後半>

木村>  寺島さんの立場からおっしゃった、日米同盟を見直していく一方で東アジア、近隣諸国との信頼関係が欠かせない。そこで東アジア共同体に繋がって、その思想はどのようなものかという事にお話が広がりました。

寺島>  それは段階的接近という事を強く言わざるを得ないと思います。それは何かと言うと、ある日突然、合意が形成されてアジアにEUのような共同体の仕組みができるのではないかと期待をしている人たちがいたとしたら、それは相当的外れな人です。現実にこれだけの相互不信があるのですから、そのような表現にはリアリティーがありません。EUが今日まで歩んできたプロセスをよく考えてみると、そもそもEUはドイツとフランスの相互不信からスタートしているのです。フランスにしてみれば、20世紀に2回も血で血を洗う戦いを行なったドイツが常に北側に存在しています。この国が戦後に経済力をつけ、力をつけてきている事に対して、この国の脅威を削ぎ落さなければならないという発想から、ドイツを欧州という共通の家の中に収め込む事によって制御する事がEUの根源的なところに隠された思想なのです。ドイツも東側に力をつけて東欧圏に影響力を拡大していこうとすると、ドイツに対する根強い不信感は物凄いもので、ドイツによる被害、つまりナチス・ドイツによる膨大な被害を受けたポーランド等の地域があります。このような事になってくると、自ら欧州という共通の箱に収まる事によって、そのような脅威、不安等を削ぎ落としていかなければならないというドイツの意図も思惑同士がうまく噛み合って、そもそも石炭と鉄鋼の共同体構想から今日のEUにステップ・バイ・ステップで段階的に進んできています。
それと同じように、東アジアで共通の利益になる事を積み上げていこうという発想が必要です。教育の世界で言うと例えば、欧州がエラスムス構想(註.3)を進めているという事があります。これは単位の相互認定、例えば、日本に留学して取った単位も母国で認めるというもので、日本人が中国や韓国に短期留学をして取得した単位も日本の大学として認定するというような事が進んでくると、ますます人の交流、つまり、大学生の交換も非常に促進されるわけです。更に、これは既に動いてきている話ですが、東アジアでASEAN+3という形で進めてきた宮澤イニシアティブや、チェンマイ・イニシアティブと言われている通貨交換協定、つまり、アジアに通貨危機を起こさないために通貨を交換して、危機が起こった時にプールしておいて対応していくという構想が段々と充実してきています。このように金融における連携に加えて、今後物凄く大事になってくるのは、環境やエネルギーの分野における連携です。例えば、欧州においてはユーラトム(Euratom=欧州原子力共同体)という原子力の交流機構があります。今後、北朝鮮の核問題を制御していくためには東アジアで原子力の平和利用技術の交流のベースをつくって、お互いの意思疎通を行なって東アジアを核への誘惑から断って、平和利用についてはお互いに技術を交換して支え合うという仕組みができてくるならば大変に意味のある事になります。
このように、お互いのメリットになるようなプロジェクトなり構想なりを実現していき、段々と力を合わせればプラスになる事が起こるのだという事を積み上げていき、その向こう岸により踏み込んだ制度をつくったり、組織をつくったりという形になってくるのであればしめたもので、それが東アジア共同体という形をとってEUのようになっていく時代になると大変な前進になります。更に、それが通貨同盟のような事に繋がっていくかもしれません。
したがって、東アジア共同体というキーワードの下に、具体的にプラスになる構想を実現していく事が大事なのです。来年はいよいよAPECの総会が日本で行なわれますが、これから1年間をかけて日米同盟の見直しについての協議、そして、東アジア共同体に肉づけをしていくような構想の展開が車の両輪のように噛み合ってくるのならば、この話は必ずしも絵空事にはならないのです。私が「平成維新」と申し上げた意味は、これは鳩山さんが使った言葉ですが「明治維新のように日本を思い切り変えていく」という構想の一つの柱として、維新という名に相応しい大きなパラダイム転換をもたらす可能性があるのではないのかと思います。

木村>  我々の歴史認識として、それだけ大きな転換点に立っているのだと。つまり、ものの考え方、見方もそれだけ大きく新しくしなければならないという事が、しっかりした基盤となって、そこになければならないという事ですね。

(註1、1996年4月に行なわれた日米首脳会議で「日米安全保障共同宣言=21世紀目指す同盟」が発表された。その中で「協力指針=ガイドラインの改正、見直しを行ない、日本の周辺地域における有事に備える日米の協力関係を構築する」という内容が盛り込まれた)
(註2、Free Trade Agreement =自由貿易協定)
(註3、EU加盟国間の人物交流協力計画の一つ。国境を越えて教育範囲の連携と学生、或いは、学者の交流を促進するもの。異文化交流も促進するとしている)

2009年10月25日

第37回目

<中国建国60周年の日本にとっての意味>

木村>  先週の放送では「政権交代の夏を振り返って~自民党は何故大敗したのか? 世界潮流の中での日本の選択~」というテーマでお送りしました。
 私たちが、これからの日本をどのようにしていくのかという事により重く責任を負った事になるとわかってきました。
 今週のテーマは「中国建国60周年の日本にとっての意味」です。国慶節の10月1日で軍事パレードもあって、これが大きなニュースになりました。私は10年前の国慶節のパレードを現場で見ていました。今回はニュースでパレードを見ていて、巨大に成長していく中国に私たちがどのように向き合うのか、なかなか難しい問題だと思いました。

寺島>  私はあらためて、中国建国60周年を考えてみる時だと思っています。1949年に毛沢東の中国と言いますか、共産中国が成立しました。まず、この事が日本にとってどれだけ重い意味があったのかという事を歴史的に総括したいと思います。
 1949年という年は終戦からわずか4年後ですが、この年に中国が2つに割れたという言い方もできます。それはどういう事かと言うと、それまで中国のリーダーとして、日本が戦った蒋介石の中国と言いますか、蒋介石率いる国民党の中国が毛沢東率いる共産党の中国に敗れて、蒋介石は台湾に追い詰められたという見方が出来るからです。そこで、日本人にとってこの事がいかに重かったかという事をよく考えてみる必要があります。
歴史に「たら」「れば」はないけれども、もし、蒋介石が戦後の中国で本土の政権をバッチリと掌握し続けていたのならば、日本の戦後復興はおそらく、後ろに30年ずれただろうと言われています。それは何故かと言うと、それまで戦前から戦中、戦後にかけてアメリカのワシントンにおいて、蒋介石の国民党を支援して日本と戦うという一群の人たちがいたのです。それを我々は「チャイナ・ロビー」と呼んでいますが、ワシントンで中国支援派として、蒋介石と手を携えて日本と戦った人たちです。その頭目がヘンリー・ルースというタイム・ワーナーの創始者で、「タイム」や「ライフ」という雑誌等を生み出した人物で、彼が中心になって旗を振っていました。彼が何故そのような事をしたのかと言うと、ルースは中国で生まれて14歳まで中国で育ったのです。彼の父親は長老派プロテスタント教会の宣教師でした。同じく、日本で長老派プロテスタント教会の宣教師の子供として生まれたのがライシャワー(元駐日大使)でした。ライシャワーは学者になり、ヘンリー・ルースはメディアの帝王になっていきました。ルースは自分が生み出したメディアを使って日本の危険性、つまり、自分が生まれ育った中国にひたひたと攻め寄せてくる危険性をアメリカ人に知らしめる必要があるという異様なまでの使命感に燃えて、例えば蒋介石の夫人の宋美齢をアメリカに呼んで反日キャンペーンのヒロインに祀り上げて全米ツアーを行ないました。アメリカの厭戦世論を反転させて日本を真珠湾に追い詰めていった男とも言われていたわけです。
 しかし、わずか4年で自分が支援した蒋介石が毛沢東に敗れて、台湾に追い詰められました。その事に衝撃を受けたチャイナ・ロビーの人たちは、今度は日本を西側陣営に取り込んで戦後復興をさせるべきだという流れをつくっていったのです。これはヘンリー・ルースとダレス国務長官の間に行き交っている書簡等を分析してみると見えてくるのですが、要するに、日本を西側に取り込んで日米安保条約を結び、本土の共産中国を封じ込めるという立場から「台湾ロビー」へと変わっていったという事です。そこからアメリカの対中国政策は、1972年のニクソン訪中というところまで、本土の中国を承認しないままに台湾を支援するという形で走りました。そして、その間、アメリカのおぼえめでたさを一身に浴びて、復興成長の流れの中を生きたのが日本だったのです。
 したがって、もし、戦後の中国に蒋介石の政権が続いていたのならば、アメリカの支援も投資も、まず、中国に向かって日本に回ってくる余地は30年後ろにずれただろうという事から先程の話になるわけです。
1949年の共産中国の成立が日本にとってどれだけ大きな意味があったか。日本にとって僥倖にも近い形で中国が内紛によって2つに割れ、その間隙を縫う形で日本の復興が始まったという事を考えたならば、いかに中国という要素が日米の関係の谷間に挟まっている要素なのかという事がよく見えてくるはずです。
したがって、共産中国成立、つまり、中華人民共和国成立から60年という節目を迎えて、日本人がいま考えておかなければならない事は、米中関係、日米関係、日・米・中のトライアングルの関係であり、いかに日米関係が二国間関係では解決しない、中国という要素が絡みついているのかという事をまず知らなければならないのです。これは私が今回の60周年という意味において、原点として確認しておきたい事なのです。
次に、視界を今度は1989年の天安門事件に転じたいと思います。今年は、中国建国から60年でもあるが、天安門事件からもちょうど20年が経ったのだという事です。1989年という年は、ベルリンの壁が崩壊した年であり、翌年1990年に東西ドイツの統合、更に1991年にはソ連が崩壊しました。中国が何故、天安門に集まっていた学生をあれだけ大きく弾圧したのかと言うと、東欧圏からソ連と言われた地域を睨んで、ひたひたと盛り上がってくる民主化運動に対する恐怖心と言いますか、中国もソ連崩壊に至ったプロセスと同じ様な方向に向かっていくのではないのかという恐怖心があったからです。中国の指導部の意識としては、天安門事件にあれほどまでの過剰反応をする事で国際社会からの批判を浴びる事を承知しながらも民主化運動を弾圧せざるを得なかったのです。それがいかに非道な事であっても、冷戦が終わった局面における社会主義陣営の中にあったそれほどまでの恐怖心が伝わってきました。
今回の60周年記念で胡錦濤主席が話した言葉の中で私が非常に気になった事は、冷戦が終わった後の中国は「社会主義的市場経済」だという言葉です。これは社会主義の本質は残すけれども、世界の潮流である市場経済に合わせていくという事です。かつて、多くの人たちは「社会主義市場経済」という言葉自体がブラック・ジョークだと言って、それ自体が矛盾をはらんでいるのではないかとからかっていました。しかし、政府が根底のところでコントロールしている中国経済の仕組みの方が、行き過ぎたマネー・ゲーム経済によって躓いた資本主義の総本山と言われているアメリカと比べると安定した舵とりをしていられており、社会主義的市場経済は必ずしもブラック・ジョークではないという状況になってきています。
そのような中で、今回の胡錦濤主席のメッセージでは「社会主義というものを基軸に大事にしなければならない」という方向にウエイトがいって、市場経済という言葉が話の中から少し消えました。これは世界の動向を微妙に反映していると思います。いま、全般的に見て、新自由主義の行き詰まりという流れの中で、政府なり公的な経済のコントロールが有効であり、重要なのではないのかという事に世界の目線が向かっている事を微妙に反映しているのです。
私は日本の今年の1月から8月までの貿易統計を見て、驚きました。日本の輸出と輸入を足した貿易総額の相手先の国の比重を見ると、中国との貿易比重が20.5%で、米国との貿易比重が13.5%でした。ちょうど20年前の冷戦が終わった頃、日本の貿易に占める中国との貿易比重はわずか3.5%しかありませんでした。つまり、いま、日本がいかに中国との貿易によって景気を下支えしているかという事がわかります。1990年のアメリカとの貿易比重は27.4%でした。それが13.5%まで落ちてきています。
日本という国がこの20年間で経済の基本性格を変えたと言ってもよいくらいです。どのように変わったのかと言うと、「通商国家日本は主にアメリカとの貿易によって飯を食っているのだ」と言っていれば当たらずとも遠からずだったのですが、いまや、「中国との貿易によって飯を食う日本」という姿に大きく変わってきているという事です。
更に、中国の発展を考えた時に、何度かこの番組でも話題にして参りましたが、「大中華圏」という切り口が一段と重要になってきているのです。日本は貿易の30.4%を中国を中核とするグレーター・チャイナとの間で行っています。つまり、中国と香港と華僑国家と呼ばれるシンガポールと台湾で、政治体制の壁はあるけれども、産業的には連携を深めているゾーンなのです。かつて香港、シンガポール、台湾と中国との関係は、海外に展開している華僑という人たちが親類縁者に送金をする程度の関係だったのですが、中国の成長力に合わせてビジネスモデルを一緒に創り出していく関係になっていき、中国も中国本土単体としてではなく、華僑圏をジャンプ・ボードにしてネットワークの中で発展していくのです。
例えば、シンガポールは中国の発展エネルギーをASEANに取り込む起点となっています。大中華圏の医療センターという言い方があるのですが、要するに、中国の金持ちになった人たちはシンガポールに行って最先端医療の病院に入院したり、検診を受けたりするという事で、それが年間に10万人近くになっているのです。つまり、それぞれが役割を果たしながら相関し合って、グレーター・チャイナのエネルギーを盛り上げていくという事です。
したがって、中国建国60周年という時に、我々の視界の中に捉えなければならない事は、「中華人民共和国が60年経って物凄い勢いでGDPを拡大していますよね」というイメージだけではなくて、そこを起点とするグレーター・チャイナが有機的に連携を深めながら躍動しているので、中国という存在がより大きな存在に見えるという力学の中に我々がいま身を置き始めているという事です。しかも、それに大きく依存して飯を食う日本と言いますか、つまり、分かり易く言うと、日本は貿易の2割を中国と行ない、貿易の3割を大中華圏の国々と行なう国になってしまっているわけです。これからますますこの流れは日本の産業の基本性格となって、一段とその中に組み入れられていくと言いますか、このような視界を持っていなければならないのです。私は「中国建国60年になったのですよね」という視点から、そのような視界に我々の目線を広げていきたいと思っています(註.1)。

木村>  いま、我々がグレーター・チャイナというものをキチンと見る事ができるのかどうか、となると、中国の存在感は大きくなって、日本の中には中国を遠ざけるのか、牽制するのかという論がすぐ起きるのですが、そこについてはもう少し我々は冷静に世界、アジアを見る力が必要で、そうしないと日本は生きていけないという事になりますね。

寺島>  「しなやかな」という言葉がありますが、拒否反応や拒絶反応等で生きていくのではなくて、アメリカに対しても同じ事だと思いますが、脅威と捉えるのではなくて、それ自体に日本が関わる事によって変えて行く事だと思います。
 中国という巨大な力を持ちつつある国を、とにかく世界のルールに従う国に引き込む事が重要です。知財件の問題や環境問題等において、中国が世界のルールの外にいる事はやはり、まずいわけです。中国が世界ルールに準拠して行動する国にしていくための役割としての日本というのは物凄く重い話です。要するに、苛立って罵倒したり、拒絶したりするのではなくて、世界のルールに引き込んでいくのです。私はそのような役割をニコニコしながらやっていくくらいの胆力がなければ、この巨大な存在と向き合えないだろうという事が中国の我々にとっての意味であると思います。

木村>  命題としては、ますます重くなると思いながら寺島さんのお話を伺いました。

<後半>

木村>  番組の後半はリスナーの方からのメールに対して寺島さんのお話を伺います。北海道のラジオネーム「うに丼」さんからです。
「先日、自民党の中川昭一元大臣が突然お亡くなりになりました。中川元大臣は農業政策に関して、また、経済問題に関しても非常に長けていらっしゃった方であったと記憶しております。今回の事は非常に残念で仕方がありません。寺島さんは中川さんの訃報にどう感じていらっしゃいますでしょうか」というメールです。
 寺島さんは中川さんとは随分親交もおありになったとお聞きしていますが、いかがでしょうか?

寺島>  友人という言葉は当たらないと思いますが、つい6月末に北海道新聞の関連で帯広に講演をしに行った時に、帰りの飛行機の中で彼が隣に座って、羽田までの1時間半くらいの間、二人でじっくりと話し込んだという事がありました。更には、安倍内閣の時だったと思いますが、ワシントンから飛行機で帰ってくる時に、中川さんと一緒になり、飛行場の待合室にいる時からずっと話し込んでいたこともありました。
 彼も私も北海道の縁がベースにありますが、私がまだワシントンにいた頃、彼が農林水産大臣になるかならないかの頃の時に、私が日本に戻ってきて彼と会って、バイオマス・エタノール、例えば、とうもろこしから抽出したエタノールをガソリンに混ぜて車を走らせるという動向にアメリカが舵を切り始めようとしていた頃だったので、私が「これからバイオマス・エタノールという流れがきますよ」という話をしました。その後、中川さんは日本で「E3ガソリン」という3%のエタノールを混入できるような制度設計や流れをつくりました。彼は言葉に実があって、いい加減な人ではなく、本気で真剣に取り組む非常に責任感のあるよい持ち味の政治家だったと思います。
 彼も私に対して感じていたと思いますが、思想信条の違いと言いますか、私は彼と共鳴し合っていたのかと言うと、全く違っていました。例えば、彼の「日本も核武装をすべきだ」というニュアンスに近い考え方に対して、「途方もなく間違っている」と率直に言い合った事が何度もあります。私は「AGREE TO DISAGREE」の関係だという言い方をよくしますが、どのような意味かと言うと、私は全くあなたの意見に賛成は出来ないけれども、あなたがどのようなロジックと、どのような論点で主張しているのかという事だけは正確に聞き届けようというスタンスだという事です。DISAGREEである事をAGREEする、つまり、賛成しないという事を了解するのです。中川さんと私は、まさに、この関係だったと言ってよいと思います。したがって、親友でもなければ、友人でもなく、彼もおそらくそのように思っていたと思います。しかし、彼は政治という世界で飯を食っている人間の中で、いい加減さのない、ある面では非常に真剣に生きた人だったと思うのです。それ故に、最後の段階で彼が消耗していって、あのような形で燃え尽きたかのように亡くなったという事は物凄く悲しいです。そして、もう一度彼と本気で核について「何を言っているのだ」と言い合いたかったのです。
 そのような意味で、何と言いますか、思い出深い人間でした。先程、彼とは北海道の繋がりがあると申し上げましたが、彼は父親の地盤を引き継いで北海道の政治家になりました。日本興業銀行から父親の後を継ぐ形で政治家になっていった人です。そして、私と日本興業銀行は大変縁があったので、彼がそのような面で非常に経済の現場で若い時に鍛えられていたのだという事もよくわかりました。
 そのような意味でも彼は素材としても非常に重要な人物でした。自民党の中でもリベラル保守という谷垣禎一さんに象徴されるような、宮澤派の流れをくんだ人がいて、私は比較的に近い部分があります。
一方では自民党における保守派のロジックも大切だと思っています。どのような国においても、健全な保守というものが必要なのです。守るべきものの基軸というものが必要で、そのような意味合いにおいて、彼がどのような政治家として大成していくのかという事が日本には物凄く大事だと思っていたのですが、自民党の保守の軸の部分の歯が1本欠けたような印象があるのです。

木村>  中川さんの年齢からすると早すぎる逝去だったと言えるでしょう。寺島さんがお話になった、これから自民党がどのように再生していくのかという命題を担う一人でもあったと思いますし、そのような意味では我々にとっても本当に突然の死というものが衝撃的な出来事だったと思います。

(註1、大中華圏に関しては、2004年10月に岩波書店から発売された『大中華圏-その実像と虚像』(渡辺利夫、寺島実郎、朱建宋編)参照)

第36回目

<政権交代の夏を振り返って>

木村> 前回は「ハンガリーという国に思う」という事で、原爆=核との関わりで私たちがハンガリーという国について随分考えさせられるお話を伺いました。
 今回は「政権交代の夏を振り返って~自民党は何故大敗したのか? 世界潮流の中での日本の選択~」というテーマです。政権交代があり、先月からリスナーの皆さんから沢山メールが届いています。
自民党大敗については様々な角度から、例えば、政治学者、エコノミスト、時には文化人と言われる人たちから分析はされていますが、この本質を今朝のテーマでもある「世界潮流の中で」という時に、なかなか分析しにくくて、完全には腑分けされていないという事を感じます。そこで、私は寺島さんにお話を伺うために一つの新聞を持って参りました。これは8月30日付けの朝刊で、投票日の当日です。全面広告で自民党と民主党の広告を出しました。自民党の広告では「日本を壊すな。日本を守る責任力、自民党」となっています。民主党は当然、「今日、政権交代」です。私は「日本を壊すな」という表記を見て、「しかし、ちょっと待って欲しい」と思いました。つまり、投票日の朝に私たちは「日本は既に色々なところで壊れてきているのではないか」と考えているわけです。そして、大きく問題意識がずれているというところで投票日を迎えたのです。

寺島>  私はハンガリーのブダペストにいたために、この新聞の記事を当日には読んでいませんでしたが、私もあらためて「何故、自民党は敗れたのか」という事について考えました。
私は大学、大学院に籍をおいていたときに政治社会学の勉強のために新聞社のアルバイトをやっていて、世論調査の動向分析や選挙分析等によって大げさに言うと飯を食っていた時代もありました。
あらためて今回の選挙をみてみる際、都市部のサラリーマン層、つまり、都市に住んでいる中間層がどのような意図で、どのような選択をしたのかについて前半で確認したいと思います。
前回の小泉選挙の時に、驚くほど都市部のサラリーマン層が小泉改革を支持し、自民党大勝をもたらしました。あの時に、東京、神奈川、千葉、埼玉、愛知、大阪、兵庫、という日本の三大都市圏の小選挙区で、自民党が89議席の差をつけて民主党に勝ちました。そして、今回の選挙は、同じところで民主党が92議席の差をつけて勝って、反転しました。
全体の選挙結果をみてみると、全国の比例区においての得票数は4年前の前回民主党がとった得票数が2,104万票で、今回は2,984万票なので民衆党は880万票増やした事になります。一方、自民党は全国の比例区において1,881万票で前回は2,589万票をとったので708万票を減らした事になります。この数字をみると極端に差がついたという事がわかりますが、別の言い方をすると、前回負けた時でさえも民主党は2,100万票をとっていたわけです。今回も自民党が大敗したと言っても1,881万票をとっているので、1,900万票くらいはとったという事が言えます。
つまり、どちらの党も大敗した時でも約2,000万票近くのベースとなる支持者と言いますか、どのような風が吹こうが、自民党に投票する人たちが約2,000万人いて、どのような風が吹こうが、リベラルというイメージの民主党に投票する人たちも約2,000万人いるという事です。そのような意味合いにおいては意外にベースのところは変わっていないとも言えるのです。問題はその700万~800万票のスウィング・ボーター=その時によって揺れる投票者がいるというところにあります。
これは小選挙区制の魔術になるのですが、前回、自民党に800万票入れた人たちの層が民主党へと大きく揺れた事によってどの選挙区でも民主党が勝ち、どの選挙区でも自民党が敗れるという事に一気になりました。その800万票の人たちが、何故そのような選択をしたのかという時に、選挙制度を考える必要があります。小選挙区制のもとでは基本的には競い合っている二つの党のどちらかという究極の選択というものになるわけです。前回の時は民主党と自民党との戦いというよりも、自民党の中の郵政改革反対派の人たちがドロップアウトして、その人たちに刺客と呼ばれた人たちを向けた刺客対守旧派の戦いというイメージの選挙だったのです。
そのようなところにメディアの照準が当たって、国民側もその話が非常にエキサイティングなために、そのような選択肢の中で究極の選択が行なわれました。あの時の自民党のキャッチコピーは「改革を止めるな」というもので、小泉さんの顔と当時の綿貫さんや亀井さん等の顔でどっちもどっちという選択を迫られた国民は、「改革」というイメージに近い小泉さんを究極の選択として選んでいったという流れの中で、「自民党大勝」が出来あがりました。
 今回は「官僚主導からの脱却」や、「中央集権からの脱却」という論点からみると、自民党に守旧派のイメージがこびり付いていて、民主党には改革のイメージが重くのしかかかっていました。そのような中で究極の選択となった時に、スウィング・ボーターの800万票が民主党側に動いた事によってこのような結果になるという事を我々は見せつけられました。
何故、スウィング・ボーターが動いたのかと言うと、私は都市中間層の生活がこの4年間の間に物凄く劣化したところにあると思います。昨年の雇用統計を見ると、日本にいるサラリーマン5,539万人の内、非正規雇用者が1,760万人います。実にサラリーマン層の3分の1、32%が非正規雇用者になっています。しかも、その内、年収が200万円以下の、世の中で言うワーキング・プアと呼ばれる人たちが1,305万人います。つまり、非正規雇用者の74%が200万円以下の収入で働いているのです。しかも、正規雇用者でごく普通の都市のサラリーマン層世帯の家計分析の数字を見ると、驚く事があります。「勤労者家計可処分所得」というものがあって、これはごく普通のサラリーマンが生活していて実際に使う事が出来るお金で、税金や公的負担等で差し引いた後の手元に実際に残るお金の事です。2000年の可処分所得の統計は月額47万3,000円でした。それが、2008年には44万3,000円に落ちました。今年の上半期、つまり、選挙の直前は40万3,000円にまで落ちて、2000年の時と比べると使えるお金が約7万円減ったという事になります。これが何を意味しているのかと言うと、雇用環境が物凄く劣化して、特に昨年のリーマンショック以降、会社の経営も厳しくなってサラリーマンが手元にするお金も非常に余裕がなくなっているという事です。そこに更に年金等の神経を逆なでするような問題が目白押しに起こりました。そのような苛立ちの中で、不満のマグマのようなものがどんどん溜まっていき、今回、まさに都市サラリーマン層の不満が臨界点に達したという中での選択となったのだと思います。
いままで、自民党をはじめとする日本の保守がある面ではしぶとくて、保守が追い詰められてきた事は戦後に何度もありました。
私はかつて、「保守バネの構造」という論文を中央公論で書いた事がありますが、保守の陣営の中でも比較的に開明派や改革派等という人たちは別動体として切り離すのです。例えば、新自由クラブができて、そこに保守に不満を持った人たちの票をぐっと集めて吸収して、やがて新自由クラブがまた自民党に戻るというプロセスによって保守のバネを働かせるというものです。
細川内閣の存在もある面では保守バネの発動だったと言えるのです。自民党の中にいた人たちが別動体をつくって、それが合従連衡の中で保守陣営=与党の中にやがて回帰して流れ込んでいくという手法です。今回もある面では新手の保守バネの動きがなくはなかったのです。例えば、渡辺喜美さんが中心となっている、みんなの党の動きや改革派知事という人たち等が新たな不満を吸収して、やがてそれが保守に回帰して支えていくというパターンで政治が動くのではないかとみた人たちも大分いたと思います。しかし、今回は保守バネが機能しなかった。都市中間層の問題意識が「政権を変えなければならない」と大きく変わったのです。更に、もう一つ指摘しなければならない事があります。自民党をはじめとする日本の保守層に「自分の足をピストルで打つ」という言い方がありますが、それは何かと言うと、1993年に宮澤内閣が自民党単独の最後の内閣として倒れた後に、細川内閣ができて以降、政権を取り戻す事と政権を守る事が自民党の究極のテーマになっていきました。そのような中で、自民党を長く支えてくれた層、つまり、安定的な固定客を大切にしてこの党を守り、育てていくという方法から、都市中間層を取り込まなければならないという戦いを意識するがあまりに、人気が湧く人、スウィング・ボーターの支持が取り込める人を顔に立てなければならないという思いにかられ始めたというわけです。そこで登場した究極のパターンが小泉純一郎なるリーダーでした。自民党を長く支えてきていた農業層や郵便局や医師会等の人たちの固定客をむしろ切り捨てて、一見の客に小泉劇場という形で面白おかしい劇場政治を展開する事によって関心を引きつけて勝負に出ました。かつてより私は「自民党金平糖論」という言い方をしてきました。お菓子の金平糖は角が沢山出っ張っています。自民党という党は色んな個性を持つ人が、沢山出っ張っているので、実際の真ん中の丸い中身よりも、より大きく見えたのです。自民党にも「ああ、このような人がいるのだ」というように個性的なタイプの人たちがいました。ところが、例えば田中真紀子さんに象徴されるような人や、自民党の中で突出している人たちのような金平糖の角を全部ポキンポキンと折っていき、瞬間風速で支持を取り込んで乗り切っていこうとしたのです。足元をみたら地方の自民党の後援会組織を支えてくれた層は摩耗し、自民党に大きな、ある種のユニークな個性をもたらしていた金平糖の出っ張っていた人たちはいなくなり、気がついてみると「そして誰もいなくなった」という状態になりました。実際に今回の選挙で思い知った事は、地方の自民党の組織の足腰の弱さです。更には、やがて自民党の看板になっていくだろうという個性的なリーダーの欠如です。幕を下ろす瞬間になってみると役者も観客もいない劇場になっていたという事だと思います。

木村>  前半は寺島さんに今回の選挙で「自民党大敗に何を見るのか」についてのお話を伺いました。後半は「世界潮流の中で」という部分のお話をお伺いしたいと思います。

<世界潮流の中での日本の選択>

<後半>

木村>  前半の寺島さんのお話によって、「自民党が何故大敗したのか」という事についてとても腑分けされていて私たちが何を見るべきなのかという事がよくわかりました。世界潮流の中でこの事をどのように位置づけをして捉えておくべきなのかという事ですね。

寺島>  1993年に宮澤内閣が倒れてから、日本は合従連衡の嵐の中で短命政権がどんどん交替する時を過ごしました。しかし、世界はまさにその時期こそ冷戦が終わって、新しい冷戦後の世界に向かって大きく舵を切り始めていました。本当ならば日本も冷戦後の日米関係をどのようにすべきか、冷戦後の世界潮流の中で日本はどのような役割を果たすべきなのかという事について真剣に対応をすべきであったのです。
 1994年からアメリカが日本に対して年次改革要望書を出し始めました。これは冷戦後に一極支配の主役となったアメリカが、アメリカ流の新自由主義と言われた経済の構造の方へ世界を引っ張っていこうと意図し、日本も改革が遅れているぞという事で毎年毎年、日本のこのようなところを改革して下さいという要望書を出したのです。

木村>  ワシントン・コンセンサスという言葉で呼ばれていますね。

寺島>  そこから日本は金融ビッグバン等を行い、安全保障の分野においてもアメリカとのガイドラインの見直しをしました。例えば、欧州でドイツが冷戦後のアメリカとの関係を総括的に見直していった動向とは全くコントラストで、一極支配の中心に立っているアメリカの要望に合わせていく事によって日本を変えていくという流れをつくっていった時代が1990年代から21世紀にかけてだったのです。
 このような状況の中で、21世紀を迎えた瞬間に9・11という衝撃的な事件が起こり、日本にはアメリカについて行くしか選択肢がないという認識の中でブッシュと並走する小泉政権と言いますか、日本という姿で今日に至る流れをつくってしまったのです。
 ブッシュが掲げた力の論理によってアフガン、イラクをねじ伏せて、アメリカの理想を実現しようとしたものの、挫折していくプロセスがどんどん見え始めていたにもかかわらず、更には、新自由主義の行き詰まりによってサブプライム問題や金融資本主義の歪み等が見えてきたにもかかわらず、それらを根底から問い返して世界潮流の中で日本の新しい役割を構築していこうとする思想的なベースキャンプをつくる努力を一切しないままにアメリカと並走する形で走ったのです。そして、気がついてみると期待のパートナーであったアメリカ自身が躓いてしまいました。アメリカ自身もそのような中から蘇らなければならないという事から、イラク戦争に反対し、金融資本主義の歪みに対して厳しい目線を持っているオバマという人物さえ大統領に就任させ、必死になってゲームを転換しようとしているわけです。
 世界が冷戦の時代には55年体制という社会主義対資本主義、社会党対自民党の戦いが行なわれたように、世界の構造転換に合わせて日本も政治の大きな転換を余儀なくされるという事は世界潮流の中で見てみると必然で、日本人もさすがに「これではまずいだろう」という事で、日本のいままでの在り方、特に冷戦後の20年間の日本の選択に対してこのままではいけないという焦燥感が生まれてきたと言ってよいと思います。一方では「このままでよいではないか。日本を壊すな」というメッセージが、ある人たちには訴えかけるのかもしれませんが、いかに虚ろかという事なのです。

木村>  冷戦後、或いは、戦後の日本の転換期として捉えるとどのような歴史的な文脈の中で見るべきなのかという事が寺島さんのお話によって伝わってきます。そうすると、それだけにこれからどのようにデザインをしていくのかという事がとても重い命題になりますね。

寺島>  特に、資本主義が抱えた貧困や格差等の問題にどのような解答を与えていこうとしているのかという事さえ、まだ見えていません。したがって、「選択はしたけれども」という事なのです。つまり、これから本当に責任のあるシナリオがどのような形で誰によってもたらす事ができるのかという事を我々はしっかりと見据える必要があり、我々自身もそのシナリオを創り出していく側に立っていかなければならないと思います。

木村>  今回の選択をした有権者にこの命題が突きつけられているという認識が非常に大事ですね。

2009年09月27日

第35回目

<ハンガリーという国に思う~原爆との因縁~>

木村>  前回の放送は「中東の新しい局面~ウィーン中東会議で講演して~」というテーマでした。中東への日本の眼差し、日本の立つ位置がどのようなところにあるべきなのかという事に触発されましたが、アメリカのオバマ政権がいま中東の問題をめぐって、或いはイスラエルをめぐっていかに緊張した状態にあるのかという事でも寺島さんのお話の中で随分発見がありました。
 寺島さんは中東協力現地会議が行なわれたウィーンからハンガリーのブダペストに行かれたという事で今週のテーマは「ハンガリーという国に思う~原爆との因縁~」です。

寺島>  ウィーンから列車で3時間くらい東に向かったところにハンガリーの首都ブダペストがあります。
司馬遼太郎さんが亡くなる前に、最後に行きたいと言ったところがハンガリーでした。彼はモンゴル語を学んだ人だったのですが(註.1)、ハンガリー人には赤ちゃんのお尻に蒙古班が出るという事で、それが言わばモンゴロイドが一番西に踏み込んでいった境界線のようなイメージをもっておられたのだと思います。
 今回あらためてハンガリーに行った理由を簡単に言うと、ヘッジファンドの帝王と言われた有名な投機家のジョージ・ソロスと関連があります。彼はハンガリーで生まれたのユダヤ人で、ナチの迫害を逃れてアメリカに渡って世界一の金持ちと言われるところまでのし上がっていったのですが、彼はハンガリーのセントラル・ヨーロッパ・ユニバーシティに個人のお金を寄付して、かつて東側と呼ばれた東ヨーロッパの市場経済界に対して大きく貢献するために踏み込んでいたのです。そのような事がきっかけでもあってブダペストに行く事となったのです。調べてみると東ヨーロッパにおける民族の隆替や移動等が物凄く複雑な歴史を形成していて、ハンガリーという国を非常に特色づけています。それが最後のところでお話しする「日本とも宿命的な因縁を背負っている」という伏線となりいます。
 我々がヨーロッパとの歴史を考える時に、意外なほど重要なのが「川」です。
北欧のヴァイキングが黒海の辺りまで川をつたって南下をしました。ヴァイキングと言うと、ノルウェイやスウェーデン等のイメージがあると思いますが、実はバルト海と黒海とは川の流れによって繋がっていて、冬場は凍結しているので3、4人乗りのカヌーの様な船を使って激しい移動をしていたという事が歴史的にあったそうです。分かり易く言うと、黒海とバルト海は繋がっているし、黒海とフランスとイギリスの間の海までは繋がっていると考える事が正しいのです。ヨーロッパを繋いでいる川の流れについては語るときりがない程複雑です。
 ヴァイキングが南に押し出してくる事によって、いまのイメージで言うロシアの南の部分にマジャール人という騎馬民族の一群が押し出されてそれがハンガリーにやって来たのが898年で極めて正確に記録が残っています。つまり、9世紀の終り頃に騎馬民族のマジャール人がハンガリーに入って来たという事です。そこから1241年から1242年にかけてモンゴルの蒙古が一大勢力となってユーラシア大陸を席巻していた頃、西はハンガリーからウィーンのところまで迫っていて、ハンガリーの王だったベーラ4世がブタペストを捨てて逃げなければならないという事まで起こっていました。一方、東では日本に蒙古が押し寄せて来たのは御存知の通り1274年(元寇・文永の役)なのでそれから30年くらい後なわけですが、西と東に大きく蒙古が張り出していた時代にハンガリーは蒙古=モンゴルの大きな影響を受けるのです。
 その後、1526年オスマン=トルコがやって来て、イスラムの支配の下にあったという時代がありました。そして、1697年からは隣のオーストリアのウィーンを中核にしたハプスブルグ家の支配の下に置かれて、1867年、19世紀の後半からはオーストリア=ハンガリーの二重帝国の時代がありました。
 このようにざっとお話をしてきましたが、ヴァイキングが動き、マジャール人が南下し、モンゴルの影響を受け、トルコの影響を受け、はたまたハプスブルグの影響を受ける等、要するにユーラシア大陸はこのようにして物凄い民族の隆替の中で形成されていたという事がわかります。
 第一次大戦の時にハンガリー=オーストリアの二重帝国が解体させられて、歴史的な意味においてハンガリーは終わったと言われているのは1920年です。面積を3分の1くらいまでにされて、ナチと連携して動いていた時代があり、第二次大戦が終わると今度はソ連の支配の中に、東側と言われている陣営の中に取り込まれていたという歴史がありました。
 そのような流れの中で、ハンガリーの人たちは忍耐に次ぐ忍耐、その中での反抗に次ぐ反抗と言いますか、ソ連統治の中で1956年のハンガリー事件(ハンガリー革命)等がありました。要するに、このような反抗の中で多民族の抑圧を受けながら生き延びる術を持ち、ハンガリー人であるという人の3分の1以上が海外に亡命して住んでいると言われているくらいで、海外に大きく展開していかざるを得なかったわけです。
ここからが本日の話の趣旨となるのですが、「どこを見てもハンガリー人だ」という言い方があるのですが、びっくりするくらいハンガリー人が海外に展開しているわけです。欧米でもハンガリー人が多くて、例えば、私自身も大変に影響を受けた社会学者のカール・マンハイム(註.2)という人がいますが、この人もハンガリー人です。そして、ジョージ・ルカーチ(註.3)というマルクス主義の哲学者もハンガリー人なのです。音楽家で言うとバルトーク・ベーラです。一番驚くのはアメリカのジャーナリズムの賞でピューリッツアー賞がありますが、このジョーゼフ・ピューリッツアーという人もハンガリーから亡命してアメリカで成功したジャーナリストです。先程、話題に出したジョージ・ソロスもハンガリー人です。このように海外で活躍している色々な人たちがハンガリー人だという事をまず、頭におかなければなりません。

木村>  ともに多彩ですね。

寺島>  そして極めて優秀です。そこで問題は、アメリカにおける原爆の開発と広島、長崎の話に繋がっていきます。
「ハンガリー・マフィア」という言葉があるのですが、ドイツに亡命したり勉強に行って核等を研究していた原子物理学者たちはハンガリー系のユダヤ人が多かったのです。それらの人たちがナチに虐待されるという事を拒否して、アメリカに亡命しました。その中心にいた男が有名なレオ・シラード(註.4)でした。これがコロンビア大学の実験室で友達から借りた2,000ドルのお金を梃に、ドイツが原子力爆弾の開発をしている、つまりヒットラーが開発をしているという事に危機感を感じて自分の研究室で核の基本的な実験をやり始めて、ある程度見通しを立てたのが1939年3月だったと言われています。ユージン・ウィグナー(註.5)というプリンストン大学出身で1963年にノーベル賞を受賞したのもハンガリー・マフィアの一翼をしめる原子物理学者だったのです。水爆の父と呼ばれていたエドワード・テラー(註.6)という有名な人もいますが、この3人組がロングアイランドにあるあの有名なアインシュタインの家に働きかけに行って、「アメリカも原子力爆弾を開発しないとヒットラーにやられてしまう」とフランクリン・ルーズンベルトに提言してもらい、国防省から6,000ドルの予算をとって、1942年12月に初めて実験に成功しました。それがニューメキシコのロスアラモスに持ち込まれて実際の原子力爆弾をつくり上げるというプロセスに入っていったわけです(註.7)。
 つまり、整理して申し上げると、ハンガリーからアメリカに亡命した3人組がナチス・ドイツに対する拒否反応から力を合わせて開発のきっかけをつくったのがアメリカの原爆だったという事です。その原爆が広島、長崎の上に落とされました。
ハンガリーは日本にとって何の関係もない国だと思いがちですが、実は全くそうではなくて、ハンガリーの背負っていた歴史、つまり、民族の隆替の中で常に抑圧される側の中にいて、故郷を捨てて海外に展開しなければならなくなった人たちがたどついたアメリカにおいて先程の3人組の人たちがつくった原子力爆弾なるものが日本に襲いかかってきたといわけです。歴史の因果と言いますか、歴史の相関性、連鎖性という事です。誰が悪いとかそういう話ではなくて、歴史のなんともつかない因果性を感じながら私は今回ハンガリーを後にしました。
こ歴史を考えた時に、この種の相関性をたどりながらイマジネーションを働かせていく事が歴史をたどる妙味であると同時に、我々を非常に刺激して、そのような中で我々自身が生きているのだという事を感ずるのだと思います。
ハンガリー=オーストリアの二重帝国の時代に初めて日本はこの国との外交関係をつくり上げたのですが(註.8)、非常に不思議な因縁を背負っているという事を少し話題にしておきたかったのです。

木村>  歴史に「もしも」とか「こうであったら」という様な事はないのですが、このように考えてみると歴史の中でハンガリーに住む人たちがどんなに苦難の時代を過ごしたり、翻弄されたりという事がなければという事から考えていくと、さて、原爆はあったのか? という話になり、いまあらためて我々が地球上の国と国との関係やここに戦乱を起こしてはならないというところに実は問題意識として発展していくという事でもあるのですね。

寺島>  イマジネーションなのです。日本人はなんだかんだ言いながら、天然の自然条件によって守られてきた島国としての部分があって、なかなか民族や歴史の相関性等に対して目が向かないのです。私はハンガリーからロンドンに出て、ロンドンで宿泊したホテルでハンガリーの王宮で手に入れたハンガリーの国旗に少し手が加わったデザインのバッチを帽子につけていたら、ホテルのドアのところに立っていた山高帽を被った男性に呼びとめられて、「あなたはハンガリーのバッチをしているが、何故だ?」と聞かれたのです。その人は「自分はハンガリー人だ」と言って、私はこんなところにもハンガリー人がいるとのかとびっくりしました。彼らはバッチ一つを見てもビビッとくるものがあるのでしょう。

木村>  なるほど。これは地球規模で我々がどれほど歴史に対するイマジネーションを持つことが出来るのかという事においてもとても触発されるお話でした。我々はハンガリーと言うと場所もなかなか地図上で指し示せなかったりします。或いは、ハンガリー狂詩曲やハンガリー舞曲等というところでとどまっていましたが、あらためて歴史の深さを感じる事が出来ました。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方からのメールを御紹介して寺島さんにお話を伺います。ラジオネーム「なかや工務店」の50歳台の方からです。
 「この間の総選挙で民主党が圧勝していわゆる55年体制が初めて実質的に崩壊しました。これによって日本はどのような変革をする事ができるのでしょうか? 来年は60年安保改定から50周年を迎えます。その事も踏まえて日本は今後、国際社会においてどのようなポジションを目指すのか、目指すべきなのか寺島さんの御意見を是非お伺いしたいと思っています」というメールです。

寺島>  今回の選択によって日本人が腹を括らなければならない事は、本当の意味で日本の戦後を見つめ直して戦後に積み残してきたり、ごまかしたりしたものに対して、戦後生まれの日本人があらためてしっかりとしたけじめをつけなければならないと言いますか、方向性を持たさなければならないという事だと思います。これはどういう意味かと言うと、日本の人口の8割以上が戦後生まれになって、概ね民主党の中核は戦後生まれ世代が占めてきているという事です。そこで、戦後なるものの日本が引きずった冷戦型の世界観からどれだけ脱却出来るのかというところが本当に問われているのだと思います。我々は戦後という日本に生きてきて、しかも、歴史的にみて日本の歴史の中でこれだけ平和で安定して幸せな時代を通過してきたわけです。つまり、国家が我々に強制してくるとか、徴兵制があるだとか、「お前はこのように生きろ」等と全体が我々に命じてくるような時代ではなくて、安定して平和な時代を過ごす事が出来たという事です。それらの人間が我々の後に来る世代にどのような日本を託して繋げていくのかという非常に重要なところにきていて、そのためには冷戦型の思考によってつくり上げた日本の防衛安全保障のシステムや日本の経済・産業の仕組み等の全体をしっかりとあるべき方向に向き直させるという事をいま実行しなければいけません。いままで通りでよいという事ではとても生きていけないのです。何故ならば我々を取り巻く環境が冷戦中とは大きく変わっているからです。例えば、中国が大きく力をつけて台頭してきていたり、世界のそれぞれの国が小国とはいえ自己主張をし始めて黙っていなくなったりしているのです。アメリカだけが一極支配で世界を束ねている状況だったのならば、ある面ではアメリカと轡を並べて一緒になって進んでいれば概ねそれほど大きな間違いはないという時代がついこの間まであったかもしれないけれども、世界は冷戦が終わった後20年間で大きく構造が変わってしまったのです。
 そのような中で自分の足元を見つめ直してこの国の生き方を再構築しなければなりません。一言で言うと、「脱冷戦型思考」です。これをどのような形で健全に取り戻していく事が出来るのか考え、考え、考え抜いて思慮深く日本をどのようにつくっていくのかという事が我々に問いかけられているテーマだと思います。
 防衛安全保障の問題については、いま出ている雑誌「文藝春秋」(10月号)に、日本のこれからの防衛安全保障に対する一つの切り口をかなり踏み込んだ形でロングインタビューを受けたものが掲載されています。関心のある方は読んで頂きたいと思います。
同時に、もう一つ問いかけられている事は、「日本の資本主義のありかた」だと思っています。政治だけが変わればよいという事ではなくて、経済界、産業界も大きく突きつけられているものがあると思います。
いま岩波書店から出ている「世界」という雑誌の10月号の「脳力のレッスン」の連載で私が書いているのが、「ビル・ゲーツの『創造的資本主義』」です。私はIT革命のフロント・ランナーだったビル・ゲーツは立派だったと思います。彼はアメリカの金融市場資本主義の行き詰まりに対して強い責任を感じていて、経営者としていったい経営というものはどのようにあるべきか、つまり、創造的資本主義を掲げて市場メカニズムでは解決出来ない格差や貧困等の問題を自分たちはどうすべきなのかという事を真剣に問いかけていて、私は非常に感激しました。日本の経営者の中に、特に次の世代の経営者と言っていいと思いますが、日本の資本主義のありかたはアメリカのウォールストリートの論理によって1990年代以降を走ってきたけれども、それが非常に大きな行き詰まりを見せているいまこそ、どのような経済産業社会をつくっていくべきかという問題意識を共有すべきなのです。まっしぐらに見つめなければならない事は政策の軸だと思います。

(註1、司馬遼太郎は旧制大阪外語大学<現在の大阪大学外語学部>のモンゴル語科を卒業している)
(註2、1893年ハンガリーのブダペストに生まれる。知識社会学の提唱者として知られ、著書に「イデオロギーとユートピア」等がある)
(註3、1885年ハンガリーのブダペストに生まれる。哲学者。著書に「歴史と階級意識」等がある)
(註4、1898年ハンガリーのブダペストに生まれる。ユダヤ系アメリカ人物理学者)
(註5、1902年ハンガリーのブダペストに生まれる。ユダヤ系物理学者)
(註6、1908年ハンガリーのブダペストに生まれる。ドイツのライプツィヒ大学等を経て、アメリカに亡命したユダヤ系物理学者)
(註7、ロバート・オッペンハイマーがリーダーとなって開始されたマンハッタン計画)
(註8、1869年日墺修好通商航海条約締結)

第34回目

<中東の新しい局面~アメリカと中東~>

木村>  前回の放送は「インドと日本~日本を見つめる定点座標~」というテーマでした。 今朝のテーマは「中東の新しい局面~ウィーン中東会議で講演して~」というテーマです。お話の中身に入る前に「中東協力現地会議」が一体どのような会議なのか伺いたいと思います。

寺島>  これは1973年に石油危機があってその後に財界総理とも言われた日本興業銀行の中山素平さんと三井物産の中興の祖とも言われている水上達三さんの二人が中心となり、今の経済産業省と一緒になって日本と中東との関係に腰を入れて考えた方がよいという事でつくった会議で、今年で34年続いています。
私は今年で4回目の出席なのですが、ちょうど今世紀に入ってから1年おきくらいに中東協力現地会議がウィーンで行なわれて日本から中東関係のビジネスに関わっている人たちや官公庁の人たちが150人くらい参加します。そして、中東からも現地に張りついている日本の各企業の支店長や外交官等のほか、日本人ではない人たち、例えばウィーンにあるOPECの事務局の人たち等中東に関わりのある人たちが一堂に会して議論を深めるという場が続いているのです。そこで定点観測のような役割を果たしていて、8月末に話をしてきました。
日本と中東との関係の変化については後ほど話しますが、考えてみると、今年も9月11日が過ぎていきました。私はこの数字に物凄くこだわっているのですが、9・11からちょうど8年が経ち、今年の9月10日迄の間にイラクで亡くなった米軍兵士が4,339人、アフガニスタンで亡くなった米軍兵士が822人で、ついに、両者を合わせて5,161人となりました。アフガン、イラクにおいて結局多国籍軍の兵士、現地の民間人等を含めるとどんなに少ない推計でも15万人の人が亡くなったであろうという8年間を過ごしてしまったのです。
9月11日の事件が起こって、ブッシュ大統領が「テロは、犯罪ではなく戦争だ」と言って、アフガン、イラクと攻め込んで行きました。その結果、これだけの人たちを犠牲にしてアメリカ自身も大変な消耗をしているという話は以前からこの番組でも話題にしてきています。アメリカはイラク戦争に反対していた立場のオバマ大統領を選び出して、必至にいま中東での立ち位置と言いますか、それを変えようと一生懸命にまさにチェンジさせようともがいているというのが現下の状況だと思います。

木村>  オバマ大統領は最初の特使を中東に派遣しましたね。

寺島>  前の上院院内総務のジョージ・ミッチェルです。私は今般中東協力現地会議で講演をウィーンで行なうにあたって、アメリカの対中東戦略がどのようにいま変わりつつあるのかという事を色々と調べました。そのような中から浮かび上がっている構図なのですが、一言で言うとオバマ政権は途方もなく大きな瀬戸際に来ています「第二のカーター政権」になるのか、「第二のFDR政権」になるのかという事です。どういう意味かと言うと、ベトナム戦争で敗退して、1975年のサイゴン陥落の後、アメリカはカーター大統領を選び出しました。カーター大統領は人柄のよい「癒やしのカーター」と言われていたけれども、彼の政権のあいだにイラン革命が起こって常に対応が後手後手に回ってカーター政権は一種の弱腰外交の典型のように総括されていて、外交的には失敗政権だと見られています。
 いま、ベトナム・シンドロームと同じ様なイラク・シンドロームにアメリカは襲われていて、どのようにそのシンドロームから脱却していくのかという時にオアバマを選び出しました。オバマ政権は、第二のカーターのように綺麗事は並べ立てるけれども結局成果を収めないまま失速をしていくかもしれないという見方が起こっているという一つの見方があります。もう一方で、オバマはアメリカの再生を担って相当な事を対中東戦略にも実行するのではないのかという期待感もあります。その分水嶺にいよいよさしかかり始めているというのが現下の状況だと思います。
その時の重要なポイントが、イラクとアフガンに跨るところに位置するイランという国の存在なのです。イランとの関係をどのようにするのか、特にイランの核をどのように制御するのかという事が大きなテーマとして横たわっています。イランという国は非常に強かで1979年のホメイニ革命以来、シーア派、イスラム原理主義の総本山としてひたひたと力をつけてきました。皮肉にもアメリカが選挙を通じてイラクをシーア派の政権にしてしまったため、アメリカが予定している2011年湾岸から撤退するという事がもし起こったら、アメリカは結局5,000人以上の若者を死なせてまで、こともあろうにイランを強大化させて中東を去るという事になりかねないわけです。イランが核兵器を持つという事になったら本当に呪われたシナリオになってしまいます。
 イランは「中東の非核化」という言葉を強く投げかけています。どういう事かと言うと、我々も北東アジアの非核化=核なき北東アジアにするという事を目指そうと発言しますが、中東全域を非核化するのであるならばイランは自分たちの核の誘惑を断って核を放棄してもよいと言っています。つまり、非常に重要なのはイランも北朝鮮も核問題で国際社会から孤立しているけれども北朝鮮とは違ってイランはただの一度も核兵器を持つという事は言っていないのです。あくまでも原子力発電、つまり、核の平和利用について権利を保有しているという事を主張しているのです。その延長線上で中東の非核化条約ができるのであれば参加してもよいと言っているのです。これが何を意味しているのかと言うと、アメリカにとってみると大変に悩ましい事を言っているわけで、つまり、イスラエルが本当は核を持っているけれども、持っているのか持っていないのかわからないような状態にしたまま封印してある問題を引き出してくる事になるわけです。イランが言っている事を突き詰めていくと、もし、アメリカがイランに核を放棄しろとか、核なき世界を実現するとかいう事を本気で言っているならば、まず、「中東におけるアメリカの戦略パートナーであるイスラエルの核をキチンと制御してから自分たちに核を放棄しろ」と言ってくれという事です。アメリカの世に言うダブル・スタンダード=二重基準で言っている事があぶり出されてしまうわけです。イスラエルの核はOKだけれどもイランの核は駄目だという論理はどこから出て来るのだという事でイランは刺し違えてる構えなわけでアメリカにとって実に悩ましいのです。
何故、悩ましいのかと言うと、国際政治を議論する時にはこの事を知っていなければならないのですが、1969年、ニクソン大統領の頃にイスラエルにゴルダ・メイアという女性の首相が就任しました。日本でもアメリカと日本の間に核持ち込みに関する秘密了解が最近問題になっていますが、イスラエルとアメリカの間でも核に関する「メイア=ニクソン秘密了解」が出来上がったのです。

木村>  「密約問題」ですね。

寺島>  どのような密約かと言うと、要するにイスラエルが核開発に成功したという事をアメリカは認識しているのだけれどもイスラエルは核保有しているという宣言をしない、世界に対して俺たちは核を持っていると宣言をしない代わりにアメリカはイスラエルをNPT=核拡散防止条約の中に引き込まないという密約をしているという事です。つまり、イスラエルの核問題を封印してしまったという事なのです。
 中東全域の非核化問題、イランの核問題はその事に手をつけないと制御出来ないのです。一般的に日本のメディアもアメリカの情報に明るい人たちも、オバマ政権は、例えば米国内のユダヤ勢力やイスラエルの支持というものを常に語っていて、ユダヤ・シフトにしている政権と言いますかユダヤ支持、イスラエル支持を正面から掲げた政権だとよく言われます。しかし、そこにもし傾斜していたならば今度はイランの核問題や中東におけるアメリカの影響力を最大化できないという悩みがあります。
 例えば、つい先日、国連総会を前にしてアメリカは国連安保理次会にNPTの普遍化、つまり全ての国をNPTに引き込んでいくとか、CTBT=包括的核実験の禁止条約を全ての国に批准させて、招き込んでいくような流れをつくって、オバマの核なき世界を踏み込んだ構想を語り始めています。
 しかし、この「全ての国に」という言葉はNPTを普遍化して全ての国を招き込んでいくという事のターゲットはイランであり、北朝鮮でもあるけれども、先程のダブル・スタンダードを解消するためにはイスラエルを招き入れなければ全ての国にはならないという事になってしまいます。事実、ここにきてオバマは我々が思った以上に本気で踏み込んで、この言葉の延長線上にイスラエルさえも想定して引き込もうとしている空気が出始めています。
したがって、イスラエル側からすると、自分たちが持っている核についてアメリカが方針転換してくる可能性を察知して非常に警戒しているわけです。奇しくも今年の春のイスラエルの選挙でイスラエルの政権はベンヤミン・ネタニヤフという強硬派保守政権が出来てしまいました。イランの方もアハマド・ネジャドという大統領が再選されてこちらも強硬派保守政権となりました。
イスラエルはオバマがもしも本気で核なき世界に踏み込んで来て、自分のテリトリーにまで踏み込んで来るならば極めて危機感を感じており、ここからが非常に危うい話なのですが、例えば、イランの核施設を単独でも攻撃する余地はあるのだと言わんばかりの動きを若干ちらつかせ始めています。

木村>  それは過去にはシリアに対して、公式には認められはいないけれども、事実そのような事があったのではないかと……。

寺島>  イラクにもありました。それでここのところにきて国際的なメディアの世界に4,400キロの航続距離を持っているような戦闘機や爆撃機等を開発しているという情報を殊更にリークしてきています。つまり、イランまでの距離が約1,500キロで往復して帰って来られますよという事を暗にアピールしているようなものです。非常に微妙な情勢、つまり、一見オバマの核なき世界は理想主義的な事を語っているように見えるけれどもこれを本気で実行するならばいままでアメリカが封印してきたイスラエルの核をどのように制御するのか、つまり、筋道一貫したものでないと世界はついて来ないという状況になってきているわけです。
 オバマ政権は政権の内部が「チーム・オブ・ライバルズ」=ライバルによって成り立っている政権で、例えば自分の政敵だったヒラリー・クリントンでさえ国務長官にとり込んでいます。これは寛大で自分とは意見を異にする人たちも包み込んでいく様な偉大な指導力がもしもあれば、大変素晴らしいフォーメーションになるのですが、ガバナンスを失ったり、下手に間違えるとバラバラになりかねない状況になっています。中東でアメリカがこれから大いに踏み込んでリーダーシップを確立していく上で、内にそのようなチーム・オブ・ライバルズという構図を抱えながら世界に対しては筋を通していかなければならず、非常に難しい局面にあります。
そのような中で、日本は、だからこそ大変に重要な役割を期待もされ、果たさざるを得ないところにきているという話を私は後ほど申し上げたいと思います。

木村>  日本の果たすべき、或いは、立つべき場所というものについて後半でお話を伺います。

<後半>

木村>  前半のお話でアメリカの政権がある意味では非常に緊張をはらんだところにいま立っているという事が寺島さんのお話でわかりました。そこで日本がどのようなところに自らの位置を定めるべきか、中東に対してどのような立場をとるべきなのかという事ですね。

<中東の新しい局面~日本の役割~>


寺島>  中東協力会議において大きな話題になっていた点で、日本外交はアメリカだけについて行っているとよく言われていますが、中東政策に関してだけは特異なポジションにあるのです。
8月5日にイランでアハマド・ネジャド大統領の就任式があったのですが、御存知のように大統領選挙の不正という問題もあって、お祝いどころかアメリカとかヨーロッパの国々はこの政権の正当性さえも認めていないという状況にあるわけです。しかし、先進国の中で日本だけはイランに対して祝意を表していて、欧米からすると「日本は何をやっているのだ」という不思議な印象を与えています。これはある面では日本の中東における特異性と言えます。アメリカは1979年のイラン革命=ホメイニ革命以来、イランと断交を続けているけれども日本は大使も交換する等して継続的にイランと現在もつき合っているという不思議なポジションにあります。
 そこで、日本とイランとの関係は、今後アメリカや西側の国がイランと向き合う時に大変に重要なブリッジになります。しかも、中東産油国にとっても日本は中東に石油を依存しているという言い方もありますが、中東の石油を安定的に買い続けている存在でもあるわけです。
 先程話題にしたイスラエルの問題について、欧米の国々はイスラエルに様々な意味で宿命的な弱みを背負っているという背景があって、欧州もイスラエルにEUの準加盟国待遇を与えているのです。それは何故かと言うと、いまだに第二次大戦の時にナチが600万人のユダヤ人を虐殺した話を引きずって贖罪意識があり、特別なポジションを認めざるを得ないという事です。
アメリカでは人口のわずか3%にしか過ぎないユダヤ人ですが、政治的には大変な影響力をもっているので、その政策に常にイスラエルとかユダヤ等に対して配慮せざるを得ない立場にあり、パレスチナ問題、イスラエル・パレスチナ紛争に対して中立的ではいられないわけです。しかし、日本は、その問題に対してどちらかに加担しなければならない様な歴史的必然性を一切もっていない特異な国です。しかも、中東のいかなる地域にも武器を輸出した事もなければ、中東のいかなる軍事紛争にも介入した事がない国で、これは中東の人たちにとってみると大変に重いメッセージなのです。
いままでは中東と日本の関係は「石油モノカルチャー」、つまり、エネルギーの関係だけで成り立っていたと言ってもいいくらいでした。いま日本のエネルギー、石油の9割を中東に依存していますが、今後、ロシアとの関係が非常に重くなってきて、5年以内にロシアとのサハリンのプロジェクトやシベリア・パイプライン等のプロジェクトが動いてきたならば、日本の中東に対する石油の依存度は9割から6割台に落ちます。
そのような流れの中で益々中東との関係が希薄になるのではないかと思いがちな人もいると思いますが、むしろ多様化してきていて、化石燃料=石油等があるうちに原子力や再生可能エネルギーや太陽光発電等の技術を取り込んでおこうという強い関心を中東が示し始めています。日本と中東の間のプロジェクトとして、そのような分野の協力が今後始まって行くと思います。そして、同盟国であるアメリカが中東においてある種のガバナンスをきかせていかなければならない時に、日本の協力や日本の発言が凄く重くなってくるのです。
国際的な核の管理という時に必ず登場してくるウィーンにあるIAEA=国際原子力機関のトップに天野之弥さんという日本人が正式に承認されました。そのような事もあって、私は、原子力の平和利用や核の国際的な管理等について日本が大きな役割を担い始めているという自覚と共に、中東問題をそのような新しいアングルから考える必要があるという事を申し上げておきたいのです。

木村>  イラク戦争でアメリカと歩調を一にした時から、寺島さんはこの問題を極めて厳しくきっぱりと批判をしてこられました。その寺島さんの発言だけに我々の中東への眼差しがどのようにあるべきか、我々がとても重く聞くお話だったと思います。

2009年08月30日

第33回目

木村>  先週の放送は「地域活性化と地方分権」というテーマでした。日本のこれからの形と地方の在り方を地方分権という言葉によってどう捉えるべきなのか、或いは深めて行くべきなのかというお話を伺いました。
 今週は「インドと日本~日本を見つめる定点座標~」というテーマです。この言葉からインドが日本を見つめるための定点座標という事になるのでしょうか?

