第29回目

寺島>  今日は日総研フォーラムの第8回目で、みなさんは大変興味をもって参加していただいたと思いますが、東大の御厨貴先生と同じく東大の伊東乾さんという興味深いパネリストをお迎えして、いま我々が生きている時代をそれぞれのお立場でどのようにお考えになっているのかという事をお伺いします。
 御厨先生は基本的には日本近代史、明治国家の形成等を深く掘り下げて大変に意味のある本を出版されていて、かねてより私が尊敬している先生です。とりわけ御厨先生が一生懸命に取り組んでおられるのは「オーラル・ヒストリー」で、例えば、戦後の日本を支えた政治家等に御厨先生が直接問いただし、しっかりと残していくという作業をされています。このような中で、まず、御厨先生と伊東先生に、いま我々が生きている時代について、どのような時代認識をもって見ておられるのかという事で冒頭のお話をして頂きたいと思います。
 とりわけ現在の政治状況、日本のおかれている位置等について、御厨先生の視点からまず冒頭の御発言をお聞きしたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
 
<一党優位から政権交代へ>
 
御厨>  ただいまご紹介に預かりました御厨です。いまは21世紀初頭であらゆる局面において激動の時代です。政治の世界を見ていても随分変わってしまったと実感しています。何が変わってしまったのかと言うと、小泉さんの後をとってみても安倍さんが登場して、その安倍さんも私は途中までは結構まともにいっていたと思いますが、参議院の選挙によって敗北をして、ねじれ状態になった後、自民党がそれまで内部崩壊して来ていたある部分が非常に強く出て、その後、福田さんになっても、麻生さんになってもそれは戻らない状態になってしまったのです。
 そして、直近の話題になりますが、麻生さんが「解散の告知をした」という事がありました。これは聞いた事がない言葉で、多くのメディアはそれを解散と同義語に捉えて報道をしました。しかし、私は「告知」というものが非常に気になって、それを随分、問うたのでありますが、これは「知恵」だというところに行き着きました。解散をその場でやらずに解散の告知をして、解散のように紛らわしくして結局は解散と同じ効果をもたらしたのです。これは麻生さんにも知恵者がいたかもしれませんが、一世一代の決断であったと思います。「解散告知」というのは日本政治史上初めてで麻生さんが唯一と言われています。本来、麻生政権は解散選挙を予定されて成立したのですが、リーマンショック等があり、10カ月経ったところで実行されたという事です。解散をするという事でこれだけ騒ぐというのは一体何であろうかと思います。それ以外に日本が解決しなければならない問題が沢山あるにもかかわらず、この1年間、我々は「解散」、「総選挙」、「政権交代」という三つの文字に振り回されて来てしまったわけです。政権交代と言うと当り前のような話になっていますが、そこになかなか辿りつかないので、様々な事が空転している状況にもなっているのです。もし、この状況が20、30年前に起こっていたら担当者である総理大臣がたちどころに「辞めろ」と言われたと思います。しかし、麻生さんに対して面と向かって辞めろと言う人がいません。更に、日本は世界で起こっている事に何の解決もつけられないまま今の状況をほったらかしにしているというのは一体何なのかという疑問に私は随分考えさせられました。
 これは、「統治」という事があります。統治する責任、その責任を果たすための決断。つまり、「決断」と「責任」というものをある時期から私たちの政治は何処かに置き忘れて来てしまったのです。そして、このような時に話題に出るのは中曽根さんです。中曽根さんは唯一、決断と責任をかなり重んじてやってきた人なので彼に聞いてみても、「解散というものは大変な事なのだよ」とよく言います。更に、「それは決してテレビの前でする、しないという取引材料にするものではなくて、解散権の重みを本当にわかっているのかどうかは総理大臣によるのだ」とも言いました。彼は「死んだふり解散」をやった人なので当然、色々と考えた挙句の発言だったと思いますが、彼の言うところのそのような統治の責任者が責任をもって決断する事に解散も入っています。しかし、私は麻生さんがそのような意味での責任と決断をしたとは思えませんでした。解散の告知をした時の彼の様子は「してやったり」というものでした。しかも、解散というものは野党に向かって解散すると言う、野党に対する一つの挑戦であるにもかかわらず、麻生さんは与党内、つまり、自民党の中の反麻生勢力に対して「してやったり」というものなので、話が非常に矮小化しているという事になります。
