2009年12月 アーカイブ

2009年12月27日

2010年1月のスケジュール

■2010/1/8(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

■2010/1/10(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2010/1/16(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/1/16(土)08:00~
讀賣テレビ系列「ウェークアップ!ぷらす」

□2010/1/17(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/1/22(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

□2010/1/23(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/1/24(日)06:00~(※地域によって異なる)
TBS系列「時事放談」

□2010/1/24(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/1/24(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2010/1/30(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2010/1/31(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

第40回

<『世界を知る力』>

木村>  今月15日に寺島さんがお書きになった『世界を知る力』がPHP研究所から出版されました。今回はこの本に触れてお話をお伺いしたいと思います。
 まず、この本を開くと「はじめに」というところで、「いま、あなたが百数十年前の日本にタイムスリップしたと想像してみて欲しい。場所は東北のとある山村地帯。あなたはそこで暮らす一人の若い女性に着目する。毎朝にわとりの鳴く前から起きだして、川に山に畑に休む間もなく働く女性。とんでもない労働量だなとあなたはきっと目をむくことだろう。けれど何カ月、何年と観察するうちに一つの疑問が脳裏に浮かんでくる。この人、この村から出たことがあるのだろうか?」と『世界を知る力』の書き出しに書いてあります。私は「東北のとある山村地帯の光景を思い浮かべて欲しい」という意表をつく書き出しに引き込まれて、これはどのような展開になるのだろうかと思いました。つまり、いま寺島さんがこのような書き出しで、『世界を知る力』を何故書かなければならないのだろうかという事なのです。

