2010年06月 アーカイブ

2010年06月20日

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2010年06月27日

第53回

<普天間米軍基地問題を如何に考えるか>


木村>  本日はテーマに入る前に、普天間問題についてお話を伺いたいと思います。
これが結局、鳩山政権を大きく揺さぶって総理の交代にまで繋がっていきました。いま、あらためて寺島さんはこの問題をどのように捉えて考えていらっしゃいますか。

寺島>  鳩山外交が挫折した理由は何かというと、普天間問題を沖縄の基地の負担軽減問題に封じ込めてしまったところにあります。鳩山さん自身は感性の人、センチメントの人で沖縄に対する同情心が人一倍強くて、沖縄に日本の米軍基地の7割以上が集中しているという、あまりにも荷重な負担だという熱い思いがあるために、「少なくとも県外」と言ってしまったのです。
本当は普天間問題のどこを議論しなければならないのかというと、アメリカとキチンと向き合って、日本におけるアメリカの基地の問題、日米同盟の在り方について、政治家として、リーダーとして次にどこにもっていくのか、何を目指しているのか等ということについてしっかりと語りつくして、沖縄に対してもアメリカに対しても向き合わなければならなかったのに、何とか負担軽減ができないのというあたりに論点をおいてしまったのです。例えば、沖縄県外で基地を引き受けてくれるところがあれば、この話は一件落着なのですかというと、実はそのような話ではないのです。そのあたりのことで迷走してしまったところが大問題であったのだと思います。
 本来、これをきっかけにして日本の安全保障や日本の進路等に関わる議論をしっかりと行なわなければならなかったにもかかわらず、負担軽減をどのようにするかという次元で終始してしまったのです。民主党政権になって、盛んに政治主導と言い出しました。私はいろいろな官公庁の新たなる動向をみていて、確かに政務三役が主導してく方向にもっていく省庁が多いのですが、その中で外務省と防衛省だけはある面においては未だに実務官僚がある種の縛りをかけているのです。彼らの後ろにアメリカという存在があり、アメリカが「うん」と言わなければこの話は動かないというロジックが金縛りをかけていて、今回の普天間問題の迷走においても、鳩山氏のセンチメントとは別に、これが一種の羽交い絞めをしたというあたりがポイントだと思います。つまり、本来ならば、アメリカの基地の安全の問題、ヘリコプターの墜落の事件や暴行事件等がきっかけとなって、普天間移転という問題が起こってきているのにもかかわらず、当事者であるアメリカ自身が懐手をして、「俺が気に入る場所が見つかったらもってきてくれ」という空気になってきて、国内問題として内輪もめ的な話だけになってしまったのです。
問題はそのようなプロセスの中で、政治家として菅さんにもそのまま引き継がれているテーマでもあるけれども、今後の日本の安全保障の構想力が問われているのです。冷戦後20年が経った時点で、「冷戦後の世界においてどのようにしていくのか?」ということについて、どのようなビジョンと構想をもっているのかということ無しには永遠に普天間問題さえも解決できないのです。
 そこで、結局誰もが感じたことですが、「米軍基地が何故、日本に必要なのか」という時に、「抑止力」という言葉が盛んに登場してきました。

