第33回目

木村>  先週の放送は「地域活性化と地方分権」というテーマでした。日本のこれからの形と地方の在り方を地方分権という言葉によってどう捉えるべきなのか、或いは深めて行くべきなのかというお話を伺いました。
 今週は「インドと日本~日本を見つめる定点座標~」というテーマです。この言葉からインドが日本を見つめるための定点座標という事になるのでしょうか?

<インドと日本~日本を見つめる定点座標~>

寺島>  私は国際社会を動いていてインドについて思う事があります。我々は「インド人から見た日本というものを自覚しなければいけないな」というくらい私はインド人の目線を意識します。まるで日本を見つめている定点座標のような気がするわけです。
既にこの8月で終戦から64年が経ち、戦後生まれの日本人と言っても64歳になっているくらいですから、今や忘却の彼方に日本人が忘れている話なのですが、インド人は全く忘れていないという話がいくつかあります。
まず、チャンドラ・ボースという人がいたという事です。よほどの事情通でないと若い人は誰の事なのか知らないと思います。彼はベンガルで弁護士の子供として生まれて、ケンブリッジ大学を卒業したエリートでした。
チャンドラ・ボースは軍国少年だった時代の世代の人からするとインドの英雄と言いますか、日本軍と一緒になってインパール作戦(註.1)を戦って、インド独立のためにイギリスに反逆した風雲児というドラマチックな人間です。調べれば調べるほど「風雲児」という言葉はこの本当にこの人のためにあるのだと思うくらいです。
私はインドに行ってびっくりした事があります。歴史博物館等でガンジーやネルー等のインド独立の英雄という人たちは高く評価されているだろうが、傀儡政権を日本と一緒につくってイギリスと戦ったチャンドラ・ボースという人間は、日本と同じようにインドにおいても忘れ去られていると思っていました。しかし、インドではインド独立の英雄として大変な展示がなされているのです。
チャンドラ・ボースは、最初はガンジーやネルーたちと手を組んでインド独立のために行動していましたが、いわゆるガンジーたちの非暴力主義とは違って、武力闘争をもってしてもインドの独立を達成するのだという事で、インドで逮捕されていたのですがアフガニスタン経由しソ連を経由して抜け出て行ってドイツに渡って、ヒットラーと手を組んでインド独立のためにインド義勇軍のようなものをつくって戦っていたのです。しかし、チャンドラ・ボースはヒットラーの人種差別的な考え方に失望して、日本が開戦した事を聞いて日本軍と一緒に戦おうと思い、ドイツの潜水艦によって送られてマダガスカル沖で日本の潜水艦に乗り換えてアジアに現われたのです。ピーク時はシンガポールでインド独立のための軍を2万人も組織していて日本軍と一緒にインパール作戦の戦いに臨んで行ったという人物という事で歴史に名を残しているのです。しかし、彼は終戦後間近にして日本の旗色が悪いと、今度はソ連に亡命して、ソ連でイギリスからの独立運動をやろうとしましたが、台湾で航空事故によって死んでしまったのです。まさに、終戦の日の頃(8月18日)でした。いま彼の遺骨は東京の杉並区の蓮光寺というお寺に祀られています。
そのような物語を知っている日本人はすっかりいなくなってしまいましたが、インド独立のために戦った7千人は、終戦後に捕まってインドに送還されましたが、これらインド人たちの裁判・処遇がインド民衆の反英独立運動を燃え上がらせる契機となりました。チャンドラ・ボースの戦いは決して無駄ではなかったという事がおそらくインド人の人たちのチャンドラ・ボースに対する理解だと思います。
日本人とこれほど縁のある人物なのに日本人でチャンドラ・ボースと一緒に日本は戦ったという事を知っている人がほとんどいなくなってしまったという事がまず1つ目の話です。
2つ目の話は、これはいまでも盛んに問題になっている事です。日本が戦争に敗れた後、東京裁判がありました。インドを代表する形で東京裁判に判事としてやって来たのがパル判事(註.2)という人で日本人でも結構知っている人がいます。有名な「パル判決文」を書いてインドに帰ってしまったという話です。いわゆる戦犯として当時、東京裁判によって被告になっていた25人全員を無罪だという判決を下して自分の判決書を書いてインドに帰ってしまったというわけです。彼の「パル判決書」は何も日本に同情したり弁護をする意図で書かれているわけではない事はいま文庫本で出版されているので、若い人でもそれを読んだらおそらく心を揺さぶられると思います。
彼は東京裁判の仕組みそのものがおかしいと主張していたのです。復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないような、みせかけの裁判であって、国際正義とは名ばかりで、こんな儀式化された復讐、つまり、復讐を儀式化したような裁判では被告人に対して間違った判決を下すため、後で結局は後悔をする事になるだろうというような判決文を書いて帰ってしまったのです。私は戦後の混乱とゴタゴタの中で憎しみが復讐の心になって繰り返されるような状況の中でこれだけ冷静な法理を尽くした判決文を書いた人物の事が前から気になっていて、インドから来た判事の存在感が心の中に非常に残っていたわけです。
彼は1966年、80歳だった時に招待されて日本にやって来て、尾崎記念館で読売新聞主催によって最後の講演をやりました。彼は「世界平和と国際法」というタイトルで話をするはずだったのですが、壇に上がって老齢だった事もあって言葉が出ないで最初から最後まで無言だったのです。そして、合掌を続けていたそうです。聞いていた人たちがみんな一言も発しない彼の講演に感動して涙を流したという記録が残っています。私は自分が講演をやる機会が色々とありますが、最初から最後まで一言も発しないで感動させるという講演をやってみたいと半分冗談ですが思ってしまいました。
その時、パル判事が「日本の青年に」として朝日新聞に書いていた記事で、西洋の分割統治=divide and rule、つまり、分割して自分の影響力を最大化するというやり方に気をつけろというものがありました。どんなイデオロギーのためであっても分裂してはならないという事を日本の青年に訴えて帰って行ったわけです。
箱根の湖畔に彼の記念碑が建っています。日本人は東京裁判の事を調べている人なら必ずパル判決書というところにぶつかるけれどもこのようなインド人がいたのかという事にびっくりするような感銘を受けるはずです。
そして、もう一つ、これが重要なのですが、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれて日本は国際社会への敗戦後の復帰を果たします。しかし、サンフランシスコ講和条約の時にインドは署名しなかったのです。彼は日本に駐留している全ての米国の軍隊が日本を引き揚げるならば署名してもよいと変な条件を出しました。しかし、翌年にインドは日本との単独講和に応じてくれました。実はインドの単独講和がその後日本がアジアに新しい関係を構築して行く上で大変に重要になり、1955年のバンドン会議(註.3)において日本はアジアに言わば戦後初めてのコミュニケーションのチャンネルを復活して行くのです。

