第54回

<咸臨丸150周年への思い>

木村>  先週の放送は「日本経済再生への道」というテーマでお話を伺いましましたが、もしかすると長い間悩んできた日本の社会に光が見えるかもしれないと感じました。ただし、その場合も我々1人1人がそこに参画していくことも大事であることが寺島さんのお話によって伝わってきました。
 今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「咸臨丸150周年への思い」です。NHK大河ドラマの『龍馬伝』でも咸臨丸が出てきました。

寺島>  今年は、咸臨丸なる船が万延元年=1860年に太平洋を渡ってサンフランシスコにいってからちょうど150周年です。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎等を乗せていたのです。これは何のためにかというと、幕府が最初にアメリカに送ったミッション、つまり、使節団がワシントンを訪れましたが、それに随行する形で咸臨丸は太平洋を渡っていきました。
私は今般、その咸臨丸についてサンフランシスコに行って調べてみました。これをきっかけに私なりに非常に考えさせられたことがありました。ある種の臨場感をもって聞いて頂きたいのですが、ちょうどいまのシーズン6月の話になります。咸臨丸はアメリカのサンフランシスコを5月8日に立って日本に向かっていて、浦賀に6月22日に帰ってきました。分かり易くいうと、いまのシーズンに太平洋を今度は逆に日本に戻っていたのだということです。
咸臨丸はオランダが造ったのですが、長さ36.6メートル、幅8.6メートル、重量620トンという小さな船なのに96人も乗って渡っていきました。
いずれにせよ、日本にとっては最初の日本人だけで太平洋を渡ったということになっていますが、実際はアメリカの海軍の軍人が10人乗っていました。それは日本の近海で測量船が座礁して帰りの船がなくて、一緒に乗っていったのですが、これらの人たちが結構太平洋の荒波を越えていく時に支援をしてくれたのです。彼らが書き残している資料があって、「牢獄に閉じ込めて、大地震に遭っているようなものだ」とあって、つまり、めちゃくちゃに船が揺れる中をグロッキー状態で太平洋を渡っていったということです。
私は咸臨丸のことを調べていて、いくつかとてもおもしろいエピソードに出くわしました。まず、福慶應大学の開祖福沢諭吉なのですが、当時、彼は27歳で勝海舟は37歳でした。
福沢諭吉がアメリカに辿り着いて非常に印象深いエピソードを福翁自伝に書いています。「アメリカの建国の父と呼ばれているジョージ・ワシントンなる人物がいるようだが、その人の子孫はいまどうしているのだろうか?」と彼はサンフランシスコで聞いたらしいのです。そうすると、誰もが顔を見合わせて「知らない」と言ったのだそうです。そこから彼は面白いことを書いていて、「日本で言えば、源頼朝や徳川家康の子孫のようなはずなのに、その人がいまどうなっているのか知らないなんていう話を聞いてびっくりした」。別の言い方をすると、その瞬間にアメリカの民主主義が何事なのかということを彼なりに感じ取ったのです。

