2010年07月 アーカイブ

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2010年8月のスケジュール

■2010/8/1(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2010/8/6(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

■2010/8/8(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2010/8/14(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様(1)

□2010/8/15(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様(1)

□2010/8/21(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様(2)

■2010/8/21(土)08:00~
讀賣テレビ(日本テレビ系列)「ウェークアップ!ぷらす」

□2010/8/22(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様(2)

■2010/8/27(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

□2010/8/28(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様(3)

□2010/8/29(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様(3)

■2010/8/29(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

2010年07月28日

第55回

木村>  先週は「寺島実郎が語る歴史観」をダイジェストでお聴き頂きました。今朝は寺島さんの最近発行された出版物、或いは、論説等を基にして、これらに触れながらお話を伺いたいと思います。1つは先月30日に毎日新聞社から発行された対談集の『新しい世界観を求めて』、もう1つは岩波書店から発行された月刊誌『世界』8月号(7月8日発売)の中の、『脳力のレッスン』連載第100回の特別編で普天間問題を取り上げて、「日米同盟は進化させねばならない―普天間迷走の総括と今後―」という内容になっています。
 まず、参議院選挙の結果についてですが、民主党大敗がメディアで大きく言われました。そこで、この選挙の結果をどのように見るのかというあたりからお話を伺いたいと思います。