 我々にとって一番印象深いのは中曽根政治が終わった後に吹いてきた風で、それは竹下政権の下で起こった「リクルート疑惑」(1988年)です。更には、その後には「湾岸戦争」(1991年1月)が起きました。その少し前には「天安門事件」(1989年6月)が起き、東西冷戦が終結、つまり、「ベルリンの壁の崩壊」(1989年11月)がありました。この一連の事実の中でおそらく日本の政治も大きな変化を迫られていたのです。しかし、自民党による政治がある意味、あまりにもうまく行き過ぎたという事があって、日本は変わらなかったのだと思います。
1980年代、まだ私が若い頃で助教授時代に政治を勉強していた時に「政権交代がない事がよい政治である」という事が当時のみんなの意見で、非常に効率的で政治家と官僚が一体となった政治体制、つまり、「一党優位制」(註.1)という言葉の下で呼ばれていて、政権交代がない事が当り前、日本の奇跡と言われていたのです。考えてみれば、その事に対して我々も疑問は感じていなかったわけで、世の中は冷戦中で、日本は第二次世界大戦後アメリカ、イギリスをはじめとする連合国側=自由主義陣営に属していたので、ソ連を中心とする共産主義陣営にくっつこうとしていると思われる社会党よりは、アメリカと一緒にやって行こうという自民党の方がよいという意見が大勢を占めていたのです。自民党の中で適時適切に政権交代が行なわれるのならばそれが一番よいという話なのですが、今日と同じで、岸、池田、佐藤という3つの政権の後は実に「三角大福」(註.2)と呼ばれる後継者たちは平均して約2年くらいしか政権を担当していませんでした。そして、1990年代の総理大臣たちは、小泉さんが5年5カ月やっていたので長いのですが、平均して1年3カ月くらいです。驚くほど総理大臣の長さは短いのです。したがって、サミットに行くと毎年「はじめまして」という事になるのです。「はじめまして」と言われているのはイタリアと日本の総理大臣だと言われていますが、このような国を基本的には、よその国は信用しないと思います。何故かと言うと、「この総理大臣と約束してもどうせ来年は違う顔だ」とみんなが思ってしまうからです。そうるすと、最近のサミットにもみられるように、グローバリゼーションの中では、その人たちが責任をもってある地位にいて約束をしてくれる事、それを果たしてくれる事が大事なのですが、日本はおそらくそのような事に値しない国であると段々思われて来ている状況になって来ていると言えます。
 しかし、先程申し上げたように、1970年代~1980年代の時はそのような事は誰も思わなかったのですから価値観が凄く変わったのです。あの頃は総理大臣の顔なんてどうでもよくて、それは官僚がうまくやるのでむしろ総理大臣はコロコロ変わったほうがよいというわけだったのです。つまり、派閥が沢山あったので派閥の一つの領袖が長くやっていると不満が出るので順次交代していき、その交代にも原則があって、右に振れた次は左、金権に行った次はクリーンというように変わるので、政権交代を現実に行なうと凄くコストがかかるけれども、このような方法であれば非常にコストが安いので、こんなによい政治システムはないという事を言って来たわけです。
 私がいま反省している事は何故あの時に一党優位で頭がクルクルと変わる政権がよいと思ったのかという事です。つまり、ある時代に常識のように思われていた事が次の時代では全く常識ではなくなるという事が戦後の1970年代から既にここ30、40年の中でも起こっているという事をみなさんに少し認識して頂きたいのです。
このように我々が生きている間だけでも常識が凄く変わって来ている時代なのです。何を言いたいのかと言うと、そのような中で我々は政権交代があるという事をある時期に知ってしまいました。それが細川政権の誕生でした。あの時、自民党が与党の地位を失った事によって、自民党の内部崩壊がはじまったと言えます。あの時期、つまり政権が変わるという事がまだなくて一党優位が続いている間、絶対に高級官僚の諸子はオーラル・ヒストリーには応じてくれませんでした。いまの財務省、大蔵省等は特にそうでした。そして、彼らは平然と「僕らは匿名の人間で黒子である」と言い放ちました。高度成長が何故実現したのかという事に対しても、「黒子としてやって来たから私ではなくてBさんがやろうとCさんがやろうと同じ事であり、それをいちいち名前を出して何かを言うのはおかしな事である。君がやっている事は凄く変だ」と言われました。私が「世界ではみなさんやっていますよ」と言うと「世界はそうかもしれないが、日本はそれを言わないのが謙譲の美徳というものだ」と言うのです。