2010年02月 アーカイブ

2010年02月28日

2010年3月のスケジュール

■2010/3/5(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

■2010/3/7(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2010/3/13(土)08:00~
讀賣テレビ系列「ウェークアップ!ぷらす」

■2010/3/19(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

□2010/3/20(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2010/3/21(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/3/21(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2010/3/27(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2010/3/28(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

第44回

<世界を知る力―余談 発売後の余波―>


木村>  寺島さんが昨年12月にPHP新書からお出しになった『世界を知る力』がいま大変話題になっているということを取り上げて、今朝のテーマは「世界を知る力―余談発売後の余波―」です。
 寺島さんにとってはおそらくこれまであまり馴染みのないイベントかと思いますが、この本において、サイン会が大きな書店では催されて、ある意味においては生の形で読者と接するということになったと思います。そのことを通じて、いまどのように感じられていますでしょうか。

寺島>  私自身、手ごたえがありました。元々、この本は若い人に「いま自分は世界をどのように見ているのか」、また、見るだけではなくて「どのようにすべきなのか」ということを語りかけるために、私にとっては初めての試みなのですが、語り言葉で書きました。
 今までのように講演会というよりもサイン会という形にしたことで少し熱い思いにもなりました。普通に語りかけるように話をしてみましたし、読者カードや手紙を下さる人たちの反応を見ていてこの本には意味があったと思います。よく「目からウロコでした」という表現によってレスポンスが返ってきます。いままで我々が、特に、社会科学等を学んできた人間が、いつの間にか陥りがちな世界に対する見方は、日本人が冷戦型の世界観を持ち続けているということです。それは一種の地政学的見方というもので、言わば、東と西が角を突き合わせてKGB対CIAの戦いのような、または、「007」、「ゴルゴ13」等のようなイメージで世界を見ているとだんだんものが見えなくなってきてしまうのです。世界がネットワ-ク型によって動いているということを色々な事例で語ったことがこの本だったわけです。
1つのポイントが「大中華圏」です。中国を中国本土の中華人民共和国としてだけで捉えずに、中国と香港とシンガポールと台湾といういわゆる華僑圏の海の中国と、本土の陸の中国との相関のネットワークの中で捉えると、どのように世界が見えてくるのかということをこの本の中で語ろうとしたのです。