<インドと日本~日本を見つめる定点座標~>

寺島>  私は国際社会を動いていてインドについて思う事があります。我々は「インド人から見た日本というものを自覚しなければいけないな」というくらい私はインド人の目線を意識します。まるで日本を見つめている定点座標のような気がするわけです。
既にこの8月で終戦から64年が経ち、戦後生まれの日本人と言っても64歳になっているくらいですから、今や忘却の彼方に日本人が忘れている話なのですが、インド人は全く忘れていないという話がいくつかあります。
まず、チャンドラ・ボースという人がいたという事です。よほどの事情通でないと若い人は誰の事なのか知らないと思います。彼はベンガルで弁護士の子供として生まれて、ケンブリッジ大学を卒業したエリートでした。
チャンドラ・ボースは軍国少年だった時代の世代の人からするとインドの英雄と言いますか、日本軍と一緒になってインパール作戦(註.1)を戦って、インド独立のためにイギリスに反逆した風雲児というドラマチックな人間です。調べれば調べるほど「風雲児」という言葉はこの本当にこの人のためにあるのだと思うくらいです。
私はインドに行ってびっくりした事があります。歴史博物館等でガンジーやネルー等のインド独立の英雄という人たちは高く評価されているだろうが、傀儡政権を日本と一緒につくってイギリスと戦ったチャンドラ・ボースという人間は、日本と同じようにインドにおいても忘れ去られていると思っていました。しかし、インドではインド独立の英雄として大変な展示がなされているのです。
チャンドラ・ボースは、最初はガンジーやネルーたちと手を組んでインド独立のために行動していましたが、いわゆるガンジーたちの非暴力主義とは違って、武力闘争をもってしてもインドの独立を達成するのだという事で、インドで逮捕されていたのですがアフガニスタン経由しソ連を経由して抜け出て行ってドイツに渡って、ヒットラーと手を組んでインド独立のためにインド義勇軍のようなものをつくって戦っていたのです。しかし、チャンドラ・ボースはヒットラーの人種差別的な考え方に失望して、日本が開戦した事を聞いて日本軍と一緒に戦おうと思い、ドイツの潜水艦によって送られてマダガスカル沖で日本の潜水艦に乗り換えてアジアに現われたのです。ピーク時はシンガポールでインド独立のための軍を2万人も組織していて日本軍と一緒にインパール作戦の戦いに臨んで行ったという人物という事で歴史に名を残しているのです。しかし、彼は終戦後間近にして日本の旗色が悪いと、今度はソ連に亡命して、ソ連でイギリスからの独立運動をやろうとしましたが、台湾で航空事故によって死んでしまったのです。まさに、終戦の日の頃(8月18日)でした。いま彼の遺骨は東京の杉並区の蓮光寺というお寺に祀られています。
そのような物語を知っている日本人はすっかりいなくなってしまいましたが、インド独立のために戦った7千人は、終戦後に捕まってインドに送還されましたが、これらインド人たちの裁判・処遇がインド民衆の反英独立運動を燃え上がらせる契機となりました。チャンドラ・ボースの戦いは決して無駄ではなかったという事がおそらくインド人の人たちのチャンドラ・ボースに対する理解だと思います。
日本人とこれほど縁のある人物なのに日本人でチャンドラ・ボースと一緒に日本は戦ったという事を知っている人がほとんどいなくなってしまったという事がまず1つ目の話です。
2つ目の話は、これはいまでも盛んに問題になっている事です。日本が戦争に敗れた後、東京裁判がありました。インドを代表する形で東京裁判に判事としてやって来たのがパル判事(註.2)という人で日本人でも結構知っている人がいます。有名な「パル判決文」を書いてインドに帰ってしまったという話です。いわゆる戦犯として当時、東京裁判によって被告になっていた25人全員を無罪だという判決を下して自分の判決書を書いてインドに帰ってしまったというわけです。彼の「パル判決書」は何も日本に同情したり弁護をする意図で書かれているわけではない事はいま文庫本で出版されているので、若い人でもそれを読んだらおそらく心を揺さぶられると思います。
彼は東京裁判の仕組みそのものがおかしいと主張していたのです。復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないような、みせかけの裁判であって、国際正義とは名ばかりで、こんな儀式化された復讐、つまり、復讐を儀式化したような裁判では被告人に対して間違った判決を下すため、後で結局は後悔をする事になるだろうというような判決文を書いて帰ってしまったのです。私は戦後の混乱とゴタゴタの中で憎しみが復讐の心になって繰り返されるような状況の中でこれだけ冷静な法理を尽くした判決文を書いた人物の事が前から気になっていて、インドから来た判事の存在感が心の中に非常に残っていたわけです。
彼は1966年、80歳だった時に招待されて日本にやって来て、尾崎記念館で読売新聞主催によって最後の講演をやりました。彼は「世界平和と国際法」というタイトルで話をするはずだったのですが、壇に上がって老齢だった事もあって言葉が出ないで最初から最後まで無言だったのです。そして、合掌を続けていたそうです。聞いていた人たちがみんな一言も発しない彼の講演に感動して涙を流したという記録が残っています。私は自分が講演をやる機会が色々とありますが、最初から最後まで一言も発しないで感動させるという講演をやってみたいと半分冗談ですが思ってしまいました。
その時、パル判事が「日本の青年に」として朝日新聞に書いていた記事で、西洋の分割統治=divide and rule、つまり、分割して自分の影響力を最大化するというやり方に気をつけろというものがありました。どんなイデオロギーのためであっても分裂してはならないという事を日本の青年に訴えて帰って行ったわけです。
箱根の湖畔に彼の記念碑が建っています。日本人は東京裁判の事を調べている人なら必ずパル判決書というところにぶつかるけれどもこのようなインド人がいたのかという事にびっくりするような感銘を受けるはずです。
そして、もう一つ、これが重要なのですが、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれて日本は国際社会への敗戦後の復帰を果たします。しかし、サンフランシスコ講和条約の時にインドは署名しなかったのです。彼は日本に駐留している全ての米国の軍隊が日本を引き揚げるならば署名してもよいと変な条件を出しました。しかし、翌年にインドは日本との単独講和に応じてくれました。実はインドの単独講和がその後日本がアジアに新しい関係を構築して行く上で大変に重要になり、1955年のバンドン会議(註.3)において日本はアジアに言わば戦後初めてのコミュニケーションのチャンネルを復活して行くのです。

木村>  世界の舞台に初めてと言っていいくらいの復活なのですね。

寺島>  本日、私が話して来たチャンドラ・ボースやパル判事、サンフランシスコ講和条約の時のインドのスタンス等を見ると、要するに、日本という国の国際関係をジーッと見つめて来ているインドの目線が何故気がかりなのかという事が次第に分かって頂けると思います。
 インドはなかなか味わい深く日本を見つめているわけで、何故サンフランシスコ講和条約に署名しなかったのかという事をインドの言葉を心の中で描き出してみると、「あなたたちはついこの間までアジアの解放だとか言って興奮して、インパール作戦だ、チャンドラ・ボースだと言っていたのではないのか? 開戦してわずか5、6年で今度はアメリカとの間に講和条約を結んで行くのは結構だけれどもアメリカ軍の基地を引き受けて、その軍門にくだって根性を失って、アジアの解放だとか自立自尊と言っていた話はどこへ行ってしまったのか?」と言わんばかりのメッセージだと感じます。いわゆるインドの非同盟諸国会議(註.4)を今日においても率いている目線は結構怖いわけです。東西冷戦の真っただ中でも非同盟という事でどこにも帰属しない目線でジーッと日本を見てきていたのです。
 そのような中で、さて、今後日本がどこへ進むのかという事についてもインド人の目線から見ていると思います。核保有しているインドや最近のインドとアメリカとの関係を見ていて、日本人としてインドに対して非常に首をかしげなければならない部分は率直に申し上げてあると思います。しかし、我々は、この番組でも何度も申し上げていますが、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という戦後を生きてきました。例えば、インド人の目線から見たら日本という国の戦前から戦後にかけての歴史はどのように見えるのだろうかと考える事は非常に大事な事だと思います。勿論、インドだけの事ではなく、アジアの人たちの目線で見て、日本がどのように映るのだろうかという事を問いかけてみる時に、インドという問題意識が物凄く重要なのです。この事を本日は話題にしておきたいわけです。

木村>  日本において外交の中でインドが取り上げられる時の一つには勿論、経済的に力をつけているインドとどのように交易=通商を結ぶのかという事と共に、もう一つはとりわけASEANを舞台にして、中国というものをどのようにその力を牽制するのかという発想の時に、どうしてもインドが出て来ます。何と言いますか、ある種の小手先の議論というものが随分多くて、そこが解せないところだと思います。

寺島>  アジアが結局日本を見捨てずに支えてくれた事があるという事を忘れてはならないのです。それは何故かと言うと、日本の戦後に大きな影響を与えたアメリカの元国務長官のダレスがアメリカの「フォーリン・アフェアーズ」という雑誌にサンフランシスコ講和条約の頃、「インドが見ているぞ」という事を書いているからです。インドはアメリカが日本を対等なパートナーとみなして、友好的な協力関係を構築して行く可能性は低いと見ているために、インドは講和条約の調印の条件として米軍の日本及び琉球列島からの完全撤退を要求したわけです。この要求が認められなかったためにインド政府は調印を拒否しました。我々はこのようなインドの懸念が現実のものとならないようにしなければならないのです。つまり、アメリカがフェアーでなければインドが見ているという事です。インドのこのようなスタンスが日本の占領政策に対して物凄く大きなブレーキにもなっています。我々は歴史の中でアジアから決して孤立していないと言いますか、アジアから孤立して敗れたような戦争だけれども、例えば、インドから見た日本がこのような形によって深い縁を持っているという事を我々は歴史の中で学ばなければならないと思います。これが私が申し上げたい事です。

木村>  インドと日本、日本を見つめる定点座標、つまり、我々はつい忘れがちですが、我々がインドから見つめられていて、しかも、そこに歴史的な深い思考がなければならないという事が寺島さんのお話しされた事から学びました。では、後半のお話に展開して行きたいと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方のメールを元にして寺島さんにお話を伺いたいと思います。東京でお聴きのラジオネーム「伊藤勇一」さんからです。
 「日本の景気に関して伺います。先日、4月、6月の日本のGDPが3.7%のプラス成長でおよそ1年半ぶりに景気回復といった報道がありました」。これは年率換算という事です。
 「これは補正予算の効果が出た結果という事ですが、問題はこの先このままプラス成長を続けられるのでしょうか? いま選挙で選挙戦に突入しましたがどの党が政権をとろうともこの先の経済対策が私たち有権者にとって重要になって来ると思っています」。
 確かに、5期ぶりのプラスで、四半世紀ぶりの5期重ねてのプラスになったという事が大きく報道させましたが、この先どのようになるのかという事ですね。

寺島>  日本経済が四半期のベースでプラスに転じた大きな理由は2つあります。
1つはカンフル効果で緊急避難的に打っているエコカー減税等、色々な事をやっていますが、このようなカンフル注射が効いているという瞬間風速的な意味と、そしてもう1つは中国依存要素と言いますか、中国向けの輸出が日本の景気回復を支えている事です。何もかも中国に依存して景気回復する日本という姿が見えてきていて、長期的に見ると日本の産業等の構造が長期的な成長に実現して行けるような軌道の中にあるとは考えないほうがよいと思います。だからこそ、長期的な視点において、例えば日本産業の弱点を補って未来に布陣するような方向に重点的に未来投資が行なわれる流れをつくっていかなければならないのです。そして、瞬間風速的に一喜一憂しないという事が非常に重要です。
 短期的な数パーセントのGDPの動きに対して一喜一憂するよりも、未来に向けてもっと中身のある、つまり、外国に依存しなければ成長できないような状況から内需を固めて資源を外国に依存しなければならないところから資源を自分の国の中で技術をもって資源開発に立ち向かうような視点を持つことです。この番組でも海洋等、色々な事を言ってきましたが、そのような戦略視点が物凄く重要なわけでカンフル的要素に一喜一憂しない事がいま我々が経済をしっかりと見る時の基本的な視点にしなければならない点なのだと思います。

木村>  だからこそ、寺島さんがいつもおっしゃっている「産業力」というキーワードが出て来るわけですね。

寺島>  産業力を支える日本の技術基盤は決して虚弱なわけでも何でもなくて、私はいま世界が環境を軸にしたグリーン・ニューディールが話題になっている時に、日本が持っている潜在的な技術基盤が物凄く重要になって来ていると思います。
 私は数日前まで台湾に行っていて、台湾の枢要な人たちと色々と議論をして来ましたが、日本の技術に対する彼らの敬意は大変なもので、どのようにしてそれと連携して行くのかという事を盛んに色々な形で提案を受けて議論もしました。
いま、我々は、日本の持っている技術力に対する自覚を高めなければならないのです。そして、それに更に力を与えていかなければなりません。特に若い人たちの技術系離れが起こっていますが、「日本の宝は技術力なのだ」という事を我々は意識の中で共有しなければならないと思います。

木村>  技術力がとても大事なもので、言葉が適切かどうか分かりませんが、そこに従事するという事、そして、働くという事が尊い事なのだという価値観を社会にもう一度思い出さなければならないですね。

寺島>  それが報われる仕組みをつくならければならないのです。これが教育だ何だというところに繋がって行くのだと思います。そこのところがこれからの社会工学と言いますか、政策科学の中で一番問われなければならない点なのではないでしょうか。

木村>  という事が、やはり数字というものを受けとめる時に、ただ数字だけに一喜一憂しなくても、我々が考えるべきところはここにあるのだという事になると思います。

(註1、1944年3月に開始され、7月まで日本軍によって続けられた軍事作戦。ビルマ防衛のため、英国軍の対ビルマ軍略拠点のインパールへの進攻を企図した)

(註2、Radhabinod Pal。1886年インド・ベンガル生まれ。1923年、カルカッタ大学法学部教授、カルカッタ大学総長時にインド代表として東京裁判の判事の一人となった)

(註3、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカの29カ国による会議。アジア・アフリカ会議とも言われる)

(註4、東西冷戦期に、いずれの陣営にも組みせず、中立を貫こうとした諸国による会議で、1961年以降、基本的に3年に1回開催)

第32回目

木村>  今月は「月刊寺島実郎の世界特集」として先月22日に東京で開かれた第8回日総研フォーラム「世界をみる眼~21世紀初頭を超えて~」の模様を先週まで3週にわたってお送りしましたが、その様子についてリスナーの方からメールを頂きました。東京でお聴きのラジオネーム「とっちゃん」からです。
 「先日の放送で第8回日総研フォーラムの模様を聴きました。各先生方のお話を大変興味深く聴く事が出来ました。放送を聴いて多くの事を考えさせられました。次回の第9回のフォーラムには是非参加させて頂いて現場で生の話を聴きたく思います」というメールを頂きました。

寺島>  ありがたいですね。日本総合研究所のフォーラムは今回で8回目だったのですが、毎回、いま発言している人の中で「これは」という人をお呼びして議論をする事を積み上げてきています。この番組のリスナーの方にも次回、次次回と機会があれば是非参加をして頂けるようにしたいと思います。

木村>  ラジオ、そしてWebで聴く事も出来ますが現場で聴くと表情や話のやりとりの間合い等にも深いメッセージがあると思いますので是非生で聴いて頂きたいと思います。
 さて、今朝のテーマは「地域活性化と地方分権」です。近日中に、選挙という事もあって、地方分権がテーマとして取り沙汰されています。言葉では「地方分権」が随分語られますが、一体何を地方分権として考えるべきなのかという事も含めてあまり深まっていないような気がします。

<地方分権を考える>

寺島>  いま選挙に入っていて地方分権が一つの大きなテーマだと言われています。知事の中でも大変に目立った人たちが国から地方に財源と権限をよこせと主張していて、「全国知事会」が非常に目立っています。
いま霞が関批判が一方にあるので、なにやら国の権限を地方に移して行く事が日本を良くする事なのだという考え方がフワッとした形で、流行り言葉のようになっていると思います。
しかし、我々はここでじっくりと国と地方の在り方が一体どういうものであるべきなのか考える必要があります。
いま各政党も知事会等からの突き上げをくらって「国と地方の協議会をつくって、対等な関係で議論をする事が大事である」と言わば知事会に押されるような形でそのような流れが出来て来ているわけです。しかし、いま本当に考えなければならない事は日本という国の在り方としてどのような中央の政府と地方の政府の在り方が正しいのかという事なのです。
私は日本という国は本当に強い国家としてのガバナンス=統治能力をしっかりと持ったキリッとした力のある政府と、活力のある地方が車の両輪のようになっていなければならないと思うのです。例えば、中央が弱くなって地方に全部権限や財源等が移ると日本は良くなるのかと言うと、そんな単純ものではなくて、世界の大きな怒涛のような流れの中で国家としての日本もキリッとしっかりしていなければならないし、地方も活力がなければならないのです。
 そのような中で、振り返れば、戦後の日本における中央と地方の在り方が一体どのようなものだったのかという事を語って行きたいと思います。
この番組で何度も議論して来たように戦後の日本は経済力で敗戦したと総括しましたから、とにかく経済復興だ、成長だという事を図るために「東京に一極集中」という言葉が使われるくらい都市圏に人をどんどん引きつけて高度成長の時代を走ったわけです。その時の日本における中央と地方の分配構造はどのようなものだったかと言うと、産業も人口も東京に集積させて行き、どんどん成長を実現化し、その成長によって得た成果=果実を地方に、例えば、大型公共投資のような形で分配するのです。しかも、選挙制度の仕組みがそのようになっていた事もありますが、政治のメカニズムが皮肉な事にまさに一票の重みが都会における一票よりも地方における一票の方が重く、地方に多くの代議者=政治家がいたために、中央から地方に果実を引っ張って来る事が政治家の実力のようなものとして語られて、公共投資を出来るだけ地方に引っ張る政治家が力のある政治家であると評価された時代がついこの間まであったわけです。
そのような中で、1980年代末に竹下政権がふるさと創生型事業という全国の3千を超す自治体に1億円ずつ金をばらまいて、その1億円を好き勝手に使ってよいという大盤振る舞いをやりました。それは戦後型分配の究極の様相と言えます。
 その後、1990年代にバブルが弾けて以降、日本経済がずっと右肩上がりではなくなって来るにつれて、都会に吸い寄せられて来たサラリーマンの心理も大きく変わり始めたのです。しかも、世代が変わって田舎に分配が回ることに関して必ずしも共感しなくなってきました。それは何故かと言うと、サラリーマン第2世代、第3世代、つまり、故郷を捨てて東京に来て活躍している人たちの息子、孫という人たちが東京に定着して生活をしている時代になってしまったわけです。そのような人たちからすると、日本における田舎はディスカバー・ジャパンの観光地であり、自分のお爺さん、お婆さんや両親が住んでいるような場所でも何でもなくなってきて距離感がどんどん遠のいてきているのです。
 そして、公共投資を地方にばらまいたり、地方を活性化するという美名の下に分配するのは不公平な事だという感覚を都会のサラリーマンが持ち始めたのです。さらに小泉政権時代の言わば競争主義、市場主義によって、「市場に任せろ」という流れが起こっていく中で、ますます地方に分配する余裕がなくなり、地方に分配する事に対する理解者、共鳴する人たちが急速に細っていった事が背景にあると思います。
このような中で地方に公共投資等を分配する事はとんでもない話だというような事になり、話がひっくり返って、「三位一体の改革」という言葉の下に地方分権が進められました。結末としては、三位一体と称して国から地方に与える補助金を削減して、一部税源は移譲するけれども、実際に地方の行政を司っている機関は物凄く財源難に陥っていって急速に地方が追い詰められていったという構図があり、ここに地方がうめき声を激しく上げ始めた背景にあるのです。

木村>  地方の疲弊も語られます。そして、「シャッター通り商店街」と呼ばれるものも地方で問題となっています。

寺島>  公共投資に対して中央に住んでいる、つまり、大都会に住んでいる人たちが地方に金を回す事に共鳴しなくなり、むしろ公共投資等を地方に持って行く利権の構造に対する激しい反発を覚えるようになった事が背景にあって、ますます地方が疲弊して行くところに追い込まれていきました。そこで地方分権などというものが急速に危機感を持って語られるようになってきたわけです。最近の地方分権論の流れにはこのような背景がある事を知っておかなければならないと思います。
 そして、ここで少しお話ししておかなければならない事は、であるが故に地方分権が基本的にどのような方向に進むべきなのかと言う時のキーワードとして登場する「道州制」についてです。

木村>  大きな括りの地方自治体というものに変えて行こうという見方ですね。

<地方分権と道州制>

寺島>  我々は現実問題として日本の地方が平成の大合併で物凄い勢いで変わっている事に気がつかなくてはなりません。自治体の数が大幅に減り、かつて3,232もあった市町村の数が2006年3月迄に1,820になって、来年の3月迄には1,760になると言われています。いわゆる基礎的自治体と言うものです。つまり、市町村合併を繰り返す中で、最小単位の行政主体の数が少なくなってきているわけです。
付け加えて申し上げておくと、3段階にわたって日本は大合併を繰り返しています。明治の大合併の時には、基礎的自治体が7万1千あって、それを1888年=明治21年には1万6千にまで減らしました。昭和の大合併は1953年から8年間にわたって繰り広げられたのですが、1万6千を3,470にまで減らしました。我々が生きている時代は3千何百あったものを1,760にまで少なくしていくという事で基礎的自治体の面積が広がって来ているという事を頭に入れなければなりません。
一方、政令指定都市がどんどん増えてきています。いまは人口50万でも政令指定都市になる事が出来て、現在は全国で18あります。権限を大きく移譲する仕組みである政令指定都市がどんどん増えてきていて、一番大きな典型的な例は、福岡県ですが、北九州市と福岡市の2つの政令指定都市を県下に抱えていて、そこに大きな権限が移譲される仕組みになっているので県というものがどんどん空洞化してくるという状況になっています。最小単位の基礎的自治体の数は少なくなって広がり、政令指定都市はどんどん数を膨らまして行くのです。
そして、いよいよ極端な例が起ころうとしているのが神奈川県です。もし、来年、相模原市が政令指定都市になると、県下に横浜、川崎、相模原の3つの政令指定都市を持つ事になるのです。そうすると、神奈川県という仕組みの中で、この3つの大きな基幹になるような都市を除いた他のところの地域の面倒をみるのが県という事になり、県の空洞化がどんどん進んでしまうのです。
冒頭申し上げたように、いま地方分権と言うと、知事が目立っているために全国知事会に権限を移譲する事が地方分権であると誤解しがちなのですが、基礎的自治体や政令指定都市に権限をキチッと移譲行く事が本当の地方分権なのです。大げさに言うと全国知事会をなくすと言いますか道州という大きなブロックで括って行くとう事でもしなと何層にもわたって屋上屋を架して、その度に税金を支払わなければならず、代議者、つまり、県会議員や市会議員等の人たちを多く抱えていかなければならないという仕組みになってしまうのです。
現実問題としてこれだけ基礎的自治体が大きくなっているために全国で何万という数の都道府県の議会の議員だった人たちの数が減っています。この事が不便をもたらしている部分もあって批判が出ているのですが、代議制のコストを少なくする意味においては大変に重要なポイントで代議者の数を少なくしていく流れをつくっているという事にも我々は気がつかなくてはならないのです。

木村>  そこで、国の形としてどのように考えるのかという事を後半で伺おうと思います。

<後半>

木村>  地方自治体の数の変化という事から道州制というものが関わって、その中にこの変化を背景にどのように考えて行くのかという重要な論点が出て来ています。
 そこで、これからの日本の行方と道州制、或いは、地方分権というものをどのように位置づけていくのかという事ですね。

寺島>  驚くべき事実があるのですが、全国知事会の知事の中で道州制に賛成している人たちはわずか13人しかいないのです。と言うのは、本当は地方分権を進めるべきだと叫んでいるのだけれども、自分たちの権限を更に下の基礎的自治体に移譲したりする広域ブロックになってしまうような事は、知事の本音としては反対している人が多いという事なのです。だからこそ逆に言うと、日本の地方自治をよりシンプルで分かり易くするためにも県の単位を、例えば、東北なら東北、九州なら九州という形でブロックに括っていくという事が凄く大事なのです。
私は一番真剣に試みようとしている地域は九州だと思います。九州地域戦略会議というものをつくって九州広域を一元として観光等を統合して、例えば、中国等の近隣の国々から観光客を招く時に九州広域において上海でキャンペーンを行なう等、一体となって活動をする事に意味があるという事は常識で考えてもわかる事です。
 ここで、非常に面白い事は「9電力体制」と言って、全国9つの電力会社がありますが実体的には九州電力の経営のトップは現実に九州を広域で一元として見ています。皮肉な言い方をすると、既に道州制を実際にマネージメントしているようなものなのです。いわゆる電力会社が実は道州制を先行しているモデルだと考えると分かり易いのです。
ところが、いくつか不思議なところがあります。例えば、東北電力に新潟県が入っていますが、新潟県を広域で括った時にどこに置くのがよいのかという事は大変に悩ましくて、いまだに議論が続いています。関東甲信越という形で首都圏のブロックに括ったほうがよいのか、現実の経済の関係ではそちらが強いのだと主張する人もいるのですが、電力会社ブロックにおいて、東北のブロックに括られた方がよいという考えもあるのです。
 また、江戸時代の日本人は偉かったという話ではないですが、「越の国」という言い方がありますが、環日本海と呼ばれて日本海が連携してユーラシア大陸と向き合わなければならない時代に昔の越中と越前と越後が力を合わせて1つのブロックになったほうがよいのだという考え方も全くリアリティーのない話でもないわけです。

木村>  富山、石川、新潟あたりは環日本海の経済圏という事ですね。

寺島>  いずれにしても、広域ブロックという考え方によって日本がどのような輪郭の地域活性化をやって行くのかという事が非常に重要なのです。これをどのように切り分けるのか一つの思想が必要で、いままでの常識のような話で分ければよいというものでもないのです。
色々な考え方がありますが、日本を一度広域で括って、広域連携の中で活性化するという事を考えなければいけません。ただ「国から地方」という曖昧な言葉の下に権限と資金を移譲して行けば日本という国が良くなるという単純なイメージではなくて、どのようなブロックでシナジーを出していく事が日本として正しいのかという事です。
 いま、私は国交省で広域の地域のブロックごとの自立経済に関する委員会の委員長を務めています。ますます、今後、広域ブロックにおいての地域活性化のシナリオが非常に重要になってきます。広域ブロックでどのような産業を興し、どのような地域との連携で活力を持って行くのかという事が重要なわけです。
歴史を振り返ってみると、人間が足で歩ける範囲でつくっていた地域コミュニティーから活動の範囲も広域化し、アジア日帰りという時代が迫っているのです。そのような流れで新しい視点から日本の広域をどのように括って、どのような体制でいくのがよいのか、それを束ねる国家がどのような力を持っていく国に進んで行くべきなのかという事を問われているのが地方分権で、「知事対霞が関」などという構図で単純化して面白おかしく考えていけないのです。この事が、本日私が話したかったポイントです。つまり、参画という事です。どのように参画して地方の目鼻立ちをつけて行くのかという事について特に若い人たちが関心を持たないと議論は深まりません。

2009年08月16日

第31回目

寺島>  冒頭の整理として申し上げておきたい事があります。私はいつもここにこだわっているのですが、1853年にペリーが浦賀にやって来てから、アメリカが実際にアジアに植民地帝国として登場するまでには45年間のギャップがあったのです。それは何故かと言うと南北戦争という国内戦争に手間取ってアジアに出る余裕がなかったからです。
1898年にスペインとの米西戦争で勝つ形でフィリピンを領有してアジアに出て来ました。1900年の義和団事件の時にアメリカも出兵していますが、アメリカが中国に本格的に登場したタイミングと日本が1894、5年の日清戦争に勝って中国に侵略の触手を伸ばし始めたタイミングが同時化したのです。
20世紀、今日まで引きずっている日・米・中の関係にこれから向き合って行かなければならないわけですが、20世紀の日米関係の悲劇は中国に登場して行くタイミングがシンクロナイズしたところから始まります。太平洋戦争と言われた戦争も突き詰めて言えば中国をめぐる日米の対立と言ってもよい構図だったのですが、常に日米関係の谷間に中国というファクターが絡みつきます。
日本人としてこれから日本の外交を再構築しなければならないという時に、「市場主義の徹底」と「アメリカ流デモクラシーの徹底」が世界で実現されるべき唯一の価値だと信じてやまない理念の共和国として、アメリカがドンと存在していました。60年以上の同盟関係を背負い、戦後の我々自身が「アメリカを通じてしか世界を見ない」という傾向を自ら身につけてしまったのです。アメリカとの関係をしっかり正視し、同時に中国といういわゆる中華思想と言われる自己中心的な価値観を持って発信して来る国とも向き合い、この二つの超大国に挟まれて、日本がしっかりとした存在感をもって行かなければならないという事が21世紀の日本の基本的な構図であるという事が、おそらくどなたもが瞬時におわかりなると思います。
このような流れの中で、日・米・中のトライアングルの関係というものに新たな方向づけをして行かなければならないわけです。日本の果たすべき役割はちょうど欧州においてイギリスが果たしている役割に近いイメージです。アメリカを大陸の欧州に繋ぎ、大陸の欧州にアメリカを理解させるブリッジの役目をイギリスが果たしているわけですが、日本がアメリカをアジアから孤立させずに、アメリカという国をアジアにそのような位置関係で置いておけるブリッジのような役割が果たせるのかどうかという事が一つの大きなポイントになると思います。
アメリカという国は実は潜在的には「モンロー主義」(註.1)と呼ばれる自国利害中心主義を抱えていて、不都合が起こるとサッと国際関係から解放されて自分の国に回帰すると言いますか、自己完結的に成り立ち得る国で、内向きのエネルギーを常に潜在させています。そして、そのようなアメリカを国際社会の建設的な参画者として、特に、アジアにおける力学に留めておくという役割が日本にとって重要です。そして、中国に対しては、国際社会のルール、例えば、知財権にしろ、環境問題にしろ、この国を世界のルールに参画せしむる方向に招き込んで行くと言いますか、エンゲージさせて行くという役割が日本にとって大きく問われて行く事になるだろうと思います。そのために必要な事は筋道の通った存在感なのです。
このような事を頭に入れながら総括させて頂くと、先程、「リアリティー」という一つのキーワードが出ていましたが、世界の金融不安、はたまた現在の混迷する状況等も睨んで、日本が学ぶべきキーワードと言ってもよいと思いますが、それは「実体性」と「自律性」なのです。実体性はリアリティーに近い言葉で、私がこの言葉をどのような意味で使っているのかと言うと、「マネー・ゲームの話は程々にして、技術と産業の話をしようではないか」という事なのです。私の中でのリアリティーとは技術と産業力です。マネー・ゲーム的な視界を脱して、実体のある技術と産業の話をしようという問題意識です。
さて、先程、中国のGDPが来年いよいよ日本を追い抜いて行くという話に触れましたが、中国のGDPの中身について少し申し上げておきたいと思います。現在中国のGDPが極端な勢いで拡大している理由は、世界中のメーカー企業が中国に生産立地して、そのアンダーテイカー(下請)となって付加価値を拡大させているからです。
日本と中国との違い、韓国との違いのアイデンティティーを確立するために敢えて、私は申し上げておきたいのは、「中国の企業でどこか知っていますか?」という逆質問なのです。
例えば、「ハイアール」(Haier)という家電の会社があるとか、最近の日本のパソコン市場に「レノボ」(Lenovo)というブランドで上陸して来ている、「聯想」というIBMのパソコン部門を買い取った会社が存在しているという事はよほどの事情通の人たちしか知っていません。中国の企業でこれから携帯電話やパソコン等で世界に冠たるブランドになって行く可能性があるという企業はなくはないのですが、現状はどうだと言うと、アンダーテイカー型のエコノミーなのです。
韓国は「ヒュンダイ」、「サムスン」、「LG」の国です。この3社の売上高の合計が昨年の韓国のGDPの35%を占めています。つまり、「三大噺経済」という言い方があるのですが、この3社に極端に依存している傾向があるのです。
「日本産業の強みは何か?」と言う時に、日本人が自覚しなければならない事は、戦後の日本を創り上げてきた先輩たちの偉大さです。各ブランドに象徴される技術力をもって世界に冠たる企業を創り出して来たという事が強みだと思います。つまり、技術性なのです。技術性の中にあらゆる思いを込めて今日の日本の基盤をつくって来たわけです。
日本は貿易立国で外部依存が高いというイメージがありますが、GDPに対する貿易比率は韓国が76%で、日本は28%です。日本は韓国ほど極端に外部経済に依存しているわけではないのです。この差が、韓国が世界同時不況の中で極端に落ち込んだ理由になっているのです。
技術という意味においての実体性や自律性という意味において自覚を高めたのであれば、日本という国が持っているポテンシャルは大変なものだという気持ちが強くあります。
日本に決定的に欠けているのはガバナンスなのです。これはどういう事かと言うと、全体最適化を図る力がないのでポテンシャルが活かしきれていないのです。日本が国家としてガバナンスをもって戦略性がある展開をしている国にはとても見えません。自分たちが持っているポテンシャルを活かし、それを総合力をもって束ねて問題を解決して行く力に欠けるのです。それが、おそらく政治状況の今後をも含めて日本に問われて来る大きな問題なのだという気がします。
昨年、このフォーラムを行なってから1年間、実際に自分が何をして来たのかという事をお話したほうがリアリティーに結び付けて問題意識を繋げる事が出来るので、サッと私自身の活動をお話しして、いまの話に繋げて行きたいと思います。
まず、昨年、このフォーラムで「日本にとってアジア太平洋研究所のようなシンクタンクがいかに大切であるか」という話をして、大阪駅の北ヤードにアジア太平洋研究所構想を推進しているという事を話題にしたと思います。あれから1年の間、私はタスクフォースのような形で推進協議会の議長として活動して来ました。このフォーラムを行なっている日総研のスタッフもアンダーテイカーとなって世界中のシンクタンクの現状や、どのような組織形態にして行ったらよいのかという類の事についてフィージビリティー・スタディ(実行可能性調査)の作業に参画しています。
そうした中で、リーマンショックが起こって、深刻な不況に入りました。一方では「シンクタンクどころじゃないだろう」という本音にも近いような声が聞こえます。各企業は業績が悪くなって、本格的な国際情報の回路をつくろうという話につき合っているだけの余裕はないという空気が一方ではある事も確かです。しかし、大事なのはここからなのです。
私は日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)の日本創生委員会の委員長を務めていますが、コロムビア大学のジェラルド・カーチスさんを招いて彼が日本の政治状況について話をしました。私がその話の中でドキッとしたのは、「日本は政権交代が迫っていると言われるけれども、官僚機能に頼らずに政治が主導して政策を企画し、立案して行く基盤としてのシンクタンクのようなものが全くありませんよね」という事でした。
ワシントンにおいてアメリカの政権が交代する時には、例えば、オバマ政権にはブルッキングス研究所にいたスタッフがドドドッとホワイトハウス等中枢に入っています。そして、そのようなスタッフが大統領を懸命に支えます。したがって、政策に断絶がないと言いますか、コントラストはあるけれども前の政権の政策をどのように変えて、それがどのようなインパクトをもたらして、どのような方向になって行くのかという事についての展望が見えて来るわけです。
しかし、日本においては政権交代が迫っていると言うけれどもその基盤になるような情報を解析して、政策論に高めて、政策の代替案を出して来る基盤が無いと言わざるを得ません。日本最大のシンクタンク機構と呼ばれている官僚機構に政策論を頼らざるを得ないという構造を延々と続けています。
したがって、いまこそその種の政策シンクタンクが問われて求められているのだという思いがあります。昨年から1年間のリーマンショックを受けて転がり落ちている構造の中で、世界が見えていないという部分についても気がつかなければならないのです。いつも割を食ってほぞを噛む思いに日本が向かうのは一体何故だろうという事を考えると情報の回路、情報の解析力というものに関して充分なものをもっていないと言いますか、とりわけ、震源地であるアメリカよりも過剰なまでの自信喪失と落ち込みになる理由は一体何なのかと言うと、「情報の回路」という要素が物凄くあると思っています。
世界中のシンクタンクとのネットワークを張りながらアジア太平洋研究所を立ち上げて行く構想に、一つの方向づけをする結論を出そうというタイミングが10月に迫っています。日本人が気がついていないのは、日本という国は特定の企業に依存したり、特定の官僚機構を補完したりするシンクタンクではない、いわゆる中立型のシンクタンクをいま一切持っていない国なのだという事です。したがって、ある事態が生じた時に、この国にはどのような選択肢があるのかという事について議論が立ちあがらないのです。官僚機構がつくり上げた政府のシナリオに対して、反対か賛成かという程度の議論しか出来ない。第三の道があるとか、ひょっとしたらこのようなアングルから考えなければならないのではないのかという視座が出て来ないのです。これがこの国の議論を物凄く制約していると思います。
先程、私がJAPICで日本創生委員会を率いている話をしましたが、日本が進んで行くべき方向性において、もっとも重要な事の一つに、21世紀の日本人が現在の生活レベルを落とさずにどのようにして飯を食うのか、若者がどのような希望をもって立ち向かって行くような仕事(JOB)をつくり出すのかという事があります。私はそのための様々なプロジェクト・エンジニアリングの基盤をつくるような仕事に参画し始めています。
 例えば、内閣官房の宇宙開発戦略本部の委員会の委員長をやっていますが、先日、宇宙基本計画を取りまとめたところです。
宇宙基本法と海洋基本法という二つの法律を過去2年間に日本は成立させていますが、この二つの法律は自民党も民主党も参画した議員立法で、要するに、超党派の議員立法によって決めた法律なのです。それに基づいて内閣官房に関連の本部が出来ているという事です。今後、政局が混迷して行きます。どちらが比較第一党になろうが、政治がガバナンス、リーダーシップを一段と失うのではないのかという可能性があります。そのような状況になろうと超党派の議員立法で決めて行ったものは大変に重要なのです。
日本は国土の狭い資源小国で、エネルギーと食糧と資源を海外に依存するという構造が当り前だと思って進んで来ているわけですが、そろそろ足元を見つめて、海外にエネルギーと食糧と資源を依存する構造から順次、脱却して行く方向に舵を切らなければならないと思っています。
 そこで、海洋資源開発というものがあります。日本創生委員会のタスクフォースで、海洋開発の専門家の人たちを束ねていますが、上がって来ている報告を見ても、海底熱水鉱床という海底火山の噴火口の出口のようなところに眠っている希少金属の潜在埋蔵量や、メタンハイドレートのようなエネルギー資源等が、日本の海洋水域に眠っているという事が次第に見えてきています。問題は探査技術と採鉱技術の高度化なのです。戦前、樺太と言われたサハリンであれだけのエネルギー資源が眠っている事に気づいていたら、戦争や南進というシナリオも変わっていたのではないかと言われます。足元を見つめるという事はそれくらい大事なのです。
 いま、エネルギー価格が一時よりは下がっているので、資源・エネルギーに関する日本人の危機感がスッと消えていますが、昨年の夏、ニューヨークの石油先物市場のWTI(West Texas Intermediate)は、ピーク時には1バーレル147ドルでした。12月には32ドルまで落ちました。そこから、いま75ドル位にまで上がっていて、60ドル台とその間をさまよっていますが、わずか半年で2倍になっていて、乱高下しているのです。これから間違いなくエネルギー・資源の反転高が来ます。それは何故かと言うと、いま過剰流動性の制御に成功しているとは思えないからです。物凄い勢いで過剰流動性をまた生み出しています。それは「財政出動」、「超金融緩和」というものです。この行き場を間違えたのならば、間違いなく資源反転高が来ます。事実、来ていると言ってもよいと思います。
日本はこのような時期にこそ、自分の足元を見つめてエネルギーと食糧と資源は海外から買う事は当り前だという構図から脱却して行くための手を打たなければならないのです。海洋資源探査等に今回の補正等も含めて、予算がつき始めています。ここのところを本気で突破して行かなければならないと思います。10年後、20年後の日本を資源大国化する事はハッタリでもなければ何でもないのです。真剣に取り組めば間違いなく日本を資源大国化する事は出来ると思っています。
海洋資源開発には誤差のない位置測定が必要になります。つまり、宇宙開発と海洋資源開発は相関しているのです。私はこのような形の総合戦略をしっかりと描いて行く必要があるという事を申し上げたいのです。
このような意味合いにおいて、私自身のささやかな役割でこの1年間に、私は宇宙開発本部の委員会の座長や、経産省の方では産業構造審議会の情報セキュリティーの基本問題の委員会の委員長等を務めました。多様な意見の人たちを束ねて、政策論として収斂させるという役割を自分自身が果たなければならないところに一歩ずつ動き始めているという事が、ここのところの自分の立ち位置、役割の変化なのだと思っています。
私は昨年から首相を取り巻く温暖化懇談会のメンバーに入っていました。これは麻生さんが6月に発表した15%CO2削減という中期目標の設定をした委員会です。経済団体がプラス4%論を言い、環境団体がマイナス25%論を言っている中で、日本として対応可能なギリギリの政策論はどのようなところにあるのかというところを議論してきました。足して2で割るという話ではなくて、ロジカルに世界に向けて語る事が出来るギリギリのポイントはどこかというシナリオを書く上で、一定の役割を果たさなければならないような立ち位置に私自身がいるのだと感ずる体験を今般もやって来たわけです。
いずれにしても、エンジニアリングは個別の要素を組み合わせて問題を解決して行くアプローチです。要するに、私達日本総研も含めて今後問われて来る事は、問題解決能力なのです。問題を提起して状況を分析して見せるだけではない役割と言いますか、どのようにしてその問題を解決して行くのかという事についての「構想力」と「全体知」が問われる役割です。そのようなところに我々自身の役割を発展させて行かなければならないと痛感しているという事を申し上げて私の話を終えておきたいと思います。
どうもありがとうございました。

(註1、Monroe Doctrine。第5代のアメリカ合衆国大統領=ジェームズ・モンローの年次教書演説で発表された外交姿勢。アメリカとヨーロッパの間の相互不干渉を提唱した)

2009年08月09日

第30回目

寺島>  21世紀初頭をしっかり再認識するための確認しておきたい数字を申し上げておきたいと思います。
 まず、世界が昨年9月のリーマンショックによって激震のような経済の低迷という状況に入っているわけですが、この混迷の中心にいるアメリカのリーダーシップと言いますか、束ねる力が今世紀に入って急速に萎えた事をしっかりと認識しておかなければならないと私は思っています。アメリカの求心力が今世紀に入って急速に衰えている理由の一つに「イラク戦争」と「サブプライム問題」という二つのキーワードがあると思います。
まず、イラク戦争ですが、イラク戦争の後遺症によってヘトヘトに疲れ、消耗したアメリカが見えて来ます。昨日現在(7月21日)、米軍兵士のアフガン、イラクでの戦死者は5,057人にでなっています。「これは犯罪ではなくて戦争だ」と叫んだブッシュ大統領がアフガン、イラクと突っ込んで行った事によって、アメリカの若者が5千人以上死んだのかという思いが込み上げて来ます。しかも、それどころではないという数字があります。それは、どんなに少ない推計でもイラク人の死者が10万人を超しただろうと言う数字です。
私は、背筋が寒くなるような血みどろの21世紀初頭と並走したのだという事を確認しておかなければなりません。アメリカは5千人の若者を死なせて、既に1兆ドルの金をかけて、そのコストがやがて3兆ドルになるだろうという状況になっています。その結果、どうなったかと言うと、「ペルシャ湾の北側に巨大なシーア派イスラムのゾーンを形成した」という事です。ブッシュ大統領の共和党政権が終り、イラク戦争に反対したオバマをリーダーに登場させて急速にパラダイムの転換を図りました。そして、アメリカは2011年までにイラクから去ります。「アメリカなき中東」という言葉が出て来ますが、要するに、イラクの民主化と言って選挙を行なった事によってシーア派のイラクにしてしまったわけです。隣のイランの1979年のホメイニ革命以降、シーア派イスラム、イスラム原理主義の総本山となって世界に色々なインパクトを与えているイランの影響力を最大化するイラクにしてしまった……。そして、間もなくアメリカはイラクから去ります。したがって、我々が目撃する事になるペルシャ湾の北側は、巨大なシーア派のゾーンとなって存在しているであろうと言う皮肉ともなんとも言えない状況になってしまったわけです。しかも、三軍のリーダーとしてアフガンには増派するという選択肢を取らざるを得ないというところに、オバマ自身さえ追い込まれています。目に見えない敵との戦いに消耗しているのです。
更に、サブプライム問題です。金融セクターを安定化するために突っ込まざるを得なくなった公的資金のリスクの総額が8兆ドルにのぼっています。それがAIGという保険会社やシティーグループ等への直接資本注入も含めて不良資産の買い取りスキーム等の様々なスキームで政府がコミットせざるを得なくなった総額8兆ドルなのです。加えて、金融だけではないという事で、御存知のようにGMさえ、6割政府出資で持ち堪えなければならないという状況になってしまいました。この深い深い虚しさというものは21世紀初頭のアメリカが行き着いたところを象徴しています。と言うよりも、世界が行き着いたところと言ってもよいと思います。と言うのは、アメリカが新自由主義なるものの総本山だったからです。
そのような中でいま申し上げたサブプライムの行き着いた8兆ドルの公的資金注入にせよ、イラク戦争でやがてのしかかって来だろうと言われている3兆ドルの負担にせよ、この二つを足して11兆ドルの金がアメリカの財政負担となってのしかかって来ます。加えて、オバマが登場して景気対策法案が成立しました。つまり、財政出動というものです。7,870億ドルの財政出動によって景気浮揚を図るという景気対策です。アメリカが日本に対して毎年毎年ぶつけて来ていたメッセージが「プライマリーバランス論」、つまり財政均衡論だったのです。そのピンを御本尊自身が外したから日本もドーンと15兆円の補正予算によって財政出動に踏み込んでいるのは、御存知な通りですが、約8千億ドルの金もやがてアメリカの財政赤字にしかかって行きます。2009年度は1兆7千5百億ドル、来年は予算の段階で1兆2千億ドルの財政赤字が予測されるという状況に追い込まれていますから、当然の事ながら巨大な赤字国債の発行を余儀なくされます。赤字国債の発行を誰が引き受けるのかと言うと、アメリカは国内で国債を捌けないので、どうしても海外に持ってもらわざるを得ないわけです。事実関係において、アメリカの国債を一番持っているのは中国で、8千億ドルを超しています。日本が第2位で6千億ドルです。
そこで、中国なのですが、本日の議論をこれから深めて行くためにどうしても頭の中に入れておかなければならない数字として、中国のGDPの世界ランクは、2007年についにドイツを抜いて世界3位になりました。国際機関が一斉に言い始めているのは、日本のGDPを来年中国は追い抜くだろうという事です。もたもたしていると今年追い抜くかもしれないという予測が一部出始めています。日本はどんなに楽観的に見ても、今年はマイナス5%以上のマイナス成長で、中国は7.5~8%台のプラス成長になるだろうと予測されています。その事によって一気に来年日本を追い抜いて行く……。「大した事はない。心配するに値しない」という考え方の人たちも多いと思いますが、私は日本人の深層心理の中に「日本は世界第2位のGDP大国だ」という誇りとも支えともつかない気持ちが存在していたように思うのですが、このピンが外れて日本はついに抜かれたのかという瞬間に、どのような心理になるのか、微妙な変化が起こるのではないのかと想像します。
事実、昨年、一昨年に指摘して来た「大中華圏」(Greater China)という言葉ですが、これは、中国を本土単体の中国だけとは考えないで連結の中国、つまり、中国と「華僑国家」と呼ばれているシンガポールと香港と台湾を政治体制の壁はあるけれども、産業的には一段と連携を深めているゾーンだという捉えかたがGreater Chinaという視点です。このGreater Chinaという連結の中国の枠組みの中で、中国の台頭が大きく目立ちます。そして、日本を取り巻いている状況が大きく変わって来ています。この事が我々の進路を考える時に大変重要な一つのファクトであるという事を私は冒頭に確認したいと思います。
いま、私がお話しした状況の中に私自身が考えているのは、9・11後の世界の構造の多極化と呼ぶ人もいますが、アメリカの一極支配型の世界観では通用しなくなって、G8でさえ、その存在感を希薄にし、G20という20カ国が世界秩序形成において揉み合うような状況が露呈されている事です。全員参加型という言葉さえ登場して来るような状況に向かって世の中が変わっているのです。そのような流れの中で、日本外交や日本の国際関係を選択したり、構想したりしなければならない局面に入って来ているところが、日本に問われている大変重要なポイントだと思います。
その際、もう一つ申し上げておきたかったのは、「G2論」というものです。「G20のように20カ国が世界秩序形成に参画して混迷しているように見えるけれども、実態は一段とG2化しつつある」という言い方をする人たちが最近は増えて来ています。何故かと言うと、アメリカと中国が実態的な世界秩序を仕切り始めているからです。アメリカがいかに中国を配慮しているのかという構造認識なのですが、御厨先生のほうからいまの話に若干コメントを加えて頂きたいと思います。

御厨>  いま、数字で示されたものを聞いて、これはなかなかなものだという感じが致します。イラクにおける状況というお話しがありましたが、このような事について、おそらく最近の日本は凄く鈍くなっているのだと思います。つまり、グローバリゼーションが進んでいると言いながら、多くの日本人はなんとなく嫌な数字、嫌なもの、嫌な光景は見たくないという事があって、あまりそれを受け入れようしない空気が第1番目にあります。
 そして、第2番目に、私などは歴史をやっていて「そうか」と思いますが、世界全体でいま米、中、G2化というものが最後にお話しがありましたが、とりわけ中国の存在が日本にとって凄く大きくなっているという事は、日本の近代史を考える時に凄く象徴的であるという事です。日本はいまから100年以上も前に日清戦争という戦争をしたわけです。あの時に、日本の中国に対する見方が、実は戦争を通じて100%変わったという事実があります。私は日清戦争の歴史を調べた時に中国人というものの存在について江戸時代はあれだけ憧憬の念を持っていた日本人が、どこでそれを変えたのか考えましたが、やはり、戦争のプロセスなのです。
 つまり、日清戦争が始まった当初、そしてある段階までは、当時の記録に残っていますが、中国人に対して侮蔑の気持ちは少しもありませんでした。日本にとって見ると、中国を目覚めさせなければならなくて、なんとか尊敬している中国に対してその遅れを目覚めさせるという事で戦争を起こしたというイデオロギーがあるわけです。しかし、それがある段階、つまり、戦争は怖いものですが、「勝った、勝った」という事になったところから中国に対する認識が逆転をし始めます。何故、向こうは負けているのかと言うと、それは、明らかに日本人よりも中国人の方が色々な意味において劣っているという認識の変化なのです。ここで初めて江戸時代以来の憧憬の念が全部ひっくり返って行くわけです。それは、その後20世紀の日中関係、日本と満州との関係、色々なものを見て行く上で重要であり、その事が戦後にもずっと続いて来ています。戦後において、中国が社会主義、共産主義になって以来、そこと言わば敵対する関係を長い間続けて来た事によって、今度は中国人を侮蔑して来た歴史というものを見ないで済んだのです。
 有名な話で佐藤栄作という総理大臣は、「日本は大陸を見ている時には不幸であった。だから大陸を見ないようにする」。これは彼が共産主義中国を国連に入れないという事に固執した理由であったのです(註.1)。そこから今度は新たに日中の色々な関係が始まってついにここまで来たかという事が私の印象でした。
この時に私たちが考えなければならない事は、ここで本当に中国に対する近代以来の日本の立ち位置を真剣に考え直さなければならない、つまり、繰り返しになりますが、日本はある時期、憧憬の念を持っていた。そこから侮蔑に変わった。物凄く血で血を洗った戦争を行なった。それから後は見ないようにして来た。見えるようにしても政治・経済の分離等、色々な事を言ってそれを限定化して来た、断片化して来たと言ってもよいと思います。しかし、もはや断片化して来た形で中国とはつき合えないとういう話なのです。どのようにしたら本気でつき合えるのか、そして、そこで目覚める事が逆に戦後一体化してやって来たアメリカとの関係をもう一度本当の意味で相対化して行く事なのだと思います。
 したがって、「米中関係が変わった。ああ、どうしよう!」というのではなくて、いよいよそこまで来たのであれば日本の近代以来の中国とのつき合い方、アメリカとのつき合い方をもう一度見直してみて、そこから未来についてどのような示唆を得る事が出来るのかという事です。私は原点回帰だと思います。それをやらなければならないと思っています。

寺島>  どうもありがとうございます。御厨先生のお話にもう一言付け加えさせて頂きます。日・米・中のトライアングルの関係が我々にとってブラインドがいまのお話と被るのですが、米中関係なのです。つまり、日米関係は戦後日本を支えてくれた関係だという事を真剣に評価する立場の人間だからこそ、米中関係の歴史というものをしっかりと視界に入れておく必要があると思います。

<後半>

寺島>  今回は慌ただしいシンポジウムだったのですが、まず、前半のパネルディスカッションを集約して行くにあたって、もう一度、「世界を見る目」と「21世紀初頭を超えて」という日本がおかれている状況に対する一言でも結構ですし、自分の関心の枠の中で結構なので最後に一言ずつ、お話しを頂いてパネルを終えたいと思います。

御厨>  日本の立ち位置は、本当に目を見開いてというところがあります。それと同時に私の立場から言うと、最近、私たちが研究をする時に随分変わったな、これは21世紀になって変わったのだと思う事を申し上げてまとめとしたいと思います。
 それは何かと言うと、私は歴史をやっていて、先程、寺島さんから明治国家をつくるというご紹介を頂いたのですが、あの本を書いた時には本当に元勲の書簡を生で見られたのです。国会図書館に行くとそれが置いてあって山県有朋の書簡や伊藤博文の書簡等、本当によく見て、まるで友人のように私は彼らと親しくなりました。しかし、今は駄目です。何故かと言うと、いまは全部コピーだったり、マイクロになっているからです。つまり、偽物なのです。私は本物とつき合えたので幸せだったと思います。いまの研究者の悲しいところは、全部マイクロで見るかコピーで見るか、偽物なのです。そのようなものを扱っていると、絶対にリアリティーの感覚は浮かんできません。私は伊藤博文が友人だと思っています。いま同じ事をやっている人は伊藤博文を友人とは思えないのです。これは本当に悲しい事です。そのかわり、いまの彼らにとって何が一番よいかと言うと、どこを見ても検索をかければありとあらゆる文献が集まって来るという点です。そして、アジア歴史資料センターがずっと行なっていますが、そこで見ると外交資料館と公文書館といういくつかの文書館が持っているものが一挙に出て来ます。ネットサーフィンのようなものです。それをやっていると、例えば「日中戦争の○○」と引くと、これまでだったら苦労して探さなければならなかった文献がドーンと出て来て資料が何処にあるのかが分かって、彼らは私よりも遥かに効率的に研究が出来るのです。
 しかし、何度も申し上げましたが、そこで見られる資料は全部偽物です。これがいまの私は現状だと思います。ありがとうございました。

伊東>  御厨先生のお話しを伺ってなるほどと思ったのは、リアリティーとバーチャリティーという二つの言葉です。私は、音楽の仕事をやって来ましたが、音楽は実空間で演奏するものであり、指揮もまた同じですから、私もリアルな側の人間です。そういう私からすると、いま見るべき事の一つは、リアリティーの復帰、リアリティーをいかに再度獲得して行くか、実態への回帰というものがポイントだと言うことになります。しかし、これは旧来へ帰るだけではなくて、せっかく今まで得たものをうまく活用しながらの回帰ではないかと思うわけです。つまり、高度な検索をもって、こんなものもあるという事までいまの研究者が見つけたら、その現場に行ってもう一度そこで実物と対面しながら、より先に行くというような事、つまり、バーチャリティーのより高度な活用です。ここに私が希望の芽を見るのは、日本はそのような時にとてもよいいくつかの鍵を持っているからです。それはあまり目立たない形でたくさんの特許やシードになる技術を持っているという事です。私はそのようなものを特に選んで使って、西洋芸術やキリスト教の根っこ等、一番向こうが嫌がりそうなとこに切り込んで、そこそこうまく行くという事をやっています。
 日本が見立てるという時にどのようなオーラがあり得るかと言うと、一つは日本の見立て、日本の技術的信頼水準、つまりクオリフィケーション(Qualification)が可能であれば、それによって東アジア全体、或いはグローバルな社会経済が活性して行くという安心・安全というものが、このところのキーワードになっていますが、日本というプリズムを通過しているのであれば、そこから先、これはうまく行くというような安心感を提供出来るのではないのか、少なくともそのような技術の根は持っている事は存じております。
 したがって、技術関係、イノベーションの人材育成や中長期的に見た、育てる方向で実態に回帰しつつ、ここ20年程で得た新たな知恵も活用して行くべきだと考えます。そのような時に寺島さんのようなリーダーに教えて頂いてこのような事を考えるようになったわけです。私の持ち分である音楽という狭い世界ですが、私はそこから考えて行きたいと思っています。

寺島>  見事に収斂したという感じですが、リアリティーへの回帰と言いますか、何か空虚な時代感覚からどのようにリアリティーに向かうかという意識が、おそらく我々3人が議論しようとした事の何か本質にかかわってくるのではないのかと思いながらお話を聞いていました。ありがとうございました。

(註1、1945年国際連合設立当初から中華民国は、加盟国であったが、内戦により中国共産党が1949年10月1日中華人民共和国の建国を宣言した。中華人民共和国は国連の代表権の獲得を図ったが、その後も中華民国が持ち続けた。
 1971年10月25日、国連総会において、中華人民共和国を中国の唯一正統な政府とし、中華民国を追放して、中華人民共和国が代表権を獲得した)

2009年08月02日

第29回目

寺島>  今日は日総研フォーラムの第8回目で、みなさんは大変興味をもって参加していただいたと思いますが、東大の御厨貴先生と同じく東大の伊東乾さんという興味深いパネリストをお迎えして、いま我々が生きている時代をそれぞれのお立場でどのようにお考えになっているのかという事をお伺いします。
 御厨先生は基本的には日本近代史、明治国家の形成等を深く掘り下げて大変に意味のある本を出版されていて、かねてより私が尊敬している先生です。とりわけ御厨先生が一生懸命に取り組んでおられるのは「オーラル・ヒストリー」で、例えば、戦後の日本を支えた政治家等に御厨先生が直接問いただし、しっかりと残していくという作業をされています。このような中で、まず、御厨先生と伊東先生に、いま我々が生きている時代について、どのような時代認識をもって見ておられるのかという事で冒頭のお話をして頂きたいと思います。
 とりわけ現在の政治状況、日本のおかれている位置等について、御厨先生の視点からまず冒頭の御発言をお聞きしたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
 
<一党優位から政権交代へ>
 
御厨>  ただいまご紹介に預かりました御厨です。いまは21世紀初頭であらゆる局面において激動の時代です。政治の世界を見ていても随分変わってしまったと実感しています。何が変わってしまったのかと言うと、小泉さんの後をとってみても安倍さんが登場して、その安倍さんも私は途中までは結構まともにいっていたと思いますが、参議院の選挙によって敗北をして、ねじれ状態になった後、自民党がそれまで内部崩壊して来ていたある部分が非常に強く出て、その後、福田さんになっても、麻生さんになってもそれは戻らない状態になってしまったのです。
 そして、直近の話題になりますが、麻生さんが「解散の告知をした」という事がありました。これは聞いた事がない言葉で、多くのメディアはそれを解散と同義語に捉えて報道をしました。しかし、私は「告知」というものが非常に気になって、それを随分、問うたのでありますが、これは「知恵」だというところに行き着きました。解散をその場でやらずに解散の告知をして、解散のように紛らわしくして結局は解散と同じ効果をもたらしたのです。これは麻生さんにも知恵者がいたかもしれませんが、一世一代の決断であったと思います。「解散告知」というのは日本政治史上初めてで麻生さんが唯一と言われています。本来、麻生政権は解散選挙を予定されて成立したのですが、リーマンショック等があり、10カ月経ったところで実行されたという事です。解散をするという事でこれだけ騒ぐというのは一体何であろうかと思います。それ以外に日本が解決しなければならない問題が沢山あるにもかかわらず、この1年間、我々は「解散」、「総選挙」、「政権交代」という三つの文字に振り回されて来てしまったわけです。政権交代と言うと当り前のような話になっていますが、そこになかなか辿りつかないので、様々な事が空転している状況にもなっているのです。もし、この状況が20、30年前に起こっていたら担当者である総理大臣がたちどころに「辞めろ」と言われたと思います。しかし、麻生さんに対して面と向かって辞めろと言う人がいません。更に、日本は世界で起こっている事に何の解決もつけられないまま今の状況をほったらかしにしているというのは一体何なのかという疑問に私は随分考えさせられました。
 これは、「統治」という事があります。統治する責任、その責任を果たすための決断。つまり、「決断」と「責任」というものをある時期から私たちの政治は何処かに置き忘れて来てしまったのです。そして、このような時に話題に出るのは中曽根さんです。中曽根さんは唯一、決断と責任をかなり重んじてやってきた人なので彼に聞いてみても、「解散というものは大変な事なのだよ」とよく言います。更に、「それは決してテレビの前でする、しないという取引材料にするものではなくて、解散権の重みを本当にわかっているのかどうかは総理大臣によるのだ」とも言いました。彼は「死んだふり解散」をやった人なので当然、色々と考えた挙句の発言だったと思いますが、彼の言うところのそのような統治の責任者が責任をもって決断する事に解散も入っています。しかし、私は麻生さんがそのような意味での責任と決断をしたとは思えませんでした。解散の告知をした時の彼の様子は「してやったり」というものでした。しかも、解散というものは野党に向かって解散すると言う、野党に対する一つの挑戦であるにもかかわらず、麻生さんは与党内、つまり、自民党の中の反麻生勢力に対して「してやったり」というものなので、話が非常に矮小化しているという事になります。
 我々にとって一番印象深いのは中曽根政治が終わった後に吹いてきた風で、それは竹下政権の下で起こった「リクルート疑惑」(1988年)です。更には、その後には「湾岸戦争」(1991年1月)が起きました。その少し前には「天安門事件」(1989年6月)が起き、東西冷戦が終結、つまり、「ベルリンの壁の崩壊」(1989年11月)がありました。この一連の事実の中でおそらく日本の政治も大きな変化を迫られていたのです。しかし、自民党による政治がある意味、あまりにもうまく行き過ぎたという事があって、日本は変わらなかったのだと思います。
1980年代、まだ私が若い頃で助教授時代に政治を勉強していた時に「政権交代がない事がよい政治である」という事が当時のみんなの意見で、非常に効率的で政治家と官僚が一体となった政治体制、つまり、「一党優位制」(註.1)という言葉の下で呼ばれていて、政権交代がない事が当り前、日本の奇跡と言われていたのです。考えてみれば、その事に対して我々も疑問は感じていなかったわけで、世の中は冷戦中で、日本は第二次世界大戦後アメリカ、イギリスをはじめとする連合国側=自由主義陣営に属していたので、ソ連を中心とする共産主義陣営にくっつこうとしていると思われる社会党よりは、アメリカと一緒にやって行こうという自民党の方がよいという意見が大勢を占めていたのです。自民党の中で適時適切に政権交代が行なわれるのならばそれが一番よいという話なのですが、今日と同じで、岸、池田、佐藤という3つの政権の後は実に「三角大福」(註.2)と呼ばれる後継者たちは平均して約2年くらいしか政権を担当していませんでした。そして、1990年代の総理大臣たちは、小泉さんが5年5カ月やっていたので長いのですが、平均して1年3カ月くらいです。驚くほど総理大臣の長さは短いのです。したがって、サミットに行くと毎年「はじめまして」という事になるのです。「はじめまして」と言われているのはイタリアと日本の総理大臣だと言われていますが、このような国を基本的には、よその国は信用しないと思います。何故かと言うと、「この総理大臣と約束してもどうせ来年は違う顔だ」とみんなが思ってしまうからです。そうるすと、最近のサミットにもみられるように、グローバリゼーションの中では、その人たちが責任をもってある地位にいて約束をしてくれる事、それを果たしてくれる事が大事なのですが、日本はおそらくそのような事に値しない国であると段々思われて来ている状況になって来ていると言えます。
 しかし、先程申し上げたように、1970年代~1980年代の時はそのような事は誰も思わなかったのですから価値観が凄く変わったのです。あの頃は総理大臣の顔なんてどうでもよくて、それは官僚がうまくやるのでむしろ総理大臣はコロコロ変わったほうがよいというわけだったのです。つまり、派閥が沢山あったので派閥の一つの領袖が長くやっていると不満が出るので順次交代していき、その交代にも原則があって、右に振れた次は左、金権に行った次はクリーンというように変わるので、政権交代を現実に行なうと凄くコストがかかるけれども、このような方法であれば非常にコストが安いので、こんなによい政治システムはないという事を言って来たわけです。
 私がいま反省している事は何故あの時に一党優位で頭がクルクルと変わる政権がよいと思ったのかという事です。つまり、ある時代に常識のように思われていた事が次の時代では全く常識ではなくなるという事が戦後の1970年代から既にここ30、40年の中でも起こっているという事をみなさんに少し認識して頂きたいのです。
このように我々が生きている間だけでも常識が凄く変わって来ている時代なのです。何を言いたいのかと言うと、そのような中で我々は政権交代があるという事をある時期に知ってしまいました。それが細川政権の誕生でした。あの時、自民党が与党の地位を失った事によって、自民党の内部崩壊がはじまったと言えます。あの時期、つまり政権が変わるという事がまだなくて一党優位が続いている間、絶対に高級官僚の諸子はオーラル・ヒストリーには応じてくれませんでした。いまの財務省、大蔵省等は特にそうでした。そして、彼らは平然と「僕らは匿名の人間で黒子である」と言い放ちました。高度成長が何故実現したのかという事に対しても、「黒子としてやって来たから私ではなくてBさんがやろうとCさんがやろうと同じ事であり、それをいちいち名前を出して何かを言うのはおかしな事である。君がやっている事は凄く変だ」と言われました。私が「世界ではみなさんやっていますよ」と言うと「世界はそうかもしれないが、日本はそれを言わないのが謙譲の美徳というものだ」と言うのです。要するに彼らは屁理屈が得意で、絶対に応じてくれなかったのですが、そんな彼らがガラッと変わるのがあの時期からです。そういう面においても細川政権がもたらした意味というものは大きいのです。つまり、「もしかすると自民党による保証がなくなる時が来るのかもしれない」という事が、官僚たちに大きな影響を与えたのです。と言う事は、彼らが謙譲の美徳だと言って話さないでいると、自分たちは、もしかすると損をするかもしれないと思ったのです。もしそうなのであれば、なにがしか話しておいたほうがよいというわけです。このように、変わるのです。これは大蔵省が変わっただけではなく、それ以外の人たちも変わりました。そして、オーラル・ヒストリーが政策の評価も含めてやれるようになりました。どんどん役所の文書が公開される体制に入って来て、政策の決定プロセスをすべて開けろとは言いませんが、多くのものについて我々の知る権利に応じて開けてくれるという事があの時以来可能になったのです。これは政権交代があった事のよい面です。ただ、政治の面で悪くなったのは何かと言うと、一党優位で頑張って来た自民党という政党があの時以降、ただ一つの約束の下に集結をする事になった事です。つまり、これはテーゼです。どのようなテーゼかと言うと、絶対に野党にならないとい事です。逆に言うと、常に与党であり続けるという事です。「いやいや、御厨さん、それまでも与党だったのではないのですか?」とおっしゃるかもしれませんが、そうではないのです。それまで与党であったのは自明の事でした。つまり、努力しなくても横綱相撲を取っていられたのです。しかし、一旦滑り落ちた後はこれはいかんという事で常に与党であるというテーゼによって自民党は一致する事になったのです。したがって、それ以降、場当たり的に色々な事を言うようになりました。例えば、経済政策でも出たり引っ込んだりになり、税金問題やそれ以外の金融問題等でも財政出動をすると言ったり、そうではなかったりという事が政権が変わるごとにどんどん変わって行ったのは何故かと言うと、その場その場で大衆迎合をしたからです。その結果、自民党は確かに政権を離れないで済みましたが、自分たちの足腰は弱くなっているから徐々にそこに呼び込みを始めるのです。まず最初は社会党です。社会党の委員長を総理大臣にまでして、まず社会党に抱きつきました。抱きつかれた社会党はもがいているうちに全部政策転換を迫られて、現在ではほとんどないようになってしまったのです。次に自民党が抱きついたのは公明党で10年やってきました。この10年の間で確かに公明党も変わりましたが、自民党と公明党の関係を考えるとかなり難しい段階に来ている事も事実です。
 
寺島>  ありがとうございました。
 
(註1、イタリアの政治家、J・サルトーリが提唱した概念で、主要政党の一つが競争的選挙に際し、有権者の多数に支持され続ける事で政権を維持し続ける政党制)
(註2、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)

<後半>
寺島>  伊東さんは大変若くて1965年生まれで、東大の理学部の物理学科を卒業し、大学院も出ていますが、大変に広い範囲で活動をされています。一番驚く事は音楽家でもあって音楽家である伊東さんが活躍している世界と社会科学的な世界、特に時代や社会に踏み込んだ活動をされていて、クロスボーダー型人間と言いますか、自分で境界を持たずに色々なところに踏み込んで活動しています。それは国境という意味のボーダーも含めて1年の内の半分くらいベルリンで仕事をしている人です。そのような意味で自分がいま動き回っている枠組みの中から「いま世界をどう見ているのか」という漠然としたテーマでお話しをして頂きたいと思います。
 
伊東>  伊東です。大きなお題を頂戴したのですが、私が世界を見る目と言っても私の観点からでしか見る事が出来ません。音楽家でもあるとご紹介を頂きましたが音楽を生業にしております。大学に呼ばれる前には「題名のない音楽会」というテレビ番組の監督等、音楽以外の仕事はしないで生活をしていましたが、1999年に大学に呼ばれた理由は、IT革命、喧しい時期で東大にも何かをつくろうという時に「IT部署ではダメだ」という事で、官庁との関係で、「東大はアートを含めた文理融合組織」を作るんだと言って、私とコンピューターグラフィックスの人を呼んだわけです。私の家は2代、3代前から芸術とテクノロジー双方に関わっていたので、明治以来の近代の日本の洋学の需要や文物(文化の産物)の需要等を色々と考えて、せっかく建学以来、最初の芸術実技の教官という事にして頂いたので少し意識をもって調べ物をしてみたのです。
 私は特に、ここでは明治国家をつくるという仕事を学ばせて頂いて1880年代の日本、つまり、この時期に憲法や議会等をつくって、いまの日本の国の形がつくられたという事で、この時期に色々な原点があるように思うのです。その中で東京美術学校、或いは、東京音楽学校、つまりいまの東京藝術大学ですが、芸大をつくった原点がどこにあるのかという事を2002、2003年くらいに科研費(文部科学省・科学研究費)の研究を芸大と一緒にやりました。そして、非常に驚いた発見があったのでそのお話しをしたいと思います。
 1883年に文部省が「図画調べ係」というものをつくりました。それが芸大の原点です。当時は西南戦争の直後で国庫逼迫であり、日本が失敗国家になりかけていた時期です。
鳥羽伏見の戦いと同じように刃を交えたのでは西郷軍に勝てるかどうかわからないという事もあったのだと思いますが、いずれにしても戦費が嵩んだため日本が経済的に潰れかかっていた時代です。その明治10年代後半、1883年に京都や奈良にある色々な日本画や漆工芸品や、それらを創る匠の技等々を徹底して調べるという事を文部省が行ないました。
それを指導したのが当時、お雇い外国人教師として東京大学に理財学(法学部経済学科に相当する学問)の講義をしていた29歳の若い青年でした。
彼は美術が好きで自分でも絵を描いたりしていましたが、「日本の美術は素晴らしい」と言っていました。そこには1800年代中頃から末期までに行なわれた「パリ万博」で浮世絵が評価されて起こった「ジャポニズム」の影響があったと言えます。
それと共に非常に重要だった事は、エジソン電球にフィラメントとして京都の八幡の竹がよいという話になった事等もあって、日本の文物はうまく利用すれば海外で商売になると考えられたのだと思います。
つまり、その当時の日本政府は外貨準備高に非常に不足していたのです。金、地金、銀等がどんどん流れ出てしまい、どうにもならなくなっていた当時の明治国家にとって日本の伝統美術というものが国を救う力になるかもしれないと考えた人がいたようです。どなただったのかはよくわかりません。
さて、お雇い外国人の29歳の青年=アーネスト・フェノロサという人物ですが、そのフェノロサがその調査を開始しました。調査のために若い青年にアシスタントを頼みました。それが岡倉天心という人物です。そして、日本画という技術を伝承している人と一緒に考えなければならないので、もう一人有望な日本画家をアシスタントに選びました。それが狩野芳崖という人物です。この二人と一緒に1883年にこの事業をはじめて、1884年が松方デフレ(註.1)です。要するに、そのような滅茶苦茶な時代に芸術大学をつくる原点をつくって、1885年に現在の東京芸藝術大学の原点である、東京美術学校をつくりました。
このような経緯を私が伺ったのは、実は私が芸大と科研費共同研究の東大の最初の教員だったので、元来、私の友人である建築家の六角鬼丈という人で、彼は現在の芸大の美術部長で、彼のお爺さんが六角紫水、横山大観と同級生の美術学校一期生で漆の最初の教授だった人です。そして、現在、漆の教授をされているのは増村紀一郎さんです。増村さんは代々、輪島塗の家ですが、昨年、人間国宝に認定されました。増村さんとお話しをしていると、ほとんどケミストリー=chemistryです。これは酸化重合だとか、これは加水重合だとかいう話で、例えば、正倉院の御物の中には、プラスチック樹脂のように見える書箱がありますが、これは牛の革に漆を塗ったものです。増村さんの大学人としてのお仕事はこのような方法を全部ゼロから解明し直して、再現をするという素晴らしいものです。このような方向性を徹底して指導していらっしゃるのが、学長としても日本画家としても、そして被爆者でもある平山郁夫さんです。私も芸術の教授として大学に入っていますが、「作曲、指揮、情報史学研究室」というものが、私の研究室の名前です。芸術家としても個人としても仕事をしていますが、せっかく大学に籍を得たので、言ってみれば、半分は歴史研究です。しかし、歴史とともに歴史の中にあったイノベーションであり、これは国をたてて行くという事でもあり、国際的な関係の中でそれをどのように価値を見い出して行くのかという事が非常に重要な事なのかと思ったわけです。
世界をいま見る目という事で、例えば、明治10年代の転換を考えてみるのは面白い事だと思います。それは、例えば、東京に東京大学や帝国大学をつくる時にも明治維新の初年に、それまであった幕府の官学という枠組みを最終的には使うのですが10年をかけて入れ替えをしています。国学派、儒学派等、すべて締め出し、10年かけて伝統的な封建教学を排除していきました。つまり、その辺りで一つの価値の転換、価値観の転換が起こったのだと思います。そこに同時に洋学というものが入って、洋学或いはサイエンス・テクノロジーの先端に直接役に立つ日本の象徴としてフィラメントの存在が非常に大きかったのです。これは人間国宝で漆の増村先生から伺ってなるほどと思ったのは、「石油化学工業が発達する以前、石炭の分留は物凄く割が悪くて、日本の漆は驚くほどエレクトリシティー=電気工学の初期に役に立っていたのだ」という事で、彼はプライドと自負と責任感をもって私に教えてくれました。
 例えば、蓄音機の傘、初期の非常に軽い電化する以前のネジ巻き型も含めて、漆がどれだけ沢山使われているのかという事です。
漆器の事を「JAPAN」と呼ぶ理由は、漆器というものが単に奇麗な工芸品としてだけではなく、漆の工芸、或いは漆のテクノロジー全体が日本のブランドになっていた事を象徴していると言えるのではないでしょうか。
私は価値をいかに見立てて行くのかという事が非常に重要だと思っています。つまり、メディアは価値観を共有できるものにするという事で、もっとはっきり言うと価値を創造していくメディア(media=mediumの複数形。中間の、媒介物、媒体の意)の確立は非常に重要なものであると認識しています。一般には「メディア・リテラシー研究」などという言葉で表現される事が多いですが、単にメディアだけ特化するのではない、社会・経済的な価値観全体をメディアが支えてゆく、アタマからシッポまでそろった「一身具足」の価値観を立てていく、価値ないしは信用を創り出していく事が必要だと考えているという事です。
一つの例として、私はこの頃、千利休の話をよくしていますが、何故、利休が切腹をしたのかをお話しします。利休は大阪の堺の生まれの商人で織田信長に仕えて、価値創造、信用創造という言い方をすると微妙ですが、そのような事を考えた人です。戦の結果、一国に相当するような戦功をあげた人に対して茶器を下賜するというルールのようなものを信長と堺衆とともにつくったという事は非常に大きな事だったと私は考えています。例えば、小西行長のような外様にあたるような色々な人たちが大きな戦功をあげた時に領土は与えずに茶壺やなつめ等を与えて、それらには一国以上の価値があるという価値の創造、信用の創造をつくったのです。つまり、堺筋に持っていけばそれだけの武器、弾薬と交換が可能な裏書きがされていたという事です。
 小田原攻めで全国統一に豊臣秀吉が成功します。その翌年にさっさと千利休が詰め腹を切らされるというのは、一国に値するような信用をどんどん創造するような人がいてもらうと困りますね。つまり、政治の世界に深入りし過ぎたためだったのです。
秀吉の政権は小田原攻めに勝利して日本全国をひとまず統一しました。その後、国内統一以前に役割を果たした「信用創造」の要である利休に「召し腹」を申し渡した上で、文禄・慶長の役という、無謀な海外出兵の挙に出て、戦費支出によって豊臣政権自体が潰れて行ってしまいます。逆に徳川幕府の江戸開府から元録期あたりまでの80年ほどは、新田開発など日本史上最大の産業の成長期でした。そこでは適切な信用創造、バブル的な証券の濫発ではなく、適切に価値を見立てて産業を育てる、牧歌的な金融資本が成立していたように見えるのです。
私が思う事は、国際社会の中における適切な価値観の遠近感の見定め、そしてそこにおける価値をもう一度しっかりと根拠に基づく価値の立てかたに失敗すると近年の証券不祥事やITバブル等になってしまうという事です。一芸術教員、或いは音楽家としての私がその延長で見ている事にすぎませんが、価値を見立てる事を国際社会に情報ツール、ネットワーク、メディア等を通じて共有して行く事で2008年から2009年にかけて大きな岐路に立っているので、そのようなところに価値の見立てがあります。そして、基礎的な研究と言いますか、ものを見る目の高さは非常に重要なので、できるだけ価値ある場というものを守って育てるという観点で進めて行きたいと思っています。
 
(註1、松方財政とも言われる。西南戦争のための戦費調達から生じたインフレを解消するために、大蔵卿であった松方正義が行なったデフレ誘導財政政策。
 不換紙幣<本位紙幣である金貨や銀貨等と交換を保障されない紙幣。20世紀中頃までの紙幣は金貨や銀貨を交換できる事が前提となっていた兌換紙幣だったため不換紙幣と呼ばれた>回収こそがインフレーションを抑制しデフレーションに誘導できるとした財政政策)

2009年07月26日

第28回目

木村>  先週の放送では「イタリア・サミットと世界」という事で、イタリア・サミットを振り返りながら、そのお話の中でアメリカが変わりつつある、世界がその中で大きく変わるというところに私たちは真っただ中に立っているという事が分かりました。そして、寺島さんが実際にアメリカにいらっしゃってみると、オバマ政権が非常に大事な分水嶺にあるということも分かりました。
 今週のテーマは「歴史時間の中での自分~体の中のユーラシア~―中国との2千年以上の関係」です。
 「ユーラシア」は寺島さんが非常に重要なポイントであると力説されて来ているので分かるのですが、「歴史時間の中での自分~体の中のユーラシア~」と言うと、一体どのようなお話なのでしょうか?

