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2010年10月01日

60回

月刊寺島実郎の世界 2010年9月25日OA分

~欧州を旅して―17世紀オランダと日本。今日に与えるインパクト~


木村>  先週は「2010年夏の総括―円高に対する戦略的対応」というテーマでお送りしましたが、たいへん触発される内容で、いまの日本の現状を考えさせられるお話を伺いました。
 今週前半は「寺島実郎が語る歴史観」をお送ります。テーマは「欧州を旅して―17世紀オランダと日本。今日に与えるインパクト」です。
 私は以前、長崎に勤務をしたことがあるので17世紀のオランダに非常に興味がかきたてられます。

寺島>  日本史上1600年にリーフデ号というオランダの船が大分に流れ着いたということがあったのです。その辺りがきっかけになってオランダとの関係が江戸幕府の時代を通じてもの凄くよくなりました。オランダだけが長崎の出島を通じて日本の貿易相手、別の言い方をすると西洋社会に開いている窓のようなものとなり、歴史的な関係が深い、ということは誰もが知っているはずです。
 私は今般、またオランダに行って踏み固めている問題意識があります。それは、17世紀はオランダにとって黄金の世紀と呼ばれましたが、それが世界史にどのようなインパクトを与え、日本近代史をどのように変えたのか、さらに我々自身が今おかれている状況にどのような影響を与えてきたのかという疑問です。このテーマについて、しっかりと体系的に考えていこうと思っています。このシリーズでも、何回かそれに関連したお話をしようと思います。
 私は、岩波書店が出版している月刊誌『世界』の中で『脳力のレッスン』を連載していますが、連載が100回を超えて、いよいよ来月10月に単行本の3巻目が出版されます。それは「問いかけとしての戦後日本と日米同盟」というテーマで十数回に渡って連載したものを体系的にパッケージしたものです。これからは、『脳力のレッスン〈4〉』に向けて、シリーズの一気通貫の問題意識が「17世紀のオランダのインパクト」というもので連載をしてみたいと思っています。本日は、その入口のような話だと思って聞いて頂きたいと思います。
 17世紀のオランダは、絵画好きな人にしてみると、レンブラント、フェルメール等が出たオランダでもあり、世界史的に見ると海洋大国としてのオランダでもありました。オランダにとっとも、最も輝いていた時代だったのです。その事実がどれほど日本史に連環があるのかという一つのきっかけの話だけをしておきたいと思います。
 以前、この番組でお話をさせて頂きましたが、ロシアにとって非常に大きな存在であったピョートル大帝という人がいて、1705年に日本語学校をサンクトペテルブルグに創ったという話をしました。大阪出身の漂流民の伝兵衛がサンクトペテルブルグまで連れて行かれて、「お前、日本語学校をつくれ」とピョートル大帝に言われて出来たのです。これはペリーの浦賀来航の150年も前の話で、ロシアが日本の存在や極東に目を向けたきっかけになったのです。
 ピョートル大帝は身長2メートルを超す大男だったらしく、不思議な話なのですが、1697年皇太子の時代に、自分がロシアの皇太子である身分を隠して、オランダのアムステルダムで船大工として修行をしていました。それは、つまり、それほどまでに関心があったということで、このことがピョートル大帝を変えたのです。彼は欧州歴訪をしたのですが、特にアムステルダムで船大工の修行をしたことによって、アムステルダムのような船で往来をする水の町をつくろうと考えて、ロシアのバルト海の出口にサンクトペテルブルグの建設に着手しました。それが1705年に日本語学校をつくれと言った前後なのです。その頃、日本人が漂流民としてやってきましたが、それ以前すでに彼の視界の中には、オランダでの修行時代に長崎の出島や東インド会社等を通じて、東洋に大きく張り出しているオランダという情報が入っていたに違いありません。