木村>  脅威があって、それに対する抑止力が必要という論ですね。

寺島>  例えば、北朝鮮の現実の脅威や中国の潜在脅威等に対して、アメリカという重石のようなものがいなくなってしまったら、日本は不安であるというロジックに引っ張られる人たちが日本の国民の中に大変多かったと確認したことも大きなポイントの1つだったと思います。
 そこで問題になるのは、確かに東アジアを不安定にしてはならないという時に、日本人としてしっかりと考えなければならないことは、日米同盟の質を新しい時代においてどのようにしていくべきなのかということです。中国の台頭という力学、アメリカと中国が一段とコミュニケーションを深めている状況下で、アメリカという国とどのように同盟関係を進めるのかという意味においての新しい日米関係の進化を図らなければならないところにきていると思います。その際に、ボトムラインとして腹の中においておかなければならないことは、今年戦後65年が経とうとしている時に日本の自立自存をかけて、アメリカに過剰に期待し、過剰に依存してこの国の安全を図るということから、どのように自立心を高めていくのかということが問われていることも確かです。
 一方では、抑止力として何らかの形で日本の安全を確保するためにアメリカとの軍事同盟が大事であるという気持ちを持っている人が多いということも確かです。そのような時に、どのようにしたらよいのかというと、質をよく吟味する必要があるのです。極東の安全保障において重要性をもった基地なのかどうかということを段階的に吟味して、段階的縮小を図ることと、基地の管理権を日本側に1つずつ取り返していくことです。日本に存在している米軍基地は世界で展開している米軍基地の中で例外的であるということはこの番組で何回も言ってきていますが、アメリカ側が占有権を持っていて、占領軍の基地のまま自由自在に使ってよいということになっています。これからは日本側が管理権をもって、安全等の様々な問題を担保しながら抑止力として米軍が共有して存在しているという形の基地に段階的に変えていく努力をし始めなければならないと思います。
 要するに、何がポイントなのかというと、冷戦を前提にして日米安保条約が結ばれて、冷戦の時代が終わって、新たにアジアが動き始めている時代に不安定を起こしてはならないけれども、日米安保改定から50年を経て、アメリカとの関係もキチンと再設計しなければならない時にきているのです。これは普天間問題は鳩山政権の挫折という形でいまは見えていますが、この問題は何も解決されないまま我々は引き続いてこれに向き合っていかなければならなくて、まだ入口の扉にさしかかった程度の話なのかもしれないのです。これは相当腹を括って日本人としてこれから考えていかなければならいテーマだということを本日はまず申し上げておきたいのです。

木村>  これはリスナーの皆さんと問題意識を共有するだけではなくて、問題提起としては菅内閣に突きつけた形になっていますが、ある意味においては、最大のエールを送っていると受けとめて欲しいと思います。

<日本経済再生への道>


木村>  さて、もう1つの今朝のテーマ「日本経済再生への道」についてお話を伺いたいと思います。もしかすると、これも「強い経済、強い財政、強い社会保障」を掲げた管内閣への問題提起でもあり、かつ、エールかもしれません。
 今年のお正月にNHKスペシャルで「メイド・イン・ジャパンの命運」が放送されましたが、「日本は何で食べていくのか、日本は何を作るのか」というコメントが繰り返し流れました。成長戦略という言葉は何年も聞いてきているのですが、再生への道は何故始まらないのかという苛立ちばかりが募ります。

