2008年08月 アーカイブ

2008年08月31日

第5回目


<問いかけとしての戦後日本>


木村>前回の放送では寺島さんのアメリカ最新報告。アメリカの一極支配と言われた構造が崩壊しつつある。そして「無極化」、つまり極がなくなるような世界が現れ始めているのだというお話がありました。それと共にオバマ旋風というものが起きているアメリカ大統領選挙についてもお話がありました。今回は「戦後63年目の夏」ということで戦後という時代、日本を見つめ直してみようということなのでしょうか?

寺島>そういうことです。もう戦後63年目の夏ということなのですが、現在日本では、8月15日を「敗戦の日」ではなく「終戦の日」としています。そこにも考え直すべき点があると考えますが、それとともに8月15日だけではなく、この8月というのは、「一体太平洋戦争とは何であったのか?」、或いは、「戦後の日本とはなんだったのか?」という事をそれぞれの立場、それぞれの年齢の人たちが問い直してみることが必要なのだと考えています。私はいま岩波書店の「世界」という月刊誌で「脳力のレッスン」という連載をやっていますが、この6回ほどシリーズで「問いかけとしての戦後日本」というテーマで書いています。

木村>はい。

寺島>その中で考え直しているところがあるものですから、今日はその話をしてまいります。

木村>「問いかけとしての戦後日本」ですか。

寺島>ハワイの真珠湾に日本が「真珠湾攻撃」の時に沈めた「アリゾナ」という戦艦が沈んだまま残っていることを知っている日本人は多いのですが、その隣に「ミズーリ」という戦艦が「記念艦」として保存されていることを知っている人は少ないのではないでしょうか。この「ミズーリ」という戦艦は、1945年9月2日にポツダム宣言受諾の降伏文書に日本の代表がマッカーサー連合国最高司令長官の前でサインしたという因縁のある戦艦なんです。そこから日本の戦後は始まるわけですが、その後日本占領連合国最高司令長官として日本に駐留したマッカーサーについて、もう一度改めて考え直してみようということで、9月号として発売される「世界」に「マッカーサーについてもう一度振り返る」という原稿を書いたところなのです。

木村>はい。


<マッカーサーについて>


寺島>150年前にやって来たペリー提督とマッカーサー元帥という二人が日本の近代及び現代に最も大きな影響を与えたアメリカ人だと言っていいと思います。しかもその二人の存在感が、ある意味で似ているのです。日本開国のきっかけをつくったペリー、それから「戦後民主主義とか戦後改革の一つの口火を切ることになったマッカーサー」ということですね。このマッカーサーの二重性=抑圧者であると同時に解放者であるという性格、支配者であると同時に改革者であるというこの二重性が日本人にとってマッカーサーに対する評価というものを非常に複雑なものにしていると言えます。
ここでマッカーサーの経歴について簡単に話しておきましょう。ワシントンDCから南に車で2時間半から3時間位走るとバージニア州のノーフォークという港町に着きます。ここに海軍基地があるのですが、実はペリーが日本に来航する際出発した港がノーフォークの海軍基地なのです。そして、このノーフォークにマッカーサー記念館とお墓があるのです。これは非常に不思議な話で陸軍の軍人だったマッカーサーの記念館やお墓が何故海軍の港町にあるのか? という素朴な疑問がわくのですが、実はここにマッカーサーという人物に踏み込んでいく大変大きな鍵があります。
マッカーサーの母親はピンキーと呼ばれていましたが、その母親の生まれた町がノーフォークなんです。でも、どうして母親が生まれた町に記念館やお墓があるのか? 表現は悪いのですが、マッカーサーという人物は複雑なマザーコンプレックスを抱えていた人物なんですね。また、お母さんの方も、子離れができない母親だったらしくマッカーサーを溺愛していました。一つの例をあげると、マッカーサーがウエストポイントの陸軍士官学校に通っていた頃、士官学校のすぐそば、それもマッカーサーの部屋が見えるアパートに部屋を借りてマッカーサーが登校する時から就寝するまでを確かめていたという伝説があるくらいなんです。
そして、先ほどの「ミズーリ号」の話なんですけれど、二つ面白いエピソードがあります。一つは、日本が「ミズーリ号」の艦上で降伏文書にサインをする時のことですがマッカーサーは、ペリーが来航した時の旗艦「サスケハナ」が掲げていた星条旗を本国から取り寄せて「ミズーリ号」に掲げたという話です。そこには、時空を越えてペリーと自分を同一化させようという心情があったと言えます。もう一つは、降伏の調印式の時マッカーサーがサインをしたオレンジ色のパーカーの万年筆なのですが、その万年筆は母親の万年筆だったという話があり、母親に「自分は勝ったよ」と報告したかのような印象を抱かせます。
それとは別にマッカーサーという人物を理解する上で参考になる話があります。1935年の時点でマッカーサーはフィリピン自治政府の軍事顧問としてマニラに赴任しています。陸軍参謀総長という陸軍軍人として、ほとんど最高位に昇りつめたあと退役してマニラに赴任したわけです。ところが1941年に日本が真珠湾攻撃を行って第二次世界大戦(太平洋戦争)ということになるわけです。日本の脅威が迫って来る状況でフィリピンに駐留していた軍をアメリカの極東司令部に統合することになって、そこでマッカーサーは現役復帰してアメリカの極東司令官という立場になるわけです。そして、究極的に対日占領軍=GHQのトップとして日本にやって来たわけです。
マッカーサーに関する書物はたくさん出版されていますが、その中で一つ注目しておきたい本があります。それはウィリアム・マンチェスターの『ダグラス・マッカーサー』(註、邦訳、1985年河出書房出版、絶版)という本なのですが、その中でW・マンチェスターは、「MORALITY=道徳」「FREEDAM=自由」「CHRISTIANITY=キリスト教」を志す使命感は異常なほどであるとマッカーサーを分析しています。そのことを一つ踏まえてもらっておいて、更に話を進めますと、さきほどらい出ている「マッカーサー記念館」には、50万通にのぼる占領下の日本人がマッカーサー宛に送った手紙が保管、展示されています。『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎著、1974年、中央公論社)という本の中でこれらの手紙を分析したのが袖井林二郎さんです。この本は敗戦と日本人を考える上で非常に示唆的であると言えます。