木村>  「華人ネットワーク」という言葉でも語られていましたね。

寺島>  私はそこを大中華圏という言葉によって表現して見せました。
 そこで、私がここのところ1カ月の間に体験してきたことを皆さんにお話することによって、よりネットワーク型で世界を考えるということの意味がわかって貰えるのではないのかと思っていて、そのような話題について触れてみます。
 先日、私は台湾と香港と駆け抜けてきて、ちょうど旧正月の時とぶつかりました。物凄く中華系の人たちが動いているのだなあと実感しました。そこで、今日のボトムラインで大事に踏まえたい数字があります。それは、昨年、中国人の海外渡航者、つまり、中国から外に訪ねた人の数がついに5,000万人を超したということです。それに対して、日本人が海外に出国した人は1,545万人なので3倍を大きく超えるような人が中国から外に出ていくようになったというわけです。実は、その内の約半分くらいが香港、マカオだと言われているので、実際にそれ以外のところに出ていった人たちは2,500、600万人くらいというイメージになりますが、それでも、日本において海外に出ていった1,500万人よりも1,000万人以上多いということになります。
 私が台湾で講演をしていた時に、ある質問者から「日本人はその覚悟がありますか?」と質問を受けてドキッとなりました。これはどういうことかというと、5年くらいの間に中国人が海外に出ていく渡航者が約1億人になると推定されていて、その内の10%が日本に来ると言われています。つまり、観光立国日本を目指す日本が、中国からの旅行者を海外出国者の10%=1,000万人を惹きつけようとしているからなのです。もし、日本に中国の観光客が1,000万人来るようになったのならば、昨年、中国の人が日本にやって来た数は101万人だったものが10倍になるということになります。しかも、昨年、日本にやって来た外国人の数字が出てきましたが、1番多かったのは韓国人で159万人でした。しかし、これはウォンの貨幣の価値が弱くなっていて、ウォンが安くなって日本にやって来ることが大変苦しくなっていたためで、前年と比べると33.4%減ってしまいました。それでも1位は韓国からの渡航者だったのです。
 日本に昨年やって来た外国人の第2位は台湾で、102万人でした。つまり、中国の101万人がほぼ肩を並べてきたということになります。中国から日本に来るためには、まだビザの規制等があって、段階的には緩和はされてきていますが、それなりの規制があって、来日する中国人の数はおさえられています。にもかかわらず、101万人だったのです。もし、ビザ規制が緩和されて、全く自由になったのであれば、本当に1,000万人の中国人が日本に渡航することになるでしょう。それプラス、台湾、香港、シンガポール等の人たちがやって来ることになると、先程の「覚悟があるのか?」という意味は、数字の上では1,000万人を超す中国及び中華系の人たちが日本を訪れてくれて、めでたし、めでたしと聞こえるかもしれないけれども、非常にネガティブな見方をする人からすると、観光はそれを支える基盤がないと大変な混乱が生じて、観光地においての治安等の様々な問題が想定されるということです。
 マナー等の問題も含めて様々な悩ましい問題があります。ここで、もう一度整理をしてお話をすると、大中華圏と中国本土と台湾と香港とシンガポール、つまり、中華系の人によって1つの磁場が形成されている地域、その相関の中において発展が展開されている地域から昨年263万人の人が日本にやって来ました。そして、韓国からやって来た人が159万人です。観光立国日本は結構だけれども、これらの人たちが、その方向にバーンと向かっていくと、日本という国のあり方そのものが問われなければならないような様々な問題が起こる可能性があり、実はそれは既に目の前にきているのです。
 いま、銀座に行っても、秋葉原に行っても、地方の温泉に行っても、旧正月組の中華系の人たちで溢れかえっています。ある意味においてはこれが日本の需要、消費を支えてくれているとも言えます。
 それが既に事実になってきているわけです。そのようなポジティブな日本を支えてくれているという現実と、それを迎えて更に発展させて、日本に対してよりよい印象をもって帰っていく観光客となっていく流れをつくることの間には、まだまだ大きな壁が横たわっているという部分があります。
 いずれにせよ、中国と香港とシンガポールと台湾と一口に言っても、イデオロギー体制も異なっている別々の国で、シンガポールも台湾も反共国家で本土の中国に対しては壁があって、そこの相関が非常に見えにくいけれども、現実の人の動きやものの動きや資本の動き等において、この一群のグレーターチャイナ=大中華圏の相関関係が深まっているために、やたらにダイナミズムが中国を中心にして吹き荒れているように我々が感じられるという真っ只中にあります。