<体の中のユーラシア~中国との2千年以上の関係~>

寺島>  私は「世界を見渡す構え」を悩みながらもよく考えています。「世界を見渡す姿勢」と言ってもよいと思います。
歴史時間との向き合い方は私たちが意識しなくてもいつのまにか我々の体の中に、我々の祖先が蓄積して来た時間が共有されてきているという実感があります。
例えば、今年、NHKが大河ドラマで「天地人」を放送していますが、日本人は戦国時代が大好きで繰り返しあの時代のテーマが登場してきます。「天地人」は上杉謙信に連なっていた直江兼続が主人公の物語になっていて、この人たちの時代は歴史時間の中で言うと400数十年前の話で、凄く昔の話だと思いがちですが、もっと長い視点から言うと400数十年というのは、極端に言うとついこの間であるという位置感覚もあるわけです。
私は歴史時間というものは円形が圧縮されると言いますか、遠くなればなるほど円形が潰されて来るので、私たちから見るとどれもこれもが大昔の人だという感覚になります。
しかし、歴史時間の距離感を的確に意識しながら私たちは知識を身につけていかなければならないと思います。例えば、この大河ドラマの舞台とも関連する武田信玄が掲げていた風林火山の旗の意味は「疾きこと風の如く」で、これは「孫子の兵法」(註.1)から来ているという事は御存知かと思いますが、中国の大昔の軍事指南のような人が書いた書物から「風林火山」という言葉が来ていているのです。
孫子は2500~2600年前の人で、武田信玄にとっても2千年以上も前の人物ですから、その言葉を旗印にしていた彼にしてみても大昔の言葉だという感覚があったと思います。つまり、私たちから見ると、孫子の2500~2600年前も、武田信玄の400数十年前も圧縮されて同じ平板のように見えるけれども、武田信玄と孫子の間には2千年以上の時間が流れていたのだと気がつきます。
このような視点から更に話題に触れたいのが、私がよく話題にする弘法大師の空海です。弘法大師が中国に遣唐使の一人として長安を訪れたのは804年で、31歳の時でしたからいまから1200年前の話です。
武田信玄からすると「弘法大師は800年も前の人だ」という事になります。1200年前に空海が日本から中国に訪れた頃、日本の人口は約500万だったと推定されていて、500万人の農業を基盤としている国だったというわけです。そこから遣唐使という形で中国に渡りました。当時の中国の長安には4000人のペルシャ人が住んでいたという記録も残っていますから、長安は国際都市だったのです。ユーラシアの中核国際都市で、分かり易く言うと、おそらく彼は国際都市=長安で、私たちがニューヨークだ、やれ、ロンドンだと言う感覚よりも衝撃を受けて、国際人の先行モデルのような形で踏み込んで行ったようなもので、おのぼりさんのような気持ちで衝撃を受けたと思います。そして、その時に中国から持ち帰って来たものが、いつだったかお話をした事がありますが、土木工学の技術であったり、薬学の技術、冶金工学、つまり水銀で金を溶かす技術だったりします。
空海は真言宗の開祖で宗教的指導者というイメージがありますが、当時の日本にとっての朝鮮や清国だった中国から様々な技術を持ちかえって来た、「エンジニアとしての空海」が日本の歴史に残して行った足跡が凄いのです。
私は今年の春から私立大学の多摩大学の学長をやっていますが、日本の私立学校に通っている人たちはみんな空海を仰ぎ見なければならないのです。それは何故かと言うと、空海が京都の東寺に「綜芸種智院」(註.2)という日本で最初の私立大学ともいえる塾を設立しました。私は、空海が仏教の学校をつくったのではなくて、庶民が技術を身につけるための学校をつくったというところに凄さを感じます。
いずれにしても、空海なる人物が1200年前にいたという事で、段々とイマジネーションを働かせながら番組を聴いて頂くとよいと思います。先日、映画「レッドクリフⅡ」が公開されましたが、タイトルによく「レッドクリフ」と名前をつけたものだなあと私は思っています。これは三国志の「赤壁の戦い」の事で、まさに、赤壁=レッド・クリフなのです。
赤壁の戦いが行なわれたのは208年で、いまから1800年前です。先程話題にした空海から更に600年前、日本では大化の改新が645年ですから、それよりも400年も前に赤壁の乱が中国で繰り広げられていたわけです。
 歴史時間をどんどん置いて行ってみると、円形が圧縮されるという意味が段々分かってくると思います。「レッドクリフⅡ」を観た人に同じ思いをした人がいるかどうかは分かりませんが、「レッドクリフⅡ」の中に、先程私が話題にした武田信玄の掲げていた風林火山が出て来ます。それは、風林火山の言葉をベースにしながら舞い踊っているシーンです。
つまり、このレッドクリフ、赤壁の戦いの208年から見ても、孫子の兵法は位置感覚からするとそれよりも更に700年以上前の兵法から持って来ているので、赤壁の乱の物語に孫子の兵法が出て来る事はちっとも不思議ではないのです。
このように、イマジネーションの中に段々と湧いてくるのは、要するに、今日、私たちの頭の中にあるその種の話題と知識を総括してみると、いかに長く中国の文化や、中国というものにある種の接点を持って今日に至っているのかが分かります。つまり、様々な漢字文明や文献等の影響を受けながら意識しない間に私たちの中に埋め込まれている中国との接点が日本人の心の中に横たわっているわけです。
このような中で、先程木村さんが振ってくれた時に、「我々の体の中にあるユーラシア」という表現をしてくれましたが、私は興味がある事の一つに、七福神があります。全国至る所にどんな所にでも七福神があるのは御存知かもしれません。
七福神がある所に行くと、「三国伝来七福神」と書いてあります。この「三国伝来」の「三国」というのは、日本人の深層心理に埋め込まれていて、例えば、「三国一の花嫁」という言い方をします。三国一の三国とは一体どこの国の事なのだろうかと言うと、大和と唐と天竺の事なのです。つまり、日本と中国とインドの事です。これらが日本人にとっては世界だったとも言えます。「世界一の花嫁」という言い方をする時に、「三国一の花嫁」と言うように、日本人の意識の中には、常に「三国」=「日本」、「唐」=「中国」、「天竺」=「インド」というものが仏教伝来のプロセスと同じように、日本人の中に埋め込まれていたわけです。
三国伝来七福神の七福神(註.3)は、七つの神様で日本由来の神様もいますが、いかにも日本人らしいのですが、実はインドから伝来の神様もいれば、中国から来た神様もいて、そのような人たちがごちゃ混ぜになりながら日本の中で庶民信仰をとして根づいて行きました。
したがって、日本人の意識の中に本人が意識しているかどうかは別にして、七福神参りをして歩いている事そのものがユーラシアの風を心の中に引き寄せているとも言えるのです。いつの間にか日本人の生き方そのものに中に埋め込まれているユーラシアを意識せざるを得ないのです。我々は自分一人で努力して大人になったように思うけれども、実はお爺さん、お婆さんから親に、また、地域社会に伝わる様々な伝承の中に体を置いているうちに、いつの間にか心の中が三国伝来の人間になっているわけです。
近代の日本人と戦後の日本人が物凄く特異なのですが、150年くらい前にペリーが浦賀にやって来た事を発端に日本は開国し、西欧文化を積極的に取り入れ、近代化を計りました。そこから、日本人も西欧化されたわけです。更に、戦後の日本はアメリカに敗戦した総括から、アメリカにだけ向き合って来ました。つまり、西欧化されて150年、アメリカナイズされて約60年なのです。先程から私が話題にしているように、「孫子の兵法は2600年前の話だった」、「弘法大師が中国に行ったのは1200年前だった」という話からみると、60年という年はついこの間どころか昨日の出来事のような時間の尺度でしかありません。しかし、その中に人間というものは埋没するので60年が永遠であったかのような錯覚を起こしてしまい、いつの間にか私たちは、この番組で何回も触れて来ているように「アメリカを通じてしか世界を見ない」という人間になってしまったのです。
そして、いま、この視界の転回を日本人は求められています。「ユーラシアの風」をこと更に意識しなくても自分たちの体の中に風が吹いているのだという事が私の言いたい事で、思い越せば、自分自身がたっぷりと吸収してきているものの見方や考え方は、文化の中に吸収していて、その上に立って近代や西洋やアメリカ等を軽んずるのではなくて、その上にまるで重層的に土が層のように積み上がって行くバランス感覚の中で全体を見る事が出来るようになってくれば歴史時間の中で世界を見渡す視座と言いますか、スタンス、構えが段々見えて来ると思います。「何とかかぶれ」ではなくて、何かにかぶれてそれだけがすべてだと思いこむのではなくて、常に冷静に総体的にものを見るためにも歴史観、歴史軸をそのような視点で見直してみる事がとても大事だと思います。これが本日、私が話題にしたかった事です。

木村>  寺島さんのお話を伺いながら、「歴史意識」という言葉を我々もよく使うのですが、その実態、中身について本当に深められているのかどうかと言うと危ういところだと思うので、あらためて歴史意識について考えさせられました。そして、これから日本がおそらく今年から来年にかけて、戦後60年以上を経て初めて「本当に日本とは何であるのか?」という問題に我々が直面しなければならないと思います。寺島さんのお話によってその事を触発されるので、その時に我々が「体の中にあるユーラシア」というものをもう一度思い返す大切さをあらためて感じました。

<後半>

木村>  今週の後半は、リスナーの方からのメールを一つ御紹介して寺島さんにお話を伺いたいと思います。
 「おはようございます。寺島さんと木村さんのお話を伺っていると、いつももっと世界に目を向けないと、と思います」。まさに、今朝のお話ですね。東京でお聴きになっているラジオネーム、アップルさんからです。「特にいまの日本では政治に明るい兆しが見えません。経済危機での雇用問題、外交、勿論、国内政治等、先行きが不透明な部分が多すぎます。以前、寺島さんがお話しになっていた鈴木大拙さんの『外は広く、内は深い』という言葉のように日本国内の政治はもっと求心力のあるものにして欲しいし、諸外国のよいところはもっと取り入れて欲しいと思います。今度の衆議院選挙でどちらの党が政権をとろうと、少なくともいまより暮らしやすい国にして欲しいと思っています。勿論、私たちもよい国にする努力をしなければならないと思っていますが、近々行なわれる総選挙でどういった事に注目して行けばよいのでしょうか?」というメールです。

寺島>  ひょっとしたら政権が替わるかもれないという状況になった時に、日本人の心に突き上げて来るテーマは二つに絞られると思います。
一つは外交面。自民党、与党を中心にしてやって来た、米国を唯一の外交基軸として外交を展開していく事から脱却して行くのは結構だけれども、対米関係が悪化して日本は大丈夫なのだろうかという問題提起があります。もう一つは、政権が替わったら株が下がるとか景気が悪くなるとか、要するに、経済に断絶が生じて日本の経済がより不安定なものに向かうのではないのかという事です。この二つの論点は、政権が替わっても大丈夫なのかという時の議論として、私はこれから一段と議論に火が噴いて来ると思います。
 そこで、問題になるのは、どの党が言っている事が正しいという次元の話ではなく、また、日本人として政権が替わったらどうなるのかという発想ではなくて、どうして行くべきなのかという事も視界に入れながら、その種の不安を一掃して行くような政策論の軸を確立して行くという事が大切なのだと思います。
 我々がやるべき事は、戦後60年続けて来たアメリカとの関係を悪くして行こうという方向ではなく、アメリカとの関係を大事にしながらも、本日も話題にしてきたアジア、ユーラシアに視界を向け、日本の国際関係はどのようにあるべきなのかという事にキチンとした政策構想において、つまり、もっと言うと、外交の原則としてどのようにして行くのかという事を論争しなければならないのです。これをよく見つめる必要があります。いま日本がおかれている経済状況の中でどのようにしていくつもりなのか、現実に、日本の貿易の70数%がユーラシアとの貿易で、アメリカとの貿易はわずか13%の状況になっているけれども、経済の関係だけではなくてアメリカ、ユーラシアの関係を日本の役割を見ながら、どのような方向に持っていくべきなのかという論点に注目していかなければならないと思います。
そして、経済については、もっとも大事な日本人の生活の安定なわけで、極端に言うと、若い人が将来、夢を持てるような仕事を、そして働きがいのある産業、事業をどのようにつくって行くのか、歳をとった人にはより安心して暮らす事が出来る老後のために「日本の国の分配のあり方」をどのようにすべきなのかという視点からの経済政策をじっくりと見つめて問いただして行く必要があります。私は薄っぺらな意味での政策綱領やマニュアル、マニフェスト等ではなくて、本当の意味で外交的にはより安定感がある重層的な国際関係を築く国としてどのようにするのか、経済的にはよりこの国を豊かで安定したものにして、公正な分配が行なわれるような経済産業政策はどうあるべきなのかという事を問いただして行くという2点に選択の軸が尽きると思っています。

木村>  それを問うためにメディアにも哲学、思想が必要ですね。

寺島>  メディアは、「あなたは○か×か」「あなたはイエスかノーか」という形の選択肢を問うのではなくて、選ぶ側がじっくりと外交、内政を一体とした国家戦略がどのようにあるべきなのかという問題意識を高めて行くようにしなければならないのです。何度も言われるように、民主主義というものは選ぶ側のレベル以上の政治は絶対に実現出来ないので、選ぶ側のレベルを高めるためのリード役を、メディアが果たして行かなければならないわけです。私は我々がこの種の番組を時間をもらってやっている意味もその部分にあるのではないのかと思っています。

木村>  これはリスナーのアップルさんの問題であり、私の問題であり、そして、お聴きになっているみなさんの問題でもあるという事ですね。

(註1風林火山=その疾きこと風の如く、徐<しず>かなること林の如く、侵すこと火の如く、動かざること山の如し。春秋戦国時代の呉の将軍=孫武が著した兵法書の中に出て来る一説であり、武田信玄はこれを旗印として使用した)
(註2、828年に空海が設立した庶民に開放された私立学校。当時、大学、国学等の教育機関には貴族や郡司の子弟しか入学できないという身分制度があった。空海は、綜芸種智院を設立してこれを広く庶民に開放した)
(註3、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七柱。インドのヒンドゥー教、中国の仏教や日本の土着信仰が入り混じった神仏混淆の信仰対象で、室町時代末期から民間信仰の対象となったとされる)

第27回目

<イタリア・サミットと米国出張報告>

木村>  前回の放送では「地球温暖化を防ぐために~CO2等の温室効果ガス排出削減の中期目標をめぐって~」というテーマでお話を伺いました。
 今週もこのテーマに関わりがあるのですが、「イタリア・サミットと世界~米国出張報告もふくめて~」というテーマでお話を伺います。
 サミットが始まって35回目になりますが、今回は拡大されたフォーラムに参加する事になっていた中国の胡錦濤主席が新疆ウイグル自治区の暴動問題によって急遽、帰国するという事もありました。
経済、気候変動、核廃絶等の大きなテーマがあったのですが、「さて、成果は?」となるとメディアの言葉にも出て来ますが、幾分、色褪せたという印象が拭えません。寺島さんはこの事についてどのようにご覧になっていたのでしょうか?

寺島>  昨年7月に日本で行なわれた洞爺湖サミットの際、環境という大きなテーマで我々が関わっていたのですが、私は今回のサミットとの違いを凄く感じます。と言うのは、洞爺湖サミットは「ブッシュ最後のサミット」と呼ばれていて、私が思い出すシーンは、やたらにブッシュが上機嫌だったという事で、世界が直面している問題についてアメリカは具体的に踏み込まなかったという印象が強く残っています。そして、7月直後の9月にリーマンショックが襲って、この1年間で世界経済が本当に奈落の底に落ちて行ったと実感しました。しかし、あの時に私は言っていましたが、サブプライム問題が前の年に噴出して、金融資本主義の挫折と言いますか、あまりにも行き過ぎたマネーゲームをどのように制御するのかというテーマが世界の問題として、目の前に横たわっていたのですが、サミットで一切そのような話には触れず、また、地球環境問題に関してもアメリカは「自分は例外であり国際ルールで縛るな」という姿勢で、京都議定書からもドロップアウトしたままブッシュは去って行ったわけです。
 つまり、昨年の洞爺湖サミットの虚しさと言いますか、私自身も洞爺湖に行っていて、欧州から来ていたメディア関係の人たちと会った時に、「ブッシュ大統領に今さら何を言っても始まらない」というお手上げの空気が漂っていて、ある種の虚しさを抱きました。しかし、今年はオバマ政権がアメリカで発足して、「オバマ最初のサミット」と言ってもよいサミットだったのです。アメリカの国際社会におけるリーダーシップの復活と言いますか、新しい指導者としてオバマが何を言って来るのかという事が大きなポイントでした。オバマ新政権の5カ月を踏まえて、オバマはロシアからイタリアに回り込んで来たわけです。「核兵器なき世界」というメッセージを政権の一つのキーワードとして発信し始めて、ロシアにおいては、核兵器の制限に関する米露間の新しい合意を形成して、その勢いで核兵器廃絶に向けて、世界の核不拡散に対して核兵器なき世界を嘔いあげて、来年の3月にワシントンで核サミットを行なうと言いました。その共同宣言の中で、「CTBT」=「包括的核実験禁止条約」(註.1)を早期に発効させる努力をするという事まで持ち出して来きました。1年前にはアメリカがまさか核廃絶という事を言い始めるとは予想もつかないところにドーンと球を投げて来たという感じです。そして、これからそれがどのように進むのか大変な壁があるだろうと思いますが、新しいアメリカのリーダーになった人物=オバマが、世界に向けて発信し始めた「核兵器なき世界」というメッセージが非常に心に残るという事が一つあります。
 そして、もう一つは環境に関して、少なくとも昨年のようにアメリカは世界の新しい環境のルールづくりから降ろさせてもらうという空気から一歩踏み込んで、京都議定書に参加するわけではないけれどもアメリカ自身の中長期のCO2排出に関する目標数値も「2009年比横ばい、2005年比14%削減」とオバマ自身が数値を語り、今回、少なくともG8の水準において、つまり、8カ国においては、長期目標で2050年には80%削減という数字を共同宣言に出しています。
この80%という数字ですが、昨年、G8が洞爺湖で出した数字は50%でした。この事から言うと、アメリカ自身も環境のルールづくりに大きく踏み込んで来た部分と、昨年よりもやけに意欲的な30%も上積みしたような数字で先進国は2050年までに中期目標は別にして、「80%なんて言い出した」というところに大きなポイントがあったわけです。
この80%論の不思議なところは一体いつの基準年から80%削減するつもりなのかという話になった時に、甚だ玉虫色と言いますか、びっくりするような事になっているところです。それは何かと言うと、「あなたの解釈次第でどちらを採用しても構わない」と言わんばかりの合意内容になっているということです。つまり、昨年までの50%削減というのは1990年比の話だったのですが、1990年比という事では面白くないと言いますか、自分たちにとってそれは不利益だと思っている国がいくつかあって、それはアメリカであり、日本でもあるわけですが……。
 日本は1990年比の削減を京都議定書によって、6%削減を2012年までに行なうという事をコミットしています。その1990年比の数字を基準にすると日本の場合は1973年の石油危機以降、この番組でも何回か議論してきましたが、既に雑巾を絞って空雑巾のようにCO2削減の努力し終わった状態からまた更にという気持ちが大きいために、1990年比ではなくて、日本は1990年から7%増やしてしまっているので、もう一度話を戻して2005年の増やしている状況からその先何%削減という数字にした方が日本にとっては有利であるという判断があるので、ここのところに来て日本は基準年について2005年にして欲しいという話を国際交渉において強く言っています。そして、同じようにアメリカも「せめて2005年にしよう」と言っていたわけです。
 つまり、分かり易く言うと、そのような要求がいろいろと出て来ている反面、欧州はいまだに1990年比にこだわっているので、合意が形成出来なかったという事です。基準年は全く曖昧にしたまま、文章をよく読むと「1990年比、もしくは最近の複数年と比べて80%削減」という言い方しています。これは訳のわからない話です。生真面目に考える人から言うと、「これは一体どういう事だ?」という話になり、一体いつから何%削減かわからない数字をぶち上げても意味がないという話であり、80%削減と言ってみても厳密な面で意味がないのです。
しかし、そのように言いながらも、まず、アメリカが環境問題のルールづくりに復帰して来て、今年の12月にCOP15がコペンハーゲンで開催される予定ですが、それに向けて少なとも世界でもっともCO2を排出している国であり、エネルギーを消費している国であるアメリカ自身が国際ルールづくりの中に参画して来たという事はポジティブなメッセージとして我々は受けとめた方がよいと思います。
残る問題は中国です。中国は世界第2位のCO2排出国であり、その他にも今回のサミットには中国にとって不都合なテーマが並んでいたわけです。一つは国内における民族問題で新彊ウイグル族を人権問題の視点から見ると弾圧しているのではないかという事がありました。チベット同様の扱いで、中国が糾弾される空気と言いますか、可能性を感じとっています。そして、環境問題においても中国をも巻き込んだルールづくりという局面で、中国は途上国と一緒になって「先進国がまず責任を負え」と盛んに言っている立場からすると、中国も削減義務にコミットするのは避けたいという空気があるはずです。
更に、北朝鮮問題における中国の責任と言いますか、役割を期待されたり、問いただされたりするような流れは中国にとって辛いものがあります。

木村>  6カ国協議の議長国ですね。

寺島>  そのような意味合いにおいて、難しい課題も横たわっているし、さっと現われた中国が消えた事によって中国のプレゼンスの大きさを印象づけるというように、中国なきサミットの意味のなさを世界中に印象づける事によって逆に中国の存在感を際立たせたとも言ってよいと思います。ある意味では強かでもあり、高等戦術でもあると思います。
いずれにせよ、ここで申し上げたい事は、オバマは統治能力と言いますか、リーダーとしての構想力を極めて強く印象づけたという事です。つまり、昨年アメリカが洞爺湖で見せていた、「この指導者ではどうにもならない」という空虚なまでの空気から、わずか1年で世界の真っただ中に、「アメリカのリーダーは大したものだ」という印象を鮮やかに残しました。その後の8カ国だけではなく、インドや新興国等を巻き込んで拡大したフォーラムにおいても一つの流れを仕切って行くという事を見せて、根気強く議論に参加するアメリカを印象づけたと思います。

(註1、Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty)

<アメリカ出張報告>

私は2週間ほど前に西海岸のサンフラシスコを中心として動いて来ました。その時の印象はと言うと、オバマの5カ月がうまく行っているように見えるけれど、現実はアメリカも大変苦しんでいるという事です。
私がサンフランシスコにいた時は、マイケル・ジャクソンの死の直後でアメリカのメディアはマイケル・ジャクソンの事ばかりを連日多くの時間を使って報道をしている印象だったのですが、別の言い方をすると、マイケルの死もさることながら、6月には、イラクとアフガニスタンにおいてアメリカ軍兵士の死者がついに5千人を超してしまったという事実があります。オバマは、イラクから段階的に撤兵する構想を示していますが、この先オバマ政権はアフガニスタンには1万7千人も増派して更に突っ込んで行くというある種の泥沼で底が見えないという状況の中でのた打ち回っています。しかも雇用情勢において失業率が9.5%というところまで来ていて苦しみ抜いているアメリカという意味合いにおいては、決してオバマ政権は外交においても、国内経済においてもアメリカを新たな軌道にのせているとはまだ言えません。
雑誌の「タイム」が「オバマはFDRになりうるのか?」というタイトルで特集をちょうどやっていましたが、これはどのような意味かと言いますと、大恐慌のアメリカを救ったフランクリン・ルーズベルトのようなアメリカを再生させて行くリーダーになりうるのか、それともジミー・カーターで終わるのかという事です。つまり、牧師のような空気の男と言われたカーターはベトナムで傷ついてささくれだったアメリカ人の心にニコニコ顔の爽やかなメッセージは提供したけれども結局はアメリカの衰亡に加担してしまった大統領であったという捉え方が多いのです。そのジミー・カーター的な方向に行ってしまうのか、甦るアメリカをつくり上げたフランクリン・ルーズベルトのような役割を果たす大統領になりうるのかという事です。この政権の評価が非常に難しいところに来ているので必ずしもポジティブな状況ではないのですが、それでもオバマ政権を取り巻いているブレインも含めて、世界に向けて必死に発信をして、ある種のリーダーシップを取り戻そうとするアメリカというものがいま見えて来ていて、その舞台としてイタリアで行なわれたサミットによって繰り広げられた物語を頭の中で整理をしてみると、別な興味も盛り上がって来るのだと思います。

木村>  みんなが集まって「何かをお話合いしましょう」というサミットは色褪せたかもしれないけれども「変わるアメリカ」、そして「世界が変わる」という事を我々はそこに見る事が出来るかどうかというメッセージを投げかけたサミットだったのですね。そこで、当然、日本が問題意識にのぼってくると思いますので後半に伺おうと思います。

<イタリア・サミットにおける日本>

<後半>

木村>  「サミットと日本」なのですが、日本は存在感が薄かったと言われていますし、例えば、日米首脳会談について言えば、食事の前と後で合わせて25分話しただけですが、日本はこの事を首脳会談と呼んでいます。しかし、アメリカは単なるディスカッションだと言っているようです。これは、我々にとって、「一体このサミットは何だったのだろうか」と思わざるを得ない事ですね。

寺島>  私は日本人のサミットに対する考え方を含めて話しておきたいのですが、例えば、外務省のサミットを担当している責任者、シェルパとも言いますが、このような人たちの目線では、「今回のサミットは日本も結構頑張りました」という総括が必ず出て来ると思います。

木村>  シェルパはサミットの内容を先に積み上げて行って決めていくのですね。

寺島>  シェルパというものはコーディネイターのような役割で、日本の主張等をサミットにおいてどのように展開して行くのかという責任を担ってアジェンダをセッティングして行く事務局の人です。
 このような立場からすると、或いはメディアに対してアピールするために日本の主張を共同宣言に盛り込ませたというところが非常に重要です。そういう意味では、北朝鮮問題が共同宣言に入っているという事で、日本もきちんと主張をしたという事にもなります。そして、堂々とそれが共同宣言に盛り込まれているという事で結構成果があったではないかという類の総括がなされがちなのです。
そこで、私が思い出す事は宮沢政権がサミットに向き合っていた頃に私はワシントンにいましたが、宮沢さんがドイツ・ミュンヘンのサミットに行く途中にワシントンに立ち寄ってから向かうという事がありました。その時の日本のメディアも含めて日本人の関心は北方四島問題に向かっていて、北方四島についての問題提起が日本を支持する形で共同宣言に盛り込まれるかどうかという事が大変な課題だったのです。そして、宮沢さんが滞在しているホテルから少し顔を出した時に、「いよいよ北方領土問題は共同宣言に入る事になりましたか?」と記者団が叫んでいるのを宮沢さんが当惑したような顔をして見ていた事を思い出します。日本は全力をあげて各国に根回しをして、へとへとになりながら北方四島問題を共同宣言に入れる事に成功をしました。しかし、そこからどうなったのかと言うと、今日に至るまで北方領土問題は片付いたのかと言うと全くそのような事とは関係のないのです。今回の共同宣言のように、北朝鮮問題を盛り込むのかどうかという面だけのとらえ方によってサミットに関わる事の限界を日本人はそろそろ考えなければならないと思います。
サミットの場は、国際的なリーダーとして自分の国を束ねる統治能力と世界秩序のあり方という大きな構想力を持って向き合っていかなければ存在感というものを発揮出来ません。例えば、オバマが「核兵器なき世界」と発信し始めている事に対して、日本は自分の利害に関わる事だけは興奮して一生懸命に発言するけれども世界のあり方についてはちっとも発言をしないという空気です。
日本の天野之弥大使が「IAEA」=「国際原子力機関」のトップについ先日、7月2日に選出されました。機関はウィーンにありますが、パリにある「IEA」=「国際エネルギー機関」の方は田中伸男さんという日本人が事務局長を務めています。私が言いたい事は、国際的なエネルギー機関や原子力機関のトップを日本人がやっている事を背景にしながら、エネルギー、環境、原子力の平和利用、核の廃絶等に関する「日本としての見識を込めたメッセージ」を世界に向けて発信して行くべきだろうという事です。日本がリーダーシップを持って、このような仕組みで世界は核の廃絶に向かうのだという道筋をつくるべきなのです。具体的なルールは例えば、IAEAで盛んに議論されているように核装備ではなくて原子力の平和利用によるエネルギーの利用で原子力に向き合おうという途上国が出て来たのであれば、核装備をするという野心をおこさせないために核燃料を平和的に国際機関が融通して、核装備の誘惑を断つという仕組みの中に招き込んで行くという包括的なルールがつくられつつあるのです。そのようなものに対して日本こそが核を廃絶するという問題よりも平和利用の新しいルールづくりのシナリオを提示する事が十分に出来るのです。
世界の中での日本の発言力をこのような方向に高めて行くという問題意識を取り戻す事が重要で、「サミットで日本の主張が通って北朝鮮問題が入ったではないか」という狭い視野から脱却し、我々はそろそろ高い次元に昇らなければならないのです。それが今回のサミットを見て私が痛感した事です。

木村>  寺島さんは「統治能力」、そして「構想力」とおっしゃったのですが、背後にある問題意識をどのようなところに我々は置いているのか、それらをどのように深めているのかという事が相当重く問われるサミットだったのだと思います。

2009年06月28日

第26回目

木村>  先週の放送では、「地球温暖化~二酸化炭素等の温室効果ガス排出削減の中期目標をめぐって~」というテーマで、私たちが数字だけではなく、ここで何を考えなければならないのかという重要な問題提起のお話を伺いました。
 今週も、エネルギーと言えばエネルギーがテーマで、「戦後日本のエネルギーの歴史的変遷~石炭から石油、そしてグリーンエネルギーへ~」です。ここに「自分史の中」とサブタイトルがふられています。つまり寺島さんの歴史観に触れて伺う事になります。

<戦後日本のエネルギーの歴史的変遷>


寺島>  エネルギーと環境問題を歴史的な脈絡の中で、しかも自分にひきつけながら考えてみようという事です。
私自身、生きて来た人生そのものがエネルギーと環境に絡み合っていたと思います。それは何故かと言うと、私は1947年に北海道の炭鉱に生まれたのですが、戦後間もなくの頃、日本にとって石炭は大変な意味があって、「黒いダイヤ」と言われていました。「傾斜生産方式」(註.1)という言葉があって、日本の戦後復興を石炭の増産にかけたのです。

木村>  戦争で疲弊した日本の産業をどのように復興するかという時に重点的に重化学工業に向けるための経済活性化計画ですね。

寺島>  その源泉が石炭でした。しかも、石炭にとって九州の筑豊には大きな意味がありました。満州からの引き揚げ者が大量に日本に帰って来ざるを得なくなり、その人たちにとって九州の筑豊に炭鉱があったという事が戦後の日本において大きなバッファになっていたのです。まずは本土に帰って来て、筑豊で仕事を見つけて炭鉱で働く事が出来た事が日本の戦後の出発点として大変に意味があったと言えます。
 私自身が1947年に北海道の炭鉱で生まれてから、父親が九州の筑豊の炭鉱に移った時期がありました。私は小学校低学年の間の1956年から1957年頃、筑豊にいました。直方(のおがた)や飯塚の辺りです。五木寛之が筑豊を舞台にした作品「青春の門」で描いた世界ですね。
 その頃、土門拳という写真家の「筑豊のこどもたち」という写真集が1冊100円で発売され、大きな話題を呼びました。そして「にあんちゃん」(註.2)という本が映画化をされたりして筑豊が大きな話題の焦点でもありました。私が目撃した筑豊は、「黒いダイヤ」の時代から石炭が傾いて行く方向に向けて流れが見えて来て、どんどん小さな炭鉱が潰れていく時代でした。
土門拳の「筑豊のこどもたち」の中に象徴的な写真「弁当を持ってこない子」という作品があります。教室で弁当を食べている子もいるけれども弁当を持って来られない子が子供たちだけで生活をしているという人が現実にいました。私自身、お姉ちゃんがザリガニを採って来て妹や弟に食べさせているというシーンを見た事がありますが、その弁当を持って来ない子供は本を読んでいるのです。

木村>  なるべく弁当を食べている横の子供を見ないようにしている風景でしたね。

寺島>  私の母親が給食運動をやらなければならないと言って走り回っているのを横目で見ながら、子供心に「不条理」という世の中には努力をしても解決出来ないような途方もない困難な問題が横たわっているのを本能的に感じていました。「何故この子は弁当を持ってこられないのだろうか?」という矛盾を意識した瞬間だったのです。
 私は石炭というものに大きく巻き込まれて少年時代を送ったわけですが、日本の一次エネルギー供給において、石炭と石油の比率がクロスして反転したのが1961年で東京オリンピックの3年前です。そして、この頃に、ついに石油が石炭を超えて一気に石炭が斜陽産業に転がり落ちて行きました。私の父親が潰れて行く炭鉱の労働問題を抱えて企業ぐるみ閉山という世界をどのようにマネージメントしていくのかと苦闘していた時期に差し掛かって行くわけです。

木村>  ちょうど三池争議(註.3)という大きな炭鉱の労働争議がありました。

寺島>  戦後日本の資本対労働の闘いの総本山のようなものでした。1962年に日本が石油の輸入を自由化して、石油がどっと入って来ました。1960年代の高度成長期に入って行く日本にとって「流体革命」という言葉がありました。要するに、石炭から石油という液体にエネルギーの源泉が変わって行く時代が1960年代だったのです。
 そして、日本はこのような流れの中から1973年に中東での紛争をきっかけにして石油危機にぶつかって行くわけです。大阪万博を超えて、まさに1970年代は日本が高度成長期を石油というものを梃にしてさかのぼっていったと言いますか、上り調子に上がっていった時期だったのです。
同時に、1972年、石油危機の前年にローマクラブが「成長の限界」という本を出しました。この本で、ある意味では我々は世の中には環境問題が地球規模の問題として横たわっているのだと自覚したのです。環境汚染問題や資源の枯渇問題や人工爆発の問題等が提起されていて地球規模においての問題という意味でのエネルギーと環境問題にはたと気づき、しかも翌年に石油危機にぶつかり、大きなパラダイムの転換が起こり始めました。
 そこで第一次環境ブームとなったのです。エコというものはいまに始まった事ではなくて30年以上前にも再生可能エネルギーブームがあったのです。いまで言う再生可能エネルギーによってエネルギーを賄って行くという考え方も世界にはあるのだと知ったのが1970年代でした。
1973年の石油危機の年でさえ、日本の中東に対する石油の依存度は78%だったのです。そして、中東にばかり石油を依存していたのでは危ないので多角化しようという事で一生懸命に動き始めて、一時期は石油の中東依存が6割台に落ちた事もありました。しかし、その後1990年代に入って冷戦が終わり、グローバル化の時代に惹かれ始めて、気がついてみると日本の石油の中東依存が90%になっているわけです。これは何が起こったのかと言うと、グローバル化と言いますか、その世界の人たちは石油の「コモディティ化」(註.4)という言葉を使って説明します。これはどういう事かと言うと、石油は1973年の石油危機の頃に盛んに議論をした政治的戦略的商品ではなく、OPECの価格カルテル等で囲い込んで、エネルギーを高くして来る人たちに対して、消費国が連携して戦わなければならないという政治的な商品というイメージがありました。しかし、グローバル化という言葉が聞こえて来て、石油もOne of themの国際商品で市場に任せて石油を調達したり、使ったりする流れの中に既になってしまったのです。OPECが価格カルテルを組んで石油を高くして行くような時代は終わったという感覚が冷戦後の世界の中に広がって行きました。
このような事によって日本においてエネルギー戦略上、どのような方向に流れて行ったのかと言うと、一番安きに流れるという事ですが、1セントでも安い石油を効率的に調達するという方向に向かいました。
エネルギーのサプライソース=供給源を多角化して、日本のエネルギーの安定化を図る事を行なったのであればどんなプロジェクトでもリードタイムが10年かかり、先行投資が何兆円もかかります。そんな投資を組んで例えば、中東だけに依存していたのではダメなので、他に多角化するようにして行くと物凄いコストと時間がかかるのです。それならばなみなみ積んだタンカーを中東から数珠繋ぎにして日本に持って来た方が効率的で、とりあえずは安く石油が調達出来るという流れに特に1990年代あたりから入って行きました。そして、気がついてみると、石油危機と言われた1970年代でさえ、78%くらいだった中東依存度があっという間に9割になって、日本のエネルギーの安全保障の意味において物凄く不安定な状況になり、自分自身の首をどんどん絞めて選択肢を狭くして来ているというエネルギー政策の中に嵌ってしまったのです。
 振り返ってみると日本のエネルギーは戦後の世界の大きな変化を背景にしながら、色々とバイオリズムのように動いているのですが、日本自身のエネルギーがおかれている状況はますます不安定になって1970年代に吹き荒れた再生可能エネルギーブームも結局は尻つぼみになりました。それは何故かと言うと、私はこの番組のグリーンニューディールの話題の時に、「モータリゼーションを変える事が出来なかったからだ」と言った記憶がありますが、要するに、車を動かすエネルギーとして再生可能エネルギー等で供給するという事に展望が開けずに、結局はガソリンを焚いて走る車の方が便利だという流れをつくって来てしまったわけです。そして、いま我々が一番注目しなければならない事は自動車がガソリンを焚いて走る仕組みから電気自動車の方向に流れを取り始め、電気自動車に電源を供給するスキームとして、化石燃料で電力をつくる事から、再生可能エネルギーのようなもの、例えば太陽・風力・バイオマス等で賄って行く流れをつくれるのではないかという事が見えて来ており、大きくパラダイムが変わり始めているのです。
 このような意味で、戦後のエネルギーの流れの中で私の頭の中にある記憶を話して来ましたが、別の言い方をすると、1970年代にやりかけて失敗した再生可能エネルギーについて新しい視点で、つまり、自動車のモータリゼーションを支える仕組みとしてうまく結び付かなかった自然エネルギー、再生可能エネルギー等がモータリゼーションを支えるエネルギーとして使えるのではないのかという事です。
しかも、その後、IT革命が吹き荒れて情報ネットワーク技術革命を走って来ました。例えば、その先頭にあった企業として、「グーグル」という会社があります。我々が日常的に検索エンジンで利用しているグーグルがいま、まさにITを使って電力をきめ細かく双方向で運ぶようなネットワーク型のシステムをつくろうとしています。これが世に言う「スマート・グリッド」(註.6)です。スマート・グリッドのようなITの技術を小型分散型の再生可能エネルギーを効率よく利用して、余っているところは融通し合うような仕組みが出来て、それを有効な電源として電気自動車のようなものを支えて行くという仕組みをつくる事によって、エネルギーの体系を変えようとしているのが、分かり易く言うとグリーンニューディールの大きな体系とも言えます。
これがうまく行くかどうかはまだ見えませんが、少なくとも、本日ずっと話して来た、石炭から石油へ移行し、そしてまた、石油から再生可能エネルギーにかけようとしたけれども必ずしもうまくはいかなかった1970年代を踏まえて、その後ますます日本自身が化石燃料から脱却できないまま1990年代に入って来て、しかもそれが中東という特殊な地域に依存しているという不安感が日本の安全保障上の問題だという事にあらためて気が付き、再生可能エネルギーと自動車を結びつけて大きく世界を変えて行くチャンスが来ているという発想で見た時に、「エネルギーのパラダイム転換」という言葉を思い出すわけです。
そして、いま、我々が直面している時代をどのように認識するのかという事です。つまり私が冒頭に「歴史的脈絡の中で考えよう」と申し上げたのはそういう意味です。このような視点で我々がいま立っているところを考える必要があるという事を私が本日お話ししたかった事なのです。

木村>  あらためてお話を伺っていると、エネルギー革命と言われた1960年代の初め、その後、日本の社会は高度成長によって大きく変わって行きますね。寺島さんのお話ではエネルギーから社会や世界がどのように変わるのかという事でしたが、もう一つ、ふと思い浮かんだのは、言論の世界でも日本の近代化論等、いろいろなものが出て来て、そのようなものがすべて未解決で、あらためて寺島さんがおっしゃる「再生可能エネルギーへのパラダイム転換」が哲学や歴史観等を総合して問われて、そのような意味で大きな転換点だと思いました。

寺島>  エネルギー問題はある種の思想だと思います。自分たちの生き方の問題でもあるために思想の根底のところとぶつかり合って来るのです。だからこそ、この問題は非常に刺激的なのだと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方からのメールを元に寺島さんのお話を伺いたいと思います。
東京のラジオネーム「マスオ」さんからです。
「日本の政治不在に不安を覚えています。政権が交代する事で現在のような不況は改善されるのでしょうか?」。これはただ単に政権交代、或いは不況が改善されるのかという事だけではなくて、マスオさんのメールから、政権交代があるのかないのか、解散がいつになるのかという事は別にしても、既に衆議院議員の任期が3カ月を切ったのでいずれにしても我々の選挙があるわけで、政権選択を迫られるという問題が見えてきます。その時に、我々はこの政治状況をどのように考えて、何を見るべきなのかというテーマとして伺いたいと思います。

寺島>  ちょうど4年前に、郵政選挙が行われて、小泉郵政選挙と言われている選択で日本人は与党に3分の2以上の議席を与えるという選択をしました。
私はあの時に、朝日新聞のインタビューで「いま我々が直面している状況は『生類憐みの令』だ」と言いました。江戸時代に将軍様が「生類憐みの令」を出しましたが、これは歴史的に考えてみて、100%間違いだとは言えません。むしろ、生き物を大事にしようという事は先端的な問題提起だったのかもしれません。しかし、その時代の優先順位、軽重判断からすると最重要課題として取り組むべき事だったのか、民衆心理ではナンセスだと思う人もいたと思います。同じ様に我々はやがて歴史を振り返る時が来た時、「郵政民営化こそが改革の本丸だ」と絶叫していた事は、生類憐みの令のようなものだと言ってもいいでしょう。
実は私のコメントは4年前に顰蹙を買ったのですが……。しかし、あらためて思い起こしてみると、私は郵政民営化が一体何だったのかという事は昨今のかんぽの宿等の問題や総務省の進退問題にまで溢れ出て来て、日本がこの4年間、本当に国をあげて行なうべきテーマだったのかどうかは甚だ疑問に思います。日本が郵政民営化をして競争主義においた方がよいという事は、行なった方がベターな議論かもしれませんが、マストな議論だったかと言うと必ずしもそうではなかったと思われます。日本として、もっと真剣に立ち向かわなければならない問題はたくさんあったと思います。
 何故、このような話題を取り上げているのかと言うと、「政治は怖い」という事だからです。要するに、途方もない方向性に向かう事があるという事です。
 いまは選挙、そして政治の選択の季節が来ているわけですが、我々が本当に常に重心を下げて、日本がいま問われるべき事は一体何なのだろうかと問い返していかなければならないのです。
非常に危険なのは「お任せ民主主義」です。政権が変われば日本はよくなるだろうという考え方はあまりにも単純で、誰かに改革を任せてその人たちがうまくやってくれるだろうというタイプの発想では政治においては本当の意味で関われないのだという事を4年前に学ぶべきだと思います。
 日本のよくない点は、この国の問題だと言いながらも本当に大きな世界史の構造転換に対して、並走しているのかという事をしっかりと見極めて、その流れに沿った選択をしてこの国の政治体制をつくっていない事です。それはある特殊な政党や政治家に期待するのではなくて、自分たちが大きな構造転換の中でどのような方向を目指して行くべきかという事をよく考えて、そのような主張に耳を傾け、メディアもそのような主張を聞き出そうとするのが大事なのです。しかし、そうではなかったために今日に至っているわけで、今日の段階で私が申し上げたいのは、平板なメディアが提示して来る選択肢ではなくて、大きな構造の変化=世界の構造の変化の変化の中での日本をよく考えた上で選択しなければならないタイミングが迫って来ているという事です。日本が大きな世界史の潮流から取り残されてはならないという事なのです。

木村>  「重心を低く」という寺島さんの言葉が胸をついてきます。そして、最後にお触れになったメディアのあり方というところでは相当覚悟をもって考えなければならないという思いでお話を伺いました。

(註1、戦後の経済復興、経済活性化を図るために吉田内閣によって1946年に立案された計画。基幹産業に傾斜的に資金を集中して生産力の増加を図った)
(註2、安本未子著。2003年、西日本新聞 復刻版出版)
(註3、1960年に始まった戦後最大の労働争議。総資本対総労働の争議と呼ばれた)
(註4、commoditization。ある商品の分野において、主に価格、量を判断基準に売買が行われるようになること。高価な商品が低価格になることをコモディティ化というケースもある)
(註5、smart grid。集中、単方向だった電力網を双方向=分散型に置き換える概念。これにより再生可能エネルギーの大幅な導入等が出来るようになる)

2009年06月26日

第25回目

<地球温暖化~CO2等の温室効果ガス排出削減の中期目標をめぐって~>


木村>  前回の放送では「ベルリンの壁崩壊から20年~欧州報告~」、サブタイトルが「ベルリンで考えた事」というテーマでお話を伺いました。俗に「OBサミット」と呼ばれるものに寺島さんが特別ゲストとして参加されて高度の専門家会合、そしてサミットでも講演をなさって、とりわけドイツのシュミット元首相と交わされた会話がとても示唆深く印象に残っています。
 今朝のテーマは、「地球温暖化~CO2等の温室効果ガス排出削減の中期目標をめぐって~」です。6月10日の夜、麻生総理が記者会見をして「2020年までの温室効果ガス削減の中期目標について2005年に比べて15%削減を目指す」という表明がありました。寺島さんご自身は地球温暖化に関する懇談会で、昨年の秋から、この目標をどのように設定していけばよいのかという事をめぐって議論にも参加されました。更に言うとこれをどうようにまとめるのかという立場でもあった、当事者だったと思います。

寺島>  昨年7月の洞爺湖サミットに向けて、当時の福田首相を取り巻く懇談会という形でスタートをして、世の中的に言う「福田ビジョン」の環境目標の設定において2050年までに60%から80%のCO2を削減する事を発表した流れの中で、今度は中期目標で2020年に向けて実行可能な削減目標の数字をどうするのかというテーマをめぐって一年間くらいかけて議論してきました。その集約点が6月10日に麻生首相が発表した「日本は2005年比で2020年までにCO2を15%削減する」という目標になったのです。

木村>  ここでお話を伺う前に基礎的な事を確認したいと思います。
 我々には「京都議定書」というものがあって、そこで定められているのは「2012年までに日本は1990年を基準にして6%の温室効果ガスを削減する」で、いまはその約束した期間に入っていてそれを実施しているわけですが、この実施に入る前に既に8%も増えていたという状況を前提にしながら、言ってみれば京都議定書の先をこれからどうするのかという事になります。

寺島>  京都議定書に関して我々は2012年までに責任をもって立ち向かっていかなければならないのですが、2012年を超えて2020年にどれくらいの目標を設定するのかという事について、「日本がどのようにするのか?」と世界は息を飲むように見ていたと思います。また、京都議定書に入って来なかった中国やインド等の新興国やアメリカも巻き込んでどのような形で今後の流れをつくるのかという事も重要な課題となっています。
そこで、熟慮一番、2005年比「15%」という数字を出して来たわけです。これは京都議定書で議論していた1990年比で言うと、2020年までに8%削減する事になります。つまり、京都議定書で6%コミットしていて2012年から2020年までの間にたった2%しか上積みしないのかというニュアンスで受け止める人もいると思います。
 ただ、この話が非常に難しいのは産業を背負っている経済界のほうは、2005年比の15%削減目標が甚だ面白くないと言いますか、納得ができないのだとと思います。要するに、1990年比の4%増を主張し、2005年比マイナス4%を主張していたのが経団連をはじめとする経済界だったのです。そのような立場の人たちからすると、11%とか12%とかいうような高い目標を設定してしまって、それを背負って立ち向かっていかなければならないというのは日本産業界においては大変な重荷になり、大変な数字にコミットしてしまったという失望感があるわけです。
 一方、環境派と言われている人たち、つまり、地球環境問題について一生懸命に旗を振っているようなNPOやNGOの人たち、或いは政党で言うと民主党等は1990年比25%削減と主張していました。これらの立場の人たちからすると2005年比で15%と言っても自分たちが主張していた目標よりも10%低い設定で甚だこちらも納得がいかないのです。
したがって、両極にいる立場の人たちからしてみれば大変に失望感のあるのが15%という数字なのです。
 私自身は温暖化懇談会のメンバーに入っていますが、15%という数字は、両者の真ん中をとっていきましょうと言うような安易な話ではなく、日本は実効性があって意味のある目標設定値に踏み込まなければならないという側面があるのです。実効性があるという事は実際に実現可能であり、しかも挑戦的で世界が納得いくような数字でなければなりません。その水準は一体どのようなところなのだろうかと真剣に考えてみると、今回の目標は大変に重要な第一歩だと言えます。
そして、私は次のように認識せざるを得ないと思っています。それはどういう意味かと言うと、まず「経済界の本音は何か」という事です。彼らの本音は率直な言い方をすると、京都議定書では騙されたという事です。そのため日本は、とてつもなく大きく、実行できないような目標を背負わされて、その上、肝心な中国やアメリカ等が入っていない。このようなものを日本だけが背負いこんでその目標を達成するためには大変なコストをかけて、例えば排出権を買って来てでも国際公約を果たさなければならないハメになったのです。要するに、背中に物凄い荷物を背負わされた気持ちをもっているのです。
そこで持ち出して来た根拠と言うか主張のロジックが「限界削減コスト均等の法則」です。これは難しい話に聞こえるかもしれませんが、そんなに難しくはありません。つまり、CO2を一単位減らすために必要なコストをアメリカも日本も欧州もフェアに同じく背負いましょうという事です。このような考え方に基づいて行ったのであれば、日本は2020年には1990年と比べると4%プラス、つまり京都議定書のマイナス6%は間違いだったと否定するような主張に行き着いたのです。これは聞き様によると限界削減費用を公正に負担すべきだという考え方は主張として一定の科学的合理性があるという認識が一方では確かにあります。
しかし、果たしてそのような目標で世界の大きな流れの中で大丈夫なのかという考え方もあります。私の最大の論点は2年半前に日本が発表した「新国家エネルギー戦略」(註.1)と関連します。この番組で何度も言っていますが、エネルギー問題と環境問題は裏表一体なので、日本のエネルギー戦略において一生懸命に頑張って省エネルギーや環境に配慮して行ったのであればこのようなシナリオなるというケースを設定したものがあります。その目標値が1990年に比べて7%削減論というものでした。それは今回の2005年比で言うと、14%くらいの削減に相当します。
日本の経済は昨年の秋から、それこそサブプライム以降、物凄いマイナス成長に入っていて、「マイナス成長」=「エネルギーの消費の減り」等がいろいろな意味でダウンブローに入っているわけですが、世界の環境問題の流れがぐっと盛り上がって来ているのを受けて、日本自身も例えば「エコ」という言葉が非常に定着して来て、エコカーにインセンティブをつけたり、太陽光等にも政策的にもインセンティブをつけて助成金や補助金等を出しています。このような状況下、2年半前に最大に努力してここまでやりましょうと言っていた目標よりも低い目標を設定する事は合理性がないという事が私の一番の論点なのです。したがって、少なくともそれ以上のところにはもっていかなければなりません。
また、「真水論」と言われるものがあって、これは何かと言うと、欧州やアメリカ等が出している目標値は日本よりも非常に積極的にアピールしているけれども、中身に踏み込んでみると、その半分以上は排出権を買って来るという形での削減なのです。

木村>  排出権を買って来るという事ですが、自分の国内で純粋に努力をして出来なければ、色々な方法がありますが、例えば、途上国等で削減する努力をしてその分を買い取る、或いは、排出する量をそのまま買い取るという事ですね。

寺島>  つまり、純粋に努力して減らすのではなく、このような形で数字を合わせるために外から買って来たり、欧州の場合は中核になっているドイツやフランスやイギリス等の削減が大きくなっているのではなく、周りの余力がある新たにEUに入って来たかつての中東欧地域での削減が数字に貢献しているのです。
 したがって、「真水」という意味においては、欧州やアメリカ等の数字を必ずしも鵜呑みにしてはならないわけです。日本が出している15%は、排出権を外から買って来た数字ではない真水の部分の数字なので、これに排出権を買って来る方法を加えるのであれば、プラスアルファ、例えば20%という方向に増やしていける余地もあります。このような事を考えるとギリギリのところで日本は相当踏み込んだとも言える数字だと私は認識していています。
 整理をして言うと、アメリカはオバマ政権になって、いままでは京都議定書からも逃げていたけれども1990年比で横ばいの0%、2005年比では14%減らすと言っています。そして欧州はいま申し上げたように2005年比は13%減らすと言っています。
したがって、アメリカ、欧州を睨んで日本の15%という数字はそれよりも微妙に高く、しかも真水だという意味において、ある意味では日本としてはギリギリのところで意欲的なところに踏み込んだわけです。これをもってこれから待ち構えている12月の「COP15」と言われているコペンハーゲンの会議等に臨んでいくのです。
そこで、我々の身近な意味においてこれが何を意味するのかと言うと、私は日本人としてある種の覚悟と希望を込めてこの数字をしっかりと認識しておかなければならないと申し上げます。例えば、国民にとって今回の15%削減論がある面ではドキっとする部分があって、一家庭あたり年間7万円のコスト負担がプラスされます。それは電気料金が上がったり、太陽光発電を20倍にしなければならなかったり、新たに売れる車の半分をエコカーに切り替えなければならないという事です。要するに、国民のコスト負担も増えるし、ひょっとしたら経済が停滞して失業率が高まってしまうかもしれない中、大きな目標に胸を叩くのは国民にとっても大変なシナリオだという部分があるのです。

木村>  そこの部分について、我々がどのように向き合うのか後半で伺いたいと思います。

(註1、日本はエネルギー資源の96%を海外に依存していて、エネルギー資源の逼迫や温室効果ガス問題という世界的な情勢を考えて、日本のエネルギーに関する課題を担当する経済産業省は平成18年5月当面のエネルギー戦略について取りまとめを行ない、様々な政策を実施している)


<後半>

<日本に求められるエネルギー政策の転換>

木村>  前半では「温室効果ガス排出削減の中期目標」において日本の我々に覚悟が求められるという事で、家計負担の例を出しながらお話がありました。その覚悟の部分には勿論、産業の構造等が大きく変わると考えなければならないのですね。

寺島>  若干、ネガティブな方の覚悟に焦点をあてがちで、「エコは金がかかり、ひょっとしたら産業の活力を蝕んで失業者さえも増やすかもしれない」という恫喝のシナリオがエコに関して登場して来ている空気もありますが、一方では、新しくグリーンニューディールをはじめとする産業を生み出して、新しい仕事を増やしていくというポジティブな部分もあるので、バランス感覚をしっかりと捉えなければならないのです。
 エネルギーと環境問題は裏表なので、例えば、再生可能エネルギーにおいて、日本の一次エネルギー供給の5%弱ですが、これを少なくとも2020年までに倍にしなければならないのです。分かり易く言うと、風力、太陽、バイオマス等、まさにオバマのグリーンニューディールと称する戦略に相当するようなものを日本も展開して、一次エネルギー供給が占める10%くらいを再生可能エネルギーで賄うという覚悟を決めて立ち向かわなければならないという事が一つです。
 もう一つは原子力で、原子力発電だけを物凄く鼓舞する気持ちは一切ありませんが、2年半前の新国家エネルギー戦略の中で、一次エネルギー供給の15%位は安定的に原子力発電で行うと日本が原子力立国という事で方針を決めました。それが、例えば新規の原子力発電所を9基増設するとか、原子力発電所の稼働率を現在の60%から80%位まで高める事を覚悟しようと2年半前に決めたわけです。この事についても粛々と技術を蓄積して、原子力の平和利用については日本でしっかりやって行くのだという覚悟もないと、先程言ったような15%削減は絵空事になってしまうのです。
 つまり、日本人として分かり易く言うと、原子力によって我々が使っているエネルギーの15%、再生可能エネルギーで10%を足して25%くらいをそのような方向に2020年までにしっかりと持って行って、「化石燃料」=「石油、石炭、ガス等」の部分を75%位に抑えて日本のエネルギー安全保障をしっかりと考えながら進み出して行くという戦略シナリオがしっかり実現出来ないと、2020年までに15%削減と言っているのは絵空事になってしまうわけです。どちらかと言うと、「家計で7万円負担増」という事に目がいってしまっているけれども、日本としては、そんな事よりもしっかりとエネルギー政策を組み立て、その方向に日本を引っ張って行き、しかも「家計」=「民生の分野」においても、エコカーの様なものの比率を高め、太陽エネルギーによる発電等を各家庭に増やして行く仕組みをじわりじわりとつくって行かなくてはならないわけです。このようにしていかないと「2020年15%削減論」というものは数字の遊びになってしまいます。
 ここで物凄く重要な事は、アメリカがルールづくりに戻ろうとしているので、中国、インドをしっかりと巻き込んで行く事です。更に、アメリカ等が主張して来ると予想されますが、「森林による吸収」という要素を加えてくれという事です。日本は海洋国家なので「海洋吸収」や「農地による食糧自給率を高める」という話をこの番組でも何度もお話をして来ていますが、農地によるCO2の吸収等に真剣に取り組む等、非常に総合的で大きな政策がしっかりフォローしていかなければならないのです。15%という数字が多いか少ないか等という事を議論している場合ではなく、内容を踏み固めていかなければとてもこの話には近づかないという事が今日私が話したい事です。

木村>  今年の12月に「COP15」=「国連の気候変動枠組み条約・第15回締約国会議」が開かれ、ここに至るまでに多分、内と外での課題、いま寺島さんがおっしゃった外では日本の努力をどのように位置付け、評価をされるのかという議論があり、国内では我々が対になる議論をキチンと自覚して深められるかどうかが試され、その意味では目標、つまり数字が提示されたという事は、いま始まったという事ですね。

寺島>  長期の目標については兎角、無責任に50%だ、60%だと言いがちですが、この中期目標は実行可能で約束をしっかりと守って行くという覚悟がなければ数字等は軽軽に口にしてはならないという世界だと思います。あまりにもそのような意味で無責任な数字が入り乱れて来た中で、日本もようやく数字の世界に議論、足固めが出来始めたという局面なのだと思います。

2009年05月31日

第24回目

<46年前の鹿島守之助氏に宛てた手紙と寺島文庫>
 
木村>  先週は「ベルリンの壁崩壊から20年~ベルリンで考えた事~」というテーマで、私たちが欧州でいま何が進んでいるのかキチンとした認識を持つ事の大切さとその事が世界と日本にどのような意味を持つのか、そして、いま欧州ですすむ「三つの実験」という事でお話を伺いました。
今朝は「寺島実郎が語る歴史観」のコーナーを拡大して、テーマの設定が「46年前の鹿島守之助氏に宛てた手紙と寺島文庫」となっています。「寺島文庫」は4月から寺島さんが文庫を開設されたという事は分かるのですが、このお話はどういう事なのでしょうか?
 