寺島>  私はいままで本をだいぶ出してきていますが、「難しい」とか「わかりにくい」とかと言う声もありました。この春から大学の学長という形で多摩大学に関わっていて、若い人たちと語る機会が増えていますが、自分がいままで見てきた世界やいま進行しつつある世界の事等を若い人たちに向かってしっかりと語りかけてみるとしたらどうだろうかと思いました。
いま、木村さんが読んでくださった部分ですが、一生のうちに一度も自分の村から出たことがなかったという人が大半だったというのが、いまから100年前どころか戦前の日本の東北の現実だったと思います。しかし、今、我々の行動圏が思いもかけない程のスピードで拡大してきていて、極端に言うと「アジア日帰り圏」と言って、羽田空港から1日8便ソウル便がでていますが、ソウル辺りは日帰りで行く事ができるようになりました。ただ、我々はいま世界中に旅行だ、ビジネスだと動くようになったにもかかわらず、本当に世界認識が深まっているのだろうかという時に、必ずしもそうではないのです。我々がいかに固定観念と言いますか、ある枠組みの中でしかものを考えない、見ないというところから突き破れないでいるのです。それをどのようにしたらよいのかという問題意識が私の心の中に非常に強くありました。
私自身もそうですが、戦後の日本を生きた日本人は、我々の先輩たちが体験した事がないようなテレビの登場やインターネットの登場等の情報化という時代を生きて、先輩たちよりも世界を見る見方が広がっていると思いがちですが、実はそうではなくて、却って極めて限られた固定観念の中でものを見るようになってしまいました。もっとズバリと言えば、戦後の日本人はアメリカを通じてしか世界を見ないという事で、この番組でも何回か話題にしてきました。
この本の冒頭の第1章が「時空を超える視界」というタイトルで、自分の固定観念を脱却していくためにはという事で話題にしていて、ロシアの話をしています。これはどういう事かと言うと、日本近代史は1853年のペリー浦賀来航から始まって、日本近代、開国、明治維新という時代が来るのだと思いがちなのですが、実はその思いこみ自体が極めてある意味においては戦後的なものであり、そのような事よりも150年も前からロシアの日本への接近があったのです。かつてこの番組でもお話した事があるように日本の国際社会への緊張感をもたせたのは、開国を迫ってくるロシアであり、ロマノフ王朝の極東に対する野心でした(註.1)。その野心に呼応する形で私の故郷である北海道の蝦夷地を守らなければならなかったわけで、世界史の中で日本がまるで世界から離れた島のように見えるけれども、後の北海道開拓等という事が極東ロシアと双生児のように見事にユーラシアの歴史と相関しながら生きてきたという事を視界に入れなければならないのです。
そして、中国との2000年以上に渡る歴史がいかに我々の体内時間のごとく体の中に埋め込まれるように日本人、日本文化の中に存在しているという事を理解してくると、自分たちがいかに戦後なる時代、アメリカの影響をあまりにも受けてしまったがために、アメリカを通じてしか世界を見ないという見方を身につけてしまっているかという事に気がつき始めると思います。私はその気づきのきっかけになるような本を出してみたいと思った事が理由の一つでもあります。
もう一つは、日本人は地政学的にものを見る事が凄く好きで、世界が力比べをしていた東西冷戦の時代を生きているために、ユーラシア大陸の地図の中の陣取り合戦のようなイメージによって世界を考えがちです。しかし、いま我々が世界を見る時に認識しなければならないのはネットワーク型の世界観で、例えば、中国を中華人民共和国とイコールで捉えてはならないという話をこの番組でも話してきましたが、「大中華圏」という中国を基点にして中華民族の香港、シンガポール、台湾等の人たちがネットワークによって相関し合いながら中国のダイナミズムのようなものをつくりだしている構図等を理解していく必要があるのです。このようなネットワーク視点によって世界が動いているという事に気がついてくると、例えば、大英帝国は憔悴しつつあるように見えるけれども、以前お話しした大英帝国が埋め込んだ「ユニオン・ジャックの矢」という話のように、ロンドンと中東のドバイと、IT大国化して一段と力を見せ始めているインドのバンガロールと、シンガポールとオーストラリアのシドニーが地図で書くとちょうど一直線上になっているという事がこの本でも描かれていますが、その相関が世界の動きの中においてどのような意味があるのかという事が見えてくると、世界の見方が変わってきます。更に、世に言うユダヤ・ネットワークが世界をどのように動かしているのだろうかという事が見えてくると、メルカトル図法の平面地図の中で世界の国々という形で配置されている国と国との関係だけではなくて、ネットワークによって関係をもちながら世界が動いているという事に気がついてきて、それだけでもものの見方や考え方が変わってくるのです。
そのような中で、私がここで若い人たちに刺激を与えて考えてもらいたいと思った事は、自分たちのものの見方や考え方を柔かくして、虫の目と鳥の目という言い方がありますが、虫が地べたを這うようにフィールドワークをして自分の足元にある問題を見つめて、鳥が大空から世界を見渡すように世界を大きく見渡して、鳥と虫の目を持ちながら世界認識を深めていくと日本がどのようなところに置かれているのかという事や、日本国で生きてきている一人の若者である自分がどのようなところにいるのかという事等が少しずつだけれども見えてくるということです。このような気づきがやはり大事なのだという事を私はこの本によって色々と語りたかったのです。
そして、それをできるだけ分かり易い話し言葉で、若い人たちにとって手に取りやすい新書本にしました。私にとっては少し実験的だったのですが、いままでの作品の中では少し毛色の変わった口述型、つまり、喋り言葉型の本として、『世界を知る力』というタイトルでまとめてみました。それが年末にかけて皆さんの近くの書店でも販売していると思います。若い社会人の人たちや、いま自分たちが生きている時代が何やらよく分からない人たちに手に取ってもらえると、書いた私としては非常にやりがいがあったと思います。

木村>  本の「はじめに」の終末の部分で、「私自身、約40年間にわたって世界を知る試みに次ぐ、試みの中で生きてきた。その中で実践してきたことを問わず語りに語り始めようと思う」とあります。まさに、いまお話しになった事が語られ始めるというところで、一つ一つは具体的に世界で起きた事や歴史上の事実等を取り上げながら、それらを寺島さんのお話を聴きながらそこにずっと引き込まれていくうちに、ものを見る見方であったり、ハウツーではなくて、ものの考えかたであるという事が問わず語りに伝わってきます。このように本ができているのですね。

