2009年05月 アーカイブ

2009年05月31日

2009年6月のスケジュール

■2009/6/7(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」
 
■2009/6/7(日)21:00~
NHK総合「NHKスペシャル」
シリーズ JAPANデビュー第3回 貿易立国(仮)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/090607.html
 
■2009/6/12(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー
 
■2009/6/13(土)08:00~
讀賣テレビ系列「ウェークアップ!ぷらす」
 
□2009/6/20(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
□2009/6/21(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
■2009/6/21(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」
 
■2009/6/26(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」
 
□2009/6/27(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
□2009/6/28(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

第23回目

木村>  前回の放送では「G20」を経たその後の世界、あるいは世界経済という事でお話を伺いました。今朝のテーマは「ベルリンの壁崩壊から20年~欧州報告~」です。サブタイトルが「ベルリンで考えた事」となっていますのでベルリンにお出かけになったのですね。

<ベルリンの壁崩壊から20年~欧州報告~>
 
寺島>  ゴールデンウイークの4日から6日の3日間にわたって「OBサミット」(註.1)の準備のための「高度専門家会議」(註.2)に出席するためベルリンに行きました。私にとって非常に刺激的な体験でした。
 「OBサミット」と言うのは、「先進国首脳会議」=「G8」に参加した事がある首相や大統領の経験者による国際会議の事です。このOBサミットが今年の5月9日からサウジアラビアのジェッダで行われて、日本からは福田康夫さんが参加しました。その前に先進国の首脳だった人たちが集まって、世界中がいま抱えている問題、例えば今年について言うとエネルギー環境問題や安全保障等の問題について専門家を呼んで話を聞いて、テーブルを囲んでじっくりと3日間にわたって話をする「高度専門家会議」というものがあるのですが、私はその会議に出席したわけです。
そして、例えば、91歳のドイツのシュミット元首相やカナダのクレティエン元首相という人たちと一緒に3日間朝昼晩、飯を食いながら議論をするという大変不思議な体験をしました。
 