寺島>  自分の学校の庭に子供たちがタイムカプセルを埋めたりしますが、自分が埋めたタイムカプセルを46年経って掘り出したような奇妙な気持ちで私はこの話を語りたいと思います。
1963年、東京オリンピックの前の年ですが、私は15歳の少年として札幌の高等学校の一年生でした。私は変わった少年で、やたらに色々な本を読んでは先週お話をした欧州統合のように、欧州では地域統合が進んでいるのか等について高校の先生たちに難問をぶつけて悦に入っているという不思議なタイプでした。
当時、私は何かの記事で、その地域統合の思想の原点にオーストリア出身のクーデンホーフ=カレルギー(註.1)という人物がいる事を知りました。この人は「パン・ヨーロッパ」という本を書いて「ヨーロッパ統合の父」と呼ばれた人物です。彼は「ヨーロッパは統合されなければならない」と戦後に大変主張をしていたオピニオン・リーダーのような存在でした。そして、私は彼に関する本をいくつか読みましたが、クーデンホーフ=カレルギーの翻訳本は高校生が買うにはとても高価なもので手が出ませんでした。それらの本の出版元を調べたら「鹿島出版会」でした。これは、鹿島建設の中興の祖と呼ばれていた、元外交官で鹿島建設の創業者の一族に引っ張られて婿養子に入って鹿島を支えるという人生を送った鹿島守之助(註.2)さんが創立したものです。その鹿島出版会からクーデンホーフ=カレルギーのヨーロッパ統合の思想に関する本を出版したのです。
札幌の高校生だった私はずうずうしく鹿島守之助さんに手紙を書きました。その手紙に何を書いたのかというと、「私はこのような事で一生懸命興味をもって本を読みたいのですが、私たちにはとても手が出ない本なので古本でもよいから私に送ってもらえないか」というような内容なのです。それを鹿島さんに送ってしまったのです。そして、手紙を出して半月くらいが経った時、鹿島守之助さんがクーデンホーフ関連の色々な本を箱に詰めて送って来てくれました。
この話を他の人が聞くと、「ああ、そうかいな」という程度の話なのですが、実は、鹿島守之助さんのお孫さんの渥美直紀さんという現在鹿島建設の副社長で、私にとっては友人となっている人がいて、彼に「実は、あなたのおじいさんの鹿島守之助さんに私が高校一年生の時に手紙を書いて、クーデンホーフの翻訳本を貰ったのだ」と話をしました。40数年前の話なので、最初はにわかには信じないで「へーっ」という感じくらいでした。
しかし、そこから話が大変面白くなって、鹿島守之助さんの秘書をやっていた幸田初枝さんという女性が今でも御健在で、渥美さんが彼女に「私の友人に寺島という男がいて、こんな事を言っている」と話したら、幸田さんはありありとその事を覚えていたのです。つまり、北海道の少年に本を送った事実です。しかも、ここから木村さんは驚くと思いますが、幸田さんは、その40数年前の手紙をいまでもファイルして持っていたのです。よっぽど整理が良い人だと思うのですが、彼女は「この少年は面白い。やがて、何か仕事をしてくる男だろう」と思ったようです。
そして、40数年前の手紙を渥美さん経由で、自分の目で自分の少年時代の字を見る事になったわけです。しかも、本を送って来てくれたので私は御礼状も書きました。その御礼状と共に2通の手紙が出て来たのです。私はこんなずうずうしい事を書いたのかと正直申し上げて恥ずかしくて赤面するような手紙なのですが、色々な思いがあり、鹿島さんという人はある種の恩人なのです。よく北海道の少年なんかに本を送ってやろうという気持ちになったなという事と、私の受け止め方としては、自分が今日まで色々な事で歩んできたけれども、思えば色々な人たちに支えられているのだという事をあらためて思い知る大きなきっかけにもなったのです。
その時に送ってくれた「パン・ヨーロッパ」、「ヨーロッパ国民」等の本を私はいまでも大事に持っています。まさにそのように少年時代から集めて来た本がその後世界中を動きまわる事になって、特に「地歴」=「地理や歴史」に関する社会科学の本、例えばアメリカ論やヨーロッパに関する本、中東に関する本等、更には未来論、日本の社会構造や世代論等の類の本3万冊を世田谷の駒沢にある父の家を引き継いだ家に庭に書庫を建てて収納し、そこが私の物書き場でもあり、ものを考える場でもあるという事で今日まで過ごしてきました。
そして、ここ何年間で、若い人たちを育てる場として寺島文庫のようなものをつくって、そこで研修やものを考えたり研鑽を励む等の磁場を形成する事ができたら非常に意味があるという想いが段々とふくらんで来ました。
東京電力会長、経団連会長をやられた平岩外四(註.3)さんという立派な方が、4万冊の本を残して亡くなりました。その本をどのようにするのかという事で、残された人も含めて大変悩まされたという話があります。よほどの稀少本だったらともかくとして、いまは古本屋でもそんなに本は引き取りたくないという時代です。そんな中、例えば、東大阪の司馬遼太郎記念館もしっかり見せてもらって、それらを参考にして実際に若い人たちがそれを使える磁場として、あるいは一緒になってものを考える研修の磁場として「寺島文庫」というものをつくってやろうと思いました。
 そして、「寺島文庫」を開設し、九段下のちょっとした規模のビルの中にその3万冊の本を移して研修、研鑽の磁場にもするという構想に思い切って踏み込んでみたいと思っています。実はいまはまだ途上で、まだ半分も書籍を運び込んでいません。
 
木村>  3万冊ともなると大変ですね。
 
寺島>  2度にわたって運び込み作業を10人位の人たちが手伝ってくれました。ヘトヘトになってしまいましたが、このように一歩ずつやって行くつもりです。
日本に来ている留学生のような立場の人たちが大学院等に来て研究しているのですが、実際にその人たちは止まり木として研鑽したり論文を書いたりする場すらないのです。私の夢は段階的に特にそのような人たちの止まり木になるような磁場をつくれればよいと思っています。そして、「クラスター」=(cluster=房)という言葉がありますが、様々な研究のクラスターをつくる、つまり、葡萄の房のようなものをいくつもつくりだすのです。例えば、北東アジアや中央アジア等の研究会、そして私がメディアの人たち等とやっているメディア会という勉強会等がそれぞれ房をつくって、梁山泊のように溜まって議論をしたり、時代を深めて認識し合ったりするという場をつくる事には大変に意味があると思っています。
 勿論、文庫の中には46年前に鹿島守之助さんから貰った本も私が世界中を動いて集めて来た本も集約して置いてありますが、そのようなものが出来てくるという事がちょっとした夢なのです。思えば46年前に鹿島守之助さんが本を送ってくれ、その後、(1975年)初めてロンドンにビジネスマンとして赴任して、イギリスがECの仕組みに参加する時代が来て……。段階的接近法のように欧州が変わって行く姿を並走してみて、いつも原点にクーデンホーフの思想があって、欧州の統合は、そのように実現していくというプロセスを自分は見ているのだと思っていました。理想は必ず実現するというのはクーデンホーフの「実践的理想主義」という考え方でもあったのです。
ドラマや本にもなっているので御存知の方もいると思いますが、クーデンホーフ=カレルギー氏のお母さんは日本人です。有名な青山光子さんです。クーデンホーフのお父さんがオーストリア・ハンガリーの二重帝国の外交官として日本に来ていた時、早い話が一人の美人を見染めて惚れこんでオーストリアに連れ帰ったというところから始まっているのです。青山光子さんは、その後、クーデンホーフ・光子という名前になって、その間に生まれた子がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーで、皮肉な言い方をする人たちは、「ヨーロッパ統合の思想の母は日本人だ」と言うような表現もするくらいです。これは無駄話のように聞こえるかもしれませんが、要するに、一種の連想ゲームのようなものの中で物事の考え方は成熟して行くものだと思ったのです。
 
木村>  15歳の少年が送った手紙が鹿島守之助さんの胸を揺さぶり、琴線に触れるものがあった……。やはり、そこが動かしたというところと、もう一つは、立場を変えて、そのようなものを貰った時に、後々の若い人たちにある年代にきた人たちが何を出来るのかという事も問題になりますね。
 
寺島>  このような類の話は誇張であったり、ハッタリ話が多いのですが、私自身が現実に46年前の手紙が出て来てしまってギョッとなったという事が本音なのですが、そのように話は進むものなのです。
 
木村>  現在の寺島さんを鹿島守之助さんがご覧になったら、きっととても喜んでその時の事を思い出される事でしょう。
寺島さんがいつも使っていらっしゃる「磁場」という言葉遣いは、つまり、「知」の磁場というものをつくる事ですが……。
 
寺島>  磁力線の「磁」という字と場所の「場」という意味で私はよく使っています。引きつける力です。
 
木村>  このようなものは日本ではまだつくられていませんね。
 
寺島>  全く気負う気持ちはありませんが、そこが一つのいい意味での溜まり場になったらいいなと思います。我々の歳になると、これは大概の酒飲み話で「そういうものがあるといいなあ」と話をしますが、要するに、それを一歩ずつでも半歩ずつでもいいから実現して行こうという一種のノリです。
 
木村>  このお話も鹿島守之助さんに是非、電波で届けたいものです。
 
<後半>
 
木村>  後半はリスナーの方からのメールを取り上げたいと思います。
 寺島さんはこの4月から多摩大学の学長に就任されたという事を踏まえてのメールとなります。ラジオネーム「ぜんざい」さん、30~39歳の男性のリスナーの方です。この方はポスドク問題(註釈.4)について、あるいは日本の大学政策についてお伺いしたいという事です。
「私自身が文科系の大学院を出て、現在とある小さな研究所に研究員として勤めております。しかしながら、勤めていると言っても実質的には研究歴を途切れさせないために席をおかせてもらっているだけで生活費、研究費は別のアルバイトをして賄わざるを得ない状態でして、いわゆる『高学歴ワーキングプア』そのものといったところです。それでも研究機関に席をおかせてもらえている私などはまだいい方で、私の周りには大学院まで出ていてまともな職にも就けず、将来の見通しも全く立たないという人がゴロゴロしています。悲しい事ですが、そのような状況を悲観して自ら死を選んだという人も何人か知っています」。
という事で、文部科学省の大学院政策というものについて、あるいは学位というものについてもメールが続きます。「国は一体、大学院の学生、あるいは院卒の人間をどうしたいのでしょうか? 20代後半から30代前半の働き盛りの若者を大量に囲い込んでおいて挙げ句、腐らせてしまうなどというのは愚の骨頂だと思います。学問レベルも今後、衰退の一途を辿るでしょう。さて、この問題を寺島さんはどのようにお考えになるでしょうか?」というメールです。
 
寺島>  この「ポスドク問題」ですが、博士号は持っているけれども……、という形で本当に大問題なのです。したがって、まさに彼の話は全く正しくて、国として高学歴にもかかわらず、ワーキングプアになっている人たちを今後どのように活用して行くのか、制度設計をどのようにするのかという事はとてつもなく重要も問題です。私自身、そのような人々の受け皿づくりの方で力を尽くしていかなければならないという事もあって、アジア太平洋研究所というシンクタンク等、より磁場を広げて、日本だけではなくてアジア太平洋地域の若い研究者が力を発揮出来るような場をつくって行くという努力をする事が我々の歳格好の人間の責任でもあり重要だと思っていて、そのための旗振りもしているし行動もしています。
ただし、ポスドクの立場にある人たちと面接をしたり面談をするという事も仕事の内にある中で、その際に私が感じる事があります。私自身も文科系の大学院を出た人間として、当時、社会がそんな者を喜んで受け入れてくれる土壌が無い状況で社会参加をして行った若者でした。厳しい言い方をする気持ちはないですが、太刀持ち、露払い式の人生なんてないわけです。つまり、「あなた、頑張って下さいね」と言って一生懸命に盛り立ててチャンスを与えてくれて、やれ育てと言ってジョーロで水を与えてくれて太陽まで燦々と照らしてくれる人生を期待するという事は、現在の社会のでは満たされません。
要するに、何が言いたいのかと言うと、「セルフ・ヘルプ」という言葉がありますが、自分で一体何がしたくて、そのためにどのような準備をしてどのような努力をしてネットワークをつくっているのか。江戸時代や幕末の人たちを見ていればわかりますが、それこそ履物を履き潰す思いで友達、先生、社会の先輩等、多くの人を訪ねて胸を借り、自分を鍛える……。このように力をつけて行って、辛うじてチャンスを与えられて、「こいつならやれるな」という評価を高めていくような努力が必要です。本当によくやっているけれども残念ながら世の中に受け入れられずに悶々としているという人には滅多に出くわしません。つまり、私たちから見ていて、何か心の弱さと重大な欠陥を背負っているように見えるのです。
どのような欠陥かと言うと、今言ったような意味での努力が出来ない才能と言いますか、キャリアが上がるほど博士号を持っているというある専門領域を深めているのかもしれませんが、それだけでは人生は生きて行けないわけです。やはり、本当に頭を下げ、努力をし、人から吸収し、他流試合をして色々な意味で自分に力をつけていって初めて人間としてしっかりと目を見て、「お前、一緒に仕事をしないか?」という人が出てくるわけです。
 したがって、私はポスドク問題というものは制度設計をしっかり行なって、そのような人たちを受け入れて行く基盤を充実させるという努力も勿論大事ですが、自分の努力の延長線上でしか人生は開けないのだという事を厳しいようですが噛み締めなければならないと思います。「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」という言葉がありますが、踏まれても、踏まれても出て来る者は力をつけて出て来ます。その事を私は申し上げておきたいのです。
 
木村>  是非、ぶつかって行って欲しいという思いですね。

(註1、リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー<1894年―1972年>。東京生まれのオーストリア政治家。汎ヨーロッパ運動を展開。後世の欧州連合構想の先駆けとなった)
(註2、1896年―1975年)
(註3、1914年―2007年。愛知県常滑市生まれ。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会<経団連>会長を務めた)
(註4、ポストダクター。大学の博士号を取得後の研究者。主に博士号取得後も正規ではない(任期付の)研究職や教育職に就いている人々。ポスドクの就職難や雇用不安が社会問題となっている)

第23回目

木村>  前回の放送では「G20」を経たその後の世界、あるいは世界経済という事でお話を伺いました。今朝のテーマは「ベルリンの壁崩壊から20年~欧州報告~」です。サブタイトルが「ベルリンで考えた事」となっていますのでベルリンにお出かけになったのですね。

<ベルリンの壁崩壊から20年~欧州報告~>
 
寺島>  ゴールデンウイークの4日から6日の3日間にわたって「OBサミット」(註.1)の準備のための「高度専門家会議」(註.2)に出席するためベルリンに行きました。私にとって非常に刺激的な体験でした。
 「OBサミット」と言うのは、「先進国首脳会議」=「G8」に参加した事がある首相や大統領の経験者による国際会議の事です。このOBサミットが今年の5月9日からサウジアラビアのジェッダで行われて、日本からは福田康夫さんが参加しました。その前に先進国の首脳だった人たちが集まって、世界中がいま抱えている問題、例えば今年について言うとエネルギー環境問題や安全保障等の問題について専門家を呼んで話を聞いて、テーブルを囲んでじっくりと3日間にわたって話をする「高度専門家会議」というものがあるのですが、私はその会議に出席したわけです。
そして、例えば、91歳のドイツのシュミット元首相やカナダのクレティエン元首相という人たちと一緒に3日間朝昼晩、飯を食いながら議論をするという大変不思議な体験をしました。
 
木村>  正式な本来のサミットのほうがむしろ儀式になっていて、OBサミットは議論が中心で極めて深いという事をよく言われますね。
 
寺島>  G8は、この準備会議を経て入っていくので実際にはほとんどの方向づけは準備会議で終わっていて、正式な会議はセレモニー化して来ていますが、それに参加した人たち誰もが「これだけ深い議論をしているのか」とある種心を打たれたと思います。
 我々にとって大先輩の80歳や90歳の元首相で世界の歴史を動かしたような人たちと触れ合ってみて感じた事があります。「我々はその歳まで元気でいられるのだろうか?」という事も含めて考えてしまいますが、シュミットにしても本当に無邪気で好奇心が強くて時代のどんな問題に対しても目を輝かせて参入して来るのです。このあたりがいつまでも若さを保つ人の一つの特長なのだと思いました。シュミットという人は1974年から1982年までドイツの首相として現在のEUの原型をフランスのディスカール・ディスタンと一緒につくった人でもあります。彼が青年将校としてナチスの軍隊にいた時代の事や、戦後、敗戦国としてのドイツをどのように見て来たのか、色々な歴史を動かした人たちと出会って来て、その人たちに対する評価等、私にとって、本当にそれらの話が新鮮で、驚きながら帰って来ました。
 そこで、今日のテーマになりますが、会議が行われたのがベルリンの壁のすぐ近くのホテルだった事もあり、「『ベルリンの壁崩壊』から今年でちょうど20年になるのだ」という事を私はずっと意識していました。1989年11月の事でした。その翌年、東西に分かれていたドイツが統合し、1991年にはソ連が崩壊して、かつて社会主義圏という形で「東側」を形成していた国々が雪崩を打って崩れて行くような時代を我々は20年前に目撃しました。
 私がシュミット元首相と話していて非常に面白いと思ったのは、「チェック・ポイント・チャーリーという所があるから行ってごらん」と彼が言った時の事です。ベルリンに行った事がある人なら知っていると思いますが、そこに、現在「ベルリンの壁博物館」ができているのです。「チェック・ポイント・チャーリー」と言われていた東西のチェックポイント、つまり関門になっていたところです。東側から西側に逃げて来る人たちが、例えば地下に深いトンネルを掘ったり、気球で逃げて来て殺されたりする等、様々な出来事があった冷戦時代の物事を博物館として色々と記録を保存しているのです。シュミットは「その博物館に行ってごらん」と言うわけです。ここからは少しジョークになりますが、「博物館を出てきたら露天商のお土産屋が並んでいて、そのお土産の一つに昔のソ連兵が被っていた帽子や将校が被っていた帽子やアメリカの兵隊が被っていた帽子のレプリカが売っている。それらをひっくり返してみると、そこには『MADE IN CHINA』と書いてある」と彼は言いました。私は冗談だろうと思ったのですが、実際に行ってみると本当に「メイド・イン・チャイナ」と書いてあったのです。つまり、それほどの時代が来たと言うか、グローバリゼーションをある意味では茶化し、笑い話としているシュミット独特のセンスです。
要するに、あれから20年という事で多くの人たちは東側が西側に敗れて、社会主義が崩壊して資本主義が勝ったという認識で過ごして来ました。資本主義の総本山と言われて来たアメリカが21世紀の世界秩序の中心になって世界をリードして行くという時代観の下に、この20年間、たいがいの人は「ドルの一極支配」、「アメリカの一極支配」と言っていた時代があり、「唯一の超大国」となったアメリカと言ってきました。ソ連、および東側という重しがある日取れて、これからは東側諸国が市場経済に参入して来て、国境を超えて「ヒト」、「モノ」、「金」、「技術」、「情報」が自由に行き交う時代が来るというイメージで多くの論者はそれを「グローバリゼーション」や「大競争の時代」と呼び、どんな人でも「この20年間の世界観」=「いま私たちはどのような時代を生きているのだろうか?」という時に、東西冷戦の時代は終わって世界を一つの市場とする「大競争の時代」=「グローバル化の時代」が来たという認識で生きて来たと思います。
 しかし、まさにこの数年間、特に昨年あたりからアメリカを柱とする資本主義なる体制が行き着いた先と言ってもいいようなグローバリズムの陰の部分、この番組でも何回もお話をしてきましたが、アメリカ流金融資本主義の限界と言いますか、行き着いたところとしてサブプライム問題、金融システムの危機等を迎えていま世界が本当に大きな反省期に入っているのです。
 今回の会議を通じて感じた事は、アメリカ一極支配がいかに幻想であったかという事です。そして、いかに間違った認識であったかという事が時代認識の前提として議論されているというのが深く印象に残りました。
そのような中から今日、私がお話しをしたいと思っているのは、欧州の実験です。いま欧州をどのように捉えるかという事が我々にとって凄く大事だという事です。この番組でも度々話題にして来ましたが、日本は「アメリカを通じてしか世界を見ない」という時代を過ごして来てしまったために、欧州もアジアもブラインドになってしまって実はよく見えていないという状態にあるという問題です。
 そこで、欧州がいまどうなっているのかと言いますと、極端に言うのであれば欧州経済はアメリカ経済以上に非常に苦闘していて深刻な状況です。アメリカ流の市場主義を取り入れた欧州で、皮肉にもアメリカ以上に金融機関が一種の信用不安的な情況に入っているという事実です。その結果として、「欧州はダメだ」という見方をとりがちなのが一般的に伝わって来る情報です。

(註1、インターアクション・カウンシル。通称「OBサミット」。)
(註2、OBサミットは専門家のアドバイスを受けるために、会議前に専門家会議を招請している。各専門家会議の議長はOBサミットのメンバー)

<欧州三つの実験>
 
寺島>  しかし、ここで私が申し上げたい事は、「欧州三つの実験」を日本人として注目しなければならないという事です。欧州が挑戦している実験とは一体何なのだろうか? と頭を整理して行くと段々とわかって来ると思います。まず一つは、「国民国家を超えた地域統合の実験」への挑戦です。
 
木村>  EUという連合体をつくり、「国境が点線になる」という言われ方をしますね。
 
寺島>  考えて頂いたらわかると思いますが、欧州は20世紀の前半に第一次世界大戦、第二次世界大戦という二度の血で血を洗う戦いを経験してしまった地域です。特にその中心になってチャレンジしたのがドイツだったわけです。ドイツの脅威は、欧州の中に深く埋め込まれています。
 まず、現在EUと呼ばれている欧州統合の実験は、第二次大戦が終わった後、1950年代になってフランスとドイツの和解のプロセスからスタートしたと言ってよいでしょう。そして、今日にまでそのテーマを引きずっていますが、「EUの本質とは何か?」と言うと、「ドイツの強大化をどのようにして欧州という共通の箱の中に閉じ込めるのか?」というところにあります。フランス側からすると、再び強大化して欧州に挑戦してきかねない勢いを持っているドイツを、欧州という共通の箱の中に閉じ込める事によって制御しなければならないという意識があり、それがEU統合に対する深い問題意識だったのです。
 そして、ドイツの方も二度も欧州全域を敵にまわして戦ったような国で、これ以上力をつけていったのであれば、再びドイツに対する警戒心ばかりが強まって、にっちもさっちも行かなくなります。したがって、自ら欧州という共通の箱の中に収まる事によって、実態的にドイツの成長、発展を実現して行くというテーマがあって、その問題意識が、そもそもの原点である「EC」(註.3)と呼ばれた時代からの基本的な考え方だったと言っていいと思います。
 
木村>  かつては「ヨーロッパ経済共同体」という呼ばれ方もしていましたね。
 
寺島>  1973年にイギリスまで含む9つの国の体制になり、冷戦が終わった後、「EU」という体制に1993年から移行して、欧州共同体が「欧州連合」という言葉に表現されるような形に段階的に発展して来ているわけです。
 そこで、いよいよ27カ国体制にまで欧州は拡大して来て、気がつけばロシアとの国境線にまで欧州が張り出して来たと言っていいと思います。つまり、冷戦の時代には東西で真っ二つに割られていた欧州が、まるで匍匐前進のように次第に欧州の限界を広げて行き、ついに「ロシアの国境線までが欧州」という枠組みの中でEU27カ国の体制になって行きました。
それは一体何なのかと言うと、「欧州は戦争の出来ない地域になった」という表現がありますが、分かり易く言うと、血で血を洗う戦いを繰り返して来た欧州が地域統合を出来るわけがないと多くの人たちが見ていた目線をくつがえしたという事です。
 現実にこのような形で27カ国体制までEUは拡大して来ました。しかも、ユーロという共通通貨までつくるようになりました。ユーロ導入の1999年、今から10年前になりますが、多くの人たちは、「ユーロはうまく行くわけがない」という話をこの分野のプロの人たちほどしていました。しかし、現実に今回、金融危機に直面して何が起こったかと言うと、デンマークのように「ユーロには入らない」と言ってそっぽを向いていた国や、イギリスでさえもユーロという共通通貨に参加したのです。つまり、「共通通貨」=「ユーロ」に近づいて行く事が欧州の統合を深めるという事なのです。そして、この危機を梃にして欧州が更なる統合を深めて行こうという「統合の深化」の流れの中にあるという事を我々は知らなければならないのです。
 したがって、まるでかったるいように見えて、大変な問題も抱えている事も事実ですが、一歩一歩、欧州は地域の共通利害を束ねて一つの仕組みとしてユニットをつくりつつあるという事に対して我々はよく理解していなければならないのです。これがまず一つ目の実験なのです。
 
木村>  では、その二つ目、三つ目は後半でお話を伺います。

(註3、EC=European Community。欧州共同体。1967年、石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)及び欧州原子力共同体(ユートラム)の三機関が統合され、発足。経済統合を中心に発展。後に政治同盟の実現を目指し、93年に欧州連合(EU)に発展)

<後半>
 
寺島>  二つ目の実験は、「ユーロ社民主義の実験」という言い方をしてよいと思います。欧州とアメリカの決定的な違いは何なのかと言うと、1917年にロシア革命が起こって以来、20世紀を通じて欧州の主要国はことごとく一度や二度は社会主義政権をつくって社会主義という言葉にこだわり続けて来たという事です。今日でも例えばドイツは大連立になっているけれども社民党が政権に参加していて、かつての社会主義政党が政権に参加しているパターンです。イギリスはいまだに労働党政権という事でかつての社会主義政党が政権についています。フランスに至ってはこの間まで共産党が参加しているような政権パターンだったのです。
「アメリカは資本原理主義の総本山だ」という言い方がありますが、その通り、一度も社会主義政党なるものを育てた事もなければ、社会主義政権などというものをつくったこともありません。であるが故に、資本主義に対する考え方がアメリカと欧州では全く違うのです。アメリカは株主資本主義に徹した資本主義と言うか、つまり、企業を取り巻く利害関係者の中で株主が圧倒的に重要なのだという「株主価値最大化」資本主義なのです。それに対して社会主義に悩み続けて来た欧州の資本主義は株主も勿論大事だけれどもそれだけではなくて、例えば会社のために働いてくれている従業員や地域社会、国家等、あるいは地球環境にでさえ企業はバランス良く付加価値を配分して貢献しなければならないという考え方がこびり付いて来ているわけです。
つまり、この話は、今後世界の資本主義がどのような方向に進むべきなのかという事がまさに議論されている時に、アメリカモデルというものに配慮する必要はあるけれども欧州が考えている事も非常に参考になるし、日本の資本主義のあり方を問いかける時にも非常に重要になるという事です。
 そして三つ目の実験は、分かり易く言うと「環境問題に対する先行モデル」と言う事です。要するに今、世界中の環境問題の先頭を走っているのが欧州なのです。今年の12月にはコペンハーゲンで「COP15」(註.4)という環境問題に関する新しいルール作りの会議が開かれます。環境問題に至ってはアメリカのオバマ政権がこの番組でもお話ししたように、「グリーン・ニューディール」なるものを掲げて再生可能エネルギーにかけて行こうと言っていますが、欧州の人たちから言わせると、今さらめいて聞こえるという部分があるのです。何故ならば、欧州は10年も前から、例えばドイツや北欧等は再生可能エネルギー対応、風力等を重視したエネルギー政策をやって来たのにアメリカはそれらを10年遅れて追いかけているではないかという目線があって、あらゆる意味で、いまは環境問題が大事だと言われて来ている世界において欧州が挑戦している実験は物凄く意味があるわけです。実は欧州はそのような意味で日本人が国際社会を考える上で大きなヒントを提供しているのです。
欧州に様々な国連機関が本部を置いています。ジュネーブには15の国連本部があります。日本にとっては欧州に本部がある国際機関がますます重要になって来ている理由は、例えば中国や北朝鮮問題に向き合う時も欧州にある国際機関が重要になるのです。何故かと言うと、中国にとっても北朝鮮にとっても彼らの国際機関を認識する時のプラットフォームや試金石が欧州なのです。例えば数年前に中国で反日デモが繰り広げられた時に、中国を変えさせたのは一体どこだったのかと言うと、欧州にある国際機関に出て行っている中国の外交官だったのです。このような監視ポイントが欧州にあるという事に我々は気がつかなければなりません。そして、欧州のコンセンサスが日本の周りを取り巻いている国々をより国際的な仕組みの中に責任を果たす国にして行くためにも物凄く重要だという事を知らなければなりません。つまり、欧州をじっくり見据えて欧州は非常に成熟度の高い実験をしているのだという事に気がつかなければならないのです。そこに目配りする事が我々のものの見方や考え方を大きく変えて行くという点を私は申し上げておきたいのです。
 
木村>  私たちにとって欧州というものはいつも遠い存在のように見えていたので、この欧州を見つめる目、そしてそこに確かな問題意識の大切さを寺島さんのお話であらためて認識しました。
 
(註5、気候変動枠組条約締約国会議=Conference of Parties。第15回締約国会議<COP15>は、2009年12月デンマーク/コペンハーゲンにて開催)

2009年04月26日

第22回目

木村>  先週は「G20を経た世界」、そこから見えて来るものという事でお話を伺って、「G2」という事がキーワードになりました。つまり、アメリカと中国の存在というものがこれからの世界を見る時に非常に重要なキーワードだというお話でした。
 
<北朝鮮ミサイル問題と北東アジア非核化を考える>
 
 
寺島>  また、その事に追い打ちをかけるように4月に目撃をした事は、「北朝鮮のミサイル問題」です。私はあの出来事の本質もアメリカがいかに中国に配慮をして動き始めているのかという事を日本人として思い知らされた事だと言ってよいと思います。おそらく、多くの人たちが同じ思いだと思いますが、「あれは一体何だったのか?」と言いたくなるような経験をしたわけです。日本は北朝鮮が人工衛星という名前のミサイルを打ち上げるという事で異様な雰囲気になって、臨戦態勢だとか、迎撃用のミサイルだとか言って大騒ぎをして、岩手や秋田の人たちはハラハラドキドキしてどうなる事やらと、まさに、息を飲む思いで待ち構えていたのに、誤探知をする等とんでもない醜態を晒していました。
 私はこの件が盛んにメディア等で報道されていた時に、自分の意見として「ミサイル騒ぎに右往左往するのではなくて、国連制裁の動きをよく見抜く必要がある」という事を言ってきました。北朝鮮がミサイルを打ち上げた時に、制裁に関して決議をしようとしてもロシアや中国等が拒否権を発動して制裁に協力をしないという動きをするのではないのかという点よりも、アメリカ自身の本音を認識する事が重要でした。アメリカが国連においてどのようなプレーをするのかという事、まさに私はそちらの方を息を飲むように見ていたわけです。
 アメリカと日本は日米連携で「制裁決議」に持ち込もうという事を盛んに言っていたわけです。しかし、「アメリカには、本当に制裁決議にまで持ち込むという本音があるのだろうか?」という事が私の注目点であったという意味なのです。
 案の定と言っていいと思いますが、いつの間にか「日米連携で北朝鮮を制裁する」という流れはスーッと後退して、アメリカと中国の連携、米中の主導によって落とし所を見つけて、むしろ日本は梯子を外されたと言ってもよいような状況になりました。そして、なんとか議長声明という形になりましたが、日本は振り上げた拳が下ろせないために自分たちの主張が盛り込まれた議長声明だとして、「まあ、よかったではないのか」という雰囲気をつくっています。けれども、実際は北朝鮮に対する実行ある制裁も何もないものを議長が「非常にこの事態は遺憾である」と声明として出したというだけであって、本来、日本が主張し、アメリカと共にやろうとした事から見ると、期待外れと言うか思惑違いの方向に動いたと言ってもよいと思います。
この事が一体何を意味しているのかと言うと、まさに、これはG20の時の話もそうでしたが、いかにアメリカが中国に配慮をして、中国の顔を立てる形で北朝鮮問題を制御しようとしているのかという事がはっきりとしたという事です。
したがって、「北朝鮮に対して強いメッセージを送る」と言っていたのにこのような状況になって日本としては一体この先、北朝鮮問題をどのように制御して行くのかという事についてしっかりと考え直さなければならないのです。
北朝鮮はこのような状況に味をしめて、むしろ「テポドン」よりも「ノドン」というもっと射程距離の短いミサイルに小型化した核をも搭載出来るようなシナリオをちらつかせながら、より鋭い恫喝外交を展開して来る可能性が大いにあるわけです。そのような時に、日本としてやらなければならない事は、アメリカに過剰な期待をして、国連によって制裁決議に持ち込み、北朝鮮を追い込もうという発想を一歩前に出して行く事です。
北東アジアの安全保障について、より大きな構想力が問われている局面、分かり易く言うと、潜在的には北朝鮮を支援している中国、更にはロシアと北朝鮮との間にしっかりとした楔を打っておく必要こそが重要だと考えます。そのためには、「北東アジアの非核」というものが日本にとっての最大の利得なのです。つまり、核を廃絶して行く事です。
幸いにしてロシアの今回の事態に対するメッセージの中にも、「朝鮮半島の非核化」というような表現も出て来ています。中国も建て前としては、「朝鮮半島の非核化を目指す」と言っています。つまり、北朝鮮が持っている「核」なるものを実際には使えない兵器にしてしまうという事が日本にとって一番良いわけです。あれほど経済が立ち行かなくなっている国なのに、これだけのミサイル開発を行なうという事は国民に大変な負担を強いている事になるわけですから。
 
木村>  キム・ジョンイル総書記自身がロケットを打ち上げて、「国民にそのような耐乏を強いている事はすまない」と言ったとか……。
 
寺島>  別の冷静な見方をすると、キム・ジョンイル体制がめいっぱいになっていて、間もなく持ちこたえられなくなるだろうという状況に来ている事だけは間違いないのです。
 かつて、東西冷戦の終り頃に軍拡に耐えられなくなって東側が崩れて行ったように、国民に負担を強いて軍拡に出ている体制は持ちこたえられるわけがないのです。したがって、そのような兵器を使えないものにするという事が実現出来るかどうかという話は別にして、日本がひたすら主張すべき事は、北東アジアの非核条約なのです。東南アジアが「非核地帯条約」(註.1)というものを既に実現しているのですが、それと同じように北東アジアも「非核」という原則を確認し合い、中国もロシアも日本も韓国も巻き込んで安全保障の問題において多国間でもっとコミュニケーションを深めて、相互に色々な交流をし合いながら北東アジアの安全保障の仕組みについて信頼感を高めようと呼びかけて、実際問題として北朝鮮がスッポリと孤立して行くような構図をつくる事が日本のとるべき戦略なのです。
 国連を舞台にして制裁決議を目指して、実際には制裁に協力しない国が多く出ているような状況に過剰に興奮しているのではなくて、そのような新しい仕組みをつくって行くという事に頭を転じて踏み込んで行かなければならないのです。日本は外交の面ではまさに、肝試しをされているようなものです。ここは大きな構想力を持って、深呼吸すべきところであり、熱くなってしまって、まなじりをつり上げて迎撃だなんだと言っているその空気の作り方が国際社会の大きな流れを読み間違えているのではないのかと思います。
自分が一番期待しているはずのアメリカが、とっくに向こう岸でプレーしているような状況になっているのだという事を認識し、アメリカを通じてアメリカに過剰期待して世界に関わろうとする前提から、自分の頭で考えるという方向に意識を変えていかなければこの話は流れが見えてこないと私は言わざるを得ません。

木村>  これは、おそらくメディアのあり方もその意味では深く問われるという事なのかもしれませんね。そして、今日はこのお話をより深めて行く時間が無いかもしれませんが、寺島さんのお話を注意深く伺っていると、「朝鮮半島の非核化」という言葉と「北東アジアの非核化」というところで、つまり、日本は日米安保によって「アメリカの核の傘の下にある」。この問題にも我々はどのように向き合うのかという相当大きな問題になって来るという事で、必ずしも朝鮮半島だけの非核化という事ではなくて、寺島さんがおっしゃっているように「北東アジア全体の非核化」を日本がキチンとやっていけるのかという事なのですね。
 
寺島>  それをどこまで主導して行く事が出来るのか……。それには大変な度胸と粘りが必要です。そのような時代が来ているという事なのです。
 
 
<後半>
 
 
木村>  ここで、お話を「寺島実郎が語る歴史観」に転じて行きたいと思います。前回は、戦後の日本の代表する知識人と言える加藤周一さんのお話を伺いました。その知識人との出会いという事も含めて、知識人が歴史や世界とどのように向き合うべきなのか、或いは、人は世界とどのように向き合うのかというところにお話が展開しました。
今朝のテーマは「戦後のメディア環境~テレビが生まれた頃~」です。

寺島>  これは先程まで議論していた話と繋がるのです。「問いかけとしての戦後」というテーマで私は話を続けているつもりなのですが、我々自身が生きて来た「戦後」、約60年を越す時代に、いつの間にか我々自身が身につけてしまっているものの見方や考え方、価値観が、戦後のテレビ草創期の文化状況と言いますか、世界状況でもあるのですけれども、それらからどのように影響を受けたのかを確認したいと思います。
 日本でテレビ放送が始まったのは、敗戦後8年の1953年でした。まず、NHKが2月にテレビ放送を開始して、その年の8月に日本テレビが民放として初めてテレビ放送を開始しました。そこからテレビの時代が始まりました。
 1958年にNHKの受信契約数が100万を越して、100万世帯を越すほどテレビが普及したと言われていました。しかし、わずか2年後にこれが500万になったのです。そして、更に2年後の1962年には1000万を超えたのです。
 
木村>  倍々ゲームですね。
 
寺島>  まさに、2年ごとです。1958年から1962年、つまり1960年前後に日本は一気にテレビの時代に入って行ったのです。
 実は、我が家にテレビが最初にやって来たのは1958年だったので結構早いほうでした。当時、私は北海道の札幌にいました。私はそこから何に衝撃を受けたのかと言うと、テレビで放映されているアメリカの「テレビドラマ」=「テレビ映画」というものにです。
これには色々と背景があって、1956年に最初にNHKが「ハイウエイ・パトロール」というアメリカのテレビ映画を放映して、同じ年に「KRT」(株式会社ラジオ東京テレビ。現在のTBS)で「カウボーイGメン」や「スーパーマン」を放映していました。日本語吹き替えが始まって、スーパーマンが日本語を喋るということで、おばあちゃんが「やけに日本語の上手い外人だ」と言ったという笑い話が伝わるくらいに日本の茶の間にアメリカのテレビ映画が放映され始めたのです。そして、続々とアメリカのホームドラマ、「ビーバーちゃん」、「パパ大好き」等がやって来ました。
それを観て我々はアメリカというのは豊かな国だと思いました。例えば、冷蔵庫から物凄く大きな牛乳瓶を出してガブ飲みにしているとか、高校生なのに車でデートに女の子を迎えに行く等、「こんな国があるのか」という衝撃を受けたのです。そして、カウボーイ映画が続々とやって来て、「ララミー牧場」等が大変なインパクトを与えて、「アメリカ人というのは結構男気があって正義感の強い奴がたくさんいるのだなあ」と物凄く共鳴したりしました。更には「コンバット」のような第二次大戦を舞台にした戦争もののテレビ映画が放映されて、サンダース軍曹等がやけに人気者になって、ついこの間まで敵対国だったアメリカの軍人を一生懸命に応援しているような空気まで出て来ました。
問題はこれらのテレビ映画が日本のテレビ局で放映された背景なのです。調べてみるとびっくりしますが、ほとんどタダ同然で日本のテレビ局に放映させてくれたと言ってもよいような条件でした。1本が200ドルとか300ドル位で滅茶苦茶安かったのです。これは何故かと言うと、まず、アメリカでもテレビ時代が来て、テレビでハリウッド映画を放映する事に対して、はじめは協力しなかったのです。したがって、テレビ会社が自主制作でテレビ映画をつくって、そのテレビ映画はテレビで放映後、二次使用で配給するのは安くてもよいという前提があったわけです。
実はもっと政治的な要素もあって、ちょうど1950年代は「マッカーシー旋風」と呼ばれた、反共主義者運動が展開されました。つまり冷戦の時代に入って行って、1949年に共産中国が成立してソ連という国がまだ光を失っていない時期で、アメリカの共産主義に対する恐怖心が物凄く大きくなっていた時代です。そういう背景があって、マッカーシーという上院議員が、「共産主義者が国務省の中に紛れ込んでいる」という発言をして以来、「反共」や「赤狩り」が吹き荒れました。(註.2)
 
木村>  「非米活動」という言葉がありましたね。
 
寺島>  そのような共産主義者みたいな人たちを血祭りに上げて行くという空気が横溢している1951年、日本はサンフランシスコ講和条約によって独立しました。しかし、1950年に始まった朝鮮戦争という大きな要因もあり、アメリカは共産主義に対する恐怖心から、日本を反共の砦にして行こうという政策をつくって、日本人を親米化しようとしたわけです。日本人のものの見方や考え方の中に「アメリカを好きになるという空気をつくろう」と、物凄く腐心していたのです。ホワイトハウスをはじめ、多くの民間団体までがアジアの共産化を防ぐために、ファンド等をつくって日本に様々な文化キャンペーンを行ないました。アメリカを好きになってもらおうという意図から番組のソフトの提供なども含めて大変な活動をしていたのです。そのような影響で、我々はアメリカの生活に憧れて、アメリカのカウボーイ映画に拍手を送りながら、いつの間にか身につけてしまった価値観として、よく私が言う、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という姿勢が出来てしまったのです。私自身も実際にアメリカでその後十数年生活をしてアメリカ人と議論をして、「お前は日本人のくせに何故そんなにアメリカのテレビドラマの事をよく知っているのだ?」と言われました。また、マイアミに行ってもシカゴに行っても、何処かで観た風景と感じ、やたらに知っているわけです。マイアミに行けば、例えば、これは「マイアミ・バイス」に出て来たあの辺りだとか、「ルート66」の類の世界をほとんどアメリカの国民と同じくらいに共有してしまった時代を過ごしています。
  我々はいつの間にか日本人であるのに骨の髄まで戦後のアメリカの文化を吸収して、ある意味では飲み物としてのコーラからTシャツ、ジーンズ等の衣服文化にいたるまで、いつの間にか「アメリカ的なるものはカッコいい」という、世界でもまれに見る民族になってしまったと言ってもよいと思います。その事から、ある意味では抜け出ていないという事が日本の現在の状況なのです。そういう背景から「異様な日本人」というものが登場して来ました。
4月5日以降に我々が体験し、目撃して来た事も結局は自分の頭で考えたりする事をしないで、「お任せ民主主義」という言葉がありますが、総てアメリカにお任せにしていたわけです。つまり、「アメリカのテレビドラマによって洗脳され、アメリカを通じてものや世界を見ていれば間違いない」というような時代を過ごて来てしまったために、いつの間にかそのような日本になっているのだというところをしっかりと踏み固めないと駄目なのだという事です。私の言いたい戦後なるものから今日問いかけてみなければならないという問題意識なのです。
 
木村>  日本人の心の中に深く埋め込まれた「アメリカ」というものを見つめ直す、一つの非常に重要な鍵になるところだと思います。そして、メディアのあり方も含めて改めてアメリカとの関係を我々は見つめ直す必要があり、大変重いお話だと思いました。アメリカのドラマを思い出してうかれているわけにはいかないという気がしました。
 
(註1、東南アジアの非核化を定めた条約。1995年にバンコクで開催されたASEAN首脳会議において、東南アジア10カ国の首脳により署名された。1997年発効。バンコク条約とも称する。核兵器の開発、製造、取得、保有などを禁止している)
(註2、マッカーシー旋風。マッカーシズム。1948年頃から1950年代半ばのアメリカで起こった。反共産主義者運動。メディア、映画産業、政治家、軍隊に所属するさまざまな人々の中で共産主義に共感を持っていると疑われた人たちがパージされた)

第21回目

木村>  前回の放送では「寺島実郎が見た日米関係の新局面」という事で実際に寺島さんがアメリカをお歩きになって御自分の目で見て、アメリカの知識人と意見交換をされた事を元にお話を伺いました。
 今朝は「G20」(註.1)を軸に置いて、その以降の世界経済、そしてG20から見える世界の動きというもののお話を伺おうと思いますが、このG20は世界の20カ国の地域の首脳会議です。今回で2回目になります。
 
(註1、G8に参加する主要8ヶ国と欧州連合に新興経済国11ヶ国が加わり、1999年より20ヶ国・地域財務大臣・中央銀行総裁会議を開催している。この会議には、国際通貨基金、世界銀行、国際エネルギー機関、欧州中央銀行など、関係する国際機関も参加している。世界金融危機の深刻化を受けて、2008年からは20ヶ国・地域首脳会合も開催されており、この会合は金融サミットとも呼称されている)
 
 
<G20 ロンドン国際会議>
 
 
寺島>  ロンドンで4月に行われたG20は、国際会議という意味では大変に注目すべきものだったと思います。要するに、20カ国の首脳が集まって世界の金融をなんとか安定化させようというところに世界が追い込まれているという事でもあるわけです。
 以前はG8で8つの先進国の首脳が世界を仕切って行くという流れであったのですが、いつの間にか20カ国が参加するという形になって、この仕組みの変化そのものが世界の枠組みの変化の様を示しているのです。
つまり、アメリカ一極で世界を支配している時代でもなければ、8つの先進国と呼ばれる国が仕切れる時代でもなく、中国をはじめとする新興国が参加しなければ世界秩序の流れを形成出来ないような時代になって来ています。この番組でも何回か使って来ましたが、「全員参加型秩序」に近づいている世界が見えて来ている事が、「G20」の非常に大きな本質的な意味だと思います。特に今回の場合はアメリカの大統領が替わって、オバマ大統領にとってみると国際会議の初舞台のようなものでした。そして、「果たしてオバマはどのようにプレーするのか?」という事が一つの注目点でもありました。
 
木村>  新聞の見出し風に言うと、「オバマ外交 始動」ですね。
 
寺島>  無難にスタートして行ったと言うか、ある面では鮮やかに空気を変えたと言ってもいいと思います。本当は世界の金融不安の震源地がアメリカそのものであり、アメリカが激しく問い詰められたり、その責任が問われるべき局面であるにもかかわらず、ブッシュ大統領の時とは違って、「対話と協調路線」で国際社会の新しい秩序づくりに戻って来たアメリカに対する欧州各国の歓迎の空気というものも背景にあって、オバマは巧みにプレーをしました。むしろ、驚いたのはフランス等が「タックス・ヘイブン」を使って税金逃れをしているようなヘッジ・ファンドのようなものも規制しなければならないという流れを出した時の事です。中国のマカオや香港等まで罵倒して非難の目が向けられるような空気をフランスが提議した事に対して、中国は反発するような姿勢を見せてフランスと中国が対立し合い、いがみ合っている間に、オバマが登場して来て、「まあまあ」と言って収めした。つまり、一番糾弾されるべき立場に立っている人間がいつの間にか収める側に回っているというある種の鮮やかさとか、見ようによっては強かな路線転換を見せました。やはり、アメリカの新しい指導者としての力の一端を見せたという受け止め方をされています。ある面では鮮やかなオバマ外交のスタートだったと言ってもいいと思います。
  その後に欧州歴訪も含めて、「新しいアメリカ」を強く印象づけて、アメリカとしては「うまくやったな」という感じがします。
 もう一つの大きなテーマであったのが、結果的にアメリカの思った展開にはならなかったのですが、「財政出動」です。アメリカは思い切った財政出動によって世界景気を上向きにさせようという思惑が腹にあって、そのアジェンダをぶつけたわけです。しかし、ドイツを筆頭にして、欧州各国が財政出動に対して非常に慎重な態度を見せました。それに対して麻生首相がドイツの慎重な姿勢を批判するような文脈のコメントを出して日本とアメリカが財政出動を強く主張している事を印象づけたという感じでした。
ただし、この話には、深く考えなければならない部分があって、アメリカが財政出動と言うのと、欧州の財政に関する考え方は相当違うのです。それは何かと言うと、私はこの数字が物凄く重要だと思っていますが、アメリカのGDPに対する財政支出の規模は欧州に比べると物凄く小さくて積極的な財政に転換したとしてもこれまで30%台だったのです。35~36%だったものが積極財政に転じてもGDPに対してほぼ4割くらいになるかどうかと言われています。そして、欧州は元々、物凄く大きな政府でGDPに対する財政支出の比率が非常に重くて47~48%です。分かり易く言うと、「元々欧州は、財政出動をやっていて、いまさらあなたには言われたくありません」という事です。これが欧州の空気で、欧州はユーロ社民主義の伝統を引き継いで福祉国家という形態をとっているので、GDPに対して財政が持つ比重がアメリカ等と比べると極端に高いというところからスタートしているのが現状です。そのため、ドイツ等からしてみると、「これ以上財政出動しろと言われても私にとってその話は当てはまりません」という本音が出て来ます。
 そして、アメリカはいよいよ4割を超すというところまで来ています。「アメリカの欧州化」と言われていて、小さな政府と言っていたアメリカも、結果としては欧州がとっているような大きな政府の方に向かわざるを得なくなったのではないのかという事が世界の動向であり見方です。
そのような中で、日本は政府の財政規模のGDPに対する比重がアメリカよりも低い数字になっています。しかし、今回の緊急経済対策においては15兆円という額をバーンとぶつけて来ました。
  日本は3段階にわたって財政出動を膨らませて来たと言ってもよいと思います。
そのような意味合いでこの数字にびっくりするのですが、47%まで一気に上げるのです。つまり、来年2010年の経済、GDPの予測値をベースに考えると、ヨーロッパは52%くらいになり、アメリカは44%くらいになります。そして、日本が47%を超すわけです。世界こぞって財政の規模が物凄く大きくなり、しかも世界中が欧州化して行くと言うか、欧州のように大きな政府というものにならざるを得ないという方向に向かっていると言うのが今回見えてきた大きなポイントだと思います。
 
木村>  大部分は分かり易く言うと、借金をして財政出動し、景気を刺激して成長率を上げようという事ですね。
 
寺島>  「瞬間風速にかけよう」という事で、悪い言い方をすると「あとは野となれ……」ともいうもので、国債を発行して金を調達し、とにかく財政出動をして景気を上向かせるけれども、後代負担、つまり、結局は後代になってそれを負担する事になります。いまの段階では責任ある展望はないという状態で進んで行く事になりますから問題を大きく残しているという部分も確かなのです。
 
 
<G20の内に潜むG2という影>
 
 
寺島>  もう一つ、より重要な事で申し上げておかなければならない事があります。G20によって私自身も「世界は全員参加型の秩序に向かっていて、アメリカだけが仕切れるわけでもなく、先進国で仕切れるわけでもない」と盛んに言ってきました。しかし、今回実際にG20の会議に参加をして、陪席していた人たちの報告をじっと聞いていて気がつく事は、「G2」という言葉が出て来たという事です。これは20カ国が参加しているように見えるけれども実際は二つの国、つまり、アメリカと中国が世界の秩序に向けて大変重きを成して来たという事がよりクリアーになったという見方なのです。これはどういう事かと言うと、アメリカがいかに中国に配慮をしているのかという意味なのです。要するに、中国が協力してくれないとアメリカのシナリオが思い通りにならないという状況がだんだん見えて来ているのです。
例えば、アメリカの国債です。アメリカは、財政赤字を支えるためには国債を発行していかなければなりませんが、いま世界でアメリカの国債を持ってくれている国のNo.1が中国で、約7千億ドル持っています。第2位が日本で6千億ドルです。中国は強かなので大量国債発行によってドル安になると、自分たちが持っているアメリカの国債が目減りする事を嫌がって、世の中で言われている「パンダ債」、つまり、中国の通貨である「元」建てによってアメリカの国債を持ち、目減りを防ごうという事をちらつかせ始めています。そのような事でアメリカは物凄く中国に配慮をしていて、IMF改革等でも中国への出資の額を増やすという事が今回決りました。こういう例をとっても中国の発言力がじわりと高まって来ているという事は間違いありません。
このような中で、以前話しましたが、頭の中に次の数字が浮かぶのです。それは、2007年の世界のGDPランキングで、中国のGDPがついにドイツを抜いて世界第3位になったという事実です。そして、いま、日本のすぐ後ろの第3位に中国が来ているという事なのですが、2010年のGDP予測値を前提にすると、来年、中国のGDPが日本のGDPを追い抜く年になるであろうという事はまず間違いありません。以前の予測では、早くても2012年に追い抜かれると言われていたのですが……。そうすると、日本人は「世界第2位のGDP大国」という言葉を枕詞に持っている事に若干の自尊心をくすぐられていたのですが、いよいよ来年は中国のGDPが日本を追い抜いて行く事になると予測されているのです。
もっと正確に言うと、中国と香港と台湾という3つの地域とシンガポールを入れて大中華圏とも言いますが、中国、香港、台湾の3つの地域のGDPで昨年、ついに日本を追い抜きました。したがって、グレーター・チャイナ(大中華圏)のGDPが日本を追い抜いたという事になります。色々な意味合いにおいて、中国の存在感が高まっていて、しかも世界の景気浮揚にとって中国の4兆元の財政出動というものに大変重い意味があって、現実に「中国頼りの景気回復」のようなところが他の先進国にもあるのです。
ここのところに来て、先月あたりの経済の動きを見ていると、日本企業の中国に対する依存が一段と深まっています。それでなくても中国に対する期待感と依存構造が深まっている中で、アメリカは一段と中国に対して配慮をして、G20と言われる仕組みの中で実態的には中国の顔を立てたり、中国に配慮をしたりしようとするアメリカという空気が物凄く滲み出ていました。オバマ大統領の首脳会談においての中国に対する何ともつかない持ち上げた空気、「偉大な文明国だ」というような類の話にまで言及しているような空気が我々にも伝わって来るのです。
私はそのような中で、日本としてはG20という多くの国が世界秩序に参加している流れを見極めると同時に、実際にアメリカと中国との関係が、世界秩序に対して大きな流れを形成しているというところについても、じっくり見抜いておかなければならない重要なポイントだと思っています。
 
木村>  これは政治的な問題もあるのでしょうが、寺島さんは経済人としてご覧になっていて、日本の経済界には日本の内需拡大という時に、これは中国の市場も含めて中国が需要を喚起するという事で日本は共に景気回復を目指す以外にはないというところに来ていますね。
 
寺島>  液晶テレビ等の工場の稼働率がここのところはグーンと上がって来ているのは、ほとんど中国市場向けのためです。それが良いとか悪いとかという事を超えて、現実の問題として中国の景気頼みのようなところが既に出来ているために益々その比重が重くなって来ているのだと思います。
 
木村>  米中首脳会談において、今年の後半にはオバマ大統領が訪中する事も決まりました。そして、経済・政治の戦略対話というものも非常に高いレベルで行って行くのだという確認もされています。このような事も含めて私たちが「G2」というキーワードで世界というものをしっかりと見なければならないという事ですね。
 
 
<後半>
 
 
木村>  後半は、リスナーの方から頂いた質問のメールを一つ御紹介します。前回のお話に関わるのですが、「今朝は寺島さんの宇宙基本法に関わるお話を聞かせて頂きました」。これは、基本法そのもののお話ではありませんが……。「月に人間型ロボットを送り込むのと介護との関係が結び繋がりません。もう少し分かり易く解説を御願いしますよ」と書いてあります。なるほど……。そう言われると前回は月への有人飛行という事を超えて、月にロボットを送るという日本の画期的なプランであるというお話でした。
 
寺島>  間もなく、宇宙基本計画というものが固まってきます。私はその基本計画を議論する委員会の座長をやっていますが、内閣官房に宇宙開発戦略本部というものがあって、そこで有識者や専門家等を集めた会議をやっています。そのような中で、例えば中国やインド等が10年以内に有人、つまり、人間が月探査に行くというような計画を発表している事を受けて、日本も月探査に送るべきだという意見が一方では大変強くあるわけです。しかし、「人命を尊重する」という気風がある日本において、「人間の命までかけてリスクを負って月に行く意味があるのか?」という意見も一方ではあります。それにかかるコスト、つまり、お金がおそらく数兆円はかかると思います。そのような事をやるのであれば、もっと別の事をやった方が良いのではないのかという意見の人もいます。
 また、別の視点で見ると日本のロボット技術の基盤は大変なもので、例えば愛知万博に楽器を吹くロボットや「ASIMO」君的な二足歩行のロボット等が出展され、かなりのレベルまで来ているという事があって、それを誰もが認識し始めていると思います。そして、多くの中小企業の人たちがロボット関連の技術に立ち向かっているのです。例えば、月に二足歩行のロボット、つまり人間の形をしたようなロボットを送るという事はなかなかの技術基盤が必要ですが、日本人は生真面目で目標が定まるとそれを実現する力を持っているのです。
ここで、先程のメールの質問に入るのですが、「波及効果」という意味で、私は先日お話をしたわけです。ロボットが何故重要なのかと言うと、月に送り込むためにロボットが大切なのではなくて、それくらいの高度な技術基盤を確立していったのであればその先に見えて来るものがあると思うのです。例えば、日本は今後少子高齢化社会に向かって行き、人口がどんどん減って行く流れの中にあります。高齢化社会を迎えて行く時に介護の現場や福祉の現場で生身の人間が勿論支えて行ったほうがよい分野はたくさんありますが、例えば、福祉ロボットや介護ロボット等が重要になって来る事も容易に想像されます。イメージとしてはマッサージ機を思い出してもらいたいのですが、そのマッサージ機がいまどれほど高度化しているのかという事なのです。先端的なマッサージ機はセンサー技術が物凄く重要で、つまり、感知して凝っているところを揉んだり、ほぐしたり、叩いたりするような非常に高度なマッサージ機が登場しています。もはや、「マッサージ・ロボット」と言ってもいいようなレベルに近づいているのです。この技術が更に進化して行くと、介護ロボットや福祉ロボット等のように、より高度な人支えをしてくれるようなロボットが開発されて来る可能性が物凄く大きいのです。特に、二足歩行のロボットを月に送るというプロジェクトを実現するプロセスで技術が蓄積されて、それが花開いて行ったのであれば、やがて人間社会を支えて行くという意味において、介護ロボットにまで大きな意味を持って来るという形で説明したかったのです。
 つまり、二足歩行のロボットを月に送るという事を実現して行く過程で、様々な技術が開発されて、裾野が広がって行くと言うか、「波及効果」=「シナジー(synergy)」を生み出すのです。そのようなものの延長に少子高齢化社会を支えてくれるような新しい技術分野を日本が確立して、それが日本の技術なり産業なりになって世界に花開いて行くという事は大変に夢のある話で、日本の進むべき方向の一つを示しているのではないのかという事が私の言いたい事なのです。
 
木村>  ロボットというものはそのような技術の塊であり、その塊を応用する事によって、或いは、それを開発するプロセスで色々な新しい技術が生まれ来るのですね。
 
寺島>  この話は、夢物語ではなくて、いよいよ腹を括って日本がやろうとしている話だというところに大変重要なポイントがあるのです。
 
木村>  メールを頂いたリスナーの方は匿名希望なのでお名前は紹介出来ませんが、佐賀県でお聞きになっているそうです。
いまの寺島さんのお話でまた一つロボットというものの意味が伝わったかと思います。

2009年04月12日

第20回目

今回OAダイジェストはございません

2009年04月05日

第19回目

今回OAダイジェストはございません

第18回目

木村>  先週の放送では「寺島実郎が見た日米関係の新局面」という事で、寺島さんがアメリカ東海岸をお歩きになって、色々な人たちとの意見交換も含めてお話を伺いました。そして、「ジャパン・ファーストの裏側」で、私たちが日米関係の新局面を認識出来るのかどうかがいま問われている事を知りました。
 今週は、とても大きな夢のあるお話で地球を離れて宇宙にお話しが行くという事で、「日本の宇宙開発~有人宇宙探索への夢~」がテーマです。

<日本の宇宙開発~有人宇宙探索への夢~>


寺島>  昨年、「宇宙基本法」(註.1)が日本で成立しました。その事をベースにして、内閣府の内閣官房に宇宙開発戦略本部が出来ていて、私は宇宙開発戦略本部が設けている宇宙開発戦略専門調査会という委員会の座長を務めています。これは、「日本の宇宙開発全体を見渡しての基本計画をつくろう」という委員会です。トップは内閣総理大臣で、野田聖子さんが担当大臣として出席しています。この話の重要なポイントは何かと言うと、「宇宙基本法」というものは、超党派の議員立法によって決められていて、自民党だろうが、民主党だろうが、情熱のある人たちが支えた議員立法で超党派によって決議されて内閣にこのような組織が出来ているという事です。現在、日本の政治は選挙含みで動いていますが、どんなに遅くても9月までには総選挙をやるわけです。そういう状態で政権が微妙な状況になっていますが、「どちらが政権をとろうが、日本の政治が混迷して行こうが、宇宙開発に対する基本的な方向づけは超党派でやって行こう」という流れの中にあるからこれは大事な話なのです。そのような中で、私たちは昨年の10月から宇宙開発の基本計画をつくるための議論を積み重ねています。これには大変に色々な論点があるのですが、先日、委員会として、ある種の重要な方向づけが出来たのです。これからはこれが国の政策になって展開して行くのだろうという事を前提にお話ししています。
「有人宇宙飛行」というものが一つの論点です。委員会のメンバーの中には色々な立場の人たちがいて、「宇宙戦艦ヤマト」を描いた漫画家の松本零士さん、宇宙飛行士の毛利衛さん等もいます。産業界からも有力な人たちが大勢いて、勿論、宇宙開発に関わる技術の専門家の先生たちや大学の先生たちもたくさんいます。
そのような中で、みんなの大きな論点の一つに、例えば松本さんや毛利さんたちは「有人である」という事に対して大変な価値を感じています。
  日本の少年の夢を背負って、「日本も有人宇宙飛行をやるべきだ」という議論の先頭にいるわけです。

木村>  いま、ちょうど若田光一さんが飛んでいますね。

寺島>  アジアの国々を見渡せば、中国は有人飛行においてはアメリカと一緒に連携して宇宙ステーションをやるのではなくて、自前の「神舟7号」等で宇宙に人を送るという流れをつくって来ています。インドも「10年以内に月に人を送る」という計画があります。このようなものがどんどん動いて来ると日本人も変なナショナリズムではないですが、「中国やインドが有人飛行をやっているのに日本は一体何をやっているのだ?」という素朴な疑問が湧き上がって来ると思います。そして、日本もやるべきだという議論をする人がより多くなります。このような流れの中で「有人宇宙飛行を日本はどうすべきなのか?」という事が大きな論点の一つだったのです。それを熟慮し、日本としてどのようにまとめていったら一番よいのかという事について委員の人たちは苦労していたと思います。
 そこで、毛利さんと議論をして私自身が感じた流れがあります。それは、毛利さんの発想でもあり、大きな基本計画の方針に盛り込もうとしているのですが、「2020年くらいまでの間に二足歩行ロボットを月に送ろう」という事です。
  例えば、ムカデの様に歩くような機械じかけのものではなくて、あたかも「鉄腕アトム」や「ASIMO(アシモ)」等をイメージした二足歩行の人間の形をしたロボットを月に送る事を基本計画に盛り込む事を先日、委員会で合意形成したのです。これに一体どのような意味があるのかと言うと、まず、「有人」になると当然命がけになり、生命をかけてチャレンジする事になります。
  1969年にアポロ11号によってアメリカが初めて月に立つという事をやっていますが、その関係者の人と私はかつて議論をしていた時に、「あのレベルのコンピュータの技術に支えられて、よくあの時に人間を月に送ってしまった……。本当に命がけの冒険であった」と言っていた事が非常に印象的でした。しかも、国が国威発揚のような事もかけて、中国やインド、そして、かつてのソ連の時代もそうでしたが、最初に宇宙に飛び出して行くのはみんな軍人でした。

木村>  ガガーリン少佐でしたね。

寺島>  要するに、軍人は元々、国家に命を捧げている様な職業なので、「有人宇宙飛行」という時には、まず先行して空に飛び出して行ったのです。しかし、日本の場合には、アメリカの宇宙ステーションの話は別として、「日本の有人宇宙飛行において一体誰が一番先に手を挙げて行くのか?」という時に、人命尊重との兼ね合いにおける問題が横たわっています。ただ、宇宙に行けばよいという問題ではありません。大変なリスクがそれに伴っているという事はどんなに技術が高度化しても存在しているのです。しかも、これには兆円単位のお金がかかります。国威発揚は良いけれども、具体的にどのようなメリットや意味があるのかと問いかけて来る人も当然の事ながら出て来きます。そのような中で、二足歩行のロボットを送るという事は、ロボットの技術において、いかに日本が世界に先行しているのかという事を証明してみせるチャンスでもあります。日本では様々なロボットの技術開発が進んでいて、例えば、愛知万博にトヨタが楽器を吹くロボットを出展したり、「ASIMO」的なホンダのロボット等、色々な研究開発をしています。日本人というものは、「目標集団合理性」と言って、目標がはっきりしているのであれば、それに向けてあらゆる努力、技術を集結してでも立ち向かおうという良い意味での生真面目な性格を持っています。例えば、かつて「零戦」をつくった時にも一年間であらゆる技術を集約して開発に立ち向かったという事もありました。要するに、目的をはっきりとさせて、ロボット技術をより高度にして行く事が日本の将来にとって物凄く大事なのです。何故ならば、少子高齢化が進んで行く日本においては、「問題解決型ロボット」つまり、福祉ロボットや介護ロボット等のような技術が今後はとても大事になります。そして、人型ロボットというものが、このような文脈においてどんどん高度化して来るのであれば、省力化や労働力が減少して行く時代を支えて行くような技術が凄く大事なのです。
私がある意味において非常に心が躍る事は、中国やインド等が命がけで月に有人宇宙飛行を行う事に対して「日本はそのレベルの探査であるのならば先端的高度なロボット技術によって立ち向かう」というように、遥かにアピールする事が出来る事です。何故ならば、既に40年前、実際に有人によって月に人が立っているわけですから、「今さら何だ」という議論もあるわけです。したがって、日本は将来に意味のある形で、ロボットのような技術を集約させ、「二足歩行によって」という事が重要になりますが、そのようなものを月面に送って、将来「ロボット」と「有人」とを噛み合わせて、更に10年くらいかけて有人飛行を行うという計画に意味があるのではないのかというあたりに合意が形成され始めているのです。私はこの事を凄く意味がある流れだと思っています。

木村>  そうなると、人命の問題は勿論大きな意味があるという事を前提としてロボットというものが、テクノロジー、或いは日本の産業、日本の社会にとってどのような意味があるものなのかという事も同時に知っておかなければならないのですね。

寺島>  しかも、ロボットが月面探査等に立ち向かっている姿を実現するためにどのような技術開発が必要なのかというと、そこには当然の事ながらセンサー技術をはじめとして高度な技術を集約しなければならない事も見えて来ます。

木村>  ロボットというものはそのような技術の塊なのですね。

寺島>  やがて、月面探査だけではなくて私たちの至近距離で日本が抱えるであろう、先程申し上げた少子高齢化社会が直面する問題をロボットが代替するなどして、日本がある問題に立ち向かう時代をつくって行く事が凄く重要です。そして、ロボットという人間の形をしたものだけではなくて、ロボット技術は機械をより高度に動かすものであり、自動車や様々な分野においてそのまま使われて行くものであり、これが実現して行くという事が日本の産業に大きなシナジー、つまり、波及効果を生む途方もなく重要なプロジェクトになると予測できます。したがって、このあたりをよく吟味してどのような体制で進めて行くのが良いのかという方向に議論と実行プランが噛み合って来るのであれば大変に良い方向に行くと思います。
「宇宙」と言うと、自分たちの生活とは全く関係のないところで研究開発が進んでいると思いがちですが、そういう考えを至近距離に近づけるという事が非常に重要です。以前、この番組でもお話しをした事がありますが、海洋基本法も議員立法の超党派によって決められました。海洋の資源探査をするためにも「宇宙技術との連環」、例えばGPSのように位置測定の技術の精度を高めないと資源開発においては上手くいかないわけです。
日本の日立が中心となって開発している「準天頂衛星」の技術というものがあります。現在、アメリカのGPSの衛星が地球の上を24個取り巻いていて、その衛星に繋いで私たちが車を運転する場合にはカーナビで自分がいまどこを走っているのかが確認を出来ます。しかし、アメリカの軍事衛星に依存し続けると仰角が浅いので位置の測定が必ずしも正確ではない事が問題になって来ます。より高度で緻密な測定を必要とする時には真上に衛星を打ち上げる必要があって、それを実現するのが、「準天頂」というものです。日本は初めてそれに予算をつけました。これからそれを3発くらい打ち上げて、位置測定を更に高度化しようという方向に踏み込んで来ます。これは凄く大事な事で、GPSの衛星技術をより高度化して詳細な位置測定が出来る事によって海洋資源探査の精度を上げて行く事が出来ます。また、災害時にもGPSの情報は凄く大事です。
宇宙と日本の未来とを繋ぐところに、どれほど説得力のあるシナリオを描く事が出来るのか、そして、国民の支援と理解を得ながら宇宙開発を進める事が鍵であり、その方向に向けて、今日お話しをしたのは月に二足歩行ロボットを立てるとか、準天頂衛星によって位置測定の精度を飛躍的に高めて資源探査をより効果的に展開して行くような戦略シナリオをしっかりと描き出して行く事が日本の将来にとって凄く意味があるという事です。

木村>  それは当然、非常に裾野の広い産業が活発化されて行く事に繋がるのですね。

寺島>  なにやら悲観論が漂っている空気ですが、私たちがいまやらなければならない事は、典型的な例で宇宙や海洋等のところに新しいフロンティアを求めて日本の新しい時代を切り開いて行くところを見せるという事です。そのように目的がはっきりとして来ると生真面目な性格の日本人はそこに力を集結してやって行こうとします。
東大阪は人工衛星の「まいど1号」で有名になりました。このように、私たちは全国の中小企業や町工場等の情熱が一つの目的に向かって集約して行くシナリオを描かなければならないのです。

木村>  これは、もしかすると「鉄腕アトム」が本当に宇宙を飛んで月に行くという事を目指して行く……。夢は宇宙だけではなくて地上にも広がるというお話でした。
<後半>

木村>  続いては「寺島実郎が語る歴史観」です。前回は、「鈴木大拙~禅の思想家~」についてお話を伺いました。今回は、昨年末に亡くなられた加藤周一さん(註.2)についての寺島さんの思いをお伺いします。加藤さんとの接点はどのような事だったのでしょうか?

寺島>  加藤さんという人は戦後と真剣に向き合った真の知識人だと思います。
私はたった一度だけ加藤さんと対談をした事があります。2003年12月だったのですが、ある雑誌の対談でした。実は、正確に言うと突然加藤さんが訪ねて来てくれたのです。初めから対談があったわけではなくて、話の中身が面白いから収録する事にしようという話になったという経緯がありました。その対談で、冒頭に私は、「私が生まれたのは1947年です。加藤さんが『1946・文学的考察』を書いた年に生まれたのです」という事を彼に伝えました。その本は加藤さんの処女作です。そうしたら、加藤さんは「あなたはその時生まれたのだからすぐに私の本をお読みになったわけではないですよね」ときり返したのです。私は冗談にしても80何歳かになった人であるのに頭が柔らかい人だと思いました。
     私を訪ねて来てくれた理由でもありますが、私が当時、「イラク戦争は間違った戦争である」と発言をしていて、「日本の知識人はアメリカについて行くより仕方がないという空気の中に沈没していて、ものを深く考える力を失っている」という類の事に触れた時に、彼は驚くべき事を言いました。それは、「知的活動を先に進める力は、実は知的能力ではないと思います。それは一種の直感と結びついた感情的なものだと思います」と彼が言った事です。つまり、社会科学や時代等に向き合っている人間が持っていなければならない人間の資質は、目の前で不条理が行われていたのであれば、戦慄く(わななく)様な怒りをもってそれに立ち向かわなければならないという事です。このような事を言われた時、私はショックを受けました。それは、このおじいさんから「戦慄くような怒り」という言葉を聞いた事……、これが加藤周一に対する驚きだったのです。彼は「戦争と知識人」という有名な本を書いていて、あの戦争の時に、後になって「自分は何も知らされてなかったのだ」と盛んに弁明した知識人たちが多かった中で、「知ろうとしなかったのだ」と指摘し、それはむしろ道義的な裏切りであるとしました。星やスミレを愛するだけの人という意味で「星菫派」という言葉がありますが、これは、「ただ星やスミレを愛でていれば知識人は良いというものではない」という事を盛んに言おうとしていたのです。私はこれが加藤周一の本質だったと思います。
私にとって加藤周一は、1968年という年と共に非常に大きな意味があります。1968年、私は大学2年生でした。1965年、米国によるベトナム爆撃開始という事態を受けて、ベトナム戦争というものに疑念を感じはじめていた私にとって、1968年8月20日にソ連がチェコスロバキアに侵攻したという事実(註.3)は極めて大きなものでした。その時の事を加藤周一が「言葉と戦車」という有名な本の中で「1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは圧倒的で無力な戦車と無力で圧倒的な言葉だった」と書いています。私は、圧倒的であるけれども力を持ち得ない「戦車」と、無力であるように見えるが圧倒的であるのは「言葉」だという文章を読んだ時に、社会主義か資本主義かという議論が盛んに繰り広げられていた時代にそのような議論を超えて、世の中には不条理もあれば筋道の通った議論もあるのだという事が閃きました。加藤周一という人は、人間としての軸で物事を見極めようとする事を懸命にやったというか、つまり、政治的人間ではなくて自分は政治を嫌い、熱狂を嫌い、非政治的な人間だという事を言い続けた人なのですが、そのような人だからこそ持ち得た途方もないバランス感覚があり、それが加藤周一という人のものの見方を支えたのだと知りました。

木村>  加藤さんが「話の通じ易さは当事者相互の愛憎によるのではなく、愛憎の対象の共通性によるのである」と書いています。つまり、「お互いの問題意識が触れ合う事においてとても楽しいのだ」という意味だと思うのですが、寺島さんが加藤さんと一度だけお会いになって、その時にまさにそのように通じたのだと思いました。同時に、「知識人のあり方」という事の重さを受けとめながらお話を伺いました。

(註1、2008年5月28日公布。内閣に宇宙開発戦略本部を設け、宇宙開発の推進にかかわる基本的な方針、宇宙開発にあたって総合的・計画的に実施すべき施策を宇宙基本計画として策定する。宇宙開発戦略本部長は内閣総理大臣であり、副本部長として、内閣官房長官および宇宙開発担当大臣が宛てられる)
(註2、1947年、中村真一郎・福永武彦との共著『1946・文学的考察』を発表し注目される。また同年、『近代文学』の同人となる。1951年からは医学留学生としてフランスに渡り、パリ大学などで血液学研究に従事する一方、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。帰国後にマルクス主義的唯物史観の立場から「日本文化の雑種性」などの評論を発表し、1956年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。1958年に医業を廃し、以後評論家・作家として独立した)
(註3、1968年8月20日。チェコスロバキアの自由化・民主運動<「プラハの春」>を警戒したソ連がワルシャワ条約機構加盟の5カ国<ソ連、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリア>の軍隊60万人以上を動員して同国に侵攻し、全土を占領した事件。ソ連は民主化運動を制圧し、ソ連に忠実な共産党政府を復活させた)

2009年03月29日

第17回目

木村>  前回の放送では「オバマのグリーン・ニューディールは成功するのか?」という事で、「グリーン・ニューディール」というものを据えて、課題と可能性のお話を伺いました。その中で私たちも色々な事が見えてきましたが、今朝のテーマは「寺島実郎が見た日米関係の新局面~アメリカ東海岸報告~」、「ジャパン・ファーストの裏側」となっていて、いくつかテーマが分かれていて、ここから色々な問いが生まれると思います。
 寺島さんはアメリカに2月の末から3月初旬にかけていらっしゃったそうですが、オバマ政権が発足した後のアメリカは一体いまはどうなっているのでしょうか?