寺島>  6月に相次いで発表になった経済産業省の2つのビジョン構想がありました。1つは「産業構造ビジョン2010」を取りまとめる委員会と、それと並走する形でエネルギー基本計画の見直しをする委員会があって、私は両方の委員会に参画しています。ちょうどそれらのレポートが出たところなので、その方向感について語りたいと思います。
 まず、産業構造ビジョンについてお話しいたします。今回の産業構造ビジョンの大きな問題意識は、技術では日本の産業は大変に優れているのに、例えば、UAEの原子力のプロジェクトで韓国に敗れたとか、南米の地上デジタル方式で日本方式が続々と採用されているにもかかわらず、テレビの受像機の市場においては韓国に席捲されているという状況で、技術では優れているのにプロジェクトや事業で押されている日本をどのようにしていくのか、はたまた、中国の存在感がぐんぐん高まってきて、日本の存在感がどんどん落ちていって、一体これはどうしてくのかという点にあります。このビジョンの取りまとめに関しても相当踏み込んだ形で今回、私は参画しています。
 今回の方向感の中で、いままでと違う一番大きなポイントは何かというと、政府の役割です。つまり、ついこの間まで新自由主義時代といわれて、小泉構造改革と盛んに言っていた時代がありました。あれは一体何だったのかというと、競争主義と市場主義を徹底させて、各企業が競争して切磋琢磨すれば、どんどん効率化が進み、生産性が上がり、競争と市場を梃にして、経済の活力を高めていこうという考え方が日本の産業をどのようにしていくかという時の基盤になったのです。
しかし、ここのところにきて、世界で成果を収めている国のやり方を見ていると、ガバナンスといいますか、日本は昔、「日本株式会社」といわれて、官と民とが一体になって戦略を組んでいると盛んに批判されたものですが、いつの間にか、日本自身がそのようなことから市場機能を大事にしていくという方向にいきました。事実、肝心要のところで、例えば、為替のコントロール等の色々な政府の機能が働いている経済の方がうまくいっているのです。いわゆる悪口を言う人は、シンガポールを「笑顔の北朝鮮」等という言い方をする人もいます。「開発独裁国家」という言葉があるくらい国家のガバナンスが効いている国がうまくいっているのです。そのような国を見習っていこうというのではなくて、要するに、市場機能を活かしていくのだけれども、新たな官・民連携で、官の役割をしっかり踏み固めたシステムをつくっていこうということが今回の大きな問題意識なのです。
もう1つは産業構造において自動車産業に過剰に依存し、「一本足打法」というくらい、「自動車だけの産業国家なのですか?」と言われかねないくらいの状況なのです。今度のビジョンでは、「戦略5分野」で、「八ヶ岳構造」という8つの峰がそびえているような産業構造の国にしていこうということで、例えば、インフラ関連のシステム輸出、つまり、新幹線等のパッケージで官・民、力を合わせて海外に売っていくというような戦略産業分野であるとか、新たに文化産業論が出てきて、コンテンツやファッション、音楽や漫画さえ含めて、最近でいうと、若い人が「クール・ジャパン」というように、アジアのみならず世界に日本のそのような文化産業をぐっと押し出し始め、それらを一段と加速させていこうという流れがあります。更に、少子高齢者社会に向けて医療、介護、健康、子育て等の分野、また、先端技術の分野に照準を合わせていくことで、今回相当腰の入った新たな産業構造への転換を目指していくような構想が語られ始めました。したがって、1つの物語がようやく見えてきたのです。今後の重点分野はここだというようなキャッチフレーレズだけではなくて、それをどのようにして、しかも、それをやることによってどれくらいのJOB=雇用を創出していくのかということです。分かり易くいうと、先程木村さんがおっしゃったように、日本人はどのような産業で今後飯を食っていくのかという話がストーリーとして見え始めているということです。
私は本日この番組を聴いている若い人たちも経産省の今度の産業構造ビジョンのサイトにアクセスして、是非それを見て、若い感性によって「俺たちはこのように思う」という意見をどんどん言って、刺激をして行くという参画型のアプローチをして頂きたいと思います。

木村> そこの問題をどのように実現していくかについて後半でお話を伺います。

<後半>

木村>  前半のお話で「戦略5分野」、「八ヶ岳構造」という言葉が出てきました。これらを実現していくためには、政治や人任せにするのではなくて、若い人たちもそこに参画をしていくことが必要です。寺島さんの立場で、これを実現していくためには、あるいはこれまでにやろうとしてなかなか産業政策が実現できなかったものを具体化してくにはどのようなことを考えていかなれければならないのでしょうか。