 そのような知見が広がっていたために、極端に言うと日本人が漂流民として連れて来られても彼はそれほど驚かなかったのです。そのことがロシアのアジア、つまり極東に対するロマノフ王朝の関心なり、野心なりの一つのきっかけになって、後の1860年にウスリー河の東側を中国から手に入れて、そこに人口的にウラジオストックという町の建設を始める大きなきっかけになりました。ウラジオストックはロシア語で、「東に攻めよ(東征)」という意味で、いかにも東アジアに対する野心をむき出しにしたような都市の名前で建設を始められたということです。150年前にサンクトペテルブルグの建設を始めたピョートル大帝の問題意識がじわじわとロシアを東へ東へと向かい、ついに極東に現れ出たロシアとなったのです。
ウラジオストックの建設に象徴されるようなロシアのアジア進出に対する緊張感、それが例えば1804年にレザノフが長崎にやってきたように、ペリーが浦賀に来航する半世紀も前にロシアが日本の扉を叩いたということなのです。日本においては開国を求める圧力、ある種の恐怖心が、例えば、「蝦夷地を守らければならない」ということになって、それが後に北海道開拓や蝦夷地開拓等の問題意識に繋がっていくということになります。
 私が盛んに言っていることですが、私の故郷である北海道に、極東ロシア、すなわちロマノフ王朝が張り出してくる野心と、北海道、当時の蝦夷地を防衛し開拓しなければならないという日本の問題意識とは、まるで双生児のようなものなのです。
つまり、世界史は繋がっているのだということです。これがもの凄く重要なことで、ただ単に17世紀のオランダがそこにあって、ピョートル大帝なる人物が気まぐれにオランダに行って船大工の修行をしていましたということで話がプツンと切れるのではなくて、それがサンクトペテルブルグ日本語学校、そこからさらに極東への野心、そして日本近代史へのノック、そこからその後のペリー浦賀来航へと繋がっています。
ペリーの浦賀来航については今度ゆっくりとお話をしますが、「17世紀オランダ」がいかに基点になっているのかということに我々は気づかざるを得ません。それは何かというと、一言でアメリカ合衆国とは何かというときに、意外と知られていない事実があります。ピルグリム・ファーザーズ(註.1)がメイフラワー号でボストンの近くの岬に辿り着いたということがアメリカの歴史の原点で、必ず語られる話なのです。ピルグリム・ファーザーズはピューリタン(清教徒)弾圧によってイギリスから新大陸を求めて直接行ったと思われがちなのですが、実はイギリスからオランダのデルフトというフェルメールの故郷の町の近くの教会で10年間も亡命生活を送っていました。つまり、ピルグリム・ファーザーズはオランダからアメリカに旅立ったということです。
ニューヨークはニューアムステルダムだったということはよく知られていますが、まず「17世紀のオランダ」が張り出していって、それがいつの間にかイギリスが力を持つにつれてニューヨークに変化して、東部13州の独立となり、そこからやがて西へ西へと動いたアメリカ合衆国の発展が西海岸に辿り着いた後、いよいよ太平洋が見えてきて、中国が見えてきて、捕鯨船の話等も含めて、要するにその関心がペリーを浦賀にやって来させるということになったのです。
したがって、この話も繋がっていて、オランダを真ん中にポーンと置いて考えているわけではありませんが、ロシア、ピョートル大帝からやって来る力学と、アメリカ新大陸からアメリカ合衆国に向かってくる力学が、やがて、東からも西からも日本へと向かって来るのです。そこで、日本史は世界史の中にどのような相関の中にあるのかという時のイマジネーションとして、この話がもの凄く重要で、ここをしっかりと立体的に描き切っていこうということが今度の私のモチベーションなのです。この話にまつわる話が続々とあります。そのお話をしていくことが、これからのこのシリーズの中で出てくる話だと思って頂きたいのです。

