2009年08月 アーカイブ

2009年08月02日

2009年8月のスケジュール

□2009/8/1(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様①
 
□2009/8/2(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」
*7/22日総研フォーラムの模様①

■2009/8/7(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

□2009/8/8(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 *7/22日総研フォーラムの模様②

□2009/8/9(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」
 *7/22日総研フォーラムの模様②

■2009/8/9(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2009/8/15(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 *7/22日総研フォーラムの模様③

■2009/8/15(土)08:00~
讀賣テレビ系列「ウェークアップ!ぷらす」
 
□2009/8/16(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」
 *7/22日総研フォーラムの模様③

□2009/8/22(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
□2009/8/23(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2009/8/23(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」
 
□2009/8/29(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2009/8/30(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

第29回目

寺島>  今日は日総研フォーラムの第8回目で、みなさんは大変興味をもって参加していただいたと思いますが、東大の御厨貴先生と同じく東大の伊東乾さんという興味深いパネリストをお迎えして、いま我々が生きている時代をそれぞれのお立場でどのようにお考えになっているのかという事をお伺いします。
 御厨先生は基本的には日本近代史、明治国家の形成等を深く掘り下げて大変に意味のある本を出版されていて、かねてより私が尊敬している先生です。とりわけ御厨先生が一生懸命に取り組んでおられるのは「オーラル・ヒストリー」で、例えば、戦後の日本を支えた政治家等に御厨先生が直接問いただし、しっかりと残していくという作業をされています。このような中で、まず、御厨先生と伊東先生に、いま我々が生きている時代について、どのような時代認識をもって見ておられるのかという事で冒頭のお話をして頂きたいと思います。
 とりわけ現在の政治状況、日本のおかれている位置等について、御厨先生の視点からまず冒頭の御発言をお聞きしたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
 
<一党優位から政権交代へ>
 
御厨>  ただいまご紹介に預かりました御厨です。いまは21世紀初頭であらゆる局面において激動の時代です。政治の世界を見ていても随分変わってしまったと実感しています。何が変わってしまったのかと言うと、小泉さんの後をとってみても安倍さんが登場して、その安倍さんも私は途中までは結構まともにいっていたと思いますが、参議院の選挙によって敗北をして、ねじれ状態になった後、自民党がそれまで内部崩壊して来ていたある部分が非常に強く出て、その後、福田さんになっても、麻生さんになってもそれは戻らない状態になってしまったのです。
 そして、直近の話題になりますが、麻生さんが「解散の告知をした」という事がありました。これは聞いた事がない言葉で、多くのメディアはそれを解散と同義語に捉えて報道をしました。しかし、私は「告知」というものが非常に気になって、それを随分、問うたのでありますが、これは「知恵」だというところに行き着きました。解散をその場でやらずに解散の告知をして、解散のように紛らわしくして結局は解散と同じ効果をもたらしたのです。これは麻生さんにも知恵者がいたかもしれませんが、一世一代の決断であったと思います。「解散告知」というのは日本政治史上初めてで麻生さんが唯一と言われています。本来、麻生政権は解散選挙を予定されて成立したのですが、リーマンショック等があり、10カ月経ったところで実行されたという事です。解散をするという事でこれだけ騒ぐというのは一体何であろうかと思います。それ以外に日本が解決しなければならない問題が沢山あるにもかかわらず、この1年間、我々は「解散」、「総選挙」、「政権交代」という三つの文字に振り回されて来てしまったわけです。政権交代と言うと当り前のような話になっていますが、そこになかなか辿りつかないので、様々な事が空転している状況にもなっているのです。もし、この状況が20、30年前に起こっていたら担当者である総理大臣がたちどころに「辞めろ」と言われたと思います。しかし、麻生さんに対して面と向かって辞めろと言う人がいません。更に、日本は世界で起こっている事に何の解決もつけられないまま今の状況をほったらかしにしているというのは一体何なのかという疑問に私は随分考えさせられました。
 これは、「統治」という事があります。統治する責任、その責任を果たすための決断。つまり、「決断」と「責任」というものをある時期から私たちの政治は何処かに置き忘れて来てしまったのです。そして、このような時に話題に出るのは中曽根さんです。中曽根さんは唯一、決断と責任をかなり重んじてやってきた人なので彼に聞いてみても、「解散というものは大変な事なのだよ」とよく言います。更に、「それは決してテレビの前でする、しないという取引材料にするものではなくて、解散権の重みを本当にわかっているのかどうかは総理大臣によるのだ」とも言いました。彼は「死んだふり解散」をやった人なので当然、色々と考えた挙句の発言だったと思いますが、彼の言うところのそのような統治の責任者が責任をもって決断する事に解散も入っています。しかし、私は麻生さんがそのような意味での責任と決断をしたとは思えませんでした。解散の告知をした時の彼の様子は「してやったり」というものでした。しかも、解散というものは野党に向かって解散すると言う、野党に対する一つの挑戦であるにもかかわらず、麻生さんは与党内、つまり、自民党の中の反麻生勢力に対して「してやったり」というものなので、話が非常に矮小化しているという事になります。
 我々にとって一番印象深いのは中曽根政治が終わった後に吹いてきた風で、それは竹下政権の下で起こった「リクルート疑惑」(1988年)です。更には、その後には「湾岸戦争」(1991年1月)が起きました。その少し前には「天安門事件」(1989年6月)が起き、東西冷戦が終結、つまり、「ベルリンの壁の崩壊」(1989年11月)がありました。この一連の事実の中でおそらく日本の政治も大きな変化を迫られていたのです。しかし、自民党による政治がある意味、あまりにもうまく行き過ぎたという事があって、日本は変わらなかったのだと思います。
1980年代、まだ私が若い頃で助教授時代に政治を勉強していた時に「政権交代がない事がよい政治である」という事が当時のみんなの意見で、非常に効率的で政治家と官僚が一体となった政治体制、つまり、「一党優位制」(註.1)という言葉の下で呼ばれていて、政権交代がない事が当り前、日本の奇跡と言われていたのです。考えてみれば、その事に対して我々も疑問は感じていなかったわけで、世の中は冷戦中で、日本は第二次世界大戦後アメリカ、イギリスをはじめとする連合国側=自由主義陣営に属していたので、ソ連を中心とする共産主義陣営にくっつこうとしていると思われる社会党よりは、アメリカと一緒にやって行こうという自民党の方がよいという意見が大勢を占めていたのです。自民党の中で適時適切に政権交代が行なわれるのならばそれが一番よいという話なのですが、今日と同じで、岸、池田、佐藤という3つの政権の後は実に「三角大福」(註.2)と呼ばれる後継者たちは平均して約2年くらいしか政権を担当していませんでした。そして、1990年代の総理大臣たちは、小泉さんが5年5カ月やっていたので長いのですが、平均して1年3カ月くらいです。驚くほど総理大臣の長さは短いのです。したがって、サミットに行くと毎年「はじめまして」という事になるのです。「はじめまして」と言われているのはイタリアと日本の総理大臣だと言われていますが、このような国を基本的には、よその国は信用しないと思います。何故かと言うと、「この総理大臣と約束してもどうせ来年は違う顔だ」とみんなが思ってしまうからです。そうるすと、最近のサミットにもみられるように、グローバリゼーションの中では、その人たちが責任をもってある地位にいて約束をしてくれる事、それを果たしてくれる事が大事なのですが、日本はおそらくそのような事に値しない国であると段々思われて来ている状況になって来ていると言えます。
 しかし、先程申し上げたように、1970年代~1980年代の時はそのような事は誰も思わなかったのですから価値観が凄く変わったのです。あの頃は総理大臣の顔なんてどうでもよくて、それは官僚がうまくやるのでむしろ総理大臣はコロコロ変わったほうがよいというわけだったのです。つまり、派閥が沢山あったので派閥の一つの領袖が長くやっていると不満が出るので順次交代していき、その交代にも原則があって、右に振れた次は左、金権に行った次はクリーンというように変わるので、政権交代を現実に行なうと凄くコストがかかるけれども、このような方法であれば非常にコストが安いので、こんなによい政治システムはないという事を言って来たわけです。
 私がいま反省している事は何故あの時に一党優位で頭がクルクルと変わる政権がよいと思ったのかという事です。つまり、ある時代に常識のように思われていた事が次の時代では全く常識ではなくなるという事が戦後の1970年代から既にここ30、40年の中でも起こっているという事をみなさんに少し認識して頂きたいのです。
このように我々が生きている間だけでも常識が凄く変わって来ている時代なのです。何を言いたいのかと言うと、そのような中で我々は政権交代があるという事をある時期に知ってしまいました。それが細川政権の誕生でした。あの時、自民党が与党の地位を失った事によって、自民党の内部崩壊がはじまったと言えます。あの時期、つまり政権が変わるという事がまだなくて一党優位が続いている間、絶対に高級官僚の諸子はオーラル・ヒストリーには応じてくれませんでした。いまの財務省、大蔵省等は特にそうでした。そして、彼らは平然と「僕らは匿名の人間で黒子である」と言い放ちました。高度成長が何故実現したのかという事に対しても、「黒子としてやって来たから私ではなくてBさんがやろうとCさんがやろうと同じ事であり、それをいちいち名前を出して何かを言うのはおかしな事である。君がやっている事は凄く変だ」と言われました。私が「世界ではみなさんやっていますよ」と言うと「世界はそうかもしれないが、日本はそれを言わないのが謙譲の美徳というものだ」と言うのです。要するに彼らは屁理屈が得意で、絶対に応じてくれなかったのですが、そんな彼らがガラッと変わるのがあの時期からです。そういう面においても細川政権がもたらした意味というものは大きいのです。つまり、「もしかすると自民党による保証がなくなる時が来るのかもしれない」という事が、官僚たちに大きな影響を与えたのです。と言う事は、彼らが謙譲の美徳だと言って話さないでいると、自分たちは、もしかすると損をするかもしれないと思ったのです。もしそうなのであれば、なにがしか話しておいたほうがよいというわけです。このように、変わるのです。これは大蔵省が変わっただけではなく、それ以外の人たちも変わりました。そして、オーラル・ヒストリーが政策の評価も含めてやれるようになりました。どんどん役所の文書が公開される体制に入って来て、政策の決定プロセスをすべて開けろとは言いませんが、多くのものについて我々の知る権利に応じて開けてくれるという事があの時以来可能になったのです。これは政権交代があった事のよい面です。ただ、政治の面で悪くなったのは何かと言うと、一党優位で頑張って来た自民党という政党があの時以降、ただ一つの約束の下に集結をする事になった事です。つまり、これはテーゼです。どのようなテーゼかと言うと、絶対に野党にならないとい事です。逆に言うと、常に与党であり続けるという事です。「いやいや、御厨さん、それまでも与党だったのではないのですか?」とおっしゃるかもしれませんが、そうではないのです。それまで与党であったのは自明の事でした。つまり、努力しなくても横綱相撲を取っていられたのです。しかし、一旦滑り落ちた後はこれはいかんという事で常に与党であるというテーゼによって自民党は一致する事になったのです。したがって、それ以降、場当たり的に色々な事を言うようになりました。例えば、経済政策でも出たり引っ込んだりになり、税金問題やそれ以外の金融問題等でも財政出動をすると言ったり、そうではなかったりという事が政権が変わるごとにどんどん変わって行ったのは何故かと言うと、その場その場で大衆迎合をしたからです。その結果、自民党は確かに政権を離れないで済みましたが、自分たちの足腰は弱くなっているから徐々にそこに呼び込みを始めるのです。まず最初は社会党です。社会党の委員長を総理大臣にまでして、まず社会党に抱きつきました。抱きつかれた社会党はもがいているうちに全部政策転換を迫られて、現在ではほとんどないようになってしまったのです。次に自民党が抱きついたのは公明党で10年やってきました。この10年の間で確かに公明党も変わりましたが、自民党と公明党の関係を考えるとかなり難しい段階に来ている事も事実です。
 
