60回

月刊寺島実郎の世界 2010年9月25日OA分

~欧州を旅して―17世紀オランダと日本。今日に与えるインパクト~


木村>  先週は「2010年夏の総括―円高に対する戦略的対応」というテーマでお送りしましたが、たいへん触発される内容で、いまの日本の現状を考えさせられるお話を伺いました。
 今週前半は「寺島実郎が語る歴史観」をお送ります。テーマは「欧州を旅して―17世紀オランダと日本。今日に与えるインパクト」です。
 私は以前、長崎に勤務をしたことがあるので17世紀のオランダに非常に興味がかきたてられます。

寺島>  日本史上1600年にリーフデ号というオランダの船が大分に流れ着いたということがあったのです。その辺りがきっかけになってオランダとの関係が江戸幕府の時代を通じてもの凄くよくなりました。オランダだけが長崎の出島を通じて日本の貿易相手、別の言い方をすると西洋社会に開いている窓のようなものとなり、歴史的な関係が深い、ということは誰もが知っているはずです。
 私は今般、またオランダに行って踏み固めている問題意識があります。それは、17世紀はオランダにとって黄金の世紀と呼ばれましたが、それが世界史にどのようなインパクトを与え、日本近代史をどのように変えたのか、さらに我々自身が今おかれている状況にどのような影響を与えてきたのかという疑問です。このテーマについて、しっかりと体系的に考えていこうと思っています。このシリーズでも、何回かそれに関連したお話をしようと思います。
 私は、岩波書店が出版している月刊誌『世界』の中で『脳力のレッスン』を連載していますが、連載が100回を超えて、いよいよ来月10月に単行本の3巻目が出版されます。それは「問いかけとしての戦後日本と日米同盟」というテーマで十数回に渡って連載したものを体系的にパッケージしたものです。これからは、『脳力のレッスン〈4〉』に向けて、シリーズの一気通貫の問題意識が「17世紀のオランダのインパクト」というもので連載をしてみたいと思っています。本日は、その入口のような話だと思って聞いて頂きたいと思います。
 17世紀のオランダは、絵画好きな人にしてみると、レンブラント、フェルメール等が出たオランダでもあり、世界史的に見ると海洋大国としてのオランダでもありました。オランダにとっとも、最も輝いていた時代だったのです。その事実がどれほど日本史に連環があるのかという一つのきっかけの話だけをしておきたいと思います。
 以前、この番組でお話をさせて頂きましたが、ロシアにとって非常に大きな存在であったピョートル大帝という人がいて、1705年に日本語学校をサンクトペテルブルグに創ったという話をしました。大阪出身の漂流民の伝兵衛がサンクトペテルブルグまで連れて行かれて、「お前、日本語学校をつくれ」とピョートル大帝に言われて出来たのです。これはペリーの浦賀来航の150年も前の話で、ロシアが日本の存在や極東に目を向けたきっかけになったのです。
 ピョートル大帝は身長2メートルを超す大男だったらしく、不思議な話なのですが、1697年皇太子の時代に、自分がロシアの皇太子である身分を隠して、オランダのアムステルダムで船大工として修行をしていました。それは、つまり、それほどまでに関心があったということで、このことがピョートル大帝を変えたのです。彼は欧州歴訪をしたのですが、特にアムステルダムで船大工の修行をしたことによって、アムステルダムのような船で往来をする水の町をつくろうと考えて、ロシアのバルト海の出口にサンクトペテルブルグの建設に着手しました。それが1705年に日本語学校をつくれと言った前後なのです。その頃、日本人が漂流民としてやってきましたが、それ以前すでに彼の視界の中には、オランダでの修行時代に長崎の出島や東インド会社等を通じて、東洋に大きく張り出しているオランダという情報が入っていたに違いありません。
 そのような知見が広がっていたために、極端に言うと日本人が漂流民として連れて来られても彼はそれほど驚かなかったのです。そのことがロシアのアジア、つまり極東に対するロマノフ王朝の関心なり、野心なりの一つのきっかけになって、後の1860年にウスリー河の東側を中国から手に入れて、そこに人口的にウラジオストックという町の建設を始める大きなきっかけになりました。ウラジオストックはロシア語で、「東に攻めよ(東征)」という意味で、いかにも東アジアに対する野心をむき出しにしたような都市の名前で建設を始められたということです。150年前にサンクトペテルブルグの建設を始めたピョートル大帝の問題意識がじわじわとロシアを東へ東へと向かい、ついに極東に現れ出たロシアとなったのです。
ウラジオストックの建設に象徴されるようなロシアのアジア進出に対する緊張感、それが例えば1804年にレザノフが長崎にやってきたように、ペリーが浦賀に来航する半世紀も前にロシアが日本の扉を叩いたということなのです。日本においては開国を求める圧力、ある種の恐怖心が、例えば、「蝦夷地を守らければならない」ということになって、それが後に北海道開拓や蝦夷地開拓等の問題意識に繋がっていくということになります。
 私が盛んに言っていることですが、私の故郷である北海道に、極東ロシア、すなわちロマノフ王朝が張り出してくる野心と、北海道、当時の蝦夷地を防衛し開拓しなければならないという日本の問題意識とは、まるで双生児のようなものなのです。
つまり、世界史は繋がっているのだということです。これがもの凄く重要なことで、ただ単に17世紀のオランダがそこにあって、ピョートル大帝なる人物が気まぐれにオランダに行って船大工の修行をしていましたということで話がプツンと切れるのではなくて、それがサンクトペテルブルグ日本語学校、そこからさらに極東への野心、そして日本近代史へのノック、そこからその後のペリー浦賀来航へと繋がっています。
ペリーの浦賀来航については今度ゆっくりとお話をしますが、「17世紀オランダ」がいかに基点になっているのかということに我々は気づかざるを得ません。それは何かというと、一言でアメリカ合衆国とは何かというときに、意外と知られていない事実があります。ピルグリム・ファーザーズ(註.1)がメイフラワー号でボストンの近くの岬に辿り着いたということがアメリカの歴史の原点で、必ず語られる話なのです。ピルグリム・ファーザーズはピューリタン(清教徒)弾圧によってイギリスから新大陸を求めて直接行ったと思われがちなのですが、実はイギリスからオランダのデルフトというフェルメールの故郷の町の近くの教会で10年間も亡命生活を送っていました。つまり、ピルグリム・ファーザーズはオランダからアメリカに旅立ったということです。
ニューヨークはニューアムステルダムだったということはよく知られていますが、まず「17世紀のオランダ」が張り出していって、それがいつの間にかイギリスが力を持つにつれてニューヨークに変化して、東部13州の独立となり、そこからやがて西へ西へと動いたアメリカ合衆国の発展が西海岸に辿り着いた後、いよいよ太平洋が見えてきて、中国が見えてきて、捕鯨船の話等も含めて、要するにその関心がペリーを浦賀にやって来させるということになったのです。
したがって、この話も繋がっていて、オランダを真ん中にポーンと置いて考えているわけではありませんが、ロシア、ピョートル大帝からやって来る力学と、アメリカ新大陸からアメリカ合衆国に向かってくる力学が、やがて、東からも西からも日本へと向かって来るのです。そこで、日本史は世界史の中にどのような相関の中にあるのかという時のイマジネーションとして、この話がもの凄く重要で、ここをしっかりと立体的に描き切っていこうということが今度の私のモチベーションなのです。この話にまつわる話が続々とあります。そのお話をしていくことが、これからのこのシリーズの中で出てくる話だと思って頂きたいのです。