木村>  「東インド会社」という言葉を一つとってみても、我々に印象強く残っているのは、そのずっと後の、イギリスの東インド会社です。しかし、オランダは寺島さんがおっしゃるように、17世紀に入ったところで東インド会社をつくりました。そのような意味において、我々は歴史を忘れているけれども、オランダというところから世界をみる、日本をみるということが大事なのですね。

寺島>  歴史は立体感をもって見ることが大事なのです。つまり、西洋史と日本史の対比年表をつくって、年代を平面的に記憶する形でやっても歴史はいつまでたっても頭の中で広がりません。立体感をもって、そのダイナミズムの相関をイマジネーションの中に置けるのかどうかということが、歴史を深く理解することなのだという話です。このことをこのシリーズを積み上げることによって伝えていきたいと思います。

木村>  いま、ちょうど、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』で、長崎が龍馬の亀山社中の拠点として出てきています。そこでオランダに対して我々も関心をもっています。

寺島>  何にしても、まさにオランダなのです。
ちなみに、私はロンドンで大変なものを手に入れてきました。それは1858年(明治2年)にイギリスのタイムズがつくった「長崎出島の図」というものを、そのようなものを専門に売っている店でみつけて買ってきたのです。長崎の出島に繋がる話も非常に面白い話がたくさんあるので、ぜひじっくりとお伝えしたいと思います。

木村>  寺島さんが以前、お話になったと思いますが、ペリーの浦賀来航に幕府は慌てたと言われているけれども、そうではなくて実はオランダを通じてその情報を掴んでいましたね。

寺島>  ペリーが行くという通報は事前に受けていました。浦賀の奉行所の対応をみていてもわかりますが、もの凄くシステマティックで、「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌ができるくらい、慌てふためいたとなっていますが、それは事実ではありません。日本は日本なりの覚悟をもって迎えうっていたと思います。

木村>  寺島さんがおっしゃる、我々はイメージを「立体的」に、そして、「相関」をキーワードに、これからオランダを軸として語られる世界、歴史のいろいろなお話が益々出きて、その中に発見も沢山あるだろうと思いますので楽しみに待ちたいと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの皆さんからのメールを御紹介してお話を伺います。
 ラジオネーム「マージナルマン」さんからです。「ポッドキャストで拝聴させて頂いております。先日の、アジア太平洋フォーラムの講演内容に触発され……」。この講演は、アジア太平洋研究所推進協議会のリレー講座のことです。「この講演内容に触発され、先週シンガポールに行って参りました。52歳、サラリーマン営業職。時間がない、金がない。でも、一番世界を見ないといけないと思い、自費でかつ、有給休暇を使って1週間行ってきました。シンガポールがここまでパワーがあるとは……。若者ではなく、我々のように既に後半に差し掛かっている世代にこのような刺激は必要です。グレーターチャイナに飲みこまれないように、あとどれだけ日本に貢献できるか、再度、力が湧いてきました」というメールを頂きました。
 寺島さんが先日のリレー講座の中で「シンガポールは重要なところだ」とおっしゃったお話に触発されて、とうとう出かけてしまったのですね。

寺島>  素晴らしいことだと思います。要するに、グレーターチャイナ=大中華圏は、中国を本土の単体とだけ考えずに華僑圏との相関で考えるという視点が大切であると私は盛んに言っていますが、シンガポールが大中華圏の南端として中国の成長を東南アジア諸国連合に繋ぐ基点になっています。いまでは医療センタ-化をして、シンガポール自体が病院のようなもので、中国で金持ちになった人たちを吸収して検診を受けさせたり、入院をさせたりするというファンクション、つまり大中華圏の役割を果たしている話をしました。しかも、淡路島くらいの面積で、工業生産力もなく、人口もなく、資源の産出力もないような国が世界に冠たる経済国家になって、2008年の1人当たりGDPが購買力平価で49,000ドル、33,000ドルの日本より16,000ドルも多いという状況になっているというお話もしました。とにかく、シンガポールを見ることによって触発されるという話だったのです。
 ところで、私は「ユニオンジャックの矢」ということを盛んに言っています。かつての大英連邦の埋め絵と言いますか、中東のドバイ、UAE、インドのバンガロール、シンガポール、そして資源大国化するオーストラリアのシドニーをロンドンから繋ぐと一直線であるという意味です。ちなみに、私がPHP新書から出版した『世界を知る力』の中に、絵で描かれています。
 そのユニオンジャックの矢とグレーターチャイナの南端の接点がまさにシンガポールなのです。そのファンクションがスパークして、リンクをして、世界に冠たる付加価値を生み出す目に見えない財、ソフトウェアであったり、システムだったり、技術であったり、サービスだったりするものが集約しているという話を私は盛んにしてきています。メールを下さったこのリスナーの方のように、現場に飛んで体感してくれると、いかにシンガポールが元気な国かがわかると思います。例えば、いま話題になっているローコストキャリアのような安い航空サービスによってインドネシアやマレーシア等から人を引っ張ってきています。2つのカジノもオープンしましたが、これがまた凄まじい施設です。
 私が最近もっと驚いているのは、日本の老舗の料亭や銀座の名門の寿司屋等がシンガポールに進出していることです。そのようなことで、アジアのダイナミズムがプールされていると言いますか、大中華圏のエネルギーであり、ユニオンジャックの矢であるものがプールされてきているのです。シンガポールを体感することによって、アジアがどのように変わりつつあるのかということにピンと来るのです。しかも、定点観測のように見ていると、中東からやって来る人たちの動きや、オーストラリアからやって来る人たちの動き、世界の金融関係の人たちがシンガポールにやって来る動きがわかります。
 私は働き盛りの人が行っていることが凄くよいと思います。それは何故かというと、そのような人こそが、いま世界がどのように変わっていっているのかということを理解しなければならないからです。そのような面では、非常に嬉しいメールですね。

