2009年10月 アーカイブ

2009年10月25日

第36回目

<政権交代の夏を振り返って>

木村> 前回は「ハンガリーという国に思う」という事で、原爆=核との関わりで私たちがハンガリーという国について随分考えさせられるお話を伺いました。
 今回は「政権交代の夏を振り返って~自民党は何故大敗したのか? 世界潮流の中での日本の選択~」というテーマです。政権交代があり、先月からリスナーの皆さんから沢山メールが届いています。
自民党大敗については様々な角度から、例えば、政治学者、エコノミスト、時には文化人と言われる人たちから分析はされていますが、この本質を今朝のテーマでもある「世界潮流の中で」という時に、なかなか分析しにくくて、完全には腑分けされていないという事を感じます。そこで、私は寺島さんにお話を伺うために一つの新聞を持って参りました。これは8月30日付けの朝刊で、投票日の当日です。全面広告で自民党と民主党の広告を出しました。自民党の広告では「日本を壊すな。日本を守る責任力、自民党」となっています。民主党は当然、「今日、政権交代」です。私は「日本を壊すな」という表記を見て、「しかし、ちょっと待って欲しい」と思いました。つまり、投票日の朝に私たちは「日本は既に色々なところで壊れてきているのではないか」と考えているわけです。そして、大きく問題意識がずれているというところで投票日を迎えたのです。