木村>  「東インド会社」という言葉を一つとってみても、我々に印象強く残っているのは、そのずっと後の、イギリスの東インド会社です。しかし、オランダは寺島さんがおっしゃるように、17世紀に入ったところで東インド会社をつくりました。そのような意味において、我々は歴史を忘れているけれども、オランダというところから世界をみる、日本をみるということが大事なのですね。

寺島>  歴史は立体感をもって見ることが大事なのです。つまり、西洋史と日本史の対比年表をつくって、年代を平面的に記憶する形でやっても歴史はいつまでたっても頭の中で広がりません。立体感をもって、そのダイナミズムの相関をイマジネーションの中に置けるのかどうかということが、歴史を深く理解することなのだという話です。このことをこのシリーズを積み上げることによって伝えていきたいと思います。

木村>  いま、ちょうど、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』で、長崎が龍馬の亀山社中の拠点として出てきています。そこでオランダに対して我々も関心をもっています。

寺島>  何にしても、まさにオランダなのです。
ちなみに、私はロンドンで大変なものを手に入れてきました。それは1858年(明治2年)にイギリスのタイムズがつくった「長崎出島の図」というものを、そのようなものを専門に売っている店でみつけて買ってきたのです。長崎の出島に繋がる話も非常に面白い話がたくさんあるので、ぜひじっくりとお伝えしたいと思います。

木村>  寺島さんが以前、お話になったと思いますが、ペリーの浦賀来航に幕府は慌てたと言われているけれども、そうではなくて実はオランダを通じてその情報を掴んでいましたね。

寺島>  ペリーが行くという通報は事前に受けていました。浦賀の奉行所の対応をみていてもわかりますが、もの凄くシステマティックで、「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌ができるくらい、慌てふためいたとなっていますが、それは事実ではありません。日本は日本なりの覚悟をもって迎えうっていたと思います。