寺島>  ありがとうございました。
 
(註1、イタリアの政治家、J・サルトーリが提唱した概念で、主要政党の一つが競争的選挙に際し、有権者の多数に支持され続ける事で政権を維持し続ける政党制)
(註2、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)

<後半>
寺島>  伊東さんは大変若くて1965年生まれで、東大の理学部の物理学科を卒業し、大学院も出ていますが、大変に広い範囲で活動をされています。一番驚く事は音楽家でもあって音楽家である伊東さんが活躍している世界と社会科学的な世界、特に時代や社会に踏み込んだ活動をされていて、クロスボーダー型人間と言いますか、自分で境界を持たずに色々なところに踏み込んで活動しています。それは国境という意味のボーダーも含めて1年の内の半分くらいベルリンで仕事をしている人です。そのような意味で自分がいま動き回っている枠組みの中から「いま世界をどう見ているのか」という漠然としたテーマでお話しをして頂きたいと思います。
 
伊東>  伊東です。大きなお題を頂戴したのですが、私が世界を見る目と言っても私の観点からでしか見る事が出来ません。音楽家でもあるとご紹介を頂きましたが音楽を生業にしております。大学に呼ばれる前には「題名のない音楽会」というテレビ番組の監督等、音楽以外の仕事はしないで生活をしていましたが、1999年に大学に呼ばれた理由は、IT革命、喧しい時期で東大にも何かをつくろうという時に「IT部署ではダメだ」という事で、官庁との関係で、「東大はアートを含めた文理融合組織」を作るんだと言って、私とコンピューターグラフィックスの人を呼んだわけです。私の家は2代、3代前から芸術とテクノロジー双方に関わっていたので、明治以来の近代の日本の洋学の需要や文物(文化の産物)の需要等を色々と考えて、せっかく建学以来、最初の芸術実技の教官という事にして頂いたので少し意識をもって調べ物をしてみたのです。
 私は特に、ここでは明治国家をつくるという仕事を学ばせて頂いて1880年代の日本、つまり、この時期に憲法や議会等をつくって、いまの日本の国の形がつくられたという事で、この時期に色々な原点があるように思うのです。その中で東京美術学校、或いは、東京音楽学校、つまりいまの東京藝術大学ですが、芸大をつくった原点がどこにあるのかという事を2002、2003年くらいに科研費(文部科学省・科学研究費)の研究を芸大と一緒にやりました。そして、非常に驚いた発見があったのでそのお話しをしたいと思います。
 1883年に文部省が「図画調べ係」というものをつくりました。それが芸大の原点です。当時は西南戦争の直後で国庫逼迫であり、日本が失敗国家になりかけていた時期です。
鳥羽伏見の戦いと同じように刃を交えたのでは西郷軍に勝てるかどうかわからないという事もあったのだと思いますが、いずれにしても戦費が嵩んだため日本が経済的に潰れかかっていた時代です。その明治10年代後半、1883年に京都や奈良にある色々な日本画や漆工芸品や、それらを創る匠の技等々を徹底して調べるという事を文部省が行ないました。
それを指導したのが当時、お雇い外国人教師として東京大学に理財学(法学部経済学科に相当する学問)の講義をしていた29歳の若い青年でした。
彼は美術が好きで自分でも絵を描いたりしていましたが、「日本の美術は素晴らしい」と言っていました。そこには1800年代中頃から末期までに行なわれた「パリ万博」で浮世絵が評価されて起こった「ジャポニズム」の影響があったと言えます。
それと共に非常に重要だった事は、エジソン電球にフィラメントとして京都の八幡の竹がよいという話になった事等もあって、日本の文物はうまく利用すれば海外で商売になると考えられたのだと思います。
つまり、その当時の日本政府は外貨準備高に非常に不足していたのです。金、地金、銀等がどんどん流れ出てしまい、どうにもならなくなっていた当時の明治国家にとって日本の伝統美術というものが国を救う力になるかもしれないと考えた人がいたようです。どなただったのかはよくわかりません。
さて、お雇い外国人の29歳の青年=アーネスト・フェノロサという人物ですが、そのフェノロサがその調査を開始しました。調査のために若い青年にアシスタントを頼みました。それが岡倉天心という人物です。そして、日本画という技術を伝承している人と一緒に考えなければならないので、もう一人有望な日本画家をアシスタントに選びました。それが狩野芳崖という人物です。この二人と一緒に1883年にこの事業をはじめて、1884年が松方デフレ(註.1)です。要するに、そのような滅茶苦茶な時代に芸術大学をつくる原点をつくって、1885年に現在の東京芸藝術大学の原点である、東京美術学校をつくりました。
このような経緯を私が伺ったのは、実は私が芸大と科研費共同研究の東大の最初の教員だったので、元来、私の友人である建築家の六角鬼丈という人で、彼は現在の芸大の美術部長で、彼のお爺さんが六角紫水、横山大観と同級生の美術学校一期生で漆の最初の教授だった人です。そして、現在、漆の教授をされているのは増村紀一郎さんです。増村さんは代々、輪島塗の家ですが、昨年、人間国宝に認定されました。増村さんとお話しをしていると、ほとんどケミストリー=chemistryです。これは酸化重合だとか、これは加水重合だとかいう話で、例えば、正倉院の御物の中には、プラスチック樹脂のように見える書箱がありますが、これは牛の革に漆を塗ったものです。増村さんの大学人としてのお仕事はこのような方法を全部ゼロから解明し直して、再現をするという素晴らしいものです。このような方向性を徹底して指導していらっしゃるのが、学長としても日本画家としても、そして被爆者でもある平山郁夫さんです。私も芸術の教授として大学に入っていますが、「作曲、指揮、情報史学研究室」というものが、私の研究室の名前です。芸術家としても個人としても仕事をしていますが、せっかく大学に籍を得たので、言ってみれば、半分は歴史研究です。しかし、歴史とともに歴史の中にあったイノベーションであり、これは国をたてて行くという事でもあり、国際的な関係の中でそれをどのように価値を見い出して行くのかという事が非常に重要な事なのかと思ったわけです。
世界をいま見る目という事で、例えば、明治10年代の転換を考えてみるのは面白い事だと思います。それは、例えば、東京に東京大学や帝国大学をつくる時にも明治維新の初年に、それまであった幕府の官学という枠組みを最終的には使うのですが10年をかけて入れ替えをしています。国学派、儒学派等、すべて締め出し、10年かけて伝統的な封建教学を排除していきました。つまり、その辺りで一つの価値の転換、価値観の転換が起こったのだと思います。そこに同時に洋学というものが入って、洋学或いはサイエンス・テクノロジーの先端に直接役に立つ日本の象徴としてフィラメントの存在が非常に大きかったのです。これは人間国宝で漆の増村先生から伺ってなるほどと思ったのは、「石油化学工業が発達する以前、石炭の分留は物凄く割が悪くて、日本の漆は驚くほどエレクトリシティー=電気工学の初期に役に立っていたのだ」という事で、彼はプライドと自負と責任感をもって私に教えてくれました。
 例えば、蓄音機の傘、初期の非常に軽い電化する以前のネジ巻き型も含めて、漆がどれだけ沢山使われているのかという事です。
漆器の事を「JAPAN」と呼ぶ理由は、漆器というものが単に奇麗な工芸品としてだけではなく、漆の工芸、或いは漆のテクノロジー全体が日本のブランドになっていた事を象徴していると言えるのではないでしょうか。
私は価値をいかに見立てて行くのかという事が非常に重要だと思っています。つまり、メディアは価値観を共有できるものにするという事で、もっとはっきり言うと価値を創造していくメディア(media=mediumの複数形。中間の、媒介物、媒体の意)の確立は非常に重要なものであると認識しています。一般には「メディア・リテラシー研究」などという言葉で表現される事が多いですが、単にメディアだけ特化するのではない、社会・経済的な価値観全体をメディアが支えてゆく、アタマからシッポまでそろった「一身具足」の価値観を立てていく、価値ないしは信用を創り出していく事が必要だと考えているという事です。
一つの例として、私はこの頃、千利休の話をよくしていますが、何故、利休が切腹をしたのかをお話しします。利休は大阪の堺の生まれの商人で織田信長に仕えて、価値創造、信用創造という言い方をすると微妙ですが、そのような事を考えた人です。戦の結果、一国に相当するような戦功をあげた人に対して茶器を下賜するというルールのようなものを信長と堺衆とともにつくったという事は非常に大きな事だったと私は考えています。例えば、小西行長のような外様にあたるような色々な人たちが大きな戦功をあげた時に領土は与えずに茶壺やなつめ等を与えて、それらには一国以上の価値があるという価値の創造、信用の創造をつくったのです。つまり、堺筋に持っていけばそれだけの武器、弾薬と交換が可能な裏書きがされていたという事です。
 小田原攻めで全国統一に豊臣秀吉が成功します。その翌年にさっさと千利休が詰め腹を切らされるというのは、一国に値するような信用をどんどん創造するような人がいてもらうと困りますね。つまり、政治の世界に深入りし過ぎたためだったのです。
秀吉の政権は小田原攻めに勝利して日本全国をひとまず統一しました。その後、国内統一以前に役割を果たした「信用創造」の要である利休に「召し腹」を申し渡した上で、文禄・慶長の役という、無謀な海外出兵の挙に出て、戦費支出によって豊臣政権自体が潰れて行ってしまいます。逆に徳川幕府の江戸開府から元録期あたりまでの80年ほどは、新田開発など日本史上最大の産業の成長期でした。そこでは適切な信用創造、バブル的な証券の濫発ではなく、適切に価値を見立てて産業を育てる、牧歌的な金融資本が成立していたように見えるのです。
私が思う事は、国際社会の中における適切な価値観の遠近感の見定め、そしてそこにおける価値をもう一度しっかりと根拠に基づく価値の立てかたに失敗すると近年の証券不祥事やITバブル等になってしまうという事です。一芸術教員、或いは音楽家としての私がその延長で見ている事にすぎませんが、価値を見立てる事を国際社会に情報ツール、ネットワーク、メディア等を通じて共有して行く事で2008年から2009年にかけて大きな岐路に立っているので、そのようなところに価値の見立てがあります。そして、基礎的な研究と言いますか、ものを見る目の高さは非常に重要なので、できるだけ価値ある場というものを守って育てるという観点で進めて行きたいと思っています。
 