寺島>  表層観察をすると、「自民党」が健闘して、「民主党」が大敗し、行き場のない票が「みんなの党」を押し上げることになりました。しかも、鳩山政権から交代して、鳩山・小沢というカードを引っ込めて、菅というカードに表面を取りかえて、せっかく支持率が6割以上になっていたのに不用意に消費税と言いだしたために、バンと反発をかってしまったのだと捉えがちなのです。しかし、もっと構造的な部分で約1年近くになった政権交代後の民主党の政策軸のブレや歪みに対して国民の不安や不満等がたまって結果的にこのような票になったのだと思います。
 それでは実際に自民党が勝ったのかというと、決してそのようなことはなくて、全国の比例の得票率は前回2007年の参議院選挙の時に自民党は31.4%を取り、今回は24.1%で得票率が落ちています。民主党も前回40.5%から31.6%に落ちています。このように自民党も民主党も落ちているにもかかわらず、何故、44議席もあるなかで民主党が10議席も減らす結果になったのかというと、一人区、つまり、1人しか当選者を出せない区において、前回、民主党は23勝6敗だったのですが、今回は8勝21敗で、全くここが逆転してしまったからです。何故このようなことが起こるのかというと、一人区は分かり易くいうと、政権与党に対して支持する票と疑問をもつ票の2つに割れて勝負になるということです。その結果、今回は自民党しか民主党に対する批判を受けとめる党がない形になり、自民圧勝になるのです。
 つまり、それほどまでに民主党に対する失望感があり、それは外交安全保障だけではなくて、経済産業政策を含めて、この党の政策の軸が見えないからです。「どうも期待していても思うようにいかない」という気持ちが、民主党に対する支持をためらわせた大きな理由だったと思います。それは、イデオロギーや信念や政策軸等がしっかりと見えて、そこに確信をもって投票をしているのではなくて、行き場のない泡のようなものが移ろっていて、その時の流行りの力学、つまり、今回の場合はみんなの党に流れていっているということです。
 要するに、政治の状況が非常に移ろい易くなっているということです。例えば、いま支持を得ているものが1年後には泡のように消えていく場合もあるのです。つまり、それを消えない、確信をもって支持してくれるものに変えていくことが政治家の力量であり、政策であり、政策思想なのだということです。
 いまの日本の中に、極端に言えば「レッテルの違う中身の同じ瓶」という言い方があって、二大政党といっても、中身はほとんど同じなのにレッテルだけをその瞬間、瞬間で流行りそうなものに作り変えて提示されてくることに対して国民が迷いを通り越して、ある種の失望感の中に嵌り始めているのだと思います。
 私は「代議制の民主主義の鍛え直し」ということを言い続けています。何故、いま代議制民主主義がこんなにも移ろい易く、薄っぺらなものになっているのかというと、実は、「民主主義とは何か?」という原理原則に還った時に、私はよく代議制民主義という言葉を選ぶのですが、「代議制」に比重をおいて、代議制民主主義を議論する場合と「民主主義」に比重をおいて、傍点を打って議論する場合とでは同じ代議制民主主義でも意味が違います。
これはどのような意味かというと、もしも、民主主義に比重をおいて、つまり、国民の世論、意識を正確に反映する政治を実現することが民主主義なのだということであるならば、いま我々の心の中に段々と大きくなってきているものは、「直接主義が可能なのではないのか?」、「直接民主主義のほうがよいのではないのか?」という気運です。
私は学生時代に政治学を大学院まで学んだ人間ですが、代議制民主主義の重要性を盛んに教え込まれました。その時にどのようなことを議論したのかというと、古代ギリシャ、ローマのような直接民主主義は、タウンミーティングができるような、見渡して肉声が届くような範囲においては、全員が票を入れて意思決定をするという方式が成り立ちます。
しかし、全国民に投票権が与えられるような形の大衆民主主義の下においては、意思決定と「大衆」=「国民」を繋ぐ「代議者」=「パイプ役」が必要になるのです。そのパイプ役が大切なのだという意味において、代議制が重要だということです。つまり、国民の世論の代弁者であり、国民をリードする代議者の役割が大切なのだと教わりました。
しかし、いま我々が直面しているのは、IT革命で、皮肉にもIT革命によって間に挟まっているものが排除されて直接繋ぐということが可能になってきたというところに物凄く意味があります。いま、技術的にネットでの投票、ネットでの意思確認をする方法論をしっかりと踏み固めていくのならば、あるテーマに関して国民がいま何を考えているのか正確に掌握することは必ずしも不可能ではないことに段々近づきつつあるのです。
例えば、家に送られてきた選挙のハガキを握りしめて近所の投票所に行って、本人確認はしていますが、本当にその人なのかどうかは指紋をとっているわけでもなく、ハガキに顔写真がついているわけでもなくて、恐らくこの人だろうという判断によって赤鉛筆でチェックをして投票させているのが現在の投票の仕組みなのです。もしも、声紋鑑定なり、なにかのレジスタ制にして、しっかりとした本人確認の下にネットによって国民の意見を正確に掌握しようと試みるのであれば、そのようなことも可能かもしれないのです。つまり、分かり易く言うと、直接民主主義が可能かもしれないという時代に近づいているために、代議制が根底から揺らぎ始めていることに気がつかなければならないということです。
自分たちが投票したことがない人が首相になって、代議者を通じて隔靴掻痒と言いますか、自分たちの意思がいつまでも伝わらない情況に苛立ちを覚えて、しかも、二院制になっていて、この国の英知が結集されて、一番よい政策が実現されていくプロセスが目の前に見えるのかというとそうではなくて、代議制の仕組みを通じていれば通じているほどややこしくなっていくのです。
例えば、参議院の選挙の度に多くの人が溜息をついていると思いますが、「何故このような人たちが出てくるのでしょうね」と思うような人たちが選挙に出てきます。それは、一概にタレント議員が悪いという文脈ではなくて、およそ、恥やそのような心があるのであれば、政治は人の生き方や社会の在り方に影響を与えるところに自分が踏み出そうとすることですから、恐ろしいまでに自己制御が効いていなければならないし、禁欲的でなければならないのですが、敢えて言うならば鉄面皮の人たちが出てきて、更に一度選挙区では落選をした人たちまでがゾンビ議員のように比例区で甦ったりします。国民にとってみれば、政治の仕組みそのものが一体どのようになっているのかという気持ちになると思います。
そこで、代議制民主主義の鍛え直しとは、政治の究極の目標は政治で飯を食う人を限りなく少なくすることなのです。政治で飯が食えるということが本当は極めて例外でなければならないのです。みんな額に汗して働く仕事をもっていて、みんな世の中のために一肌もふた肌も脱いで、お役に立とうという気持ちで、例えば、アメリカの地方議員は給料のほとんどがなきに等しいくらいで、PTAの役員のように、ボランティア活動のようなつもりでやる気がなければとてもやっていられません。アメリカの下院議員がどんどん辞めて代わっていく理由は、一言でいうとおいしくない仕事だからなのです。例えば、子供の教育に金がかかるのに、そのようなところで代議者をやっていても金儲けにならないのです。しかし、日本の場合は、孫子の代まで政治家を譲っていこうとします。それは何故かというと、それがおいしい仕事だからなのです。
そこで、まず、ここのところにきて盛んに唱える人が増えてきていますが、代議者の削減です。これは菅首相までが、国会の質問に明確に答えていましたが、民主党は前回のマニフェストで衆議院議員を80人減らして、参議院議員を40人減らして合計120人、国会議員を減らすのだと言及しました。自民党も含めて、そのようなことを盛んに言っています。なかには、国会議員の数を半減すべきだと主張している党も出てきています。
仮に120人減ったとして、代議制に伴うコストだといって仕方がないと思っていた議員1人当りにどれくらいのお金がかかっているのかというと、どんなに少なく見積もっても、直接人件費プラスアルファくらいで約2億円かかっています。