木村>  そこの感性の鋭さがありますね。

寺島>  氷川清話の中で、勝海舟はアメリカを渡って帰ってきて、報告のために御老中に呼び出されたことを書いています。「君は一廉の人物だからアメリカを渡って何かを発見しただろうから言ってみろ」と言われたそうです。勝海舟は少しへそ曲がりな人なので、「およそ人間が住んでいる所は世界中どこに行っても、どうも変わりはないようです」と答えたのです。しかし、「いやいや、そんなことはないだろう。君のことだから何か違いを発見しただろう」と問い詰められて、「かの国(アメリカ)では上に立つ人は利発な人が多いようでございます」、つまり、利口な人が上に立っているということです。そうすると、そのように答えた瞬間に「無礼者!」と怒鳴られたという話を面白おかしく書いていました。
 このように、福沢諭吉や勝海舟等の色々な物語を残しながらアメリカを見たということが日本において大きな意味をもったミッションだったということが、その後の彼らの役割を思い起こしてみるとよくわかります。ただし、我々が誤解してはならないのは、福沢諭吉も勝海舟もワシントンには行っていないのです。つまり、正使の一行はサンフランシスコから南下して、現在のパナマ運河があるところのパナマまで行って、その当時はまだ運河がなかったために陸路を汽車に乗って越えました。おそらく日本人で初めて汽車に乗った人たちになると思います。カリブ海側に出て、アメリカの軍艦に送られてワシントンに行っています。日本人にも多いに誤解があるけれども、本当は勝海舟も福沢諭吉もサンフランシスコだけを見て帰ってきたに過ぎないのです。
 ところで、咸臨丸から100年経った時が1960年です。多くの人がピンとくると思いますが、1960年は日米安保改定の年だったのです。咸臨丸から100年経ったところで考えてみると、日本は戦争に敗れ、1951年にサンフランシスコ講和条約を結んで、日米安保の体制に踏み込んでいきました。それから9年後が1960年なのです。ここで、臨場感をもって考えて頂きたいのですが、6月15日に全国で580万人の人がデモに参加して、国会を人の渦が取り巻くような大デモとなり、安保反対闘争が盛り上がって戦後日本で最も熱い政治の季節だったということが、咸臨丸から100年経った1960年で、いまからちょうど50年前だったわけです。
 当時、樺美智子さんという東大生だった女子大生が踏みつぶされたような状況で亡くなりました。先日、私は若い学生などと一緒に話をしていて時代の変化を感じたのが、「女子大生の樺さんが何故、国会なんかに行っていたのですか?」という質問を受けたことです。いまの若い人たちは率直にいうとそのような感覚なのだと思います。例えば、iPadの発売に1,500人並ぶという感覚は理解できるけれども、何故、女子大生が国会に行って踏み殺されるような目に遭わなければならなかったのかということについて、おそらくイマジネーションの中に入ってこないのだと思います。若い人たちが自分の私生活に関わる自分の関心領域や好きなことなどのために並ぶという感覚は理解できるけれども、少なくとも、50年前の大学生が日本の将来や国家や安全保障等の関して深く問題意識をもって、全国で580万人の人たちがデモに参加する時代があったということを歴史認識の中でどのように理解するかということがとても大事で、少なくとも自分の利害打算を超えたところで人が動いていた時代があったということを考えなければならないということを話しました。ここのところが大きなポイントだと思います。
 以前、この番組でも話題にした1955年にバンドン会議があって、日本はじわりとアジアに還り始めました。アメリカとの協調関係を軸にしながら、西側陣営の一翼を占める形で西側にコミットして東側と向き合うという冷戦の時代を生きるためにアメリカとの同盟関係によって生き延びていこうという選択をしてから、1960年にもう一度、国民にとって大きな転換点がきたのです。
 そこで、面白いのは1960年に不思議なことに大阪市が寄贈する形で、サンフランシスコの小高い丘の上のゴールデンゲイトブリッジを見下ろす場所に、咸臨丸100年記念碑が建立されたのです。これは大阪市がサンフランシスコと姉妹都市だとういうことが理由らしいのですが、その時の除幕式には9年前の日米安保の立役者であった吉田茂氏が太平洋を渡って出席していました。つまり、まだ、咸臨丸100年が日米双方で大きな話題になっていた時代だったのです。
 しかし、今回、日本側のメディアの一部に「そう言われてみれば、咸臨丸から150年だ」というような記事がポツポツとは出ていますが、「咸臨丸150年とは」とか、「あれを機会に日米関係150年を振り返るとどうなるのか」という話は一向に出てこなくて、そんなに話題にすらならない状況で、日米双方で盛り上がりもないというところに、いま我々が生きている時代のある種の特色があるのだと思います。
その背景にある構造を調べてみて驚きましたが、いまからちょうど50年前、日本の貿易の輸出と輸入を合わせた貿易総額の内、アメリカとの貿易比重が36%の時代だったのです。つまり、4割近くがアメリカとの貿易によって飯を食っていた国だったということです。当時、日米安保を今後どのようにするのか、という議論をしてみても、現実に日本人が飯を食っている種の貿易の4割近くがアメリカとの貿易で生活を成り立たせている国という状況で、そこがしっかりと日本を金縛りのようにしていたために、アメリカとの同盟を軸にして生きていくという選択肢はそのような文脈においても、ある面では必然でもあったし、逃れようがない部分もあったのだと思います。
しかし、あれから50年が経って、昨年の日本の貿易総額において、対米貿易の比重はわずか13.5%にまで落ちてきていて、中国との貿易比重が20.5%になっているのです。そして、アジアとの貿易比重がほぼ50%というような国に変わってきたのです。
経済における日本とアメリカとの関係で、たまたま、いま貿易だけの数字だけを使ってお話しをしましたが、投資においても、人の動き、つまり、海外渡航者の数においてもアメリカとの関係がどんどん細っていっています。例えば、アメリカの西海岸に訪れている日本人の数は2000年がピークだったのですが、この10年で半分になってしまいました。それくらいに日本人の存在感が西海岸でも消えて、中国人と韓国人だけがやたら目立つような構図になりました。
このような状況を背景にしても、ここに1つの歪みのようなものが見えてきます。日本の場合、いまだに経済の関係においてはアメリカとの関係がどんどん薄くなってきています。しかし、外交安全保障の関係においては極端に言うと、アメリカとの関係は9割くらい頭の中で引きずっています。その枠組みから1歩も出られない状況の中で喘いでいるというところにある種の日本のアンバランス感があるのです。外から見ていると、例えば、アジアの目線から日本を見ている時に、滑稽な空気が漂っています。分かり易くいうと、アジアは日本にとって一番のビッグ・カスタマーなのです。つまり、毎日ビジネスをし、商売をしている相手で一番重い存在になってきているアジアが貿易の5割を占めています。そして、中国が20%を超すという状況になって、一番の取引先に対してまだアジアとの関係、中国との関係が信頼できず不安なために、昔ながらの同盟関係に物凄くしがみついて、アメリカという用心棒に頼っていないと不安で仕方がないのです。積極的にアジアとの関係を安全・安心な関係に作り直していくのだと構えるのではなくて、あくまでもアメリカに頼っていないとアジアとの関係は信頼できないという構図の中にうずくまっているというその辺りの滑稽感が日本に対するアンバランス感となり、日本をアジアのリーダーとして敬愛する気分が萎えてきている空気を私は本当に感じています。このことが咸臨丸150年という時に考えざるを得ないのです。
最後に、咸臨丸はどうなったのかという話だけはしておきたいと思います。咸臨丸は明治4年に太平洋を渡っていってから、11年後に函館の西の海岸で座礁して沈んで最後を遂げます。私は個人的にも北海道出身の人間なので思いも熱いのですが、「ああ、咸臨丸は結局、最後は北海道の函館の近くの海岸線で座礁して沈んだのか……」という思いは何か胸に迫るものがあって、非常に複雑な気持ちになります。