寺島>  私はハンガリーのブダペストにいたために、この新聞の記事を当日には読んでいませんでしたが、私もあらためて「何故、自民党は敗れたのか」という事について考えました。
私は大学、大学院に籍をおいていたときに政治社会学の勉強のために新聞社のアルバイトをやっていて、世論調査の動向分析や選挙分析等によって大げさに言うと飯を食っていた時代もありました。
あらためて今回の選挙をみてみる際、都市部のサラリーマン層、つまり、都市に住んでいる中間層がどのような意図で、どのような選択をしたのかについて前半で確認したいと思います。
前回の小泉選挙の時に、驚くほど都市部のサラリーマン層が小泉改革を支持し、自民党大勝をもたらしました。あの時に、東京、神奈川、千葉、埼玉、愛知、大阪、兵庫、という日本の三大都市圏の小選挙区で、自民党が89議席の差をつけて民主党に勝ちました。そして、今回の選挙は、同じところで民主党が92議席の差をつけて勝って、反転しました。
全体の選挙結果をみてみると、全国の比例区においての得票数は4年前の前回民主党がとった得票数が2,104万票で、今回は2,984万票なので民衆党は880万票増やした事になります。一方、自民党は全国の比例区において1,881万票で前回は2,589万票をとったので708万票を減らした事になります。この数字をみると極端に差がついたという事がわかりますが、別の言い方をすると、前回負けた時でさえも民主党は2,100万票をとっていたわけです。今回も自民党が大敗したと言っても1,881万票をとっているので、1,900万票くらいはとったという事が言えます。
つまり、どちらの党も大敗した時でも約2,000万票近くのベースとなる支持者と言いますか、どのような風が吹こうが、自民党に投票する人たちが約2,000万人いて、どのような風が吹こうが、リベラルというイメージの民主党に投票する人たちも約2,000万人いるという事です。そのような意味合いにおいては意外にベースのところは変わっていないとも言えるのです。問題はその700万~800万票のスウィング・ボーター=その時によって揺れる投票者がいるというところにあります。
これは小選挙区制の魔術になるのですが、前回、自民党に800万票入れた人たちの層が民主党へと大きく揺れた事によってどの選挙区でも民主党が勝ち、どの選挙区でも自民党が敗れるという事に一気になりました。その800万票の人たちが、何故そのような選択をしたのかという時に、選挙制度を考える必要があります。小選挙区制のもとでは基本的には競い合っている二つの党のどちらかという究極の選択というものになるわけです。前回の時は民主党と自民党との戦いというよりも、自民党の中の郵政改革反対派の人たちがドロップアウトして、その人たちに刺客と呼ばれた人たちを向けた刺客対守旧派の戦いというイメージの選挙だったのです。
そのようなところにメディアの照準が当たって、国民側もその話が非常にエキサイティングなために、そのような選択肢の中で究極の選択が行なわれました。あの時の自民党のキャッチコピーは「改革を止めるな」というもので、小泉さんの顔と当時の綿貫さんや亀井さん等の顔でどっちもどっちという選択を迫られた国民は、「改革」というイメージに近い小泉さんを究極の選択として選んでいったという流れの中で、「自民党大勝」が出来あがりました。
 今回は「官僚主導からの脱却」や、「中央集権からの脱却」という論点からみると、自民党に守旧派のイメージがこびり付いていて、民主党には改革のイメージが重くのしかかかっていました。そのような中で究極の選択となった時に、スウィング・ボーターの800万票が民主党側に動いた事によってこのような結果になるという事を我々は見せつけられました。
何故、スウィング・ボーターが動いたのかと言うと、私は都市中間層の生活がこの4年間の間に物凄く劣化したところにあると思います。昨年の雇用統計を見ると、日本にいるサラリーマン5,539万人の内、非正規雇用者が1,760万人います。実にサラリーマン層の3分の1、32%が非正規雇用者になっています。しかも、その内、年収が200万円以下の、世の中で言うワーキング・プアと呼ばれる人たちが1,305万人います。つまり、非正規雇用者の74%が200万円以下の収入で働いているのです。しかも、正規雇用者でごく普通の都市のサラリーマン層世帯の家計分析の数字を見ると、驚く事があります。「勤労者家計可処分所得」というものがあって、これはごく普通のサラリーマンが生活していて実際に使う事が出来るお金で、税金や公的負担等で差し引いた後の手元に実際に残るお金の事です。2000年の可処分所得の統計は月額47万3,000円でした。それが、2008年には44万3,000円に落ちました。今年の上半期、つまり、選挙の直前は40万3,000円にまで落ちて、2000年の時と比べると使えるお金が約7万円減ったという事になります。これが何を意味しているのかと言うと、雇用環境が物凄く劣化して、特に昨年のリーマンショック以降、会社の経営も厳しくなってサラリーマンが手元にするお金も非常に余裕がなくなっているという事です。そこに更に年金等の神経を逆なでするような問題が目白押しに起こりました。そのような苛立ちの中で、不満のマグマのようなものがどんどん溜まっていき、今回、まさに都市サラリーマン層の不満が臨界点に達したという中での選択となったのだと思います。
いままで、自民党をはじめとする日本の保守がある面ではしぶとくて、保守が追い詰められてきた事は戦後に何度もありました。
私はかつて、「保守バネの構造」という論文を中央公論で書いた事がありますが、保守の陣営の中でも比較的に開明派や改革派等という人たちは別動体として切り離すのです。例えば、新自由クラブができて、そこに保守に不満を持った人たちの票をぐっと集めて吸収して、やがて新自由クラブがまた自民党に戻るというプロセスによって保守のバネを働かせるというものです。
細川内閣の存在もある面では保守バネの発動だったと言えるのです。自民党の中にいた人たちが別動体をつくって、それが合従連衡の中で保守陣営=与党の中にやがて回帰して流れ込んでいくという手法です。今回もある面では新手の保守バネの動きがなくはなかったのです。例えば、渡辺喜美さんが中心となっている、みんなの党の動きや改革派知事という人たち等が新たな不満を吸収して、やがてそれが保守に回帰して支えていくというパターンで政治が動くのではないかとみた人たちも大分いたと思います。しかし、今回は保守バネが機能しなかった。都市中間層の問題意識が「政権を変えなければならない」と大きく変わったのです。更に、もう一つ指摘しなければならない事があります。自民党をはじめとする日本の保守層に「自分の足をピストルで打つ」という言い方がありますが、それは何かと言うと、1993年に宮澤内閣が自民党単独の最後の内閣として倒れた後に、細川内閣ができて以降、政権を取り戻す事と政権を守る事が自民党の究極のテーマになっていきました。そのような中で、自民党を長く支えてくれた層、つまり、安定的な固定客を大切にしてこの党を守り、育てていくという方法から、都市中間層を取り込まなければならないという戦いを意識するがあまりに、人気が湧く人、スウィング・ボーターの支持が取り込める人を顔に立てなければならないという思いにかられ始めたというわけです。そこで登場した究極のパターンが小泉純一郎なるリーダーでした。自民党を長く支えてきていた農業層や郵便局や医師会等の人たちの固定客をむしろ切り捨てて、一見の客に小泉劇場という形で面白おかしい劇場政治を展開する事によって関心を引きつけて勝負に出ました。かつてより私は「自民党金平糖論」という言い方をしてきました。お菓子の金平糖は角が沢山出っ張っています。自民党という党は色んな個性を持つ人が、沢山出っ張っているので、実際の真ん中の丸い中身よりも、より大きく見えたのです。自民党にも「ああ、このような人がいるのだ」というように個性的なタイプの人たちがいました。ところが、例えば田中真紀子さんに象徴されるような人や、自民党の中で突出している人たちのような金平糖の角を全部ポキンポキンと折っていき、瞬間風速で支持を取り込んで乗り切っていこうとしたのです。足元をみたら地方の自民党の後援会組織を支えてくれた層は摩耗し、自民党に大きな、ある種のユニークな個性をもたらしていた金平糖の出っ張っていた人たちはいなくなり、気がついてみると「そして誰もいなくなった」という状態になりました。実際に今回の選挙で思い知った事は、地方の自民党の組織の足腰の弱さです。更には、やがて自民党の看板になっていくだろうという個性的なリーダーの欠如です。幕を下ろす瞬間になってみると役者も観客もいない劇場になっていたという事だと思います。