(註1、松方財政とも言われる。西南戦争のための戦費調達から生じたインフレを解消するために、大蔵卿であった松方正義が行なったデフレ誘導財政政策。
 不換紙幣<本位紙幣である金貨や銀貨等と交換を保障されない紙幣。20世紀中頃までの紙幣は金貨や銀貨を交換できる事が前提となっていた兌換紙幣だったため不換紙幣と呼ばれた>回収こそがインフレーションを抑制しデフレーションに誘導できるとした財政政策)

2009年08月09日

第30回目

寺島>  21世紀初頭をしっかり再認識するための確認しておきたい数字を申し上げておきたいと思います。
 まず、世界が昨年9月のリーマンショックによって激震のような経済の低迷という状況に入っているわけですが、この混迷の中心にいるアメリカのリーダーシップと言いますか、束ねる力が今世紀に入って急速に萎えた事をしっかりと認識しておかなければならないと私は思っています。アメリカの求心力が今世紀に入って急速に衰えている理由の一つに「イラク戦争」と「サブプライム問題」という二つのキーワードがあると思います。
まず、イラク戦争ですが、イラク戦争の後遺症によってヘトヘトに疲れ、消耗したアメリカが見えて来ます。昨日現在(7月21日)、米軍兵士のアフガン、イラクでの戦死者は5,057人にでなっています。「これは犯罪ではなくて戦争だ」と叫んだブッシュ大統領がアフガン、イラクと突っ込んで行った事によって、アメリカの若者が5千人以上死んだのかという思いが込み上げて来ます。しかも、それどころではないという数字があります。それは、どんなに少ない推計でもイラク人の死者が10万人を超しただろうと言う数字です。
私は、背筋が寒くなるような血みどろの21世紀初頭と並走したのだという事を確認しておかなければなりません。アメリカは5千人の若者を死なせて、既に1兆ドルの金をかけて、そのコストがやがて3兆ドルになるだろうという状況になっています。その結果、どうなったかと言うと、「ペルシャ湾の北側に巨大なシーア派イスラムのゾーンを形成した」という事です。ブッシュ大統領の共和党政権が終り、イラク戦争に反対したオバマをリーダーに登場させて急速にパラダイムの転換を図りました。そして、アメリカは2011年までにイラクから去ります。「アメリカなき中東」という言葉が出て来ますが、要するに、イラクの民主化と言って選挙を行なった事によってシーア派のイラクにしてしまったわけです。隣のイランの1979年のホメイニ革命以降、シーア派イスラム、イスラム原理主義の総本山となって世界に色々なインパクトを与えているイランの影響力を最大化するイラクにしてしまった……。そして、間もなくアメリカはイラクから去ります。したがって、我々が目撃する事になるペルシャ湾の北側は、巨大なシーア派のゾーンとなって存在しているであろうと言う皮肉ともなんとも言えない状況になってしまったわけです。しかも、三軍のリーダーとしてアフガンには増派するという選択肢を取らざるを得ないというところに、オバマ自身さえ追い込まれています。目に見えない敵との戦いに消耗しているのです。
更に、サブプライム問題です。金融セクターを安定化するために突っ込まざるを得なくなった公的資金のリスクの総額が8兆ドルにのぼっています。それがAIGという保険会社やシティーグループ等への直接資本注入も含めて不良資産の買い取りスキーム等の様々なスキームで政府がコミットせざるを得なくなった総額8兆ドルなのです。加えて、金融だけではないという事で、御存知のようにGMさえ、6割政府出資で持ち堪えなければならないという状況になってしまいました。この深い深い虚しさというものは21世紀初頭のアメリカが行き着いたところを象徴しています。と言うよりも、世界が行き着いたところと言ってもよいと思います。と言うのは、アメリカが新自由主義なるものの総本山だったからです。
そのような中でいま申し上げたサブプライムの行き着いた8兆ドルの公的資金注入にせよ、イラク戦争でやがてのしかかって来だろうと言われている3兆ドルの負担にせよ、この二つを足して11兆ドルの金がアメリカの財政負担となってのしかかって来ます。加えて、オバマが登場して景気対策法案が成立しました。つまり、財政出動というものです。7,870億ドルの財政出動によって景気浮揚を図るという景気対策です。アメリカが日本に対して毎年毎年ぶつけて来ていたメッセージが「プライマリーバランス論」、つまり財政均衡論だったのです。そのピンを御本尊自身が外したから日本もドーンと15兆円の補正予算によって財政出動に踏み込んでいるのは、御存知な通りですが、約8千億ドルの金もやがてアメリカの財政赤字にしかかって行きます。2009年度は1兆7千5百億ドル、来年は予算の段階で1兆2千億ドルの財政赤字が予測されるという状況に追い込まれていますから、当然の事ながら巨大な赤字国債の発行を余儀なくされます。赤字国債の発行を誰が引き受けるのかと言うと、アメリカは国内で国債を捌けないので、どうしても海外に持ってもらわざるを得ないわけです。事実関係において、アメリカの国債を一番持っているのは中国で、8千億ドルを超しています。日本が第2位で6千億ドルです。
そこで、中国なのですが、本日の議論をこれから深めて行くためにどうしても頭の中に入れておかなければならない数字として、中国のGDPの世界ランクは、2007年についにドイツを抜いて世界3位になりました。国際機関が一斉に言い始めているのは、日本のGDPを来年中国は追い抜くだろうという事です。もたもたしていると今年追い抜くかもしれないという予測が一部出始めています。日本はどんなに楽観的に見ても、今年はマイナス5%以上のマイナス成長で、中国は7.5~8%台のプラス成長になるだろうと予測されています。その事によって一気に来年日本を追い抜いて行く……。「大した事はない。心配するに値しない」という考え方の人たちも多いと思いますが、私は日本人の深層心理の中に「日本は世界第2位のGDP大国だ」という誇りとも支えともつかない気持ちが存在していたように思うのですが、このピンが外れて日本はついに抜かれたのかという瞬間に、どのような心理になるのか、微妙な変化が起こるのではないのかと想像します。
事実、昨年、一昨年に指摘して来た「大中華圏」(Greater China)という言葉ですが、これは、中国を本土単体の中国だけとは考えないで連結の中国、つまり、中国と「華僑国家」と呼ばれているシンガポールと香港と台湾を政治体制の壁はあるけれども、産業的には一段と連携を深めているゾーンだという捉えかたがGreater Chinaという視点です。このGreater Chinaという連結の中国の枠組みの中で、中国の台頭が大きく目立ちます。そして、日本を取り巻いている状況が大きく変わって来ています。この事が我々の進路を考える時に大変重要な一つのファクトであるという事を私は冒頭に確認したいと思います。
いま、私がお話しした状況の中に私自身が考えているのは、9・11後の世界の構造の多極化と呼ぶ人もいますが、アメリカの一極支配型の世界観では通用しなくなって、G8でさえ、その存在感を希薄にし、G20という20カ国が世界秩序形成において揉み合うような状況が露呈されている事です。全員参加型という言葉さえ登場して来るような状況に向かって世の中が変わっているのです。そのような流れの中で、日本外交や日本の国際関係を選択したり、構想したりしなければならない局面に入って来ているところが、日本に問われている大変重要なポイントだと思います。
その際、もう一つ申し上げておきたかったのは、「G2論」というものです。「G20のように20カ国が世界秩序形成に参画して混迷しているように見えるけれども、実態は一段とG2化しつつある」という言い方をする人たちが最近は増えて来ています。何故かと言うと、アメリカと中国が実態的な世界秩序を仕切り始めているからです。アメリカがいかに中国を配慮しているのかという構造認識なのですが、御厨先生のほうからいまの話に若干コメントを加えて頂きたいと思います。