木村>  正式な本来のサミットのほうがむしろ儀式になっていて、OBサミットは議論が中心で極めて深いという事をよく言われますね。
 
寺島>  G8は、この準備会議を経て入っていくので実際にはほとんどの方向づけは準備会議で終わっていて、正式な会議はセレモニー化して来ていますが、それに参加した人たち誰もが「これだけ深い議論をしているのか」とある種心を打たれたと思います。
 我々にとって大先輩の80歳や90歳の元首相で世界の歴史を動かしたような人たちと触れ合ってみて感じた事があります。「我々はその歳まで元気でいられるのだろうか?」という事も含めて考えてしまいますが、シュミットにしても本当に無邪気で好奇心が強くて時代のどんな問題に対しても目を輝かせて参入して来るのです。このあたりがいつまでも若さを保つ人の一つの特長なのだと思いました。シュミットという人は1974年から1982年までドイツの首相として現在のEUの原型をフランスのディスカール・ディスタンと一緒につくった人でもあります。彼が青年将校としてナチスの軍隊にいた時代の事や、戦後、敗戦国としてのドイツをどのように見て来たのか、色々な歴史を動かした人たちと出会って来て、その人たちに対する評価等、私にとって、本当にそれらの話が新鮮で、驚きながら帰って来ました。
 そこで、今日のテーマになりますが、会議が行われたのがベルリンの壁のすぐ近くのホテルだった事もあり、「『ベルリンの壁崩壊』から今年でちょうど20年になるのだ」という事を私はずっと意識していました。1989年11月の事でした。その翌年、東西に分かれていたドイツが統合し、1991年にはソ連が崩壊して、かつて社会主義圏という形で「東側」を形成していた国々が雪崩を打って崩れて行くような時代を我々は20年前に目撃しました。
 私がシュミット元首相と話していて非常に面白いと思ったのは、「チェック・ポイント・チャーリーという所があるから行ってごらん」と彼が言った時の事です。ベルリンに行った事がある人なら知っていると思いますが、そこに、現在「ベルリンの壁博物館」ができているのです。「チェック・ポイント・チャーリー」と言われていた東西のチェックポイント、つまり関門になっていたところです。東側から西側に逃げて来る人たちが、例えば地下に深いトンネルを掘ったり、気球で逃げて来て殺されたりする等、様々な出来事があった冷戦時代の物事を博物館として色々と記録を保存しているのです。シュミットは「その博物館に行ってごらん」と言うわけです。ここからは少しジョークになりますが、「博物館を出てきたら露天商のお土産屋が並んでいて、そのお土産の一つに昔のソ連兵が被っていた帽子や将校が被っていた帽子やアメリカの兵隊が被っていた帽子のレプリカが売っている。それらをひっくり返してみると、そこには『MADE IN CHINA』と書いてある」と彼は言いました。私は冗談だろうと思ったのですが、実際に行ってみると本当に「メイド・イン・チャイナ」と書いてあったのです。つまり、それほどの時代が来たと言うか、グローバリゼーションをある意味では茶化し、笑い話としているシュミット独特のセンスです。
要するに、あれから20年という事で多くの人たちは東側が西側に敗れて、社会主義が崩壊して資本主義が勝ったという認識で過ごして来ました。資本主義の総本山と言われて来たアメリカが21世紀の世界秩序の中心になって世界をリードして行くという時代観の下に、この20年間、たいがいの人は「ドルの一極支配」、「アメリカの一極支配」と言っていた時代があり、「唯一の超大国」となったアメリカと言ってきました。ソ連、および東側という重しがある日取れて、これからは東側諸国が市場経済に参入して来て、国境を超えて「ヒト」、「モノ」、「金」、「技術」、「情報」が自由に行き交う時代が来るというイメージで多くの論者はそれを「グローバリゼーション」や「大競争の時代」と呼び、どんな人でも「この20年間の世界観」=「いま私たちはどのような時代を生きているのだろうか?」という時に、東西冷戦の時代は終わって世界を一つの市場とする「大競争の時代」=「グローバル化の時代」が来たという認識で生きて来たと思います。
 しかし、まさにこの数年間、特に昨年あたりからアメリカを柱とする資本主義なる体制が行き着いた先と言ってもいいようなグローバリズムの陰の部分、この番組でも何回もお話をしてきましたが、アメリカ流金融資本主義の限界と言いますか、行き着いたところとしてサブプライム問題、金融システムの危機等を迎えていま世界が本当に大きな反省期に入っているのです。
 今回の会議を通じて感じた事は、アメリカ一極支配がいかに幻想であったかという事です。そして、いかに間違った認識であったかという事が時代認識の前提として議論されているというのが深く印象に残りました。
そのような中から今日、私がお話しをしたいと思っているのは、欧州の実験です。いま欧州をどのように捉えるかという事が我々にとって凄く大事だという事です。この番組でも度々話題にして来ましたが、日本は「アメリカを通じてしか世界を見ない」という時代を過ごして来てしまったために、欧州もアジアもブラインドになってしまって実はよく見えていないという状態にあるという問題です。
 そこで、欧州がいまどうなっているのかと言いますと、極端に言うのであれば欧州経済はアメリカ経済以上に非常に苦闘していて深刻な状況です。アメリカ流の市場主義を取り入れた欧州で、皮肉にもアメリカ以上に金融機関が一種の信用不安的な情況に入っているという事実です。その結果として、「欧州はダメだ」という見方をとりがちなのが一般的に伝わって来る情報です。

(註1、インターアクション・カウンシル。通称「OBサミット」。)
(註2、OBサミットは専門家のアドバイスを受けるために、会議前に専門家会議を招請している。各専門家会議の議長はOBサミットのメンバー)