木村>  寺島さんのお話で、いまを生きる我々が咸臨丸100年と150年の時代の対比の中から考えるべきことはとても重いと感じました。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方々からのメールを紹介して寺島さんにお話を伺います。
30代前半の男性、ラジオネームSegawaさんからです。「僕はアメリカで会計を専攻する者です。勉強する傍ら、Podcastで番組を楽しく聞いています。今回のお話は全て本当に面白くかつためになりました。全て目からウロコが落ちる内容でした」。これは5月の放送で大中華圏をはじめとするお話の回のことですね。
 次に、20代後半の男性、ラジオネームZIMAさんからです。「バンドン会議の番組を聴いていて、久しぶり熱くなりました。現在日本のブランディングを再構築するために化粧品業界で働いていますが、30手前になって『我々のアジアの繁栄』を共に生きる覚悟をしました」。このように番組を聴いて下さって覚悟をされた方もいます。
 東京でお聴きの女性、ラジオネームてるみーさんからです。「このような硬派な番組をあることをとても嬉しく思います。私は社会や政治的な個々の問題に対し真剣に考えていくと自分がどう感じてどう考えるかだけではなく、どう行動するか? 社会をどう変えるか? 変えたいのか? まで考えています。普段から考え続けていると自分が行動したところでなかなか社会は変わっていかないことに対し、なんだかひとりで焦って空回りしている部分があるのも事実です。そんな時にこの番組に出会い、立ち止まって、どう生きるかというところまで広げて考えると、個別の問題での行き詰まり感というのが気にならなくなってきました」。このメールの内容はリスナーの方が寺島さんの『世界を知る力』のある通奏低音のようなところを受けとめて下さっているように感じます。

寺島>  ある種の限界は当然分かりますが、メディアの役割といいますか、私は本当に知は力であると思っていて、若い学生諸君とも向き合っていますが、事実をしっかりと知るということと、それを踏まえて、できるだけ世界を広く見渡していく努力をしてみるということと、自分の足元を掘り下げて、鳥の目と虫の目という言い方をしますが、地に足のついたものの見方や考え方を身につけていくことが必要だと思います。この種の放送等はそれに若干の刺激を与えて考えるヒントを与えることがぎりぎり限界であると思いますが、とても大事なきっかけとなっているということを感じると我々送り手側として感動します。

木村>  それと共に、勿論、身の周りには難しい問題がたくさんあるのですが、生き方としてこの番組を聴いていると行き詰まり感が気にならなくなって、そのようにして力を得るということの大切さがこのメールに表れていて、この番組は凄い聴かれ方をしているのだと感じました。

寺島>  できるだけ歴史認識を深める話題と時代に直接向き合う話題を組み合わせながら、良い内容にしていきたいと思います。

木村>  前半で咸臨丸100年、150年の時代の移り変わりがありましたが、先程のメールの中で「30手前になって『我々のアジアの繁栄』を共に生きる覚悟をしました」と書いてありますが、いかがでしょうか?

寺島>  私もそのメールを読ませて頂きました。特に20代、30代の若い人たちは自分の職場での役割期待の中にどんどん埋没していかざるを得ない時期なのだと思います。私自身も商社という世界に入り込んで、あらゆる意味においてストラッグルしていました。しかし、その時のことをいま思い起こしてみれば、企業を超えた勉強会や専門家との研究会等に参加するようになって自分の視界を広げるために、本当に自分なりにストラッグルしていた20代、30代であったとつくづく思います。
 したがって、自己満足しないで、できるだけ機会を捉えて、研究会や異業種の勉強会等に参加していく努力をしていく時間管理です。これは意志がないとなかなかこのようなことはできません。志がなくてはなりません。このような面で私はよくマージナル・マンという言い方をしますが、いろいろな境界を生きるということです。つまり、会社の中で役に立たないような人間では話にならなくて、それはプロフェッショナルという意味において自分がそこで飯を食っている世界なのだから会社の中でもキチンと評価される折り合いをつけなければなりません。同時にそのようなところで内輪の評価を受けて満足するだけのではなくて、1歩でも2歩でも何か食いついていかなければならないということです。これが大事であると思うし、その1つのきっかけになるような番組していきたいと思います。

木村>  本日の後半はメールを御紹介させて頂いたリスナーの皆さんに寺島さんからまた熱いメッセージが語られました。