寺島>  これは本当に簡単なことではなくて、課題として、問題意識と思って聞いて頂きたいのですが、年収300万円くらいの確保ができる新しい仕事をどのように創出していくのかということです。いま、日本は額に汗して働いている総労働人口の3分の1以上が年収200万円以下で働いている状況になっています。したがって、豊かさの実感もなくて、ある種のギリギリ感や苛立ちも溢れてきています。
 今回、経産省の産業構造ビジョンが出ましたが、これを経産省の話だけに終わらせてはなりません。例えば、農林水産省に関連する分野では、日本は食糧自給率を高めることが課題となっています。海外から年間6兆円の食糧を買っていて、それによって我々は生きている国になってしまっています。その自給率を40%からカロリーベースで60%まで上げていこうという時に、例えば、農業生産法人のように、システムとしての農業を行なって、そこに若い人たちが参加できるような株式会社農業のようなプラットホームが見えてきて、農耕放棄地という統計上は農地になっているけれども、実際にはほったらかしになっていて何も作られていないような農地に多収穫米や雑穀等を作って、それを日本の鶏や豚に食べさせるような仕組みによって、1つの生産法人のようなものができてくれば雇用が生まれます。そこで、例えば、都会のサラリーマンをやっていた人が農業生産法人、或いは、流通法人の中で、営業マンや経理の担当者として働くなどして、農業や食という分野を新しい仕事を生みだす仕組みとしてつくりなおしていくのです。
 事実、既に日本の農業生産法人は1万を超すくらい増えてきています。そのようにつくってきたものが海外で日本の食材は安全で美味しいと評判になり、昨年は4,000億円くらいにまで食べ物が輸出されている時代になってきたのです。このようなメカニズムを更に拡大していくのであれば、そこで仕事を見つけ、飯を食べ、しかも、年間300万円以上の収入を得ることができる人たちを増やすことができます。この分野において、ザックリと申し上げて100万人は増やせるという推計値があります。
 このようにして仕事を創り出していき、活き活きと300万円以上の豊かな収入を得て、参画して、しかも、日本の食糧自給率を高めることに貢献しているという実感を味わうことのできる仕事をどのように生みだしていくのかということです。ただ仕事の数を増やせばいいというのではなくて、若い人たちが納得して感動できる仕事を創造していくシナリオが物凄く重要です。
例えば、今度の産業構造審議会のビジョンを他の省庁のいわゆる成長戦略で出してくるシナリオとしっかりと結びつけるのです。私はいま、たまたま農業や食の話をしましたが、これだけではなくて、総務省が推進している次世代ICT(註.1)、つまり、IT方面の技術革新の中からどのような仕事が生まれてくるのかということです。それは、いま話題になっているiPad等が定着していく中で、それらを使って新しい仕事や感動できるような仕事を増やせるのかということが凄く重要であり、このような物語をしっかりと描き切れるような産業構造ビジョンでなければならないのです。そのようなものに1歩踏み込んだところが今回初めて、「何で稼ぎ、何で雇用をするのか」という議論が出てきていて、若い人たちの希望がみえてきたと思います。自分はどのような分野で実際に稼いで自立して仕事をしていくべき人間なのかということを選択して考えることができるのです。これが非常に重要なのです。
 そのような意味において、産業構造ビジョンのようなものが実際に自分たちの生身の人生をどのように変えていくのかという実感によって読み取って頂きたいのです。「いや、こんなものでは薄っぺらだ」と思ったのであれば、また更に提言したり、参画したりして、そのようなことを吸収しながら、我々、政策科学に参画している人間もそのようなところから問題意識を高めていかなければなりません。今度のシナリオは少し生身の匂いがするのです。

木村>  つまり、これは経済産業省のビジョンだけれども、農林水産省も、総務省も、あらゆるところが連環をして1つの政策としてこれをどのように力を合わせて実現していくのかというような発想がなければならないということですね。

寺島>  そのようなことだろう思います。

木村>  これはこの番組でも引き続き深めていきたいと思います。

(註1、International and communication technology。ITという同義語だが、海外ではITからICTという表現が使用されるようになっている。情報通信技術)

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2010年7月のスケジュール

■2010/7/9(金)06:40頃~
NHKラジオ第一「ラジオあさいちばん」
※うち、『ビジネス展望』コーナー

■2010/7/11(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2010/7/17(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」

□2010/7/18(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/7/18(日)08:00~
TBS系列「サンデーモーニング」