<欧州三つの実験>
 
寺島>  しかし、ここで私が申し上げたい事は、「欧州三つの実験」を日本人として注目しなければならないという事です。欧州が挑戦している実験とは一体何なのだろうか? と頭を整理して行くと段々とわかって来ると思います。まず一つは、「国民国家を超えた地域統合の実験」への挑戦です。
 
木村>  EUという連合体をつくり、「国境が点線になる」という言われ方をしますね。
 
寺島>  考えて頂いたらわかると思いますが、欧州は20世紀の前半に第一次世界大戦、第二次世界大戦という二度の血で血を洗う戦いを経験してしまった地域です。特にその中心になってチャレンジしたのがドイツだったわけです。ドイツの脅威は、欧州の中に深く埋め込まれています。
 まず、現在EUと呼ばれている欧州統合の実験は、第二次大戦が終わった後、1950年代になってフランスとドイツの和解のプロセスからスタートしたと言ってよいでしょう。そして、今日にまでそのテーマを引きずっていますが、「EUの本質とは何か?」と言うと、「ドイツの強大化をどのようにして欧州という共通の箱の中に閉じ込めるのか?」というところにあります。フランス側からすると、再び強大化して欧州に挑戦してきかねない勢いを持っているドイツを、欧州という共通の箱の中に閉じ込める事によって制御しなければならないという意識があり、それがEU統合に対する深い問題意識だったのです。
 そして、ドイツの方も二度も欧州全域を敵にまわして戦ったような国で、これ以上力をつけていったのであれば、再びドイツに対する警戒心ばかりが強まって、にっちもさっちも行かなくなります。したがって、自ら欧州という共通の箱の中に収まる事によって、実態的にドイツの成長、発展を実現して行くというテーマがあって、その問題意識が、そもそもの原点である「EC」(註.3)と呼ばれた時代からの基本的な考え方だったと言っていいと思います。
 
木村>  かつては「ヨーロッパ経済共同体」という呼ばれ方もしていましたね。
 
寺島>  1973年にイギリスまで含む9つの国の体制になり、冷戦が終わった後、「EU」という体制に1993年から移行して、欧州共同体が「欧州連合」という言葉に表現されるような形に段階的に発展して来ているわけです。
 そこで、いよいよ27カ国体制にまで欧州は拡大して来て、気がつけばロシアとの国境線にまで欧州が張り出して来たと言っていいと思います。つまり、冷戦の時代には東西で真っ二つに割られていた欧州が、まるで匍匐前進のように次第に欧州の限界を広げて行き、ついに「ロシアの国境線までが欧州」という枠組みの中でEU27カ国の体制になって行きました。
それは一体何なのかと言うと、「欧州は戦争の出来ない地域になった」という表現がありますが、分かり易く言うと、血で血を洗う戦いを繰り返して来た欧州が地域統合を出来るわけがないと多くの人たちが見ていた目線をくつがえしたという事です。
 現実にこのような形で27カ国体制までEUは拡大して来ました。しかも、ユーロという共通通貨までつくるようになりました。ユーロ導入の1999年、今から10年前になりますが、多くの人たちは、「ユーロはうまく行くわけがない」という話をこの分野のプロの人たちほどしていました。しかし、現実に今回、金融危機に直面して何が起こったかと言うと、デンマークのように「ユーロには入らない」と言ってそっぽを向いていた国や、イギリスでさえもユーロという共通通貨に参加したのです。つまり、「共通通貨」=「ユーロ」に近づいて行く事が欧州の統合を深めるという事なのです。そして、この危機を梃にして欧州が更なる統合を深めて行こうという「統合の深化」の流れの中にあるという事を我々は知らなければならないのです。
 したがって、まるでかったるいように見えて、大変な問題も抱えている事も事実ですが、一歩一歩、欧州は地域の共通利害を束ねて一つの仕組みとしてユニットをつくりつつあるという事に対して我々はよく理解していなければならないのです。これがまず一つ目の実験なのです。
 