御厨>  いま、数字で示されたものを聞いて、これはなかなかなものだという感じが致します。イラクにおける状況というお話しがありましたが、このような事について、おそらく最近の日本は凄く鈍くなっているのだと思います。つまり、グローバリゼーションが進んでいると言いながら、多くの日本人はなんとなく嫌な数字、嫌なもの、嫌な光景は見たくないという事があって、あまりそれを受け入れようしない空気が第1番目にあります。
 そして、第2番目に、私などは歴史をやっていて「そうか」と思いますが、世界全体でいま米、中、G2化というものが最後にお話しがありましたが、とりわけ中国の存在が日本にとって凄く大きくなっているという事は、日本の近代史を考える時に凄く象徴的であるという事です。日本はいまから100年以上も前に日清戦争という戦争をしたわけです。あの時に、日本の中国に対する見方が、実は戦争を通じて100%変わったという事実があります。私は日清戦争の歴史を調べた時に中国人というものの存在について江戸時代はあれだけ憧憬の念を持っていた日本人が、どこでそれを変えたのか考えましたが、やはり、戦争のプロセスなのです。
 つまり、日清戦争が始まった当初、そしてある段階までは、当時の記録に残っていますが、中国人に対して侮蔑の気持ちは少しもありませんでした。日本にとって見ると、中国を目覚めさせなければならなくて、なんとか尊敬している中国に対してその遅れを目覚めさせるという事で戦争を起こしたというイデオロギーがあるわけです。しかし、それがある段階、つまり、戦争は怖いものですが、「勝った、勝った」という事になったところから中国に対する認識が逆転をし始めます。何故、向こうは負けているのかと言うと、それは、明らかに日本人よりも中国人の方が色々な意味において劣っているという認識の変化なのです。ここで初めて江戸時代以来の憧憬の念が全部ひっくり返って行くわけです。それは、その後20世紀の日中関係、日本と満州との関係、色々なものを見て行く上で重要であり、その事が戦後にもずっと続いて来ています。戦後において、中国が社会主義、共産主義になって以来、そこと言わば敵対する関係を長い間続けて来た事によって、今度は中国人を侮蔑して来た歴史というものを見ないで済んだのです。
 有名な話で佐藤栄作という総理大臣は、「日本は大陸を見ている時には不幸であった。だから大陸を見ないようにする」。これは彼が共産主義中国を国連に入れないという事に固執した理由であったのです(註.1)。そこから今度は新たに日中の色々な関係が始まってついにここまで来たかという事が私の印象でした。
この時に私たちが考えなければならない事は、ここで本当に中国に対する近代以来の日本の立ち位置を真剣に考え直さなければならない、つまり、繰り返しになりますが、日本はある時期、憧憬の念を持っていた。そこから侮蔑に変わった。物凄く血で血を洗った戦争を行なった。それから後は見ないようにして来た。見えるようにしても政治・経済の分離等、色々な事を言ってそれを限定化して来た、断片化して来たと言ってもよいと思います。しかし、もはや断片化して来た形で中国とはつき合えないとういう話なのです。どのようにしたら本気でつき合えるのか、そして、そこで目覚める事が逆に戦後一体化してやって来たアメリカとの関係をもう一度本当の意味で相対化して行く事なのだと思います。
 したがって、「米中関係が変わった。ああ、どうしよう!」というのではなくて、いよいよそこまで来たのであれば日本の近代以来の中国とのつき合い方、アメリカとのつき合い方をもう一度見直してみて、そこから未来についてどのような示唆を得る事が出来るのかという事です。私は原点回帰だと思います。それをやらなければならないと思っています。

寺島>  どうもありがとうございます。御厨先生のお話にもう一言付け加えさせて頂きます。日・米・中のトライアングルの関係が我々にとってブラインドがいまのお話と被るのですが、米中関係なのです。つまり、日米関係は戦後日本を支えてくれた関係だという事を真剣に評価する立場の人間だからこそ、米中関係の歴史というものをしっかりと視界に入れておく必要があると思います。

<後半>

寺島>  今回は慌ただしいシンポジウムだったのですが、まず、前半のパネルディスカッションを集約して行くにあたって、もう一度、「世界を見る目」と「21世紀初頭を超えて」という日本がおかれている状況に対する一言でも結構ですし、自分の関心の枠の中で結構なので最後に一言ずつ、お話しを頂いてパネルを終えたいと思います。

御厨>  日本の立ち位置は、本当に目を見開いてというところがあります。それと同時に私の立場から言うと、最近、私たちが研究をする時に随分変わったな、これは21世紀になって変わったのだと思う事を申し上げてまとめとしたいと思います。
 それは何かと言うと、私は歴史をやっていて、先程、寺島さんから明治国家をつくるというご紹介を頂いたのですが、あの本を書いた時には本当に元勲の書簡を生で見られたのです。国会図書館に行くとそれが置いてあって山県有朋の書簡や伊藤博文の書簡等、本当によく見て、まるで友人のように私は彼らと親しくなりました。しかし、今は駄目です。何故かと言うと、いまは全部コピーだったり、マイクロになっているからです。つまり、偽物なのです。私は本物とつき合えたので幸せだったと思います。いまの研究者の悲しいところは、全部マイクロで見るかコピーで見るか、偽物なのです。そのようなものを扱っていると、絶対にリアリティーの感覚は浮かんできません。私は伊藤博文が友人だと思っています。いま同じ事をやっている人は伊藤博文を友人とは思えないのです。これは本当に悲しい事です。そのかわり、いまの彼らにとって何が一番よいかと言うと、どこを見ても検索をかければありとあらゆる文献が集まって来るという点です。そして、アジア歴史資料センターがずっと行なっていますが、そこで見ると外交資料館と公文書館といういくつかの文書館が持っているものが一挙に出て来ます。ネットサーフィンのようなものです。それをやっていると、例えば「日中戦争の○○」と引くと、これまでだったら苦労して探さなければならなかった文献がドーンと出て来て資料が何処にあるのかが分かって、彼らは私よりも遥かに効率的に研究が出来るのです。
 しかし、何度も申し上げましたが、そこで見られる資料は全部偽物です。これがいまの私は現状だと思います。ありがとうございました。

伊東>  御厨先生のお話しを伺ってなるほどと思ったのは、リアリティーとバーチャリティーという二つの言葉です。私は、音楽の仕事をやって来ましたが、音楽は実空間で演奏するものであり、指揮もまた同じですから、私もリアルな側の人間です。そういう私からすると、いま見るべき事の一つは、リアリティーの復帰、リアリティーをいかに再度獲得して行くか、実態への回帰というものがポイントだと言うことになります。しかし、これは旧来へ帰るだけではなくて、せっかく今まで得たものをうまく活用しながらの回帰ではないかと思うわけです。つまり、高度な検索をもって、こんなものもあるという事までいまの研究者が見つけたら、その現場に行ってもう一度そこで実物と対面しながら、より先に行くというような事、つまり、バーチャリティーのより高度な活用です。ここに私が希望の芽を見るのは、日本はそのような時にとてもよいいくつかの鍵を持っているからです。それはあまり目立たない形でたくさんの特許やシードになる技術を持っているという事です。私はそのようなものを特に選んで使って、西洋芸術やキリスト教の根っこ等、一番向こうが嫌がりそうなとこに切り込んで、そこそこうまく行くという事をやっています。
 日本が見立てるという時にどのようなオーラがあり得るかと言うと、一つは日本の見立て、日本の技術的信頼水準、つまりクオリフィケーション(Qualification)が可能であれば、それによって東アジア全体、或いはグローバルな社会経済が活性して行くという安心・安全というものが、このところのキーワードになっていますが、日本というプリズムを通過しているのであれば、そこから先、これはうまく行くというような安心感を提供出来るのではないのか、少なくともそのような技術の根は持っている事は存じております。
 したがって、技術関係、イノベーションの人材育成や中長期的に見た、育てる方向で実態に回帰しつつ、ここ20年程で得た新たな知恵も活用して行くべきだと考えます。そのような時に寺島さんのようなリーダーに教えて頂いてこのような事を考えるようになったわけです。私の持ち分である音楽という狭い世界ですが、私はそこから考えて行きたいと思っています。

寺島>  見事に収斂したという感じですが、リアリティーへの回帰と言いますか、何か空虚な時代感覚からどのようにリアリティーに向かうかという意識が、おそらく我々3人が議論しようとした事の何か本質にかかわってくるのではないのかと思いながらお話を聞いていました。ありがとうございました。

(註1、1945年国際連合設立当初から中華民国は、加盟国であったが、内戦により中国共産党が1949年10月1日中華人民共和国の建国を宣言した。中華人民共和国は国連の代表権の獲得を図ったが、その後も中華民国が持ち続けた。
 1971年10月25日、国連総会において、中華人民共和国を中国の唯一正統な政府とし、中華民国を追放して、中華人民共和国が代表権を獲得した)