□2010/7/24(土)05:00~
(首都圏以外)FM「月刊寺島実郎の世界」
 
■2010/7/24(土)08:00~
讀賣テレビ(日本テレビ系列)「ウェークアップ!ぷらす」

□2010/7/25(日)07:30~
(首都圏のみ)FM「月刊寺島実郎の世界」

■2010/7/30(金)21:54~
テレビ朝日系列「報道ステーション」

第54回

<咸臨丸150周年への思い>

木村>  先週の放送は「日本経済再生への道」というテーマでお話を伺いましましたが、もしかすると長い間悩んできた日本の社会に光が見えるかもしれないと感じました。ただし、その場合も我々1人1人がそこに参画していくことも大事であることが寺島さんのお話によって伝わってきました。
 今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「咸臨丸150周年への思い」です。NHK大河ドラマの『龍馬伝』でも咸臨丸が出てきました。

寺島>  今年は、咸臨丸なる船が万延元年=1860年に太平洋を渡ってサンフランシスコにいってからちょうど150周年です。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎等を乗せていたのです。これは何のためにかというと、幕府が最初にアメリカに送ったミッション、つまり、使節団がワシントンを訪れましたが、それに随行する形で咸臨丸は太平洋を渡っていきました。
私は今般、その咸臨丸についてサンフランシスコに行って調べてみました。これをきっかけに私なりに非常に考えさせられたことがありました。ある種の臨場感をもって聞いて頂きたいのですが、ちょうどいまのシーズン6月の話になります。咸臨丸はアメリカのサンフランシスコを5月8日に立って日本に向かっていて、浦賀に6月22日に帰ってきました。分かり易くいうと、いまのシーズンに太平洋を今度は逆に日本に戻っていたのだということです。
咸臨丸はオランダが造ったのですが、長さ36.6メートル、幅8.6メートル、重量620トンという小さな船なのに96人も乗って渡っていきました。
いずれにせよ、日本にとっては最初の日本人だけで太平洋を渡ったということになっていますが、実際はアメリカの海軍の軍人が10人乗っていました。それは日本の近海で測量船が座礁して帰りの船がなくて、一緒に乗っていったのですが、これらの人たちが結構太平洋の荒波を越えていく時に支援をしてくれたのです。彼らが書き残している資料があって、「牢獄に閉じ込めて、大地震に遭っているようなものだ」とあって、つまり、めちゃくちゃに船が揺れる中をグロッキー状態で太平洋を渡っていったということです。
私は咸臨丸のことを調べていて、いくつかとてもおもしろいエピソードに出くわしました。まず、福慶應大学の開祖福沢諭吉なのですが、当時、彼は27歳で勝海舟は37歳でした。
福沢諭吉がアメリカに辿り着いて非常に印象深いエピソードを福翁自伝に書いています。「アメリカの建国の父と呼ばれているジョージ・ワシントンなる人物がいるようだが、その人の子孫はいまどうしているのだろうか?」と彼はサンフランシスコで聞いたらしいのです。そうすると、誰もが顔を見合わせて「知らない」と言ったのだそうです。そこから彼は面白いことを書いていて、「日本で言えば、源頼朝や徳川家康の子孫のようなはずなのに、その人がいまどうなっているのか知らないなんていう話を聞いてびっくりした」。別の言い方をすると、その瞬間にアメリカの民主主義が何事なのかということを彼なりに感じ取ったのです。