木村>  では、その二つ目、三つ目は後半でお話を伺います。

(註3、EC=European Community。欧州共同体。1967年、石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)及び欧州原子力共同体(ユートラム)の三機関が統合され、発足。経済統合を中心に発展。後に政治同盟の実現を目指し、93年に欧州連合(EU)に発展)

<後半>
 
寺島>  二つ目の実験は、「ユーロ社民主義の実験」という言い方をしてよいと思います。欧州とアメリカの決定的な違いは何なのかと言うと、1917年にロシア革命が起こって以来、20世紀を通じて欧州の主要国はことごとく一度や二度は社会主義政権をつくって社会主義という言葉にこだわり続けて来たという事です。今日でも例えばドイツは大連立になっているけれども社民党が政権に参加していて、かつての社会主義政党が政権に参加しているパターンです。イギリスはいまだに労働党政権という事でかつての社会主義政党が政権についています。フランスに至ってはこの間まで共産党が参加しているような政権パターンだったのです。
「アメリカは資本原理主義の総本山だ」という言い方がありますが、その通り、一度も社会主義政党なるものを育てた事もなければ、社会主義政権などというものをつくったこともありません。であるが故に、資本主義に対する考え方がアメリカと欧州では全く違うのです。アメリカは株主資本主義に徹した資本主義と言うか、つまり、企業を取り巻く利害関係者の中で株主が圧倒的に重要なのだという「株主価値最大化」資本主義なのです。それに対して社会主義に悩み続けて来た欧州の資本主義は株主も勿論大事だけれどもそれだけではなくて、例えば会社のために働いてくれている従業員や地域社会、国家等、あるいは地球環境にでさえ企業はバランス良く付加価値を配分して貢献しなければならないという考え方がこびり付いて来ているわけです。
つまり、この話は、今後世界の資本主義がどのような方向に進むべきなのかという事がまさに議論されている時に、アメリカモデルというものに配慮する必要はあるけれども欧州が考えている事も非常に参考になるし、日本の資本主義のあり方を問いかける時にも非常に重要になるという事です。
 そして三つ目の実験は、分かり易く言うと「環境問題に対する先行モデル」と言う事です。要するに今、世界中の環境問題の先頭を走っているのが欧州なのです。今年の12月にはコペンハーゲンで「COP15」(註.4)という環境問題に関する新しいルール作りの会議が開かれます。環境問題に至ってはアメリカのオバマ政権がこの番組でもお話ししたように、「グリーン・ニューディール」なるものを掲げて再生可能エネルギーにかけて行こうと言っていますが、欧州の人たちから言わせると、今さらめいて聞こえるという部分があるのです。何故ならば、欧州は10年も前から、例えばドイツや北欧等は再生可能エネルギー対応、風力等を重視したエネルギー政策をやって来たのにアメリカはそれらを10年遅れて追いかけているではないかという目線があって、あらゆる意味で、いまは環境問題が大事だと言われて来ている世界において欧州が挑戦している実験は物凄く意味があるわけです。実は欧州はそのような意味で日本人が国際社会を考える上で大きなヒントを提供しているのです。
欧州に様々な国連機関が本部を置いています。ジュネーブには15の国連本部があります。日本にとっては欧州に本部がある国際機関がますます重要になって来ている理由は、例えば中国や北朝鮮問題に向き合う時も欧州にある国際機関が重要になるのです。何故かと言うと、中国にとっても北朝鮮にとっても彼らの国際機関を認識する時のプラットフォームや試金石が欧州なのです。例えば数年前に中国で反日デモが繰り広げられた時に、中国を変えさせたのは一体どこだったのかと言うと、欧州にある国際機関に出て行っている中国の外交官だったのです。このような監視ポイントが欧州にあるという事に我々は気がつかなければなりません。そして、欧州のコンセンサスが日本の周りを取り巻いている国々をより国際的な仕組みの中に責任を果たす国にして行くためにも物凄く重要だという事を知らなければなりません。つまり、欧州をじっくり見据えて欧州は非常に成熟度の高い実験をしているのだという事に気がつかなければならないのです。そこに目配りする事が我々のものの見方や考え方を大きく変えて行くという点を私は申し上げておきたいのです。
 