木村>袖井さんは、アメリカ研究者としても非常に実績のあるかたですね。

寺島>この本を読むと、極限的な状況におかれたときの日本人の本質というものが見えてきて、僕は非常に興味深く感じます。


<マッカーサーと日本人>


寺島>「世界の歴史の中で日本における米軍の占領くらい成功した占領はない」と言われています。例えば、組織立った反抗とか反乱があったわけでもなく、まさに良き敗北者として従順に日本人は従ったわけです。例えば、「アメリカの50番目の州にして欲しい」とか、権力に卑屈に擦り寄る日本人、「長いものには巻かれろ」勝ち組に乗りたいというような、なにかがっかりする様なイメージがたくさんあるんですね。それが一つ心にしみるほど衝撃的だなあと感じると同時に、もう一方で日本人の持っているびっくりするくらいの強かさというものを感じ取れます。
マッカーサーは、W・マンチェスターが分析したように、「キリスト教的な道徳と自由」を基本理念として日本の占領の指導にあたろうとしていて、「野蛮な」「前近代的な」気風を克服するためには宗教を変えさせなければいけないと思ったのか、日本人に一千万冊を越す聖書を配っています。ところが、その聖書の紙をタバコの巻紙に使ったり、トイレの紙に使ってしまうといった日本人のたくましさというか、いい加減さというか、そういう気質も見えて来ます。
マッカーサーは、1951年にトルーマン大統領に解任されてしまうわけですが・・・・・・、

木村>連合国最高司令長官を更迭されたのですね。

寺島>更迭されてアメリカに帰って、アメリカの議会の秘密公聴会で「日本人の精神年齢は12歳だ」という意見を述べて日本におけるマッカーサー人気は冷めていくというプロセスがありますが、マッカーサーに二千日間支配されていく中で、日本人は征服されている人間のスタンスとは思えないほどマッカーサーを敬愛し「神」のごとく崇め奉ったという事実があります。この話をどう捉えるかということが重要ではないかと僕は考えています。つまり、「日本人は強烈な圧力をもって支配して来るものに対しては異様なほどの卑屈さを見せるけれど、本気でそれを支持しているかというとそうでもなく意外なほど強かに、相手ががっくり来るほど自分の文化とか生活規範とかにこだわる様な部分を併せ持つ民族気質がある」と推察できるということです。この辺りが極限状態におかれたときに日本人がみせるある種の日本人の本質みたいなものだったと思います。
そこでとりわけ詳しく調べてみてあらたに思いを深くしている事があります。それは、昭和22年=1947年に生まれて戦後なる日本を生きて来た僕自身にも言える事ですけれど、自分達が無意識のところでいろいろなものの見方や考え方にアメリカ的価値観が植え付けられているということに気づかざるを得ないという事です。
それはどういうことかと言いますと、戦後の日本を振り返る時、「テレビ文化」というものに多大な影響を受けた最初の世代が僕たちだと思います。
日本でテレビ放送が始まったのは1953年の事です。この時期はアメリカのホーム・ドラマとかカウボーイ映画とか「コンバット」の様なアメリカの戦争映画とかが次々と日本語に吹き替えられて日本のテレビで放送された時代なんです。まるでシャワーを浴びる様に洗礼を受けて、それを大変に楽しんだ世代が僕たちの世代なんです。何故、多くのアメリカの番組が日本のテレビで放送されたのかというと、1950年代前半のアメリカは冷戦に向かう世界的な状況にあって「マッカーシズム」が吹き荒れていたということです。(註1)
1951年に「サンフランシスコ講和条約」で日本を独立させたけれど、日本を反共産主義の砦としてしっかり取り込んでおかなければいけないという理由で、日本人のものの見方や考え方の中にアメリカに対するポジティブなイメージを植えつけなければいけないという対日政策が浮上し、丁度日本のテレビが草創期にあったという事もあって、アメリカの番組を提供してアメリカというものに対する途方もないポジティブなイメージを植えつけたわけです。実は、それをたっぷり吸収して育ってしまった世代が我々自身だと言えるわけです。


