第51回

―シンガポール・バーチャル国家論―

寺島>  シンガポール・バーチャル国家論についてですが、いま我々の国家観を立て直さなければならなくなってきています。つまり、かつて、豊かな国、強い国は植民地主義が吹き荒れた時代には「大英帝国は陽が沈む時がない」という表現があったくらいで、世界中に植民地をもって、植民地に於ける資源の産出力によって国家の格が決まるという時代がありました。しかし、産業革命がイギリスで起こり、世界に伝播して、工業生産力モデルという表現があって、工業生産力をもった国が豊かで強い国であるという時代を迎えたのです。日本の通商国家モデルも、工業生産力モデルの変形だと言われています。
 しかし、シンガポールはバーチャル国家モデルという新しい先端的な実験国家だと表現するアメリカの経済学者も出てきています。つまり、資源産出力もない、工業生産力もない、人口もない国で、何があるのかというと、目に見えない財の創出力です。例えば、技術、システム、ソフトウエア、サービス、ロジスティックス等の目に見えないバーチャルな価値に対して先頭を切って生み出す力によって、国家が国家として繁栄する仕組みをつくり上げたところに、シンガポールのシンガポールたる意味があるのです。
 私はグレーターチャイナをもっと柔らかく考えなければならないと考え始めています。つい最近、私はシンガポールを訪れましたが、今年の2月からカジノがオープンし始めていました。実際に私がカジノに行ってみますと、シンガポーリアンから入場料を100ドルとっていて、かなり高額なので、なかなか壁が厚くて、シンガポールの人には抵抗感があるだろうと思います。しかし、外国のパスポートを持っている人は無料で入場できるので、例えば、近隣のマレーシアやインドネシア等、インドネシアにはシンガポールの人口の倍に当る1,000万人の中華系の人がいるわけで、そのような人たちを惹き寄せるのです。
シンガポールのカジノは異様な熱気で、我々がアトランタシティーやラスベガス等で感じるような洗練されたカジノとは違って、少し粗野で引いてしまうような空気がなくもありません。そのような中で、更に、第2カジノが秋に向けてオープンされます。とにかく、シンガポール経済は人を惹きつけることによって活性化しようとしていることがよくわかります。
更に申し上げると、私は香港でANAのアジア戦略室の人たちと議論をして痛感した部分がありました。それは、日本の活性化にとって、「ここが来るな」と思っているところは、シンガポールの先行モデルなのですが、LCC(Low Cost Carrier)=ローコストキャリア、ジャカルタ―シンガポール、クアラルンプール―シンガポール等を繋いでいる安い航空運賃によって人を惹きつける方式のことです。シンガポールの第5ターミナルは、ライオンエアー等のローコストキャリア専門のターミナルとしてオープンしています。私が確認して驚いたことがあって、ジャカルタ―シンガポールが往復4,200円、マレーシア―シンガポールが往復3,000円台だということです。分かり易くいうと、東京―ソウルを往復7,000円~8,000円位で繋ぐフライトというイメージで捉えて頂きたいのですが、要するに、飲まず食わずで、水1杯のサービスもないということですが、現実に、それでも安いほうがよいという人がいるのです。しかも、オペレーションに対してもコストをかけないので支店もなければ営業所もなくて、ネットによって総ての航空券の販売を行なっているのです。日本も観光立国にしようという動きがあって、一生懸命議論されていますが、今後、日本の地方空港や関西国際空港等を考えた時に、このローコストキャリアをどのように持ち込んでくるのかということが凄く重要なキーワードになってくるのです。つまり、人を動かすということです。それでなくてもJALがあのような形になり、ANAも、そのとばっちりを受けて苦しみ抜いている時に、ローコストキャリアが入ってきたのであれば、日本の航空会社は吹っ飛んでしまうのではないのかという感覚があるはずです。そこで、知恵の出し所で、かつて、時計会社のセイコーが、安売り時計との攻勢で苦しみ抜いていた頃、企業が行なう戦略で第2ラインと呼ばれるもので、セイコーの場合は、「アルバ」というコストを下げた時計をつくって立ち向かう方式を採用しました。私は日本のANA、JALがローコストキャリアの航空会社とジョイント・ベンチャーをつくって、サービスを受けたり、飯を食べたい人やテレビを観たいという人は高いお金を払ってもJAL、ANAを使って動けばいいし、そのようなものが必要ない人たちは、数千円のコストで人を動かすというベースをつくっておく、つまり、第2ラインをつくっておくことによってローコストキャリアを上陸させていくような方式もあるだろうと思います。いずれにしても、アジアのダイナミズムを取り込んでいかなければならない状況になっているという意味なのです。