木村>  前半は寺島さんに今回の選挙で「自民党大敗に何を見るのか」についてのお話を伺いました。後半は「世界潮流の中で」という部分のお話をお伺いしたいと思います。

<世界潮流の中での日本の選択>

<後半>

木村>  前半の寺島さんのお話によって、「自民党が何故大敗したのか」という事についてとても腑分けされていて私たちが何を見るべきなのかという事がよくわかりました。世界潮流の中でこの事をどのように位置づけをして捉えておくべきなのかという事ですね。

寺島>  1993年に宮澤内閣が倒れてから、日本は合従連衡の嵐の中で短命政権がどんどん交替する時を過ごしました。しかし、世界はまさにその時期こそ冷戦が終わって、新しい冷戦後の世界に向かって大きく舵を切り始めていました。本当ならば日本も冷戦後の日米関係をどのようにすべきか、冷戦後の世界潮流の中で日本はどのような役割を果たすべきなのかという事について真剣に対応をすべきであったのです。
 1994年からアメリカが日本に対して年次改革要望書を出し始めました。これは冷戦後に一極支配の主役となったアメリカが、アメリカ流の新自由主義と言われた経済の構造の方へ世界を引っ張っていこうと意図し、日本も改革が遅れているぞという事で毎年毎年、日本のこのようなところを改革して下さいという要望書を出したのです。

木村>  ワシントン・コンセンサスという言葉で呼ばれていますね。

寺島>  そこから日本は金融ビッグバン等を行い、安全保障の分野においてもアメリカとのガイドラインの見直しをしました。例えば、欧州でドイツが冷戦後のアメリカとの関係を総括的に見直していった動向とは全くコントラストで、一極支配の中心に立っているアメリカの要望に合わせていく事によって日本を変えていくという流れをつくっていった時代が1990年代から21世紀にかけてだったのです。
 このような状況の中で、21世紀を迎えた瞬間に9・11という衝撃的な事件が起こり、日本にはアメリカについて行くしか選択肢がないという認識の中でブッシュと並走する小泉政権と言いますか、日本という姿で今日に至る流れをつくってしまったのです。
 ブッシュが掲げた力の論理によってアフガン、イラクをねじ伏せて、アメリカの理想を実現しようとしたものの、挫折していくプロセスがどんどん見え始めていたにもかかわらず、更には、新自由主義の行き詰まりによってサブプライム問題や金融資本主義の歪み等が見えてきたにもかかわらず、それらを根底から問い返して世界潮流の中で日本の新しい役割を構築していこうとする思想的なベースキャンプをつくる努力を一切しないままにアメリカと並走する形で走ったのです。そして、気がついてみると期待のパートナーであったアメリカ自身が躓いてしまいました。アメリカ自身もそのような中から蘇らなければならないという事から、イラク戦争に反対し、金融資本主義の歪みに対して厳しい目線を持っているオバマという人物さえ大統領に就任させ、必死になってゲームを転換しようとしているわけです。
 世界が冷戦の時代には55年体制という社会主義対資本主義、社会党対自民党の戦いが行なわれたように、世界の構造転換に合わせて日本も政治の大きな転換を余儀なくされるという事は世界潮流の中で見てみると必然で、日本人もさすがに「これではまずいだろう」という事で、日本のいままでの在り方、特に冷戦後の20年間の日本の選択に対してこのままではいけないという焦燥感が生まれてきたと言ってよいと思います。一方では「このままでよいではないか。日本を壊すな」というメッセージが、ある人たちには訴えかけるのかもしれませんが、いかに虚ろかという事なのです。