<寺島実郎が見たアメリカ経済の実状>


寺島>  オバマは現在、最初の100日間というところを走っています。私はニューヨークやワシントン等アメリカ東海岸を動いて定点観測のように重要な人たちと会っているのですが、今回も色々な人たちと話してみて考えるところがありました。
まず、非常に印象深かったのはアメリカの週刊誌等にも登場して来ているタイトルで「アメリカは社会主義の国なのか?」というものがあり、「社会主義」という言葉が蘇って来ています。20年前に冷戦が終わり、社会主義が終わったと言われて、東側が崩れてソ連は崩壊し、資本主義が勝利したという感覚で生きて来た人間からすると、ギョッとするような「社会主義」という言葉が堂々と雑誌等のタイトルになるほどアメリカのおかれている現状は複雑なのです。
要するに、アメリカは新自由主義の国であり、特にレーガン政権以降の約30年近くは小さな政府であり、規制緩和で競争主義、市場主義の徹底によって民営化をして来ました。アメリカは小さな政府を求めて市場に任せると言うか、国家が介入する経済ではなくて、自由な市場の役割を物凄く評価をする政策を展開して来ていたのです。しかし、市場の魅力というものが限界に突き当たって、私たちが目撃しているサブプライム問題等のように、規制なく市場に任せておいたら、結局どうにもならない混乱の中に入って行ってしまいました。ここのところアメリカがやっている事は規制であり、介入であり、政府のインセンティブであり物凄い勢いで国家管理経済に向かっているような状況で、ある意味「社会主義的」なのです。
例えば、オバマ政権はAIGに対し、800億ドルにも上る政府資金の注入を行っています。これは直接資本注入なので国家管理の国有企業か? という状況にまでなって来ています。更に、シティーグループへの資本注入が450億ドルで、そのうちの250億ドルを普通株に変えています。つまり、議決権36%は国家が持っているという金融グループになってしまったのです。
 
 
木村>  国営銀行に近いのですか?

寺島>  国営銀行だと言ってもいいくらいです。それに加えて、自動車産業までが国家が介入して資金注入をしなければビッグ3も持ちこたえられないというところまで来ています。これは皮肉でも何でもなくて、アメリカという国は国家管理経済の国になったというに近い状況なのです。
そして、2月に開催されたスイスのダボス会議においても中国の温家宝首相やロシアのプーチン首相までがやって来て、「まさに自分たちの国のように、国が経済に介入して管理しているほうがむしろ有効なのだ」という事を聞かされるはめになってしまったのです。要するに、皮肉とも何ともつかない状況なのです。そして、AIGが国家管理のような状態になって、国からお金を入れてもらいながら、それでも日本円で161億円のボーナスを役員に配るという話があり、オバマ大統領は「それはけしからん。何としてでも法的に止めなければならない」という事になり、自由主義と言われて来たアメリカの経済にも段々と縛りがかかって来ているのです。
 私は今回、ウォールストリートの関係者の人たちとも会いました。「アメリカン・ドリーム」という言葉がありますが、「消費は美徳であり、努力をすれば金持ちになり、才能のある者が金持ちになるのだ」、自分たちがこんなに豊かな生活をしているのは、マネーゲームをやったからで、「自分に才能があるから金持ちになったのだ」という素朴な幻想の中を走って来た彼らは、「もはや、ここはアメリカではない」と言っていました。行き過ぎたマネーゲームを規制しようという動きの中でどんどん縛りがかかって来たからです。例えば、マネーゲームで巨万の富を得てさっさとフロリダに引退してモーターボートを所持して酒池肉林のような生活をする事がアメリカン・ドリームであり、それが許される国だからこそアメリカは面白かったのではないかと思います。しかし、現在は「もはやここはアメリカではなく、面白くない」という空気が漂って来ているのです。事実、数字で検証してもGDPに対する政府支出の比率が何パーセントくらいなのか? という事が大きな政府なのか、小さな政府なのかという時によく言われる数字なのですが、それが今、アメリカは約40%になって来てしまったのです。今度の緊急経済対策だのなんだのという手を打って、政府支出によって景気を浮揚しなければならないのです。この比率は、欧州が平均47%くらいだと言われています。
 
 
木村>  欧州は大きな政府の政策をとっているところが多いのですね。

寺島>  同じ資本主義と言われていても欧州は「ユーロ社民主義」(註.1)というもので、社会主義的な政策を引きずっています。何故ならば、欧州は必ず一度や二度は社会主義政権の下におかれた時期があって、社会主義の亡霊と向き合った事が欧州の20世紀だったのです。しかし、アメリカという国は「骨の髄まで資本主義の国だ」と言われるように、一度も社会主義政権をつくった事もなければ、社会主義政党など育った事すらなかったのです。
そのアメリカのGDPに対する政府支出の比率が40%を超え、欧州なみの47%に迫って行くのではないのかという状況になってしまいました。つまり、「ここはアメリカではない」という事なのです。そして、「格差と言われようが、差別と言われようが、力のある者がより強くなってより金持ちになる事に何か問題があるのか?」というような勢いで生きて来た国が「待てよ」と考え直し、ここまで行き過ぎたマネーゲームに対して規制をしなければならないという事になったのです。世界中がその事によって大きな不況の中に入っているので、オバマ政権としてはそこに踏み込まざるを得ないのです。そこで、オバマが真剣にアメリカの再生に踏み込めば踏み込むほど、皮肉な言い方をすれば、この国を社会主義化して行かざるを得ないような事になってしまいました。何故ならば、現在私たちが直面している危機の本質は、「アメリカというメカニズム」に由来したものだからです。
この番組で何回も議論をして来ましたが、アメリカという国のメカニズムとは何かと言うと、産業が持っている実力以上に過剰消費社会を享受し、産業が持っている実力以上に過剰な軍事力を持っているという事です。何故そのような事が可能なのかと言うと、世界経済からアメリカに金を吸い寄せて、それによってアメリカを回すというメカニズムで動いて来ていたからですが、そのメカニズムそのものがサブプライムのような悪知恵を呼んで世界中が凍りつく結果を招いてしまいました。そして、アメリカを変えようとするならば、まさにそのメカニズムそのものに対して踏み込んで行かざるを得ないようなジレンマに陥っているのです。
したがって、オバマが真剣になればなるほど、この国の空気を本質的な意味で変えていかざるを得ないのですが、はたして、それが出来るのか? うまく行くのだろうか? という疑問を残しながら走っているという印象を強く受けましたし、その象徴として、「社会主義」という言葉まで登場して来たという事になるのです。
 
 
木村>  寺島さんのお話を伺っていると、「今回の金融危機は第二の壁の崩壊」だと思います。一度目はベルリンの壁が崩壊して、社会主義が崩壊しました。そして、今回はウォールストリート……。これは少しジョークのような感じですが、まさに「ウォール」=「壁」が崩壊して、アメリカが豊かさの仕組みを変えざるを得なくなったわけですね。

寺島>  どこまで変え切れるのか、結局は中途半端なもの終わるのか、それとも本当にアメリカそのものを根底から変えるような革命的な挑戦になって行くのかどうかいまはまだ分かりません。
<ジャパン・ファーストの意味>

 
 
木村>  そこで、今朝のテーマのもう一つ「ジャパン・ファーストの裏側」ですが、この「ジャパン・ファースト」というものは、ヒラリー・クリントンさんが日本に真っ先に来日したという事も含めて随分と話題になりましたね。

寺島>  「日本優先主義」とでも言いますか、「日本を大事にしています」と最初に力を入れているという事を表現するのが「ジャパン・ファースト」の意味です。日本人を見ると、半分ジョークも込めて「いまワシントンはジャパン・ファーストだから」と言います。これはどういう事かと言うと、国務長官のヒラリー・クリントンがアジア歴訪した際、最初の訪問国が日本であり、最初にホワイトハウスを訪れた外国の首脳が、日本の麻生首相だったわけです。要するに、アメリカの新政権が、いかに日本を大事にしているのかという事を表現するのが「ジャパン・ファースト」なのです。
 私は、今回、アメリカで「ジャパノロジスト」と呼ばれる人たちにも会って来ました。分かり易く言うと、ワシントンで日本問題によって飯を食っている人たちです。今回、みなさんが口をそろえて、ある種の自慢話として、「日本人は神経質でいつも自分に不安を感じているから顔を立てなければならない」とか、「まず日本から入って最後に中国へ行くという順番でアジア歴訪をすべきだ」とか、「まず顔を立て麻生さんを呼ぶべきだ」と自分がアドバイスをして、更に自分の影響力を行使して、それが実現したという事を私に一生懸命アピールをしていました。私がこれを聞いて少し苦笑いを覚えるのは、日本人は非常に過敏であるから顔を立てないと拗ねてしまい、自分がないがしろにされていると感じるとすぐに「ジャパン・パッシング」で日本はのけものだとか、素通りされている心理になりがちなので、まずは顔を立ててやるべきだと日本人の深層心理につけ入ると同時に、請求書を置いて行くような点です。要するに、「日本人は、顔を立てて請求書を置いて行く」。しかし、実際に中身のあるアメリカの戦略に関わるような議論は中国と大いに踏み込んで行なうという事が一つの流れになっています。事実、ヒラリー・クリントンのアジア歴訪もそのような展開の中で、確かに日本に最初にやって来て、日本の顔を立てて、日本人の心をくすぐるようなメッセージを発信して行ったと言って間違いないと思います。
 あの時に象徴的な表現があった事を思い出してもらいたいのですが、「日本人は拉致問題に対して凄くナーバスになっている。拉致問題だけは避けては通れないので必ず言うべきである」と彼女にアドバイスをして、実際にヒラリー・クリントンが言った表現は、「拉致家族の面談に関しては国務長官としてではなく母として、娘として痛みを分かち合いたい」というような類の事を言った事です。
 
 
木村>  それは日本人には非常にうけたのでしょうか?

寺島>  日本人は、ヒラリーは、わかってくれているのだと受けとったのでしょう。何故ならば、愛されたい症候群で、愛されていて自分は理解されているのだと思って、スッと心を和ませるのです。しかし、真面目に冷静になって言うと、「拉致問題という非常に政治化した問題に対して国務長官という立場で向き合ってもらいたい」、「国務長官として会うべきだ」というのが本当の話ですが、「国務長官」としてではなくて、「母として」、「娘として」というところに万感のメッセージが込められているのです。そして、問題は人情の物語の方へすり替わってしまい、いかに日本が大事にされているのかという論点になりました。
そこで、私が一番注目した事があります。以前にこの番組で話しましたが、予想していたようにアメリカの財政赤字はこれから物凄い勢いで拡大をして来ます。そして、アメリカ国債を中国と日本が買い支えている構図になっています。中国は約7000億ドル、日本は約6000億ドルのアメリカの国債を持っているというポジションになっています。中国はやって来たヒラリーに対して、この先、国債大量発行によってドルが下落して行くという事になったのならば買っても目減りをしてしまい、それは嫌なのでせっかく持っているポジションの安全性や安定感を確保するために、世に言う「パンダ債」、つまり「中国の元建でアメリカの国債を持たせて欲しい」という事を要求し始めています。
一方、日本は非常に従順な国で、本当ならば円建で米国債を持たせてくれと言ってもちっとも構わないのですが、アメリカの期待にそってドル建にしているのです。アメリカ政府は、今年度は赤字が1兆8000億ドルになると言われていて、来年度も1兆2000億ドルになるという予算を発表しています。そのため、1兆ドルを超す財政赤字を埋め合わせる国債の発行が十分に予想されます。それを結局は日本と中国に買ってもらわなければならないという構図になっているのです。それがヒラリーの腹の中に大きくあって、日本では「日本を大事にしています」というメッセージで先程、「請求書を置いていく」という表現をしましたが、「ひとつ、よろしく」という事なのです。中国に行った時には、サブスタンスのある議論と言いますか、非常に緊張感に満ちた実態のある議論を行なって、色々と丁々発止のやりとりをして来るという構図になっている事は間違いないのです。
 これまでアメリカに対して日本は、例えば、防衛安全保障でも依存している構造にあって、小泉さんはイラク問題の時に「日本を守ってくれるのはアメリカだけだ」という言い方をしていて、「日本はアメリカに依存している国でアメリカについて行くしかないのだ」というロジックが繰り広げられていました。しかし、私たちがいま本当に気がつかなければならない事は、「アメリカが日本に頼らざるを得ない構図に日米の位置関係がじわりと転換して来ている」という事です。米国債についてアメリカは日本に国債を買ってもらわざるを得ないという構図が一つあります。そして、オバマ政権がアメリカを変えるキーワードとしてグリーン・ニューディールで勝負に出て来ていて、「再生可能エネルギー」=「太陽光、風力、バイオマス等」でアメリカのエネルギー体系を変えようとチャレンジをしています。そして、太陽光にしろ、風力にしろ、バイオマスにしろ、アメリカが本気になってそれらをやろうとすればするほど、日本の技術に依存せざるを得ないという実態になっている事がより鮮明になって来ています。日本の技術基盤がグリーン・ニューディールを支えて行く大きなキーワードだという事は明らかに見えて来ていて、日米の産業協力を是非とも進めなければならない状況にあることは確かです。つまり、アメリカがいま本気でやろうとしている事をやればやるほど、景気対策にしろ、国債にしろ、グリーン・ニューディールにしろ、日本に頼らざるを得ないという力学が働いているからこそ「ジャパン・ファースト」と言うのです。
今回、オバマ政権はイラクからアフガニスタンに兵力をシフトしてアフガニスタンに向き合おうとしていて、アフガニスタンに17,000人増派してでもやろうとしています。しかし、アフガニスタンはパキスタンとパッケージになっています。この間ヒラリー・クリントンがアジアを歴訪して明らかになった事は、インドネシアに行ってみて、インドネシアは世界最大のイスラム国家であり2億人を超すイスラム人口を抱えていますが、それらの人たちがイラク戦争を境にアメリカに対して非常に敵愾心を燃やしているという事を確認したのです。比較的親米的な国であるインドネシアにおいてさえ、そういう状況になっているのです。その事実が、イスラム圏におけるアメリカの不人気というか孤立を垣間見せたのです。そして、問題はパキスタンを安定化させなければならないのですが、親米的であったムシャラフ政権が倒れて混迷しているパキスタンに対してアメリカが影響力を行使しようとすればするほど、焦れば焦るほど噛み合わずに反発にあってしまいます。日本はと言うと、パキスタン、或いはイスラム圏に対して非常に良いポジションにいます。したがって、アフガニスタンを安定させるためにもパキスタンを安定させるにも日本の役割は非常に重要で、アメリカの期待も大きいのです。そのように、経済協力を安定化させるなどの様々な試みになんとか日本の力を引き込みたいという空気が溢れているという事がよく分かりました。
更に、米軍再編によるグアム島への移転費用等がおそらく1兆円に迫るような額になりますが、それを日本が負担するという事になると思います。要するに、あらゆる意味でアメリカが様々な政策を展開をしようとすればするほど、日本に頼らざるを得ない方向に向かっている事だけは間違いないのです。そのような中である面ではいま大きな転換点であり、チャンスであり、日本とアメリカとの関係を本当の意味で大人の関係にして行くためのしっかりとした問題意識を日本人は持たなければならないと思います。そして、世界におけるアメリカの求心力が急速に落ちている時に、同盟国としての友情を込めてアメリカをアジアから孤立させずに、更に、世界経済のためにもアメリカの新政権を支える事も必要なのです。
 要するに、経済の関係においてはより踏み込んだ関係をつくり、軍事安全保障の関係においては大人の自立した関係を日本が求める方向をしっかりとバランス良く組み立てて行く事が今後の日米関係にとって物凄く重要であり、それはまさに「ジャパン・ファースト」と言っている言葉にくすぐられてニコニコしている場合ではなく、日本側から「ジャパン・ファースト」を越えて踏み込んで行かなければならないという極めて大切なところにあるという事が私の今回の総括であり印象です。
 
木村>  今朝のメインテーマは「寺島実郎が見た日米関係の新局面」でした。つまり、日米関係はそのような大きな転換期にあるという事を日本の私たちが認識出来ないと大きな不幸にも繋がり、世界にも日本が何か役立つ事も出来ないという構造を私たちが寺島さんのいまのお話を伺って改めて知る事になりました。

(註1、市場主義過剰の中で生じる不条理に対し、『分配の公正、雇用の安定、環境保全、福祉の充実』などの社会政策によるバランスをとろうというヨーロッパにおける思潮)

2009年02月22日

第16回目

木村>  先週の放送では、「オバマのグリーン・ニューディール」はいったいどのようなものなのか、そこで冷静な評価、或いは可能性についてという視点からお話を伺いました。
 そこで、リスナーの方から、このようなメールが届いています。ラジオネーム「マツハマダイガク」さんからです。「オバマ大統領が就任しましたが、まずは日本もアメリカも年度末の資金繰りがひとつのターニングポイントになると思います。少し冷めた目で見ると、アメリカは大きなビジョンを示した一方、目先の対応を含めたロード・マップは明らかにされていません。
寺島さんはアメリカのロード・マップをどう見立てておられますか?」。これは、先週のお話でも、冷静に見るとともにその可能性という視点からグリーン・ニューディールについて伺いました。そうなってくると、アメリカの行き方について、さて、そのロード・マップとはいったいどんなものでしょうか?

<オバマ政権のロード・マップ>

寺島>  私は、ロード・マップの中で比較的に見えて来ているものは「泥沼地獄のイラクから次にどのように切り拓いて行くのか?」つまり、「外交をどのように立て直して行くのか?」という事が物凄く気になります。オバマ大統領は、イラクとアメリカとの間の基地の地位協定で決められているよりも早いタイミングでイラクからアメリカ軍が全面的に引き揚げると言っています。但し、アフガニスタンには3万人くらいを増派するという事でテロとの戦いなるものの、いわば、主戦場をアフガニスタンに替えるというロード・マップを見せようとしています。しかし、まさに、時を合わせるかの如く、アメリカにとっては、大変に衝撃だったと思いますが、キルギスタンがキルギスタンにおける米軍基地を引き揚げてくれと要求をした事を明らかにしました。

木村>  中央アジアのですね?

寺島>  これには背景があって、9・11同時多発テロという事件が起こって、アフガニスタン攻撃やタリバンやアルカイダ等を攻撃しようとしたアメリカは中央アジアに軍事基地を持つ必要を感じて、事実、キルギスタンとウズベキスタンに基地を持ちました。これが、大変にアフガン攻撃に対しては有効に機能しました。中央アジアにアメリカが軍事基地を持つという事は、冷戦の時代と言われた頃には考えられないような話で、ソ連や中国等はそんな話を許容するわけがないのです。しかし、9月11日の事件が起こった直後はロシアも中国も、アメリカが中央アジアに基地を持つ事を容認したのです。その理由は、中国はご存じの通り、「新疆ウイグル問題」、ロシアは「チェチェン問題」を抱えていて、ユーラシア大陸の南側からひたひたと突き上げて来るような、イスラム原理主義の脅威というものに対して向き合わなければならない状況にあるからです。したがって、米国とロシアと中国の共通の利害を背景にして、その当時「反イスラム神聖同盟」という言葉を使っていた人もいますが、つまり、イスラムの脅威に対して協同の利益によって向き合おうという時代の空気があの頃はまだあったわけです。そこで、諸刃の剣になりますが、中国にしてもロシアにしてもアメリカが軍事基地を持つ事を許しました。
しかし、その後の展開の中で、ウズベキスタンの基地を引き揚げ、最後に、アメリカは年間1億5千万ドルの金を払ってまで1200人の空軍兵力をキルギスタンの基地に展開しました。これが今後、アフガニスタンに増派して行く時にアフガニスタンの周りにアメリカがオペレーションする時の大変重要な基地になるからです。それを今度はロシアが圧力をかける形でキルギスタンから引き揚げてくれと要求をして、いよいよその基地を失う事になってしまったのです。今後、アフガニスタンに展開して行かざるを得ないアメリカは、政権のスタート直後にくらった足蹴りのようなもので、かなりの衝撃だと思います。そこで、そのような状況下でアフガニスタンに突っ込んで行った時に、イラクで展開した事と同じような「泥沼地獄のシナリオ」が様々な意味において待っているのでないかという予感があるわけです。
 そして、いま世界情勢はアメリカがイラクで失敗をして、その状況を見て、ベトナムで敗退した時のアメリカも同じような事を言われたのですが、「非対称戦争」という言葉が盛んに使われ始めています。つまり、「国家対国家」や「正規軍と正規軍」の戦いではなくて、目に見えないような、いつ、何処から湧き出てくるかわからないような相手、例えばゲリラやテロリスト等からの攻撃に対しても戦わなければならない戦争の事です。非対称戦争が世界的に繰り広げられている状況になったという意味で、最近、佐藤優さんが出版した「第三次世界大戦」というタイトルの本がありますが、その中の「国家と国家が戦い合うのではなくて、非対称戦争としての新しい戦争の時代が来た」という文脈においては、鋭い切り口でそのような見方が十分に成り立つ部分があるわけです。但し、ここで私が申し上げておかなければならない事は、またぞろ「戦争の時代」というものに我々は向き合わなければならないのかという時に、もう一つの視点として、確かにそのような大きな流れも世界を突き動かしている要素であるけれども、9月11日以降に学んだ事も我々はよく考えなければならないという事です。

<力の論理から相互依存へ>

寺島>  それは何だったかと言うと、やはり、9月11日の事件が起こって、アメリカは「これは犯罪ではなくて、戦争だ」と叫んで、戦争というカードで非対称戦争に勝てると思って突っ込んで行ったのですが、結果的には泥沼地獄になったのです。そして、我々もそれを客観的に見ながら学んだ事は、要するに「戦争というカード」=「力の論理で相手を叩き潰す」というものでは問題は解決しないという事だったはずです。例えば、ゲリラやテロリスト等が孤立した存在である限りは、それを叩き潰すのは楽であるけれども、むしろ民衆から支持されていたり、民衆の中に沈み込んでいる場合には、ガン細胞が体中に回っているような状態になっているわけで、その一つ一つの細胞を叩き潰そうとしても、とても戦いきれないのです。
  それは、やがて地球を破滅させてしまう事になるかもしれないというイマジネーションを働かさなければならない問題なのです。むしろ、体中にそのようなものが染み渡っている事をもたらした構造とは何なのか? という事を問い返していかなければならないような局面になっています。したがって、力の論理で問題を解決してはならないと言うか、21世紀の初頭は、「力の論理では解決出来ないと学んだ」プロセスでもあったわけです。ロシアもアメリカが学んでいると同時に、昨年8月に、グルジア侵攻において学んだはずです。つまり、力で南進して、再び冷戦の時代のようにロシア対アメリカも含めて戦いあう時代が来たのかと世界は見たけれども、ロシア自身がいまのたうち回っています。何故かと言うと、世界中のロシアに対する信頼や信用が引いて、西側の投資がロシアに向かわなくなってルーブルが極端な形で下落するという事態を引き起こしているのですから・・・・・・。
今月は日露の首脳会議が開かれましたが、ロシア側が日本との関係を積極的に打開して行こうという動きを見せて来ている理由は、アメリカや西欧との関係が非常にまずくなって来ている状況を背景に、ロシアもアジア等の東に彼らの新しいもう一つの軸足を置かなければならないと思い始めているからです。いま、ロシアは日本や韓国との関係を非常に気にし始めています。したがって、日露関係に関しても大きな教訓を得て、新しい展開が生まれて来ている事に気がつかなければならないのです。
そして、私がここで申し上げたい事は、要するに、世界というものは相互依存の時代の中で、戦争の出来ない世界と言うか、戦争をしてはならない世界というのが本当の意味でのグローバル化という事です。そして、私が思い出す事は
木村さんがNHKのラジオ番組で司会をされていた時に、小田実さんと議論をした事です。私は小田さんが亡くなる前に、私の目の前で、「世界は戦争が出来ない時代になった」と言いました。これは、彼が最後に叫んで行った言葉だと思うのです。私は、彼がその言葉を何故くどいほど言っているのだろうと思いましたが、つまり、これは彼の遺言だと私は受けとめていました。ある意味では鋭く時代を見抜いていたというか、彼が言いたかった事は、相互依存が深まれば深まるほど「世界は戦争をしてはならないし、戦争が出来ない時代に近づいているのだ」というイマジネーションがないと世界は成り立っていかないという事でした。憎しみを駆り立てて、憎しみを連鎖させてはダメだという事が、実は21世紀に入って9・11が起こり、更にイラク戦争という泥沼地獄に喘ぎ、しかも、不用意に日本はイラク戦争に吸い込まれるようにアメリカを支援する形で関わりましたが、力の論理ではなく相互依存という中から世界の仕組みを変えて行くという事に気がつかなければならないのです。
したがって、一つは、我々は力と力がぶつかり合っている新しい「パワー・ゲームの時代」が来ているというイマジネーションを冷静に持つという部分と、そのような事では問題は解決しないので次の時代の知恵が必要なのだという部分で教訓を得ているというイマジネーションを働かせるというこの二つの視座が大切なのだと思います。

木村>  これは、茶化す話ではなくて、先週のお話も、いま伺ったお話も、オバマ大統領にこの事を本当に伝えなければならない・・・・・・。つまり、「あなたはグリーン・ニューディールにおいて、そこまで考える事が必要ですよ」というメッセージが必要だと思います。そして、昨年の秋にこの番組で、オバマ大統領が有力になって来ていた時に、「イラクからの撤退は言っているけれども、アフガンには力を入れるという矛盾をどう考えるべきなのか?」と
寺島さんに伺いました。つまり、そのようにして「我々は2001年の9・11から学んだはずだ」というメッセージも、もしかしたら日米関係を考える時に、「協力する」という事は「アフガンにどのように協力するのか?」というコンセプトだけで語られるのですが、このメッセージを発して行く力を持たなければならないのではないでしょうか。

寺島>  日本側も、アメリカが日本の役割に期待をするというエネルギーを間違いなく、どんどん高めて行くと思います。その時に、思わせぶりな話ではなくて、真の友情を込めて世界の次なる秩序形成において、我々がやらなければならない事は、いま私が話して来たような「力の論理を超えた、新しい新世界秩序というものではないのか」と、しっかり語る視点を日本が持つべきだと本当に思います。

木村>  それと共に、アメリカは国内でいまオバマ大統領を誕生させた力の中から、9・11以降の世界に深く学んで、そこから教訓を学びとって行くべきだという力が湧き出だして来るのでしょうか?

寺島>  私は本当にそれを期待するのですが、現実には、アメリカというものは真っ二つに割れていると考えたほうがよいのです。何故かと言うと、「オバマ圧勝」と見ますが、投票の総数からは依然として共和党と民主党は半分ずつです。なにも民主党が平和志向だと一概に決める意味ではありませんけれども、やはり、内向きのアメリカと言いますか、アメリカの自国利害中心で世界を築いて行こうという人たちも半分くらいはいると思っていなければならないのです。そして、そのような力の論理に対する信奉も物凄く篤くて、全能の幻像と言うか、力さえ持っていれば何でも出来るという発想の人たちも多いのです。
結局のところ、オバマ大統領も何故、アフガンには力を入れるという事を言わざるを得ないのかと言うと、それは彼の思慮が足りないからだという意味ではなくて、むしろ、「弱腰外交」を批判される事に対する先回りした布石と言うか、大統領は全軍を率いている総司令官ですから、そこにある種のナショナリズムに配慮しているというところを見せなければならない苦しみがあると思います。彼が、多分、その事の持つ限界も把握していたとしても、結局、「虚弱な外交である」=「弱腰である」と批判する勢力がいるので、そのようなものに配慮していかなければならないのです。そして、日本でも、戦前の歴史を見ているとわかりますが、どうしてもそこのところが軍に対する配慮や、「弱腰に見られたくない」という事から、言葉が動き始めて時代を動かして行き、国策を誤らせるという事が起こるものなのです。
 そのような面で本当に期待したいと同時に、アメリカが再び、「イラクPart2」のような泥沼地獄にならないように、ベトナムで学び、イラクで学んだはずなのだから「次なる英知」なるものを期待したのですけれども、どこまでその話が通じるのか・・・・・・。私は今月末からアメリカの東海岸に行きますが、またその話を報告したいと思います。

木村>  その意味でも、
寺島さんの「オバマ大統領は大変に重い十字架を背負って、いま歩んでいる」という言葉の深い意味を考えさせられるお話でした。

<後半> 

木村>  続いては、「
寺島実郎が語る歴史観」です。このコーナーは
寺島さんのお考え、或いは世界を見る眼の基礎になっている歴史認識について、私たちもお話を伺いながら共に考えていきます。
 今朝のテーマは「鈴木大拙とは何か?~西洋と日本への見方~」です(註.1)。人名事典風に言うと、「鈴木大拙」は「禅」の精神を世界に伝えた人という事になります。

寺島>  私はいま、世界中を動いていて、その中で本屋に行く事が趣味みたいな人間ですから、至るところで本屋に行きますが、日本についてのコーナーに鈴木大拙の本が無いことはないというくらいです。大拙には、「禅と日本文化」という有名な本があります。彼の発信力は凄いものなのですが、英語で日本や東洋というものを発信したまれに見る人です。私はこの人物に非常に興味があって、色々といまでも調べ続けています。鎌倉の東慶寺に「松ヶ岡文庫」という文庫を残して、鈴木大拙は亡くなっています。私はその文庫の、理事もやっていて、鈴木大拙との縁が一段と深まっています。
 そこで、何故この人物に興味があるのかと言うと、彼は51歳で本格的に大学で禅の研究に打ち込むまでは「洋行帰りの英語教師」=「教養課程の英語教師」で、あくまでも禅の研究者の一人に過ぎなかったのです。

寺島>  英語の先生を51歳までやっていた人が、50歳を過ぎてから96歳で亡くなられるまでの45年間の間に、まさに、鈴木大拙の存在が輝いて来て、世界に向けて「禅と日本」というものを発信した大変な存在になってしまったわけです。鈴木大拙の思想を言葉でどのように説明するかというのは難しい事なのですが、私なりの理解では、彼の言葉の中で、「外は広く、内は深い」というものがあります。つまり、「世界は広くて独りよがりになってはならない」という自分を客観的に見る目線を持たなければならないという事です。そして、「内が深い」というのは、「国内という事だけではなくて、心の中という問題も含めて「内の深さを問い詰めて行く事の大切さ」を彼は教えて行ったのだと思います。
 そのような中で、私が一番大事だと思う大拙の研究は、ずっと議論して来た「オバマ政権をどのように見るか?」という話にも繋がりますが、西洋と東洋の違いを真剣に考え抜いたという事ではないかと思います。つまり、西洋思想や西洋文化の特色は「Divide&Rule」=「分断統治」で分けて制するという事です。例えば、
木村さんと私がいて、「あなたと私」、「主と客」、「自分と世界」、「心と物」、「天と地」、「陰と陽」等、つまり、二つに分けて、全てを分けるという事から知性が始まって、「主と客」を分けるという事から知識がスタートして行き、それを組み立て、積み上げて行ったのが西洋的思考様式であり、常に「相手と私」を分けて「主と客」を分ける事によって物事を描き出して行くのです。したがって、このアプローチというものは、議論を一般化したり、抽象化したり、概念化する上で物凄く適していて、そのような論理的なパターンの思考から工業化や産業化等が生まれて進展したわけです。西洋社会において、産業革命が発展して来たプロセスも、このようなものの見方や考え方が背景にあるのだという事を彼は見抜いていました。
 しかし、西洋の思想は論理的であると同時に欠点もあります。普遍化したり、標準化するという事を大事にするけれども、それが必ず個々の個性を減らしてしまったり、創造性を統制してしまうのです。西洋思想というものについて大拙は、創造力というものを制約してしまうという欠点があるのだという事を書いています。一方、東洋的な思想は、「主と客」を分けないままに、人間は自然の中に生かされている一部であり、円融自在、つまり、リサイクルのように回っている中で物事は成り立っているのだという思考様式、自然観、時代観というものを持っている考え方だと書いています。要するに、彼は「開かれた心で独りよがりになってはならない」という事を盛んに言っていました。
笑い話のようですが、彼の弟子たちがある時、大拙に「西洋人に禅の心を語っても分かりますか?」聞いたそうです。彼はどのように答えたかと言うと、「君には分かるのかね?」だったそうです。その答えが、彼の持つしなやかさで、彼の頭のやわらかさというもので、私は非常に心を揺さぶられる事があるのです。いずれにしても、鈴木大拙の心も含めて、順次、この番組で我々の先達として生きた人たちが、西洋と向き合って何を考えたのか・・・・・・。私はそのような事が凄く大事な事だと思っています。「独りよがりになってはならない」のです。彼が言い続けた「外は広く、内は深い」という言葉を噛み締めなければならないといつも思っています。

木村>  「外は広く、内は深い」・・・・・・。この言葉を噛み締めて、感じながら考えてみたいと思いました。

(註1、仏教学者。1870年~1966年。
禅について著作を英語で著し、日本、東洋の禅文化を海外に広く知らしめた。主著は「禅思想史研究」、「仏教の大意」、「禅と日本文化」など多数。日本と欧米を頻繁に往来し、仏教や禅思想の研究、普及につとめた)

2009年02月15日

第15回目

木村>  前回の放送では、「2008年で学んだこと」をベースにして2009年への展望を伺いました。その中でもアメリカに端を発した世界的な金融危機と言われるものを振り返りながら世界の秩序が大きく変わって行き、寺島さんが「全員参加型秩序」という言葉を使ってお話になりました。そのような中で私たちがどのように考えて行く必要があるのか、とりわけ日米関係のあり方についてもお話を伺いました。
今朝のテーマは「オバマのグリーン・ニューディール」というものを軸に据えてお話を伺いたいと思います。世界が興奮し、メディアが熱狂した就任式からもう少しで1ヶ月になります。アメリカがいまどのようなところにいるのかというところからお話を伺ってここに転じていきたいと思います。

<アメリカの経済・財政の実状>

寺島>  オバマ政権がスタートして1ヶ月近くが経とうとしていますが、世界中の過剰なまでの期待を背負ってオバマ政権はスタートして行ったと言えます。ここで、改めてオバマ政権が背負っている十字架の重さがいかに大変かという事を確認したいと思います。
彼はアメリカの再生どころか世界の再生をも背負って動き始めています。まず、私はこの政権が背負っていかなければならない赤字について言っておきたいのです。
以前、この番組でお話したように、アメリカはイラク戦争で既に1兆ドルの戦費の負担を余儀なくされています。この先、最終的には3兆ドルかかるのではないかと言われ始めています。そういう事情を抱えている上、金融不安をなんとか解消し持ちこたえるためにアメリカは公的資金を突っ込んででも金融セクターを安定化させなければならない状況にあります。というのは、コミットした保障や融資等のような、あらゆる仕組みの金融セクターをも安定させなければならないわけですから、やがて財政赤字にのし上がっていくであろうというリスクの総額は8兆ドルと言われています。そして、グリーン・ニューディールも含めて「アメリカの再生のため」=「景気浮揚のため」に財政出動をしてアメリカの経済を蘇らせなければならないのです。その主軸のひとつが「減税」であり、「グリーン・ニューディール」のような新しい産業のために政府が金を支出するという事になります。その総額が8千億ドルを超し、それを上下両院が違った案で最終的に調整しなければなりませんでした。最終的な数字は確定できませんが、少なくとも8千数百億ドルの財政出動をしてでも持ちこたえなければならない事になるのです。

木村>  日本円で80兆円を越えるという事ですね?

寺島>  はい。これは単純に足し合わせても12兆ドル・・・・・・。日本のGDPの2年分を越えるような額が、財政負担にのしかかるものを背負ってこれから動き始めようとしているのです。そして、事実、昨年のアメリカの財政赤字は4,548億ドルでしたが、2009年度は1兆6千億ドルを越す見通しです。つまり、1兆ドルを超す財政赤字を今後、数年間余儀なくされるだろうと言うわけです。そうなると、財政赤字を埋め合わせる方法が必要で、当然の事ながら国債を発行しなければならないわけです。実際に、2009年度も丁度その財政赤字に相当するような1兆6千億ドル規模の国債の発行が予定されていると言われています。
アメリカという国はご存知のように国内の貯蓄が殆ど無い国です。そうすると、「誰が国債を買うのか?」という話になりますが、国債を買う余力が国内で無いために、それを海外に依存しなくてはならないのです。事実、アメリカの国債を一番持っているのは中国と日本です。今まではオイルマネーであったけれども、そのオイルマネーの分がドーンと縮んでしまっていて、国債の発行の受け皿を日本や中国等に求めざるを得ないのです。間もなくヒラリー国務長官が最初の訪問国として日本にやって来ますが、それと言うのも、腹の中には、日本及び中国に国債を依存しなければならない事情があるからです。中国はアメリカの国債を支える事はいかがなものかとためらっていますので、アメリカとしては、最も期待をしたい相手先として日本というものが見えて来るわけです。
そこで、国債の発行がどんどん大量になって来ると、当然の事ながら国債の値下がりがあります。既に、国債が大量に発行されるであろうという事を想定してアメリカの長期金利がスーッと上がって来てしまっています。そして、長期金利が上がると景気を抑制する事になるであろうし、更にはそれが利払いとなって負担となり、アメリカ経済にのしかかるという事も充分に想定出来るのです。したがって、そのような事になると、ドルの下落をもたらしてアメリカにとって、国債に依存してまで景気を浮揚する事が、果たして長期的に見て正しいのかどうかという微妙な問題をも孕みながらも、「そんな事は言っていられない」というのがアメリカの状況なのです。いまは財政出動、つまりニューディールで公的資金を突っ込んでも景気を浮揚しなければならないというところに来ています。そして、世界中はむしろ、それを待ち望んで歓迎しているかのような空気で走っているけれども、「進むも地獄」という部分があって、果たして、国債を発行してまで、巨大な財政赤字に耐えて進んで行くという事でよいのだろうか? という問題意識が依然として強く残ります。しかし、そうまでしてでもアメリカは景気の浮上、アメリカ経済のパラダイム転換を図らなければならないという強い想いが「グリーン・ニューディール」という言葉に込められているのであろうと思います。

<グリーン・ニューディール政策について>

寺島>  そこで、「グリーン・ニューディール」の中身は何かと言うと、再生可能エネルギーによって、アメリカのエネルギーの供給構造を転換するという事が大きな柱になっています。したがって、環境に優しいエネルギーという意味で「グリーン」なのです。具体的には、「太陽光や風力やバイオマス(註.1)等にアメリカのエネルギーの供給力を持って行こう」という構想が見えて来ています。オバマは何回もその言葉を使っています。しかし、ここで確認しておかなければならない事は、現在、2007年の数字が出ていますが、アメリカの一次エネルギー供給は、石炭と天然ガスと石油で78.8%。つまり8割が化石燃料に依存しています。そして、原子力が11.7%ですから、合計して9割近くが化石燃料と原子力によって、アメリカという国は回っているという事になります。
一方、再生可能エネルギーは、水力が3.4%、地熱が0.5%あります。太陽に至っては0.1%、風力に至っては0.4%です。そして、バイオはご存知だと思いますが、アメリカが「バイオマス・エタノール」という、とうもろこしから取ったエタノールをガソリンに混入して車を走らせていて、カリフォルニア州では10%以上も混入しており、かなりバイオの比率が大きくなっていますが、それでも総じて5.0%なのです。したがって、太陽と風力とバイオを合わせて、わずか5.5%なのです。その5.5%の話を悪い言いかたになりますが、「針小棒大にアメリカが再生して行くための大きな鍵なのだ」と表現するのはいかがなものかとエネルギー問題に深く関わっている専門家ほど考えます。バランスのとれた判断をするならば、5%の比重しか占めていない再生可能エネルギーをこの先、死に物狂いで研究開発したとしても、アメリカのエネルギーの2割くらいまで持って行くとなると、とんでもなく大変な話である事は、当然のことながら見えてくるわけです。
私は国家エネルギー戦略の策定に2年前まで参画していて、日本の再生可能エネルギーと省エネルギーによって、例えば、10年、20年先の日本の一次エネルギー供給を5%なり、10%まで持って行く事がどれほど難しい事か、色々とシミュレーションをした数字を見て来ましたから、オバマが「グリーン・ニューディール」と言って、アメリカを変えて行く一つの目玉として、再生可能エネルギーに懸けるのだと言う話は、冷静に言うと、「本当にそのようなものが大きな意味を持つのだろうか?」と疑問を持つのが常識的な考えかただと思います。
しかし、私は「待てよ」と考え直したいのです。何故かと言うと、これは意外に大きな世界史の転換点になるのかもしれないという視点が一方にあるからなのです。どういう意味かと言うと、「20世紀はアメリカの世紀」という言いかたがあるのですが、アメリカは世界の中心に産業力を以って躍り出て来ました。その中心になったのは、例えば、T型フォードという車を生み出して、「内燃機関」=「ガソリンを焚いて走る車」をつくりました。しかも、それを大量生産、大量消費をする事でアメリカが世界の産業の中心に躍り上がって来たのです。アメリカでは、「アメリカ国家の花はカーネーションだ」という言葉があるくらいです。つまり、「車の国」=「car nation」だと言うジョークですね。要するにそれほどまでに車社会をリードして来たアメリカであったわけです。
そのアメリカの虎の子産業でもあった車産業が立ち行かなくなって来ているのです。それと言うのは、内燃機関をベースにした自動車社会の仕組みが大きな転換期を迎えているのではないのかという見方があるからです。そこで、ビッグスリーも日本のメーカーも、いまは内燃機関でガソリンを燃やして走る車ではない、電気によって走る仕組みの自動車にするというように、自動車という社会も大きく変わろうとしているのかもしれないのです。電気自動車に太陽や風力等の小型分散型発電でエネルギー全体を賄うのは不可能だと考えがちなのですが、そこで、「ネットワーク」が大変重要なキーワードになります。つまり、ITのような技術を駆使しながら、小型分散に見えるものを繋いで、新しい電気自動車等に供給する仕組みをつくって行くと、アメリカの20世紀を創り出して来た、内燃機関によって自動車を走らせて大きな産業の柱にして行くというものを方向転換させてしまうのかもしれないという予感を感じさせるのです。そこで、私がここで申し上げたい一番大きな問題意識は、私たちは「IT革命」という言葉を繰り返し使って来ましたが、それをもう一度思い出なければならないという事です。
「グリーン・ニューディールがIT革命に相当するような、歴史的、技術的なマグニチュードを持ち得るような話なのか」という事です。

<グリーン・ニューディール政策の可能性>

寺島>  1975年にサイゴンが陥落して、アメリカは、70年代の後半から80年代にかけて、いわゆる「ベトナム・シンドローム」でのたうち回っていました。そして、あの頃も実はアメリカの再生が言われていて、「もうアメリカはダメだ」という議論が満ち溢れていました。80年代後半はアメリカの衰亡論一色だったのです。あの頃は、「アメリカは衰亡していくだろうか」と見ていた人たちが多かったのですが、現実に、1990年代に入って我々が目撃したのは「蘇るアメリカ」だったわけです。そして、アメリカを蘇らせた大きな鍵が、「技術パラダイムの転換」であり、それが「IT革命」だったのです。つまり、今日で言う、「インターネット」の登場に象徴されるような情報技術革命です。
情報技術革命には深い意味があって、アメリカが軍事技術として開発したインターネットの基盤技術を、冷戦が終わって民生で活用して行こうという流れが興って、軍事技術の民生転換のシンボルのような話として進行した事が、実は「IT革命」だったのです。インターネットの基盤技術は、何のために出来たのかと言うと、中央制御の大型コンピューターによって防衛システムを管理していたのならば、仮にそこにソ連から核攻撃を受けると、中央コンピューターが壊れてしまって総ての防衛システムが全く機能しなくなってしまうので、「分散系開放系」と言って、一つの回路が遮断されてしまっても柔らかく情報が伝わるような仕組みをつくる事からインターネットの基盤技術であるパケット交換方式交換情報ネットワーク技術の研究開発が進んでいったのです。それが1969年にペンタゴンのアーパネット(註.2)というシステムになって完成し、80年代末になって、これからは冷戦が終わって民生用で活用して行くことになり、1993年、いまから15、6年前に、いわゆる商業ネットワークとペンタゴンのアーパネットワークがリンクする形になりました。つまり、ITを梃子にした様々な産業やプロジェクト等が生まれて、そこで世界中のお金を新しい魅力的な投資機会があるという物語が「IT」という言葉によって生まれて、アメリカにお金を引き寄せる事になりました。そして、90年代には「衰亡するアメリカ」ではなくて、「蘇るアメリカ」というシナリオをつくって行ったのです。何故、私がこのような話をしているのかと言うと、いまそれに相当するような「マグニチュード」=「起爆力」が「グリーン・ニューディール」という言葉の中にあるのだろうか? と、私自身が自問自答しているからです。
90年代のアメリカを蘇らせる起爆力になったIT革命は我々の生活をすべて変えたと言ってもいいような流れ、うねりのようなものをつくりました。それと同じようなマグニチュードがある話に「グリーン・ニューディール」が繋がるのだろうかという事が私の自問自答です。つまり、アメリカの一次エネルギー供給のわずか5%に過ぎないような話を、逆立ちしてもそれを20%に持って行く事は難しいだろうというのが、プロフェッショナルな人たちのクールな見方なのですが、「そうでもないかもしれない」という想いがあるのは、IT革命がスタートして行った頃に、クリントン政権の第一期のゴア副大統領は環境問題に大変熱心で、彼が「情報スーパーハイウェイ構想」というものをぶち上げた時に、あれは日本の情報ハイウェイ構想を真似している程度の話で、大した話ではないと考えていた人が大半だったと思います。しかし、その後、情報スーパーハイウェイという情報のインフラ部分のプロジェクトとネットワーク情報技術革命という新しい技術パラダイムの転換が繋がった時に世界が変わったのです。わずか15年の間に、「ユビキタス」(註.3)という言葉も登場して、いまや、「クラウド・コンピューティング」(註.4)と言って、まさに何処でも、誰でも、いつでもネットワーク環境に繋げるような大きなパラダイム転換が起こったわけです。その周りに様々な事業モデルが生まれて、「ITバブル」というような事があり、様々なプロジェクトが動いたのですが、果たして、「グリーン・ニューディールがそのような引き金を引く事になるのだろうか?」という微妙な判断の問題があります。しかし、「ひょっとしたら」という予感があるのは、つまり、20世紀のアメリカを支えた自動車産業が、環境問題等を背景にして電気自動車のようなものに大きく変わらざるを得なくなって来ている状況を踏まえて、小型分散的仕組みに過ぎないと見られがちであるけれども、それをネットワーク技術によって繋ぎ合わせて、再生可能エネルギーによって電気自動車を走らせるという仕組みにアメリカが変わり、世界を変えて行ったのならば、いま我々が見ている世界とは全く違った産業や技術等が繰り広げられる時代が来る可能性は十分にあるのです。
したがって、ここで私が確認したい事は、冷静、客観的に現実というものを直視しておく目線と、もしかしたら物事の大きな転換の始まりはこのような事から始まるのかもしれないと言う、しなやかな見方の両方を持っていなければならないという事です。しかも、一旦決意すると、アメリカは研究開発費に突っ込む数字の額が日本と比べると一桁違います。現在、太陽光でも風力でもバイオでもアメリカには技術基盤がそれほどないのです。むしろ、日本のほうに技術基盤があります。この分野に真剣に蓄積して来たものがあるからです。例えば、風力発電と言ってもプロペラを回すカーボン・ファイバーの技術は、日本がずば抜けて持っているし、バイオマス・エタノールにおいては、とうもろこしやサトウキビから抽出するナノ・テクロジー等、日本の持っている技術基盤は本当に大変なものがあります。
太陽電池や太陽コレクター等も日本がドイツと共にですが、前に出ている部分があるわけです。そこで、技術だとか産業だとかという分野において、また、国債の負担を買い支えていたという事も含めて、日本こそがアメリカを支えていた部分があり、これから、オバマが「グリーン・ニューディール」をやろうとすればする程、日本に依存せざるを得なくなるという構図の中にあるという事実が重要なポイントであり、認識しておく必要がある点なのです。

木村>  大統領が「グリーン・ニューディール」と言うけれども、自然のエネルギーによって発電した電気を送電するためのネットワークをつくるために桁が違うようなお金をかかるのに、そのような事も考えられていないという議論にばかりなっているのだけれども、もっと大きなところで「世界史的な転換」という視点で考えると、また違った議論のフィールドが開かれていくという事で、そこで日本がどのような役割を果たしていくのかというところに可能性が見えて来るのですね。
 

(註1、枯渇性資源ではない、現生生物体構成物質起源の産業資源をバイオマスと呼ぶ。国が定めたバイオマス・ニッポン総合戦略では「再生可能な、生物由来の有機性資源で化石資源を除いたもの」と定義されている)
(註2、ARPANET<アーパネット>は、1969年にアメリカ国防総省の行動科学研究部門IPTO <Information Processing Techniques Office:情報処理技術室>による指揮の下に構築された研究および調査を目的として設けられたコンピュータネットワークである。今日のインターネットの原型として知られている)
(註3、それが何であるかを意識させず(見えない)、しかも「いつでも、どこでも、だれでも」が恩恵を受けることができるインタフェース、環境、技術のことである。 ユビキタスは、いろいろな分野に関係するため、『ユビキタスコンピューティング』、『ユビキタスネットワーク』、『ユビキタス社会』のように言葉を連ねて使うことが多い)
(註4、クラウド・コンピューティング <cloud computing> とは、インターネットを基本にした新しいコンピューターの利用形態である。ユーザーはコンピューター処理を、ネットワーク<通常はインターネット>経由で、サービスとして利用できる)

2009年01月25日

第14回目

2009年1月24日OA分寺島実郎の世界

木村>   先週から「2008年で学んだ事~2009への展望~」という大きなテーマ設定でお話を伺っています。先週のお話の最後に、「全員参加型秩序」に触れました。そこで、そうした世界の中で日本がどのように生きて行くのかという事に関わると思うメールがラジオネーム、オバマニアさんから届いています。「毎週楽しみに聴かせて頂いています。1年前に最高益を出したメーカーが赤字に転落するなど、日本もあちこちで悲鳴が聞こえてきます。信用不安のせいもありますが、為替レートや原油相場の変動でこんなに経営が左右されるビジネスはつらいですね。オバマ政権はグリーン・ニューディールという産業政策を立ち上げて、新しいマーケットをつくろうとしています。軌道に乗るまでには税金を相当突っ込んで政府もしばらく財政的にコミットし続けなければなりませんね。300万人近くの『JOB=ジョッブ』の創出の世話をしながらGMなどの面倒を見るのは大変難しいですね。アメリカで立ち上げた分野でも日本も追従、いや日本の先端技術がむしろ世界をリードするという感じで推移してもらいたいですね」という内容です。つまり、日本のこれからのありかたにも期待をしているということですね。
そこで、もう一度、「世界が変わる」という中で「全員参加型秩序」、或いは「無極」という言葉も寺島さんから語られました。そういう世界は、一体どのような事を我々に求めて来るのか? 逆に、我々にその世界に立ち向かう時にどんな事が必要なのか? そして、その中で日本はどう生きて行くべきなのか? というところにお話を深めたいと思います。

<全員参加型秩序の中の世界経済>


寺島>   全員参加型秩序を一言で言うのならば、「様々な立場や様々な背景を背負った人たち全員が発言し始める状況」です。まさに、ネット世界での「WEB2.0」ではないですが、今まで受け身で、例えば、番組や放送を聴いていた人たちが自らの新しいIT技術を使って発信し始めるような状況と全員参加型秩序がちょうどかぶって来るのです。
そこで問題は、全員参加型秩序にも大きなルールをつくって行く必要があるという事です。また、制御して行く必要があるとこの間から繰り返して言っていますが、筋道の通った理念性が全員参加型秩序においては重要であり、力で押しつけて「俺の言う事をきけ」という形では、ルールや秩序を保ち得ないのです。「非核平和主義」という日本のスタンスを例にとって話せば、一部の人たちは非核平和主義は力と力がぶつかり合う国際社会の中で綺麗事の話に過ぎず、世界はそんなわけには行かないだろうから結局、軍事力無き大国はないと言うか、「軍事力が無い国は世界において発言力が限られているのだ」という自虐的な議論をする人もいたくらいでした。しかし、これからの全員参加型秩序の時代は理念性が重要になって来ます。例えば、イスラエルの混乱や中東の秩序の液状化という事態に力を持ってこの問題を解決しようとする人たちが味わう事は、アメリカがイラクで味わっているような徒労です。やはり筋道の通った理念性という事が重要になって来ます。例えば日本の非核平和主義は、日本が国連の常任理事国になろうという気持ちをもし持っているとするならば、他の常任理事国は全部、核を持って核の恫喝で自分の国の存在感を高めようという方法の中にあるけれど、日本は「核を持たない国」を大きく代弁しながら、世界中のそのような姿勢を価値あると感じる人たちを背中につけながら世界に向けての発言力を高めて行く事が出来る大きな時代の転換点に来たとも言えるわけです。したがって、非核平和主義という何か絵に描いたような綺麗事に見えたものが、日本が世界に向けて発言力を高めて行くには、このような時代における大きな日本にとっての「ツール」=「武器」になります。
そのような時代の転換点に今、世界はあるのかもしれないという事が大変重要です。そのような世界状況にありながら日本全体に漂っている気分という意味で日本人がどんな事に対しても悲観的だという事が問題になります。例えば、昨年の初めに我々が心配していた事は、「ひょっとしたら原油価格が100ドルに上がってしまうかもしれない」でした。事実、100ドルどころか147ドルにまで一回行きました。それが年を明けてみたら今度は落ちている状態で、昨年は結局、年初に比べて58%、ニューヨークのWTIは落ちました。
つまり、原油価格が上がっても悲観、下がっても悲観。そして、為替が強くなっても悲観、弱くなっても悲観というのが日本人の一つの特色なのです。「冷静になりましょう」という事なのですが、まず、原油価格が下がっているという事は、これほどまでにエネルギーを外部依存している日本にとっては物凄くポジティブな要素です。そして、自分の国の通貨の国際的な交換価値が高まっているという事は、基本的には大変素晴らしい事なのです。例えば、韓国のように1年間でウォンの価値が半分になってしまったらそれこそパニックに陥ります。つまり、ウォンで買えるものが半分になったという事ですから・・・・・・。日本は逆に言えば、昨年1年間で25%円がドルに対して強くなりました。これは、つまり、25%安く世界から物が買えるという事でもあるわけです。
 日本でいま漂っている悲観論の要因というものは、企業の業績が物凄く悪くなったという風評です。しかし、これは「輸出依存している企業の業績が物凄く悪くなった」と言い替えるべきで、実は声を出さないけれども、電力会社やガス会社等の企業にとってみれば、現実の姿は物凄い追い風の中にあるのです。したがって、追い風の中にある企業もあるし、逆風の中にある企業もあるという事です。日本全体の経済が輸出に過剰依存している経済構造の時代において、円高は物凄い逆風だと捉えるべきですが、日本経済は必ずしもそうではなくて世界に大変な金融資産を持っていますから円の価値が高まっているのは決して悪い事ばかりではありません。私が海外を動いていて質問されるのは、「この先身震いするくらいに日本は戦略的に円高を活用して来るのだろう。次にどうしますか?」です。これだけ円が強くなって、欧州へ行ってもアメリカ人がやって来て、「日本は円高を戦略的に活用して次にどう動くのか?」と聞きます。自分の持っている資産の価値が海外に持ち出した時に25%も昨年と比べて高くなっているわけですから、25%ディスカウントした状態で企業も技術も買えるわけです。そのような状況で「何故日本が悲観しているのか?」という事が世界の疑問なのです。
要するに、冷静になって発想を変えてみれば、国際金融市場における日本の円の価値をいまこそ高めておくべきなのです。この間の金融サミットが行われた時に日本人がいかに固定観念に捉われているかという事を炙り出してしまいました。IMFを支えてドルを唯一の基軸通貨として持ちこたえて、IMFに10兆円の資金を供与してでもアメリカを中核とした一極体制を支えなければならないと思い込んでいる事が日本のいまおかれている悲しみだと思います。国際通貨の世界において、円だけが基軸通貨になるなんていう事はありえませんが、円もユーロもドルも、要するに多様な通貨がバランス良く世界を支えて行くという時代に向けて新しい構想を展開すべき時期に来ているわけです。つまり、一時代前の「日本は輸出立国だ」、「日本はアメリカに依存して生きている国だ」という固定観念から、更に「ドルが揺らげば日本が悲観する」というような「ヴィジョンと構想力の欠落」という言葉を使わざるを得ないような状況から脱出する必要があると思います。
私は日本のおかれている状況を全く悲観していません。何故かと言うと、オバマが「グリーン・レボリューション」を言い始めて「グリーン・ニューディール」を提唱していますが、日本は1973年の石油危機以降、二度の石油危機を越えて37%のエネルギーの利用効率を高めたのです。これは世界にも例を見ない事です。それは、エネルギーを外部に依存しているために利用効率をひたすら高めて来たからです。それを更に3割、2020年までに高めるという事が、いま国家エネルギー戦略の一つの柱にもなっています。要するに、省エネルギーと言う時代が来る時に一番先端的な技術基盤を蓄積した国は何処かと言うと、日本であり、再生可能エネルギーにおいてはドイツよりも前に太陽エネルギーを考察しています。ドイツが大本気になって再生可能の方にかけた事でドイツの技術基盤も大変尊敬すべきものになっていますが、日本の太陽光発電や太陽エネルギーの利用技術は大変高度なものですから「流れは日本に来ている」という一面もよく知らなければならないと私は思っています。

木村>   経済の力はとても大切な力なので、私たちはここのところを色々な変数と言うか方程式が多元方程式になったところでキチンと見る力が必要だという事がよく分かります。そのところを基礎にして「変わる世界」、「日米関係」となった時に経済だけではなくて、例えば駐日大使にジョセフ・ナイ(註.1)さんの名前もあがってきて、彼は日本の事をよくご存知です。そういう時に、日米関係のあらためて「変わる世界」の中で我々が問われるものは何なのでしょうか?

(註1、ジョセフ・ナイ(Joseph S. Nye, Jr. 1937年 - )は、アメリカ合衆国を代表するリベラル派の国際政治学者で知日派として知られる。ハーバード大学特別功労教授。またアメリカ民主党政権でしばしば政府高官を務めている)

<オバマ政権のアメリカとの日米関係>


寺島>   私は今回のオバマ政権のいわゆる外交関連人事を見て、いま木村さんがおっしゃったジョセフ・ナイが日本の大使になるかもしれないという状況になって来たり・・・・・・。これはライシャワーが日本の大使をやった時以来、分かり易く言えば日本の事を物凄くよく知っている人を選ぼうとしているという気配を感じるわけです。そして、カート・キャンベルが国務次官補をやるという人事にもまた同様の感想があります。彼はヒラリー・クリントンが引っ張って来たと思いますが・・・・・・、私は彼が「CSIS」=「国際戦略研究所」にいた時から大変に親しくしていて、彼がとても日本の事をよく知っている人間の一人だという事を知っています。そのような人間が国務次官補に登場して来るということ自体が、この政権は中国にシフトして行くのではないのかという懸念が語られていましたが、意外とそうでもないところをまず見せて来ています。
更に、そのような事を踏まえて、「日米関係はどうなるのか?」という話をしましょう。日本人は被害妄想のようになって、「日本がバイパスされて、米中関係だけが強くなって行くのではないのか?」という考え方を取り上げがちですが、私が重要だと思うのは、「日米関係がどうなるのか?」という問題の立て方から脱却して、「日本がどのようにして行こうと思っているのか」という発想の転換なのです。私がワシントンに行くといつもからかわれるのは、日本人がやって来ると「オバマ政権になったら日本との関係はどうなりますか?」という取材を連日受けるのですが、「じゃあ、あなたはどうしたいと思っているのですか?」と言うと、回答が返って来ないと言われます。要するに、日米同盟の基軸と言われている安全保障条約をどのようにして行くのかとか・・・・・・。例えば、米軍の再編が行われている中で、将来のあるべき日米関係を考えて、在日米軍基地や地位協定等をどのように見直して行くのかという事について「日本が何を主張するのか」という事の方が物凄く重要なのです。私はよく、「愛されたいシンドローム」という言葉を使いますが、戦後60年の日米関係の中でいつもアメリカ頼りで生きて来たために、「僕って本当に愛されているのだろうか?」という事ばかり心配をして、自分自身がこの関係をどのようにして創造的により信頼の高いものにして行くのかという事について構想する力を持つ事が出来なくなっているのです。球は向こう側にあるのではなくて、日本側にあるのだから日本として日米関係をどのようにして行きたいと思っているのか・・・・・・。例えば、経済において自由貿易協定を日米関係で結ぶ事についてどう構想するのか。私はもう20年近く、日米の自由貿易協定をどこの国よりも早くやるべきだと言っていましたが、韓国とアメリカの自由貿易協定(註.2)の方が先だったとか、アジアの国々との方が先行してしまいました。日米関係とは実に不思議な関係で、60年以上もこれだけの同盟関係を持ちながら、軍事片肺同盟なのです。つまり、軍事については安保条約を持っているけれども、経済に関しては、ほとんど協定らしい協定は無いのです。したがって、もっともっと創造的な日米関係、更に言えば、私の意見は軍事的な協力関係においては、もっと相対化して適切な間合いを取って行き、日本における軍事基地を整理縮小して行く流れをつくりながら、一方では経済の関係は日米のより信頼関係を高める二国間の経済協力協定のようなものに踏み込んで行く・・・・・・。私はこの両建てのシナリオが正しいと思います。このような事にキチンと目を向けて議論出来るような関係をつくる事が出来るのかどうかが大事で、「アメリカは私を大事にしてくれるのだろうか?」と言う話を問いかけている限り、この国の幸福は来ないという事が私の言いたい事です。

木村>   アメリカの新しい政権がスタートする事によって、その顔ぶれからも一体、日本は何を考えて、どうアメリカとの関係を結びたいと思っているのかという事がいよいよ問われるという事を我々は知らなければならないのですね。

(註2、2007年6月30日、米国および韓国両政府は、自由貿易協定に署名をした。最終的に発効するには双方の議会による批准だが、発効すればほとんどの品目で相互に輸入節税を撤廃することになる)

<後半>

木村>  続いては「寺島実郎が語る歴史観」です。このコーナーでは寺島さんのお考えの基礎となっている歴史についての考察を深めて伺おうという事です。前回、昨年になりますが「日仏の交流150周年」という事でフランスが私たちにとってどんな存在であったのか非常に目を開かされました。今朝のテーマは「日本人で初めて世界一周をした人~日露関係の深さ~」です。なんだか少し、クイズのようなテーマですね。

寺島>   そうなのです。この間、私は長崎に行って、びっくりするものを見つけたのです。それは何かと言うと、最初に「気球」=「バルーン」を打ち上げた場所の記念碑が長崎にあったという事です。1805年、つまり、いまから204年も前の話になりますが、ロシアのレザーノフという使節の一行が長崎にやって来て、勿論、江戸時代ですが、それについて来た医者の人が日本の和紙でつくった気球をみんなが見ている前で空に打ち上げたと書いてあるのです。私はその時に思い出した事がありました。それは、ロシアの西の出口と言われているサンクトペテルブルグに行った時に調べた話の中で不思議な事があって、1803年、つまりレザーノフがやって来た、たった2年前にサンクトペテルブルグで日本人が気球を打ち上げるのを見たというという記録を読んだのです。これは何の事かと言うと、宮城県の仙台の漁師が太平洋で難破してカムチャツカに流れ着いて、その人たちがロシア、つまりユーラシア大陸を横断してサンクトペテルブルグに連れて行かれて、その時の国王、ロマノフ王朝の王様と一緒になってパリからやって来ていた気球師が気球を打ち上げるショーを見たという記録があるのです。そして、私はハッと気がついて調べ直してみました。すると、その4人の日本人がレザーノフの一行と共に長崎まで送り返されて来たという事実が明らかになったのです。つまり、この4人こそ「日本人として地球を一周して来た最初の人」という事になるのです。つまり、1805年に長崎で気球を打ち上げたレザーノフの一行と共に漁師4人が日本に送り届けられたという事です。
「この話は何だ?」という事なのですが、要するにロシアでは我々が思っているよりも遥か前から、ロマノフ王朝の頃から極東に関する関心が物凄く高まっていて、いま申し上げた話は1805年ですが、それよりも100年前の1705年に同じく、大阪の船乗り伝兵衛がカムチャツカ半島に流れ着いて、サンクトペテルブルグに連れて行かれてピョートル大帝に面談をしたという事実があります。そして、ピョートル大帝の命令によって1705年、いまから304年も前の話ですが、日本語学校をサンクトペテルブルグにつくっているのです(註.3)。
つまり、300年も前からロシアは極東に対して大きな関心を高めていたのに、我々の歴史観は常に「1853年のペリー浦賀来航から日本の近代史は始まった」なのです。ペリー来航は、レザーノフがやって来て長崎で気球を打ち上げてから半世紀も後の話です。後になってやって来たのがペリーなのですが、それよりも50年も前にレザーノフが来て、更にその100年前にサンクトペテルブルグに日本語学校が出来たわけです。つまり、「ユーラシア国家」=「ロシア」ではないですが、ロシアは帝政だった時代から極東に対する野心とも言えるべき関心をどんどん高めているわけです。そこでロシアとの関係を安定させて安全なものにして行く事が日本の戦略にとって凄く重要になって来ます。ロシアと正面から向き合いながら、どのような安定した成熟した関係をつくれるのかという事が、多分、21世紀の日本の外交の大きなテーマになって来るだろうと思います。この事を私はその歴史観の中でお話をしておきたい主旨です。

木村>   お話を伺いながら驚きもありました。それと共に我々が「国際感覚」という言葉で何かを語る時に、色濃くアメリカに向いてものを考えるという思考方向に陥っている・・・・・・。さて、それでいいのか? と非常に鋭い問題提起としてこのお話も伺いました。ありがとうございました。

(註3、現在のサンクトペテルブルグ大学日本語学科の前身)

2009年01月18日

第13回目

2009年1月17日OA分寺島実郎の世界

木村>   昨年は「世界の動き、時代がどこへ向かっているのか?」という寺島さんのお話を伺いました。色々と気持ちも沈む世界状況の中で、日本はとても広い海の面積を持っている海洋国家であり、そこに眠る海洋資源というものを開発する事によって日本の新たな産業の方向性が見えるというお話で元気を出して新年を迎えました。
 今朝のテーマは「2008年で学んだ事~2009年への展望~」となっています。つまり、世界と日本は大きく変わるけれども、この「変わる」という事をどう捉えるかが重要だと思います。