木村>  私たちにとって欧州というものはいつも遠い存在のように見えていたので、この欧州を見つめる目、そしてそこに確かな問題意識の大切さを寺島さんのお話であらためて認識しました。
 
(註5、気候変動枠組条約締約国会議=Conference of Parties。第15回締約国会議<COP15>は、2009年12月デンマーク/コペンハーゲンにて開催)

第24回目

<46年前の鹿島守之助氏に宛てた手紙と寺島文庫>
 
木村>  先週は「ベルリンの壁崩壊から20年~ベルリンで考えた事~」というテーマで、私たちが欧州でいま何が進んでいるのかキチンとした認識を持つ事の大切さとその事が世界と日本にどのような意味を持つのか、そして、いま欧州ですすむ「三つの実験」という事でお話を伺いました。
今朝は「寺島実郎が語る歴史観」のコーナーを拡大して、テーマの設定が「46年前の鹿島守之助氏に宛てた手紙と寺島文庫」となっています。「寺島文庫」は4月から寺島さんが文庫を開設されたという事は分かるのですが、このお話はどういう事なのでしょうか?
 
寺島>  自分の学校の庭に子供たちがタイムカプセルを埋めたりしますが、自分が埋めたタイムカプセルを46年経って掘り出したような奇妙な気持ちで私はこの話を語りたいと思います。
1963年、東京オリンピックの前の年ですが、私は15歳の少年として札幌の高等学校の一年生でした。私は変わった少年で、やたらに色々な本を読んでは先週お話をした欧州統合のように、欧州では地域統合が進んでいるのか等について高校の先生たちに難問をぶつけて悦に入っているという不思議なタイプでした。
当時、私は何かの記事で、その地域統合の思想の原点にオーストリア出身のクーデンホーフ=カレルギー(註.1)という人物がいる事を知りました。この人は「パン・ヨーロッパ」という本を書いて「ヨーロッパ統合の父」と呼ばれた人物です。彼は「ヨーロッパは統合されなければならない」と戦後に大変主張をしていたオピニオン・リーダーのような存在でした。そして、私は彼に関する本をいくつか読みましたが、クーデンホーフ=カレルギーの翻訳本は高校生が買うにはとても高価なもので手が出ませんでした。それらの本の出版元を調べたら「鹿島出版会」でした。これは、鹿島建設の中興の祖と呼ばれていた、元外交官で鹿島建設の創業者の一族に引っ張られて婿養子に入って鹿島を支えるという人生を送った鹿島守之助(註.2)さんが創立したものです。その鹿島出版会からクーデンホーフ=カレルギーのヨーロッパ統合の思想に関する本を出版したのです。
札幌の高校生だった私はずうずうしく鹿島守之助さんに手紙を書きました。その手紙に何を書いたのかというと、「私はこのような事で一生懸命興味をもって本を読みたいのですが、私たちにはとても手が出ない本なので古本でもよいから私に送ってもらえないか」というような内容なのです。それを鹿島さんに送ってしまったのです。そして、手紙を出して半月くらいが経った時、鹿島守之助さんがクーデンホーフ関連の色々な本を箱に詰めて送って来てくれました。