 そこで、もう1つの話題として触れておきたいことがあります。それは、東京に駐在しているシンガポールの大使が私のところに訪ねてきてくれたことです。私の中国という存在を単に本土の中国が、今年GDPで日本を追い抜いていくという視点を超えて、香港問題をうまくマネージメントして、台湾のエネルギーを本土に取り込んで発展しているという見方が非常に興味深いというところから色々と彼と議論をしていったのです。
 私はシンガポール大使の目線が非常に参考にもなりましたし、あらためて私が言うところの「ネットワーク型によってアジアを見る」ということの意味を彼がうまくフォローしてくれたという感じがしました。私は「シンガポールという国は、淡路島の面積もない小さな国で工業生産力もなくて人口も少なくて、はたまた資源もない。しかし、このような国が世界に冠たる経済国家になって、日本の1人当たりGDPを凌駕しようかというくらいの国になっています」と申し上げました。その理由はというと、シンガポールは目に見えない財を創出しているからなのです。つまり、技術、サービス、システム、ソフトウエア等の目に見えない財をつくることによって国家が国家として繁栄する時代がきているということです。これがバーチャル国家というものの見方であると私の本で強調したわけです。ここのあたりに共鳴していて、しかも、シンガポールの存在が右に本土の中国の湧きかえる様なエネルギーをASEAN、東南アジアに繋ぐ基点になるという役割を果たして、左にインドを睨んで、インドのエネルギー、人口の8%くらいが印僑というインド系の人によって占められているのがシンガポールの特色でもあります。しかも、本の中にユーラシア大陸の図が書いてあって、イギリスのロンドンと中東の金融センターのドバイと、IT大国のインドのシンボルともいえるバンガロールと、シンガポールと、オーストラリアのシドニーを線で結ぶと一直線になるという「ユニオンジャックの矢」の議論をしています。英語圏であり、イギリスの法制度を共有して、イギリスの文化も共有しているという連携軸が物凄く意味があるのだという話をしています。私はそれと中国との相関がシンガポールをして世界に冠たる経済国家にしている大きな要素だということを書いています。
 それについて、シンガポール大使が言った言葉が面白かったのですが、「寺島さん、そもそもシンガポールは大英帝国がインドと中国との貿易の基点としてつくった町だったのです。当然のことながら、歴史的に中国とインドを結びつけて生きてきました。それがDNAのようなものです。したがって、大英帝国がある時にはアヘンをインドから中国に送り込み、それを返す刀で買ってきた中国の産品をまたロンドンに持っていくための中継基点だったわけです。別の言い方をすると、実はその埋め込み装置がいまでも生きているということです。いまでもそのままワークしているのが、あなたのおっしゃる『ユニオンジャックの矢』なのではないでしょうか」という話をしました。この話は面白いというか、その通りだと思いました。
 この段階で私が申し上げておきたいことは、実は中国の台頭を解く謎は、中国とグレーターチャイナの相関が中国をして安定的成長軌道を走らせているという説明は極めて説得力があり、その通りであるという反応が台湾の人たちの議論の中からも湧き上がってきていて、シンガポールのそのような人たちと話をしていても同じで、本土の中国の人たちも自分たちが20年前の天安門事件以降20年間、香港返還や、台湾の独立問題という時期を経て、ギリギリ、香港、台湾のエネルギーを取り込んで中国という存在が世界に向けて躍動しているという見方は、「ああ、その通りなのだなあ」と感じるように、逆に、彼らも目からウロコであったと思います。よくわからなくない、説得力があると感じるわけです。
 したがって、この本が1つの刺激剤となって、私が台湾に行って講演しました。昨年の北京大学の講演あたりが1つの閃きとなってこの本をまとめるための背景になっているわけですが、このように、まさに、大中華圏の人たちによって、この本が1つの素材となって、メルティング・ポット(=melting pot)という言い方がありますが、ちょうどチョコレートがポットの中で溶けていっているように、グレーターチャイナという議論がだんだんと成熟してきて、色々な示唆を受けて面白いと思いました。
 更に申し上げると、私が知らなかったことで、本土の中国がもつ脅威に対して微妙な心理をシンガポールも台湾も持っているということがありました。私は全く知らなかったのですが、1971年に本土の中国が国連においての代表権を取って、台湾が追放されて国際社会の中で立場が逆転してしまいました。その時にアメリカが台湾を切り捨てて出ていった時に、残された基地にシンガポールの軍隊がやって来て、訓練をしていました。シンガポールの若者は必ず一度は台湾に行ったことがあります。それは何故かというと、必ずシンガポールから台湾に行って訓練を受けているからなのです。私はその説明を受けて、あらためて不思議な感慨を覚えました。