木村>  冷戦後、或いは、戦後の日本の転換期として捉えるとどのような歴史的な文脈の中で見るべきなのかという事が寺島さんのお話によって伝わってきます。そうすると、それだけにこれからどのようにデザインをしていくのかという事がとても重い命題になりますね。

寺島>  特に、資本主義が抱えた貧困や格差等の問題にどのような解答を与えていこうとしているのかという事さえ、まだ見えていません。したがって、「選択はしたけれども」という事なのです。つまり、これから本当に責任のあるシナリオがどのような形で誰によってもたらす事ができるのかという事を我々はしっかりと見据える必要があり、我々自身もそのシナリオを創り出していく側に立っていかなければならないと思います。

木村>  今回の選択をした有権者にこの命題が突きつけられているという認識が非常に大事ですね。

2009年11月のスケジュール

□2009/11/1(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2009/11/1(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2009/11/7(土)08:00~
讀賣テレビ系列「ウェークアップ!ぷらす」

■2009/11/8(日)06:00~(※地域によって異なる)
TBS系列「時事放談」

■2009/11/13(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

□2009/11/21(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
□2009/11/22(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2009/11/22(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2009/11/27(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

□2009/11/28(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2009/11/29(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

第37回目

<中国建国60周年の日本にとっての意味>

木村>  先週の放送では「政権交代の夏を振り返って~自民党は何故大敗したのか? 世界潮流の中での日本の選択~」というテーマでお送りしました。
 私たちが、これからの日本をどのようにしていくのかという事により重く責任を負った事になるとわかってきました。
 今週のテーマは「中国建国60周年の日本にとっての意味」です。国慶節の10月1日で軍事パレードもあって、これが大きなニュースになりました。私は10年前の国慶節のパレードを現場で見ていました。今回はニュースでパレードを見ていて、巨大に成長していく中国に私たちがどのように向き合うのか、なかなか難しい問題だと思いました。