寺島>  まさに、木村さんに言っていただいているのですが、私は1973年の石油危機の年に日本の商社の三井物産に入社したのですが、この会社が直面したイランの石油化学の大きな問題、いまでも戦後日本の最大の海外プロジェクトである石油化学コンビナートのプロジェクトがありました。1979年にイラン革命に襲われて、イラン・イラク戦争に襲われ、悲劇のプロジェクトとなった「IJPC」(註.2)の問題です。この問題をどのように解決していくかという時に、私は若い時代ですから末席で情報活動に参画し、世界中の中東問題の専門家、とりわけイランの専門家を訪ね歩いてイスラエルのテルアビブ大学のシロア研究所に行ったのですが、その時の話もこの本の中に書いています。分かり易く言うと、世界中をとぼとぼと動き回り、まさにフィールドワークで当って砕けろの精神で入手できる情報やネットワーク、人脈等にあたりながら手ごたえを感じた事、メモをとったり等してやってきた事を思い出しながらキチンとまとめたのです。
 これは体験的なアプローチでもあり、何か文献を読んで頭の中で頭でっかちに描いたものではなくて、私が足腰を使って感じとってきた事の本音の部分ですから、そのような意味においても面白いだろうと自分でも思います。何故ならば、戦後の日本の社会科学が世界を分析する手法は演繹法と帰納法という言い方がありますが、分かり易く言うと、一つの理論があって、その理論、例えば、マルクス主義という理論があって、その理論によって世界を説明してみせる方法論か、自分が日常的に体験したり現場をフィールドワークしたものの中から一般原則のようなものを見い出して、原則やルールを描き出そうとするアプローチ、二つに一つしかないアプローチによる社会科学の方法論に慣れ切ってきた部分があるわけです。

木村>  演繹と帰納は切断されていましたね。

寺島>  そのような意味において、勿論、両方のアプローチを大事にしながら、なおかつ、仮説法と言いますか、閃きによってひょっとしたらこの事とこの事は関係があるのかもしれないと思って、自分が動き回る事で段々気がついてくることがあります。例えば、私がイスラエルに何度となく行っていて、ある時にイスラエルのテルアビブからダイレクトにニューヨークに飛行機で飛んだ事があります。その時に、ニューヨークタイムズの記事とテルアビブのエルサレムポストの記事は殆ど同じだった事に気がつきました。つまり、全米600万人存在するユダヤ人の内の240万人がニューヨークに集中していると言われていて、ニューヨークは「ジュー(=ユダヤ人)ヨーク」と言われるくらいユダヤ系の人たちが多いのです。ニューヨークはいかにユダヤ系の人たちが文化的にも情報的にも大きな影響力を持っている地域なのかという事に気がつくと言いますか、そのように様々な事に対して相関が閃いた瞬間がいくつかあるわけです。その関係性というものに気づいていくと、段々、探偵小説の謎解きのごとく少しずつだけれども世界がわかってきます。おそらく、それでも私自身がもっている世界認識は極めてまだまだ断片的なものであり、だからこそ必死になって全体知と言いますか、全体をどのように捉えたらよいのかという事をまだまだもがき苦しまなければならないと思っています。しかし、これが一つのものの見方や考え方の方向性を若い人たちに提案できるのであれば、それはそれで意味のある事だと思います。

木村>  そこで、どんどん心がときめいてくるところなのですが、もう少し後半にお話を続けて伺いたいと思います。

<後半>

木村>  今回は寺島さんがお出しになったばかりの本『世界を知る力』に関わってお話を伺っていますが、これまで見えていた世界や身の周りの社会にもう一つの社会が見えてくると言いますか、違うものが見えてくるというような実感がありました。つまり、これまでもっていた、形づくられていたイメージや観念等が「はたしてそうなのだろうか?」という思いに揺さぶられる体験をこの本によってできるのです。