<アメリカなるものの克服>


寺島>僕が何故今日、「ミズーリ号」からマッカーサーの話をして、戦後の日本人がアメリカなるものに深い深いところで影響を受けて来たという話をしている理由は、日本の21世紀の姿というものを求め、21世紀の進路を考えたときにこの「アメリカなるもの」というものをどういう風に、いい意味で克服していくのかということが凄く重要だからです。
現在の日本を見ても、アメリカに対する「過剰期待」と「過剰依存」で総ての物事を納得してしまっているという部分があります。おずおずと生きているという様なところがあるわけです。

木村>アメリカが総ての価値の判断の基準であり、そこで安心したり不安になったり。

寺島>そういうことですね。そこで変なナショナリズムで言うことではなく、本当に「心の置き方の問題」として21世紀の日本人ということを考えなければいけないと思っています。ちょっと苦笑いを込めて思い出すのが、五木寛之さんが『大河の一滴』という本を書いていますが、その中で彼はこういうことを言っているのです。
明治の近代化というときに押し寄せる西洋化の波を受けながら明治の先人たちは、歯を食い縛って心の中に「和魂洋才」という言葉を噛み締めたと言うわけです。つまり「和の魂」は見失わずに「洋の才」を入れる。つまり文明の先進的なものは入れるけれども日本人の魂は見失わないぞと言ったというわけです。マッカーサーがやって来て日本人は無魂洋才になった、つまり、魂を亡くして洋の才を称える様な国民になってしまったとも言っています。そこから更に、「今グローバル化とか新しい世界の潮流というものに飲み込まれて日本人は『洋魂洋才』になれと迫られている。さて、日本人はどうする?」と彼の本に書いてあります。僕はこの直感は大事だと思います。やはり戦後なるものをもう一度問いかけ直して、我々が進んでいかなければならない道を探す。そういう「夏」にしなくてはならないという思いを込めて今日の話題に触れてみたということです。

木村>お話をうかがっていてふと思ったのは、平成20年と年号は変わっていますけれど、私達が今向き合わなければならないのは昭和83年。つまり「昭和という時代」でまだこのことを乗り越えていないということなのですね。

(註1.1952年、共和党のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが上院で「共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発した事を契機に、ハリウッドの映画関係者、ジャーナリスト、学者七等を巻き込んで大規模な「赤狩り」に発展した。その背景には1949年に、中国共産党が国内戦に勝利し「中華人民共和国」を樹立した事やソ連が原爆実験に成功した等という事実があり、アメリカ国内に「共産主義に対する脅威が病的に広がった」ということがある)


木村>さて、寺島さん。この番組はいつものように皆さんからメールの反響をいただいております。早速ですけれどもラジオネーム、マグザムさんからです。「ジュネーブで年内に最終合意を目指してWTO『世界貿易機関』の会議が行われていましたが、アメリカの主張とインド、中国の主張の溝を埋めることをできなかったということです。このことがどのような影響をもたらすでしょうか?」。