木村>  今度は新しい議員会館が出来て千何百億円というお金がかかりましたね。

寺島>  そのような類の間接コストの話をし始めると、その何倍もかかってしまっているのです。
 そこで、代議制民主主義を鍛え直す時のいろはの「い」は、代議者の削減です。これは幸いなことに市町村合併によってこの10年間で、地方の代議員、例えば、市町村会議員は日本全体で約2万数千人減っています。この先50年間、日本も人口が3割減ろうとしているために、どんなに少なくとも120人の削減が必要です。いま、日本はアメリカの1人当りの国会議員数の3倍もいます。つまり、日本はアメリカの上下両議院議員の数の国民1人当りに対する比率の3倍の国会議員を抱えているということです。
 更に、アメリカが踏み込み始めていることは議員の任期制限です。つまり、上院議員ならば州ごとに決めていますが、2期12年までしかやってはいけなくて、その後は立候補できません。下院議員であれば、こちらも州によりますが、6年から9年の任期になっています。分かり易くいうと、アメリカは、「政治を職業として飯を食ってはならない」という方向にいき始めているということです。それも行き過ぎではないのかという意見もあって、憲法で職業選択の自由があるのだから、むしろ、それこそが憲法違反ではないのかという意見までもがアメリカで出ています。おそらく日本でもそのような議論が出てくると思います。
 しかし、このように代議者として飯を食うことがいかに厳しいのかということを思い知るような形で、むしろ、職業としての政治を選ぶ人を育てなければならないのです。これが、私は今度の選挙あたりから我々が真剣に考えなければならないことの1つだと思います。

木村>  ある意味では、いまの代議制民主主義の在り方を深く根底から問いかけるお話であると共に、一方では、寺島さんのお話を伺って少し溜飲が下がったように感じておられる方もいると思います。それくらい、いまの我々が目にする政治状況がいかにもうつろだということもあります。そのことについて後半にお話を伺います。

<後半>

木村>  冒頭に触れました寺島さんの本『新しい世界観を求めて』は、佐高信さんとの対談集になっていますが、私は、興味深くという意味で非常に面白く読ませて頂きました。