木村>  そこの感性の鋭さがありますね。

寺島>  氷川清話の中で、勝海舟はアメリカを渡って帰ってきて、報告のために御老中に呼び出されたことを書いています。「君は一廉の人物だからアメリカを渡って何かを発見しただろうから言ってみろ」と言われたそうです。勝海舟は少しへそ曲がりな人なので、「およそ人間が住んでいる所は世界中どこに行っても、どうも変わりはないようです」と答えたのです。しかし、「いやいや、そんなことはないだろう。君のことだから何か違いを発見しただろう」と問い詰められて、「かの国(アメリカ)では上に立つ人は利発な人が多いようでございます」、つまり、利口な人が上に立っているということです。そうすると、そのように答えた瞬間に「無礼者!」と怒鳴られたという話を面白おかしく書いていました。
 このように、福沢諭吉や勝海舟等の色々な物語を残しながらアメリカを見たということが日本において大きな意味をもったミッションだったということが、その後の彼らの役割を思い起こしてみるとよくわかります。ただし、我々が誤解してはならないのは、福沢諭吉も勝海舟もワシントンには行っていないのです。つまり、正使の一行はサンフランシスコから南下して、現在のパナマ運河があるところのパナマまで行って、その当時はまだ運河がなかったために陸路を汽車に乗って越えました。おそらく日本人で初めて汽車に乗った人たちになると思います。カリブ海側に出て、アメリカの軍艦に送られてワシントンに行っています。日本人にも多いに誤解があるけれども、本当は勝海舟も福沢諭吉もサンフランシスコだけを見て帰ってきたに過ぎないのです。
 ところで、咸臨丸から100年経った時が1960年です。多くの人がピンとくると思いますが、1960年は日米安保改定の年だったのです。咸臨丸から100年経ったところで考えてみると、日本は戦争に敗れ、1951年にサンフランシスコ講和条約を結んで、日米安保の体制に踏み込んでいきました。それから9年後が1960年なのです。ここで、臨場感をもって考えて頂きたいのですが、6月15日に全国で580万人の人がデモに参加して、国会を人の渦が取り巻くような大デモとなり、安保反対闘争が盛り上がって戦後日本で最も熱い政治の季節だったということが、咸臨丸から100年経った1960年で、いまからちょうど50年前だったわけです。
 当時、樺美智子さんという東大生だった女子大生が踏みつぶされたような状況で亡くなりました。先日、私は若い学生などと一緒に話をしていて時代の変化を感じたのが、「女子大生の樺さんが何故、国会なんかに行っていたのですか?」という質問を受けたことです。いまの若い人たちは率直にいうとそのような感覚なのだと思います。例えば、iPadの発売に1,500人並ぶという感覚は理解できるけれども、何故、女子大生が国会に行って踏み殺されるような目に遭わなければならなかったのかということについて、おそらくイマジネーションの中に入ってこないのだと思います。若い人たちが自分の私生活に関わる自分の関心領域や好きなことなどのために並ぶという感覚は理解できるけれども、少なくとも、50年前の大学生が日本の将来や国家や安全保障等の関して深く問題意識をもって、全国で580万人の人たちがデモに参加する時代があったということを歴史認識の中でどのように理解するかということがとても大事で、少なくとも自分の利害打算を超えたところで人が動いていた時代があったということを考えなければならないということを話しました。ここのところが大きなポイントだと思います。
 以前、この番組でも話題にした1955年にバンドン会議があって、日本はじわりとアジアに還り始めました。アメリカとの協調関係を軸にしながら、西側陣営の一翼を占める形で西側にコミットして東側と向き合うという冷戦の時代を生きるためにアメリカとの同盟関係によって生き延びていこうという選択をしてから、1960年にもう一度、国民にとって大きな転換点がきたのです。
 そこで、面白いのは1960年に不思議なことに大阪市が寄贈する形で、サンフランシスコの小高い丘の上のゴールデンゲイトブリッジを見下ろす場所に、咸臨丸100年記念碑が建立されたのです。これは大阪市がサンフランシスコと姉妹都市だとういうことが理由らしいのですが、その時の除幕式には9年前の日米安保の立役者であった吉田茂氏が太平洋を渡って出席していました。つまり、まだ、咸臨丸100年が日米双方で大きな話題になっていた時代だったのです。
 しかし、今回、日本側のメディアの一部に「そう言われてみれば、咸臨丸から150年だ」というような記事がポツポツとは出ていますが、「咸臨丸150年とは」とか、「あれを機会に日米関係150年を振り返るとどうなるのか」という話は一向に出てこなくて、そんなに話題にすらならない状況で、日米双方で盛り上がりもないというところに、いま我々が生きている時代のある種の特色があるのだと思います。
その背景にある構造を調べてみて驚きましたが、いまからちょうど50年前、日本の貿易の輸出と輸入を合わせた貿易総額の内、アメリカとの貿易比重が36%の時代だったのです。つまり、4割近くがアメリカとの貿易によって飯を食っていた国だったということです。当時、日米安保を今後どのようにするのか、という議論をしてみても、現実に日本人が飯を食っている種の貿易の4割近くがアメリカとの貿易で生活を成り立たせている国という状況で、そこがしっかりと日本を金縛りのようにしていたために、アメリカとの同盟を軸にして生きていくという選択肢はそのような文脈においても、ある面では必然でもあったし、逃れようがない部分もあったのだと思います。
しかし、あれから50年が経って、昨年の日本の貿易総額において、対米貿易の比重はわずか13.5%にまで落ちてきていて、中国との貿易比重が20.5%になっているのです。そして、アジアとの貿易比重がほぼ50%というような国に変わってきたのです。
経済における日本とアメリカとの関係で、たまたま、いま貿易だけの数字だけを使ってお話しをしましたが、投資においても、人の動き、つまり、海外渡航者の数においてもアメリカとの関係がどんどん細っていっています。例えば、アメリカの西海岸に訪れている日本人の数は2000年がピークだったのですが、この10年で半分になってしまいました。それくらいに日本人の存在感が西海岸でも消えて、中国人と韓国人だけがやたら目立つような構図になりました。
このような状況を背景にしても、ここに1つの歪みのようなものが見えてきます。日本の場合、いまだに経済の関係においてはアメリカとの関係がどんどん薄くなってきています。しかし、外交安全保障の関係においては極端に言うと、アメリカとの関係は9割くらい頭の中で引きずっています。その枠組みから1歩も出られない状況の中で喘いでいるというところにある種の日本のアンバランス感があるのです。外から見ていると、例えば、アジアの目線から日本を見ている時に、滑稽な空気が漂っています。分かり易くいうと、アジアは日本にとって一番のビッグ・カスタマーなのです。つまり、毎日ビジネスをし、商売をしている相手で一番重い存在になってきているアジアが貿易の5割を占めています。そして、中国が20%を超すという状況になって、一番の取引先に対してまだアジアとの関係、中国との関係が信頼できず不安なために、昔ながらの同盟関係に物凄くしがみついて、アメリカという用心棒に頼っていないと不安で仕方がないのです。積極的にアジアとの関係を安全・安心な関係に作り直していくのだと構えるのではなくて、あくまでもアメリカに頼っていないとアジアとの関係は信頼できないという構図の中にうずくまっているというその辺りの滑稽感が日本に対するアンバランス感となり、日本をアジアのリーダーとして敬愛する気分が萎えてきている空気を私は本当に感じています。このことが咸臨丸150年という時に考えざるを得ないのです。
最後に、咸臨丸はどうなったのかという話だけはしておきたいと思います。咸臨丸は明治4年に太平洋を渡っていってから、11年後に函館の西の海岸で座礁して沈んで最後を遂げます。私は個人的にも北海道出身の人間なので思いも熱いのですが、「ああ、咸臨丸は結局、最後は北海道の函館の近くの海岸線で座礁して沈んだのか……」という思いは何か胸に迫るものがあって、非常に複雑な気持ちになります。