木村>  驚きの話もありましたが、もう少しこのお話について後半で深めたいと思います。

<後半>

木村>  寺島さんはこの本の「異国に乗り込んだ『場違いな青年』」という項目で、「情報は教養の道具ではない」という非常に興味深いイスラエルのシロア研究所の体験を踏まえながら、つまり、世界を見るということはどのような意味のあることなのかということを最後に述べていらっしゃいます。

寺島>  たしかに、「世界を知る力」というと、何か世界に目を見開いて教養を高めましょうというようなイメージのタイトルに捉えられがちですが、私は教養を高めるために世界認識を深めましょうということを言っているのではなくて、極端にいうのであれば、世界が抱える課題や不条理等に対する怒りや問題意識をもって、それらの解決ために向き合っていく力でなければ世界を知る必要さえないかもしれないというくらいの気持ちでいます。
 そこでまさに、私が自分で見てきたものが何だったのだろうかということを問題意識の中に据えていますから、溢れ返る世界における貧困や差別、様々な不条理等に対して、世界を議論しなければならないというように思っていて、安楽椅子に座って「時にこれから世界はどうなりますか?」等とコーヒーを飲みながら議論をしている話ではないのです。
要するに、そのような中で、自分にとってこれだけは許せない、或いは、これは自分も背負っていかなければならない問題だということをどのように感じ取るのかということが物凄く重要だということです。
私が中東において、特にイスラエルで目撃したこと等は、民族、宗教が複雑に入り乱れている地域に大国が関わって、いかにその地域を血まみれにし、不条理なものにしてしまったのだろうかということに対する怒り、日本がこの地域に関わるべきスタンスはどうなのだろうかというように、自分のこの地域に対する見方はどのようにあるべきなのかということにまで跳ね返ってきます。これは、なにも中東だけではなくてアジアにおいてもいえることです。更に、日本の歴史そのものも様々な意味において、日本自身が不条理な存在であると世界から見られていた時期もあります。そのようなものを超えてつくってきた戦後というものは一体何だったのかということを考え直さなければなりません。
私は今回特に台湾に滞在していた時にその思いがしましたが、おそらく我々はその感覚を失ってしまったのだと感じたことは、台湾と韓国はかつて歴史の事実として、それが良いとか悪いとかという意味で申し上げるのではなくて、いまから65年前まで、ある期間日本のテリトリーでした。そして、これらの国の人たちは日本人として生きた時代があって、兵隊にまで徴兵されて、極端にいうと、日本人として戦ったといってもよい時期がありました。少なくともこの近隣地域の問題を考える時に、複雑な思いを込めて、かつてこの地域は日本が日本のテリトリーとしていた時代があったということを忘れてはならないと思います。それは、いわゆる覇権主義的な意味ではなくて、先程、大中華圏と申し上げましたが、大中華圏はイメージとして、中国が支配力を強めている地域ではなくて、ネットワークの中にあるのです。日本が韓国や台湾問題に関して日本の政治的な意図で何かができるような時代ではなくて、勿論、領土的野心などというものを一欠けらも持ってよい時代ではないけれども、かつて、植民地主義が吹き荒れた時代の中で日本自身もそのような地域を大きく巻き込んだ、政治的な展開をしていた時期がありました。そのことによって、過去の思い出話ではなくて、今現在も台湾や韓国でそのことを背負って、悶々として生きている人たちにも現実に出会うことがあるのです。しかも、台湾と韓国の温度差があって、台湾は比較的に日本が統治をしていましたが、韓国がそうではなかったという言い方をする人もいますし、統治していた期間の問題もあります。しかし、たしかに、韓国は日本に対して深いわだかまりを共有しながら、例えば、日本の企業が韓国の企業とジョイントを組んで、戦略的提携をしてうまくいっているというケースは滅多にありません。一方、台湾はどちらかというと日本にとっては戦略的パートナーとして、一緒に手を携えてジョイント・プロジェクトをもって中国に乗り込んで成功しているというケースが多いのです。
そのような意味において、覇権主義的な発想とは一切違う意味で日本もネットワーク型によって日本の次なる展開を考えていかなければならないと思います。私は、このあたりが「世界を知る力」の次の問題意識であるという気持ちでいるのです。

木村>  このことを通して、ものの見方、世界の見方において、我々がどのようにあるべきか、ということを共に考えようではないかということですね。
 寺島さんのお話を伺って、若い世代の人も含め、これだけ多くの読者がこの『世界を知る力』を手にしているということをふまえると、これから日本に色々な期待、希望というものを持てるという思いも感じました。

第45回

<水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い>

木村>  先週の放送では、「世界を知る力余談―発売後の余波―」というテーマでお話を伺いました。
 今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」をお送りします。テーマは「水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い」で、水上達三さんという方が登場人物となります。