木村>  しかも、メールの最後に「力が湧いてきました」と書いてあって、本当に力強い言葉がありました。メール文の真ん中のほうには「ホテルでは1日1回、ダウンロードしたこの番組の講演内容を毎日繰り返し聴きながら、そして、帰りのシンガポールの空港では『世界を知る』最終章、加藤周一氏との対談の話を読みなおす」と書いてあります。

寺島>  これは、我々としても張り合いがありますね。

木村>  それを具体的な力にして下さっているライジオネーム「マージマルマン」さんに、心からの寺島さんからのエールを送りたいですね。

寺島>  まったくその通りです。

(註1、Pilgrim Fathers。イングランドは16世紀のヘンリー8世からエリザベス1世の時代に、ローマ教皇庁から独立したイングランド国教会をつくった。17世紀にかけて国教会の改革を行なおうとした清教徒たちは、弾圧を受けた。彼等は信仰の自由を求めて1620年にアメリカ東海岸に辿り着き、理想の社会を創ることを目指した)

第59回

月刊寺島実郎の世界 2010年9月18日OA分

~2010年夏の総括―円高に対する戦略的対応―~

木村>  今年の夏はとてつもない暑さで、たまりませんでした。この酷暑ということになると、もうひとつの暑い夏であったといえます。それは急激な円高で、9月に入ってつい先ごろ、15年ぶりの円高水準となりました。この円高水準とは一体何が起こっているのでしょうか。

寺島>  私は9月上旬にずっと欧州を動いていました。木村さんのお話の「円高」が凄まじくて、実感として2年前と比べると、日本円のほうが対ユーロで4割強くなってしまって、イメージとしてはお店ではバーゲンセールを行なっていて、5割引きになっている商品は、5割引きから更に6掛けで買う事ができる感じなので、実感としては7割引きのような物もあります。日本円がそれくらい極端に強くなっているということです。

木村>  そこで、今回は、「2010年夏の総括―円高に対する戦略的対応」というテーマでお話を伺いたいと思います。

寺島>  何故、こんなに円高になってしまったのかというと、「避難通貨」という言葉が当てはまると思います。これは、日本経済がもの凄く評価されていて、日本円に対する評価が高まったために円高が進んでいるということでは必ずしもなくて、「ドルやユーロよりはましだ」ということで資金が円に向かっているという緊急避難の場として、円に短期的な資金が流入してきているということです。
 したがって、実力以上の円の評価であるということは間違いありません。それは何故かというと、相対的に日本はまだ国内に貯蓄があるからです。つまり、なんだかんだ言いながらも、国債を日本国内で消化できるだけの国民の貯蓄があるということで、「1,500兆円の個人金融資産」という話題をこれまでにもあげてきましたが、リーマンショック以降、目減りしていて現在は、1,400兆円くらいといわれています。100兆円減ったとはいえ、それでも「日本は国内に貯蓄がある国」という評価が比較的安定している日本の経済という意味においては、つまり、いまは欧州やアメリカが非常に苦しんでいるためにその避難通貨として短期的な資金が一斉に円に向かっているという現下の状況においては、円高をどのように考えるのかについて、そろそろ日本人はある固定観念から脱却しなければならないというところに至っている、という気持ちを私はもっています。