この話を他の人が聞くと、「ああ、そうかいな」という程度の話なのですが、実は、鹿島守之助さんのお孫さんの渥美直紀さんという現在鹿島建設の副社長で、私にとっては友人となっている人がいて、彼に「実は、あなたのおじいさんの鹿島守之助さんに私が高校一年生の時に手紙を書いて、クーデンホーフの翻訳本を貰ったのだ」と話をしました。40数年前の話なので、最初はにわかには信じないで「へーっ」という感じくらいでした。
しかし、そこから話が大変面白くなって、鹿島守之助さんの秘書をやっていた幸田初枝さんという女性が今でも御健在で、渥美さんが彼女に「私の友人に寺島という男がいて、こんな事を言っている」と話したら、幸田さんはありありとその事を覚えていたのです。つまり、北海道の少年に本を送った事実です。しかも、ここから木村さんは驚くと思いますが、幸田さんは、その40数年前の手紙をいまでもファイルして持っていたのです。よっぽど整理が良い人だと思うのですが、彼女は「この少年は面白い。やがて、何か仕事をしてくる男だろう」と思ったようです。
そして、40数年前の手紙を渥美さん経由で、自分の目で自分の少年時代の字を見る事になったわけです。しかも、本を送って来てくれたので私は御礼状も書きました。その御礼状と共に2通の手紙が出て来たのです。私はこんなずうずうしい事を書いたのかと正直申し上げて恥ずかしくて赤面するような手紙なのですが、色々な思いがあり、鹿島さんという人はある種の恩人なのです。よく北海道の少年なんかに本を送ってやろうという気持ちになったなという事と、私の受け止め方としては、自分が今日まで色々な事で歩んできたけれども、思えば色々な人たちに支えられているのだという事をあらためて思い知る大きなきっかけにもなったのです。
その時に送ってくれた「パン・ヨーロッパ」、「ヨーロッパ国民」等の本を私はいまでも大事に持っています。まさにそのように少年時代から集めて来た本がその後世界中を動きまわる事になって、特に「地歴」=「地理や歴史」に関する社会科学の本、例えばアメリカ論やヨーロッパに関する本、中東に関する本等、更には未来論、日本の社会構造や世代論等の類の本3万冊を世田谷の駒沢にある父の家を引き継いだ家に庭に書庫を建てて収納し、そこが私の物書き場でもあり、ものを考える場でもあるという事で今日まで過ごしてきました。
そして、ここ何年間で、若い人たちを育てる場として寺島文庫のようなものをつくって、そこで研修やものを考えたり研鑽を励む等の磁場を形成する事ができたら非常に意味があるという想いが段々とふくらんで来ました。
東京電力会長、経団連会長をやられた平岩外四(註.3)さんという立派な方が、4万冊の本を残して亡くなりました。その本をどのようにするのかという事で、残された人も含めて大変悩まされたという話があります。よほどの稀少本だったらともかくとして、いまは古本屋でもそんなに本は引き取りたくないという時代です。そんな中、例えば、東大阪の司馬遼太郎記念館もしっかり見せてもらって、それらを参考にして実際に若い人たちがそれを使える磁場として、あるいは一緒になってものを考える研修の磁場として「寺島文庫」というものをつくってやろうと思いました。
 そして、「寺島文庫」を開設し、九段下のちょっとした規模のビルの中にその3万冊の本を移して研修、研鑽の磁場にもするという構想に思い切って踏み込んでみたいと思っています。実はいまはまだ途上で、まだ半分も書籍を運び込んでいません。
 