寺島>  私はこのコーナーでは歴史というところで、私にとって存在感が重いというだけではなくて「一体それは誰だ?」と皆さんが思うような人を取り上げていきたいと思っています。
私は1973年の石油危機の年に三井物産に入社しました。大学院を卒業してからなので普通の人よりも遅れて社会参加をした形となり、私は三井物産という会社に育てられてきたという部分もあるわけです。
 そのような中で、戦後の三井物産のまさにキーパーソンが水上達三だったのです。どのような人であったかというと、戦後の三井財閥の中核企業でもあった三井物産は1947年、戦争が終わって2年後の7月にGHQ、つまり、マッカーサーの総司令部によって解散命令を受けました。世に言う財閥解体です。これは私が生まれる前の月に起こったのです。その月に三井物産という戦前の三井財閥の中核であった企業は解散させられたのです。これは、ある面においては進駐軍の狙いだったとも言えます。日本の経済力の1つの中核で、しかも、これからの日本を考えたのであれば、これを潰しておかなければならないということと、経済民主化ということもあって、世界の歴史で1つの民間企業が受けた途方もなく例がないほどの苛酷な解散命令だったと言われていました。一私企業が進駐軍によって「おまえたちは解散だ」と。これは旧三井物産で部長以上だった人が2人以上で新しい会社をつくってはならないとか、商号を使ってはならないとか、旧三井物産の従業員が100人以上で新しい会社を組織してはならない、資本金20万円以上の新会社の設立をしてはならないという厳しいものだったのです。つまり、大きな会社はつくってはならなくて、二百何十の小さな会社が雨後の筍のように、色々な部門ごとに旧三井物産ということでつくられました。
その時に、旧三井物産の物資部の部長代理にすぎなかった43歳の水上達三が資本金195,000円でつくった会社が「第一物産」だったのです。当時43歳だった水上達三が、まさに、荒野にレールを敷く思いで、まったくあてどない荒野に出たようなものです。突然、会社が解散となり、「おまえたちで生きていけ」ということで、仲間と一緒に小さな商社をつくってなんとか生き延びようとしたのです。
水上さんが会社の名前を何故「第一物産」としたのかというと、「天下第一物産という意味でつけた」ということで、やがて、三井物産が統合になった時の中核会社に自分たちがなってやろうというくらいの気迫と大きな構想があったと言えると思います。その後、1959年から12年後に三井物産大合同をしていくのですが、水上さんがつくった会社がスタートを切った小さな会社の中で、結局、頭角をあらわしていき、中核会社となっていったわけで、水上さんの見識や指導力が大変なものであったと分かります。
私が三井物産に入社した時には、水上さんは相談役にひいていたのですが、新入社員だった私と意外なほど縁がありました。私は調査部という部署に入っていて、水上さんのものの見方や考え方に触れる機会がありました。当時、水上さんから「1週間後までに調べてくれ」と依頼されて、私が書類を持っていくと、水上さんは鋭い人でマクロの経済統計とミクロのビジネスの動きを結び合わせながら物凄く的確で鋭いコメントが返ってきたことを思い出します。
1973年に入社した私に水上さんが「日本の輸出が1日1億ドルを超したよ、君」と言われた言葉をいまでも覚えています。つまり、日本が年間365億ドル=1日1億ドルの輸出ができる国になったということが、彼にとって物凄く感慨深かったのだと思います。それはどのような意味かというと、戦後の日本において1970年代まで売る物がないために買う物も買えない状況で、日本が海外に輸出するようなものがないために外貨を稼ぐことができなかったのです。そのような時代、つまり、終戦後という時代に日本人は物凄く歯を食いしばって頑張ったわけなのです。
例えば、ニューヨーク駐在の商社マンといったら格好よくみえると思いますが、その頃の日本の貿易の前線を支えた商社マンたちは何をしていたかというと、「三条燕の洋食器」(註.1)の見本とクリスマス・ツリーのランプの見本を大きなボストンバッグの中に入れて、けんもほろろの応対を受けながら売り歩いていたのです。
私がニューヨーク、ワシントンに勤務していた頃、先輩たちが訪ねて来て、私たちに「おまえたちは生意気でダメになったなあ」と厭味を言ったものです。それは何故かというと、彼らの感覚からすると、クリスマス・ツリーのランプの見本をけんもほろろの応対を受けながら売って歩かなければならなかった時代は、駐在員としてせめて駐在している間に少しはお金が貯まって、例えば、「ゴルフセットを1セット持って帰れたらいいなあ」ということが夢だったわけです。そのような思いをして輸出をしないと外貨を稼ぐことができなかったのです。外貨を持っていないと買いたい物が買えない、例えば、食糧や資源等が買えないというようなことを経済論的に「国際収支の天井」という言い方があって、国際収支の天井が張り付いているために、その天井よりも高いものは買えないのということです。
そのような時代がどんどん続いて日本経済が輸入超過という状態を出した年が1965年で、安定的な輸出超過を実現したのは1973年と1979年の2度の石油危機を経た、1981年からなのです。つまり、この30年間くらいの間ということです。日本人はいまや、自動車産業をはじめとする隆々たる輸出産業が育って、外貨を稼ぐことができることが当り前のことのように思っていますが、そのような産業群があったからこそ、海外から食糧を買ったり、資源を買ったりして今日の日本を築いていったわけです。