木村>  ある固定観念とは何でしょうか。

寺島>  日本は輸出志向の通商国家なので、「輸出にとっては円安のほうが有利である」という固定観念が日本人の中にあって、輸出産業によって支えられている国のために、輸出産業にマイナスのインパクトがある円高は、日本産業にとってマイナスだという前提があります。しかし、現実問題として、日本のものづくり産業の製造業が10年前、20年前と比べて何が一番違うのかというと、海外生産立地です。それは個々の企業の戦略によって差はありますが、ざっくりと言うと、特に大企業等は海外に生産の比重を移して、海外生産比率5割を超すという企業が当り前のように存在しています。海外に生産工場をもっている企業からしてみると、今度は海外で生産したものを日本に輸入してくる時には円高環境がもの凄く有利になるということです。
 実は、戦略的に前向きに対応した企業ほど、世論的に「大変だ」と言っている割には落ち着いているのです。それは何故かというと、日本の生産構造が変化してきて、例えば自動車産業においても日本メーカーが日本国内で生産している車の台数よりも、日本メーカーが海外で、例えば欧米等で生産している車の台数のほうが圧倒的に多いからなのです。
 そのような状況を前提にすると、「日本は輸出志向の産業だから円高は好ましくない」という前提自体が少し揺らいできます。そこで、円高の戦略的活用の話をしたいと思います。もしも本気で円高はまずいということで、これを止めようとするのであれば、例えば菅首相までが重大な決意をもって言及しましたが、かつて日本が盛んに行なった為替市場に介入することが考えられます。しかし、「市場介入することによって円安に反転させられますか?」ということをしっかりと問いかけたとしても、やれることはもの凄く限られていて、仮に5,000億円、1兆円の国費を投入して為替市場に介入しても、その効果は極めて薄いだろうと言わざるを得ません。それは何故かというと、協調介入といって、日本が介入することに合わせて欧米が一緒に動いてくれるという状況ではなくて、日本だけが単独で介入したとしても、これは表現が悪いのですが、「太平洋に目薬をうつようなものだ」と言うように、その程度の効果しかないということです。
 国内の景気活性化のために内需拡大の必要があるということで盛んに日銀に圧力が向かっています。日銀がもっと金融緩和をすればいいではないかと言う人がいます。事実、つい先日、日銀が新しい方針を発表した「量的緩和」、つまり市場に投入するお金の額を10兆円くらい増やす政策をとりました。しかし、量的緩和といっても、あるいは、金利を引き下げて金融を緩和するといっても、実は、日本経済はここ13、4年に亘って異常な低金利で、公定歩合が1%を割るという状態が延々と続いています。欧米もリーマンショック後、金利を下げたり金融緩和に転じて金融政策によって刺激をするという方法をとりましたが、日本の場合には既に13、4年も内需拡大ということで懸命に超低金利政策をとって、量的にもジャブジャブになるくらいまで金融を緩和してきて、これ以上一体何を追加するのだという状況なのです。
そのような状況下で、日銀に期待しても限度があります。そうなると、日本を円安にもっていくことができる政策は非常に限られているということになります。そこで、奇妙なことを言うと思われるかもしれませんが、私は魔法のように円高を反転させられる政策があると思っています。ある意味では簡単なことなのですが、ただし微妙な問題があって国際社会の常識では禁じ手とされてきましたが、絶対的に効果があります。どうすればよいのかというと、短期資金のホットマネー、つまり、短期資金が円へ、円へと向かってくるわけですから、日本に対する短期資金の流入に対して日本政府が税金をかけるのです。「それはなしだろう」という手です。つまり、日本が単独で日本への資金流入に介入するという、しかも税金をかけてそれを財源にするなどということを始めたら、各国からとんでもない話だとブーイングが起こるに決まっています。ただし、アメリカも自国への資金還流を促すために、つい3、4年前まで、米系多国籍企業という海外で活動している企業が上げた利益を本国に送金してくれたのであれば、その利益に対する税金を割り引くとか、インセンティブを付けるという政策を行なっていました。このように税を調整弁にするということは、極端に珍しいことではありません。
したがって、日本が短期資金の流入を浴びせかけられて、極端な円高で、実力以上の円高になっていることを絶対に避けるというのであれば、自分の資金を使って為替に介入するよりも、流入してくる資金に税金をかけて、特にマネーゲーム的なホットマネーを許さないというスタンスで日本が自己主張するという手もないわけではありません。しかし、そんな禁じ手までを打って円高を回避することがよいのか、それとももう一度先ほどの話に戻って、円高を戦略的に活用して日本が強い意志をもって動き始めることによって、欧米をして「日本を円高にしておくとまずい」という気持ちにさせるような、戦略的意識を持った行動をしたほうがよいのか。私は、後者のほうがもの凄くインパクトがあって重要だと思います。
例えば、私がパリでOECDの人たちに会ったときに、「日本人は利口な人たちだから、これだけ円高になってしまうとそれなりのお考えがあるのでしょう? 一体どのような戦略をお持ちですか?」という質問を必ず受けていました。いま企業でしたたかなところは、大型のM&A等を海外に仕掛けています。強くなった円、つまり1ドル360円していた円が90円を割るというというところまできていて円の価値は4倍になったということですが、この4倍になった円の価値を利用して大型のM&Aを仕掛けている企業等は現実にどんどん出てきているのです。しかし、国家としてどのような戦略意志を持って円高を梃子にして行動をとろうとしているのかということは見えない状況です。
そこで、例えば政府が5,000億円のお金を準備して為替に介入するよりも、政府が準備した5,000億円をさらに民間資金の5,000億円とマッチングして1兆円のファンドを作って、これをベースに大いにしたかかに、戦略的に、日本経済の最大の弱点である資源やエネルギー等の海外依存度が高い分野に対して、長期的な戦略意志をもって大型プロジェクトを買ったり、先端的なエネルギー関連の技術を買うことが効果的であるし、長期的展望のある戦術だと言えます。先日、私が驚いたことは、UAEアラブ首長国連邦がドイツの環境技術を物凄い勢いでオイルマネーによって抑えていっていることです。このように、現在、政府系ファンド=SWF(=Sovereign Wealth Fund)というものがあります。韓国や中国も行なっていて、政府のファンドを海外で展開していくという手に出ています。
日本が政府のお金を雪だるまの芯のようなものを中心として、民間企業と一緒にパッケージにして戦略的に動き始めて、海外の資源やエネルギー、技術等に対して動き始めたほうが欧米の視点からすると、「これはまずい。あまり円高にしておくのはよくない」ということで、円安にもっていかなければならないという意志を持ち始める要因となるのです。むしろ、日本に問われているのは、それくらいの戦略意志で、ダラダラと一体この国は何をしようとしているのかわからないところが非常に問題なのです。先ほど申し上げたような短期的に極端に効く薬のように税金をかけて円高を止めるという手もなくはありません。しかし、これは禁じ手であって国際社会においてはブーイングを受ける。しかし、もし日本が強い意志をもってこのような形で動き始めれば物凄い迫力があって、そのほうが「やはり」ということで、日本の力を際立たせる重要なきっかけにもなります。
そのような全体的文脈によって円高を考えるべきで、円高を逆に利用するのです。「海外に買い物に行きましょう」という話だけではなくて、戦略的な発想で活用するということが日本人の知恵として重要な局面になってきているのだということを私は言いたいのです。