要するに彼らは屁理屈が得意で、絶対に応じてくれなかったのですが、そんな彼らがガラッと変わるのがあの時期からです。そういう面においても細川政権がもたらした意味というものは大きいのです。つまり、「もしかすると自民党による保証がなくなる時が来るのかもしれない」という事が、官僚たちに大きな影響を与えたのです。と言う事は、彼らが謙譲の美徳だと言って話さないでいると、自分たちは、もしかすると損をするかもしれないと思ったのです。もしそうなのであれば、なにがしか話しておいたほうがよいというわけです。このように、変わるのです。これは大蔵省が変わっただけではなく、それ以外の人たちも変わりました。そして、オーラル・ヒストリーが政策の評価も含めてやれるようになりました。どんどん役所の文書が公開される体制に入って来て、政策の決定プロセスをすべて開けろとは言いませんが、多くのものについて我々の知る権利に応じて開けてくれるという事があの時以来可能になったのです。これは政権交代があった事のよい面です。ただ、政治の面で悪くなったのは何かと言うと、一党優位で頑張って来た自民党という政党があの時以降、ただ一つの約束の下に集結をする事になった事です。つまり、これはテーゼです。どのようなテーゼかと言うと、絶対に野党にならないとい事です。逆に言うと、常に与党であり続けるという事です。「いやいや、御厨さん、それまでも与党だったのではないのですか?」とおっしゃるかもしれませんが、そうではないのです。それまで与党であったのは自明の事でした。つまり、努力しなくても横綱相撲を取っていられたのです。しかし、一旦滑り落ちた後はこれはいかんという事で常に与党であるというテーゼによって自民党は一致する事になったのです。したがって、それ以降、場当たり的に色々な事を言うようになりました。例えば、経済政策でも出たり引っ込んだりになり、税金問題やそれ以外の金融問題等でも財政出動をすると言ったり、そうではなかったりという事が政権が変わるごとにどんどん変わって行ったのは何故かと言うと、その場その場で大衆迎合をしたからです。その結果、自民党は確かに政権を離れないで済みましたが、自分たちの足腰は弱くなっているから徐々にそこに呼び込みを始めるのです。まず最初は社会党です。社会党の委員長を総理大臣にまでして、まず社会党に抱きつきました。抱きつかれた社会党はもがいているうちに全部政策転換を迫られて、現在ではほとんどないようになってしまったのです。次に自民党が抱きついたのは公明党で10年やってきました。この10年の間で確かに公明党も変わりましたが、自民党と公明党の関係を考えるとかなり難しい段階に来ている事も事実です。
 
寺島>  ありがとうございました。
 
(註1、イタリアの政治家、J・サルトーリが提唱した概念で、主要政党の一つが競争的選挙に際し、有権者の多数に支持され続ける事で政権を維持し続ける政党制)
(註2、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)

<後半>
寺島>  伊東さんは大変若くて1965年生まれで、東大の理学部の物理学科を卒業し、大学院も出ていますが、大変に広い範囲で活動をされています。一番驚く事は音楽家でもあって音楽家である伊東さんが活躍している世界と社会科学的な世界、特に時代や社会に踏み込んだ活動をされていて、クロスボーダー型人間と言いますか、自分で境界を持たずに色々なところに踏み込んで活動しています。それは国境という意味のボーダーも含めて1年の内の半分くらいベルリンで仕事をしている人です。そのような意味で自分がいま動き回っている枠組みの中から「いま世界をどう見ているのか」という漠然としたテーマでお話しをして頂きたいと思います。
 
伊東>  伊東です。大きなお題を頂戴したのですが、私が世界を見る目と言っても私の観点からでしか見る事が出来ません。音楽家でもあるとご紹介を頂きましたが音楽を生業にしております。大学に呼ばれる前には「題名のない音楽会」というテレビ番組の監督等、音楽以外の仕事はしないで生活をしていましたが、1999年に大学に呼ばれた理由は、IT革命、喧しい時期で東大にも何かをつくろうという時に「IT部署ではダメだ」という事で、官庁との関係で、「東大はアートを含めた文理融合組織」を作るんだと言って、私とコンピューターグラフィックスの人を呼んだわけです。私の家は2代、3代前から芸術とテクノロジー双方に関わっていたので、明治以来の近代の日本の洋学の需要や文物(文化の産物)の需要等を色々と考えて、せっかく建学以来、最初の芸術実技の教官という事にして頂いたので少し意識をもって調べ物をしてみたのです。