木村>  3万冊ともなると大変ですね。
 
寺島>  2度にわたって運び込み作業を10人位の人たちが手伝ってくれました。ヘトヘトになってしまいましたが、このように一歩ずつやって行くつもりです。
日本に来ている留学生のような立場の人たちが大学院等に来て研究しているのですが、実際にその人たちは止まり木として研鑽したり論文を書いたりする場すらないのです。私の夢は段階的に特にそのような人たちの止まり木になるような磁場をつくれればよいと思っています。そして、「クラスター」=(cluster=房)という言葉がありますが、様々な研究のクラスターをつくる、つまり、葡萄の房のようなものをいくつもつくりだすのです。例えば、北東アジアや中央アジア等の研究会、そして私がメディアの人たち等とやっているメディア会という勉強会等がそれぞれ房をつくって、梁山泊のように溜まって議論をしたり、時代を深めて認識し合ったりするという場をつくる事には大変に意味があると思っています。
 勿論、文庫の中には46年前に鹿島守之助さんから貰った本も私が世界中を動いて集めて来た本も集約して置いてありますが、そのようなものが出来てくるという事がちょっとした夢なのです。思えば46年前に鹿島守之助さんが本を送ってくれ、その後、(1975年)初めてロンドンにビジネスマンとして赴任して、イギリスがECの仕組みに参加する時代が来て……。段階的接近法のように欧州が変わって行く姿を並走してみて、いつも原点にクーデンホーフの思想があって、欧州の統合は、そのように実現していくというプロセスを自分は見ているのだと思っていました。理想は必ず実現するというのはクーデンホーフの「実践的理想主義」という考え方でもあったのです。
ドラマや本にもなっているので御存知の方もいると思いますが、クーデンホーフ=カレルギー氏のお母さんは日本人です。有名な青山光子さんです。クーデンホーフのお父さんがオーストリア・ハンガリーの二重帝国の外交官として日本に来ていた時、早い話が一人の美人を見染めて惚れこんでオーストリアに連れ帰ったというところから始まっているのです。青山光子さんは、その後、クーデンホーフ・光子という名前になって、その間に生まれた子がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーで、皮肉な言い方をする人たちは、「ヨーロッパ統合の思想の母は日本人だ」と言うような表現もするくらいです。これは無駄話のように聞こえるかもしれませんが、要するに、一種の連想ゲームのようなものの中で物事の考え方は成熟して行くものだと思ったのです。
 
木村>  15歳の少年が送った手紙が鹿島守之助さんの胸を揺さぶり、琴線に触れるものがあった……。やはり、そこが動かしたというところと、もう一つは、立場を変えて、そのようなものを貰った時に、後々の若い人たちにある年代にきた人たちが何を出来るのかという事も問題になりますね。
 
寺島>  このような類の話は誇張であったり、ハッタリ話が多いのですが、私自身が現実に46年前の手紙が出て来てしまってギョッとなったという事が本音なのですが、そのように話は進むものなのです。
 
木村>  現在の寺島さんを鹿島守之助さんがご覧になったら、きっととても喜んでその時の事を思い出される事でしょう。
寺島さんがいつも使っていらっしゃる「磁場」という言葉遣いは、つまり、「知」の磁場というものをつくる事ですが……。
 
寺島>  磁力線の「磁」という字と場所の「場」という意味で私はよく使っています。引きつける力です。
 
木村>  このようなものは日本ではまだつくられていませんね。
 
寺島>  全く気負う気持ちはありませんが、そこが一つのいい意味での溜まり場になったらいいなと思います。我々の歳になると、これは大概の酒飲み話で「そういうものがあるといいなあ」と話をしますが、要するに、それを一歩ずつでも半歩ずつでもいいから実現して行こうという一種のノリです。
 
木村>  このお話も鹿島守之助さんに是非、電波で届けたいものです。
 
<後半>
 
木村>  後半はリスナーの方からのメールを取り上げたいと思います。
 寺島さんはこの4月から多摩大学の学長に就任されたという事を踏まえてのメールとなります。ラジオネーム「ぜんざい」さん、30~39歳の男性のリスナーの方です。この方はポスドク問題(註釈.4)について、あるいは日本の大学政策についてお伺いしたいという事です。
「私自身が文科系の大学院を出て、現在とある小さな研究所に研究員として勤めております。しかしながら、勤めていると言っても実質的には研究歴を途切れさせないために席をおかせてもらっているだけで生活費、研究費は別のアルバイトをして賄わざるを得ない状態でして、いわゆる『高学歴ワーキングプア』そのものといったところです。それでも研究機関に席をおかせてもらえている私などはまだいい方で、私の周りには大学院まで出ていてまともな職にも就けず、将来の見通しも全く立たないという人がゴロゴロしています。悲しい事ですが、そのような状況を悲観して自ら死を選んだという人も何人か知っています」。
という事で、文部科学省の大学院政策というものについて、あるいは学位というものについてもメールが続きます。「国は一体、大学院の学生、あるいは院卒の人間をどうしたいのでしょうか? 20代後半から30代前半の働き盛りの若者を大量に囲い込んでおいて挙げ句、腐らせてしまうなどというのは愚の骨頂だと思います。学問レベルも今後、衰退の一途を辿るでしょう。さて、この問題を寺島さんはどのようにお考えになるでしょうか?」というメールです。
 