木村>  中国は国家ファンドとして、ある時には世界的に摩擦を起こすこともあるくらいの展開を始めています。これは中国に対する「元」の切り上げ圧力との関係によってある種、世界の目を集める戦いになっているケースが既に出てきていますね。

寺島>  日本の産業が成熟していくプロセスであると腹を括るくらいの発想が必要になります。以前、この番組でも申し上げたことがありますが、そもそも日本円がスタートした明治3年の時には1ドル1円だったのです。戦争が始まる直前の昭和15年の段階で、公定レートでは1ドル2円、それが、敗戦を迎えて360円になり、戦争によって180分の1に価値が落ちました。そこから、日本円はいかにも安過ぎるという話になって1971年にニクソンショックがありました。そして、1985年のプラザ合意があって、段階的に匍匐前進のように円を強くしていきました。自分の国の通貨の価値が失われていくという悲しみよりも、自分の国の通貨の価値が高まっていくということのほうがよっぽど大事なのです。
私は国際社会を、1970年代のロンドンから80年代のニューヨークを動いてきました。1970年の大阪万博から5年経った1975年にロンドンにいた時分に、日本円は市中の銀行では受け取ってもらえませんでした。私はよく冗談半分に言うのですが、当時、富士銀行のトラベラーズチェックをもってホテルで出してみると、「フィジー島の銀行か」と言われて受け取ってもらえないという思い出があります。自分の国の通貨が国際社会において評価を高めていて、しかもいま、実力以上に評価されているという状況をどのように考えているのか、ということが非常に大事なのです。