寺島>これはどういうことだったかというと、食糧を国内で賄いたいというのはどの国でも願望として持っていて、インドがこだわったのは「セーフガード」というものなんです。例えば海外からある品目の食料品が輸入されて来て、去年よりも4割以上増えたときに輸入を制限する措置が取れるルールが決まりかけていたんです。
ところが、インドにしてみると去年よりも15%増えたというところで国内の農産物を作っている人達にインパクトを与えるからルールをもっと柔らかくしてもらって「セーフガード」という措置が発動できるように要求し始めた・・・・・・。それがその揉め事の種になって結果的にルール作り全体が破綻したというのが今回の状況だと思うんです。そういう中で日本は110品目位について大変な関税で自国の農業を守っているという事実がまずあるわけです。
  例えば米に日本がかけている関税は778%で小麦が252%なんていう関税をかけてなかなか外国からは入って来られないようにして守っているわけです。ところが今回はルール作りに失敗していますけれども、日本もほぼそれにコミットしかけたのは110品目ある重要品目として守っているものの品目を減らしてくれという圧力の中で80品目位まで減らそうかというところまで進んでいたわけです。この流れは時間こそかかれ必ずやがて日本にやってくると言えます。
そこで何がポイントかと言うと、日本にとっての要は自国の農業を大事にして自給率を上げなければいけないのだけれども、その方法として「関税で守る」とか「農業に補助金をバラ撒いて守る」という方式ではなくて、もっと本当の意味で「たくましい農業」、「効率的で世界と戦っていける様な農業」というものをつくりあげていくということが凄く重要で日本も一歩前に進み出さなければいけないというメッセージがこの新しい動きの中にあるんだということを理解すべきだと思います。

木村>その意味ではWTOのこれが決裂してホッとしたと言う人もいるけれどもとんでもない話だと・・・・・・。ある意味では少し時間がある。そのあいだに何をやるのか? と逆にもっと厳しく問われることになるのですね。

寺島>そういうことですね。

木村>ということなんですが、ラジオネーム、マグザムさんからのメールの答えですね。そして、これは栃木でお聞きになっているラジオネーム、ポコちゃんからです。「夏休みに去年までは家族4人で伊豆に3泊4日の旅行をしていたのですが、今年は食品価格やガソリン代の高騰でいつものような贅沢はできませんでした。ささやかに1泊2日で長野に旅行するのが精一杯です。私と主人は来年の夏休みも家族で旅行に行きたいと話すのですが日本の経済は良くなる方向に動いていくのでしょうか? 今以上に悪くなるとしたら旅行どころか普段の生活もままならなくなりそうで恐い思いです。寺島さんの口から『良くなるよ』といった言葉を聞きたいです」。というメールですが、いかがでしょうか?

寺島>(笑)。これはねえ、「良くなるよ」と言いたいのですが、僕は日本人が日本の持っている潜在力をよく見つめなおして「良くすべきだ」という議論、「どうすれば良くなるだろうか」という具体的な方法論をしっかり議論しなければならないところに来ていて、良くなるか良くならないかを予測しているような局面ではないというのが僕の本音ですね。というのは、新しい産業プロジェクト、事業を主体的に興していくということをやらなければ経済なんて良くならないわけで、とりわけこれはつまり国の指導であり、企業の指導であり、そういう立場にある人達が本当に責任を持ってシナリオを書かなければいけないところで・・・・・・。僕は「日本は良くなるよ」とは言えないけれども、「大変な潜在力を持っている」ということだけは確信していますよ。

木村>ああ、その意味ではポコちゃんもご主人とこの日本をどうするのかということを考えて力を皆で合わせて動かしていくんだ、というその一人になって欲しいと思います。寺島さんの呼びかけでもあるかもしれません。

木村>今日は戦後日本のスタートというところと、アメリカという関係でお話がありました。

寺島>この話はもっともっと深めて追っていきたいと思っていますし、この夏の後半僕はアジア、中東と展開していきますので「世界の中での日本」という話を深めていきたいと思います。

木村>今朝はどうもありがとうございました。


木村>「戦後の日本」というものと「アメリカの存在」というものと「心のおき方」という言葉が出てきました。寺島さんの書物の題を少し使わせていただくと、歴史の中で深呼吸して私たちがじっくりこの問題を考えるべきテーマだということをあらためて痛感しました。

参考資料:寺島実郎「脳力のレッスン77号 問いかけとしての戦後日本―(その6)
それからのマッカーサー」
リンク先⇒日本総研HP http://www.nissoken.jp/rijicyou/hatugen/

9月のスケジュール

■2008/09/03(水)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

■2008/09/05(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち『ビジネス展望』コーナー

■2008/09/7(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2008/09/12(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

■2008/09/15(月)08:35~55頃
FM北海道
※農業王国、北海道の今後についてのインタビュー

■2008/09/20(土)08:00~
読売テレビ系列「ウェークアップ!ぷらす」

■2008/09/27(土)05:00~
FM「月刊寺島実郎の世界」

■2008/09/28(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」