 私は特に、ここでは明治国家をつくるという仕事を学ばせて頂いて1880年代の日本、つまり、この時期に憲法や議会等をつくって、いまの日本の国の形がつくられたという事で、この時期に色々な原点があるように思うのです。その中で東京美術学校、或いは、東京音楽学校、つまりいまの東京藝術大学ですが、芸大をつくった原点がどこにあるのかという事を2002、2003年くらいに科研費(文部科学省・科学研究費)の研究を芸大と一緒にやりました。そして、非常に驚いた発見があったのでそのお話しをしたいと思います。
 1883年に文部省が「図画調べ係」というものをつくりました。それが芸大の原点です。当時は西南戦争の直後で国庫逼迫であり、日本が失敗国家になりかけていた時期です。
鳥羽伏見の戦いと同じように刃を交えたのでは西郷軍に勝てるかどうかわからないという事もあったのだと思いますが、いずれにしても戦費が嵩んだため日本が経済的に潰れかかっていた時代です。その明治10年代後半、1883年に京都や奈良にある色々な日本画や漆工芸品や、それらを創る匠の技等々を徹底して調べるという事を文部省が行ないました。
それを指導したのが当時、お雇い外国人教師として東京大学に理財学(法学部経済学科に相当する学問)の講義をしていた29歳の若い青年でした。
彼は美術が好きで自分でも絵を描いたりしていましたが、「日本の美術は素晴らしい」と言っていました。そこには1800年代中頃から末期までに行なわれた「パリ万博」で浮世絵が評価されて起こった「ジャポニズム」の影響があったと言えます。
それと共に非常に重要だった事は、エジソン電球にフィラメントとして京都の八幡の竹がよいという話になった事等もあって、日本の文物はうまく利用すれば海外で商売になると考えられたのだと思います。
つまり、その当時の日本政府は外貨準備高に非常に不足していたのです。金、地金、銀等がどんどん流れ出てしまい、どうにもならなくなっていた当時の明治国家にとって日本の伝統美術というものが国を救う力になるかもしれないと考えた人がいたようです。どなただったのかはよくわかりません。
さて、お雇い外国人の29歳の青年=アーネスト・フェノロサという人物ですが、そのフェノロサがその調査を開始しました。調査のために若い青年にアシスタントを頼みました。それが岡倉天心という人物です。そして、日本画という技術を伝承している人と一緒に考えなければならないので、もう一人有望な日本画家をアシスタントに選びました。それが狩野芳崖という人物です。この二人と一緒に1883年にこの事業をはじめて、1884年が松方デフレ(註.1)です。要するに、そのような滅茶苦茶な時代に芸術大学をつくる原点をつくって、1885年に現在の東京芸藝術大学の原点である、東京美術学校をつくりました。
このような経緯を私が伺ったのは、実は私が芸大と科研費共同研究の東大の最初の教員だったので、元来、私の友人である建築家の六角鬼丈という人で、彼は現在の芸大の美術部長で、彼のお爺さんが六角紫水、横山大観と同級生の美術学校一期生で漆の最初の教授だった人です。そして、現在、漆の教授をされているのは増村紀一郎さんです。増村さんは代々、輪島塗の家ですが、昨年、人間国宝に認定されました。増村さんとお話しをしていると、ほとんどケミストリー=chemistryです。これは酸化重合だとか、これは加水重合だとかいう話で、例えば、正倉院の御物の中には、プラスチック樹脂のように見える書箱がありますが、これは牛の革に漆を塗ったものです。増村さんの大学人としてのお仕事はこのような方法を全部ゼロから解明し直して、再現をするという素晴らしいものです。このような方向性を徹底して指導していらっしゃるのが、学長としても日本画家としても、そして被爆者でもある平山郁夫さんです。私も芸術の教授として大学に入っていますが、「作曲、指揮、情報史学研究室」というものが、私の研究室の名前です。芸術家としても個人としても仕事をしていますが、せっかく大学に籍を得たので、言ってみれば、半分は歴史研究です。しかし、歴史とともに歴史の中にあったイノベーションであり、これは国をたてて行くという事でもあり、国際的な関係の中でそれをどのように価値を見い出して行くのかという事が非常に重要な事なのかと思ったわけです。