木村>  そこに戦略的活用、あるいは、戦略的対応に意味があるということがわかりました。そこで、それをどのように実行するのかというお話を後半にお伺いします。

<後半>

木村>  寺島さんに伺った前半のお話で、禁じ手というものもあるけれども、これはまず、おいておく。そして、戦略的な円高の活用となると、これを実行する力は経済界だけではなくて、日本の政治の力に重要な課題が出てくる。さて、できるのかどうなのか、いかがでしょうか。

寺島>  まったくそのとおりです。これは決して楽観的な議論はできません。まず、企業ベースで申し上げると、マクロの数字で考えて頂きたいのですが、日本の個人金融資産は現在約1,400兆円であると先ほど申し上げました。この数字は、いま世界の株式の時価総額の3分の1に当ります。つまり、理論的な仮説の話になりますが、あらゆる企業の株式の3分の1は押さえられるというくらいの資金規模なのです。したがって、海外にこれから活動を展開して広げようとしている企業ほど思いきったM&Aに出てきていて、M&Aの案件が今年に入ってどんどん増えている理由がよくわかります。
さらに、海外生産立地はここへきて、円高を梃子にASEAN等に生産拠点を求めて一生懸命動き始めている企業が日本の中にも多くなっているのですが、これは逆の意味でいうと、日本産業の空洞化を招きかねないのです。何故ならば、ものづくりの基盤が海外へとどんどん出ていってしまって、残された日本列島はどのような産業で飯を食っていくのかという問題が出てきます。そのような問題意識も含めて、日本における望ましい産業構造はどのようなものかということです。
こうした議論でほとんど欠けているのは、例えば日本に向かってきている海外からの資金を還流させて、やがて日本に潤いをもたらすであろう様々なプロジェクトをアジアにしっかりとつくっていくという国家の意志です。例えばまた、ロンドンの金融市場のもつ力は、中東のオイルマネーをロンドンの金融市場にバーンと引きつけて、そこで再投資の仕組みをつくって、私がよく申し上げる「ユニオンジャックの矢」のように、かつて大英帝国が支配していた中東地域のプロジェクトやインドのIT関係のプロジェクト、シンガポールのプロジェクト、オーストラリアの資源関係のプロジェクトに、その資金を還流させて回していくのです。そのような企業なり、プロジェクトが成功して、それがまたイギリスを潤していくというような流れをつくっていくということです。
 日本は「円高をどうする」とばかり言って、分かりやすく言うと自分のことばかりを考えていましたが、ようやく「産業構造ビジョン2010」というものが発表されました。この番組でも話題にしましたが、日本の産業政策の骨格が薄ぼんやりと見え始めています。しかし、日本自身の産業構造をどこにもっていくのか、アジアに対してどのように踏み込んでいくのか、あらゆる意味においての戦略意志が問われているのです。特に、韓国と比較して感じることは、ヒュンダイ、LG、サムスンはなんだかんだ言いながらも、韓国の産業政策や国家戦略とリンクしながら動いていて、企業の利益なり、プロジェクトなりをそのようなものと結びつけていく視点があるのです。日本はある意味においては成熟してしまったと言ってもよいのですが、各企業がそれぞれ国家意志とは別のところでプロジェクトを組んでいます。先ほど敢えて私が政府のお金を雪だるまの芯のようなファンドにし民間企業の資金をマッチングして…と申し上げた意味は、そこのプロセスの中で国家と企業が問題意識を共有していかなければ実行できないということです。したがって、そのような共有のプロセスをつくって日本国が持っているポテンシャルを集約し、海外に一定の戦略的な手を打っていくということを実行しなければなりません。「政府が行なったらよいではないか」という話し方をしていない理由はそこにあります。政府をコアにしながら、民間の力を合わせて行なっていくのです。
 昔はよく、「日本株式会社」だと言われてきました。しかし、私は現場に立ってきたのでよくわかるのですが、それは誤りで、各国は国家の意志とその国から生まれた企業の戦略的な意志をうまく統合しながら海外でプロジェクトを打っていくのです。例えば、世界銀行の案件等を追いかけている人たちの話を聞いていると、フランスはもの凄くて、海外プロジェクトを行なう際に、軍事援助さえパッケージにして攻め込んでいくというくらいなのです。日本にはそのような手は使えません。そうすると、ますます意志をしっかりともって、もたれ合いではなくてよい意味での官・民の連携が、これからの日本の将来を切り開いていく大きな鍵なのだと思います。