木村>  世界の舞台に初めてと言っていいくらいの復活なのですね。

寺島>  本日、私が話して来たチャンドラ・ボースやパル判事、サンフランシスコ講和条約の時のインドのスタンス等を見ると、要するに、日本という国の国際関係をジーッと見つめて来ているインドの目線が何故気がかりなのかという事が次第に分かって頂けると思います。
 インドはなかなか味わい深く日本を見つめているわけで、何故サンフランシスコ講和条約に署名しなかったのかという事をインドの言葉を心の中で描き出してみると、「あなたたちはついこの間までアジアの解放だとか言って興奮して、インパール作戦だ、チャンドラ・ボースだと言っていたのではないのか? 開戦してわずか5、6年で今度はアメリカとの間に講和条約を結んで行くのは結構だけれどもアメリカ軍の基地を引き受けて、その軍門にくだって根性を失って、アジアの解放だとか自立自尊と言っていた話はどこへ行ってしまったのか?」と言わんばかりのメッセージだと感じます。いわゆるインドの非同盟諸国会議(註.4)を今日においても率いている目線は結構怖いわけです。東西冷戦の真っただ中でも非同盟という事でどこにも帰属しない目線でジーッと日本を見てきていたのです。
 そのような中で、さて、今後日本がどこへ進むのかという事についてもインド人の目線から見ていると思います。核保有しているインドや最近のインドとアメリカとの関係を見ていて、日本人としてインドに対して非常に首をかしげなければならない部分は率直に申し上げてあると思います。しかし、我々は、この番組でも何度も申し上げていますが、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という戦後を生きてきました。例えば、インド人の目線から見たら日本という国の戦前から戦後にかけての歴史はどのように見えるのだろうかと考える事は非常に大事な事だと思います。勿論、インドだけの事ではなく、アジアの人たちの目線で見て、日本がどのように映るのだろうかという事を問いかけてみる時に、インドという問題意識が物凄く重要なのです。この事を本日は話題にしておきたいわけです。

木村>  日本において外交の中でインドが取り上げられる時の一つには勿論、経済的に力をつけているインドとどのように交易=通商を結ぶのかという事と共に、もう一つはとりわけASEANを舞台にして、中国というものをどのようにその力を牽制するのかという発想の時に、どうしてもインドが出て来ます。何と言いますか、ある種の小手先の議論というものが随分多くて、そこが解せないところだと思います。

寺島>  アジアが結局日本を見捨てずに支えてくれた事があるという事を忘れてはならないのです。それは何故かと言うと、日本の戦後に大きな影響を与えたアメリカの元国務長官のダレスがアメリカの「フォーリン・アフェアーズ」という雑誌にサンフランシスコ講和条約の頃、「インドが見ているぞ」という事を書いているからです。インドはアメリカが日本を対等なパートナーとみなして、友好的な協力関係を構築して行く可能性は低いと見ているために、インドは講和条約の調印の条件として米軍の日本及び琉球列島からの完全撤退を要求したわけです。この要求が認められなかったためにインド政府は調印を拒否しました。我々はこのようなインドの懸念が現実のものとならないようにしなければならないのです。つまり、アメリカがフェアーでなければインドが見ているという事です。インドのこのようなスタンスが日本の占領政策に対して物凄く大きなブレーキにもなっています。我々は歴史の中でアジアから決して孤立していないと言いますか、アジアから孤立して敗れたような戦争だけれども、例えば、インドから見た日本がこのような形によって深い縁を持っているという事を我々は歴史の中で学ばなければならないと思います。これが私が申し上げたい事です。