<冷戦後の世界構造の終焉>


寺島>   私は新年を迎えて考えてみましたが、結局、去年は世界がマネーゲーム経済の結末を迎えたのだと言えると思います。
2002年頃に世界の金融資産の総額は123兆ドルと言われていましたが、それがどんどん膨らんで行き、金融資産が過剰流動性で風船がどんどん膨らむように2007年の段階では194兆ドルまで膨らんでいました。したがって、70兆ドルも世界中の金融資産が膨らんだ事になります。それが、サブプライム問題をきっかけにして、「リーマン・ショック」等があり、弾けてそれが148兆ドルにまで縮んだと言う数字が出て来ています。要するに、世界の金融資産が70兆ドル一気に増えていたものが50兆ドル近くまでボーンと弾けて縮んだという事になります。つまり、マネーゲームが破綻して、パンパンに膨れ上がった金融資産が炸裂して、その風船が縮んでいる状態にいまはあるのですが、その傷口に絆創膏を貼るように塞いで、世界が金融恐慌に陥らないように必死になってまた新たに風船に空気を入れているような状態にあるというのが現下の状況だと思います。
特に、昨年末の12月にアメリカはついにゼロ金利というところまで金融を緩和して、金融の流動性不安を起こしてはならないという事で量的にも緩和して新たな金融を突っ込んで行っています。そして、世界各国は財政出動です。
そこで、深く考えてしまうのは、今年金融資産が縮んだ状態に象徴されるように、過剰流動性がエネルギーや食糧等の価格を昨年半ばまで引き上げていたのがズドーンと落ちてしまいました。また新たな過剰流動性がどこに向かうかによって、私が注目したい事は「反動高」です。要するに、再び膨らんできた過剰流動性が向かう場所によってはエネルギー価格がドーンと跳ね上がって行くとか、再び食糧の価格が上がって行くような「乱高下」=「シーソーの様な状況」になるのではないかという注目点が一つあります。
ここでポイントとして押さえておきたい事は、「変わったと言われるけれどもまた元の木阿弥」で、つまり、またぞろ新たな資源高、エネルギー高という方向に向かうような流れに再び流動性が膨らんで行くかもしれない転換点にあるのだという認識が非常に大事だと思います。
もう一つは、本質的に変わって来ていると思う事を触れていきたいと思います。やはり、昨年一年経ってみて、アメリカという国の存在感が急速に萎えたと言いますか、存在感を低下させた一年間だったと思います。この番組で何回も触れて来たように、我々は冷戦後の時代、1989年にベルリンの壁が崩れ、91年にソ連が崩壊して以降の時代を生きて来ています。89年に生まれた人たちが今年、成人を迎えるという20年を過ごしてきたわけです。その冷戦後の時代を一言で言うと、「東側に対して西側が勝って、つまり社会主義圏に対して資本主義圏が勝って、アメリカが資本主義国家のチャンピオンとして世界の中核となって世界秩序をリードして行く時代であろう」という認識です。アメリカを中心とした世界秩序が21世紀の世界秩序だと思い込んで、ひたすらこの20年を生きて来て、要するに「アメリカのような国づくりをして行く事」。例えば、競争主義、市場主義に徹した国、規制緩和というような方向を目指そうという事が多くの人たちのそこはかとないヴィジョンと言いますか、方向感覚だったと思います。
しかし、そのアメリカ自身が大きく行き詰って、自ら蒔いた種とも言えますが、サブプライムのような問題を引き起こして世界の金融不安の震源地になってしまったのです。そして、「アメリカを中心とした世界秩序が急速な勢いで崩れて来ている」という事が昨年の私の総括で、特に、2008年の集約した数字として、これは少しややこしい話に聞こえるかもしれませんが、アメリカの経常収支の赤字が6979億ドルで、資本収支の黒字が6832億ドルでした。これはどういう意味かと言うと、経常収支の赤字を続けてもアメリカは成り立っていたのです。つまり、国際収支の巨大な赤字をつくり出しながらもアメリカが成り立っていた理由は、資本収支の黒字は世界からアメリカにお金がまわる度合いのほうが大きいからです。この番組でも言った事がありますが、下血が続いているけれども、輸血量のほうがもっと多いから血液がうまく回っている状態だったのです。したがって、アメリカが本来持っている経済の実力以上の消費や軍事力を維持していられる理由も分かり易く言えば、アメリカに世界のお金が流れ込むというメカニズムに支えられていたという事です。しかし、数字で検証しても、「ついに流れ込むお金のほうが少なくなってしまった」という事が先程の数字の意味なのです。

木村>   先程の数字をもう一度繰り返すと、経常収支の赤字が6979億ドル。

寺島>   赤字の垂れ流しですね。

木村>   そして、資本収支の黒字が6832億ドル。

寺島>   ついに入って来る血液のほうが47億ドル少なくなり、要するに血液が足りなくなる、身体を回すだけのエネルギーが生まれなくてアメリカという国を支えていた世界のお金がアメリカに向かわなくなったというわけです。何故ならば、ゼロ金利状態ではアメリカにお金を持って行っても金利の差を得られなくてお金を運用する旨みがないのです。更には、アメリカにお金を持って行っても、投資をした対象がサブプライム入りの金融商品だったという事に凍りついてしまって世界の信用がアメリカに向かわなくなってしまいました。その事が盛んに言われていましたが、数字で明らかにアメリカにお金が回らなくなっているのだという事がはっきりして来たのです。したがって、そこから「アメリカは世界の一極支配だ」、「唯一の超大国としてのアメリカ」と言われてきましたが、「アメリカが世界の唯一の超大国」という時代が終わったという意味において、世界が構造的に大きな転換期にさしかかっているという事を我々は確認せざるを得ないのです。何故、このような話にこだわるのかと言うと、例えば日本もアメリカが唯一の超大国であり、世界の中心であり、そのアメリカとの連携で日本も生きて行くのが良いという判断のもとにこの国の舵取りをして来たわけですが、その前提が大きく変わって来ているという事に対する認識が物凄く大切なわけです。

<2009年以降の座標>


寺島>   そして、その事を象徴するような数字がついに出て来ました。まだ1月から11月までの数字でしかありませんけれども、昨年の日本の貿易相手の比重で、米国との貿易比重はついに13. 9%に下りました。要するに、日本の輸出と輸入を合算した貿易総額に占めるアメリカと貿易をしている割合が13.9%です。前年は16.1%でしたが、16.1%でもみんなびっくりしていました。かつてアメリカと貿易する事が日本の貿易の柱だったのですが、そういう時代を生きて来た人は、「アメリカとの貿易がわずか16.1%になってしまったのだ」と昨年はびっくりして話をしていました。それが、更に加速度的に落ちて来て、13.9%になっています。12月までの数字が出て来ても多分同じでしょう。日本の対米貿易が占める割合は14%を割ったという事になると思います。
そうすると、「日本は今一体どの国と貿易をして飯を食べているのか?」。これは、この国の生業にかかわる事です。それが、アジアとの貿易が日本の貿易の45%で、とりわけ中国なのですが17.3%で対米貿易を超えて中国との貿易が米国との貿易よりも大きくなっています。更に、アジアとの貿易が日本の貿易の半分を占めるように迫って来ているのです。ユーラシア大陸との貿易にいたっては、7割になります。つまり、我々の世界観と言うか、日本の国際関係を議論する上で絶えず認識しておかなければならない大きなポイントは、「日本という国はどういう国との経済関係によって経済を成り立たせている国なのか?」という事です。戦後の日本はアメリカとの貿易でこの国を成り立たせて来たようなものなので、それが固定観念のようにこびり付いていて、いつの間にか我々は「アメリカを通じてしか世界を見ない」という傾向を身につけてしまいました。そして、昨年の数字が出て来て実は私自身も「ああ、ここまで落ちたのか」というように思いましたが、日本の対米貿易はわずか13.9%で、高校生でさえ刷り込まれているように「日本は通商国家で貿易によって飯を食べている国で、しかもアメリカとの貿易でこの国は飯を食べている」という認識を変えざるを得なくなっているのです。
要するに、いま世界は変わったと言う一般論ではなく、日本にとって世界のパラダイムがどう変わっているのかと言うと、つまり、頼みの綱だったアメリカという国の世界における比重や影響力や求心力が急速に衰えて行って、しかもそれに過剰なまでに依存し、期待して来た戦後の日本が大きく変わらざるを得ないところにさしかかっているのだという事を我々がいま、2009年から更に次の時代を睨む時に基本的な認識として見据えておかなければならないポイントだと思います。

木村>   そうすると我々が考えなければならないのは、通り一遍のと言うか、いま小手先で少し変わるという事ではなくて、もしかすると将来、歴史に書かれる時に昨年から今年にかけてが、ある大きな転換点だったと記されるくらいの「変革である」という認識が必要なのですね。

寺島>   それをさかのぼって言えば、2001年9月11日の同時多発テロの出来事が主要な変化だったと思います。もっと言えば、木村さんが以前、NHKにおられて21世紀を迎える節目の時に、NHKの代々木で放送した際にお話した思い出がありますが、「1901年に夏目漱石がロンドンでヴィクトリア女王の葬式を群集の中で目撃した」という事を書いていて、その中で「これでヴィクトリア黄金時代が終わって大英帝国の栄光がいよいよ衰えて行くきっかけになる事を予感しながらヴィクトリア女王の葬式を見送った」というのがありましたが、あれから100年が経って、2001年の9月11日の出来事でニューヨークのビルが崩れて行く姿はアメリカの世紀が大きく変わって行くきっかけとして歴史的な記憶がとなるでしょう。それから8年が経って、つまり「ブッシュ政権の8年」が終わろうとしている時点に我々は立ち会っています。そのブッシュ政権の8年間で結局アメリカはイラク戦争でヘトヘトに疲れて、5000人に迫る人数のアメリカの兵士が死んだという事になりました。更に、サブプライム問題でアメリカの資本主義の弱点、つまり、余りにも行き過ぎたマネーゲームを露呈してしまいアメリカという国が、20世紀の中心に立ち、冷戦の勝利者としていよいよ21世紀は更なるアメリカの世紀になるだろうとみんなが息をのんでいたら、9・11からの8年間をまるで転がり落ちるように「アメリカの世紀」=「20世紀」が終わったのだと誰もが思わざるを得ないような年越しになってしまったという事が新年の一つの視点として大切なのではないでしょうか。

木村>   なるほど。いま、人の命が奪われたり、産業経済の中で苦しんでいる方も大勢いらっしゃる……。その苦しみも含めて言うと、世界史的な、21世紀の本来的な21世紀世界に向かって行くその産みの苦しみに私たちがいま、もしかしたら立ちあっているという事も言えるかもしれません。

<全員参加型秩序へ>


木村>  さて、寺島さんのお話にあった「アメリカというものが世界の中心に存在していて、すべてはそこを軸にしながら動いて行くという世界は変わっていく。そこに私たちは立ち会っているのだ」という認識で、この大切さが分かりました。そうすると、今度新しくスタートするアメリカのオバマ政権ですが、つまり、「アメリカというものが世界にとってどんなものになって行くのか?」そして、言葉を変えると「だから世界はどうなるのだ?」という事になると思うのですが……。

寺島>  「いま世界は多極化している」という言い方をする人が非常に多いのですが、多極化というものは、例えば中国、ロシア、インド、ブラジル等のようないわゆる「BRICs」と言われている新興国の発言力が高まって、複数の国が世界をリードして行くような仕組みに世界は変わって行くのではないかという事です。
しかし、これから世界が多極化して行くという捉え方だけでは充分ではありません。何故かと言うと、いま私は「無極化」という言葉を「全員参加型秩序に向かうのだ」という意味で盛んに使っています。つまり、世界を決めて行く主体や要素が必ずしも国家だけではなくて、次元の違う存在、例えば国境を越えた経済活動を行っている多国籍企業やどの国にも一切税金を納めない「タックス・ヘイブン」(註.1)と呼ばれる国を使って活動するヘッジ・ファンドのような存在等、それ自体が世界の資源価格やエネルギー価格を乱高下させる大きな要素になってしまうのです。そして、ある面ではもっと複雑な存在だけれども「多国籍ゲリラ」とか「多国籍テロリスト」という集団までもが物凄くネガティブな意味で世界を揺さぶる大きな要素になっています。更に言えば、国家ではないのだけれどもNGOと言う、ガバメントではない団体の環境問題に対する役割や、NPOのような存在で企業でも何でもなく、非営利団体として発言権を高めている存在等、次元の違う主体が様々な形で世界に関与して行く状態を私は、「全員参加型秩序」と言っています。
ある面ではカオスと言いますか、混沌とした無秩序さえイメージしなければならないような複雑なゲームです。そのような中で世界の新しいルール、例えば環境に関するルールやマネーゲームを制御して行くルール等、非常にややこしい話に聞こえるかもしれませんが、粘り強く「新しい世界秩序とはどういうものなのか?」。超大国という国が力の論理で自分に逆らってくる奴を叩き潰してでも自分の価値観を押し付けるという時代は去って、複雑で忍耐の必要なゲームでもあるけれども様々な主体に多くの人が多くの立場で発言しながら、流れとして世界の新しいルールを全員でつくって行くという事を構想出来ないと21世紀の世界秩序は構想出来ません。途上国と呼ばれる段階の国々の人たちのみならず、国家主体ではない人たちにさえ目配りをするようにして世界秩序を構想しなければいけない時代であり、それに立ち向かって行かなければならない時代なのです。したがって、一極支配型のように単純な構想力、或いは一つの国にだけ自分の運命を託して過剰に期待したり依存したりしていればこの国は安心であり、安定して行くという時代ではなくて、大きくてダイナミックな構想力を持っていないと新しい世界秩序の中で生きてはいけないのです。
どういう事が重要になって来るかと言うと、「この人の言っている事は正しい」とか、「理念的に尊敬出来る」とか、「新しい世界はそうあるべきだ」という構想力であって、今までは処世論で「そういう事は理想主義者が言う事だ」と言っていたものが、むしろ、逆に世界を束ねるためには物凄く重要になって来ます。このような全員参加型秩序の中では、理念や理想やヴィジョン等が凄く意味を持って来ますから、これからの日本のあり方を構想する時には、考えておくべき事だと思います。

木村>   いま寺島さんがおっしゃった、アメリカが世界でどのような位置を占めて行くのかというお話を伺いながら、オバマ政権に世界の期待も集まるけれどもその期待の分だけいかに重いものを背負ってスタートするのかという事も感じます。

(註1、 タックス・ヘイブン(英:tax haven) とは、税金が免除される、もしくは著しく軽減される国・地域を指す。和訳から「租税回避地」とも呼ばれる)

2008年12月28日

第12回目

木村>先週のお話を少し復習してみたいと思います。寺島さんは先週、「ジョッブ(JOB)」、「産業」という言葉をお使いになりました。つまり、「一体何が日本の力か?」という事を世界的には非常に大きな可能性を認められているのに、我々がマネーゲームのところに目を向けている間に忘れていて、足元をもう一度見つめてみる必要があるという問題提起がありました。寺島さんはこれまでにも、もうすでに何年間も「金融ではなく産業を語れ」という事をおっしゃってきました。さて、そこで、「ジョッブ」或いは「産業」、「何に目を向けて、何をして行くのか?」これについてが、一番重要なところなのですね。

<資源小国から資源大国への構想>

寺島>私は、「マネーゲームの話は止めて、実際の産業、つまり、実体性のある産業とか技術の話をしよう」という事を言い続けて来ました。この番組でもすでにその話に踏み込んだ事もありました。それは何かと言うと、日本経済が抱えている弱点を直視して見るという事です。何がこの国で一番弱い点かと言うと、食糧とエネルギー等の資源を海外に大きく依存しているというところが日本経済に常につきまとっている不安の源なのです。
我々はよくアメリカのことを「マネーゲームの国だ」という風に言いますが、それでもアメリカという国を分析して見えて来るのは、例えば食べ物について言えば世界一の食糧輸出国でもあるのです。自給率100%を大きく越しています。それを象徴しているのが、ワシントンで一番大きな官庁の建物は農務省だという事です。それくらいアメリカは農業国家です。エネルギーについても中東に対するアメリカの石油依存は20%以下です。つまり、アメリカ自国で40%。海外依存している内の80%は北中南米から持って来ています。したがって、「ホルムズ海峡からの石油は一滴もアメリカに行っていない」という言い方がありますが、要するに「アメリカは中東に権益を持っているけれども、一滴も中東から物理的に石油が来なくなっても大丈夫だ」という状態になっているのがアメリカなのです。日本はよく言われるように、石油の中東依存率は90%です。常にこの構造によって不安に駆り立てられるという事になるわけです。食糧とエネルギーと資源を常に海外に依存していて、日本は、それを効率的に輸入して、加工して付加価値をつけて製品にして売って外貨を稼いで、その外貨でエネルギーと食糧と資源を買うというサイクルの中で成り立っている国だという事は、高校生でさえすり込まれています。日本というのはそういう国なのだというイメージなのです
この間(6月放送)この番組でも言いましたが、食糧の自給率の向上という意味は、40%というカロリーベースの自給率をせめて、50%を越して、やがてはイギリス並みの70%くらいまで持って来ないとまずいのではないかと話題にした事がありました。具体的には、農業生産法人を育てて、戦後に蓄積して来た産業技術を注入して新しく食を甦らせる・・・・・・。つまり、産業化のために食を安楽死させてしまった日本に、今度は産業化で蓄積した技術を「食」という分野に注入して食を甦らせるのだという話を私はして来ました。
木村>はい。それと共に、いま、休耕田として荒れているところに酪農等の飼料=餌を作れば自給率が一挙に上がるというお話がありましたね。

寺島>そういう食の分野の話をしたという事を踏まえて、もう一歩踏み込んで、「日本は国土の狭い資源小国だ」と言う固定観念から脱皮して日本を変えて行くという話を申し上げたいのです。それは何かと言うと、海洋資源開発です。どういう事かと言うと、日本は国土の面積の狭い資源小国だと言いますが、確かに国土の面積では世界第61位で38万平方キロメートルです。しかし、領海と排他的経済水域では世界第6位の面積を誇る447万平方キロメートルと言う世界に冠たる海洋国家なのです。そして、その広い海の中に眠っている資源という事について今日は触れてみたいと思います。

<海洋資源開発>

寺島>「海底熱水鉱床」と言う言葉があります。これはどういう意味かというと、海底火山口の噴火口のようなものがあって、そこに希少金属やエネルギー資源が埋蔵されている鉱脈があるという事です。日本の領海の中に、およそ11箇所「海底熱水鉱床」があると言われています。これは無責任な話ではなくて、海洋工学の先生たちが蓄積している資料とか、色々な研究のタスクフォース(註.1)が組まれているのですが、実は昨年の4月に日本は海洋基本法(註.2)というものを超党派の議員によって、いわゆる議員立法で法律を成立させました。宇宙開発の基本法と海洋開発の基本法を超党派で決めた事に意味があります。というのは、今後政局が動いて、どういうところが政権を形成しようが「日本としてその方向は大切だ」という流れが出来て、内閣府に、例えば「総合海洋政策本部」のようなものが出来たり、「宇宙開発戦略本部」などが出来たりするようになるでしょう。私自身もこの話はまた別途しますが、宇宙開発戦略本部の委員会の座長をやっています。したがって、その関連でこの事に関する専門的な知識や先生たちのレポートを集積しているところに立っています。そこで、海底資源の探査技術、採鉱、採掘して来る技術を高度化すれば、日本の周りに眠っている潜在資源は大変なもので、大げさな話だと思うかもしれませんが、20年後の日本を世界に冠たる資源大国にしようという目標を掲げて歩み出したらこの話は絵空事ではないという事に気がつかなければいけないのです。

木村>その眠っている希少金属にはどんなものがありそうですか?

寺島>これは、例えばコバルトとかマンガンです。これらはIT、エレクトロニクス等に使用する重要な希少金属です。それ以外にも亜鉛、鉛、金、銀、銅等の大変な埋蔵量を持っているという事だけは間違いありません。今後の問題は、コストをできるだけかけずにどうやって採掘できるのか? とか、どのように正確に探査の技術を高度化するのか? という事が重要になって来るわけです。つまり、北海原油の開発に成功したイギリスのような立場に日本が立つ可能性が大いにあるという事です。戦前、日本の領土で樺太と呼ばれたいまのサハリンにあれだけのエネルギー資源が眠っているという事を、もし、日本があの戦争をする前の段階で気がついていたならば、戦争というシナリオだって変わっていただろうという事も言えるわけです。
他の例を挙げれば、ブラジルは凄くて海底の油田開発が、ほぼ商業化できるところまで持って来ました。これは驚くことなのですが、なんと海底5千メートルよりも深いところから掘って来ているのです。したがって、日本の太平洋側のことを考えたならば、日本の持っている技術の潜在力を活かすために、採鉱とか探査技術を高度化させて行けば日本を世界に冠たる資源大国に出来るという感触がじわりじわりと高まって来ている状況なのです。

<海洋資源開発と宇宙開発>

宇宙開発と海洋開発は物凄くリンクをしています。どういう意味かと言うと、「探査技術を高度化する」という言葉を使っていますが、位置測定の技術が凄く重要になって来ています。いま我々がカー・ナビゲーション等で使っている、自分は何処にいるのか位置を測定する技術にGPS(Global Positioning System)があります。GPSの技術はアメリカの軍事衛星が24個、地球の周りを回っていて、それに繋げて自分はいまここを動いていると測定させてもらっているのです。現在は、衛星が斜めの角度から位置を測っているために必ずしも正確ではありません。そして、いま日本が「準天頂衛星システム」(註.3)と言って、日立などが開発している技術なのですが、真上に衛星を3基くらい上げて、位置測定を正確にしようという技術の開発が進んでいます。したがって、宇宙開発の技術と海洋開発の技術とがうまくドッキングして行けば、日本の持っているポテンシャルを活かして資源大国化して行こうというシナリオは絵空事ではないとだんだん分かって頂けると思います。
 そして、そういう方向に日本を向かわせて行くという由来、動機というものは、常に海外に資源エネルギーを依存していなければいけないという日本の弱点にあります。しかもこれからの世界を考えたのならば、いま67億と言われている世界人口が2050年には92億になると国連が予測しています。世界の人口が物凄く増えて、更に、いまは瞬間的に資源の価格がマネーゲームの乱高下によって下がっている局面にありますが、やがて人口が増えていわゆる「BRICs」(註.4)のような新しい新興国が産業力を高めて来るならば、「資源を奪い合う世界」というものが見えて来ます。更には、「資源ナショナリズム」、資源を守ろうとするナショナリズムが高まって来るという流れの中で日本はどうするのだ? という事をよく考えなければなりません。
「自律性」という言葉を私はよく使いますが、「自らを律する」=自分の運命は自分で切り開いて行く・・・・・・。他人に依存してもがき苦しむのではなくて、自分の運命は自分で切り開いて行く必要があるという事です。要するに、何が言いたいのかと言うと、世界的な金融不安が起こってマネーゲーム的な世界から実態のあるものに目線をやらなければいけないというポイントと共に、足元を見つめてこの国の基盤を強いものにしていかなければならない状況に現在の日本は置かれているという事です。そこを考えた時に、我々はエネルギーとか食糧とか資源を海外に依存している国なのだと受身で言っている場合ではなくて、全力をあげてそれに立ち向かって行くという志がなければならないという事です。その方向を目指して行くにふさわしい技術基盤はあるのだから、ポテンシャルとして持っている様々な要素を組み合わせて問題を解決して行く心構えが必要なのです。
そこで、「いや、そんな事が現実に可能なのですか?」と言う人がいるかもしれません。例えば「2兆円のお金を皆さんにお配りしましょう」と言う考え方が正しいのか、2兆円という金を政府は出すけれども、それに民間企業のお金をマッチングファンドのように付けて、その倍の4兆円にしてその4兆円のお金を持って、「20年後の日本をエネルギーと食糧と資源について世界に冠たる安定基盤をつくるという事のために使いたい、そのために皆がついて来てくれるのか?」という事を国民に語りかけたならば、日本人はそれほど愚かではないから、「自分たちの子供たちが暮らして行く日本」というものをイメージして、それは大事だという判断を下すと私は思います。それが、「ガバナンス」なのです。そういう国民に向けて語りかける力のあるリーダーシップがこれから問われて来るのだという事を私としては申し上げておかなければいけないのです。

木村>いま、よく言われる、「ニュー・ニューディール」。ニューディールにもう一つ新しい、いまの時代にふさわしいプランニングが必要だと言われて来ていますが、まさにそこにこういうものを位置づけて考えて行こうというのですね。

寺島>はい。そして、来年、オバマ政権が動き始めて来たらオバマは、いま私が言っているような大仕掛けな話を見せて来ます。そして、その時日本はどうするのだ? という話に必ずなります。ここのポイントをよく頭に入れておくべきだと思います。

木村>そして、このようにして「ガバナンス」・・・・・・、寺島さんがおっしゃるその力を発揮して行く事によって、勿論、気持ちや社会も落ち着いて行くだろうし、それと共に具体的な「ジョッブ」=「仕事」もキチンと新たに生み出して行ける・・・・・・。

寺島>この裾野にどれだけの人が、それにチャレンジする機会を得るかです。しかも、若者に必要なのは、「自分が世の中のために戦っている」というメッセージを送る事であり、そういう使命感を持ちたいという事なのです。君たちの情熱を繋ぐプロジェクトを自分たちは、或いは日本はつくって行くのだという展望が物凄く重要なのであって、お金さえ得て生活がなんとか出来ればいいでしょうというレベルの話ではないのです。今日、私が話した事は「意味がある仕事をつくる」という文脈です。

木村>私たちが本当に問われる新しい年を迎えるにあたって、寺島さんのお話を反芻しながら、やはり日本で我々が何に立ち向かうべきかというところでこの事を深めると共に具体的にそこに踏み出す新しい年にしたいと思います。

<日仏交流150周年>

木村>続いては、「寺島実郎が語る歴史観」です。このコーナーでは寺島さんの考える、或いは世界を見る基礎となっている歴史意識というものについてお話を頂いて、私たちもそこから色々と触発されながら、どう歴史に向き合えばよいのかという事を深めて行こうしています。
 前回は、「ペリー来航の背景」でした。1853年にペリーが浦賀にやって来た背景にはなかなか興味深い事実がありました。実は、大統領の国書と呼ばれる親書が届いた時には、もうその大統領はアメリカでは替わっていたとか、実に驚くようなお話もありました。そして、今朝のテーマは「日仏交流150周年」です。

寺島>そうなのです。2008年は1858年に日本とフランスの間の修好通商条約が結ばれて150年周年だという事で、私はその事もあって年内にまたパリに行って、ちょっとした機会で喋る事になっています。戦後、日本、また日本人は、アメリカとの関係だけで生きて来たために、日本近代史の原点のところで欧州との関係が重く存在していたという部分に気がついていないところがあるので、今日はその中でフランスに対する考え方を話題にしておきたいと思います。
 フランスという国が、どのように日本の近代化の流れをつくる上で貢献したか言うと、1858年に修好通商条約が結ばれ、その7年後の1865年に日仏間、つまり徳川幕府とフランス政府の間の約定書に則り、ツーロンにある造船所と同じようなものを日本につくろうという事で、日本最初の造船所を横須賀につくるという協定を結びました。これが、後の「横須賀工廠」というものです。皮肉にもその時にフランスが持ち込んでくれた機械の一部が横須賀の米軍基地の中にいまでも残っていて、ついこの間まで動いていたという話もあります。フランスの力で日本最初の造船所が出来たわけです。実は、江戸城無血開城の裏話として横須賀の造船所を無傷で渡すという条件があったと言います。これは、西郷隆盛と勝海舟との交渉です。あの時に幕府側が持っていた大変大きなカードが、日本につくっている造船所でした。それを打ち壊したりしないで、そっくり新政府に渡すという事が江戸城を無血開城する時の大変大きな交渉材料になった事実もあるくらいです。

木村>そうすると、維新政府の産業の基盤ですね。

寺島>はい。そうなのです。しかも、これはどんな教科書にも登場して来ますが、富岡製糸工場があります。

木村>国営の製糸工場ですね。

寺島>この工場を操業する際に、フランスの女性が4人、製糸技術を教えるための教官として日本にやって来たのです。群馬県の富岡です。したがって、いかに日本近代史の原点のところでフランスが製糸業、造船業等の産業開発に貢献してくれたかという事がだんだん見えて来るのです。
そして、フランス人の性癖や文化の中に、悪く言うとへそ曲がりで、皆が右と言えば左だと言う傾向があって、これがまたフランス好きの人にとってはこたえられない魅力であり、フランス嫌いの人にとってはなんともつかない笑い話にも近い話です。例えば、「いま世界の中でフランスという国がこの世に存在しなければ世界は面白くないだろう」という表現があります。つまり、フランスの文化の面白さは皆が右だと言っていても、「いや、そうでもないのではないか」と言いながら何かを守り抜こうとする「こだわり型の文化」というものがあります。そういう視点で、日仏修好150周年を考えて見ると、戦後の日本は、骨の髄までアメリカ化されていて、アメリカの文化なるものに埋没しながら生きて来たわけですから、そういう日本人からすると、忘却の彼方に行きつつあるけれどもフランスが、日本に於いて果たした役割は近代史を調べれば調べるほど凄く大きいものだと分かります。その事実を知るという事も大事だし、日仏修好150周年という歴史をよく噛み締めなければいけないのだと思います。

木村>寺島さんのお話を伺っていると、近代という歴史を見つめる時に、フランスという国が果たした役割をキチンと知ると共に、我々がそこに一体何が大事なのか? という事を見る機会にもなるのですね。

(註1、Task Force=『特別作業チーム』。本来は、軍事用語で『機動部隊』の意)
(註2、国連海洋法条約に基づく海洋権益に関する基本法。海洋政策を一元的に進めることやそのための財政上の措置を定める)
(註3、QZSS=Quasi-Zenith Satellite System。21世紀の社会インフラと言われている衛星位置測定システム)
(註4、経済発展が著しいブラジル <Brazil>、ロシア<Russia>、インド <India>、中国 <China> の頭文字を合わせた4ヶ国の総称)

2008年12月21日

第11回目

12月21日OA分寺島実郎の世界

木村>寺島さん、今朝はお話を始めていただく前に、まずリスナーの方からのメールをご紹介したいと思います。ラジオネームがキンニクマンさんからです。「来年の日本の経済事情はどうなりそうですか?」。やはり、ここに皆さんの関心が集まりますね。「麻生さんは来年の通常国会に二次補正予算案を提出するそうですがまとまるのでしょうか? まとまったとして、景気は上向きになって行くのですか? 私たち庶民の暮らしは、いまよりも楽になるのですか? いかかでしょうか」。そして、もうひとかたはラジオネームがフルタタケシさんからです。「日本のガバナンスはどうなっているのでしょうか?」。これは寺島さんのお話を受けるかたちでこのようなメールが届いたようですね。「私たちは何に活路と言いますか、希望を持って生活していけばよいのでしょう。アメリカは先日の寺島さんのお話にあったように、オバマ大統領という一つの希望を持ちました。私たち日本人はこの先どんな希望を持って行くべきなのか伺いたいです」。このようなメールが届いています。つまり、今年は世界的な金融不安、或いは見る人によっては恐慌前夜という言葉も出てきますがここに不安を持っていて一体これからどうなって行くのだろうかという事が関心の的になっていますよね。

<マネーゲームの破綻と日本の実情>

寺島>はい。それは本当に仕方のない事で、皆さんはメールのように物凄く不安を感じながら生きているというのが一般的だと思います。そして、世界金融不安がどうなるのか、日本経済がそういう中でどのような方向に向かうのか? その際我々に問われるガバナンスと言いますか総合的な指導力、日本を束ねて行く力も含めて今日はもう一度よく考えながらお話をしたいと思っています。

木村>その「考えながら」なのですが、これまで寺島さんはこのテーマについて色々な角度から話して下さいました。そこで、感じるのは「一体何が問題なのか?」という事を的確に捉えることが出来ているのかどうかというところがまず、スタートだという気がします。

寺島>メールを頂いた問題の本質を考える時に、私は大変重要な数字を話のはじめに置いてみたいのです。それは何かと言うと、世界の株式市場の時価総額の数字についてです。要するに、東京株式市場とか大阪、上海、ニューヨーク、ロンドン等世界中の株式市場の時価総額は、去年の10月が実はピークだったのです。それから、なんと今年の10月末までの間に46.7%、約半分近くまで時価総額が落ちました。実額で言うと、29兆4千億ドル、つまり30兆ドルくらいの株価の時価総額がこの世から消えたという事になります。

木村>「兆ドル」ですか!

寺島>はい。木村さんが驚くように約30兆ドルの時価総額がバブルのように消えていっているという額は、ザックリ言って日本のGDPの6年分に相当します。つまり、6年分のGDPである時価総額がこの世から消えたのです。要するに、今世紀に入ってまさに過剰流動性と言われたマネーゲームがどんどん肥大化して行って、株式市場にお金が入って風船を膨らませるように膨らんで行き、33兆7千億ドルにまで増えていたものがドカーンと破裂して29兆4千億ドルになってしまったのです。つまり、30兆ドル膨らんでいた分がそっくり消えたと言ってもいいような状況に現在あるわけです。
過剰流動性が株価を押し上げていたのですが、今度は世界がどっと冷え込んで信用不安とか金融不安の名のもとに信用収縮を起こしてはいけないという事で、いま世界各国が協調して一生懸命になって金利を下げたり公的資金を投入したりして金融の超緩和政策をとっています。萎んでしまった風船をまた膨らまなければならないという事で金融市場にどんどん新しい流動性を投入して膨らませようとしているのです。

木村>要するにそこにジャブジャブお金を投入しているという事ですか?

寺島>言ってみれば、風船が大きくなり過ぎて破裂して、その破裂した割れ目のところに絆創膏を貼って、またもう一回風船に空気を吹き込んでいるようなものなのです。やがて、これは繰り返しになるであろう過剰流動性なるものをどう制御するのか、つまりマネーゲームをどう制御するのかが世界の経済の悩ましい課題であるという事を今回の出来事の教訓として我々は学んだと思います。
それは別の意味で言うと、実体のあるプロジェクトとか事業、技術の開発などにどうやってお金を回すのかという事をしっかり設計しないとお金がお金を呼ぶゲームの中にだけお金が流れ込んで行って、それが例えば、投機資金としてエネルギー価格を高騰させたりします。実際に、今年に入って147ドルにまで跳ね上がっていた原油の価格が逆に今は50ドル台になっています。いかに、マネーゲーム的な要素でエネルギー価格が乱高下したのかという事を如実に証明しているわけです。食糧価格も全く同じだったわけです。
したがって、我々が直面している金融不安に脅えて、とにかく信用共有すれば問題は解決するのではないかと思って一生懸命に風船を膨らませようとしているけれども、過剰流動性なるものを制御して行く・・・・・・。つまり別の言い方をすると「実体性」をいかに創造するかが重要課題なのです。経済の技術や産業にしっかり目を向け直して実体性というものがある経済構造をしっかり見つめなければならないという大変大きな教訓を受けているのだと言っていいと思います。しかも、「ガバナンス」という事を聴取者のかたが聞いて来ていますが、日本のおかれている状況をキチンと分析してみれば、ポテンシャルがあると言うか、現在の世界経済の状況は、日本にとって、「チャンスだ」という言葉を使ってもいいという事に気づきます。
 先月、私はソウルに行き、その事を強く感じました。ソウルでの国際シンポジウムに集まっていた一流のエコノミストと言われる人、例えばハーバード大学のマーティン・フェルドシュタイン教授(註.1)、そして、イ・ミョンパク大統領もそれに参加していました。私は議論していて、欧米から来ている人の日本に対する期待とか敬意が物凄く強いのだという事を本当に強く感じました。それは何故かと言うと、日本の持っている産業力、技術力は戦後日本が育てて来たブランドと呼ばれる企業、例えばエレクトロニクスから自動車産業に至るまで「ブランド=技術」ですから、その技術の蓄積を持つ日本の力に対する評価が非常に高いのだという事を知って日本人として逆に驚かされた気になりました。
いま、円が非常に強くなって来ている理由はお金の流れの問題もありますが、やはり日本の持っている基本的な技術基盤に対する評価とか期待感があるのだという部分を我々はよく理解しなければならないと思います。

木村>はい。ただ、寺島さんがおっしゃるように、少なくともこの10年くらいを見てみると、日本の風潮は具体的に何かものを作って、そしてその事によって適切な価値を得て行く、或いはそれによって儲けを得て行くというよりも、「金に金を生ませる」という事のほうがよっぽど大きな額を儲けられるし、そして、そのほうが経営者としても立派なものだとういうようにして進んできたところがありますよね。

寺島>このところが若い人たちの価値観にまで大きな影響を与えて、大学においても理系離れが起こっています。理系に行って技術者になっても仕方がないから、むしろ文系に行ってマネーゲームのようなところで大きく儲ける事が出来る仕事に就いたほうがよいという風潮なのです。
この間、私は東大の総長をされていた佐々木毅(註.2)さんと対談をしました。東大の法学部と言えば、ついこの間まで高級官僚の供給源のような大学であり学部だったのですが、そこの学生たちが今では官僚にさえならなくなりました。官僚になっても収入や人生の展望などを考えるとかなり限られているため、自分の能力を活かしてマネーゲームの場に参入して行ってMBA(註.3)だのなんだのというスキルを身につけて行けばそれだけ大きな収入を得られる仕事が目の前にあるという事で、そちらの方向へそちらの方向へと行ってしまった結果、理系離れが起こっているのです。要するに文系の中でもマネーゲーム志向が起こって若い人たちまでが、自分の人生を考える時に「実体性のある経済の分野」、つまり「産業とか技術の分野」=「もの作りの分野」よりも遥かにマネーゲームのところに惹かれて行ってしまうという状況を現実につくって来てしまったのだと言えます。
 しかし、やはり今我々が大きな教訓として学んでいる事は、先程私が言いたかった事ですが、日本の自画像をもう一回踏み固めてみたのならば、「自分の国を誇りに思う瞬間は何だ?」と言うところにたどり着きます。それは、やはり戦後の日本が生み出して来たカメラ、オートバイ、自動車、エレクトロニクスというところに日本人の「ものを作る」という事に対する異様な生真面目さがあって、その中からつくり上げて来た産業・技術というものが、日本に対して世界の人たちが物凄くポジティブなイメージを持つ所以なのです。突き詰めて言えば自分たちの足元なのだという事を思い知らされます。

(註1、米国を代表する経済学者の一人。ハーバード大学教授。全米経済研究所<NBER>議長等歴任)
(註2、日本の政治学者。学習院大学教授、前東京大学総長。専攻は政治学、西洋政治思想史。法学博士<東京大学、1973年>)
(註3、経営学修士。MBA<Master of Business Administration>)

<求められるガバナンス>

寺島>問題は「ガバナンス」なのですが、ポテンシャルとして技術の蓄積とか、それを支える生真面目で知的レベルの高い人材・・・・・・、例えば世界の感覚で言うと表現がなかなか難しいのですが、「読み・書き・そろばんの出来ない人などいない」というくらいの安定した知的レベルを持った人材をこれだけ蓄積している国は、世界を見まわしてもそうはないのだという事に気づきます。
そして、変な言い方になりますが、お金もあります。それはどういう意味かと言うと、日本は18年連続して「対外純資産」と言って、海外に持っている資産が世界一なのです。つまり、自分の国が戦後、額に汗して蓄積して来た「金融資産」=「お金」を自分の国の企業や技術に向けるよりも海外に持って行ったほうがよいという事で保有している資産です。そこには日本の低金利を嫌がってという理由もありますが、諸々の事情によって、海外へ海外へと吸い出されて行ったわけです。つまり、日本のお金は日本の技術や企業に向かわなかったのです。そればかりでなく、日本の株式市場・・・・・・、私は東京証券取引所のアドバイザーリーボードにも入っているのですが、東証での議論を聞いていると、ついに、東証での株取引の7割が外国人の取引になっている事が分かります。そして、東京証券取引所の上場企業の株式保有を見てみると外国人が持っているシェアが3割を越している事も分かります。要するに、外国人が日本の株を支えてくれていて、日本は海外へ海外へと自分のお金を持ち出すというなんとも奇妙なクロスになっているのです。
そして、そういう状況下で考えたのならば、「技術もあり人材もいる。お金も実は持っている」。しかし、実はうまく噛み合っていないのです。「ガバナンスとは何なのか?」と言うと、要するに「総合的に持っている要素を組み合わせて問題を解決して行ける力」なのです。世に言う、エンジニアリング力です。個別の要素を組み合わせて問題を解決して行くアプローチは最近のかっこいい言葉で言うと、「ソリューション・プロバイダー」=「解答を提供できる力」です。そして、それが人的指導力と組み合って、更に国家の指導力と組み合ってパシッと噛み合っている状況というものを「ガバナンスのある状態」と言うわけです。
しかし、残念ながら日本はガバナンスの部分が散らばっているという状況にあります。そこには、色々と理由があります。そして、声を聞かせてくれた視聴者のかたのポイントにもあるように、例えばアメリカというのは大統領制によってブッシュ政権が行き着くところまで行ってダメだなと思ったらパーンと方向性を変えて、全く世の中の空気を変えてみせるという方法論があります。つまり、大統領選挙を延々と予備選から入れたら2年近くも引っ張って来て、国民がそのプロセスに参加して次のリーダーを選び出して、そのリーダーの下にアメリカを結束させて行こうというモチベーションが物凄く高まって行くプロセスがあるという事です。来年の1月末にいよいよオバマ政権が登場して来たら「100日間で俺はこういう政策をやる」と力強くリーダーシップをアピールすると思います。そのように、アメリカは、リーダーが変わる事によってアメリカの空気を変えて行くでしょう。そういう方法論の象徴的な例が大統領制だと思います。
だからと言って日本が、簡単に大統領制に誘惑を感じるというのは危険な部分もあるのです。何故ならば、あまりにもポピユリズムに流れて、いわゆる人気投票的にリーダーが決められて行く危険性があるので、簡単に議会制民主主義を捨てて首相公選論とか日本も大統領選にしたほうがよいという議論は慎重にしなければいけない部分があります。しかし、それでも国民の誰もが麻生さんの名前を書いて「この人をトップにしたつもりはない」という仕組みの中でリーダーが決まって行くという弊害もあります。したがって、この種の議会制民主主義に基づいて議会がトップを決めるという仕組みをとっている国では、民の意識の変化をよく反映して、やはり「議会の選挙」=「総選挙」を適切なタイミングでやって、リーダーシップのありかたを絶えず考えて行かないと国民の意識とか期待と隔絶したところに国のリーダーシップが行ってしまう結果を招きます。国家としてのリーダーシップが混迷していたり、低迷していたりする状況になると苛立って他の国の事がやたら良く見えて来るという事も起こります。最近若い人たちと議論をしていると「アメリカが羨ましいなあ」と言う意見をよく聞きます。更には、例えば中国やロシアのように我々から見れば全体主義的な空気さえ漂っている統合のきいた国がうまくいっているように見えたりもします。
そこで、私は現在の状況では他の国が良く見えるという事よりも日本の仕組みの中でどうやってガバナンスを発揮していかなければならないのかという知恵が問われているという事に意識を向けるべきだと言っておきます。先程申し上げたように、日本は、潜在力が多いにある国なのです。その潜在力を組み合わせてどういう方向に持って行くのか? 私自身の立ち位置から言えば、私は政治セクターの中に足を踏み入れている人間ではないけれども、「産業」という現場で育てられて来て、シンクタンクのような日本全体を見回して政策科学を議論するような立場で発言をしたりしていますが、私の立場から見ても日本の産業人が自らをしっかり考え直して次の世代の日本にどういう経済基盤を残して、「一体、日本人は何で飯を食って行くのか?」という長期的な展望を考えなければならない事がよく見えます。
例えば、今日本の労働人口の三分の一以上が年収200万円以下で、その大部分が非正規雇用者という人たちが占めています。そういう状況下で「がんばりましょう」と言ってみても始まらないのです。ザックリ言えば年収500万くらいの収入を得る若い層が安定的に存在出来るような産業基盤、企業基盤をつくらないとならないわけで、年収200万円の人でははっきり言って国家は成り立ちません。結婚もできないでしょう。結婚も出来ないという事は少子高齢化社会が一段と深まり、要するに税金を負担する人も年金を負担する人もいなくなる国になるという事です。したがって、産業人がいま真剣に考えなければいけない事は、自分たちの後に来る人たちに一体どういう産業のプラットフォームをつくって行くのか、日本経済の抱えている弱点を補って、どうやって飯を食って行けるような仕事を創出するのかという事を真剣に構想、検討しなければならないという事です。我々の先輩たちは少なくとも自動車産業に象徴されるような飯が食って行けるプラットフォーム型の産業をつくったのです。その結果として、我々は世界の中でも豊かな国に暮らして行ける状況になっているわけです。そして、現在は、次にどのようなものをつくるのかという事について話を進めていかなければいけない状況だろうと思っています。
木村>だからこそ、いま、ある意味では何が問題なのかというところにどうしても戻らざるを得ない・・・・・・。つまり、このようにして寺島さんがおっしゃる「過剰流動性」=「金に金を生ませる」という事が最も手っ取り早いし「金に金を生ませていけば豊かになっていくのだ」という風に考えて来たこのやり方が間違っていたということ、ですから、的確な解答を得るためには、そういうものにきちんと決別をするという覚悟をしっかりしなければいけないのですね。

寺島>アメリカの政治のレベルの人たちが議論している「経済の活性化」に関する議論には必ずつきまとって来る「ジョッブ(JOB)」という言葉があります。つまり、オバマ大統領が掲げている経済政策の中でじわりと言い始めている「グリーン・ニューディール」(註.4)という表現のもとに、エネルギーと環境という産業の中で250万人くらいの「ジョッブ」=「仕事」をつくるという言葉が絶えず出て来きます。つまり、自分がやろうとしている政策を実現したならば、アメリカ人が250万なら250万、100万なら100万の「ジョッブ」をつくり出す事が出来て、その中で国民は飯が食えるという事です。景気浮揚のためにお金を配るという話ではなく、「ジョッブ」をどうつくるのかという事を全く言わないのが、日本の経済政策の悲観的特色なのです。したがって、私は「ジョッブ」の話をしなければいけないと思います。

木村>はい。では、どうすればよいか、何に我々が目を向けるべきか、来週お話を伺うことにします。

(註4、世界大恐慌後1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領が実施した景気対策、ニューディール政策になぞらえ、クリーンエネルギーを中心として世界経済を再建しようとする試み)

2008年11月30日

第10回目

木村>寺島さん、先月の放送では国際連帯税構想というテーマで日本が2007年以降、オブザーバーで参加していた開発資金のための連帯税に関するリーディンググループに9月26日に正式に参加することを表明したというこの動きを捉えて国際連帯税の仕組みと重要性についてお話をうかがいました。そこで今回なのですが・・・・・・。

<ご託宣を仰ぐ日米関係>

寺島>日本にとってオバマ大統領なるものがもつ意味、つまりオバマが大統領になることによって日米関係が果たしてどのようになって行くのか? あるいは日本はどうすべきなのか? というこのあたりの話を深めておきたいと思います。

木村>日米関係、日米同盟にどうこれから我々が向き合うべきか・・・・・・。

寺島>オバマ政権になり民主党政権になることによって、日本のメディアが「果たして今後、日米関係はどうなっていくのだろうか?」という記事だとか報道だとかをする際に、必ず登場して来るパターンというのは、民主党政権は労働組合の支持を背景に出来上がっているので、どうしても産業の保護主義的な動向に踏み込みやすい傾向があるのでまた日米の通商摩擦や、アメリカの保護貿易主義にぶち当たっていくのではないかという事に不安が高まったり、あるいはクリントン政権の時の日本にとってはちょっとドキッとするような悪夢だったのですが、中国中心のアジア外交、つまり「ジャパン・パッシング」というものが再び始まるのではないか等ということが話に上ります。つまり、日本が無視されて中国に関心が向かって行くような外交になるのではないかという不安材料ばかりがよく議論されて、日米同盟は大丈夫なのか? という話がよくされがちなのです。
 事実、ここのところの報道を見ると、やはり論調はそういうものですから、ここをやはり日本人が越えていかなければいけないのだという気持ちが非常に強いためにそういう切り口からお話をしておきましょう。
 要するに、そういう不安感を抱えると日本人の指導者もメディアの人もご託宣を受けにインタビューに行くのです。つまり、それはアメリカが保護貿易主義になるのではないかとかジャパン・パッシングになるのでないのかという問題意識を背負って、ワシントンで日米関係で飯を食っている人のところにインタビューに行くのです。

木村>テレビの番組でも、このあとの日米関係のキーマンは誰だろうかと色々な人にインタビューするシーンがありましたね。

寺島>はい。例えば、日米関係というと必ず登場して来る人物の代表格はアーミテージ(註.1)で、事実、何社ものテレビ局がインタビューを録っていました。その他、ケント・カルダー(註.2)は日本問題でいうとジャパノロジストと呼ばれています。CSIS(註.3)にいるマイケル・グリーン(註.4)だとか、マイケル・グリーンのボスだったカート・キャンベル(註.5)だとかが日本通として知られている人たちです。私はワシントンに6年以上もいましたし、東海岸に10年以上生活してきた人間ですから日米関係で飯を食っている人とは必然的に親しくなって、そういう人たちとのエールや意見の交換によって日米関係を議論しようという傾向が必然的に深まってしまいます。そこで忘れてはいけない事があります。例えば、イラク戦争で緊張感が高まっている頃、あるいは「9.11」が起こったという時に必ずインタビューを録りに行く人がアーミテージだったのです。アーミテージのインタビューを録りに行った時にアーミテージが「Show the flag」と言いました。「9.11」が起こった直後にインタビューに行ったときの事です。それは湾岸戦争の時に日本は130億ドルのお金を出したけれどもちっとも感謝もされなかったという日本人のフラストレーションがよくわかっていて日米関係で飯を食っている人だから「Show the flag」=「旗を立てろ」というご託宣を下すわけなのです。インド洋にいち早く自衛隊を送って補給活動しなければいけないという焦りによってわずか1カ月もかからないうちに国会でテロ特措法を成立させて「遅れてはならない」ということでアーミテージのご託宣を受けて、「Show the flag」にいち早く呼応するという行動パターンをとったのです。
 そして、今度はイラク戦争が迫っている頃にまたアーミテージにインタビューに行ったら今度は「Boots on the ground」と言いました。要するに、「土に足をつけてやれ」と言ったのです。これは「金だけ出したのではダメだ。イラクに陸上自衛隊を送って汗を流さなければダメだ。アメリカはそれを期待しているのだ」という事を先回りして捉えました。そして日本は憲法の改正さえしないでイラクという海外に軍隊を送るという事にまで解釈改憲という形で踏み込んで行ってしまったのです。つまり、日米関係で飯を食っている人は日本サイドにもいるわけです。そういう人たちとのエールの交換で日米関係が組み立てられていることの限界を突き破っていかないと新しい日米関係は築けないという事です。

(註1、ロナルド・レーガン政権の国防次官補。政策コンサルティング会社『アーミテージ・アソシエイツ』代表。ジョージ・ブッシュ政権で国務副長官を務める。知日派として知られる)
(註2、ジョン・ホプキンス大学院教授。『CSIS=ワシントン戦略国際問題研究所』日本部長。『エドウィン・O・ライシャワー東アジア研究センター』所長兼務。著書『米軍再編の政治学』『自民党長期政権の研究』他)
(註3、Center for Strategic and International Studies=戦略国際問題研究所)
(註4、政治学者。専門は日本政治、特に日本の安全保障政策。現在はジョージタウン大学外交政策学部教授。CSIS上級顧問)
(註5、CSISの諮問委員会メンバー。アジア問題、国際安全保障の専門家。国際関係学者として博士号を受ける。元米国防省東アジア太平洋副次官補。現米国新安保センター所長)

<新しい日米関係構築に向けて>

寺島>  そこで何が言いたいかというと、日米関係を日米関係の利害で飯を食っている人の関係から越えて、本当にワシントンでアメリカ全体の外交戦略だとかアメリカ全体の世界戦略を議論している上院の外交委員会とか、そういうレベルの政治家や政策立案に参加しているシンクタンクのアメリカの外交戦略、アジア戦略の専門家たちに日本とアメリカとの関係の重要性を正しく認識させて次のもっと生産的な関係というものに話を引っ張っていくという事をしなければなりません。そうしないといつまでたっても日米関係というものは、特殊な利害で飯を食っている人たちだけがつくり上げて行く関係から脱することが出来ないまま、トラウマのように、「保護貿易主義は大丈夫なのでしょうか?」、「我々はパッシングされないでしょうか?」というような不安の目線で問いかけていく事になって日本の心の中を読みきっている日米関係で飯を食っている人に「心配しなさんな。私がいるかぎり日米関係は安泰だ」というところのみに話が落ち着いてしまうわけです。
そこで問題はそれを越えて客観的に言うとアメリカが保護貿易主義というものを展開していかざるを得ないような背景にあろうが、クリントン政権の時のように中国を戦略的パートナーだと位置づけてアジア外交を組み立てて行く方向に行こうが、肝心なのは「日米関係がどうなるのか?」ということを予想したり、不安を抱いたりすることではなくて、「どうしていかなければいけないのか?」という事について、むしろ我々の側に、つまり日本の側に強い戦略意思や構想があるのかという方が物凄く重要になって来るわけです。「自分がどうしたいのかという事をしっかり持っていない存在が相手にとって尊敬されるわけがない」という事が物凄く重要で日米関係をそういう位置関係のものにしていかなければならないのです。
そういう意味で、私はいま凄いチャンスだと思います。いよいよアメリカ自身もオバマというリーダーを選んで世界との対話とか協調とかというものを図っていかなければならない時代に入って来て、誰が本当に信頼できる同盟国であり、本当の友人なのかを真剣に考えなければならないわけですから、日本がアメリカにとって重要であると認識させるためには、アジアに影響力を持った日本でなければダメなわけです。アメリカの言う事をなんでも聞いてくれる「便利屋さん」ではなくて、アメリカにとって日本が大切であると思わざるを得ない日本の存在を示す必要があります。つまり、アジアを束ねてアジアに対して大変な影響力と発言力を持っている日本を確立することが、アメリカにとって重要なのです。アメリカにとってのアジアの力学は、「日本も大事であるが中国も大事」だという事は明らかですから、日本は、そういう大きな流れを先取りして行かなければなりません。日本がパッシングされるのではなくて、日本は日本として同盟関係は大事だけれども中国の存在も重いという事を見据えた上で、中国とのいわゆるステークホルダー(Stake Holder=掛け金の保管人)の役割を果したり、中国も一角の存在として認識して、多角的な関係によってアジアというものを見ていかなければならない局面にある事だけは間違いないのです。そういう時に本当に役に立つ日本なのかという事です。
また、経済の問題で言えばオバマ政権がスタートする前に我々の目の前に突きつけられて来るテーマは、「GMはどうなるのか?」という事です。GM(ゼネラル・モーターズ)という、ビッグ・スリーの一角を占めていた、我々からすれば見上げるような自動車メーカーがまさにいま風前の灯になっています。このGMを、1月20日の政権の発足よりも前にオバマはなんらかの形で手を差し伸べなければならないような状況になっています。

<日米産業協力という関係>

この間、オバマが初めてホワイトハウスに行ってブッシュ大統領と面談した時に、彼はブッシュに「自分の政権がスタートする前にGMの事は頼みますね」という形の発言をしています。それぐらい切羽詰って来ているのです。しかし、微妙なのはトヨタがもしもGMを買うとか、GMを救済するという事になったとしたらどうだろうか? という事を少し考えてみました。もう、切羽詰まっているからそれでも「サンキュー・ベリー・マッチ」と感謝してくれるだろうと言う人もいます。しかし、やはりアメリカ人の深層心理を考えてみると、例えば韓国のヒュンダイという自動車メーカーがトヨタを買うというような事態が将来起こったとしたら日本人のプライドは大きく傷つくでしょう。そのように、物凄く歪んだナショナリズムに火をつけて「GMさえも買収する日本」みたいな事になってしまうと、それこそかつて「アメリカを買い占める日本」ということで対日批判が起こったようなアメリカ人の神経を逆なでするような話のきっかけになってしまうかもしれません。

木村>昔、日本は有名なビルをたくさん買いに行きましたよね。

寺島>そうです。そこで、私は本当の意味での日米産業協力というか、つまり日本のメーカーがアメリカの、いわゆる虎の子産業とも言える自動車メーカーさえも買い占めてしまったという寒々とした物語にするのではなくて、GMを自動車メーカーとして再生させる協力をするという物語にしなければなりません。GMという会社は自動車をつくる機械のメーカー企業のように見えるけれども、何故こんなに急速にダメになったのかと言うと、利益の半分近くをついこの間まで金融で上げていたからです。つまり、業態はいかにもメーカー企業のように見えるけれども実際は金融子会社で上げた利益によって支えられていたわけです。それを切り離して本当の自動車メーカーとして生き延びられるのかどうかという正念場に立たされているわけですから、ハイブリッド・カーに象徴されるような環境に優しい車が出て来るときに、日本のメーカー企業がアメリカの自動車会社を買収するという仕組みではなくて、産業協力という大きな仕組みの中で次世代の自動車の共同開発だとか、そういう類の仕組みをつくる事によって、要するに、政治的な紛争を避けて産業協力の実績を上げて行くという仕組みをむしろ日本サイドから積極的に語りかけるべき局面に来ていることを認識しなければなりません。
 つまり、ここで最後に確認しておきたい事は、日米同盟を戦後60年以上も続けて来ていると言いますが、「軍事片肺同盟」で日米安保という同盟関係はしっかりした条約でもっているけれども、経済の関係については「自由貿易協定」の一つも出来上がっていないのですから、日米関係において経済協定は物凄く弱いのです。だからそういう意味合いにおいて日米の関係を経済における、あるいは産業における協同プロジェクトというものを仕組んで行く本当の意味での同盟関係を構築して、防衛安保における関係というものを21世紀のアジアの秩序の中で相対化して行くというか・・・・・・。多分、こういう関係を日本はしっかり構想しなければいけない段階が来ているのだろうと思います。

木村>寺島さんがおっしゃったように、「軍事片肺同盟」に60年間慣らされて来た、あるいは慣れて来ているわけですからこれを本当に脱却して何かを構想して行くという事は大変な努力とあるいは何かやはり日本の国内で認識が広く共有されないと出来ないのではないかと・・・・・・。

寺島>インド洋での補給問題も「いままで通りでいいのではないか」というのが日本にとっては、一番楽なのです。それを変えて行くという事になるといま語って来ているような構造そのものを大きく転換していく力仕事が必要です。自分の頭で深く考え抜く力が必要です。そういう力が無くて、「お任せ民主主義」という言葉の通り、お任せで生きて来ている人間にとって「自分の力で政策を考えてみろ」というのは非常に苦痛な事なのですが、それに立ち向かっていかなければ21世紀の日本は開けないのだという事が私が一番言いたい問題意識です。

木村>つまり、オバマさんが「Change!」という言葉を掲げたその変革というものは、まさしくアメリカに新しいオバマ政権が生まれる時に日本も変われるかどうか? という意味で重要なところに今日本は立っていると言えるでしょう。

<ペリー来航とは何だったのか>

木村>「寺島実郎が語る歴史観」です。このコーナーでは寺島さんのものを見る、ものを考える基礎になっている歴史観というものについてお話をうかがっているのですが、前回は「キャプテン・クーパー」という事で1853年にペリーが浦賀に来る8年も前に日本人はアメリカと出会っていたという大変興味深いお話でした。

寺島>そうなのです。しかもそれが世に言う「砲艦外交」ではなくて、捕鯨船の船長が日本人の難破した船の乗組員を助けて連れて来てくれたという事から日米関係は始まったという話でした。
 今日は歴史意識を深めるために日米外交の原点である「ペリーが浦賀に来た」という事実を少し掘り下げてみようと思います。
アメリカは1848年、ペリーが浦賀に来る5年前に「米墨戦争」といってメキシコとの戦争に勝利して、ついに西海岸まで領土を拡大して来るわけです。メキシコからニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアという州を割譲させて手に入れたことによって、アメリカ合衆国は、西海岸に辿り着いたわけです。西部開拓史に幕が下りたのです。そして、西海岸に辿り着いて初めて目の前に太平洋が見えて来たのです。
その頃のアメリカに、まさに「キャプテン・クーパーは何故、日本の周りをうろうろしていたのか?」という捕鯨船が日本近海に来ていた話をしましたが、それは灯りに使用する鯨油が必要だったからです。ペンシルバニア州で石油が発掘されたのは1859年ですからペリーの浦賀来航よりも5、6年後です。1870年に「スタンダード・オイル」という会社が設立されて、石油というものの時代が到来する以前は、アメリカの灯りはほとんど鯨からとった脂だったという話を前回しました。したがって、米墨戦争で太平洋に辿り着いたという背景の中で、それでもなおかつペリーが浦賀に来た頃は捕鯨というものがいかに重要だったかが分かります。まさに捕鯨船が日本の周りにやって来て鯨をとっていたわけです。
そして、そこで「ペリーが何故、日本に来たのか?」と言うと、捕鯨船の、薪とか水を確保する補給基地としての必要性、さらには太平洋を越えた中国との貿易を睨み始めたアメリカが日本に中継点としての役割を担わせようと考えたからです。つまり、中国というキーワードと捕鯨船の寄港地としての日本を期待したという問題意識が日米外交の原点にあったという事は非常に興味深い事実なのです。そういう背景があって、1853年にペリーが浦賀にやって来ました。しかし、ここには途方もなく奇怪な史実が横たわっているのです。私はこれを物凄く詳しく調べました。ペリー来航とは何だったのかという歴史的事実です。自作自演の芝居がかったドラマを見せられたような面もあります。何故かと言うと、ペリーは、フィルモア大統領の国書を持って開国を迫ったということになっているのですが、厳密に調べてみると、国務長官が海軍長官に宛てた1852年11月5日付の訓令を持ってやって来ています。大統領が国書と呼んでいたものがまた不思議で、その書類には1852年11月13日付のフィルモア大統領の署名がありますが、ペリーがバージニア州ノーフォーク港を出港した時、既に大統領選が終わっており、大統領はフィルモアから民主党のピアースに交代することが判明した後での出港です。ですからペリーが浦賀に現れた1853年7月8日の段階では、フィルモアは大統領ではなかったのです。したがって、日本に開国と交易を求める国書とされたものは、厳密には前大統領による添え書きのような性格のものであり、ペリー自身がそれを承知していたとされています。仮にその受け取りが拒否され交渉が決裂しても、日本と交戦するために艦船がアメリカから派遣されて来ることは期待できないような状況の中で、いわばハッタリで演技しきったようなものなのです。

木村>フィルモアはもう大統領でもなんでもないということですね。

寺島>はい。そしてそういうものが恭しく差し出されて、日本人は権威に弱いという事をペリーは聞いていて、もし開国しなければ攻撃をしてでも日本を開国するぞと脅したという事になっていますけれども実際は、後ろ盾などは全く無くてハッタリだったわけです。このように日米関係が揺さぶられるという構図は番組で話題にして来た話にいつも通ずるものがあって絶えず、賽の河原の石塚のように繰り返されている構図なのです。そこでこの話を少し集約しておくと、私の本の中に「脅威のアメリカ、希望のアメリカ」があります(岩波書店)。私のアメリカ論なのですが、絶えずアメリカという存在は日本にとって「脅威」であり、「希望」であるという二重構造になっています。それは、ペリーの来航の時から恫喝して砲艦外交で力で押さえつける抑圧というロジックと日本を開放し平和をもたらし開国をもたらす使者としてのイメージがあって、この番組でも話題にしてきたマッカーサーの存在感と全く同じで、やはり二重構造になっているというわけです。つまり、アメリカという国の存在そのものが日本にとって「脅威」であり、「希望」であるという構図は、実はこのペリー来航の時から今日に至るまで引きずっているのだという事を申し上げておきたいのです。
この二重構造をしっかり理解した上で建設的な関係をどうつくっていくのかという方向にしっかり腹をくくらないと次なる日米関係が見えて来ないと思っているのです。

木村>なるほど。どうもありがとうございました。

2008年11月23日

第9回目

木村>寺島さん、今朝のテーマは何でしょうか?

寺島>オバマを選び出したアメリカの大統領選挙が行われました。
「Change」と言うことで世界は変わるのかという事も含めてこの話題を取り上げたいと思います。

木村>ちょうどリスナーの方からメールが届いております。東京のラジオネーム、ブーゲンビリアさんからです。「アメリカの次期大統領がオバマさんに決まりました。来年1月20日のオバマさん就任以降、世界の経済はどのように変わるのでしょうか?」。関心は経済のところへ来ています。「オバマさんは米国内で世界の経済を上向きにすることができるのでしょうか? 以前、寺島さんは『アメリカの一極支配は終わった』とおっしゃっていましたが、もしそうならばオバマさんが大統領でもアメリカの影響力は世界に及ばないのではないでしょうか?」という問いもあるのですが、リスナーの皆さんの質問、疑問に答えていくためにも何がオバマさんを大統領に押し上げたのかということですね。

<アメリカ大統領選挙の背景>

寺島>はい。そこからお話を始めたいと思います。結局、つきつめて言うとブッシュ政権8年間の失望を背景にして、ブッシュの8年間から決別したいというアメリカの決断だったと考えたらよいと思います。なにしろ、ここのところアメリカに行って感じることは、「ヘトヘトに疲れ果てるアメリカ」と言いますか、アメリカに対する世界の信頼度や期待が物凄くしぼんでいっているのだなと実感されるのです。
 そして、そういう中でまず二つの大きな要素があります。一つはイラク戦争です。9.11から7年以上が過ぎています。私はこの番組と並行しながら絶えずチェックしている数字に米軍兵士の戦死者の数字があります。イラクとアフガニスタンで亡くなったアメリカの若い青年兵士の数はついに4,800人を越えて、11月6日現在4,808人という数字になっています。
 そして、イラクとアフガニスタンで1兆ドルの戦費の負担を余儀なくされたアメリカは、それに加えて、この番組でも触れたサブプライム問題で更に1兆ドルを越す財政負担を公的資金、つまり国民の税金で対応しないとこの問題には向き合えないという事態になっています。7,000億ドルを準備したスキームの不良資産の買い取りは、買い取りよりもむしろ金融資産に資本注入するという方向を選びそうですが、いずれにしても金融を安定化させるために1兆ドルの財政負担を余儀なくされます。1兆ドルのイラク戦争と1兆ドルのサブプライムの財政負担、つまり2兆ドル=約200兆円の財政負担を余儀なくされることになります。財政赤字、そして経常収支の赤字という「双子の赤字」というものにこれから苦しみ抜いていかなければならないアメリカがその苛立ちの中でどうしてこんな事になったのか? その理由の一つはブッシュ政権が選択したテロに対応する政策、「これは犯罪ではなくて戦争だ」というカードでテロの問題を解決できるであろうという思い込みの中からアフガン、イラクへと突っ込んでいった事です。

寺島>もう一つはサブプライム問題ですが、これも結局ブッシュ政権が懸命に旗を振った市場における「新自由主義」というものに原因があります。要するに、規制を緩和して競争主義、自由主義を徹底すれば経済は向上して行くという思い込みのようなものでした。それが結果的には金融資本主義を肥大化させて歪んだ金融ビジネスモデルさえ跋扈させる時代をつくってしまったということです。

寺島>その二つの問題が明るみに出て、アメリカ人そのものも深いため息をつく状況です。そして世界のアメリカを見る目線が物凄く厳しくなって来ていて、世界の指導国であり、冷戦が終わった後の一極支配の中心にいるアメリカというイメージが急速に崩れて来ていることがいまの世界の状況だと言えます。
 そういう状況下でオバマという大統領を選んだ事がアメリカの再生にとっては必要だったと思います。私が何回も使って来ている表現に「時代が呼んでいるのは誰だ?」というのがあります。この表現を使って大統領選挙を見る必要があると言って来ました。ヒラリーとオバマがまだ民主党の大統領候補の座をめぐって競い合っていた時から「歴史・時代が呼んでいるのはオバマだろう」という表現をして来ました。それは何故かと言うと、結局アメリカの再生にとってオバマというカードは最も有効なカードだと考えられるからです。要するに世界のアメリカを見る目を分析したらわかりますが、「アメリカという国は凄いよな。なんだかんだ言っても黒人の大統領を選んだではないか」ということで、「機会を平等に与える国、チャンスの国=アメリカ」というアメリカのプラス・イメージを示し、それをまさに実証してみせたと思います。私は学生等に話す時はそういう言い方をします。
最近、日本にマラソン選手を目指してケニアからの留学生が結構来ています。仮にそういうケニアからの留学生が日本の女性と親しくなって家庭を持って子供が産まれて、その子供が日本の首相になる可能性がどれだけあるでしょうか? という事を考えたら社会の柔らかさとか、可能性を考えるとやはりアメリカはなんだかんだ言ったって凄いじゃないかという事になります。
 フランシス・フクシマ(註.1)という有名なネオコンの思想家がいます。むしろ、共和党の右派、ライト・ウイングのような思想家です。彼が最後の段階でなんと、オバマ支持という事を言い出しました。その理由は、私がここで語りかけているように、まさにアメリカの威信とかアメリカに対する期待を回復して行くうえではオバマというカードが物凄く有効でありアピールするというロジックだからです。

木村>それがやはりこの圧勝という事になった・・・・・・。

(註1、アメリカの政治学者。父親が日系二世、母親が日本人という日系アメリカ人。 ジョンズ・ホプキンス大学政治経済学教授。関西大学政策創造学部客員教授。ネオコン政治思想家の代表的人物)

<時代が呼んだ黒人大統領>

寺島>はい。そう思いますね。そして、「黒人初の大統領」という言い方がありますが、厳密に言うとオバマは黒人なのかどうかと言うと実は微妙なのです。オバマは、黒人性ということを絶えず問いかけられて来た人物でもあります。大統領選挙のプロセスの中で本当に黒人運動を戦ってきた人がオバマに詰め寄っているシーンがテレビで放映された事もありますが、「あなたはいままで黒人のために本気で戦った事があるのか?」という質問をされていたのが非常に印象的でした。それはオバマという人の肌の色は黒いけれどもいわゆるアメリカにおける黒人の出自を見ると、アフリカから非常に不条理な形で連れて来られた人の子孫というわけではないのです。あくまでもケニアからの留学生と白人の女性との間にできた子供で、しかもその留学生だったお父さんは離婚して祖国に帰ってしまったのです。彼は「白人のコミュニティーの中で育った肌の色の黒い人物」という位置づけが非常に的確な表現だと思います。したがって、エリート教育を受けていて、それがハーバード大学だなんだという事になってくるわけです。彼のお母さんが再婚した相手がインドネシア人でインドネシアのジャカルタで少年時代を過ごしたり、高校は人種の坩堝と言われているハワイで過ごしました。そこでオバマなる人物の黒人性については甚だ議論を要する部分がある微妙な存在なのです。
 しかし、彼の存在そのものに人種の多様性とか、文明・文化の多様性に柔らかく向き合うというイメージが非常に強いのです。つまり、彼の存在そのものがそれを証明しているようなものだからです。したがって、これからアメリカがまさに世界に向けていかなければならない表情、例えば「対話と協調」です。アメリカだけが一極支配していて、「俺は俺のやり方でやらせてもらう」というのではなくて粘り強く世界と対話したり強調していかなければならないアメリカのリーダーとしてこの人物の存在は、例えば育ったプロセスでそれだけ多くの人種の多様性を身体で感じ取らざるを得ない人生を過ごして来たことからまさに時代と適合していると言えます。私は、彼がディベートで見せた粘り強さや年齢のわりには相手がどんなに自分を罵倒して来ても決して怒らずに冷静に逆に問い返していくようなスタイルを見ていて、それは、彼が育ってきたプロセスの中で身につけてきた事なのだろうと思います。そして、それはこれからのアメリカにとってとても大事なことなのです。つまり、俺は俺なのだから世界のルールで縛るな、というこれまでの「一極支配とか自国利害中心主義というものからアメリカが変わって行くのだろうか?」という事を考えるときに、オバマという存在そのものが発信しているメッセージが重いという事を私は、彼が選ばれたプロセスの中で感じ取っていた、大変大きなポイントだと思います。
木村>そうすると「Change!」というオバマさんが掲げたこの言葉はそれを生み出す必然性がアメリカ社会というものにあったということなのでしょうか。
寺島>はい。この夏から秋にかけて我々が目撃して来た世界の金融不安やあらゆる意味で世界秩序が一極支配から多極化を通り越して無極化しているという話をしてきましたが、まさにそういうプロセスの中の極めつけのこの11月というタイミングにアメリカが次のリーダーにこの人物を選んできたという事が2008年という年のある性格を決定的に見せたわけです。ただし、この大統領が背負っていかなければならない十字架は大変に重いのです。先程、リスナーの方のお話にもありましたように「経済再生ができるのだろうか?」という瀬戸際のところに来ています。まさに1929年の世界大恐慌に近いような状況にいま世界がなっていて、大統領としてこの世界恐慌を打開する事が出来るのかというところが非常に重大なポイントになると思います。1929年の大恐慌が始まったあと、1932年にアメリカ大統領選挙があって「大きな政府」を原則とする民主党のフランクリン・ルーズベルトが選ばれています。まさしくオバマはルーズベルトと同じ役割を求められているのです。

<オバマ大統領の課題>

寺島>フランクリン・ルーズベルトとオバマが背負っている十字架に私は均質なものを感じます。ルーズベルトはニューディール政策(註.2)を掲げて登場して来たという事は歴史の本を読んでいる人はよく目にすると思います。したがって私はそういう言葉が使われる事は別にして、オバマがやらなければならない事は新しいニューディール政策だと思います。彼は必ずそれをやって来るだろうと思います。事実、彼が発信しているメッセージの中にその予兆があります。

木村>それはどんなものですか?