世界をいま見る目という事で、例えば、明治10年代の転換を考えてみるのは面白い事だと思います。それは、例えば、東京に東京大学や帝国大学をつくる時にも明治維新の初年に、それまであった幕府の官学という枠組みを最終的には使うのですが10年をかけて入れ替えをしています。国学派、儒学派等、すべて締め出し、10年かけて伝統的な封建教学を排除していきました。つまり、その辺りで一つの価値の転換、価値観の転換が起こったのだと思います。そこに同時に洋学というものが入って、洋学或いはサイエンス・テクノロジーの先端に直接役に立つ日本の象徴としてフィラメントの存在が非常に大きかったのです。これは人間国宝で漆の増村先生から伺ってなるほどと思ったのは、「石油化学工業が発達する以前、石炭の分留は物凄く割が悪くて、日本の漆は驚くほどエレクトリシティー=電気工学の初期に役に立っていたのだ」という事で、彼はプライドと自負と責任感をもって私に教えてくれました。
 例えば、蓄音機の傘、初期の非常に軽い電化する以前のネジ巻き型も含めて、漆がどれだけ沢山使われているのかという事です。
漆器の事を「JAPAN」と呼ぶ理由は、漆器というものが単に奇麗な工芸品としてだけではなく、漆の工芸、或いは漆のテクノロジー全体が日本のブランドになっていた事を象徴していると言えるのではないでしょうか。
私は価値をいかに見立てて行くのかという事が非常に重要だと思っています。つまり、メディアは価値観を共有できるものにするという事で、もっとはっきり言うと価値を創造していくメディア(media=mediumの複数形。中間の、媒介物、媒体の意)の確立は非常に重要なものであると認識しています。一般には「メディア・リテラシー研究」などという言葉で表現される事が多いですが、単にメディアだけ特化するのではない、社会・経済的な価値観全体をメディアが支えてゆく、アタマからシッポまでそろった「一身具足」の価値観を立てていく、価値ないしは信用を創り出していく事が必要だと考えているという事です。
一つの例として、私はこの頃、千利休の話をよくしていますが、何故、利休が切腹をしたのかをお話しします。利休は大阪の堺の生まれの商人で織田信長に仕えて、価値創造、信用創造という言い方をすると微妙ですが、そのような事を考えた人です。戦の結果、一国に相当するような戦功をあげた人に対して茶器を下賜するというルールのようなものを信長と堺衆とともにつくったという事は非常に大きな事だったと私は考えています。例えば、小西行長のような外様にあたるような色々な人たちが大きな戦功をあげた時に領土は与えずに茶壺やなつめ等を与えて、それらには一国以上の価値があるという価値の創造、信用の創造をつくったのです。つまり、堺筋に持っていけばそれだけの武器、弾薬と交換が可能な裏書きがされていたという事です。
 小田原攻めで全国統一に豊臣秀吉が成功します。その翌年にさっさと千利休が詰め腹を切らされるというのは、一国に値するような信用をどんどん創造するような人がいてもらうと困りますね。つまり、政治の世界に深入りし過ぎたためだったのです。
秀吉の政権は小田原攻めに勝利して日本全国をひとまず統一しました。その後、国内統一以前に役割を果たした「信用創造」の要である利休に「召し腹」を申し渡した上で、文禄・慶長の役という、無謀な海外出兵の挙に出て、戦費支出によって豊臣政権自体が潰れて行ってしまいます。逆に徳川幕府の江戸開府から元録期あたりまでの80年ほどは、新田開発など日本史上最大の産業の成長期でした。そこでは適切な信用創造、バブル的な証券の濫発ではなく、適切に価値を見立てて産業を育てる、牧歌的な金融資本が成立していたように見えるのです。
私が思う事は、国際社会の中における適切な価値観の遠近感の見定め、そしてそこにおける価値をもう一度しっかりと根拠に基づく価値の立てかたに失敗すると近年の証券不祥事やITバブル等になってしまうという事です。一芸術教員、或いは音楽家としての私がその延長で見ている事にすぎませんが、価値を見立てる事を国際社会に情報ツール、ネットワーク、メディア等を通じて共有して行く事で2008年から2009年にかけて大きな岐路に立っているので、そのようなところに価値の見立てがあります。そして、基礎的な研究と言いますか、ものを見る目の高さは非常に重要なので、できるだけ価値ある場というものを守って育てるという観点で進めて行きたいと思っています。
 
(註1、松方財政とも言われる。西南戦争のための戦費調達から生じたインフレを解消するために、大蔵卿であった松方正義が行なったデフレ誘導財政政策。
 不換紙幣<本位紙幣である金貨や銀貨等と交換を保障されない紙幣。20世紀中頃までの紙幣は金貨や銀貨を交換できる事が前提となっていた兌換紙幣だったため不換紙幣と呼ばれた>回収こそがインフレーションを抑制しデフレーションに誘導できるとした財政政策)