木村>  インドと日本、日本を見つめる定点座標、つまり、我々はつい忘れがちですが、我々がインドから見つめられていて、しかも、そこに歴史的な深い思考がなければならないという事が寺島さんのお話しされた事から学びました。では、後半のお話に展開して行きたいと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方のメールを元にして寺島さんにお話を伺いたいと思います。東京でお聴きのラジオネーム「伊藤勇一」さんからです。
 「日本の景気に関して伺います。先日、4月、6月の日本のGDPが3.7%のプラス成長でおよそ1年半ぶりに景気回復といった報道がありました」。これは年率換算という事です。
 「これは補正予算の効果が出た結果という事ですが、問題はこの先このままプラス成長を続けられるのでしょうか? いま選挙で選挙戦に突入しましたがどの党が政権をとろうともこの先の経済対策が私たち有権者にとって重要になって来ると思っています」。
 確かに、5期ぶりのプラスで、四半世紀ぶりの5期重ねてのプラスになったという事が大きく報道させましたが、この先どのようになるのかという事ですね。

寺島>  日本経済が四半期のベースでプラスに転じた大きな理由は2つあります。
1つはカンフル効果で緊急避難的に打っているエコカー減税等、色々な事をやっていますが、このようなカンフル注射が効いているという瞬間風速的な意味と、そしてもう1つは中国依存要素と言いますか、中国向けの輸出が日本の景気回復を支えている事です。何もかも中国に依存して景気回復する日本という姿が見えてきていて、長期的に見ると日本の産業等の構造が長期的な成長に実現して行けるような軌道の中にあるとは考えないほうがよいと思います。だからこそ、長期的な視点において、例えば日本産業の弱点を補って未来に布陣するような方向に重点的に未来投資が行なわれる流れをつくっていかなければならないのです。そして、瞬間風速的に一喜一憂しないという事が非常に重要です。
 短期的な数パーセントのGDPの動きに対して一喜一憂するよりも、未来に向けてもっと中身のある、つまり、外国に依存しなければ成長できないような状況から内需を固めて資源を外国に依存しなければならないところから資源を自分の国の中で技術をもって資源開発に立ち向かうような視点を持つことです。この番組でも海洋等、色々な事を言ってきましたが、そのような戦略視点が物凄く重要なわけでカンフル的要素に一喜一憂しない事がいま我々が経済をしっかりと見る時の基本的な視点にしなければならない点なのだと思います。

木村>  だからこそ、寺島さんがいつもおっしゃっている「産業力」というキーワードが出て来るわけですね。

寺島>  産業力を支える日本の技術基盤は決して虚弱なわけでも何でもなくて、私はいま世界が環境を軸にしたグリーン・ニューディールが話題になっている時に、日本が持っている潜在的な技術基盤が物凄く重要になって来ていると思います。
 私は数日前まで台湾に行っていて、台湾の枢要な人たちと色々と議論をして来ましたが、日本の技術に対する彼らの敬意は大変なもので、どのようにしてそれと連携して行くのかという事を盛んに色々な形で提案を受けて議論もしました。
いま、我々は、日本の持っている技術力に対する自覚を高めなければならないのです。そして、それに更に力を与えていかなければなりません。特に若い人たちの技術系離れが起こっていますが、「日本の宝は技術力なのだ」という事を我々は意識の中で共有しなければならないと思います。

木村>  技術力がとても大事なもので、言葉が適切かどうか分かりませんが、そこに従事するという事、そして、働くという事が尊い事なのだという価値観を社会にもう一度思い出さなければならないですね。

寺島>  それが報われる仕組みをつくならければならないのです。これが教育だ何だというところに繋がって行くのだと思います。そこのところがこれからの社会工学と言いますか、政策科学の中で一番問われなければならない点なのではないでしょうか。

木村>  という事が、やはり数字というものを受けとめる時に、ただ数字だけに一喜一憂しなくても、我々が考えるべきところはここにあるのだという事になると思います。

(註1、1944年3月に開始され、7月まで日本軍によって続けられた軍事作戦。ビルマ防衛のため、英国軍の対ビルマ軍略拠点のインパールへの進攻を企図した)

(註2、Radhabinod Pal。1886年インド・ベンガル生まれ。1923年、カルカッタ大学法学部教授、カルカッタ大学総長時にインド代表として東京裁判の判事の一人となった)

(註3、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカの29カ国による会議。アジア・アフリカ会議とも言われる)

(註4、東西冷戦期に、いずれの陣営にも組みせず、中立を貫こうとした諸国による会議で、1961年以降、基本的に3年に1回開催)