木村>  寺島さんがおっしゃる、我々はイメージを「立体的」に、そして、「相関」をキーワードに、これからオランダを軸として語られる世界、歴史のいろいろなお話が益々出きて、その中に発見も沢山あるだろうと思いますので楽しみに待ちたいと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの皆さんからのメールを御紹介してお話を伺います。
 ラジオネーム「マージナルマン」さんからです。「ポッドキャストで拝聴させて頂いております。先日の、アジア太平洋フォーラムの講演内容に触発され……」。この講演は、アジア太平洋研究所推進協議会のリレー講座のことです。「この講演内容に触発され、先週シンガポールに行って参りました。52歳、サラリーマン営業職。時間がない、金がない。でも、一番世界を見ないといけないと思い、自費でかつ、有給休暇を使って1週間行ってきました。シンガポールがここまでパワーがあるとは……。若者ではなく、我々のように既に後半に差し掛かっている世代にこのような刺激は必要です。グレーターチャイナに飲みこまれないように、あとどれだけ日本に貢献できるか、再度、力が湧いてきました」というメールを頂きました。
 寺島さんが先日のリレー講座の中で「シンガポールは重要なところだ」とおっしゃったお話に触発されて、とうとう出かけてしまったのですね。

寺島>  素晴らしいことだと思います。要するに、グレーターチャイナ=大中華圏は、中国を本土の単体とだけ考えずに華僑圏との相関で考えるという視点が大切であると私は盛んに言っていますが、シンガポールが大中華圏の南端として中国の成長を東南アジア諸国連合に繋ぐ基点になっています。いまでは医療センタ-化をして、シンガポール自体が病院のようなもので、中国で金持ちになった人たちを吸収して検診を受けさせたり、入院をさせたりするというファンクション、つまり大中華圏の役割を果たしている話をしました。しかも、淡路島くらいの面積で、工業生産力もなく、人口もなく、資源の産出力もないような国が世界に冠たる経済国家になって、2008年の1人当たりGDPが購買力平価で49,000ドル、33,000ドルの日本より16,000ドルも多いという状況になっているというお話もしました。とにかく、シンガポールを見ることによって触発されるという話だったのです。
 ところで、私は「ユニオンジャックの矢」ということを盛んに言っています。かつての大英連邦の埋め絵と言いますか、中東のドバイ、UAE、インドのバンガロール、シンガポール、そして資源大国化するオーストラリアのシドニーをロンドンから繋ぐと一直線であるという意味です。ちなみに、私がPHP新書から出版した『世界を知る力』の中に、絵で描かれています。
 そのユニオンジャックの矢とグレーターチャイナの南端の接点がまさにシンガポールなのです。そのファンクションがスパークして、リンクをして、世界に冠たる付加価値を生み出す目に見えない財、ソフトウェアであったり、システムだったり、技術であったり、サービスだったりするものが集約しているという話を私は盛んにしてきています。メールを下さったこのリスナーの方のように、現場に飛んで体感してくれると、いかにシンガポールが元気な国かがわかると思います。例えば、いま話題になっているローコストキャリアのような安い航空サービスによってインドネシアやマレーシア等から人を引っ張ってきています。2つのカジノもオープンしましたが、これがまた凄まじい施設です。
 私が最近もっと驚いているのは、日本の老舗の料亭や銀座の名門の寿司屋等がシンガポールに進出していることです。そのようなことで、アジアのダイナミズムがプールされていると言いますか、大中華圏のエネルギーであり、ユニオンジャックの矢であるものがプールされてきているのです。シンガポールを体感することによって、アジアがどのように変わりつつあるのかということにピンと来るのです。しかも、定点観測のように見ていると、中東からやって来る人たちの動きや、オーストラリアからやって来る人たちの動き、世界の金融関係の人たちがシンガポールにやって来る動きがわかります。
 私は働き盛りの人が行っていることが凄くよいと思います。それは何故かというと、そのような人こそが、いま世界がどのように変わっていっているのかということを理解しなければならないからです。そのような面では、非常に嬉しいメールですね。

木村>  しかも、メールの最後に「力が湧いてきました」と書いてあって、本当に力強い言葉がありました。メール文の真ん中のほうには「ホテルでは1日1回、ダウンロードしたこの番組の講演内容を毎日繰り返し聴きながら、そして、帰りのシンガポールの空港では『世界を知る』最終章、加藤周一氏との対談の話を読みなおす」と書いてあります。

寺島>  これは、我々としても張り合いがありますね。

木村>  それを具体的な力にして下さっているライジオネーム「マージマルマン」さんに、心からの寺島さんからのエールを送りたいですね。

寺島>  まったくその通りです。

(註1、Pilgrim Fathers。イングランドは16世紀のヘンリー8世からエリザベス1世の時代に、ローマ教皇庁から独立したイングランド国教会をつくった。17世紀にかけて国教会の改革を行なおうとした清教徒たちは、弾圧を受けた。彼等は信仰の自由を求めて1620年にアメリカ東海岸に辿り着き、理想の社会を創ることを目指した)