2009年08月16日

第31回目

寺島>  冒頭の整理として申し上げておきたい事があります。私はいつもここにこだわっているのですが、1853年にペリーが浦賀にやって来てから、アメリカが実際にアジアに植民地帝国として登場するまでには45年間のギャップがあったのです。それは何故かと言うと南北戦争という国内戦争に手間取ってアジアに出る余裕がなかったからです。
1898年にスペインとの米西戦争で勝つ形でフィリピンを領有してアジアに出て来ました。1900年の義和団事件の時にアメリカも出兵していますが、アメリカが中国に本格的に登場したタイミングと日本が1894、5年の日清戦争に勝って中国に侵略の触手を伸ばし始めたタイミングが同時化したのです。
20世紀、今日まで引きずっている日・米・中の関係にこれから向き合って行かなければならないわけですが、20世紀の日米関係の悲劇は中国に登場して行くタイミングがシンクロナイズしたところから始まります。太平洋戦争と言われた戦争も突き詰めて言えば中国をめぐる日米の対立と言ってもよい構図だったのですが、常に日米関係の谷間に中国というファクターが絡みつきます。
日本人としてこれから日本の外交を再構築しなければならないという時に、「市場主義の徹底」と「アメリカ流デモクラシーの徹底」が世界で実現されるべき唯一の価値だと信じてやまない理念の共和国として、アメリカがドンと存在していました。60年以上の同盟関係を背負い、戦後の我々自身が「アメリカを通じてしか世界を見ない」という傾向を自ら身につけてしまったのです。アメリカとの関係をしっかり正視し、同時に中国といういわゆる中華思想と言われる自己中心的な価値観を持って発信して来る国とも向き合い、この二つの超大国に挟まれて、日本がしっかりとした存在感をもって行かなければならないという事が21世紀の日本の基本的な構図であるという事が、おそらくどなたもが瞬時におわかりなると思います。
このような流れの中で、日・米・中のトライアングルの関係というものに新たな方向づけをして行かなければならないわけです。日本の果たすべき役割はちょうど欧州においてイギリスが果たしている役割に近いイメージです。アメリカを大陸の欧州に繋ぎ、大陸の欧州にアメリカを理解させるブリッジの役目をイギリスが果たしているわけですが、日本がアメリカをアジアから孤立させずに、アメリカという国をアジアにそのような位置関係で置いておけるブリッジのような役割が果たせるのかどうかという事が一つの大きなポイントになると思います。
アメリカという国は実は潜在的には「モンロー主義」(註.1)と呼ばれる自国利害中心主義を抱えていて、不都合が起こるとサッと国際関係から解放されて自分の国に回帰すると言いますか、自己完結的に成り立ち得る国で、内向きのエネルギーを常に潜在させています。そして、そのようなアメリカを国際社会の建設的な参画者として、特に、アジアにおける力学に留めておくという役割が日本にとって重要です。そして、中国に対しては、国際社会のルール、例えば、知財権にしろ、環境問題にしろ、この国を世界のルールに参画せしむる方向に招き込んで行くと言いますか、エンゲージさせて行くという役割が日本にとって大きく問われて行く事になるだろうと思います。そのために必要な事は筋道の通った存在感なのです。
このような事を頭に入れながら総括させて頂くと、先程、「リアリティー」という一つのキーワードが出ていましたが、世界の金融不安、はたまた現在の混迷する状況等も睨んで、日本が学ぶべきキーワードと言ってもよいと思いますが、それは「実体性」と「自律性」なのです。実体性はリアリティーに近い言葉で、私がこの言葉をどのような意味で使っているのかと言うと、「マネー・ゲームの話は程々にして、技術と産業の話をしようではないか」という事なのです。私の中でのリアリティーとは技術と産業力です。マネー・ゲーム的な視界を脱して、実体のある技術と産業の話をしようという問題意識です。
さて、先程、中国のGDPが来年いよいよ日本を追い抜いて行くという話に触れましたが、中国のGDPの中身について少し申し上げておきたいと思います。現在中国のGDPが極端な勢いで拡大している理由は、世界中のメーカー企業が中国に生産立地して、そのアンダーテイカー(下請)となって付加価値を拡大させているからです。
日本と中国との違い、韓国との違いのアイデンティティーを確立するために敢えて、私は申し上げておきたいのは、「中国の企業でどこか知っていますか?」という逆質問なのです。
例えば、「ハイアール」(Haier)という家電の会社があるとか、最近の日本のパソコン市場に「レノボ」(Lenovo)というブランドで上陸して来ている、「聯想」というIBMのパソコン部門を買い取った会社が存在しているという事はよほどの事情通の人たちしか知っていません。中国の企業でこれから携帯電話やパソコン等で世界に冠たるブランドになって行く可能性があるという企業はなくはないのですが、現状はどうだと言うと、アンダーテイカー型のエコノミーなのです。
韓国は「ヒュンダイ」、「サムスン」、「LG」の国です。この3社の売上高の合計が昨年の韓国のGDPの35%を占めています。つまり、「三大噺経済」という言い方があるのですが、この3社に極端に依存している傾向があるのです。
「日本産業の強みは何か?」と言う時に、日本人が自覚しなければならない事は、戦後の日本を創り上げてきた先輩たちの偉大さです。各ブランドに象徴される技術力をもって世界に冠たる企業を創り出して来たという事が強みだと思います。つまり、技術性なのです。技術性の中にあらゆる思いを込めて今日の日本の基盤をつくって来たわけです。
日本は貿易立国で外部依存が高いというイメージがありますが、GDPに対する貿易比率は韓国が76%で、日本は28%です。日本は韓国ほど極端に外部経済に依存しているわけではないのです。この差が、韓国が世界同時不況の中で極端に落ち込んだ理由になっているのです。
技術という意味においての実体性や自律性という意味において自覚を高めたのであれば、日本という国が持っているポテンシャルは大変なものだという気持ちが強くあります。
日本に決定的に欠けているのはガバナンスなのです。これはどういう事かと言うと、全体最適化を図る力がないのでポテンシャルが活かしきれていないのです。日本が国家としてガバナンスをもって戦略性がある展開をしている国にはとても見えません。自分たちが持っているポテンシャルを活かし、それを総合力をもって束ねて問題を解決して行く力に欠けるのです。それが、おそらく政治状況の今後をも含めて日本に問われて来る大きな問題なのだという気がします。
昨年、このフォーラムを行なってから1年間、実際に自分が何をして来たのかという事をお話したほうがリアリティーに結び付けて問題意識を繋げる事が出来るので、サッと私自身の活動をお話しして、いまの話に繋げて行きたいと思います。
まず、昨年、このフォーラムで「日本にとってアジア太平洋研究所のようなシンクタンクがいかに大切であるか」という話をして、大阪駅の北ヤードにアジア太平洋研究所構想を推進しているという事を話題にしたと思います。あれから1年の間、私はタスクフォースのような形で推進協議会の議長として活動して来ました。このフォーラムを行なっている日総研のスタッフもアンダーテイカーとなって世界中のシンクタンクの現状や、どのような組織形態にして行ったらよいのかという類の事についてフィージビリティー・スタディ(実行可能性調査)の作業に参画しています。
そうした中で、リーマンショックが起こって、深刻な不況に入りました。一方では「シンクタンクどころじゃないだろう」という本音にも近いような声が聞こえます。各企業は業績が悪くなって、本格的な国際情報の回路をつくろうという話につき合っているだけの余裕はないという空気が一方ではある事も確かです。しかし、大事なのはここからなのです。
私は日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)の日本創生委員会の委員長を務めていますが、コロムビア大学のジェラルド・カーチスさんを招いて彼が日本の政治状況について話をしました。私がその話の中でドキッとしたのは、「日本は政権交代が迫っていると言われるけれども、官僚機能に頼らずに政治が主導して政策を企画し、立案して行く基盤としてのシンクタンクのようなものが全くありませんよね」という事でした。
ワシントンにおいてアメリカの政権が交代する時には、例えば、オバマ政権にはブルッキングス研究所にいたスタッフがドドドッとホワイトハウス等中枢に入っています。そして、そのようなスタッフが大統領を懸命に支えます。したがって、政策に断絶がないと言いますか、コントラストはあるけれども前の政権の政策をどのように変えて、それがどのようなインパクトをもたらして、どのような方向になって行くのかという事についての展望が見えて来るわけです。
しかし、日本においては政権交代が迫っていると言うけれどもその基盤になるような情報を解析して、政策論に高めて、政策の代替案を出して来る基盤が無いと言わざるを得ません。日本最大のシンクタンク機構と呼ばれている官僚機構に政策論を頼らざるを得ないという構造を延々と続けています。
したがって、いまこそその種の政策シンクタンクが問われて求められているのだという思いがあります。昨年から1年間のリーマンショックを受けて転がり落ちている構造の中で、世界が見えていないという部分についても気がつかなければならないのです。いつも割を食ってほぞを噛む思いに日本が向かうのは一体何故だろうという事を考えると情報の回路、情報の解析力というものに関して充分なものをもっていないと言いますか、とりわけ、震源地であるアメリカよりも過剰なまでの自信喪失と落ち込みになる理由は一体何なのかと言うと、「情報の回路」という要素が物凄くあると思っています。
世界中のシンクタンクとのネットワークを張りながらアジア太平洋研究所を立ち上げて行く構想に、一つの方向づけをする結論を出そうというタイミングが10月に迫っています。日本人が気がついていないのは、日本という国は特定の企業に依存したり、特定の官僚機構を補完したりするシンクタンクではない、いわゆる中立型のシンクタンクをいま一切持っていない国なのだという事です。したがって、ある事態が生じた時に、この国にはどのような選択肢があるのかという事について議論が立ちあがらないのです。官僚機構がつくり上げた政府のシナリオに対して、反対か賛成かという程度の議論しか出来ない。第三の道があるとか、ひょっとしたらこのようなアングルから考えなければならないのではないのかという視座が出て来ないのです。これがこの国の議論を物凄く制約していると思います。
先程、私がJAPICで日本創生委員会を率いている話をしましたが、日本が進んで行くべき方向性において、もっとも重要な事の一つに、21世紀の日本人が現在の生活レベルを落とさずにどのようにして飯を食うのか、若者がどのような希望をもって立ち向かって行くような仕事(JOB)をつくり出すのかという事があります。私はそのための様々なプロジェクト・エンジニアリングの基盤をつくるような仕事に参画し始めています。
 例えば、内閣官房の宇宙開発戦略本部の委員会の委員長をやっていますが、先日、宇宙基本計画を取りまとめたところです。
宇宙基本法と海洋基本法という二つの法律を過去2年間に日本は成立させていますが、この二つの法律は自民党も民主党も参画した議員立法で、要するに、超党派の議員立法によって決めた法律なのです。それに基づいて内閣官房に関連の本部が出来ているという事です。今後、政局が混迷して行きます。どちらが比較第一党になろうが、政治がガバナンス、リーダーシップを一段と失うのではないのかという可能性があります。そのような状況になろうと超党派の議員立法で決めて行ったものは大変に重要なのです。
日本は国土の狭い資源小国で、エネルギーと食糧と資源を海外に依存するという構造が当り前だと思って進んで来ているわけですが、そろそろ足元を見つめて、海外にエネルギーと食糧と資源を依存する構造から順次、脱却して行く方向に舵を切らなければならないと思っています。
 そこで、海洋資源開発というものがあります。日本創生委員会のタスクフォースで、海洋開発の専門家の人たちを束ねていますが、上がって来ている報告を見ても、海底熱水鉱床という海底火山の噴火口の出口のようなところに眠っている希少金属の潜在埋蔵量や、メタンハイドレートのようなエネルギー資源等が、日本の海洋水域に眠っているという事が次第に見えてきています。問題は探査技術と採鉱技術の高度化なのです。戦前、樺太と言われたサハリンであれだけのエネルギー資源が眠っている事に気づいていたら、戦争や南進というシナリオも変わっていたのではないかと言われます。足元を見つめるという事はそれくらい大事なのです。
 いま、エネルギー価格が一時よりは下がっているので、資源・エネルギーに関する日本人の危機感がスッと消えていますが、昨年の夏、ニューヨークの石油先物市場のWTI(West Texas Intermediate)は、ピーク時には1バーレル147ドルでした。12月には32ドルまで落ちました。そこから、いま75ドル位にまで上がっていて、60ドル台とその間をさまよっていますが、わずか半年で2倍になっていて、乱高下しているのです。これから間違いなくエネルギー・資源の反転高が来ます。それは何故かと言うと、いま過剰流動性の制御に成功しているとは思えないからです。物凄い勢いで過剰流動性をまた生み出しています。それは「財政出動」、「超金融緩和」というものです。この行き場を間違えたのならば、間違いなく資源反転高が来ます。事実、来ていると言ってもよいと思います。
日本はこのような時期にこそ、自分の足元を見つめてエネルギーと食糧と資源は海外から買う事は当り前だという構図から脱却して行くための手を打たなければならないのです。海洋資源探査等に今回の補正等も含めて、予算がつき始めています。ここのところを本気で突破して行かなければならないと思います。10年後、20年後の日本を資源大国化する事はハッタリでもなければ何でもないのです。真剣に取り組めば間違いなく日本を資源大国化する事は出来ると思っています。
海洋資源開発には誤差のない位置測定が必要になります。つまり、宇宙開発と海洋資源開発は相関しているのです。私はこのような形の総合戦略をしっかりと描いて行く必要があるという事を申し上げたいのです。
このような意味合いにおいて、私自身のささやかな役割でこの1年間に、私は宇宙開発本部の委員会の座長や、経産省の方では産業構造審議会の情報セキュリティーの基本問題の委員会の委員長等を務めました。多様な意見の人たちを束ねて、政策論として収斂させるという役割を自分自身が果たなければならないところに一歩ずつ動き始めているという事が、ここのところの自分の立ち位置、役割の変化なのだと思っています。
私は昨年から首相を取り巻く温暖化懇談会のメンバーに入っていました。これは麻生さんが6月に発表した15%CO2削減という中期目標の設定をした委員会です。経済団体がプラス4%論を言い、環境団体がマイナス25%論を言っている中で、日本として対応可能なギリギリの政策論はどのようなところにあるのかというところを議論してきました。足して2で割るという話ではなくて、ロジカルに世界に向けて語る事が出来るギリギリのポイントはどこかというシナリオを書く上で、一定の役割を果たさなければならないような立ち位置に私自身がいるのだと感ずる体験を今般もやって来たわけです。
いずれにしても、エンジニアリングは個別の要素を組み合わせて問題を解決して行くアプローチです。要するに、私達日本総研も含めて今後問われて来る事は、問題解決能力なのです。問題を提起して状況を分析して見せるだけではない役割と言いますか、どのようにしてその問題を解決して行くのかという事についての「構想力」と「全体知」が問われる役割です。そのようなところに我々自身の役割を発展させて行かなければならないと痛感しているという事を申し上げて私の話を終えておきたいと思います。
どうもありがとうございました。