分かり易くいうと、先程申し上げたように、水上達三さんたちは荒野にレールを敷く思いで、クリスマス・ツリーのランプと三条燕の洋食器を売りながら日本の戦後の産業の創生を支えた人たちということです。
その後、私は水上達三さんについて調べて感慨深いことがありました。まず1つは人間山脈であるということで、人間はひとりでは育たないということです。水上さんは山梨県の甲府中学校の出身者で、中学の先輩の影響を大変に受けたそうです。彼が尊敬してやまなかった人物は東洋経済の石橋湛山で、戦後、首相にまでなりました。水上さんは石橋湛山主宰の勉強会にいつも参加をしていました。
 石橋湛山は甲府中学校の伝統としてクラーク博士の影響を物凄く受けた人物です。それは何故かというと、これは話がややこしくなりますが、私の故郷北海道で、クラーク博士というと札幌農学校で現在の北海道大学です。クラーク博士が日本にやって来て、実はクラーク博士は8カ月しか日本にいませんでした。つまり、第1期生だけしか教壇に立っていないということになります。第2期生の人たち、その中には内村鑑三もいますが、実際はクラーク博士の顔も見たことがなかったのです。しかし、先輩たちが「クラーク博士という人が昨年まで教壇に立っていて彼はこんなに情熱がある素晴らしい人だった」と、あの有名な「Boys Be Ambitious」の世界を語り継いでいって大きな影響を与えているということです。
 クラーク博士に直接薫陶を受けた1期生のひとりで大島正健(註.2)という人がいました。この人がその後に甲府中学校の校長となって赴任していくのです。大島正健の影響をもろに受けたのが先程からお話ししている水上達三だったわけです。
 水上さんが影響を受けた石橋湛山は自分の「湛山回想」という本の中で、「自分の意識の底に常に宗教家的、教育家的な志望が潜んでいたことは明らかであり、私は大島校長を通じてクラーク博士のことを知り、これだと強く感じたのである。つまり、私もクラーク博士になりたいと思ったのだ。私はいまでも書斎にクラーク博士の写真を掲げている」と書いてあります。ここのポイントは何かというと、クラーク博士がアメリカからやって来て撒いた種のようなものが大島正健という校長を通じて石橋湛山に繋がり、石橋湛山を尊敬してやまなかった水上達三が戦後日本の貿易を支えて頑張って戦ったのです。私はこれがまさに、人間山脈であると言いたいわけです。人間の影響が脈々と伝わっていくもので、小さな1粒の種がそのように大きな影響を与えて、戦後の日本の貿易の戦線を支えていく人になっていったと言ってよいと思います。
水上さんは不思議な存在感があって「このおじいさんがそんなにこの会社の偉大な先輩なのか」というくらいの若干、距離感、違和感等を感じながら、当時、若造としての私は見ていました。しかし、ただ者ではないという空気を漂わせて、まさに、先程申し上げたように、情報に対する異常な感度を持っていたのです。
 そこで、水上さんの人生を調べてみると、面白いことがあって、水上さんは一橋大学、当時の東京商科大学を卒業していて、入社した途端に6年間も群馬県の高崎出張所に追いやられてしまいました。本社勤務どころか、高崎出張所の所員として6年間も働くことになって、普通の人間であれば腐ってしまうと思うのですが、不思議なことに彼はその6年間が自分にとって物凄くプラスになったと言っていました。もしも、本社に勤務していたとしたら、そんな新入社員の若造等には回ってこないような書類が、出張所が小さいために回って来ていて、会社が全部わかるということです。その時に彼は色々なビジネスのことを考えたりするために物凄く勉強になったそうです。
 更に申し上げると、水上さんは終戦を北京の支店長代理のような形によって北京で迎えました。そして、そこから1年半くらいの間、中国で抑留されることになりました。その時に千何百人の引き揚げ者を率いてくる団長として日本に帰ってくるのですが、その逆境に立った時の強さが感動的なのです。彼の日記等が残っていますが、それらを見ると、分かり易くいうと、北京で敗北した国の捕虜として収容所に入れられていたようなもので、彼は北京で一生懸命に努力をして短波放送が聴くことができるラジオを手に入れました。そして、インドやオーストラリアやサンフランシスコから短波によって色々な国の放送が流れてきていて、敗戦後の日本がどのような状況になっているのかということに関して一生懸命に情報を集めて、それを聴いて、リーダーとなって引き揚げ者を率いて日本に帰ってきたのです。
 私が彼を「ただ者ではない」と思う理由は、情報に関する感度、敗北して打ちひしがれている時に彼が見せた力や、高崎出張所に追いやられたらふて腐れるだろうと思うところをひょっとしたらこれは自分にとってプラスになるかもしれないと考えていく力等があるからなのです。これは若い人たちにも非常に参考になると思います。
 それが水上達三という人で、戦後、解散されて多くの三井物産社員が野に放たれ、打ちひしがれている中で、「天下第一物産」をイメージして会社に「第一物産」と名前をつけて、そこから戦後の三井物産の統合を彼が中心となって推し進めていったということは誠に感慨深い話なのです。
我々はそのような人たちの歴史の中を生きて、戦後の日本がつくられているのだということを忘れてはならないと思います。水上さんは「貿易立国論」という本まで書いています。