寺島>  私は今月の初めにアメリカ東海岸を動いてきたために、いま木村さんがおっしゃった話によって敢えて申し上げるのですが、いまの一番生々しい話題で、直近の日米の関係について言うと、私は日米同盟によって飯を食っている人たちが当り前だと思っていることを飛び越えなければならないと思います。日米関係等には極端に言うと何の関心もない人に、常識にかえって「いまの日米の同盟関係の軸になっている日米安保に基づく米軍基地がこのような状況になっていますが、あなたたちはどのように思いますか?」と客観的に偏見でも余談でもなく、事実を事実として示した時に、はたして世界的なインテリ、或いは、知識人、ジャーナリスト等と呼ばれる人たちがどのように思うのかという事を色々と語りかけて議論をしてみると、殆どの人はあらためてそのような事を質問するとびっくりするのです。アメリカ人でさえも、「えっ! そんな事になっていたのか」とびっくりするような状況があるのです。
具体的に言うと、戦後65年が経ち、冷戦が終わってから20年が経とうとしているのに、冷戦を前提とした仕組みであった日米安保をベースに、日本に4万人の米軍兵力が存在していて、その家族と軍属を入れると9万人になります。広さは1010㎢なので東京23区の1.6倍の米軍基地が現在も存在しているのです。しかも、米国が世界に展開している大規模海外基地の内の上位5つの基地の4つが日本にあります。それが、横須賀、嘉手納、三沢、横田です。全土基地方式という言い方があって、日米の政府代表による日米合同委員会がどこを基地として提供するのかを決める事になっているために、国会においての承認なしに、全国どこにでも基地が提供できるという状況になっているのです。横田、横須賀、座間、厚木等をはじめとする米軍基地が首都圏を取り巻く形で、いまだに存在しているという事実があります。
そして、駐留経費の7割を受け入れ国である日本側が負担しているのですが、本来の地位協定においてはそのようなっていなかったにもかかわらず、7割日本側が負担するという状況におかれています。しかも、在日米軍の地位協定上のステイタスは、「行政協定」(註.3)をそのまま引っ張っているために、日本側の主権が極めて希薄で歪んだ状態になっています。極端に言うと、不平等条約と言いますか、地位協定にもない日本側コスト負担がどんどん増大していくようなプロセスがありました。私も日米安保は当り前の事で今後も日米間の同盟関係が大事だと思っている立場の人間で、これを「いますぐ止めてしまえ」というような話のために言っているわけではないのです。しかし、いままでのこのような仕組みがいつまで続いても当り前だと思っている感覚から、(アメリカを通じてしか世界を見ないという事の一つの話題でもありますが、)我々自身が陥っているところから踏み出す勇気もなく、議論をする勇気もないのがこれまでの日本の姿です。日米同盟が崩れるという不安感によって、例えば、本来ただしていかなければならない筋道さえも議論の俎上に乗せないまま、我々は60数年間を過ごしてしまったわけなのです。我々の子供たちの時代に引き継いでいくという事に思いを寄せた時に、本当にこのままでよいのかという気持ち、つまり、アメリカとの本当の意味においてのこれからの長い友好関係を大事にする人間だからこそ、ただして筋道をしっかりと求めていかなければならないという事に気がつかなければなりません。
この事を何故今日の話題の中でお話ししているのかと言うと、つまり、固定観念から脱却していくために問題を解決していく時に視界を広げる事がどうしても必要だからです。私はその事が語りたいのです。

木村>  変わる世界という中で、我々がどのように世界を見ていくべきなのか、そこに非常に深い示唆を私もこの本によって得ただけに、是非、若い人たちにもこの本を手に取って紐解いてもらいたいと思います。

(註1、ロシアの使節団が初めて訪れたのは1792年のことで、漂流民の大黒屋光太夫の一行を日本に帰国させるためという事と、日本との通商を求めるためであった。この時、使節団の団長であるアダム・ラスクマンは親書を携えて来航したが、幕府老中の松平定信は受取を拒否。第二次遺日使節団は、その約束の履行を求める目的で1804年ニコライ・P・レザノフを団長としてロシア皇帝アレクサンドルⅠ世の親書を携えて来日している)
(註2、Iran-Japan Petrochemical Company。日本側の事業会社である「イラン化学開発」とイラン側の「イラン国営石油化学」が50%・50%の出資比率で創った合併事業)
(註3、行政協定は、「日米安全保障条約」に基づく具体案を示したもので、1952年に締結されて、1960年の「日米安保条約」改定に伴い、「日米地位協定」として正式な条約となった)

第41回

木村>  先週の放送ではPHP研究所から出版されたばかりの寺島さんの新刊『世界を知る力』をめぐって、世界に対して我々がどのように向き合うべきなのかという事を具体的な例を踏まえながらお話を伺いました。リスナーの多くの方々も世界の見方について随分刺激され、触発されたと思います。