(註1、Monroe Doctrine。第5代のアメリカ合衆国大統領=ジェームズ・モンローの年次教書演説で発表された外交姿勢。アメリカとヨーロッパの間の相互不干渉を提唱した)

2009年08月30日

2009年9月のスケジュール

■2009/9/4(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー
 
■2009/9/4(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」
 
■2009/9/6(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

■2009/9/11(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

□2009/9/19(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
□2009/9/20(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2009/9/20(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2009/9/26(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
■2009/9/26(土)08:00~
讀賣テレビ系列「ウェークアップ!ぷらす」

□2009/9/27(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

第32回目

木村>  今月は「月刊寺島実郎の世界特集」として先月22日に東京で開かれた第8回日総研フォーラム「世界をみる眼~21世紀初頭を超えて~」の模様を先週まで3週にわたってお送りしましたが、その様子についてリスナーの方からメールを頂きました。東京でお聴きのラジオネーム「とっちゃん」からです。
 「先日の放送で第8回日総研フォーラムの模様を聴きました。各先生方のお話を大変興味深く聴く事が出来ました。放送を聴いて多くの事を考えさせられました。次回の第9回のフォーラムには是非参加させて頂いて現場で生の話を聴きたく思います」というメールを頂きました。

寺島>  ありがたいですね。日本総合研究所のフォーラムは今回で8回目だったのですが、毎回、いま発言している人の中で「これは」という人をお呼びして議論をする事を積み上げてきています。この番組のリスナーの方にも次回、次次回と機会があれば是非参加をして頂けるようにしたいと思います。

木村>  ラジオ、そしてWebで聴く事も出来ますが現場で聴くと表情や話のやりとりの間合い等にも深いメッセージがあると思いますので是非生で聴いて頂きたいと思います。
 さて、今朝のテーマは「地域活性化と地方分権」です。近日中に、選挙という事もあって、地方分権がテーマとして取り沙汰されています。言葉では「地方分権」が随分語られますが、一体何を地方分権として考えるべきなのかという事も含めてあまり深まっていないような気がします。

<地方分権を考える>

寺島>  いま選挙に入っていて地方分権が一つの大きなテーマだと言われています。知事の中でも大変に目立った人たちが国から地方に財源と権限をよこせと主張していて、「全国知事会」が非常に目立っています。
いま霞が関批判が一方にあるので、なにやら国の権限を地方に移して行く事が日本を良くする事なのだという考え方がフワッとした形で、流行り言葉のようになっていると思います。
しかし、我々はここでじっくりと国と地方の在り方が一体どういうものであるべきなのか考える必要があります。
いま各政党も知事会等からの突き上げをくらって「国と地方の協議会をつくって、対等な関係で議論をする事が大事である」と言わば知事会に押されるような形でそのような流れが出来て来ているわけです。しかし、いま本当に考えなければならない事は日本という国の在り方としてどのような中央の政府と地方の政府の在り方が正しいのかという事なのです。
私は日本という国は本当に強い国家としてのガバナンス=統治能力をしっかりと持ったキリッとした力のある政府と、活力のある地方が車の両輪のようになっていなければならないと思うのです。例えば、中央が弱くなって地方に全部権限や財源等が移ると日本は良くなるのかと言うと、そんな単純ものではなくて、世界の大きな怒涛のような流れの中で国家としての日本もキリッとしっかりしていなければならないし、地方も活力がなければならないのです。
 そのような中で、振り返れば、戦後の日本における中央と地方の在り方が一体どのようなものだったのかという事を語って行きたいと思います。
この番組で何度も議論して来たように戦後の日本は経済力で敗戦したと総括しましたから、とにかく経済復興だ、成長だという事を図るために「東京に一極集中」という言葉が使われるくらい都市圏に人をどんどん引きつけて高度成長の時代を走ったわけです。その時の日本における中央と地方の分配構造はどのようなものだったかと言うと、産業も人口も東京に集積させて行き、どんどん成長を実現化し、その成長によって得た成果=果実を地方に、例えば、大型公共投資のような形で分配するのです。しかも、選挙制度の仕組みがそのようになっていた事もありますが、政治のメカニズムが皮肉な事にまさに一票の重みが都会における一票よりも地方における一票の方が重く、地方に多くの代議者=政治家がいたために、中央から地方に果実を引っ張って来る事が政治家の実力のようなものとして語られて、公共投資を出来るだけ地方に引っ張る政治家が力のある政治家であると評価された時代がついこの間まであったわけです。
そのような中で、1980年代末に竹下政権がふるさと創生型事業という全国の3千を超す自治体に1億円ずつ金をばらまいて、その1億円を好き勝手に使ってよいという大盤振る舞いをやりました。それは戦後型分配の究極の様相と言えます。
 その後、1990年代にバブルが弾けて以降、日本経済がずっと右肩上がりではなくなって来るにつれて、都会に吸い寄せられて来たサラリーマンの心理も大きく変わり始めたのです。しかも、世代が変わって田舎に分配が回ることに関して必ずしも共感しなくなってきました。それは何故かと言うと、サラリーマン第2世代、第3世代、つまり、故郷を捨てて東京に来て活躍している人たちの息子、孫という人たちが東京に定着して生活をしている時代になってしまったわけです。そのような人たちからすると、日本における田舎はディスカバー・ジャパンの観光地であり、自分のお爺さん、お婆さんや両親が住んでいるような場所でも何でもなくなってきて距離感がどんどん遠のいてきているのです。
 そして、公共投資を地方にばらまいたり、地方を活性化するという美名の下に分配するのは不公平な事だという感覚を都会のサラリーマンが持ち始めたのです。さらに小泉政権時代の言わば競争主義、市場主義によって、「市場に任せろ」という流れが起こっていく中で、ますます地方に分配する余裕がなくなり、地方に分配する事に対する理解者、共鳴する人たちが急速に細っていった事が背景にあると思います。
このような中で地方に公共投資等を分配する事はとんでもない話だというような事になり、話がひっくり返って、「三位一体の改革」という言葉の下に地方分権が進められました。結末としては、三位一体と称して国から地方に与える補助金を削減して、一部税源は移譲するけれども、実際に地方の行政を司っている機関は物凄く財源難に陥っていって急速に地方が追い詰められていったという構図があり、ここに地方がうめき声を激しく上げ始めた背景にあるのです。

木村>  地方の疲弊も語られます。そして、「シャッター通り商店街」と呼ばれるものも地方で問題となっています。

寺島>  公共投資に対して中央に住んでいる、つまり、大都会に住んでいる人たちが地方に金を回す事に共鳴しなくなり、むしろ公共投資等を地方に持って行く利権の構造に対する激しい反発を覚えるようになった事が背景にあって、ますます地方が疲弊して行くところに追い込まれていきました。そこで地方分権などというものが急速に危機感を持って語られるようになってきたわけです。最近の地方分権論の流れにはこのような背景がある事を知っておかなければならないと思います。
 そして、ここで少しお話ししておかなければならない事は、であるが故に地方分権が基本的にどのような方向に進むべきなのかと言う時のキーワードとして登場する「道州制」についてです。