木村>  日本貿易会の会長もなさっていましたね。

寺島>  私が三井物産に入社した年に日本の輸出が1日1億ドルだったものが、現在はその20倍になりました。その20倍の外貨を稼ぐ力を持っているからこそ、我々は気楽に食糧を海外から輸入しているわけです。昨年は約60兆円の食べ物を海外から買っていますが、食糧自給率40%という妙な国をつくってしまったのです。それも外貨を稼ぐことができる力があるからこそ、そのようなことが成り立っているわけで、そのことを思うと不思議な感慨を覚えます。

木村>  「荒野にレールを敷く思いをして」という言葉を寺島さんがおっしゃいましたが、水上達三という人の存在を通して経済人の経綸、思想、或いは、志について考えさせられました。
<後半>

木村>  後半ではリスナーの皆さんからのメールを紹介してお話を伺います。愛知でお聴きの「86ラブ」さんからです。「最近、トヨタの問題が随分マスコミで取り上げられています。アメリカのレクサスブランドのアクセル・ペダル問題だけでなく、日本でもプリウスのブレーキ問題で揺れているトヨタですが、世界のトヨタの信頼が崩れて日本の自動車産業が窮地に立たされる可能性はあるのでしょうか? 寺島さんは今回のトヨタ問題についてどのように感じていらっしゃいますか?」。