寺島>例えば、金融システムの安定のために1932年にフランクリン・ルーズベルトは、「銀行と証券の分離」を決めました。その理由は、やはり1920年代の資本主義があまりにもマネーゲーム化し、株の投機が物凄く行われた事にあります。それに対して制御をかけなければならないという事から銀行という業態と証券会社という業態を分けたのです。しかし、それを1999年に銀行と証券の垣根を取り除いて統合してしまったという事が今回の出来事の背景にもなっています。現実に投資銀行という業態が消えていこうとしているようです。もっと監督のきつい、いわゆる銀行持株会社という業態に転換していかざるを得ない状況になっているようにアメリカはなんらかの形で金融というシステムのマネーゲーム化にブレーキをかける仕組みというものをぶち込んで来るだろうと容易に想像できます。

木村>それはある意味では政府というものの役割がこれまでよりもより強く大きくならざるを得ないということですね。

寺島>はい。市場は市場に任せておけばいいというのではなく、公的管理と言うか、制御された資本主義という方向に持って行くという事が一つ見えて来るだろうと思います。
 もう一つは産業政策です。新たな産業を興して経済に活力を取り戻さなければならない必然から様々な形で新しい産業復興庁というようなものをつくって政府主導の産業政策を展開した時代がありますが、今回、オバマは、そのように対応して来ると思います。オバマが言っているキーワードに環境・エネルギーに関して相当思い切った産業創生というか新しい産業を生み出して行くような「グリーン・リカバリー」というものがあります。つまり環境問題を梃に新しい産業をつくっていこうという挑戦をして来るだろうということです。それは例えば、環境に優しい車の開発であったり、そういう類の新しい産業を「グリーン」というキーワードで甦らせようとする流れです。更には、教科書に出て来るTVA(註.3)を設立して、巨大なダムをつくる等の公共投資によって景気を上向かせようとするチャレンジをしたというのがニューディール政策の一つの柱でもあったと思いますが、そのような事を考えていると思います。

木村>それによって雇用も拡大して確保していくことになりましたね。

寺島>はい。そうです。いまの時代における公共投資は大型のダムをつくるというインフラではなく、もっと社会政策的な意味を持った、まさに先程申し上げた環境などと結びつけた公共投資という類のものを構想して来ると思います。いずれにしても、オバマは世界に向けてアメリカの立場を確保するためにニューディール政策をやらなければならなくなるという事と世界が挑戦しようとしている世界金融システムの再生に取り組まざるを得ないという事です。事実、新しい「ブレトン・ウッズ」(註.4)という言葉が欧州あたりから使われ始めています。

(註2、世界恐慌を克服するために行った一連の経済政策。政府による経済への積極的介入を行う『社会民主主義』的な政策であり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた)

(註3、『TVA』=『Tennessee Valley Authority』=『テネシー川流域開発会社』の略。F.ルーズベルトが行った『ニューディール政策』の象徴であり、テネシー川に32個の多目的ダム建設を中心とした公共事業)

(註4、1944年にアメリカのブレトン・ウッズで連合国側が集まり1945年に協定が発行された。『ブレトン・ウッズ協定』とGATT=General Agreement on Tariffs and Trade『関税及び貿易に関する一般協定』)

<ニュー・ブレトン・ウッズ>

木村>「ブレトン・ウッズ体制」というのは、世界の国が集まって、1945年、端的に言うと、第二次世界大戦後のドル基軸の世界が成立したということでしょうか。

寺島>はい。よく我々は「ワシントン・コンセンサス」と呼んでいますが、世界銀行とIMF(International Monetary Fund=国際通貨基金)を中心にした世界金融秩序というものを打ち立てていこうという体制が世に言う「ブレトン・ウッズ体制」なのです。そのワシントン・コンセンサスを別の言い方をすると「ワシントンの意向」になります。つまり、アメリカの意向が強く反映した金融システムだったのです。これからは例えば、中国をはじめとする途上国もIMFとか世界銀行により大きく参画できるような仕組みとか世界の金融システムを安定化させるための投機的な活動をどうやって規制していくのか等の新しいルールづくりが「ニュー・ブレトン・ウッズ」という言葉のもとに構築されて行くでしょう。つまり「ブレトン・ウッズ2」と欧州は言っていますが、この構想の知恵袋は英国のブラウン首相で、プロモーターはフランスのサルコジ首相という形になっています。やはりここへきて広い意味で欧州が世界の金融秩序の再生に向けて物凄く重要になって来ています。
 当然のことながら本当は日本にとっても日本の発言力を高め、世界における存在感を高める大変大きな機会がめぐって来ていると言っても過言ではないと思います。問題は日本にガバナンスがあるかどうか・・・・・・。つまり、それだけの発信力を持って世界のシステムの再構築に対して発言していけるだけの知恵と構想力を持っている状況であればという事なのですが、これは必ずしも楽観できません。したがって世界が大きくうねりを上げて変わっていこうとしている時に、日本自身の知恵とかそういうものが問われて来ているのだという事だけはこの段階で言っておきたいと思います。

木村>はい。あと一つ寺島さんにこの時点での質問があります。オバマさんはイラクから原則的に確か16ヶ月以内に撤収しようと言っています。しかし、アフガニスタンについては非常に強硬な態度ですが、これは一体何を意味しているのでしょうか?

寺島>これは分かり易く言うと、アフガニスタンの攻撃までは「9.11」との因果関係、つまりテロとの戦いの結びつきにおいてアフガニスタンのテロの巣窟=タリバンなどの勢力を叩き潰すのは正当だという事に関してアメリカの国民はある種の合意が現在でもまだ強くあると思います。ところが、イラク戦争は「9.11」との因果関係から言っても、テロとの戦いから言っても、「間違った戦争であり誤った判断のもとに踏み込んだ戦争だった」とアメリカ人の間にも非常に広く認識されている違いだと思います。
 しかも、これはアメリカにとっては悩ましいのですが、イラクも強かで我々から見ればイラクのマリキ政権はアメリカの傀儡政権のように見えますが、結構アメリカに対して強く色々な事を要求しています。先日、アメリカがイラクの基地を使ってシリアを攻撃しましたが、イラクとシリアの関係は非常に微妙なので、「もし、自分の国の基地を使ってシリアを攻撃するのだったらアメリカの軍は即刻出て行ってくれ」という類の事を言い始めています。しかも、基地をどのように使うかという地位協定についてイラクとアメリカとの間の協定を結ぶ作業が進んでいて、2009年の11月までには撤退していく事を地位協定においてコミットしています。したがって、全くそれを無視するわけにはいかないというところにあるという事は間違いないのです。

木村>なるほど。寺島さんのお話を伺っていると、言葉を変えると「アメリカでいま何が終わって何が始まろうとしているのか」これをある意味では世界史的な視野で私たちが捉えておくことがいまの時期にとても重要であることが見えて来ました。

2008年10月26日

第8回目

木村>  寺島さん、今朝のテーマは何でしょうか?

寺島>  まず、国際連帯税のことについて触れておきたいのです。これは洞爺湖サミットに向けての首相を取り巻く温暖化の懇談会において、私が大変こだわった論点で日本は「国際連帯税構想」に参加していくべきだという趣旨のことをこの番組でお話したことがあります。この問題をもう一度きちんと最近の状況等を含めて大きな前進があったのでお話ししたいと思います。

木村>  最近の状況というと、何か近いところで動きがあったのですか?

寺島>  はい。そうなのです。9月29日に「国際連帯税を促進する議員連盟」(註.1)の国会議員約50人位が参加して、参議院の議員会館で一種の研究会を行いました。その会合には私も講演者として出席したのですが、そこで報告があります。私自身も前向きに喜んでいるのですが、9月26日には日本が国際連帯税を促進するリーディグ・グループという54カ国の国際連帯税導入のために旗を振っている国に正式参加することを表明して一歩踏み込んだのです。これは大変大きなことなのです。

(註1、2月28日、『国際連帯税創設を求める議員連盟』設立される)

<国際連帯税>

寺島>  「そもそも国際連帯税とは何だ?」という話なのですが……。
いま世界が直面している二つの問題をちょっとイメージしてもらいたいのです。一つは、明らかにいま我々が首を傾げながら苦しんでいるのは世界のマネーゲーム化です。要するに実態経済から乖離した、お金がお金を生むような経済構造、サブプライム問題そのものがまさにそうなのですが、つまり、欲と道連れの金融資本主義が物凄く歪んだ形で肥大化していって、食糧価格とかエネルギー価格の高騰をもたらしています。いわば過剰流動性を引用しているようなマネーゲームの人たちが、どこにお金を持ち込むのかによってあるときは食糧価格が高騰したり、あるときはエネルギー価格が高騰したりするのです。アメリカの住宅市場にはお金が向かわなくなったため、その分エネルギーや食糧といった先物取り引き市場に投機マネーが流れて、価格を高騰させたということは明らかなのです。例えばそういうお金を運用しているファンドの人たち全てとは言いませんが、多くの場合に本社を「タックス・ヘイブン」=「税金のかからない地域」に置いて、世界の出来事とか問題に対して「責任を共有していく」という視点ではなくて、「自分だけの目的のためにそのお金を活用していこう」という流れのなかに世界経済があると言っても決して誇張ではないのです。そういう人たちをどう制御するのか? マネーゲームをどう制御するのか? という議論もあります。それはまるで液体を紐で縛るような議論で、「そんなものは難しいでしょう」という話であまり関心が持たれてこなかったのですが、例えば世の中には「トービン・タックス」という議論がありました。

木村>  たしか1970年代でしたね。

寺島>  トービンという人はハーバード大学やイエール大学で教壇に立っていた経済学者ですが、1972年にこのジェームズ・トービンが、投機目的の短期的な取り引きを抑制するために提唱した税制度で、それを「トービン・タックス」=「国際連帯税」といいます。現在世界の為替取り引きは年間450兆ドルあると言われています。その取り引きに0.005%程度、本当に薄く課税したとしても、年間250億ドル以上の財源を国際社会で確保できます。それを国際機関が、例えば環境の技術を発展途上国に移転するためのコストにするとか、地球環境問題のなかでも北極とか南極とか何処の国が責任を持って問題解決に対応していいのか見えない地域に対する環境対策のコストの財源にしたりします。要するに環境問題は国境を越えた問題です。ところが、環境問題に対する対策を議論すると、国境を越えた問題であるはずの環境問題を再び国境の中に取り返して来て、「自分の国よりもあなたの国のほうがより責任を負うべきである」というような国家間のせめぎ合いになります。結局世界が当惑しているのは、先進国が責任を持つのか途上国も一緒に責任を持つのかということも含めて再び国家間の揉め事になっている現状についてです。

木村>  まさに「京都議定書の次を考える」という議論はその対立の場になっていますね。

<環境問題をどう認識するか>

寺島>  本来、環境問題というものには国境線が無いのです。日本海の生態系が問題だという話がもし見えてきたとしたら、それを良好なものに保つために日本だけが歯を食い縛って頑張って京都議定書の目標を達成していけば無事問題は解決しましたという話にはなりません。当然のことながらロシアも北朝鮮も韓国も中国も一緒になって日本海の生態系という問題に向き合わなければならないはずで、「一カ国が責任を大きく担って頑張れば問題は解決する」なんていう話ではないのです。そういうときに、まさに「国境を越えた問題には国境を越えた新しい仕組みが必要だ」という考え方に基づいて登場して来たのが「国際連帯税」なのです。これはフランスとかブラジルが中心になって旗を振っています。世界でも54カ国が「リーディング・カントリーズ」というものを形成して、いままで推進してきていたのです。

寺島>  フランスは非常にユニークで、前倒しに国際連帯税という名前で航空税のような形で徴税します。例えば飛行機でフランスに来たりフランスから去っていく人たちに対して税金をかけているんです。その税金で、例えば途上国の貧困対策とかフランスという国が国の政策意志によって税金を取って途上国対応にそれを使っているということになります。だから国際連帯税とは厳密には少し意味が違うのですが、国際連帯税のファースト・ステップとして「航空税で税金を取って途上国に対応していく財源にしよう」ということをやり始めています。
しかし、フランスが興味深いのは、国会で国際連帯税をもう可決しているということです。ただし、現実問題としては、EUの加盟国全てが国際連帯税に関する法案を可決して全員が轡を揃えたときに発行するという条件になっていますが、複雑な状況ではあるけれども、分かり易く言うと段階的にコンセンサスをつくっていこう、ということです。環境問題は何処かの国が責任を負うべきものではなくて、地球全体の問題ですから国境を越えたグローバルな仕組みのなかで税金を取って国際機関のようなものが活動していける仕組みにしたほうがいいという考え方が次第に台頭してきて54カ国がリーディング・グループを形成するくらいにまでになっていたというのが現状です。

<国際連帯税に向けて日本の取り組み>

寺島>  2月に日本の国会議員の中にもその構想に参加していくべきだと主張する人たちが出て来ました。まず36人が超党派で、この超党派というのが凄く重要なのですが、自民党も民主党も含めて超党派の国会議員が参加して「国際連帯税創設を求める議員連盟」を設立しました。委員長は津島さんという青森出身の税制調査会の会長をやっている自民党の長老格の議員です。このあいだまで防衛大臣をやっていた林芳正さんだとか、民主党の広中和歌子さんだとか仙谷由人さんとか、若い議員も名前を連ねていますが、そういう超党派の議員で推進していこうという人たちが出てきたのです。そして、ついに9月26日、日本国として正式に外務省がリーディング・グループに55番目の加盟国として参加するということを表明しました。(註.2)このことが大変大きな意味があるとだんだん伝わってきていると思います。

木村>  「ついに」と言うのは、それまでに曲折というか、必ずしも「いいね」という話で一直線ではなかったということですね。

寺島>  はい。そして、日本の主張すべき論点を何にするかいうことで、環境省にこの国際連帯税に関する研究会みたいなものも正式にできたのです。これは洞爺湖サミットを越えた日本が、政府主導で国際連帯税の方向に超党派的な流れの中へ踏み込んで来ているということは、日本の進路にとっても凄く意味があります。というのは、まさに全員参加型秩序と呼ばれているような世界秩序が求められている状況のなかで、アメリカやかつての超大国だとかが「右だと言ったら右」という方向に向く時代ではなくて、皆が知恵を出して地球の進路を決めていこうという流れが次第に出て来ているわけです。そういう流れの中で国際連帯税構想は、全員参加型秩序のルールづくりの一つの実験みたいなものです。

(註.2、2003年3月、「革新的開発資金源に関する閣僚会合」<パリ会議>の開催を機に、<1>開発のための革新的開発資金調達メカニズムに関する各種イニシアティブの促進、<2>航空券連帯税の実施、<3>その税収の使途を含む制度構築の推進等を目的として、フランス主導で立ち上げられた、国を参加単位とする協議のための会合。2008年2月末現在、54カ国が参加。我が国による正式参加の意図表明後、事務局による所定の手続きを経て、他の参加国より特段の反対がない限り、我が国の正式参加が認められる見通し。
1.我が国は、2007年以降、「開発資金のための連帯税に関するリーディング・グループ」にオブサーバーとして参加してきたが、9月26日、正式参加の意図を同グループ事務局<フランス大使館>に通知した。
2.正式な参加が認められれば、年2回の総会を含む同グループの全ての関連会合に発言権を有する形で参加することが可能となる)

<新世界秩序の象徴>

寺島>  ここのところを振り返ってみると、それこそアメリカが背を向けているけれども国際社会が一歩づつ踏み込んで行っている大きな流れの話の一つに「ICC構想」という「国際刑事裁判所」の構想があります。(註.3)

木村>  寺島さんはずっと力説なさっていましたね。

寺島>  はい。オランダのハーグにある国際刑事裁判所で国境を越えた組織犯罪、例えばテロや拉致等ですが、そういうものに対して国際刑事訴訟法的な手続きで所管していこうという流れがICCだったわけです。国際司法裁判所とは別に国際刑事裁判所が出来て、日本も去年これに超党派の議員連盟が力を発揮して入っていったわけです。これも大変大きな流れです。つまり、アメリカが参加しようとしないような「自国利害中心主義を固持して、世界のルールで自分を縛るな」という空気のなかで、アメリカが反対したくなるような話を、日本がアメリカを飛び越えてICC構想に参加しました。国際連帯税もまた、アメリカが物凄く渋っている話です。何故ならば金融資本主義が柱の国にとって、金融資本主義の動きに縛りをかけてくるというのはとんでもない話だということで拒否しているのです。私はやがてそれは拒否しきれなくなるだろうなあと思いますが……。そういう流れの中で、世界の大きなうねりのような一つの動向であるこの国際連帯税の構想に日本が踏み込んでいったということは、日本もICCと並べて考えていったら物凄く重要な動きのなかに踏み込み始めていったと言えます。
日本人が本当に気をつけなければいけないことがあります。「自分の国は国連を大事にして国際協調主義を生きている」というふうに私たちは思いたいし、思いがちなのです。
ところが、実態は違います。ついこの間まで私は欧州を動いていて、「なぜ日本は国際刑事裁判所に入らないのですか?」という素朴な疑問をぶつけられました。今回も欧州が震源地になって、環境問題、連帯税構想においても新しい全員参加型の時代のルール作りをリードし始めているわけです。だから私たちが頭を切り替えなければいけないのは、世界の金融不安の中で、アメリカの求心力が急速に衰えている状況で、新しい世界秩序のルールを作る、いわゆるせめぎ合いは、「何処でどういうものが芽生えてきていてどういう動きがあるのか?」ということについてよく考えなければいけないということです。そして我々、戦後という時代を生きてきた人間というのは、アメリカに対する過剰な期待と依存のなかで生きています。アメリカを通じることでしか世界を見ないということが身についてしまっているのです。私はこの固定観念を突き破って行くということが物凄く重要なテーマだと思います。だから「国際連帯税」というあまり耳慣れない言葉かもしれないけれども「大変に新しい時代を象徴している動きなのだ」ということを是非強調しておきたいです。

木村>  はい。リーディング・グループに日本が加わるという決意をしたかぎり、今度はアメリカに尺度を求めるのではなく、世界のなかで何をすべきか? ということをまさにこの場でこれから問われていく時代に入ってきているのですね。

寺島>  そういうことだと思いますね。

(註3、国際刑事裁判所<ICC>は、個人の国際犯罪を裁く常設の国際司法機関である。International Criminal Court、正式な略称はICC-CPI,通称ICCとそれぞれ表記される)

<日米関係史に於けるキャプテン・クーパー>

木村>  さて番組の後半は寺島さんの歴史観というものに基づいてお話をうかがっていこうと思います。

寺島>  はい。キャプテン・クーパーという人が日本にやって来た歴史的な事実について紹介しながらアメリカと日本の歴史的な関係をこれから私は何回かに分けて、我々の立っているところを確認して行くような話をしたいと思います。
 私は1987年から97年までアメリカの東海岸で仕事をしていました。そのとき、「ロングアイランドに、初めて日本に行った船長の家が残っているんだよ」という話をある人から聞かされたのです。アメリカ人として最初に日本に行った人物というふれこみでした。薄っぺらな歴史観しかない人間だと日本に最初にやって来たのは、1853年のペリーの浦賀来航ではないかと思いがちなのですが、実はそれよりもほぼ10年近く前にキャプテン・クーパーという人が日本を訪れているのです。我々は、開国の門を叩いたのは4隻の黒船を率いてやって来たペリー艦隊であり、大砲で脅かして日本に開国を迫ったという、いわゆる 「砲艦外交」がはじまりだと認識しておりますが、ところがそうではないのです。実は我々が思っている以上に伏線があって、ペリーが浦賀にやって来た前後に日本の太平洋側には毎年、数百隻以上のアメリカの捕鯨船がやって来ていたのです。

木村>  捕鯨船ですか? ちょっと待って下さい。いまアメリカは日本の捕鯨に反対していませんか?

寺島>  そうです。当時のアメリカは捕鯨国の先頭を走っていたのです。アメリカにとって鯨の脂=鯨油というものが大変な貴重品だったわけです。話をキャプテン・クーパーの話に戻しましょう。
 キャプテン・クーパーは捕鯨船マンハッタン号の船長としてロングアイランドのサグ・ハーバーという港町を1843年に、つまりペリーの浦賀来航の丁度  10年前に出航して大西洋からアフリカの南を回ってインド洋から太平洋へと入ってきました。千島列島の近くで4ヶ月あまり捕鯨をして18頭の鯨を捕まえてハワイに行きました。捕鯨船の供給基地となっていたのがハワイだったからハワイに3ヵ月ほど立ち寄って、再び鯨獲りのために北方漁場に出たとき、鳥島に漂流民として漂着していた11人の日本の漁民を救助しました。更に、偶然に南部藩の佐野から難破して漂流している別の船があり、そこにも11人の漁民が乗っていて合計22人の日本人を漂流民として助けたわけです。そして、そこから浦賀に送り届けに来てくれたのです。つまりこれが「キャプテン・クーパーの来訪」だったわけです。

寺島>  まずここで確認しなければいけないのは、初めてアメリカ人が日本にやって来た時は砲艦外交という恫喝でも脅迫でもなく、極めて人道的な理由でやって来たということです。そして、浦賀にやって来たクーパー船長に浦賀奉行が対応するというまさに、その後ペリーがやって来たときの予行演習みたいなことが行われているわけです。それに対応したのが老中、阿部正弘でした。
 このときの記録を調べてみると大変面白いのです。幕府は浦賀にペリーがやって来たときにびっくり仰天して右往左往してどう対応してよいのかパニック状態に陥ったというイメージがありますよね? しかし、それは全くの嘘でいかに システマティックに対応したのかということがキャプテン・クーパーの対応によくにじみ出て来ています。非常に組織立って、このときは人道的な理由で日本人を送り届けて来てくれたということでまず感謝の意を表しました。但し、日本は鎖国時代ですから大変ありがたいけれども上陸を許すことはできなかったので、食糧とか薪等色々なものを御礼としてプレゼントしているのです。物凄く善意に満ちた、アメリカの最初の日本に対する来訪だったと言えます。その後、キャプテン・クーパーは友人を介して日本に自分が訪問したときの詳細な情報をペリーに伝えているのです。クーパーが入手して来た日本の地図もありました。これを直接渡したかどうかというのはまだ議論の余地があるようですが、捕鯨船マンハッタン号が浦賀にやって来たということが、後のペリー来航の伏線であり導線になっているということは間違いないのです。つまり歴史がそういう脈絡で繋がってきているということでしょうね。日米関係というものを考える時に、アメリカの捕鯨船が最初に日本の扉を開いたという事実をどう認識するのかということが重要になって来ます。木村さんがまさに言っていたように、いま反捕鯨国の先頭を走っているアメリカが、捕鯨国の先頭を走っていた時代があったのです。しかも、ペリーが浦賀にやって来た理由としては、捕鯨船に対して薪とか食糧とかを供給してくれる補給基地としての日本を期待したということが第一にあり、その先に中国との貿易を視界に入れてあったのです。つまり、アメリカがどんどん西に開拓を伸ばして行って、西海岸にたどり着いてアジアが見えて来たという時代と重なり合っているわけです。しかも1870年代までですからまだ130、140年位前まであらゆる灯りだとか産業用の資材として鯨が物凄く貴重で、灯りの根源が鯨油だったのです。こういうあたりの歴史的な脈絡を非常に正しく認識する必要があるという話です。(註.4)

木村>  日本の人たちからしてみると、初のアメリカ発見だったわけですね。しかも、なんとか帰りたいと思っていた人たちを日本に送り届けた。日本にとってのアメリカという存在をこれからどう考えるべきか……。まさにそういうところに立っているだけに寺島さんのこれからのお話の展開が楽しみになって来ました。

(註4、アメリカ合衆国は、建国当初からヨーロッパの動乱に巻き込まれないよう孤立主義の外交政策をとって来た。その方針は第5代モンロー大統領による「モンロー宣言」として明確にされているが、ヨーロッパの紛争を回避しながら、その分西部開拓や中南米への進出に力を注いでいた。西部開拓がほぼ完了すると中南米諸国に侵略をはじめ、1845年メキシコから独立した『テキサス』を併合し、1846年には「米墨戦争」を起こし、その勝利によって『カリフォルニア』『ユタ』及び『ニューメキシコ』『ワイオミング』『コロラド』『ネバダ』の一部を割譲させて西海岸に到達した。その時点で、アメリカは、大西洋、太平洋をまたぐ大陸国家となり、捕鯨船の活動基点の確保と中国という目標に目を向けていたという時代背景がある)

2008年10月19日

第7回目

木村>  寺島さん、今朝のテーマはなんでしょうか?

寺島>  やはり世界金融不安というかアメリカのサブプライム問題を基点として、いま世界経済が完全に凍りついて来ているのではないかという状況です。これに対する理解を深めたいと思います。

木村>  そこでリスナーの方から「75兆円に上るブッシュの緊急経済安定化法案が承認されました。しかし、株価は下落しています。75兆円の公的資金を投入したとして果たして世界的な金融不安はおさまるのでしょうか?」という声も届いています。いま考えるべきはこれがおさまるかどうかよりも、もう少し何か考えることがあるのではないか?という思いがしてならないのですがいかがでしょうか?

<歴史をふりかえる>

寺島>  私はまず、昔こういうことがありましたという歴史認識から確認していきたいと思います。1929年に大恐慌の時代に世界は入っていくわけです。

木村>  暗黒の木曜日ですね。(註.1)

寺島>  そうですね。79年前の10月24日のことでした。1933年までの間にいわゆる資本主義国の工業生産が44%落ちました。更には世界貿易が66%減少したという途方もない大恐慌の時代を世界は経験しています。(註.2)

木村>  世界の経済全体が収縮してしまったのですね。

寺島>  はい。あの時を思い出させるような恐慌が迫っているのではないのか、という見方が一つあるわけです。しかも経済的な恐慌という話だけではなくて、政治不安のような空気も漂って来ています。1929年というとドイツにナチス台頭といいますか、ニュールンベルグでヒットラーの率いるナチスが60万人を集めて全国大会をした年でもあって、ドイツにナチスが台頭する年でもあったわけです。その後、世界は「ファシズムの台頭」という時期を迎えたのですが、いままた世界経済は冷戦が終わった後にグローバリズムだとか新自由主義だとかいって改革開放とか市場化ということで一生懸命に旗を振ってきましたが、その行き詰まりというか、裏切られた気持ちというものが大きくなっています。混迷の中で必ず首をもたげてくるのは、「笑顔のファシズム」とあえて言っておきますが、混迷の中で国民が苛立って、もっと指導力はないのかとか統合力はないのかと言って政治不安みたいなものが沸き起こってくると、国民の苛立ちが力強い指導力とか力強い指導者を待望する方向へ向かうわけです。

木村>  たしかファシズムという言葉そのものが「何かを一つにまとめる」という意味の言葉ですね。

寺島>  そうです。苛立って来てバラバラだとかこの国は腐っている、という気持ちになって来ると「笑顔のファシズム」という誘惑がスッと頭をもたげてくるのです。そこで我々は1929年当時の状況というものをよく教訓にしながら いま進行しつつあることを少し整理してみましょうということなのです。

(註1、1992年10月24日木曜日、ニューヨーク株式市場でゼネラルモーターズの株価が80%下落した事により世界恐慌がはじまった日。この日だけで11人の投資家が飛び降り自殺をした)

(註2、1914年から1918年の第一次世界大戦後=1920年代のアメリカは、戦後のヨーロッパへの輸出を中心として、重工業への投資、モータリゼーションの始動による自動車工業の躍進、国内消費の拡大等によって経済的好況にあった。
  1920年代の前半頃から農産物を中心に余剰が起こっていたが、ヨーロッパへの輸出にふり向けられていた事で問題はなかったのだが、農業の機械化による過剰生産やヨーロッパの復興、ソビエトの世界市場からの離脱等の事情によって、アメリカでは次第に農産品だけでなく、工業製品等も過剰生産になっていった。1924頃から投機熱が高まり好況でだぶついた資金が株式市場に流入し5年間でダウ平均は5倍に高騰した。1929年9月3日にはダウ平均株価が381ドル17セントという最高価格をつけたが、この頃から市場は調整局面を迎えて株価は乱高下する状況となった。そのような背景の中で1929年10月24日ゼネラルモーターズの株価の大暴落が起こり、世界は大恐慌へと向かうことになった)

<サブプライム問題と米国の財政赤字>

寺島>  そこでいま我々が目撃していることはなんなのか? ということですがアメリカの上下両院が、リスナーのかたの質問にもあったように、公的資金を使っても金融機関が持っている不良債権を買い上げるという法案を可決したということで、世界は一安心というかホッとしているような空気もあるわけです。

木村>  一度は否決されてそしてすぐ上院で可決して、ニューヨークの株が777ドルも一挙に落ちて大変だということでしたね。(註.3)
寺島>  はい。それを世界金融不安の震源地であるアメリカが責任を感じて不良債権の公的資金による買い上げという仕組みを通過させたわけですが、「本当に大丈夫なのか?」という話なのです。
私企業の活動に公的機関が介入しないことを「アメリカ流資本主義」の一つの特色としている国なのに、結果的にはやはり公的資金で問題解決をしなければしようがないところに追い込まれてしまった。
整理してみると、今回の7000億ドルと住宅系の公社2社を救済するために既にコミットしている2000億ドルとAIGという保険会社につなぎ融資的に国が公的資金を入れる額が850億ドル。ここまでだけでほぼ1兆ドルです。財政に負担をかけてくるコミットメントです。しかも上院で可決される際に、国民の理解を得るために国民に対して1100億ドル減税という案を埋め込んでしまったのです。ですからもうアメリカは1兆ドルを越す財政負担を余儀なくされている法案を経済安定のために通過させたということです。
一方、イラク戦争での戦費がいま1兆ドルに迫って来ています。この数字は分かり易いので申し上げるのですが、サブプライム問題での財政負担でコミットしたのが1兆ドル、イラク戦争の戦費が積もりに積もって1兆ドルです。

寺島>  しかし、それで済むかというとそれはとんでもない話で、この番組でも話題にしたことがありましたが最近では「3兆ドルの戦争」と言います。イラク戦争は3兆ドルのコスト負担を余儀なくされるのではないかと予測で言っているのです。ということは3兆ドルは別にして、少なくとも2兆ドル=200兆円を越すお金を「イラク」と「サブプライム」のために財政が負担するという方向にいまアメリカが向かっているというわけです。200兆円ということは日本の年間国家予算の半分に相当する額です。あえて後ろ向きと言っておきますが、後ろ向きのことで財政が負担せざるを得ないということになります。

木村>  その日本の国家予算は特別会計とか色々なものを全部含めた額ですか?

寺島>  全くその通りです。そういうなかで間違いなく言えることは、アメリカの財政負担は物凄いことになって財政赤字が一段と深刻化するだろうなあということは容易に想像がつきます。アメリカの2007年の財政赤字は1615億ドルだったと言われています。今年の1月から7月までの数字が発表されていますが、既に2645億ドルの赤字になっています。これに後半にかかって来る、いまコミットした数字が出てきますから多分今年はどんなに少なく見積もっても5千億ドル以上の財政赤字です。(註.4)

寺島>  来年はやがてそれが1兆ドルを越すような財政赤字になっていくであろうと簡単に想像がつくわけです。その財政赤字ですが世に言う「双子の赤字」というものです。財政赤字と経常収支の赤字がアメリカの双子の赤字だと言われ、よく議論されて来ました。

木村>  貿易と国内の財政、二つの赤字ですね。

寺島>  そうですね。その経常収支の赤字もどんどん垂れ流しながらアメリカという国が今日まで繁栄を謳歌して来られた理由は、産業の実力以上の軍事力と産業の実力以上の消費社会を実現して、産業の実力以上にお金が外からアメリカに流れ込むという仕組みによって支えられていたからです。
人で例えるならば、下血がどんどん続いているような状態を輸血によって持ちこたえているという構造になっていたのがアメリカだと考えると分かり易いと思います。

木村>  出血するけれど、それ以上に輸血してどんどん血を補っていたと……。

寺島>  そうですね。何故アメリカにだけお金が回るのかということは、金融の世界で長い間議論している人間にとっても大変な疑問符が打たれていたポイントなのです。

木村>  何故ですか?

寺島>  それはアメリカの金利が相対的に高いからです。例えば日本にお金を置いておくよりもアメリカにお金を持っていったほうが金利の差を享受できるということなのです。事実、去年の秋まではアメリカの政策金利は5%台だったのですが、景気対策で政策金利を落としてきて、いま2%前後です。日本は0.5%ですから金利差が大分縮まって来たけれども、まだアメリカよりも日本のほうが低いという状況です。その金利差でアメリカに、アメリカに、とお金が向かっていたのですが金利の差が縮まってきているので最近は、為替のリスクを考えたのであれば必ずしもアメリカにお金を持っていったほうが有利だとも思えないという状況になって来ています。まず金利差を求めての動きにブレーキがかかり始めたのです。更に「アメリカの金融市場の多様性の魅力」といことを金融関係の人はよく言います。それはどういう事かと言うと、お金を日本に置いておくよりも有利に運用できる方法があります。選択肢がたくさんあるということです。実はその選択肢の一つにサブプライム・ローンが入ったような証券化商品があったわけですから腰が引けてしまったというか、凍りついてしまったというか、さすがに「アメリカの金融商品は信用できない」ということになって来て、ここのところのアメリカに対するお金の動きを見ると経常収支の赤字を遥かに上回る資本収支の黒字がアメリカを支えていたのが、資本収支の黒字が経常収支の赤字を上回らなくなって来ています。分かり易く言うと輸血の量のほうが下血量よりも減ってきてしまったということです。

(註3、9月29日、ブッシュ大統領の『緊急経済安定化法案』が下院で否決されたことによってニューヨーク株式市場では、ダウ平均株価の終値が777.68ドル安となった。その後、10月9日のニューヨーク株式市場では、ダウ平均678.91ドル安と900ドルを大幅に割り込み2003年5月以来、5年5ヶ月ぶりの安値で取引を終了。更に、10月13日にはダウ平均株価は、前週末終値比936.42ドル高という過去最高の上げ幅を記録して取引終了。更に、10月15日には、ダウ平均が733ドル暴落するなど株価の乱高下の状況を呈している)
(註、4 米政府発表によると、2007年10月から2008年9月までのアメリカの財政赤字は、過去最大の4550億ドルか=45兆9550億円となっている)

<無極化へのターニングポイント>

寺島>  そこで、今年は大変大きなターニングポイントになっていくだろうなあ、と私たちは見ています。それは何を意味しているかというと、財政も思いがけないほどの大きな負担を強いられて国民の税金にのしかかかるということです。外から引っ張って来ることが出来ていたお金も思うようにアメリカに集まって来ないという構造の大きな変化が起こり始めています。現在、我々が生きている時代で進行している事というのは、アメリカの求心力が急速に低下して来ているという事実が如実になって来ている状況です。それは多分、冷戦が終わって1991年にソ連が崩壊して東側に対して西側が勝ちました。西側の中心にいたアメリカ、東西冷戦の西側のチャンピオンだったアメリカが勝利しました。それによって、「アメリカのひとり勝ち」とか「一極支配」とか「ドルの一極支配」と言われて来ましたが、ここに至って、構図がガラッと変わって来て、以前番組でも申し上げましたが、一極支配どころではなくて多極化を通り越して無極化、「極なんてないのだ」というくらいに混沌とした状態に世界が向かっているということを我々はいま見せつけられています。このことに気づかなければいけないのです。
したがって、ただ単に世界の金融恐慌が来るかどうかということよりも曲がりなりにも世界のリーダー国として冷戦後の世界を束ねていたアメリカが一気にある種の求心力を失い、束ねていく力を失った事によって、世界がいわゆる「括弧つきの冷戦後の世界」という時代から大きく局面展開して、新しくどういう方向に向かうのかという局面にあることを認識しないといけません。要するに唯一の超大国なるものが消え去って、新しい時代の秩序をめぐって全員がガヤガヤと自己主張し始めているような空気の真っ只中に今世界はあるというか、つまり時代はそのような大きな構造転換期にさしかかっているということを我々はよく認識しなければいけないのです。
そして問題はそういう時代の大きな構造変化を日本の政、財、官を含めての指導的立場の人間、つまり分かり易く言うと日本の戦略シナリオを書いていかなければいけない立場の人間が、どこまで理解して、どこまで大きく問題意識の中に埋め込んで、その世界観のもとに日本の舵取りをしているか、ということが我々にとってはより重要です。
かつて1929年の世界恐慌のときも日本は明らかに道を間違えているのです。そして苛立ちのなかで例えばヒットラーやムッソリーニを称えて、日独軍事同盟とか日独伊の三国軍事同盟とかの大きな流れが出て来きました。つまり、たえず苛立ちのなかで選択が行われていくのです。この誘惑をよく考えていないと物凄く危ういことになりかねません。

木村>  たしかあの時代、「寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患(うれ)え」という言葉が論語にもあるのですが、それが逆に「等しからざるを憂えずして少なきを憂う」ということになってしまった、つまり「皆ができるだけ分かち合うのではなく、日本の国は資源も少ないし経済的にも貧しいのだから他国へ出て行こう」というような論理がパッとそのなかに入ってしまっていると……。

寺島>  そうですね。持てる国と持たざる国とかそういうことから世界観が急速に舵をきられてくるような可能性が大いにあるわけです。特に民主主義的なシステムは誰かが独裁してスパッと切り裂いていくようなものではないから、色々な意味でもたつくのです。時間もかかるし調整のコストもかかります。そういうことに苛立たずに時代をしっかり見据えていないと、つい、力の論理で現状を打破していこうということに誘惑を感じてしまうのです。その教訓をここでもう一度踏みこたえていないと金融恐慌は金融だけの話では終りません、ということをよく考えなければいけないのではないでしょうか。

木村>  まさしく最初に聞いたメール、「世界的な金融不安はおさまるのでしょうか?」というリスナーのかたの声ですね。つまり、勿論おさまるということも大事なのだけれどもいま考えなければいけないことはそういう歴史に根ざした「我々は一体何を体験して来たのか」ということをきちんともう一度思い出すことができる力、そこから「しっかりいまの世界がどう変わりつつあるのか」ということを見ることができる力、ということが問われていると……。

寺島>  そうですね。ポジティブなことをあえて一つ言っておくと、1929年といまの違いなのですが、1929年は資本主義といっても統計のカテゴリーに入ってくる国はアメリカと欧州と日本くらいなものだったのです。しかしいまは「BRICS」などと言われて、世界の裾野が非常に大きく広がっています。それからもう一つは、「国際協調連携なくしては、どんな国も孤立して生きてはいけない」ということを我々は学んでいると言えるのです。その一番分かりやすい例は北京オリンピックの開会式の日にグルジア問題がどーんと出て来て、ロシアがコーカサスの南に南進していったと……。ロシアは力の論理でアメリカがまさにイラクでやろうとしていたようなことをコーカサスでやるのか、と思うくらいにドキっとしました。そしてひょっとしたら「新冷戦の時代」という言葉までが登場して来て、またアメリカとロシアが頭の角を突き合わせて東西に割れてくるような時代が来るのかと思いました。しかしその後の経緯を見ていると、ロシアから西側の資本の400億ドル~500億ドルが1カ月半くらいの間に流れ出てしまいました。分かり易く言うとみんな凍りついて、「こういうちょっと危うい国に資本を投下しておくのは如何なものか?」と去ってしまうわけです。そうするとルーブルが下落して世界の中でロシアが生きていくのにはとても大変だというになり、またある種の協調路線のような形で妥協し始めています。それはロシアも中国も、勿論アメリカも世界のなかから孤立した政策は結局「自分の首を絞める」という、これが本当の意味でのグルーバル化の時代なのです。つまり私が言う「全員参加型秩序」「無極化の時代」というものが益々、木村さんが先程おっしゃった「分かち合い」という言葉、協調し分かち合って連携していかなければいけないのだということをこういうプロセスのなかからも学んでいるのかもしれないのです。

木村>  はい。それだけに日本は寺島さんがおっしゃるように「変わる世界」ということをしっかり認識して、その上で進路を組み立てていく力が問われる時代だということですね。

寺島>  まったくその通りです。

木村>  是非、それを日本の私たちは持ちたいと思います。そのために私たちは寺島さんのお話を伺っているのだと思います。

2008年09月28日

第6回目

木村>寺島さん、前回の放送では「戦後63年目の夏」というテーマ設定で寺島さんが月刊「世界」に連載されている「問いかけとしての戦後日本」というものに触れながらお話を伺ったのですけれども今朝は「2008年夏 今、ドバイをどう認識するか」。ドバイというのはテレビの番組のタイトルではありませんけれども沸騰するような都市だと……。大変なエネルギーに満ちて今は世界で注目の都市だといわれていますね。

<ユニオン・ジャックの矢>

寺島>そうですね。8月末にドバイで「中東ドバイ会議」(註1)がありまして、これは日本の経産省がバックアップしている会議なのです。なんと日本から270人のビジネスマンが行って現地の人たちも合わせて大変熱気のある会議が行われました。私はそこで若干自分の報告もするという役割で行ってきました。
ドバイの光と影といいますか、やはりこれをどうみるのかというのがいまの世界を考える上で大変ヒントになる話題だと思いますので今朝はそれに触れていきたいと思います。
(註1、 『中東ドバイ会議』=『中東協力現地会議』、経済産業省の外郭団体である(財)中東協力センター主催。今回は第33回目の会議となる)

木村>光と影ですか。

寺島>はい。ドバイというとまず巨大開発というものがイメージとして浮かぶと思います。なにしろ世界一と名前のつくものが物凄い勢いでできています。例えば世界一の超高層ビルというのが話題になりました。800mのビルですね。いま約650mを超すところまで建ってきています。私はすぐそばまで行って見上げました。

木村>凄いですね。

寺島>それから世界一のショッピングモールがあります。TAXフリーで税金がかからないというモールで日本から訪れる人たちにとってショッピングゾーンとしての「ドバイ」ということが大変話題にもなっています。そういう種類の話題がどんどん集積しているのですが、この「ドバイ」というものをどう考えるのかということを今日はお話したいと思います。
まず一つはドバイはUAE=アラブ首長国連邦という7つの首長国の内の一つということでドバイが成り立っています。ドバイをみるときに大変重要なのは日本人のイメージの中にUAEは産油国だからオイルマネーで潤ってそれだけの活況を呈しているのだろうということがあります。しかし、実は現在ドバイには石油は出ないのです。つまり石油が出ないからこそドバイはドバイになったと言ったほうがいいと思います。というのは、いわゆる仲間内の他の首長国カタールなどからは石油が出て大変潤っているのを横目で見ながらシェイク・ラシードという建国の父と呼ばれている人はこの地域をどうしていこうかと考えた末に、一種の「フリーゾーン国家」といいますか、例えば港湾などを整備して中東の貿易基地としてのドバイを創り上げようとしてまずフリーゾーンというものを創り上げました。

木村>はい。

寺島>「ドバイは中東のシンガポールだ」という言い方があります。それはさしたる面積もなく工業生産力も無い国が豊かな国になるためには知恵を出さなければならなかったということです。例えば中東貿易の基点としてのフリーゾーンだとか、メディアシティや国際金融センターをつくったり、ヘルスケアセンターといっていわゆる病院、医療の施設をつくったりして人やモノの動きを惹きつけるような工夫をしたということです。つまり、ドバイに石油が出なかったことがそういう工夫をしなければ我々は生きていけないぞという緊張感にも繋がってドバイという国づくりが始まったというのが重要なポイントです。もう一つ重要なのがイギリスが残した「英連邦のネットワークの中のドバイ」ということを考えなければいけません。

木村>はい。

寺島>私が今回発見した中で驚いたことはドバイとインドの関係です。これは今日に始まった関係ではなくて、歴史的に大英連邦のインド支配に際して香料の貿易などの基点としてドバイが歴史的な役割を果たして来ているという事実があります。今でもドバイに住む160万人の外国人の内100万人がインド人です。その中には建設作業に従事しているインド人たちも勿論いますが、それだけはなくてバンガロール、つまりIT大国化して大金持ちになったインド人がドバイに別荘を持ったり活動の拠点を持ったりするということが大変多いということです(註 2)。つまりインドとドバイの連携が物凄くエネルギーを生み出しています。そこで、世界地図を頭に描いてもらって、イギリスのロンドン、中東のドバイ、インドのバンガロール、東南アジアのシンガポール、オーストラリアのシドニーを繋ぐラインを確認して下さい。このラインをいま世界では「ユニオン・ジャック・アロー」=「ユニオン・ジャックの矢」(註、3)と呼びます。この、矢のように連なっている地域の連携が実は世界経済を支える大きなファクターとなっています。つまり、イギリスのロンドンは世界の金融センターとしての機能を持ち、ドバイは湾岸のオイルマネーの国際金融センターであると同時に世界第7位の港湾にのし上がった物流拠点としての機能を持ち、インドのバンガロールはIT大国化するエネルギー源であり、シンガポールは目に見えない財で国家の付加価値を生み出すシステムとか技術、ソフトウエア、情報の拠点であって、オーストラリアは新たな資源大国という位置づけになります。それらが一つの矢の様に繋がっているわけです。こういうとかつての大英連邦というイメージを描きがちですが、この「ユニオン・ジャック・アロー」が機能するところには、イギリスが歴史的に残してきた文化、法制度、そして共通言語というものがあります。従って、いま世界の経済を支えている大きなエネルギーの中で大英連邦は「ユニオン・ジャックの矢」という形で新しい意義を持っているということになります。そして、ドバイがポーンと虚構の繁栄をしているということではなく、ネットワーク型連携の中で繁栄しているということを認識しておく必要があります。
(註2、バンガロールは『インドのシリコンバレー』とよばれているIT産業の拠点)(註 3、Union Jack=英国旗、英連合表象旗)
しかも、ドバイをドバイたらしめている大きなファクターのひとつがエミレーツという航空会社なのです。これは日本では関西国際空港や中部国際空港に入ってきています。これがドバイの広告塔であり、ドバイに人々を惹きつける装置でもあるのです。実際今回はエミレーツに乗ってみたのです。私が感じるのは最新鋭機を投入しているだけではなくて、大変魅力のあるソフトを付加している点です。というのは、500チャンネルの映画放送をエコノミークラスにもサービスしているのです。色々な言葉で観られるようになっていて、例えば日本人にとっては10本位最新の邦画が日本語で観られます。「椿三十郎」とか或いは「三丁目の夕日」の続編だとか……。しかも話にオチがあって、この技術を開発したのはパナソニックなのです。日本の航空会社にはのっていない最先端の500チャンネル映画放送の設備をのせて飛んでいます。
その上ドバイの空港自体にも付加価値があって24時間稼働しています。総てのショップが開いていてトランジッションでドバイを経由して行きたいという人を増やしているのです。実際にドバイに目的がある人は3割、あとはそこからアフリカとか欧州にトランジッションしていく人なのです。それが日本にとっていろんな意味があるんだなあと分かるのは、例えばびっくりすると思いますけれども関西国際空港と繋いでいるエミレーツが毎日毎日アフリカのケニアの薔薇とカーネーションを運んできているという事実です。世界のフラワーセンターの一番大きいところはオランダというイメージだったけれども今はドバイになってしまっています。

木村>花の市場ですか?

寺島>はい。それでケニアから積み込んだカーネーションとか薔薇をドバイでトランジッションしてエミレーツが日本に運んで来るというのが日常的になっています。この辺りが大変重要なのです。

<ドバイの光と影>

寺島>しかし、「ドバイって凄いんだよね」という光の部分だけ強調するとドバイというものを見誤る恐れもあります。というのは、ペルシャ湾をイメージしてみて下さい。ドバイというのはペルシャ湾の南側に在ります。そしてペルシャ湾を挟んだ北側には、依然イラク戦争の後遺症が色濃く残っているイラクと核問題で国際的に注目されているイランという国があります。つまりペルシャ湾の北側のある種の混乱に乗じて、ペルシャ湾の南側がエネルギー価格の高騰の恩恵を受けて繁栄しているというのが2008年の状況です。イスラム教シーア派のようなイスラム原理主義の動向いかんによっては、ドバイの輝きはいつ途絶えるかわからないというある種の恐怖心みたいなものがよく分かるのです。ひょっとしたらこの華やかさはあっという間に途絶えるかもしれないという緊張感がつくり出している輝きかもしれないとも思えます。
従って、ドバイがいま世界一の様々な巨大プロジェクトを進めているという、その光の部分にだけ目線を奪われているのではなく、この国が抱え込んでいるリスクというものにもしっかり目を向けていなくてはいけないのだなあというものが、私のドバイに対する印象でした。

木村>なるほど。人、モノ、金、情報というものを世界から吸い寄せるような物凄いエネルギーを持っているという事と、中東というなかで国際政治或いは力学の中で非常に緊張感というものもはらんでいるということが伝わってきます。

<リーマン・ブラザーズ破綻と日本経済について>

木村>そのお金、経済という世界で言いますと東京で聴いて下さっているラジオネームがナカムラトシアキさんという方からメールが届いております。「この15日リーマン・ブラザーズが破綻しました。これを受けて世界同時株安となる……」というメールなのですが、気になるのは「1930年代初頭に起こった世界恐慌を思い出させます」(註 4)ということなのですね。「いま様々な意味で世界の枠組み、構造が変わろうとしているわけですからどうしても嫌な予感がする。どうしてこういう予感がするんだろうか」という問いかけのメールです。様々な具体的な動きはちょっと置いて、一体背後に何が起きているのか? 何を我々は見るべきか? ということが重要だと思うのですが……。
(註4、1929年10月24日『ブラック・サーズデイ』にニューヨーク株式市場で株価が大暴落したことに端を発した世界規模の恐慌)

寺島>昨年の世界全体の金融資産は170兆ドルくらいになっていると言われていますが、今世紀に入ってのわずか7年間でこの世界の金融資産は80兆ドルも増えたと言われています。

木村>増えたのですか?

寺島>はい。要するに世に言う金融肥大型の資本主義というかマネーゲーム型の資本主義に傾斜している世界という姿が浮かんで来るわけです。しかもその先頭をきっていたのがアメリカ流の資本主義というものです。リーマン・ブラザーズの責任というのは大変重かったと思います。どういうことかと言うと、サブプライム・ローンなる仕組みを作り出して世界の金融不安の震源地になったところに立っていたのが、リーマンだったからです。
サブプライム・ローンという仕組み、もう一回振り返ってみると悪知恵の資本主義と言ってしまうとそれっきりなのですけれども、よくぞここまでひねりにひねった金融ビジネスというものを思いついたなあという話なのです。アメリカの低所得層に家を建てさせる。そのためのお金を貸す。普通の常識ではローンを返済できなくなってくるリスクが高い。しかし、アメリカの住宅市場がどんどん高騰して3年経ったら倍になるというくらいの勢いになっていたときに最初低金利でお金を貸し込んで3年経って金利をどーんと跳ね上げる。それと共に今度は高くなっている住宅を担保にして新たにお金を借り替えさせればいいという仕組みがサブプライム・ローンというものでした。
しかもリスクのある債権をリーマンの商品として証券化して、明らかにリスクのある債権を混ぜこぜにしてそれを見かけのいい皮で包んでハイリスク、ハイリターンの危険なものの債権も入っていますよとちゃんと注意書きに書いて売り出したわけです。そこに世界の過剰流動性といった、先ほど申し上げたような金余り現象のようなものが飛びついて買ったわけです。リスクを分散したつもりだったけれども結果としては拡散させてしまった……。要するに証券化したもの全体の信用がずどーんと落ちてしまって世界全体が凍り付いてサブプライム、サブプライムという形になってこの仕組みそのものを思いついたリーマンが崩れたということです。
アメリカの政府が他のベア・スタンズのときや、メリル・リンチのときには一定の面倒をみました。しかし、リーマンだけは突き放したという形になっています。それというのもやはりリーマンを救ってしまったら、国民の税金で、自分のリスクで世界を混乱させたものを救うということになってしまいますから……。ある種のぎりぎりの判断でけじめという意味でリーマンには退場してもらわなければ困るという判断があったのだろうということだけは言えると思います。

木村>それが、ポールソン財務長官が「これを救済したらモラル・ハザード(モラルの崩壊)が起きる」と最後まで言い張った。つまり、そういうことだった。

寺島>はい。まさにそういう文脈ですね。

<後半>

木村>寺島さん、お話では悪知恵資本主義というかなり強烈な言葉も出てまいりましたが、ある意味ではマネーゲーム資本主義で元々無理がある資本主義というものが今大きく反省を求められているのだというお話の受け止めなのですけれど、我々はこれから経済の世界のみならず、これによって一体何が起きて来るのか? どういうことを注目すべきなのでしょうか?

寺島>私は今から7、8年も前に「『正義の経済学』ふたたび」(2001年4月日本経済新聞社出版)という本を日経新聞から出しています。そこで、マネーゲームに傾斜するアメリカの危険性を指摘していたわけですが、結局正気に戻らないままに世界を混乱させるところに行ったな、という思いがします。ただ、アメリカというのは結構機動力があってある種の政治的な判断の元に、先ほどのリーマンに対する判断もそうですが、救うべき者は救う、めりはりをつけた金融政策をバシバシッと打ってくるわけです。

木村>厳しくやるところは厳しくやると。

寺島>はい。むしろ今この世界を見渡して心配しなければいけないのは、日本ではないのか、ということが私の本当の気持ちです。というのは、政治がガバナンスを失っているでしょう。政治空白をずっと数ヶ月続けるようなことになりかねないですよね。そういう状況下で一番悪いタイミングでリーマン・ショックみたいなものを受けたと。
それで一番大きいのは信用不安というものです。金融庁が厳しく銀行の経営に対して縛りをかけて、例えば業績の悪くなった企業に対して銀行は格付けというものをしっかりと整えて来たから格付けを下げざるを得ないと。下げたら下げたものに対して引当金というものを増やしていかなければならないということになります。要するに生きたお金が経済の活動の現場に回るのではなくて、死んだお金として引当金みたいな形でストックされているような状況になって、血流は末端の細胞に回らない状況に近いようなことが現実に日本でも起こってきているわけです。それが政治空白の中で果たしてどうなるのかという不安を与えていると思います。
従って受け身で世界の流れがそうなっているから仕方ないという感覚で、さて日本はどうやってそれを受け止めるのかではなくて、こういう状況下を力強く生き延びるのか? という事を考えなければいけないと思います。アメリカの見よう見まねのマネーゲームの様な世界に引きずり込まれているのではなくて、自分たちの経済の原点である技術力をもって世界に冠たる品質の高い商品、例えば車であったり家電機器に象徴されるものを生真面目につくっていくということに立ち返るべきです。発想を変えれば技術開発によって、20年後の日本を世界に冠たる資源大国にすることだって出来ると言われ始めています。それはなんだというと、日本の国土の面積は世界で61位だけれども、海は世界第6位の広さの経済水域を持っています。しかも今は海洋工学の技術開発のなかで海洋資源の探査などで最高の技術が高まってきているのです。エネルギーから希少金属まで日本のテリトリーの中から日本の技術を注入して生み出していくことが大いに可能で、そういう類のものに産業として力を入れ、それを利用して物づくりを更に発展させていく。つまり、金融の信用不安の中で右往左往するという話から視界を転じていかないとだめなのだろうなというのが私の言いたいことです。

木村>これは日本のお金の使い方、それから夢を持った生き方ができるかどうかということにも非常に深く関わってくる話ですよね。
 今朝のお話はドバイから始まりましたが、ラジオネームのナカムラトシアキさんのメールを活用させて頂いてというと失礼ですが、多分ナカムラさんだけではなくて放送を聴いている大勢の方が今もっている疑問であったり、そして今何を考えるべきかというところに触れるお話を寺島さんから伺いました。

木村>さて寺島さんエンディングになりました。世界が違って見えてくるというか、伝えられる動きだけに目を取られていてはちょっと見間違えるかな? 大事なところはもっと別のところにあると思いました。
寺島>今年の夏は北京オリンピックがあったり同時にロシアのグルジア侵攻という話もあったり色々激しく動いているのだけれど、いま改めて確認したことはロシアがあのような行動に出ると、欧州からの信用がロシアに向かわなくなってこの1ヶ月で約400億ドル近くの金がロシアから逃げたと言われています。それがルーブルの下落をもたらす。ということはやはり世界経済の中でロシアも中国も生かされているということを改めて再確認できたと思います。勿論日本もそうです。そういう大きな枠組みの中で我々は「ネットワークの世界」、その世界で生きていかなければいけないという柔らかい発想が必要でしょうね。

木村>寺島さんから「ユニオン・ジャック・アロー」。ドバイに立って世界を見ると世界はこう見えて来るという全く新しいものの見方をそこに触発されながら感じることが出来ました。そして世界の経済のショック、私たちは日本で何を考えるべきかとても考えさせられるお話になりました。

2008年08月31日

第5回目


<問いかけとしての戦後日本>


木村>前回の放送では寺島さんのアメリカ最新報告。アメリカの一極支配と言われた構造が崩壊しつつある。そして「無極化」、つまり極がなくなるような世界が現れ始めているのだというお話がありました。それと共にオバマ旋風というものが起きているアメリカ大統領選挙についてもお話がありました。今回は「戦後63年目の夏」ということで戦後という時代、日本を見つめ直してみようということなのでしょうか?

寺島>そういうことです。もう戦後63年目の夏ということなのですが、現在日本では、8月15日を「敗戦の日」ではなく「終戦の日」としています。そこにも考え直すべき点があると考えますが、それとともに8月15日だけではなく、この8月というのは、「一体太平洋戦争とは何であったのか?」、或いは、「戦後の日本とはなんだったのか?」という事をそれぞれの立場、それぞれの年齢の人たちが問い直してみることが必要なのだと考えています。私はいま岩波書店の「世界」という月刊誌で「脳力のレッスン」という連載をやっていますが、この6回ほどシリーズで「問いかけとしての戦後日本」というテーマで書いています。

木村>はい。

寺島>その中で考え直しているところがあるものですから、今日はその話をしてまいります。

木村>「問いかけとしての戦後日本」ですか。

寺島>ハワイの真珠湾に日本が「真珠湾攻撃」の時に沈めた「アリゾナ」という戦艦が沈んだまま残っていることを知っている日本人は多いのですが、その隣に「ミズーリ」という戦艦が「記念艦」として保存されていることを知っている人は少ないのではないでしょうか。この「ミズーリ」という戦艦は、1945年9月2日にポツダム宣言受諾の降伏文書に日本の代表がマッカーサー連合国最高司令長官の前でサインしたという因縁のある戦艦なんです。そこから日本の戦後は始まるわけですが、その後日本占領連合国最高司令長官として日本に駐留したマッカーサーについて、もう一度改めて考え直してみようということで、9月号として発売される「世界」に「マッカーサーについてもう一度振り返る」という原稿を書いたところなのです。

木村>はい。


<マッカーサーについて>


寺島>150年前にやって来たペリー提督とマッカーサー元帥という二人が日本の近代及び現代に最も大きな影響を与えたアメリカ人だと言っていいと思います。しかもその二人の存在感が、ある意味で似ているのです。日本開国のきっかけをつくったペリー、それから「戦後民主主義とか戦後改革の一つの口火を切ることになったマッカーサー」ということですね。このマッカーサーの二重性=抑圧者であると同時に解放者であるという性格、支配者であると同時に改革者であるというこの二重性が日本人にとってマッカーサーに対する評価というものを非常に複雑なものにしていると言えます。
ここでマッカーサーの経歴について簡単に話しておきましょう。ワシントンDCから南に車で2時間半から3時間位走るとバージニア州のノーフォークという港町に着きます。ここに海軍基地があるのですが、実はペリーが日本に来航する際出発した港がノーフォークの海軍基地なのです。そして、このノーフォークにマッカーサー記念館とお墓があるのです。これは非常に不思議な話で陸軍の軍人だったマッカーサーの記念館やお墓が何故海軍の港町にあるのか? という素朴な疑問がわくのですが、実はここにマッカーサーという人物に踏み込んでいく大変大きな鍵があります。
マッカーサーの母親はピンキーと呼ばれていましたが、その母親の生まれた町がノーフォークなんです。でも、どうして母親が生まれた町に記念館やお墓があるのか? 表現は悪いのですが、マッカーサーという人物は複雑なマザーコンプレックスを抱えていた人物なんですね。また、お母さんの方も、子離れができない母親だったらしくマッカーサーを溺愛していました。一つの例をあげると、マッカーサーがウエストポイントの陸軍士官学校に通っていた頃、士官学校のすぐそば、それもマッカーサーの部屋が見えるアパートに部屋を借りてマッカーサーが登校する時から就寝するまでを確かめていたという伝説があるくらいなんです。
そして、先ほどの「ミズーリ号」の話なんですけれど、二つ面白いエピソードがあります。一つは、日本が「ミズーリ号」の艦上で降伏文書にサインをする時のことですがマッカーサーは、ペリーが来航した時の旗艦「サスケハナ」が掲げていた星条旗を本国から取り寄せて「ミズーリ号」に掲げたという話です。そこには、時空を越えてペリーと自分を同一化させようという心情があったと言えます。もう一つは、降伏の調印式の時マッカーサーがサインをしたオレンジ色のパーカーの万年筆なのですが、その万年筆は母親の万年筆だったという話があり、母親に「自分は勝ったよ」と報告したかのような印象を抱かせます。
それとは別にマッカーサーという人物を理解する上で参考になる話があります。1935年の時点でマッカーサーはフィリピン自治政府の軍事顧問としてマニラに赴任しています。陸軍参謀総長という陸軍軍人として、ほとんど最高位に昇りつめたあと退役してマニラに赴任したわけです。ところが1941年に日本が真珠湾攻撃を行って第二次世界大戦(太平洋戦争)ということになるわけです。日本の脅威が迫って来る状況でフィリピンに駐留していた軍をアメリカの極東司令部に統合することになって、そこでマッカーサーは現役復帰してアメリカの極東司令官という立場になるわけです。そして、究極的に対日占領軍=GHQのトップとして日本にやって来たわけです。
マッカーサーに関する書物はたくさん出版されていますが、その中で一つ注目しておきたい本があります。それはウィリアム・マンチェスターの『ダグラス・マッカーサー』(註、邦訳、1985年河出書房出版、絶版)という本なのですが、その中でW・マンチェスターは、「MORALITY=道徳」「FREEDAM=自由」「CHRISTIANITY=キリスト教」を志す使命感は異常なほどであるとマッカーサーを分析しています。そのことを一つ踏まえてもらっておいて、更に話を進めますと、さきほどらい出ている「マッカーサー記念館」には、50万通にのぼる占領下の日本人がマッカーサー宛に送った手紙が保管、展示されています。『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎著、1974年、中央公論社)という本の中でこれらの手紙を分析したのが袖井林二郎さんです。この本は敗戦と日本人を考える上で非常に示唆的であると言えます。

木村>袖井さんは、アメリカ研究者としても非常に実績のあるかたですね。

寺島>この本を読むと、極限的な状況におかれたときの日本人の本質というものが見えてきて、僕は非常に興味深く感じます。


<マッカーサーと日本人>


寺島>「世界の歴史の中で日本における米軍の占領くらい成功した占領はない」と言われています。例えば、組織立った反抗とか反乱があったわけでもなく、まさに良き敗北者として従順に日本人は従ったわけです。例えば、「アメリカの50番目の州にして欲しい」とか、権力に卑屈に擦り寄る日本人、「長いものには巻かれろ」勝ち組に乗りたいというような、なにかがっかりする様なイメージがたくさんあるんですね。それが一つ心にしみるほど衝撃的だなあと感じると同時に、もう一方で日本人の持っているびっくりするくらいの強かさというものを感じ取れます。
マッカーサーは、W・マンチェスターが分析したように、「キリスト教的な道徳と自由」を基本理念として日本の占領の指導にあたろうとしていて、「野蛮な」「前近代的な」気風を克服するためには宗教を変えさせなければいけないと思ったのか、日本人に一千万冊を越す聖書を配っています。ところが、その聖書の紙をタバコの巻紙に使ったり、トイレの紙に使ってしまうといった日本人のたくましさというか、いい加減さというか、そういう気質も見えて来ます。
マッカーサーは、1951年にトルーマン大統領に解任されてしまうわけですが・・・・・・、

木村>連合国最高司令長官を更迭されたのですね。

寺島>更迭されてアメリカに帰って、アメリカの議会の秘密公聴会で「日本人の精神年齢は12歳だ」という意見を述べて日本におけるマッカーサー人気は冷めていくというプロセスがありますが、マッカーサーに二千日間支配されていく中で、日本人は征服されている人間のスタンスとは思えないほどマッカーサーを敬愛し「神」のごとく崇め奉ったという事実があります。この話をどう捉えるかということが重要ではないかと僕は考えています。つまり、「日本人は強烈な圧力をもって支配して来るものに対しては異様なほどの卑屈さを見せるけれど、本気でそれを支持しているかというとそうでもなく意外なほど強かに、相手ががっくり来るほど自分の文化とか生活規範とかにこだわる様な部分を併せ持つ民族気質がある」と推察できるということです。この辺りが極限状態におかれたときに日本人がみせるある種の日本人の本質みたいなものだったと思います。
そこでとりわけ詳しく調べてみてあらたに思いを深くしている事があります。それは、昭和22年=1947年に生まれて戦後なる日本を生きて来た僕自身にも言える事ですけれど、自分達が無意識のところでいろいろなものの見方や考え方にアメリカ的価値観が植え付けられているということに気づかざるを得ないという事です。
それはどういうことかと言いますと、戦後の日本を振り返る時、「テレビ文化」というものに多大な影響を受けた最初の世代が僕たちだと思います。
日本でテレビ放送が始まったのは1953年の事です。この時期はアメリカのホーム・ドラマとかカウボーイ映画とか「コンバット」の様なアメリカの戦争映画とかが次々と日本語に吹き替えられて日本のテレビで放送された時代なんです。まるでシャワーを浴びる様に洗礼を受けて、それを大変に楽しんだ世代が僕たちの世代なんです。何故、多くのアメリカの番組が日本のテレビで放送されたのかというと、1950年代前半のアメリカは冷戦に向かう世界的な状況にあって「マッカーシズム」が吹き荒れていたということです。(註1)
1951年に「サンフランシスコ講和条約」で日本を独立させたけれど、日本を反共産主義の砦としてしっかり取り込んでおかなければいけないという理由で、日本人のものの見方や考え方の中にアメリカに対するポジティブなイメージを植えつけなければいけないという対日政策が浮上し、丁度日本のテレビが草創期にあったという事もあって、アメリカの番組を提供してアメリカというものに対する途方もないポジティブなイメージを植えつけたわけです。実は、それをたっぷり吸収して育ってしまった世代が我々自身だと言えるわけです。


<アメリカなるものの克服>


寺島>僕が何故今日、「ミズーリ号」からマッカーサーの話をして、戦後の日本人がアメリカなるものに深い深いところで影響を受けて来たという話をしている理由は、日本の21世紀の姿というものを求め、21世紀の進路を考えたときにこの「アメリカなるもの」というものをどういう風に、いい意味で克服していくのかということが凄く重要だからです。
現在の日本を見ても、アメリカに対する「過剰期待」と「過剰依存」で総ての物事を納得してしまっているという部分があります。おずおずと生きているという様なところがあるわけです。

木村>アメリカが総ての価値の判断の基準であり、そこで安心したり不安になったり。

寺島>そういうことですね。そこで変なナショナリズムで言うことではなく、本当に「心の置き方の問題」として21世紀の日本人ということを考えなければいけないと思っています。ちょっと苦笑いを込めて思い出すのが、五木寛之さんが『大河の一滴』という本を書いていますが、その中で彼はこういうことを言っているのです。
明治の近代化というときに押し寄せる西洋化の波を受けながら明治の先人たちは、歯を食い縛って心の中に「和魂洋才」という言葉を噛み締めたと言うわけです。つまり「和の魂」は見失わずに「洋の才」を入れる。つまり文明の先進的なものは入れるけれども日本人の魂は見失わないぞと言ったというわけです。マッカーサーがやって来て日本人は無魂洋才になった、つまり、魂を亡くして洋の才を称える様な国民になってしまったとも言っています。そこから更に、「今グローバル化とか新しい世界の潮流というものに飲み込まれて日本人は『洋魂洋才』になれと迫られている。さて、日本人はどうする?」と彼の本に書いてあります。僕はこの直感は大事だと思います。やはり戦後なるものをもう一度問いかけ直して、我々が進んでいかなければならない道を探す。そういう「夏」にしなくてはならないという思いを込めて今日の話題に触れてみたということです。

木村>お話をうかがっていてふと思ったのは、平成20年と年号は変わっていますけれど、私達が今向き合わなければならないのは昭和83年。つまり「昭和という時代」でまだこのことを乗り越えていないということなのですね。

(註1.1952年、共和党のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが上院で「共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発した事を契機に、ハリウッドの映画関係者、ジャーナリスト、学者七等を巻き込んで大規模な「赤狩り」に発展した。その背景には1949年に、中国共産党が国内戦に勝利し「中華人民共和国」を樹立した事やソ連が原爆実験に成功した等という事実があり、アメリカ国内に「共産主義に対する脅威が病的に広がった」ということがある)


木村>さて、寺島さん。この番組はいつものように皆さんからメールの反響をいただいております。早速ですけれどもラジオネーム、マグザムさんからです。「ジュネーブで年内に最終合意を目指してWTO『世界貿易機関』の会議が行われていましたが、アメリカの主張とインド、中国の主張の溝を埋めることをできなかったということです。このことがどのような影響をもたらすでしょうか?」。

寺島>これはどういうことだったかというと、食糧を国内で賄いたいというのはどの国でも願望として持っていて、インドがこだわったのは「セーフガード」というものなんです。例えば海外からある品目の食料品が輸入されて来て、去年よりも4割以上増えたときに輸入を制限する措置が取れるルールが決まりかけていたんです。
ところが、インドにしてみると去年よりも15%増えたというところで国内の農産物を作っている人達にインパクトを与えるからルールをもっと柔らかくしてもらって「セーフガード」という措置が発動できるように要求し始めた・・・・・・。それがその揉め事の種になって結果的にルール作り全体が破綻したというのが今回の状況だと思うんです。そういう中で日本は110品目位について大変な関税で自国の農業を守っているという事実がまずあるわけです。
  例えば米に日本がかけている関税は778%で小麦が252%なんていう関税をかけてなかなか外国からは入って来られないようにして守っているわけです。ところが今回はルール作りに失敗していますけれども、日本もほぼそれにコミットしかけたのは110品目ある重要品目として守っているものの品目を減らしてくれという圧力の中で80品目位まで減らそうかというところまで進んでいたわけです。この流れは時間こそかかれ必ずやがて日本にやってくると言えます。
そこで何がポイントかと言うと、日本にとっての要は自国の農業を大事にして自給率を上げなければいけないのだけれども、その方法として「関税で守る」とか「農業に補助金をバラ撒いて守る」という方式ではなくて、もっと本当の意味で「たくましい農業」、「効率的で世界と戦っていける様な農業」というものをつくりあげていくということが凄く重要で日本も一歩前に進み出さなければいけないというメッセージがこの新しい動きの中にあるんだということを理解すべきだと思います。

木村>その意味ではWTOのこれが決裂してホッとしたと言う人もいるけれどもとんでもない話だと・・・・・・。ある意味では少し時間がある。そのあいだに何をやるのか? と逆にもっと厳しく問われることになるのですね。

寺島>そういうことですね。

木村>ということなんですが、ラジオネーム、マグザムさんからのメールの答えですね。そして、これは栃木でお聞きになっているラジオネーム、ポコちゃんからです。「夏休みに去年までは家族4人で伊豆に3泊4日の旅行をしていたのですが、今年は食品価格やガソリン代の高騰でいつものような贅沢はできませんでした。ささやかに1泊2日で長野に旅行するのが精一杯です。私と主人は来年の夏休みも家族で旅行に行きたいと話すのですが日本の経済は良くなる方向に動いていくのでしょうか? 今以上に悪くなるとしたら旅行どころか普段の生活もままならなくなりそうで恐い思いです。寺島さんの口から『良くなるよ』といった言葉を聞きたいです」。というメールですが、いかがでしょうか?