寺島>  この「ポスドク問題」ですが、博士号は持っているけれども……、という形で本当に大問題なのです。したがって、まさに彼の話は全く正しくて、国として高学歴にもかかわらず、ワーキングプアになっている人たちを今後どのように活用して行くのか、制度設計をどのようにするのかという事はとてつもなく重要も問題です。私自身、そのような人々の受け皿づくりの方で力を尽くしていかなければならないという事もあって、アジア太平洋研究所というシンクタンク等、より磁場を広げて、日本だけではなくてアジア太平洋地域の若い研究者が力を発揮出来るような場をつくって行くという努力をする事が我々の歳格好の人間の責任でもあり重要だと思っていて、そのための旗振りもしているし行動もしています。
ただし、ポスドクの立場にある人たちと面接をしたり面談をするという事も仕事の内にある中で、その際に私が感じる事があります。私自身も文科系の大学院を出た人間として、当時、社会がそんな者を喜んで受け入れてくれる土壌が無い状況で社会参加をして行った若者でした。厳しい言い方をする気持ちはないですが、太刀持ち、露払い式の人生なんてないわけです。つまり、「あなた、頑張って下さいね」と言って一生懸命に盛り立ててチャンスを与えてくれて、やれ育てと言ってジョーロで水を与えてくれて太陽まで燦々と照らしてくれる人生を期待するという事は、現在の社会のでは満たされません。
要するに、何が言いたいのかと言うと、「セルフ・ヘルプ」という言葉がありますが、自分で一体何がしたくて、そのためにどのような準備をしてどのような努力をしてネットワークをつくっているのか。江戸時代や幕末の人たちを見ていればわかりますが、それこそ履物を履き潰す思いで友達、先生、社会の先輩等、多くの人を訪ねて胸を借り、自分を鍛える……。このように力をつけて行って、辛うじてチャンスを与えられて、「こいつならやれるな」という評価を高めていくような努力が必要です。本当によくやっているけれども残念ながら世の中に受け入れられずに悶々としているという人には滅多に出くわしません。つまり、私たちから見ていて、何か心の弱さと重大な欠陥を背負っているように見えるのです。
どのような欠陥かと言うと、今言ったような意味での努力が出来ない才能と言いますか、キャリアが上がるほど博士号を持っているというある専門領域を深めているのかもしれませんが、それだけでは人生は生きて行けないわけです。やはり、本当に頭を下げ、努力をし、人から吸収し、他流試合をして色々な意味で自分に力をつけていって初めて人間としてしっかりと目を見て、「お前、一緒に仕事をしないか?」という人が出てくるわけです。
 したがって、私はポスドク問題というものは制度設計をしっかり行なって、そのような人たちを受け入れて行く基盤を充実させるという努力も勿論大事ですが、自分の努力の延長線上でしか人生は開けないのだという事を厳しいようですが噛み締めなければならないと思います。「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」という言葉がありますが、踏まれても、踏まれても出て来る者は力をつけて出て来ます。その事を私は申し上げておきたいのです。
 
木村>  是非、ぶつかって行って欲しいという思いですね。

(註1、リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー<1894年―1972年>。東京生まれのオーストリア政治家。汎ヨーロッパ運動を展開。後世の欧州連合構想の先駆けとなった)
(註2、1896年―1975年)
(註3、1914年―2007年。愛知県常滑市生まれ。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会<経団連>会長を務めた)
(註4、ポストダクター。大学の博士号を取得後の研究者。主に博士号取得後も正規ではない(任期付の)研究職や教育職に就いている人々。ポスドクの就職難や雇用不安が社会問題となっている)