寺島>  これは対応がまずかった等、色々な議論がありますけれども、今回我々は、トヨタの立場に立って議論をしてみたいと思います。
 私は3、4年前くらいから似た話はアメリカで聞いていました。その時にフロアー・マットの不具合があって、フロアー・マットが挟まってブレーキがきかなくなってしまうというクレームの問題が耳に入ってきました。おそらく、トヨタはフロアー・マットが挟まるなどという話はユーザーの自己責任で、自分でフロアー・マットをキチンとしていれば挟まるわけがないので、そのようなクレームをメーカーに対してつけてくるべきではないというニュアンスで最初の頃は捉えていたと思います。
 更に、いま話題に出たアクセル・ペダルの問題もトヨタが日本で車をつくって輸出していた時代ではなくて、アメリカで走っているトヨタの7割以上の車が高級車を除いてアメリカ製のトヨタで、現地生産を深めれば深めるほど、部品の現地調達比率を高めてくれという要請を受けて、日本から部品を持っていって組み立てるだけではなくて、現地の部品メーカーの会社を使ってやってくれという流れの中で、アメリカの部品メーカーの会社を採用していかざるを得ない状況があるわけです。アクセル・ペダルの不具合に関していうと、トヨタにしてみればそれこそ愛知県のトヨタを支えている部品工場から調達していたならばこんなことは起こらなかったという思いがなかったとは言えないと思います。
 そのような様々な複雑な思いに加えて、トヨタが世界一の自動車メーカーになってしまって、GMを追い抜いてビッグスリーを1つずつ追い抜いていっている時からトヨタに対するアメリカの自動車産業の関係者には、フランクにいうと嫉妬心とも猜疑心ともつかない空気が高まっていったと言ってよいと思います。
 そこで、トヨタは我々からみても物凄く慎重にそのような人たちの神経を逆なですることがないように努力をし、気を遣っているなあと思うことが私がワシントンにいた時に何回もありました。
 例えば、これは4、5年前くらいの話になりますが、ワシントンというところは皆さん御存知のようにありとあらゆる利害関係者が跋扈していて、「揉め事屋」といってよいような弁護士、はたまた「ロビイスト(Lobbyist)」と称して問題を政治化させてそれをまたマッチポンプのように片付けて自分の生活に繋げていく人たちがたくさんいて、アメリカの政府がどうのこうのという話ではなくて、そのような人たちが問題化させるケースが多々あります。例えば、トヨタの子会社にトヨタ通商という会社がありますが、トヨタ通商がイランのアサデガン石油の開発に一部資本参加していました。そのことを見つけ出して、「トヨタという会社はイランを支援している。そのような会社の車は不売運動を起こしてボイコットすべきだ」等ということを本気になって回覧板を回していた人たちもいました。
 したがって、当時、トヨタはパッと動いてアサデガン石油のプロジェクトから完全に引いて、トヨタはそのようなことには参加しないという形の意思を表明したりして物凄く気を遣っていたということです。しかし、それらの人たちのように、先程のフロアー・マットだ、アクセル・ペダルだという話がだんだんエスカレートさせていく力学がワシントンに存在していて、これは大変に悩ましいことなのですが、このファクターも決して小さくはありません。ただ、ここではっきりしておかなければならないことは、トヨタは既に世界に冠たるチャンピオンの会社になったということです。グローバルカンパニーとして耐えなければならない試練があって、盤石の対応を求められるのです。先程、冒頭でトヨタの立場になっていうと……、という話をしましたが、逆に言うとトヨタは本当に堂々と王者の戦いをしなければならない立場になっていて、正面からこのような問題に対応していかなければならないという中におかれているということです。トヨタ以外にも日本のいくつかの企業は既にそのようなレベルになってきています。トヨタは見本になるような姿勢を引き継いでいなかければならない立場になってしまっているということを我々は肝に銘じなければならないのでないでしょう。

木村>  それはある意味においてはこれからの日米関係という中で、日本の私たちがどのような道筋で生きていくのかということについて、いま「学習」しているということでもあるのでしょうね。

(註1、新潟県にある都市で、古くからある産業で「燕の洋食器」、「三条の刃物」と呼ばれる程、優れた商品を生産してきた。現在では、伝統的な職人技から最先端のテクノロジーを駆使した製品をつくることで有名)
(註2、文学博士。「札幌農学校」の第1期生としてクラーク博士の教育を受けた教育者、宗教家、言語学者)