寺島>(笑)。これはねえ、「良くなるよ」と言いたいのですが、僕は日本人が日本の持っている潜在力をよく見つめなおして「良くすべきだ」という議論、「どうすれば良くなるだろうか」という具体的な方法論をしっかり議論しなければならないところに来ていて、良くなるか良くならないかを予測しているような局面ではないというのが僕の本音ですね。というのは、新しい産業プロジェクト、事業を主体的に興していくということをやらなければ経済なんて良くならないわけで、とりわけこれはつまり国の指導であり、企業の指導であり、そういう立場にある人達が本当に責任を持ってシナリオを書かなければいけないところで・・・・・・。僕は「日本は良くなるよ」とは言えないけれども、「大変な潜在力を持っている」ということだけは確信していますよ。

木村>ああ、その意味ではポコちゃんもご主人とこの日本をどうするのかということを考えて力を皆で合わせて動かしていくんだ、というその一人になって欲しいと思います。寺島さんの呼びかけでもあるかもしれません。

木村>今日は戦後日本のスタートというところと、アメリカという関係でお話がありました。

寺島>この話はもっともっと深めて追っていきたいと思っていますし、この夏の後半僕はアジア、中東と展開していきますので「世界の中での日本」という話を深めていきたいと思います。

木村>今朝はどうもありがとうございました。


木村>「戦後の日本」というものと「アメリカの存在」というものと「心のおき方」という言葉が出てきました。寺島さんの書物の題を少し使わせていただくと、歴史の中で深呼吸して私たちがじっくりこの問題を考えるべきテーマだということをあらためて痛感しました。

参考資料:寺島実郎「脳力のレッスン77号 問いかけとしての戦後日本―(その6)
それからのマッカーサー」
リンク先⇒日本総研HP http://www.nissoken.jp/rijicyou/hatugen/

2008年07月27日

第4回目


木村> さて寺島さん、前回の放送では「環境とエネルギーを一体の問題として捉える必要がある」というお話、そして世界の経済の動き総てに至るまで関連して連動しているということがわかってきました。そのことに私たちが向き合うときに、寺島さんの言葉では「パラダイムシフト=考え方、政策の根本になっている枠組みを大きく転換しなければいけない」というお話がありました。そこで終わらずに、そうした世界に向き合っていくときに、「換える」という立場から今は「農業」というものが非常に重要な糸口になるというところまでお話を聞いて問題意識を深めてきた・・・・・・。そこで、今朝は、世界のパラダイムシフトに関わる「アメリカ」がテーマですね。

寺島> 私は6月末から7月の頭までアメリカの東海岸、ニューヨーク、ワシントンを主に動いてきました。その報告ということもあって、今日は、その話をしようと思っています。

木村> はい。

<疲弊するアメリカ>

寺島> 「アメリカがどうなっているのか?」ということは世界にとっても大変大きな意味があるわけですけれども、私は定点観測のようにアメリカを見ています。今回、特に印象付けられたのが「疲れ果てるアメリカ」というのが一段と深まっているなぁという事です。突き詰めて言うと、「イラクとサブプライムで疲れるアメリカ」ということになります。
 いくつかしっかりと確認したいことがあるんですけれど、まず一つ目は「ブッシュのアメリカ」が間も無く終わろうとしていますが、イラク戦争なるものに突っ込んでいってイラクとアフガニスタンで戦死したアメリカの若い兵士は7月7日現在の数字で4,645人になったのです。勿論、イラクの人も15万人くらいの人が死んだのではないかとも言われています。背筋が寒くなるような話ですね。

木村> ええ。

寺島> そういう途方もない悲劇がこの21世紀初頭の7年半の間に進行したということなんですね。そういう中で、つまりアメリカ自身が9・11に慄いて、対テロ戦争というフレーズを掲げてアフガンからイラクへ展開していったわけですが、そのことによってこれだけの消耗を強いられて、今アメリカではスティグリッツというノーベル賞を取った経済学者が書いた「3兆ドルの戦争」という本が非常に売れていますけれども・・・・・・。(註、『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』―イラク戦争3兆ドルの衝撃― ジョセフ・E・スティグリッツ、リンダ・ヒルムズ共著)

木村> 世界銀行の副総裁を務めた人ですね。

寺島> そうそう。この本の中で「3兆ドルのコストがこの戦争にはかかっている」ということを彼は分析し書いています。かつて、75年にサイゴン陥落でアメリカが「ベトナム・シンドローム」というものを引きずって苦しみ抜いていた時期があるんです。まさにあの時を思わせる様な「イラク・シンドローム」とも言うべき状況の中に今入っているということがまず一点目ですね。
 二点目はアメリカの通貨=ドルが今世紀に入って7年半が経過していますが、世紀初めのときに比べて実に7割、欧州の通貨=ユーロに対して下落しているわけです。つまり、価値を失っているという事実です。
 三点目は、アメリカのガソリン価格という問題です。エネルギー価格の高騰を背景としてアメリカのガソリン価格は、今世紀に入って4倍にもなっています。アメリカ人の深層心理というものを思い描いてもらいたのですが、「イラク戦争は石油のための戦争だ」という人がいます。さすがにそれは少し単純過ぎる見方だということを私は言ってきましたが、多くのアメリカ人の深層心理には、「サウジがダメならイラクがあるさ」というものもあったと言えます。つまりサウジアラビアが不安定な要素を抱えてきて、将来思うに任せぬ状況になってもイラクを石油の供給源としておさえておけばアメリカにとってプラスだろうという思惑があったのは間違いないと言えます。事実、「バクダッド陥落」の頃には「NATION BUILDING=国づくり」なんていう言葉が出て来て、あたかも、戦後の日本をマッカーサーをはじめとする司令部が再建したように、イラクの国づくりをして、アメリカのコントロールのきく国としておさえることは、アメリカのエネルギー戦略上プラスだという期待感があったことは間違いないところです。
 「狩猟民族的メンタリティー」という言い方をあえてしておきますが、狩猟民族というのは、狩猟に出かけて狩りで得た獲物の分け前を得るという考え方ですから、率直に言えば、石油の供給源をおさえたのだからアメリカにとってメリット=プラスがあるんじゃないかという期待感が深層心理の中にあったことも確かだと思います。
 しかし、気づいてみれば、自分の国の青年を4,600人も死なせてまでして得た権益なのに行き着いた結末がガソリン代が4倍になっているという有り様ですね。そのフラストレーションたるや大変なものだと推測します。しかもアメリカという国は車なしでは生きていけない国なんです。地方へ行けば大衆交通機関が発達しているわけではないから、どうしても自分で車を運転しなければならないのです。そういう国にとって、ガソリン価格が4倍になるなんていうことは、耐えがたい話なんです。しかも、この話というのは突き詰めて言えば、アメリカの世界に於ける「指導力の低下」「求心力の低下」という一言に集約されていきます。というのは、「ガソリン価格の高騰=エネルギー価格の高騰」と「ドルの下落」というものが見事に相関しているわけです。石油を売って得たドルの価値がどんどん目減りしていっている状態なんです。ならば、できるだけドルではなくユーロで受け取るようにしたいとか、外貨準備をドルで持たずにユーロで持つとか、「通貨バスケット」と言って、いろいろな通貨を混ぜこぜにしたような形で保有しておいた方がいいということで、どんどんドルの需要が落ちて行くことになります。ドルの需要が落ちればドルの下落に繋がるわけですね。
 原油価格が高騰し続ける中で、「産油国はもっと増産してくれ」という圧力があって、それに対してサウジアラビアが、「一日あたり20万バーレルくらい増産する」というポーズを見せていましたが、本音の部分では、増産してバルブを緩めれば価格が落ちて取り分が益々目減りしてしまうから石油価格を高めにもっていこうという発想が働いてしまうので、ドルの下落と石油価格の高騰はスパイラルに相関し合いながら進行しているというのが現状です。その背景には、先程も言ったように、アメリカという国の「指導力の低下」と「求心力の低下」という事実があります。冷戦が終結した当時、よく「ドルの一極支配」だとか「アメリカの一極支配の時代が来た」という言葉を国際政治学者の中には言っていた人が多いのですが、この7年半の21世紀の経過の中で我々が今目撃しているものは、世界が一極支配どころか多極化を通り過ぎて、「極」などなくなっている状況を呈しているということです。

木村> ええ。

<「パラダイム・シフトの転換」―「新興五カ国の台頭」>

寺島> アメリカで今売れてきている本の中に「ポスト・アメリカ」という表現があったりしますが、正に世界は、「アメリカなき世界」と言わなければならないほど「無極化=極がない状態」になっています。全員参加型秩序と言っていいと思います。つまり、それぞれの国が自己主張して何処かの国が一つに束ねているという状況ではない状況にどんどん近づいているというのが現状です。それを極めて明快な形で目撃できたのが、今月終わった「洞爺湖サミット」だと言えます。

木村> ほう・・・・・・どんな風な?

寺島> 「洞爺湖サミット」は、結論的に言うと、ブッシュ大統領への「フェアウェル・パーティ」というか、「さよなら」のサミットだったということです。欧州の指導者の目線から言えば「今更この人に何か言っても始まらない」というような諦めの気分があったと言えましょう。従って、「何も決まらないG8」なんて言っていましたけれど、言ってみれば、アメリカが中心になって世界に向かって、この状況を克服していく新しい仕組みとか制度というようなアイディアを提示する指導力もなくなっているということです。結局何事もなかったかのように終わりましたけれども、見方を変えれば、「G8では、世界の問題を解決出来ないのではないか?」ということだけを世界にきちっと示したとも言える位です。

木村> 皮肉ですけれど・・・・・・。

寺島> 皮肉なんですけれどね。そういう意味でまさに全員参加型秩序に近づいていると言えます。例えば、新興五カ国の存在感というものがむしろ目立ったり、(註、中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ)アフリカ諸国の発言力が高まって来ていることを我々自身も見せつけられて、次なる世界秩序の中でどういうルールを確立していけばいいのか、そういう時代に入ってきたんだなぁということを我々は、「洞爺湖サミット」で見たと思います。
 要するに世界はアメリカの一極支配というものが終わって、かつては「新しい帝国」という言葉を使う人さえいたのですが、そういう状況とは全く状況が変わって来ていて、私は、世界は全員参加型の秩序の新しいルールを求めて模索している最中なのだという認識が物凄く重要だと思いますね。

木村> 戦後という時代だけをとってみても、我々が経験する初めての未体験ゾーンということになりますね。

<ポスト・ブッシュ>

寺島> ここでもう一つ話題にしておきたいことがあります。それはアメリカの大統領選挙のことですが、今アメリカは大統領選の真っ只中に入っていて、民主党の大統領候補がオバマに決まったという局面にあります。大統領候補者指名選の間からオバマ現象みたいなことが起こって、彼の発信する「Change」というメッセージがアメリカ人の心にある一定のインパクトを与えているという状況があります。最終的に共和党のマケインとオバマが戦って結果がどうでるかわからないけれど、ヒラリーの方がマケインと戦った時に勝てる候補じゃないかという世論調査の結果も出ていましたが、オバマの方が10ポイント(註、7月16日現在、オバマは19ポイント以上リード。『ワシントン・ポスト』)くらいリードしているという状況が続いています。
 それに対する一つの見方として、こういう言い方をしておくのがいいと思います。「一体いま時代が呼んでいるのは誰だろうか?」という視点がアメリカ大統領選挙を見る時に重要な視点だということです。先ほど話題にした「ベトナム・シンドローム」でアメリカが苦しみ抜いていた時に、牧師にも近いような雰囲気を持つ「癒しのカーター」という候補が登場して大統領になりました。ベトナム戦争で傷ついたアメリカ人の心理を考えると「癒しのカーターが必要だった」という時期があったんです。その後、レーガンが出て来て「冷戦」を終結させ、新しい世代のリーダーという形でクリントンが出て来る。こうみて来ると「時代が誰を呼んでいるのか?」という経緯が過去にも繰り返されて来ているのです。
 「時代が誰を呼んでいるのか?」という視点に立つ時、私が大変重要だと考えていることがあります。それは、「アメリカ人の何%がパスポートを持っているのか?」ということです。話が見えなくなった気がするかもしれませんが、アメリカ人の15%しかパスポートを持っていないという事実は実は大変重要なことなのです。どういう意味かと申しますと、85%の人が一生のうち一度も海外へ出ることを想定していないということなんです。しかも、パスポートを持っている人が多いのは東や西の海岸線に住むアメリカ人で、世界に目を向けているアメリカ人と言えます。問題は内向きのアメリカを代表する内陸のアメリカがあるということです。海岸線のアメリカというのは、世界に目が開かれていて、世界からアメリカがどう見られているかという事を気にするくらいの感覚はあるんですが、そこはマネーゲームのアメリカと言いますか、虚構の経済で飯を食っている地域だとも言えるわけです。
 それに比べて内陸のアメリカは、閉ざされたアメリカであり、別の角度から見ると実は「健全なアメリカ」であるわけです。額に汗して農業につき日曜日には教会に行くという宗教心のあつい人たちが支えているアメリカとも言えるわけです。内陸のアメリカ人にとってみれば、「世界が自分たちに何を期待しているのか?」なんていう話は全く届かない話なんです。つまり、「アメリカ自身のロジックで世界は動かされなければならない」という空気に満ちているところですから・・・・・・。
その縞模様が大統領選挙に於いてどういう結果をもたらすのか? というのが大きな見どころとなるということです。オバマのような少数派の黒人でも大統領になるチャンスを与えられる国アメリカというものが、無極化している世界で次なるリーダーとして新しい秩序を引っ張っていくことができるのか? アメリカが今世界が求めていることにどう答えていくことができるのか? アメリカ自身が変わっていかなければならないということにどれだけ深い問題意識を持って選択して来るのか? そういうことが大きな見どころだと考えています。そんな事を考えつつアメリカ東海岸を動いて来たというのが今日の報告だということになります。

木村> 寺島さんのアメリカ最新報告。世界が無極化していく。そういう時代であり世界が大きく変わって行きつつあるという話には相当考えさせられる部分があります。我々は、日本は一体これからの時代をどう生きるのかという命題を突きつけられた気持ちになります。

木村> さて寺島さん、ここでメールが随分届いています。
 これは、前回の寺島さんのお話に関わるのですが、ラジオネーム、カルメンさん。30代の女性の方からです。「日本では既に株式会社としての農業もあるということでしたが、実際のところうまく運営されているのでしょうか? オフィスワーク部分の労働力は確保できるとしてもやはり問題は農業の主となる肉体的な労働力だと思います。農業者には経営者としてと労働者としての両方を求められるのではないでしょうか。労働者として考えた場合、過酷な労働に対してどれだけの報酬が得られるのか、休日は? 社会保障は? などと考えた場合、やはり一般企業に就職したほうが条件が良いと考えるのは一般的でしょう。また、企業として考えた場合にも出来具合いが天候に大きく左右されるため、利益も保証がないですよね。人の命の根源となっている食糧を作る人々はもっと国が支えなければいけないのだと思います。例えば、農業者に国家公務員制度を当てはめるなどすれば、若い農業者を確保できるのでは? と思うのですが・・・・・・」というメールがきています。随分深い問題提起をされていますよね。

寺島> そうですね。なかなかいい事を言われています。日本の食糧自給率は現在39%と言われていますが、それを先進国の中で日本以外では最低の食糧自給率であるイギリスなみの7割くらいまでもっていかなければならないという事です。それにはいくつかの理由があるという事をお話ししましたが、海外から食べ物を買って来るときの輸送に伴うエネルギーの消費、CO2の排出を削減しなければならないという命題があります。また、東京都の1.8倍にあたる37万ヘクタールある耕作放棄地に対しては、株式会社農業のような「生産法人」の仕組みで立ち向かわなければならないという事も話しました。もう既に去年の段階で9,400を越す「農業生産法人」が活動している時代が来ているのです。
そういう話を前提にして、この質問のように「そうはおっしゃるけれど・・・・・・」という問題意識が出てくるのは当然だと思います。現実に第一次産業の就業人口は、つまり農業や漁業で飯を食っている人の比率はわずか4%でしかありません。かつて日本人の大部分が農業とか水産業で飯を食っていた時代とは大違いです。そういう実情で農業自給率を高めるとか食糧自給率を高めると言っても絵空事じゃないのかという議論も当然出て来るわけですね。この間私は、「農業生産法人」という一括りの言い方で話しましたが、「農業生産法人」という仕組みを「生産」と「販売」という視点で分けて見ることが必要だと思います。生産と販売というような仕組みを作らないと、農業という分野で情熱を燃やす人はなかなか出てこないだろうと思います。つまり生産者にメリットが還って豊かな農業というものが目の前に見えてこないと頑張ろうという人も出てこないという議論も正しいわけです。そこで「生産」だけを株式会社化したりシステム化したりするのではなく、生産物を販売する機能=「販売法人」を持つということが重要になります。(註、現実に台湾、タイ、そしてドバイ等海外への輸出を自力で開拓して利益を出している『農業生産法人』が存在します。その際『農協』に加入しません)。そういう意味で今話している「農業生産法人」の今後のあり方を議論すると、「JA=農協の役割は一体なんなのか?」とか「日本の農業に関する法律はどのような形に変えて行くべきなのか?」というレベルの議論が非常に重要になって来ます。いずれにしても今ようやく食糧自給率という問題意識が高まって来て、国も地方もそういう方向に向けて、一体どの制度をどのように変えていかなければばらないのかという事が具体的になりはじめたというのが現在の局面だと私は見ているんです。従って、この種の問題提起、納得のいくような制度をどのように作っていくのかということが国にも求められているというのは正しいと言えます。そして、その方向に我々自身の議論も政策論も引っ張っていかなければいけないと改めて思います。

木村> そういう意味では、また時間を設けて「農業」の命題を是非やりましょう。

2008年06月29日

第3回目

「環境問題―農業再生からのアプローチ」

「『環境』『エネルギー』『食糧=農業』の相関関係」


木村>さて寺島さん、前回の放送では手塚治虫さんの「ガラスの地球を救え」という著作から、「地球の全体の問題である環境問題とどう向き合っていったらいいのか?」ということに対して、寺島さんから国際連帯税という問題提起がありました。地球環境問題、そしてエネルギー問題ということがテーマだったのですけれど、それに関連したメールが東京のカズさんから届いています。

寺島>はい。

木村>メールを紹介します。「いよいよ日本が議長国をつとめる『洞爺湖サミット』の開催が迫ってまいりましたね」そうですね、もう来月ですね。

寺島>うん。

木村>「今月の初旬には福田ビジョンが発表されるなど今回のサミットでは環境問題について話し合われるということなんですが、私は、環境問題も大切ですが、もっと直近の食糧問題について話し合って欲しいと思っています」。

木村>「食糧価格の高騰、バイオ燃料の問題など環境云々の前に食糧問題は全世界の人々にとってすぐにでも解決してもらいたい問題だと思っています」というメールが届いています。
さあ、どうしましょう?寺島さん。

寺島>これねえ、なかなか鋭い指摘でね、実は私の心の中で、「環境という問題」と、「エネルギーという問題」とは相関しているのだ、という話を前回も話したんですけれども……。それに敢えて加えるならば「食糧=農業」というキーワードを、3つ頭の中に三角形のように置いて、その相関の中で時代を考えなければいけない時がきたんだなぁとつくづく思っているんですよ。

木村>じゃあ、まさに今朝のテーマにぴったりですね。

寺島>今月私は、前半は欧州を動いていたんですけれど、6月3日にローマで「食糧サミット」が行われて、私は、それを横目で見ながら欧州を動いたんですけれども……、この1年間で世界が大きく変わってきてるなっていうことを肌身で感じました。

木村>変わってきている……。

寺島>どういうことかと言うとですね、去年までは、この食糧の問題に日本としてメッセージを発信する時に、「日本は世界最大の食糧純輸入国だ」という言葉を、かつてはもの凄く聞いていたんです。どういう意味かと言うと、「日本は世界で一番海外から食糧を買ってる国なんだよ」っていうのが、あたかもこの国が外に対してバーゲニング・パワー(Bargaining power=対外交渉能力。外国と交渉して国益を守ることができる能力)を持っているかのようなイメージで、敢えていうならばポジティブな文脈でね、日本の凄さを示すようなイメージの言葉として、「世界最大の食糧の純輸入国だ」というメッセージが発信されていたんですね。
ところが、このローマの食糧サミット辺りに漂っている空気というのは、ちょっと違うのです。まさに今、食糧価格の高騰が、もの凄い勢いでもって進行していて世界に67億いる人口のうち、約10億人近くが飢餓線を彷徨っているんじゃないかとかいう報道もされています。しかも、デモだとか、暴動までが、食糧をめぐって繰り広げられているという状況の中で世界最大の食糧純輸入国なんて胸を張っている様な愚かな国が存在しているのかという違和感があるように感じたのです。むしろ世界の人にとってみれば違和感を与えるというか、衝撃を与えるというような状況になっているということですね。(飢餓による死亡者数は、年間3億人という報道もある)

木村>はい。


「食糧自給率の問題」

寺島>現在、日本の食糧自給率というのは39%ということで、カロリーベースでもって日本は4割を割り込んでいるんですね。世界の先進国と言われている国で日本を除いて一番食糧の自給率が低いのがイギリスなんですけれども、それでも74%なんていう数字が出てきています。ドイツも86%。アメリカ、フランスに至っては、大変な農業国ですから100%をはるかに超す食糧自給率を持っているわけです。そこで、戦後の日本というものを、よく考えてみると、エネルギーと食糧は外から買ったほうがいい、その方が効率的だという国をつくっちゃったんですね。気がついてみればってやつなんですけれども・・・・・・。私が、高校を終えてね、東京に上京してきた1966年、つまり、東京オリンピックの2年後なんですけれども。

木村>はい。

寺島>つまり、60年代の後半にさしかかる頃、日本の食糧自給率というのはまだ7割近くあったんです。いまのイギリス並くらいですね。

木村>ええ。

寺島>そこから一気に下げてきた。どういうことかと言うと、産業力を以て外貨を稼いで、その外貨によってエネルギーと食糧を外から買って来たほうが効率的だということで、そういう国づくりをしてしまったと言っていいと思います。それで、現在の様な状況になって、「そんな国で大丈夫なのか?」ということになってきたのです。
そこで、日本の、例えば、「福田ビジョン」といういま出てきたこの政権の基本方針に近いビジョンにおいても、じわりとそういうメッセージが一行出てきているけれど、実は持っている意味は重いと僕は思っているのです。というのは、食糧の自給率を高めることでエネルギーと環境問題に立ち向かおうという考え方が次第に出始めてきているということですから・・・・・・。

木村>ちょっと待って下さい。食糧の自給率を高めることで、エネルギー、環境問題に立ち向かう・・・・・・。

寺島>ええ。どういうことかと言うとですね、例えば現在日本は、中国から大量の食糧を輸入しています。

木村>ええ。

寺島>食糧を輸入するということは、それを運ばなければいけないことになります。

木村>はい。

寺島>輸送にともなうエネルギー。それから、そのエネルギーの消費にともなうCO2の排出=二酸化炭素の排出、そこには大変に重いものがあるわけですよ。できれば、食べられるものは近場から、国内で調達するっていう流れがもしできれば、そのエネルギーの消費とCO2の排出に関して比べてみれば、食糧を外国から輸入した場合には、国内で賄うより、多分、倍はエネルギーとCO2の排出が多いのではないかという試算もあるくらいなんです。

木村>そんなに。

寺島>とにかく外国から買っている農産物をできるだけ少なくして自給率を高めることによって、エネルギーの消耗とCO2の排出を避けるっていうポイントが一つあると考えられます。

木村>なるほど。


「農耕放棄地の活用」

寺島>それから、もうひとつ大変重要なことは、「日本の農地を活かしきる」ということによって、農地を大事に維持して、そこに有機肥料なんかをきめ細かく投入すれば、農地によって吸収できるCO2の量を倍増できるという技術の研究開発も現在進んでいます。

木村>ああ。

寺島>ということは、とにかくエネルギーを節約してCO2の排出を抑えるという意味に於いて、食糧の自給率を高めるということが大変有効であり、妥当だという考え方が日本にもジワッと芽生えて来ているということです。ところでその農地なんですけれど、いま日本全国には、467万ヘクタールの農地が存在すると言われています。統計上はですよ。

木村>はい。

寺島>ところが、実はそのうち、「農耕放棄地」といって、統計の上では農地にカウントされているけれども、実際は農地としての役割を放棄して、放ったらかしにされているものが、37万ヘクタールあるというわけですよ。

木村>草ボウボウになっている所ですね。

寺島>そうですね。その37万ヘクタールという面積のイメージってなかなか湧かないかもしれませんけど、東京都全体の面積の1.8倍なんていう広さということですが、この土地が農耕放棄地というかたちで放ったらかしになっているわけです。

木村>ああ。

寺島>その農耕放棄地を活かして、そこで食料品なり、なんなりを生産するとかしなければいけません。広い意味でのバイオ燃料の原料になるものを生産すべきなのです。放棄地にしておくくらいならね。極端なケースでは休耕田に補助金を出しているなんていう事実もあるわけです。

木村>ああ、何も作らないことによって補助金が出るという・・・・・・。

寺島>そういうことをやるのならば、世界の中で飢餓線を彷徨っている人が、10億人もいるなんていう時にですね、食べられるものを一生懸命作って、それを国際社会に貢献するというかたちでもって提供することは、何も作らないよりは意味があると・・・・・・。
更には、農耕放棄地にしておくくらいなら、そこで、食べられないもので、バイオ燃料の原料になるようなものを育てて、エタノールなんかを抽出できるような技術を開発して・・・・・・、それが「次世代バイオ」っていう言葉に相当するんですけれども。その食べられないものはどんなものかというと、例えば、トウモロコシの芯とか、稲の茎とかからだってエタノールの抽出は出来るのですよ。セルロース系なんていうことで・・・・・・。

木村>稲の茎ってつまり、ワラの部分から。

寺島>そう。ワラの部分からですね。だからそういう様なことをも活かしきって、つまり農耕地をふんだんに利用してそこから食糧なり、バイオエネルギーの原料になるものを耕作するべきなんです。どういう意味かというと、日本はいままで、エネルギー及び食糧の「狩猟型民族」というような国家を戦後につくってきたわけです。つまり、海外に出て行って、地中から化石燃料を掘り起こすとか食糧を買ってくるとかというかたちで、要するに運んで来ていた。ところが今後は、「エネルギー耕作型文明」って言い方なんですけれども、農地を耕し、育てることで、日本国内の土地のポテンシャル(Potential=潜在的能力)を活かしきっていくという文明に切り替えていかなければならないんじゃないかと考えているわけです。

木村>はい。


「パラダイム・シフト転換の必要性」

寺島>要はですね、金に任せて食糧を買ってくるという国から、国内で皆で力を合わせてそういうものを作り出していくことが大事なんじゃないかというパラダイム転換が必然となって来る、そういう予感がありますね。しかも、現在の日本に於いては、食糧を支えてくれている農業人口は、わずか4.4%なんていうところまで減ってきているんです。

木村>どんどん減っていますね。

寺島>かつてこの国は、ほとんど100%近い人が、農業に従事することによって飯食っていたんですけれど、今は、わずか4.4%の人だけがそれを支えているという構図になっているわけです。そういう現状に対して、本当に知恵を出して、日本の持っているポテンシャル¬をもう一回掘り起こす必要に迫られているのです。
しかも、ここでもの凄く重要なことは、日本が蓄積してきた産業力、もっと言いかえると、その産業を育てた技術力ですね。その技術力を農業に注入するという発想が、これからもの凄く重要になってくるということなんです。農業において、活かしきれる技術というのは例えばバイオの技術もそうですけれども、太陽光発電の技術だとか、農業セクターで日本の工業生産力によって蓄積した技術を、活かしきるということをすれば、日本は大変な強みを持っていると言えるのです。これからそういうものを活かした農業に立ち向かって行く発想が必要なんですね。
いずれにしましても、この段階で僕が申し上げおきたいのは、日本国は戦後の成長軌道に入っていく時の国づくりの軌道というものを大きく踏まえて、もの凄く新たな国づくりの局面に入って来ているんじゃないかという認識です。多分、今度の洞爺湖サミットの大きな意味は、単に洞爺湖でサミットが行われますということだけではなくて、日本の国づくりについて、あとで振り返ってみたら、あの辺りから、それまでの日本の国づくりの考え方と違う考え方、つまり、「環境と食糧とエネルギー」を視界に置いて立ち向かっていかなければいけない方向へ反転していったきっかけだったんだなぁということに気づくだろうと思います。

木村>ああ、歴史的な・・・・・・。

寺島>何故ならば、現在、エネルギー価格が150ドルに迫るなんていう様な状況になっていますよね。

木村>ええ。

寺島>これは、別の言い方をすると再生可能エネルギーや代替エネルギーや省エネルギーの価値が一段と高まってきたということでもあるわけです。つまり、そういうものに可能性が見えて来たということです。今までは、再生可能エネルギーといったって、石油が安いからですね、それを越えた新しいエネルギー源を作りだすことは見向きもされなかった。ところが、ここへきて一気に関心が高まっている。それに関連する食糧の価格高騰っていうのもネガティブな部分ばかりじゃなくて、それによって農業という分野に立ち向かっていく市場性が高まってきたとも言えるわけですから・・・・・・。

木村>なるほど。そういう風に捉えればね。

寺島>それと同時に、なんらかのかたちで明らかになって来るであろう、いわゆる環境の数量目標ですね。いま日本は、京都議定書の約束事項に向けて走り出しています。前回も触れましたけれども・・・・・・。

木村>国際的な責めぎ合いになっていると・・・・・・。

寺島>そうそう。とにかく再度確認しておかなければいけないのは、2012年までには、90年比CO2を6%減らすことが決まっています。2006年までで6.2%既に増えているから、2012年までには、12.2%減らさなければならないのです。
更に、柏崎刈羽の原発が去年の地震で停まっていることによって、2%分増えていますから、合計すると14.2%。14%~15%を、2012年までに90年比で減らさなければならないということになっているわけです。
そこで、150ドル原油と京都議定書を超えて、環境目標というものをしっかり視野に入れて考えると、今まで日本が掲げてきた経済計画だとかエネルギー戦略だとかというものを根本的にたて直さないといけない。そのくらいの大変大きな数字が目の前に見えて来ているというところに気がつかなければいけないのです。その文脈で、私がさっき、大きなパラダイム転換に今我々は直面しているのではないかと言う意味が見えてくると思います。


「農業生産法人」

<木村>さあ、そこで寺島さんですね、先程「知恵を出して」というお話がありました。問題は、「じゃあそのような日本の農業を実現するためにどんな知恵を出せばいいのか?」ということなんですけれども、もう既にお話の中に農業労働力というものが、労働力人口の4%あまりでしかないという現状に至っていますよね。その上耕作放棄地だっていっぱい増えています。こういう中で、じゃあこの農業を本当に盛り返す方法はあるかどうか?ここなんですけれど・・・・・・。
どうでしょうか?

寺島>現実論として後継者の確保もままならないような農業生産の実態で、いくらキャッチフレーズで農業を重視し、食糧の増産をしなきゃいけないなんて言ったって絵空事だと多くの人は思いかねません。
そういう中で、やはり我々がまず注目しなければいけないキーワードは、「農業生産法人」という「システムとしての農業」をしっかり育てるという視点だと思うんですね。(註、農業生産法人とは『農地法』の規制に基づくもので、昭和37年=1962年に制度化された。2008年現在、法人数は9,466法人となっている。最近『株式会社セブン&ホールディングス』の参入が話題になったが、その他『株式会社モスフードサービス』、『ワタミ株式会社』等も参画している。)

木村>はい。

寺島>というのは、誰かに期待して「農業をがんばって下さい」なんていう話じゃなくて、現実に農業生産法人という仕組みは、既に日本でも8,500を超すというくらいの農業生産法人が稼働していますし、株式会社として農業を展開しているという会社も200を超すという様な状況になってきています。

木村>ええ。

寺島>まだまだ法制度上、整備しなければいけない部分もたくさん残していますけれども、まさに株式会社農業とか農業生産法人で農業を支えるという仕組が大切になって来ていると思うんです。農業生産法人ってどういう意味かっていうと、例えば去年あたりから、僕が近隣のロシアの極東、ウラジオストックに行ってもですね、日本の高級な果物がスーパーマーケットに並んでいるのを見かけるようになっています。
昨年の日本の貿易統計の中で、農産品の輸出が4,200億円を超したんですよ。実は僕、この事実に驚いています。

木村>ほう。

寺島>それが、3年くらいの間に1兆円になるんじゃないかっていう推計もあるんですね。

木村>ほう。

寺島>それがどういうことかというと、中国とかロシアとか近隣の国々が日本の果物とか米を買ってくれ始めているということです。

木村>高級な物を。値段の高い物を・・・・・・。

寺島>そう。高級な物を・・・・・・。しかも、農産品だけではなくて食糧品の中には、例えば、養殖した日本のナマコですとか、そういう類のものが中国や近隣の国に大変な評価を得ている・・・・・・。

木村>中華料理には欠かせないですものね。

寺島>そうなんです。で、そういう点にポテンシャルがあるわけですよ。色々な展開の・・・・・・。
木村>ええ。

寺島>そこで、農業生産法人で、高級な果物を作って行く場合に、今まで商社マンとして働いてきた人間が、その製品のマーケティングを手伝うだとか、会社で経理をやってきた人が経理のパートだけを手伝うなんていう分業で生産法人を支えるシステムを作って行くなんていうことは、あながち絵空事じゃないわけです。まさに、生産法人化の意味は、そういうプラットホームを作ることなんですね。

木村>全くその通りですね。

寺島>農業生産法人化をしっかりやることによって、日本の農耕地を活かしきって、外部に対して依存している食糧というものをできるだけ自分たちだけで作っていくという時代をつくって、その上、農業生産法人に、さっき申し上げたように、工業生産力を高めるために培ってきた技術を注入して農業の自給率を、食糧の自給率を高めて行く。そのことによってエネルギーを節約し、環境問題に立ち向かっていくという流れをつくるということが、冒頭に申し上げたように「環境」と「食糧」と「エネルギー」という三角形の相関をよくイマジネーションの中に描いて、今後の戦略ということを組み立てなければいけないという話になるわけです。まあそういうことなんだろうと思いますよね。

木村>今朝の番組はですね、東京にお住まいのラジオネーム、カズさんからのメール。まさに、この頂いたメールがですね、今朝のお話のテーマ、糸口になりました。こんな風に皆さんから、メール、或いは反響というものを頂いております。是非、この「月刊寺島実郎の世界」宛てに皆さん、寺島実郎さんへの質問もあれば意見もあるし、それから放送の感想もあるでしょうから、どんどんお寄せ頂きたいと思います。


木村>さあ、寺島さん、お別れの時刻が近づきました。一言でお話し頂いた感想というのは、なんでしょうか?

寺島>色んな要素を組み合わせて問題を解決していくアプローチのことをエンジニアリングと言うんですけれども、日本という国は、本当に個別の要素においては高いポテンシャルを持っているんだけれども、僕は、それを組み合わせて問題を解決していく力っていうものが、やっぱりまだまだ欠けていると思っていて、そういう意味で、エネルギー問題はエネルギー問題、環境は環境、食糧は食糧というかたちでの位置感覚ではなくて、その相関の中で問題を解決していこうというアプローチができる思考の訓練をしていかなければならないと僕自身が思っています。

2008年06月01日

第2回目

「ガラスの地球を救え」
木村>  寺島さん、先月の第一回目の放送では、「この番組では何を目指すのか?」ということに始まって、「松前重義と内村鑑三の精神に何を見るのか?」というテーマでお話を伺いましたが、今朝のテーマはなんでしょうか?
寺島>  今日は地球環境ということですね。「洞爺湖サミット」も迫ってきて、地球環境問題が我々の大変大きな問題になっていますが、その地球環境問題を考える時の基本的な視座といいますか・・・・・・、ものの見方という点で、私が考えていることをお話しして参ります。
木村>  「洞爺湖サミット」のお話がでましたけれど、その前に既に地球温暖化を防ぐために二酸化炭素等の温室効果ガスを具体的に削減していくための京都議定書の実行段階に今年から入ってきているわけですね。
寺島>  今年の4月から入ったんですね。
木村>  世界にとって、地球環境問題というものは、メディアの言葉でいうと「待ったなし」のテーマになっていると・・・・・・。
寺島>  そうですね。・・・・・・それで地球環境ということを考える時、私のイマジネーションの中で、「地球」ということを問い返したいと思っています。
木村> ええ。
寺島>  手塚治虫さん。「鉄腕アトム」の作者である手塚治虫さんが、「ガラスの地球を救え」という本を書いているんですね。(光文社新書)。その中で彼は、「地球は奇跡の星だ」「命の空間なんだ」ということを言っているんです。
 地球っていうのは、直径13,000kmの球体ですね。その地球を想像力で、1,000万分の1に圧縮して、小学校の運動会で使う「玉転がし」の玉くらいのものとイメージすると、大気の層はわずか2mm、そして水の層というのはせいぜい  1.6mmくらいしかないんです。つまり玉の上にわずか数mmの膜を貼り付けたようなことになるんですが、その3.6mmの薄い膜の中に我々人間も含めて総ての生命が棲んでいるということになります。言ってみれば、「ものすごくきわどい空間」に我々は生きているというわけです。もし何かの事情でその酸素がプチュッと抜けてしまったら・・・・・・と考えると、なんと言いますか、誠に脆い! ということに気づきます。それが、「ガラスの地球を救え」という彼のイマジネーションになっているんだと考えられます。
木村>  もう既に、オゾンホールなんかも出来てしまっているといいますからね・・・・・・。
寺島>  そうそう。あらゆる動物、植物がわずか数mmのところに共存しているというところから地球環境という問題を考えてみるというイマジネーションが、僕は非常に大事ではないかと考えるわけです。
ところで、我々が地球というものを「ひとつの星」だということを認識したのは一体いつだったろう? って考え直してみるんですが・・・・・・。

木村>  いつ頃のことでしょうね?


「グローバルとインターナショナル」
寺島> ここできっちり考えておかなくてはいけないのは、我々は最近盛んに「グローバリズム」という言葉を使いますが、「インターナショナル」と「グローバル」という言葉の違いということです。
 「インターナショナル」というのは、「国」と「国」との「際」に視点をおいたもので、その前提には、「国家」が存在していて、国家と国家を繋ぐ際をよく見つめて、その際を越えて行ったような概念というものを考えるのが、「インターナショナル」なんです。
 では、「グローバル」というものは何かというと、「グローブ」、つまり「地球を一つの球体だと認識する」イマジネーションからくるものです。「インターナショナル」と「グローバル」という言葉は根本的にそういう概念の違いがあるのです。
 そこでさっき話しかけた、「いつから人間は地球を一つの星だと考えるようになったのか」ということですが・・・・・・。まあ、世に言う「コペルニクス的転回」という、コペルニクスの「地動説」が発表されたのが1543年頃と言われていますから、(1543年にニコラウス・コペルニクスは『天球の回転について』を発表し、この中で『地動説』を唱えた)16世紀の中頃から、なんとなく人間は、「どうも地球というのは宇宙空間にある一つの星らしい」というぐらいのことはイマジネーションとして共有していたわけです。
 ところが、現実問題として、もう誰もが理屈を越えて、「ああ、やっぱり地球も宇宙の中の一つの星なんだ」ということを理解した瞬間というのは、1969年に「アポロ11号」が月面に着陸して、「アースライズ」と言って、地球が昇る・・・・・・、月の地平線に地球が昇ってくるというシーンを全世界の家庭のテレビが映し出した時の事だと思うんですね。その時、あらゆる議論を越えて瞬間的に誰もが理解したんだと僕は思うんです。 


「地球環境問題とグローバリズム」
寺島>  1972年にローマ・クラブが「成長の限界」という大変有名な本を出したんですね。(『CLUB  OF   ROME』=アウレリオ・ベッチェイ博士が、資源、人口、経済、環境破壊等の全地球的問題に対処するために設立した民間のシンクタンク。     『成長の限界』は、ローマ・クラブが地球の有限性に着目してマサチューセッツ工科大学のデニス・メドゥズを主査とする国際チームに委託して取りまとめた研究報告)。この報告書で初めて地球全体の資源が枯渇してしまうのではないか? とか人口の爆発がもたらすインパクトだとか、今日でいう環境問題、いわゆる汚染問題等ということを指摘したわけです。それによって地球全体がそういう問題を抱えているんだということを我々も理解し共有しました。しかし70年代80年代と過ぎていく過程で、技術によって地球環境問題とか食料問題だとかいうグローバルな問題は克服できるのではないかという楽観論が流れて、その後の「グローバル」という概念に大きな影響を与えることになりました。
 特に、1990年代に入り冷戦が終わったということもあって、1989年に「ベルリンの壁」が崩れ、1991年にソ連が崩壊して、東側と西側に世界が二つに割れていた構造がなくなったことで、社会主義圏といわれていた国々が市場経済に参入してきた結果、国境を越えて「ヒト・モノ・カネ・技術・情報」の移動がより自由に行き交う時代が来たということが盛んに言われはじめて、そこで意味合いを変えて出てきたのが「グローバリズム」という言葉だったわけです。
「グローバルとは何ぞや?」というと、現在では、がぜん経済的な意味が強くなり、国境を越えて「ヒト・モノ・カネ・技術・情報」等の移動がより自由に行われるバラ色の未来が開けてくるのではないかという文脈で「グローバリズム」という言葉が使われていますが、そのように使われはじめたのが1990年代だったと思うのです。
 ところが、我々がまさに生きている21世紀初頭に於いては、必ずしも「グローバリズム」がプラスの意味だけではないぞということに気づかされたのです。極めて具体的に突きつけられはじめたというのが、「ENVIRONMENT」=「エンバイアランメント」。つまり環境問題が、地球全体の過熱経済の中で問題になってきたわけです。つまり、経済が成長するということは必ずエネルギーの消費を増やしますから・・・・・・。エネルギーの消費が増えればCO2の排出が増え、そのことによって地球環境全体に重大なインパクトが出て来て、気候変動だとか温暖化だとか、どんな人でも気づきはじめざるを得ないような状況になって来ているわけです。
 例えば、中国の環境汚染問題は、中国だけの問題ではとどまらずに我々にも襲いかかって来るわけですよね。
木村>  黄砂ですとか、それにはじまって天候、いろんな気象上の影響を受けるようになって来るわけですからね。
寺島>  そうそう。日本海の生態系を守ろうということに問題意識を高めたならば、それはロシアとか中国とか北朝鮮、韓国も巻き込んで一緒になって解決していかなければならない。まさにそういう意味で「グローバルな問題」なわけですよ。     
 ところが現実は、グローバルな問題であるはずの環境問題をもう一回「国民国家」、つまり国家間の利害調整の問題に持ち返してきて、誰が一番責任をもつべきかということでお互いに押しつけ合っているわけですね
木村>  責任だけじゃなくて誰が利益を上げるというところまで・・・・・・。(ET=EMISSIONS TRADING=排出量取引。これが、投機の対象になりかけている)。


「国際連帯税」
寺島>  ところが、あくまでもこの問題はグローバルなんだと・・・・・・。これは、世界の新しい動向なんですけれど、「グローバルな問題はグローバルな新しい仕組みによって解決していかなければ、解決出来ないのではないだろうか」ということで、いわゆる、国ごとの環境税をどう取るかなんていう話じゃなくて、地球全体の環境税といいますか・・・・・・、最近の言葉で言うと「国際連帯税」と言いますが(『トービン税』とも言う。1970年代にノーベル賞経済学者=ジェームス・トービンが国際為替取り引きに課税することを提案したのが最初であり、2005年の『ダボス会議』でフランスのシラク大統領が提案して注目された)、分りやすく言うと、国境を越えたマネーゲーム、例えば、国境を越えた為替の取り引きなどに広く薄く課税していくという考え方ですね。何故なら、地球全体に過熱をもたらしている一因に投機マネーがあるからです。エネルギー価格の高騰の背景にも投機マネーがあると盛んに言われていますけれど・・・・・・。
木村>  食料などもそうですね。
寺島>  食料もそうですね。そういう国境を越えた為替の取り引き。これが、年間300兆ドルとも400兆ドルとも言われているんですけれども、それに0. 05%くらいの薄い税をかけて、北極圏の問題だとか南極の問題、或いは、途上国の環境対策だとかに国際機関が直接徴税して地球全体の問題、途上国の貧困問題等も含めて解決していく財源にしようという考え方を「国際連帯税」というんです。
 今世界53カ国、特に中心となっているのがフランスとブラジルなんですけれど・・・・・・。この「リーディング・カントリーズ」が世界に「国際連帯税問題」をアピールしているのです。
 今、お金の移動の問題を例にとりましたが、それ以外に国境を越えた人の移動、例えば、飛行機を使った人から広く薄く税をとったり、海運、航空燃料へも課税して、国境を越えた問題解決のための財源にしようという全く新しい発想が話題になっているんです。   僕はね、「洞爺湖サミット」で日本がこれを持ち出せるかどうかは別にしても、少なくとも、国際社会で一歩前に出て、誰が責任をもつのかなんていう押しつけ合いではなく、地球全体の問題を地球全体の仕組みを考えることによって解決していく方向に向かうべきだと考えているのです。


「ICC=国際刑事裁判所」
寺島>  これは、是非日本人として注目しておくべきだと思うんですが、去年の10月に日本は105番目の加盟国として、「ICC=国際刑事裁判所」に参加しました。
 僕は、欧州とかよく動いていて、去年まで大変からかわれたのは、「日本は、国連中心主義だとか国際協調主義だとか言っているけれど、なんで、『国際刑事裁判所』に入らないんだ」ということなんですね。ところが「国際刑事裁判所」に入ったことによって大変面子が保てるようになったわけです。しかも、今、日本が「国際刑事裁判所」の財源を負担するトップの国になりました。GDPの規模からの割当でですね。
 これはどういうことかと言うと、「国際司法裁判所」というのが、オランダのハーグに今までもあったということを知っている人は多いのだけれど、国境を越えた組織犯罪、テロとか例えば、日本にとっては「拉致問題」などという国境を越えた組織犯罪というものに対して、各国ごとの刑事訴訟法で対応するのではなくて、国境を越えた刑事訴訟法的な仕組みをつくることによって処断していこうという人類社会の願望みたいなものですね。
 ここで僕が何を言いたいのかと言うと、まさに「国際刑事裁判所構想」も「国際連帯税構想」もそうなんですが、世界がいまどういう仕組みで環境問題(ENVIRONMENT=自然環境に限らず広義の意味に於ける環境)に立ち向かっていこうとしているかということですね。ここのところはよく知らないといけないなと僕は思っているわけです。
 発想を変えて、頭を柔らかくして「『グローバルな問題』を『グローバルに解決』していくための仕組みというものがないのかな」と考えて、そういう中で、現実に欧州を発信源として、「国際連帯税」みたいな全く新しい発想での挑戦が出て来ているということを日本人はしっかり認識しておかなければならないと思っています。
 例えば、今年のサミットは、昨年の夏にサブプライム問題が爆発して、マネーゲームが行き過ぎるとどういうことになるのかということを思い知った後の最初のサミットであるわけですよね。また環境問題ということに、より正面から取り組んでいこうということがアジェンダ(課題)になっているサミットでもあるわけですよね。
 その二つを結びつけて、現実にどうやってマネーゲームを制御して、しかも、地球全体で悩み込みはじめている環境問題というものにどうやって立ち向かうのかということを、多次元方程式を解くような柔らかい頭で考えていかなければならないタイミングだと思うのです。
木村>  はい。来月には「福田ビジョン」というサミット前の地球環境問題に対するビジョンも発表されると言われています。さて、寺島さん。私たちもじっとこの問題を見つめてみたいと思います。


「正義の経済学 ふたたび」
木村>  寺島さん、前回一回目の放送をしましたら、リスナーの皆さんから感想ですとか、意見が随分寄せられています。その中から一つ寺島さんに答えて頂きたいのですが・・・・・・。東京在住のヒロサワ タカシさん、男性の方からの質問ですね。
 「私は、寺島さんの本はだいたい読んでいるのですが、寺島さんの著書の中に『正義の経済学 ふたたび』というのがありますが、『ふたたび』というのは、それに先立つ本があるのではないかと思って探しましたが、ありませんでした。何故『ふたたび』と題につけたのか教えて下さい」。
 なるほどね、そういう疑問を持つのでしょうかね。
寺島>  これはね、1997年に僕がアメリカでの10年間の生活を終えて帰って来て、アメリカ経済に進行しつつある「マネーゲーム化」の傾向というか、そういうものに対する危機感を感じて、「経済って一体なんだろう?」ということをもう一回問い返してみたところから出て来たものなのですね。
 この「経済」という言葉は、「経世済民」という言葉から出て来た言葉なんです。
 つまり、「経済学」というものには、「どうやって世の中を治め、人民を救うか」という問題意識が背景にあるということです。マルクスを持ち出さなくとも、常に、世界の貧困だとか時代が抱えている不条理だとかいうものをどう解決したらいいのだろうかという強烈な問題意識を持った学問が「経済学」なんです。
 ところが、その経済学がいつの間にか迷い込んで、極端に言えば、金儲けの方法論とかひねりにひねった金融工学で、どうやって金を儲けるかという類の話にどんどんスライスして来て、そういう流れの中で、「経済学って、古い言葉だけれども『正義』ということを心に抱いていた学問でしたよね」っていうことを問い返すために、「正義の経済学 ふたたび」という題名に敢えてしたわけです。
 この本を2001年に出したんですけれど、その後の展開の中で僕は、まさに我々が目撃した「サブプライム問題」というものによって、悪知恵の資本主義がどこまで行き詰っているか、経済学が道に迷っているかということを見せつけられたと思っています。
 この10年くらい日本は、「新自由主義」ということで、アメリカ流の「競争主義」「市場主義」を取り入れていくことが、日本の経済に活力を与えるんだということで走って来たし、世界もさっきの話ではないですけれど、「グローバリズム」ということで、まさに「新自由主義」の流れの中を走って来たと思うのですが、いま世界中を見渡してみると、甚だ皮肉なことに、「新国家資本主義」と言いますか・・・・・・、要するに、国家がコントロールした経済、そういう経済の方が成功しているということがあります。そういう流れの中で、自由とか民主主義という概念はものすごく大事だけれど、規律のない「競争主義」「市場主義」だけを発していっていいのかという問題に出くわしているわけです。まさにそういう問題意識を込めて書いたのが、「正義の経済学 ふたたび」という本だったのです。
木村>  つまり、もう一度経済学、或いは、世界のあり方を考え直してみよう。かつてあった「経済学」のあり方を思い出してみようという呼びかけとして「ふたたび」ということですね。
寺島>  ええ、なんのための「経済学」なのかという時のね。


2008年04月27日

第1回目

「月刊 寺島実郎の世界コンセプト」
木村> 寺島さん、今朝が記念すべき第一回目の放送となるのですが、まず、この番組で何を目指すのか? ということについてお話し下さい。
寺島> 私は、岩波書店で発行している「世界」という月刊誌に「脳力のレッスン」という連載を6年半続けています。「脳力」=「のうりき」というのは、「脳味噌」の「脳」と「力」と書くのですが、どういう意味 かと言いますと、「物事の本質を考える力」というようなことになります。 物事を深く考えて本質を見極める方法というものは、いくつかの方法しかないと思っています。その一つは、長い歴史の中で「自分たちが一体どういうところに立っているのだろうか?」ということを自問自答していく問題意識=歴史軸ですね。もう一つは、世界の広さというものに目を向けて、「自分たちが生きている国なり地域なり自分自身なりがどういうところに位置付けられているのか?」ということを考えることで、この縦軸と横軸の中で自分をどこに置くのかという見方が深まってくると物事の本質がだんだん見えてくると思います。
そういう意味で、広い話題の中で、ラジオを聴いている若い人達に 「一緒にものを考えていくような座標軸を提供できればいいな」と考えています。
木村> その意味では、リスナーのみなさんとともに「寺島ワールド」の発見と冒険の旅をして行くということになりますね。
寺島> テレビのように関心が分散していくメディアではなくラジオというメディアではリスナーと並走して行くことができると思うので、そういうところに期待しているんです。


「松前重義と内村鑑三の精神に何をみるのか?」
木村> 第一回目のテーマは、「松前重義と内村鑑三の精神になにを見るのか?」・・・・・・。ちょっとクイズみたいな設定ですが、どういうことで しょう。
寺島> 松前重義といっても若い人は殆ど知らないと思いますけれど・・・・・・。 我々は今日、半蔵門にある「FM東京」に来ているわけですが、この「FM 東京」を創った人が松前重義という人です。 僕は、松前さんが日本の戦後に於いて果たしてきた役割というものは大変多いと思っています。 「FM東京」というのは、もともと1958年に「FM東海」としてスタートして、1960年に実験放送を開始しています。何故「FM東海」なのかと言いますと、「東海大学」の「東海」からつけた局名だったからです。そして、「東海大学」の前身となる「電波科学専門学校」を創設した人が松前重義なのです。 1970年に「FM東海」は、局名を変えて「FM東京」となり現在に至っています。つまり、松前重義さんが、「東海大学」の創立者であり「FM東京」の創業者なのです。 その松前さんが、一体どういう足跡で「東海大学」を創ったり「FM東京」を創業したのかということに僕は大変関心を持っているわけです。「東海大学」が、松前さんの足跡を示す記念館をつくっているのですが、それを見てドキッとしたことがあるんです。松前さんというかたは、1901年に熊本で生まれています。といとは、正に20世紀が始まった年に生まれたということですね。
で、90歳まで生きるんですが、官立熊本高等工業高校から東北帝国大学の電気工学部を出て、逓信省に就職して、その分野で多くの発明などをした人なんです。そういうかたが、どうして「東海大学」を創ったり、「FM東京」を創業したのか? と思って足跡をたどってみましたら、大学を卒業して逓信省に入った23歳の頃、歴史的な、所謂、 「札幌農学校」(現在の北海道大学)を出て、「聖書研究会」というものを指導していた内村鑑三に出会うんですね。内村鑑三と言えば明治時代の青年たちが心をときめかせた知的リーダーの一人です。
木村> 日本のキリスト者の中で無教会主義というような説明もされているかたですね。
寺島> そうです。要するに教会に行ってキリスト教徒になるというのではなく、聖書の本質に迫ろうということですね。その内村鑑三の精神に基づいて教育とか人生とかいうものを考え直して、「東海大学」や「FM 東京」を創ったということが記念館に展示されていたわけです。それを知って「ドキッ」としたわけです。


「デンマルク国の話」
寺島> 内村鑑三が書いた本に、「デンマルク国の話」という小作品があるのですが、「デンマルク国」というのは、デンマークという欧州の小さな国のことですね。内村鑑三がこの本を書いたのは、1911年のことで、どういうことが書かれているかと言いますと、デンマークは1864年にドイツとオーストリアと戦争をして敗れるのですね。(プロ イセン、オーストリア連合対デンマークの戦争。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争。『デンマーク戦争』とも言われる)。敗れて国土の三分の一をとられてしまって、国民が失意の底にある時、そのデンマークを甦らせた人のことが書いてあるんです。ダルガスというリーダーが出てきて、デンマークの人たちに「戦いに敗れても精神は敗れない民が本当の偉大なる民なんだ」ということを呼びかけて、何も残っていないけれど、ユトランドの荒野、荒れた土地をバラの咲く土地にしようじゃないかと言って・・・・・・。
木村> 「緑」で。(『緑色』は平和を象徴する色という意味もある)
寺島> 緑で。農業によって国を甦らせていくという話なんです。まあ、現在のデンマークの礎を築いた人と言えば分かりやすいかもしれません。 この本に松前重義さんは物凄く心を打たれるわけです。つまり、その何十年後かに日本も戦争に敗れて、そこから日本がどう甦っていくのかを予感したかのような内容ですから、松前さんは非常に心を打たれたわけでしょうね。 で、松前さんは、1933年にドイツに留学するんですが、その際、内村鑑三が言っていたデンマークというのはどういうところなのか、ということを自分の目で確かめに行って、国民の教育、つまり、どんな状況に立っても人間の心を強く保っておくものというのは、一体なんだろう? と深く考えるわけです。それが教育というものに彼の問題意識を向かわせていく大きなきっかけとなって、東海大学を創ったりすることに繋がっていくわけです。
つまり、そこに内村鑑三という大きな存在が横たわっていたのですね。僕がドキッとしたもう一つの理由がそこにあるわけです。更に、このデンマークと日本は、情報通信の分野でも深い関係があります。日本がまだ、戉辰戦争だなんだと言っている頃、つまり、明治3年にですね、ウラジオストック-長崎の間に海底ケーブルの敷設を決めるのです。それで、翌年の明治4年=1871年には、ウラジオストックと長崎間の海底ケーブルが敷設されます。明治4年の段階で、 長崎においては、電話回線を使って欧州の動向が7時間で伝わって来ていたということですね。
木村> つまり、その当時の文化の中心であったヨーロッパの情報が送られていたということですね。
寺島> そうです。そこにデンマークが登場するんです。この海底ケーブルを敷設した会社は、「グレート・ノーザン・テレコム」というデンマークの会社だったのです。日本語では、「大北電信」と訳したようですが・・・・・・。 デンマークのコペンハーゲンからバルト三国のラトビア、そして、モスクワ、イルクーツク、そして、ウラジオストックというようにシベリアを越えて長崎まで繋がったということです。     そういう中で、松前さんが発明した技術が後に朝鮮半島と日本の間を海底ケーブルで繋ぐことに活かされていたり・・・・・・。なんて言ったらいいでしょうか? 松前さんの不思議なデンマークとの関係や内村鑑三との因縁、また、情報通信との関わりとかっていうものに僕は思いを馳せてしまうのです。 内村鑑三、デンマーク、情報通信、そういう中で松前さんは凄く触発されて、その見識を活かして、今日の東海大学、そして、FM東京の礎を築いて来たということです。
木村> そのプラットフォームに今我々がいるということですね。


「後世への最大遺物」
寺島> そういうことですね。つまり、内村鑑三っていう人の、一種の「人 間山脈」じゃないですけれど、連綿として松前さんに代表されるような若者に訴えかけたものって一体なんだろう? ということを考える時に、「後世への最大遺物」という内村鑑三の著書のことを思い出すわけです。松前さんも、「デンマルク国の話」という作品と共にこの本を読んだと思うんですね。この本は、1894年に内村鑑三が箱根の芦ノ湖の湖畔でキリスト教徒のために行った夏期学校で行った講演をまとめたものなんですが、「我々は、人生にどういう目的を持って生きるのか?」「一体何を後世に残すことができるのか?」ということを自問自答したようなことをそのとき話しているのです。
木村> 今でいうところの林間学校みたいなものですかね。
寺島> ええ。それで、彼が言っていることが大変面白いのです。「自分たちが存在したという証として残せるものって一体なんだろう?」ということですが、例えば、不朽の名声だとか巨万の富だとか万人に称賛されるような文学作品を残すとか・・・・・・、そういうものが後世に残せるものと思いがちなんですが、そういうものというのは、非常に特殊な才能に恵まれた人だけに与えられるものかもしらんと・・・・・・。だけれども「どんな人でも残せるものが一つだけある」と彼は言っているのです。ここが、もの凄く心を動かすのですね。
木村> それは、どういうものでしょう?
寺島> それが何か?と言うと、「あの人は、真剣に真面目に生きた」とい う、「その生きた姿そのもの」って言いますか・・・・・・。つまり、「『あの人も一生懸命頑張ってああやって真剣に自分のテーマを追いかけて生き抜いたよな』ということ以上のものは残せない」ということがこの本に書いてあることのポイントなんです。 これって、実はもの凄い話ですね。彼は、「これこそが高尚なる精神というか生き方なんだ」ということを若い人たちに語りかけているのです。これ、実は大変意味深いなと僕は思うわけです。
松前さんもこの本を読んで、「自分が世の中に残せるものって一体なんだろう?」と考えたと思うんですね。確かに、彼が発明した技術の世界のことも尊い貢献かもしれませんが、彼が、真面目に生きて、そして、若い人たちに語りかけて、例えば、「東海大学」だとか、今我々が居る「FM東京」のようなものをつくって戦って行ったというか・・・・・・、なし遂げて行ったその生き方こそが素晴らしいわけです。 まあ、世に言う「背中を見る」ということですが、それこそが、その後を生きている人達にとって大変大きなインパクトというか、刺激を残しているのではないかと僕は思うのです。 つまり、松前重義氏がいて、我々がここにいて、その先に内村鑑三っていう人がいて・・・・・・。更に逆上れば、クラーク博士っていう存在があって・・・・・・。そうやって連綿と人が連なっているわけです。我々も誰かの背中を見ながら生きてきたんだけれど、我々も背中を見せていかなくてはならないと・・・・・・。これこそが「後世への最大遺物」であり、我々が今ここで話しているプラットフォームを作ってくれた人に対するメッセージかなと思ったりしています。
木村> 我々が、なにか人の志の有り様というのをですね・・・・・・。それから もう一つは、寺島ワールドのキーワードの一つに、「歴史というものを深く吸い込む」という言葉がありますけれど、歴史の中に我々が何を見るのかということで、まさに今生きるために何が必要か? ということが少し見えてきた気
がします。


「サブプライム・ローン」
木村> 私たちは志、そして、歴史をというものを深めながら「寺島ワールド」を旅していくわけですが、もう一つ、直近のところに目を向ける と、「サブプライム問題」があります、表面化してほぼ半年を越えるのですが、世界経済の動揺というものが一向におさまる気配がない。これを我々はどう見るかということですが・・・・・・。
寺島>  まず、根源的なことを言うと、我々は21世紀初頭という時代に生きているわけです。21世紀に入って7年間の地球全体の実質GDPがどう増えたかというと、去年の数字が加わって年平均3.2%の実質成長で地球全体のGDPが拡大したという時代を生きているということになります。     その間に世界の株式市場の時価総額が、年平均13.6%拡大しています。上海の株式市場に至っては、この間6倍まで時価総額を増やしたという数字が出てくるわけです。これが一体何を意味しているのかと 言いますと、我々の実質的な実態経済の拡大スピードを遥かに上回る勢いで、マネー・ゲーム経済と言いますか、金融経済が肥大している時代に我々は生きているということを意味する事になります。株価だけではなくて、エネルギーの価格だってマネー・ゲームの動向、つまり、過剰流動性のように世界のお金がどこに向かうかによってエネルギー価格でさえ乱高下するという状況を見せつけられているわけです。例えば、サブプライム・ローンの問題が爆発してから3ヶ月の間にニューヨークの先物原油価格は30ドル以上あがっています。では、その3ヶ月の間に世界の石油の需要構造が根源的に変わるような何か変化があったのかというと実質経済面では何も起こってはいません。今までアメリカの住宅市場に向かっていたお金が、住宅市場の信用が失われて、その結果、そのお金をどこに向けるかといった時に、例えば、一次産品だとか、エネルギーだとかっていう方にどっとお金が来ちゃったものだから、あっと言う間に1バーレルあたり30ドル以上も原油価格が値上がりするという状況になっているわけです。
木村> 確か、1バーレル70ドル原油というものが一つあって、今では110ドル以上になっていますね(4月24日現在)。
寺島>  ですから、我々が現在生きている時代の不安定要因の根源というのは、実態経済を上回る勢いでマネー・ゲーム経済が跋扈しているということにあると言えます。で、もう一方で、冷戦が終わってグローバル化という言葉が出て来てから16、7年経つわけですが、では、「グローバル化とは一体なんだったのか?」と言いますと国境を越えるお金の流動なんですね。そ  の反面として一番移動しにくいものが、労働力=つまり人間の移動なんです。そのギャップの中で今世界の様々な問題が起こって来ている のだと言えます。過剰なまでのマネー・ゲーム経済を一体どのようにして制御していっていいものかというのが、21世紀初頭の資本主義 社会が直面している最大の問題だと言っていいと思います。これから少なくとも10年ぐらいにわたって真剣に議論していかなければならないテーマだと思います。何故なら、このことをしっかり議論できる経済学がまだうちたてられていないということなんですね。
木村> これは是非番組の中でもテーマの一つとして取り上げて、更に深めたいと思います。