        <寺島実郎が語る歴史観〜『坂の上の雲』>

 今回は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「坂の上の雲」という事でお送りします。現在、同じタイトルでNHKのドラマが放送されているところですが、司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』も書店には山のように積まれていて、関連の書物だらけです。
司馬さんの歴史観に対しては色々な意見がありますが、さて、寺島さんはいったい『坂の上の雲』にどのような眼差しをもっていらっしゃるのかという事に、まず、第一の興味と関心があります。

寺島>  私は以前、PHP研究所の新書で『われら戦後世代の坂の上の雲』という本まで出しています。国家の目的と自分が所属している組織、秋山真之にとっては海軍だったのですが、更に、個人の人生の目標が連なっているように何の矛盾もなく連なっていた明治という時代の思いと、いま我々が生きている時代において個人が個人に向き合って国家のテーマや自分のテーマに帰属している組織のテーマ等さえもずれ始めている時代の目的意識のとりかたの難しさを悩みながら考えた事があります。
 いずれにしても我々は明治という時代をもう一度キチンと認識し直す事が凄く重要です。NHKは3年にわたって年5回ずつドラマをつくっていくそうなのですが、本木雅弘さんが秋山真之で阿部寛が真之の兄役の好古を演じています。私は大変に興味深くこのドラマがどうなっていくのか注目しながら観ていきたいと思っています。
 私の秋山真之に対する関心は必ずしも司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』の影響ではありません。島田謹二の著書に『アメリカにおける秋山真之』という有名な名著があって、それによって私は秋山真之という存在に非常に関心をもっていたのです。例えば、秋山真之は日露戦争の日本海海戦の天才参謀と呼ばれて、あの時に「天気晴朗なれども波高し」という電信を日本の艦隊全部に発信しました。軍人が書いた文章として、「本日天気晴朗なれども波高し。皇国の荒廃はこの一戦にあり、各員憤励努力せよ」という文章が浮かんだという事に私は非常に驚きました。つまり、軍人が指令を出す文章としてあまりにも美しい文章なのです。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の衝撃は何なのかというと、秋山という軍人になった人が少年だった四国松山の時代から、正岡子規と大変な親交を深めていたという事実があったということです。更に、正岡子規と一緒になって大学予備門から東京に上京してきて、生活をして正岡子規の影響を受け、文章や文化的教養等に対して物凄い人が軍人として生きた時代なのだという事も衝撃を受けました。お兄さんの好古の存在、こちらは陸軍のロシアのコザックと戦った日本の軍を率いた責任者だったのです。