木村>  大きな括りの地方自治体というものに変えて行こうという見方ですね。

<地方分権と道州制>

寺島>  我々は現実問題として日本の地方が平成の大合併で物凄い勢いで変わっている事に気がつかなくてはなりません。自治体の数が大幅に減り、かつて3,232もあった市町村の数が2006年3月迄に1,820になって、来年の3月迄には1,760になると言われています。いわゆる基礎的自治体と言うものです。つまり、市町村合併を繰り返す中で、最小単位の行政主体の数が少なくなってきているわけです。
付け加えて申し上げておくと、3段階にわたって日本は大合併を繰り返しています。明治の大合併の時には、基礎的自治体が7万1千あって、それを1888年=明治21年には1万6千にまで減らしました。昭和の大合併は1953年から8年間にわたって繰り広げられたのですが、1万6千を3,470にまで減らしました。我々が生きている時代は3千何百あったものを1,760にまで少なくしていくという事で基礎的自治体の面積が広がって来ているという事を頭に入れなければなりません。
一方、政令指定都市がどんどん増えてきています。いまは人口50万でも政令指定都市になる事が出来て、現在は全国で18あります。権限を大きく移譲する仕組みである政令指定都市がどんどん増えてきていて、一番大きな典型的な例は、福岡県ですが、北九州市と福岡市の2つの政令指定都市を県下に抱えていて、そこに大きな権限が移譲される仕組みになっているので県というものがどんどん空洞化してくるという状況になっています。最小単位の基礎的自治体の数は少なくなって広がり、政令指定都市はどんどん数を膨らまして行くのです。
そして、いよいよ極端な例が起ころうとしているのが神奈川県です。もし、来年、相模原市が政令指定都市になると、県下に横浜、川崎、相模原の3つの政令指定都市を持つ事になるのです。そうすると、神奈川県という仕組みの中で、この3つの大きな基幹になるような都市を除いた他のところの地域の面倒をみるのが県という事になり、県の空洞化がどんどん進んでしまうのです。
冒頭申し上げたように、いま地方分権と言うと、知事が目立っているために全国知事会に権限を移譲する事が地方分権であると誤解しがちなのですが、基礎的自治体や政令指定都市に権限をキチッと移譲行く事が本当の地方分権なのです。大げさに言うと全国知事会をなくすと言いますか道州という大きなブロックで括って行くとう事でもしなと何層にもわたって屋上屋を架して、その度に税金を支払わなければならず、代議者、つまり、県会議員や市会議員等の人たちを多く抱えていかなければならないという仕組みになってしまうのです。
現実問題としてこれだけ基礎的自治体が大きくなっているために全国で何万という数の都道府県の議会の議員だった人たちの数が減っています。この事が不便をもたらしている部分もあって批判が出ているのですが、代議制のコストを少なくする意味においては大変に重要なポイントで代議者の数を少なくしていく流れをつくっているという事にも我々は気がつかなくてはならないのです。

木村>  そこで、国の形としてどのように考えるのかという事を後半で伺おうと思います。

<後半>

木村>  地方自治体の数の変化という事から道州制というものが関わって、その中にこの変化を背景にどのように考えて行くのかという重要な論点が出て来ています。
 そこで、これからの日本の行方と道州制、或いは、地方分権というものをどのように位置づけていくのかという事ですね。

寺島>  驚くべき事実があるのですが、全国知事会の知事の中で道州制に賛成している人たちはわずか13人しかいないのです。と言うのは、本当は地方分権を進めるべきだと叫んでいるのだけれども、自分たちの権限を更に下の基礎的自治体に移譲したりする広域ブロックになってしまうような事は、知事の本音としては反対している人が多いという事なのです。だからこそ逆に言うと、日本の地方自治をよりシンプルで分かり易くするためにも県の単位を、例えば、東北なら東北、九州なら九州という形でブロックに括っていくという事が凄く大事なのです。
私は一番真剣に試みようとしている地域は九州だと思います。九州地域戦略会議というものをつくって九州広域を一元として観光等を統合して、例えば、中国等の近隣の国々から観光客を招く時に九州広域において上海でキャンペーンを行なう等、一体となって活動をする事に意味があるという事は常識で考えてもわかる事です。
 ここで、非常に面白い事は「9電力体制」と言って、全国9つの電力会社がありますが実体的には九州電力の経営のトップは現実に九州を広域で一元として見ています。皮肉な言い方をすると、既に道州制を実際にマネージメントしているようなものなのです。いわゆる電力会社が実は道州制を先行しているモデルだと考えると分かり易いのです。
ところが、いくつか不思議なところがあります。例えば、東北電力に新潟県が入っていますが、新潟県を広域で括った時にどこに置くのがよいのかという事は大変に悩ましくて、いまだに議論が続いています。関東甲信越という形で首都圏のブロックに括ったほうがよいのか、現実の経済の関係ではそちらが強いのだと主張する人もいるのですが、電力会社ブロックにおいて、東北のブロックに括られた方がよいという考えもあるのです。
 また、江戸時代の日本人は偉かったという話ではないですが、「越の国」という言い方がありますが、環日本海と呼ばれて日本海が連携してユーラシア大陸と向き合わなければならない時代に昔の越中と越前と越後が力を合わせて1つのブロックになったほうがよいのだという考え方も全くリアリティーのない話でもないわけです。

木村>  富山、石川、新潟あたりは環日本海の経済圏という事ですね。

寺島>  いずれにしても、広域ブロックという考え方によって日本がどのような輪郭の地域活性化をやって行くのかという事が非常に重要なのです。これをどのように切り分けるのか一つの思想が必要で、いままでの常識のような話で分ければよいというものでもないのです。
色々な考え方がありますが、日本を一度広域で括って、広域連携の中で活性化するという事を考えなければいけません。ただ「国から地方」という曖昧な言葉の下に権限と資金を移譲して行けば日本という国が良くなるという単純なイメージではなくて、どのようなブロックでシナジーを出していく事が日本として正しいのかという事です。
 いま、私は国交省で広域の地域のブロックごとの自立経済に関する委員会の委員長を務めています。ますます、今後、広域ブロックにおいての地域活性化のシナリオが非常に重要になってきます。広域ブロックでどのような産業を興し、どのような地域との連携で活力を持って行くのかという事が重要なわけです。
歴史を振り返ってみると、人間が足で歩ける範囲でつくっていた地域コミュニティーから活動の範囲も広域化し、アジア日帰りという時代が迫っているのです。そのような流れで新しい視点から日本の広域をどのように括って、どのような体制でいくのがよいのか、それを束ねる国家がどのような力を持っていく国に進んで行くべきなのかという事を問われているのが地方分権で、「知事対霞が関」などという構図で単純化して面白おかしく考えていけないのです。この事が、本日私が話したかったポイントです。つまり、参画という事です。どのように参画して地方の目鼻立ちをつけて行くのかという事について特に若い人たちが関心を持たないと議論は深まりません。

第33回目

木村>  先週の放送は「地域活性化と地方分権」というテーマでした。日本のこれからの形と地方の在り方を地方分権という言葉によってどう捉えるべきなのか、或いは深めて行くべきなのかというお話を伺いました。
 今週は「インドと日本~日本を見つめる定点座標~」というテーマです。この言葉からインドが日本を見つめるための定点座標という事になるのでしょうか?

<インドと日本~日本を見つめる定点座標~>

寺島>  私は国際社会を動いていてインドについて思う事があります。我々は「インド人から見た日本というものを自覚しなければいけないな」というくらい私はインド人の目線を意識します。まるで日本を見つめている定点座標のような気がするわけです。
既にこの8月で終戦から64年が経ち、戦後生まれの日本人と言っても64歳になっているくらいですから、今や忘却の彼方に日本人が忘れている話なのですが、インド人は全く忘れていないという話がいくつかあります。
まず、チャンドラ・ボースという人がいたという事です。よほどの事情通でないと若い人は誰の事なのか知らないと思います。彼はベンガルで弁護士の子供として生まれて、ケンブリッジ大学を卒業したエリートでした。
チャンドラ・ボースは軍国少年だった時代の世代の人からするとインドの英雄と言いますか、日本軍と一緒になってインパール作戦(註.1)を戦って、インド独立のためにイギリスに反逆した風雲児というドラマチックな人間です。調べれば調べるほど「風雲児」という言葉はこの本当にこの人のためにあるのだと思うくらいです。
私はインドに行ってびっくりした事があります。歴史博物館等でガンジーやネルー等のインド独立の英雄という人たちは高く評価されているだろうが、傀儡政権を日本と一緒につくってイギリスと戦ったチャンドラ・ボースという人間は、日本と同じようにインドにおいても忘れ去られていると思っていました。しかし、インドではインド独立の英雄として大変な展示がなされているのです。
チャンドラ・ボースは、最初はガンジーやネルーたちと手を組んでインド独立のために行動していましたが、いわゆるガンジーたちの非暴力主義とは違って、武力闘争をもってしてもインドの独立を達成するのだという事で、インドで逮捕されていたのですがアフガニスタン経由しソ連を経由して抜け出て行ってドイツに渡って、ヒットラーと手を組んでインド独立のためにインド義勇軍のようなものをつくって戦っていたのです。しかし、チャンドラ・ボースはヒットラーの人種差別的な考え方に失望して、日本が開戦した事を聞いて日本軍と一緒に戦おうと思い、ドイツの潜水艦によって送られてマダガスカル沖で日本の潜水艦に乗り換えてアジアに現われたのです。ピーク時はシンガポールでインド独立のための軍を2万人も組織していて日本軍と一緒にインパール作戦の戦いに臨んで行ったという人物という事で歴史に名を残しているのです。しかし、彼は終戦後間近にして日本の旗色が悪いと、今度はソ連に亡命して、ソ連でイギリスからの独立運動をやろうとしましたが、台湾で航空事故によって死んでしまったのです。まさに、終戦の日の頃(8月18日)でした。いま彼の遺骨は東京の杉並区の蓮光寺というお寺に祀られています。
そのような物語を知っている日本人はすっかりいなくなってしまいましたが、インド独立のために戦った7千人は、終戦後に捕まってインドに送還されましたが、これらインド人たちの裁判・処遇がインド民衆の反英独立運動を燃え上がらせる契機となりました。チャンドラ・ボースの戦いは決して無駄ではなかったという事がおそらくインド人の人たちのチャンドラ・ボースに対する理解だと思います。
日本人とこれほど縁のある人物なのに日本人でチャンドラ・ボースと一緒に日本は戦ったという事を知っている人がほとんどいなくなってしまったという事がまず1つ目の話です。
2つ目の話は、これはいまでも盛んに問題になっている事です。日本が戦争に敗れた後、東京裁判がありました。インドを代表する形で東京裁判に判事としてやって来たのがパル判事(註.2)という人で日本人でも結構知っている人がいます。有名な「パル判決文」を書いてインドに帰ってしまったという話です。いわゆる戦犯として当時、東京裁判によって被告になっていた25人全員を無罪だという判決を下して自分の判決書を書いてインドに帰ってしまったというわけです。彼の「パル判決書」は何も日本に同情したり弁護をする意図で書かれているわけではない事はいま文庫本で出版されているので、若い人でもそれを読んだらおそらく心を揺さぶられると思います。
彼は東京裁判の仕組みそのものがおかしいと主張していたのです。復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないような、みせかけの裁判であって、国際正義とは名ばかりで、こんな儀式化された復讐、つまり、復讐を儀式化したような裁判では被告人に対して間違った判決を下すため、後で結局は後悔をする事になるだろうというような判決文を書いて帰ってしまったのです。私は戦後の混乱とゴタゴタの中で憎しみが復讐の心になって繰り返されるような状況の中でこれだけ冷静な法理を尽くした判決文を書いた人物の事が前から気になっていて、インドから来た判事の存在感が心の中に非常に残っていたわけです。
彼は1966年、80歳だった時に招待されて日本にやって来て、尾崎記念館で読売新聞主催によって最後の講演をやりました。彼は「世界平和と国際法」というタイトルで話をするはずだったのですが、壇に上がって老齢だった事もあって言葉が出ないで最初から最後まで無言だったのです。そして、合掌を続けていたそうです。聞いていた人たちがみんな一言も発しない彼の講演に感動して涙を流したという記録が残っています。私は自分が講演をやる機会が色々とありますが、最初から最後まで一言も発しないで感動させるという講演をやってみたいと半分冗談ですが思ってしまいました。
その時、パル判事が「日本の青年に」として朝日新聞に書いていた記事で、西洋の分割統治=divide and rule、つまり、分割して自分の影響力を最大化するというやり方に気をつけろというものがありました。どんなイデオロギーのためであっても分裂してはならないという事を日本の青年に訴えて帰って行ったわけです。
箱根の湖畔に彼の記念碑が建っています。日本人は東京裁判の事を調べている人なら必ずパル判決書というところにぶつかるけれどもこのようなインド人がいたのかという事にびっくりするような感銘を受けるはずです。
そして、もう一つ、これが重要なのですが、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれて日本は国際社会への敗戦後の復帰を果たします。しかし、サンフランシスコ講和条約の時にインドは署名しなかったのです。彼は日本に駐留している全ての米国の軍隊が日本を引き揚げるならば署名してもよいと変な条件を出しました。しかし、翌年にインドは日本との単独講和に応じてくれました。実はインドの単独講和がその後日本がアジアに新しい関係を構築して行く上で大変に重要になり、1955年のバンドン会議(註.3)において日本はアジアに言わば戦後初めてのコミュニケーションのチャンネルを復活して行くのです。