寺島>  私はあらためて、中国建国60周年を考えてみる時だと思っています。1949年に毛沢東の中国と言いますか、共産中国が成立しました。まず、この事が日本にとってどれだけ重い意味があったのかという事を歴史的に総括したいと思います。
 1949年という年は終戦からわずか4年後ですが、この年に中国が2つに割れたという言い方もできます。それはどういう事かと言うと、それまで中国のリーダーとして、日本が戦った蒋介石の中国と言いますか、蒋介石率いる国民党の中国が毛沢東率いる共産党の中国に敗れて、蒋介石は台湾に追い詰められたという見方が出来るからです。そこで、日本人にとってこの事がいかに重かったかという事をよく考えてみる必要があります。
歴史に「たら」「れば」はないけれども、もし、蒋介石が戦後の中国で本土の政権をバッチリと掌握し続けていたのならば、日本の戦後復興はおそらく、後ろに30年ずれただろうと言われています。それは何故かと言うと、それまで戦前から戦中、戦後にかけてアメリカのワシントンにおいて、蒋介石の国民党を支援して日本と戦うという一群の人たちがいたのです。それを我々は「チャイナ・ロビー」と呼んでいますが、ワシントンで中国支援派として、蒋介石と手を携えて日本と戦った人たちです。その頭目がヘンリー・ルースというタイム・ワーナーの創始者で、「タイム」や「ライフ」という雑誌等を生み出した人物で、彼が中心になって旗を振っていました。彼が何故そのような事をしたのかと言うと、ルースは中国で生まれて14歳まで中国で育ったのです。彼の父親は長老派プロテスタント教会の宣教師でした。同じく、日本で長老派プロテスタント教会の宣教師の子供として生まれたのがライシャワー(元駐日大使)でした。ライシャワーは学者になり、ヘンリー・ルースはメディアの帝王になっていきました。ルースは自分が生み出したメディアを使って日本の危険性、つまり、自分が生まれ育った中国にひたひたと攻め寄せてくる危険性をアメリカ人に知らしめる必要があるという異様なまでの使命感に燃えて、例えば蒋介石の夫人の宋美齢をアメリカに呼んで反日キャンペーンのヒロインに祀り上げて全米ツアーを行ないました。アメリカの厭戦世論を反転させて日本を真珠湾に追い詰めていった男とも言われていたわけです。
 しかし、わずか4年で自分が支援した蒋介石が毛沢東に敗れて、台湾に追い詰められました。その事に衝撃を受けたチャイナ・ロビーの人たちは、今度は日本を西側陣営に取り込んで戦後復興をさせるべきだという流れをつくっていったのです。これはヘンリー・ルースとダレス国務長官の間に行き交っている書簡等を分析してみると見えてくるのですが、要するに、日本を西側に取り込んで日米安保条約を結び、本土の共産中国を封じ込めるという立場から「台湾ロビー」へと変わっていったという事です。そこからアメリカの対中国政策は、1972年のニクソン訪中というところまで、本土の中国を承認しないままに台湾を支援するという形で走りました。そして、その間、アメリカのおぼえめでたさを一身に浴びて、復興成長の流れの中を生きたのが日本だったのです。
 したがって、もし、戦後の中国に蒋介石の政権が続いていたのならば、アメリカの支援も投資も、まず、中国に向かって日本に回ってくる余地は30年後ろにずれただろうという事から先程の話になるわけです。
1949年の共産中国の成立が日本にとってどれだけ大きな意味があったか。日本にとって僥倖にも近い形で中国が内紛によって2つに割れ、その間隙を縫う形で日本の復興が始まったという事を考えたならば、いかに中国という要素が日米の関係の谷間に挟まっている要素なのかという事がよく見えてくるはずです。
したがって、共産中国成立、つまり、中華人民共和国成立から60年という節目を迎えて、日本人がいま考えておかなければならない事は、米中関係、日米関係、日・米・中のトライアングルの関係であり、いかに日米関係が二国間関係では解決しない、中国という要素が絡みついているのかという事をまず知らなければならないのです。これは私が今回の60周年という意味において、原点として確認しておきたい事なのです。
次に、視界を今度は1989年の天安門事件に転じたいと思います。今年は、中国建国から60年でもあるが、天安門事件からもちょうど20年が経ったのだという事です。1989年という年は、ベルリンの壁が崩壊した年であり、翌年1990年に東西ドイツの統合、更に1991年にはソ連が崩壊しました。中国が何故、天安門に集まっていた学生をあれだけ大きく弾圧したのかと言うと、東欧圏からソ連と言われた地域を睨んで、ひたひたと盛り上がってくる民主化運動に対する恐怖心と言いますか、中国もソ連崩壊に至ったプロセスと同じ様な方向に向かっていくのではないのかという恐怖心があったからです。中国の指導部の意識としては、天安門事件にあれほどまでの過剰反応をする事で国際社会からの批判を浴びる事を承知しながらも民主化運動を弾圧せざるを得なかったのです。それがいかに非道な事であっても、冷戦が終わった局面における社会主義陣営の中にあったそれほどまでの恐怖心が伝わってきました。
今回の60周年記念で胡錦濤主席が話した言葉の中で私が非常に気になった事は、冷戦が終わった後の中国は「社会主義的市場経済」だという言葉です。これは社会主義の本質は残すけれども、世界の潮流である市場経済に合わせていくという事です。かつて、多くの人たちは「社会主義市場経済」という言葉自体がブラック・ジョークだと言って、それ自体が矛盾をはらんでいるのではないかとからかっていました。しかし、政府が根底のところでコントロールしている中国経済の仕組みの方が、行き過ぎたマネー・ゲーム経済によって躓いた資本主義の総本山と言われているアメリカと比べると安定した舵とりをしていられており、社会主義的市場経済は必ずしもブラック・ジョークではないという状況になってきています。
そのような中で、今回の胡錦濤主席のメッセージでは「社会主義というものを基軸に大事にしなければならない」という方向にウエイトがいって、市場経済という言葉が話の中から少し消えました。これは世界の動向を微妙に反映していると思います。いま、全般的に見て、新自由主義の行き詰まりという流れの中で、政府なり公的な経済のコントロールが有効であり、重要なのではないのかという事に世界の目線が向かっている事を微妙に反映しているのです。
私は日本の今年の1月から8月までの貿易統計を見て、驚きました。日本の輸出と輸入を足した貿易総額の相手先の国の比重を見ると、中国との貿易比重が20.5%で、米国との貿易比重が13.5%でした。ちょうど20年前の冷戦が終わった頃、日本の貿易に占める中国との貿易比重はわずか3.5%しかありませんでした。つまり、いま、日本がいかに中国との貿易によって景気を下支えしているかという事がわかります。1990年のアメリカとの貿易比重は27.4%でした。それが13.5%まで落ちてきています。
日本という国がこの20年間で経済の基本性格を変えたと言ってもよいくらいです。どのように変わったのかと言うと、「通商国家日本は主にアメリカとの貿易によって飯を食っているのだ」と言っていれば当たらずとも遠からずだったのですが、いまや、「中国との貿易によって飯を食う日本」という姿に大きく変わってきているという事です。
更に、中国の発展を考えた時に、何度かこの番組でも話題にして参りましたが、「大中華圏」という切り口が一段と重要になってきているのです。日本は貿易の30.4%を中国を中核とするグレーター・チャイナとの間で行っています。つまり、中国と香港と華僑国家と呼ばれるシンガポールと台湾で、政治体制の壁はあるけれども、産業的には連携を深めているゾーンなのです。かつて香港、シンガポール、台湾と中国との関係は、海外に展開している華僑という人たちが親類縁者に送金をする程度の関係だったのですが、中国の成長力に合わせてビジネスモデルを一緒に創り出していく関係になっていき、中国も中国本土単体としてではなく、華僑圏をジャンプ・ボードにしてネットワークの中で発展していくのです。
例えば、シンガポールは中国の発展エネルギーをASEANに取り込む起点となっています。大中華圏の医療センターという言い方があるのですが、要するに、中国の金持ちになった人たちはシンガポールに行って最先端医療の病院に入院したり、検診を受けたりするという事で、それが年間に10万人近くになっているのです。つまり、それぞれが役割を果たしながら相関し合って、グレーター・チャイナのエネルギーを盛り上げていくという事です。
したがって、中国建国60周年という時に、我々の視界の中に捉えなければならない事は、「中華人民共和国が60年経って物凄い勢いでGDPを拡大していますよね」というイメージだけではなくて、そこを起点とするグレーター・チャイナが有機的に連携を深めながら躍動しているので、中国という存在がより大きな存在に見えるという力学の中に我々がいま身を置き始めているという事です。しかも、それに大きく依存して飯を食う日本と言いますか、つまり、分かり易く言うと、日本は貿易の2割を中国と行ない、貿易の3割を大中華圏の国々と行なう国になってしまっているわけです。これからますますこの流れは日本の産業の基本性格となって、一段とその中に組み入れられていくと言いますか、このような視界を持っていなければならないのです。私は「中国建国60年になったのですよね」という視点から、そのような視界に我々の目線を広げていきたいと思っています(註.1)。