木村>  フランスでその当時ではもしかしたら傍流かもしれないというところへ行って騎兵について学んだのですね。

寺島>  司馬遼太郎さんの長い、長い『坂の上の雲』の小説のラストシーンとして、好古が死ぬ瞬間が描かれているのですが、それに私は本当にしびれました。彼は死ぬ間際、歳をとって四国に帰って先生をやっていた好古が死ぬ間際に「奉天へ」と叫んで死んでいったのです。この「奉天へ」の意味は何かと言うと、好古がロシアのコザックと戦い合った中国の地名の「奉天」なのです。自分の若い時代の事が一時も頭から離れなかったのだという事なのです。つまり、それくらいの思いを込めて日本国の運命を背負っていたのだという事で、一番心に沁みるシーンの一つとして死ぬ瞬間に「奉天へ」と叫んで死んでいった男がいたという衝撃があったのです。これには私はとても驚きました。
 そして、真之についてですが、私は変な縁があって引きずっているのですが、ワシントンにいた頃に秋山真之について調べていたことがあります。秋山真之は、ワシントンに駐在武官としていたのです。その時に、マハン大佐というアメリカの海軍戦略論においては名だたる人がいて、1892年に「海上権力史論」という日本でも訳された本を出した有名な海軍戦略の大家といわれている人を秋山真之はわざわざニューヨークまで訪ねて行ったりしていて、とにかく必死になってアメリカの東海岸において勉強していた秋山真之を私自身が興味をもって追いかけていたのです。それは何故かというと、私は商社の人間として情報の仕事をしていた立場だったのですが、彼は海外戦略の情報というところで生きてきた人で、彼が明治の時代を生きた生きざまは全く時代は違うけれども、組織における情報の責任を担わされてワシントンに配置されていた私の心に共鳴するところがあってとても興味をもっていたわけです。
私が勤務していた三井物産のワシントンのオフィスはホワイトハウスの斜め前にありました。「1701ペンシルヴァニア・アベニュー」といって、ワシントンで名刺を出すと「1600ペンシルヴァニア・アベニュー」がホワイトハウスで誰もが知っている事なので、「えっ? あなたはホワイトハウスの隣にオフィスを持っているのですか?」と驚いた反応がワシントニアンほど返ってくるような場所に私は毎日いたのです。私のオフィスのビルの斜め前に「オールド・エグゼクティブ・ビルディング」という重厚なビルがホワイトハウスの横にあって、これは昔、海軍省だったのです。その海軍省のビルの3階に海軍文庫というものがあったのだそうです。そして、秋山真之が古今東西の海軍戦略、戦術に関する本を毎日のように通いつめて勉強していた場所がその海軍文庫だったのです。
私が夜、残業で遅くなってクルッと椅子をひっくり返してライトアップされている「オールド・エグゼクティブ・ビルディング」を眺めながら、あの3階のあのコーナーに海軍文庫があって、あそこに秋山真之が100年前に通いつめていたのだなあという思いがいつもあったのです。
秋山真之が言い残している驚くべき言葉があって、現代人からすると非常に違和感のある言葉に聞こえるかもしれませんが、秋山真之は、「自分が1日怠ければ日本が1日遅れる」と言っているのです。もし、私がいま同じ言葉を言ったのであれば、「この人は誇大妄想ではないのか?」と思われるくらいみんなが驚くと思います。
その後、秋山真之は翌年の1898年に米西戦争、つまり、アメリカとスペインとの戦争が起こった際、キューバに対するアメリカの攻撃を観戦武官としてアメリカの戦艦に乗ってずっと目撃していました。この事が日本海海戦において彼のバルチック艦隊を迎え撃つ閃きとして物凄く意味があったのです。しかも、その後、勝利を収めたアメリカが今後、カリブ海を支配していくぞと言わんばかりに展開をして各地を訪れました。秋山真之は、その船に同乗して半年間一緒に生活をしています。例えば、最初にベネズエラを訪れた日本人は誰かを調べてみると秋山真之なのです。つまり、秋山真之の体験はどのような事かというと、物凄い集中力によって古今東西の海外戦略論を読み込んだ文献研究とフィールドワークのように現場を自分の目で見て体験した報告書を頭に叩き込んだ事が日本の運命を変えたと言ってもよいくらいの大きな意味をもってしまったという事です。
したがって、一人の人間が歴史に果たす役割は限られているけれども、明治という時代の「坂の上の雲」という事を何故、司馬遼太郎さんが書かねばならないと思ったかという話なのですが、まさに、「自分が1日怠ければ日本が1日遅れる」という思いを込めて、研鑽に励み文献を読んだ人物を描く必要があったからだと思います。ここで笑える話が1つあるのですが、当時、日本大使館の駐在武官で現在の大使にあたる公使がいて、有名な星亨でした。彼は物凄い文献を集めたり、書物を買う事が好きな人で自分のライブラリーをつくっていたらしいのです。しかし、秋山真之が黙って本を持っていって読んでしまうために、係の人が「黙って本を持ち出さないでくれ」と注意をしたのです。そして、彼は「星公使が忙しすぎて、とても本をお読みになれないだろうから代わりに読んであげているのです」と言ったらしいのです。つまり、それくらいのある種のずうずうしさも含めて、彼が読み込んだ文献と体験が日本を変えたという事です。私はそのような時代だったという事が明治時代を理解する上にとっては非常に意味があると思います。それを我々にまたひきつけて考えた時に、どのように見えるのかという事が私の思いなのです。

木村>  先週、寺島さんにお話を伺った『世界を知る力』の本の中においても、この事が触れられていますが、つまり、「知」というものと、それに立ち向かう時の覚悟と志というものに非常に深く関わる秋山真之のエピソードもあれば、彼がドラマの中、或いは小説の中では「どのようにすれば喧嘩に勝てるのか考えているのだ」という「考える」部分においての深い思考について寺島さんのお話から随分触発されるところがあります。
 後半では、もう少し司馬遼太郎さんの歴史観に触れてお話を伺いたいと思います。