木村>  世界の舞台に初めてと言っていいくらいの復活なのですね。

寺島>  本日、私が話して来たチャンドラ・ボースやパル判事、サンフランシスコ講和条約の時のインドのスタンス等を見ると、要するに、日本という国の国際関係をジーッと見つめて来ているインドの目線が何故気がかりなのかという事が次第に分かって頂けると思います。
 インドはなかなか味わい深く日本を見つめているわけで、何故サンフランシスコ講和条約に署名しなかったのかという事をインドの言葉を心の中で描き出してみると、「あなたたちはついこの間までアジアの解放だとか言って興奮して、インパール作戦だ、チャンドラ・ボースだと言っていたのではないのか? 開戦してわずか5、6年で今度はアメリカとの間に講和条約を結んで行くのは結構だけれどもアメリカ軍の基地を引き受けて、その軍門にくだって根性を失って、アジアの解放だとか自立自尊と言っていた話はどこへ行ってしまったのか?」と言わんばかりのメッセージだと感じます。いわゆるインドの非同盟諸国会議(註.4)を今日においても率いている目線は結構怖いわけです。東西冷戦の真っただ中でも非同盟という事でどこにも帰属しない目線でジーッと日本を見てきていたのです。
 そのような中で、さて、今後日本がどこへ進むのかという事についてもインド人の目線から見ていると思います。核保有しているインドや最近のインドとアメリカとの関係を見ていて、日本人としてインドに対して非常に首をかしげなければならない部分は率直に申し上げてあると思います。しかし、我々は、この番組でも何度も申し上げていますが、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という戦後を生きてきました。例えば、インド人の目線から見たら日本という国の戦前から戦後にかけての歴史はどのように見えるのだろうかと考える事は非常に大事な事だと思います。勿論、インドだけの事ではなく、アジアの人たちの目線で見て、日本がどのように映るのだろうかという事を問いかけてみる時に、インドという問題意識が物凄く重要なのです。この事を本日は話題にしておきたいわけです。

木村>  日本において外交の中でインドが取り上げられる時の一つには勿論、経済的に力をつけているインドとどのように交易=通商を結ぶのかという事と共に、もう一つはとりわけASEANを舞台にして、中国というものをどのようにその力を牽制するのかという発想の時に、どうしてもインドが出て来ます。何と言いますか、ある種の小手先の議論というものが随分多くて、そこが解せないところだと思います。

寺島>  アジアが結局日本を見捨てずに支えてくれた事があるという事を忘れてはならないのです。それは何故かと言うと、日本の戦後に大きな影響を与えたアメリカの元国務長官のダレスがアメリカの「フォーリン・アフェアーズ」という雑誌にサンフランシスコ講和条約の頃、「インドが見ているぞ」という事を書いているからです。インドはアメリカが日本を対等なパートナーとみなして、友好的な協力関係を構築して行く可能性は低いと見ているために、インドは講和条約の調印の条件として米軍の日本及び琉球列島からの完全撤退を要求したわけです。この要求が認められなかったためにインド政府は調印を拒否しました。我々はこのようなインドの懸念が現実のものとならないようにしなければならないのです。つまり、アメリカがフェアーでなければインドが見ているという事です。インドのこのようなスタンスが日本の占領政策に対して物凄く大きなブレーキにもなっています。我々は歴史の中でアジアから決して孤立していないと言いますか、アジアから孤立して敗れたような戦争だけれども、例えば、インドから見た日本がこのような形によって深い縁を持っているという事を我々は歴史の中で学ばなければならないと思います。これが私が申し上げたい事です。

木村>  インドと日本、日本を見つめる定点座標、つまり、我々はつい忘れがちですが、我々がインドから見つめられていて、しかも、そこに歴史的な深い思考がなければならないという事が寺島さんのお話しされた事から学びました。では、後半のお話に展開して行きたいと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方のメールを元にして寺島さんにお話を伺いたいと思います。東京でお聴きのラジオネーム「伊藤勇一」さんからです。
 「日本の景気に関して伺います。先日、4月、6月の日本のGDPが3.7%のプラス成長でおよそ1年半ぶりに景気回復といった報道がありました」。これは年率換算という事です。
 「これは補正予算の効果が出た結果という事ですが、問題はこの先このままプラス成長を続けられるのでしょうか? いま選挙で選挙戦に突入しましたがどの党が政権をとろうともこの先の経済対策が私たち有権者にとって重要になって来ると思っています」。
 確かに、5期ぶりのプラスで、四半世紀ぶりの5期重ねてのプラスになったという事が大きく報道させましたが、この先どのようになるのかという事ですね。

寺島>  日本経済が四半期のベースでプラスに転じた大きな理由は2つあります。
1つはカンフル効果で緊急避難的に打っているエコカー減税等、色々な事をやっていますが、このようなカンフル注射が効いているという瞬間風速的な意味と、そしてもう1つは中国依存要素と言いますか、中国向けの輸出が日本の景気回復を支えている事です。何もかも中国に依存して景気回復する日本という姿が見えてきていて、長期的に見ると日本の産業等の構造が長期的な成長に実現して行けるような軌道の中にあるとは考えないほうがよいと思います。だからこそ、長期的な視点において、例えば日本産業の弱点を補って未来に布陣するような方向に重点的に未来投資が行なわれる流れをつくっていかなければならないのです。そして、瞬間風速的に一喜一憂しないという事が非常に重要です。
 短期的な数パーセントのGDPの動きに対して一喜一憂するよりも、未来に向けてもっと中身のある、つまり、外国に依存しなければ成長できないような状況から内需を固めて資源を外国に依存しなければならないところから資源を自分の国の中で技術をもって資源開発に立ち向かうような視点を持つことです。この番組でも海洋等、色々な事を言ってきましたが、そのような戦略視点が物凄く重要なわけでカンフル的要素に一喜一憂しない事がいま我々が経済をしっかりと見る時の基本的な視点にしなければならない点なのだと思います。

木村>  だからこそ、寺島さんがいつもおっしゃっている「産業力」というキーワードが出て来るわけですね。

寺島>  産業力を支える日本の技術基盤は決して虚弱なわけでも何でもなくて、私はいま世界が環境を軸にしたグリーン・ニューディールが話題になっている時に、日本が持っている潜在的な技術基盤が物凄く重要になって来ていると思います。
 私は数日前まで台湾に行っていて、台湾の枢要な人たちと色々と議論をして来ましたが、日本の技術に対する彼らの敬意は大変なもので、どのようにしてそれと連携して行くのかという事を盛んに色々な形で提案を受けて議論もしました。
いま、我々は、日本の持っている技術力に対する自覚を高めなければならないのです。そして、それに更に力を与えていかなければなりません。特に若い人たちの技術系離れが起こっていますが、「日本の宝は技術力なのだ」という事を我々は意識の中で共有しなければならないと思います。

木村>  技術力がとても大事なもので、言葉が適切かどうか分かりませんが、そこに従事するという事、そして、働くという事が尊い事なのだという価値観を社会にもう一度思い出さなければならないですね。

寺島>  それが報われる仕組みをつくならければならないのです。これが教育だ何だというところに繋がって行くのだと思います。そこのところがこれからの社会工学と言いますか、政策科学の中で一番問われなければならない点なのではないでしょうか。

木村>  という事が、やはり数字というものを受けとめる時に、ただ数字だけに一喜一憂しなくても、我々が考えるべきところはここにあるのだという事になると思います。

(註1、1944年3月に開始され、7月まで日本軍によって続けられた軍事作戦。ビルマ防衛のため、英国軍の対ビルマ軍略拠点のインパールへの進攻を企図した)

(註2、Radhabinod Pal。1886年インド・ベンガル生まれ。1923年、カルカッタ大学法学部教授、カルカッタ大学総長時にインド代表として東京裁判の判事の一人となった)

(註3、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカの29カ国による会議。アジア・アフリカ会議とも言われる)

(註4、東西冷戦期に、いずれの陣営にも組みせず、中立を貫こうとした諸国による会議で、1961年以降、基本的に3年に1回開催)