木村>  いま、我々がグレーター・チャイナというものをキチンと見る事ができるのかどうか、となると、中国の存在感は大きくなって、日本の中には中国を遠ざけるのか、牽制するのかという論がすぐ起きるのですが、そこについてはもう少し我々は冷静に世界、アジアを見る力が必要で、そうしないと日本は生きていけないという事になりますね。

寺島>  「しなやかな」という言葉がありますが、拒否反応や拒絶反応等で生きていくのではなくて、アメリカに対しても同じ事だと思いますが、脅威と捉えるのではなくて、それ自体に日本が関わる事によって変えて行く事だと思います。
 中国という巨大な力を持ちつつある国を、とにかく世界のルールに従う国に引き込む事が重要です。知財件の問題や環境問題等において、中国が世界のルールの外にいる事はやはり、まずいわけです。中国が世界ルールに準拠して行動する国にしていくための役割としての日本というのは物凄く重い話です。要するに、苛立って罵倒したり、拒絶したりするのではなくて、世界のルールに引き込んでいくのです。私はそのような役割をニコニコしながらやっていくくらいの胆力がなければ、この巨大な存在と向き合えないだろうという事が中国の我々にとっての意味であると思います。

木村>  命題としては、ますます重くなると思いながら寺島さんのお話を伺いました。

<後半>

木村>  番組の後半はリスナーの方からのメールに対して寺島さんのお話を伺います。北海道のラジオネーム「うに丼」さんからです。
「先日、自民党の中川昭一元大臣が突然お亡くなりになりました。中川元大臣は農業政策に関して、また、経済問題に関しても非常に長けていらっしゃった方であったと記憶しております。今回の事は非常に残念で仕方がありません。寺島さんは中川さんの訃報にどう感じていらっしゃいますでしょうか」というメールです。
 寺島さんは中川さんとは随分親交もおありになったとお聞きしていますが、いかがでしょうか?