寺島>  佐高さんは政治的な思想信条やものの考え方において、もしかすると私と対極にいるような人かもしれません。しかし、ある意味において心が通い合う一点があります。敢えて言うのであれば、世代といいますか、戦後という時代に生きてきた人間としての共通責任という問題意識において、話せば話すほどスパークしてくる部分があるのです。
 そこで、戦後という時代に生きる責任ということなのですが、大げさに言えば、いまのままのような情況で、この後、日本で生きていく世代にバトンを渡してよいのかということです。例えば、敗戦国としてとにかく経済によって復興しようとして這い上がってくる過程で、置き去りにしてきてしまったもの、それは、この国に戦後60年経っても外国の軍隊の基地があり続けて、アジアとの関係に決定的な信頼関係をつくることが出来ないまま21世紀を迎えて今日に至っているという事実です。いまだにアメリカ頼りで21世紀の新しいアジア情況の中を生きていこうというところにとどまっている国だということです。そのような日本の限界を実は中国もロシアもASEANの国々の人たちもじっと見ていて、日本は技術をもった優れた国だけれども、所詮、アメリカ周辺国にしか過ぎないのだというところに目線がきているのです。典型的なのですが、米軍基地の抑止力論なるものがこの半年間で大きなことが2つ変わっているのです。冒頭お伝えした、月刊誌『世界』8月号の論文をそのような文脈で読んで頂きたいと思います。
 まず、アメリカの外交防衛政策が大きく変わろうとしています。オバマの軍事戦略がしっかり見えてきました。一言でいうと、縮軍です。つまり、海外の同盟国に軍事基地までおいて、そこを守ったり支援したりするということはアメリカの能力において段々できなくなってきたということです。「それぞれの国が自分の国をしっかりと守ることを後ろから支援するような方向に行かざるを得ない」ということをゲイツ国防長官が言い、ここのところ続々と発表されてきたアメリカの驚くべき戦略転換があります。例えば、これから5年間に1兆ドルの軍事予算を削減すると言っています。これは1年間でいうと、2,000億ドルです。しかし、皮肉にも、縮軍に入れば入るほど基地維持費の70%を負担してくれる日本に基地を持つ意味が彼らにとって重要になってくるのです。
 そこで、日米同盟の「シンカ」を盛んにいまの政権は言っています。その「シンカ」は深めるほうの「深化」なのですが、私が今度の論文で敢えて使っているのは進めるほうの「進化」です。そろそろ日本人も冷戦を前提につくった仕組みの日米安保や、日米同盟を冷戦を超えた時代においてどのようにしていくのか、それは日米同盟を止めるべきだという次元の話ではなくて、アメリカを利用出来る限りにおいては、アジアでアメリカと日本との関係をテコに日本の存在感を高めていくという戦略をとるのも強かに展開するという意味において非常に重要なのです。日本が中国と向き合っていく時、また、ロシアと向き合っていく時に、アメリカと手を切って日本独自にということを考える必要もありません。
 しかし、一方で、アメリカだけに頼ってこの複雑なゲームを超えていけると思うことも誤りなのです。いまは物凄くしなやかな大きな構想力が問われている局面にきているのです。そのような中で、少なくとも日本にある米軍基地管理権、つまり、米軍が駐留していても管理権は日本側が取り返していくというプロセス、地位協定上の基地のステイタスを日本が管理権を持っているという基地の性格に変えていく努力をテーブルの上に載せられなければ日本はこれから国際社会の中で、多くの国がしのぎを削っていかなければならないような状況の中で、アメリカ周辺国に過ぎないという目線を超えていくことはできないであろうと思います。いま、日本は物凄く重要な局面にきているのです。つまり、日本の戦後を真剣に総括するのであれば、私は必ずこのまま次の世代にバトンを渡してはならないと思います。我々の世代の間に解決しなければならない大きな問題があります。その1つがアメリカとの関係をしっかりと組み立て直して軌道にのせなければならないという責任感なのだといえます。私は佐高さんと話をしていて、立場も違えば議論の論点も違うけれども、共鳴心が働いている部分の1つがそこなのだと実感しました。