木村>  寺島さんのお話で、いまを生きる我々が咸臨丸100年と150年の時代の対比の中から考えるべきことはとても重いと感じました。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方々からのメールを紹介して寺島さんにお話を伺います。
30代前半の男性、ラジオネームSegawaさんからです。「僕はアメリカで会計を専攻する者です。勉強する傍ら、Podcastで番組を楽しく聞いています。今回のお話は全て本当に面白くかつためになりました。全て目からウロコが落ちる内容でした」。これは5月の放送で大中華圏をはじめとするお話の回のことですね。
 次に、20代後半の男性、ラジオネームZIMAさんからです。「バンドン会議の番組を聴いていて、久しぶり熱くなりました。現在日本のブランディングを再構築するために化粧品業界で働いていますが、30手前になって『我々のアジアの繁栄』を共に生きる覚悟をしました」。このように番組を聴いて下さって覚悟をされた方もいます。
 東京でお聴きの女性、ラジオネームてるみーさんからです。「このような硬派な番組をあることをとても嬉しく思います。私は社会や政治的な個々の問題に対し真剣に考えていくと自分がどう感じてどう考えるかだけではなく、どう行動するか? 社会をどう変えるか? 変えたいのか? まで考えています。普段から考え続けていると自分が行動したところでなかなか社会は変わっていかないことに対し、なんだかひとりで焦って空回りしている部分があるのも事実です。そんな時にこの番組に出会い、立ち止まって、どう生きるかというところまで広げて考えると、個別の問題での行き詰まり感というのが気にならなくなってきました」。このメールの内容はリスナーの方が寺島さんの『世界を知る力』のある通奏低音のようなところを受けとめて下さっているように感じます。