寺島>  友人という言葉は当たらないと思いますが、つい6月末に北海道新聞の関連で帯広に講演をしに行った時に、帰りの飛行機の中で彼が隣に座って、羽田までの1時間半くらいの間、二人でじっくりと話し込んだという事がありました。更には、安倍内閣の時だったと思いますが、ワシントンから飛行機で帰ってくる時に、中川さんと一緒になり、飛行場の待合室にいる時からずっと話し込んでいたこともありました。
 彼も私も北海道の縁がベースにありますが、私がまだワシントンにいた頃、彼が農林水産大臣になるかならないかの頃の時に、私が日本に戻ってきて彼と会って、バイオマス・エタノール、例えば、とうもろこしから抽出したエタノールをガソリンに混ぜて車を走らせるという動向にアメリカが舵を切り始めようとしていた頃だったので、私が「これからバイオマス・エタノールという流れがきますよ」という話をしました。その後、中川さんは日本で「E3ガソリン」という3%のエタノールを混入できるような制度設計や流れをつくりました。彼は言葉に実があって、いい加減な人ではなく、本気で真剣に取り組む非常に責任感のあるよい持ち味の政治家だったと思います。
 彼も私に対して感じていたと思いますが、思想信条の違いと言いますか、私は彼と共鳴し合っていたのかと言うと、全く違っていました。例えば、彼の「日本も核武装をすべきだ」というニュアンスに近い考え方に対して、「途方もなく間違っている」と率直に言い合った事が何度もあります。私は「AGREE TO DISAGREE」の関係だという言い方をよくしますが、どのような意味かと言うと、私は全くあなたの意見に賛成は出来ないけれども、あなたがどのようなロジックと、どのような論点で主張しているのかという事だけは正確に聞き届けようというスタンスだという事です。DISAGREEである事をAGREEする、つまり、賛成しないという事を了解するのです。中川さんと私は、まさに、この関係だったと言ってよいと思います。したがって、親友でもなければ、友人でもなく、彼もおそらくそのように思っていたと思います。しかし、彼は政治という世界で飯を食っている人間の中で、いい加減さのない、ある面では非常に真剣に生きた人だったと思うのです。それ故に、最後の段階で彼が消耗していって、あのような形で燃え尽きたかのように亡くなったという事は物凄く悲しいです。そして、もう一度彼と本気で核について「何を言っているのだ」と言い合いたかったのです。
 そのような意味で、何と言いますか、思い出深い人間でした。先程、彼とは北海道の繋がりがあると申し上げましたが、彼は父親の地盤を引き継いで北海道の政治家になりました。日本興業銀行から父親の後を継ぐ形で政治家になっていった人です。そして、私と日本興業銀行は大変縁があったので、彼がそのような面で非常に経済の現場で若い時に鍛えられていたのだという事もよくわかりました。
 そのような意味でも彼は素材としても非常に重要な人物でした。自民党の中でもリベラル保守という谷垣禎一さんに象徴されるような、宮澤派の流れをくんだ人がいて、私は比較的に近い部分があります。
一方では自民党における保守派のロジックも大切だと思っています。どのような国においても、健全な保守というものが必要なのです。守るべきものの基軸というものが必要で、そのような意味合いにおいて、彼がどのような政治家として大成していくのかという事が日本には物凄く大事だと思っていたのですが、自民党の保守の軸の部分の歯が1本欠けたような印象があるのです。

木村>  中川さんの年齢からすると早すぎる逝去だったと言えるでしょう。寺島さんがお話になった、これから自民党がどのように再生していくのかという命題を担う一人でもあったと思いますし、そのような意味では我々にとっても本当に突然の死というものが衝撃的な出来事だったと思います。

(註1、大中華圏に関しては、2004年10月に岩波書店から発売された『大中華圏-その実像と虚像』(渡辺利夫、寺島実郎、朱建宋編)参照)