<後半>

木村>  あらためて、いま、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』がこのように社会に注目されているという事について寺島さんはどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。

寺島>  司馬さんの歴史観は、明治時代の日本はある意味においては成功モデルだったのですが、昭和という時代に入って歪み、増長し、転がり落ちるようにして無謀な戦争に駆り立てられて、日本を敗戦という形で一旦は破滅させてしまったという事に対する深い、深い反省という思いがその底辺にありました。極端に明治という時代や幕末維新時代等に光を当てて、結局、「昭和史は失敗の歴史」であり、「明治史は成功の歴史」であったという事で司馬史観というものには少し歪みがあると批判をする人がいるくらいなのですが、それでも戦後の日本人の教育を思い出していただくと我々が日本近代史を理解した理由は極端に言うと、司馬さんの本によって触発されて目を開いていったという部分もあるという事です。
それは何故かと言うと、戦後の日本において、社会科の教育、特に歴史教育は縄文や弥生時代から始まって、大概は江戸時代くらいで息切れをして、先生は近代史をほとんど語らなかったからです。更に言うと、時間がないからという理由だけではなくて、語れなかったのです。近代史の評価があまりにも難しすぎたからとも言えます。
日本近代史は二重構造になっていて自分自身が西欧列強の圧力の中で追い詰められて、植民地にされてしまうかもしれないという不安感の中で開国、明治維新を迎えました。今度は殖産興業だ、富国強兵だという形によって力をつけてくると、自分自身が新手の植民地帝国へと変わっていき、アジアに対して、親しむアジアの親亜から、侵すアジアの侵亜へと反転していくという二重構造を持っているのです。したがって、日本近代の評価は物凄く難しいという事になるわけです。
そのような中で、彗星のごとく東洋の小国を上昇させた明治の人たちがどのような日本をつくりたかったのか、また、どのような思いで国づくりに関わっていたのかという事をできるだけ目を開いて知るという事は凄く意味があります。
私は秋山真之を調べていて、凄く面白い彼の言葉に出くわしました。彼はワシントンに駐在の後、日露戦争を戦う旗艦となった船のほとんどはイギリスが建造していて、その建造した戦艦を引き取る、或いは、それをチェックするためにイギリスに半年間くらい駐在していました。その時に、パリにも行っていて、1900年5月12日に彼はエッフェル塔に上っています。その後に、軍人たちがエッフェル塔にまず度肝を抜かれて、海外に来て日本の貧しさを語りました。欧州の国々に比べて日本はいかに資源がなくて、大工業国になるといっても大変であろうと。しかも、日清戦争には勝ったけれどもロシアとの戦い等が目の前に迫っているという状況下において、軍人たちがいまおかれている状況で、はたして戦争ができるのだろうか? というくらいの話だったのです。その時に、秋山真之が語っている言葉があって、それは島田謹二さんの秋山真之研究の中で書き残している言葉にも出てきますが、日本のインテリのあり方に通じて、「わしたち日本人のインテリは、どいつもこいつもみんな狭い意味の小専門家なのだ。海軍の仕事をしている奴は海軍だけで他の事は顧みない。海軍以外の事は何も知らない。日本人の持つ特徴はつき合っていれば西洋人にはすぐわかるのだ」と言っています。これは何かと言うと、先日から議論している「全体知」の事なのです。先程、秋山が「天気晴朗なれども波高し」という文章を書いたと申し上げましたが、天才参謀と呼ばれた軍人としての能力が優れていたというだけではなくて、人間としての全体観と言いますか、そのような人が日本の運命を担って、その瞬間に立ったというわけです。したがって、私は明治を支えた人たちの教養の深さに驚嘆しますし、正岡子規のような友人と心から共鳴し合える軍人がいたという事実のほうが日本の力という事を語る上において非常に重要なのだと思います。私は彼がエッフェル塔に上ってこのような言葉を言い残している事は凄い事なのだと思っています。

木村>  物事を本当に深く突き詰めるという事は、日本の言葉では「突き詰める」と言うと何か狭くなっていくようなイメージをしてしまいがちですが、実は、突き詰めるとそこには広い世界が広がるという意味になると思います。そのような意味において寺島さんのおっしゃる「全体知」に、随分考えさせられながらお話を伺いました。