寺島>  ある種の限界は当然分かりますが、メディアの役割といいますか、私は本当に知は力であると思っていて、若い学生諸君とも向き合っていますが、事実をしっかりと知るということと、それを踏まえて、できるだけ世界を広く見渡していく努力をしてみるということと、自分の足元を掘り下げて、鳥の目と虫の目という言い方をしますが、地に足のついたものの見方や考え方を身につけていくことが必要だと思います。この種の放送等はそれに若干の刺激を与えて考えるヒントを与えることがぎりぎり限界であると思いますが、とても大事なきっかけとなっているということを感じると我々送り手側として感動します。

木村>  それと共に、勿論、身の周りには難しい問題がたくさんあるのですが、生き方としてこの番組を聴いていると行き詰まり感が気にならなくなって、そのようにして力を得るということの大切さがこのメールに表れていて、この番組は凄い聴かれ方をしているのだと感じました。

寺島>  できるだけ歴史認識を深める話題と時代に直接向き合う話題を組み合わせながら、良い内容にしていきたいと思います。

木村>  前半で咸臨丸100年、150年の時代の移り変わりがありましたが、先程のメールの中で「30手前になって『我々のアジアの繁栄』を共に生きる覚悟をしました」と書いてありますが、いかがでしょうか?

寺島>  私もそのメールを読ませて頂きました。特に20代、30代の若い人たちは自分の職場での役割期待の中にどんどん埋没していかざるを得ない時期なのだと思います。私自身も商社という世界に入り込んで、あらゆる意味においてストラッグルしていました。しかし、その時のことをいま思い起こしてみれば、企業を超えた勉強会や専門家との研究会等に参加するようになって自分の視界を広げるために、本当に自分なりにストラッグルしていた20代、30代であったとつくづく思います。
 したがって、自己満足しないで、できるだけ機会を捉えて、研究会や異業種の勉強会等に参加していく努力をしていく時間管理です。これは意志がないとなかなかこのようなことはできません。志がなくてはなりません。このような面で私はよくマージナル・マンという言い方をしますが、いろいろな境界を生きるということです。つまり、会社の中で役に立たないような人間では話にならなくて、それはプロフェッショナルという意味において自分がそこで飯を食っている世界なのだから会社の中でもキチンと評価される折り合いをつけなければなりません。同時にそのようなところで内輪の評価を受けて満足するだけのではなくて、1歩でも2歩でも何か食いついていかなければならないということです。これが大事であると思うし、その1つのきっかけになるような番組していきたいと思います。

木村>  本日の後半はメールを御紹介させて頂いたリスナーの皆さんに寺島さんからまた熱いメッセージが語られました。