そこで、段々と大中華圏ということで何が言いたいのかという意味が伝わっていると思いますが、確認をして頂きたいことがあって、『世界を知る力』(PHP研究所出版)の81ページを開いていただくとユーラシア大陸の地図が出ています。本を持っていない方は頭の中でイマジネーションを働かせて頂けたら私の言っている意味がわかると思います。これはシンガポールとは何かということの理解を深める上で必要な図なのです。ユーラシア大陸の地図に頭の中でイマジネーションをしてプロットしていってもらいたいのですが、大英帝国イギリスのロンドン、中東の金融センターのドバイ、IT大国化するインドのバンガロール、シンガポール、資源大国として一段と力をつけてきているオーストラリアのシドニー、これらを点でプロットして、線で結ぶと一直線になるというくらい真っ直ぐなことに驚くはずです。これが世に言う「ユニオンジャックの矢」というもので、大英帝国の埋め絵が効いているということです。まず、英語圏であるということ、イギリスの法制度、リーガルを共有していること、更には、イギリスの文化、例えば、サッカー、ラクビー等を含めてスポーツから文化を共有しています。これは後の日本の東アジア共同体の議論にも関わりますが、イギリスは不思議な国でシンガポールから引き、結局、香港からも引いていきました。しかし、引きながら尊敬されています。イギリスの影響力をそのような形では充分に残して引いていって、ユニオンジャックの矢が絵空事ではなくて、いぜんとしてある種の機能を果たしています。ビジネスの世界にいる人なら、このラインが新しいビジネスモデルをエンジニアリングする上において、物凄い意味を持っているということがよくわかると思います。
シンガポールは、ユニオンジャックの矢の中におかれている点と、大中華圏の南端だという点において接点を持つことになるのです。この瞬間に頭の中でスパークして、シンガポールとは何かということがイメージできるはずです。
私はシンガポール観光局の回し者ではありませんが、度々、学生にも「いま、安いコストで海外に行けるのだから、とにかくシンガポールに行ってじっと考えてみなさい。何かが見えてくる」と言っています。この夏にでもシンガポールをご覧になれば、アジアがどのようになってきているのかということが100万回の話を聞くよりも、瞬時に納得ができると思います。
とにかく日本の生業が変わってきているということです。かつて、日本は主にアメリカとの貿易によって飯を食っている国だと言っていれば間違いありませんでした。しかし、それがあっと言う間に変わって、日本は今や、中国を中核とする大中華圏で3割、これは対米貿易の倍以上です。アジアとの貿易で5割、ユーラシア大陸との貿易で74%、つまり、4分の3はユーラシア大陸との貿易によって飯を食う国に変わってしまったということです。冷戦が終わってからの20年間で、大きな構造の転換が起こったということがすぐ分かるはずです。1990年には対米貿易の比重が27.4%で、中国との比重はわずかに3.5%だったのです。これがこの20年間の日本の国際関係を考える時の大きな変化のベースです。
昨年、米国に対する輸出超過は3兆2千億円で、韓国に対する輸出超過は2兆4千億円、台湾は1兆7千億円となっていますが、これは東アジアについて考える時に大変重要な数字なのです。段々と冷静になって考えてみると、「韓国は何故蘇ったのか」という話と、そこの結びつきなのですが、大中華圏で4兆8千億円の日本側の出超で、中国に対しては1兆2千億円の入超なのです。しかし、大中華圏全体で4兆8千億円の輸出超過で、韓国に対して2兆4千億円の輸出超過となり、つまり、ここで7兆2千億円輸出超過になって外貨を稼いで日本は産業を成り立たせていることがわかります。これは米国に対する輸出超過の倍以上となっているのです。
韓国、台湾を動くと、向こう側から見た苛立ちがわかります。例えば、韓国については、日本側からみれば、韓国にしてやられているという先程の認識が受け入れられがちですが、韓国にしてみると、ある種の苛立ち、「何故、韓国は日本に対して2兆4千億円も輸入超過になっているのだ」という構図があり、それは何かというと極めて明解で、中間財だということです。つまり、日本の部品を入れて、それを最終製品に埋め込んで世界に向けて輸出して韓国経済が成り立っている構図だからです。
したがって、別の言い方をすると、中間財の輸出超過によって韓国が活躍して世界に最終プロダクトで稼いでいる構図は、日本にとって大変な恩恵をもたらしているということなのです。
台湾も同様で、台湾に行くとフラストレーションが漂っていて、OEM(註.1)の島のようになっていて、日本のデジカメの大半は台湾でつくっていると考えるとわかります。要するに、日本の部材を入れて最終製品にして世界に輸出している構図になっているために、彼らはある種の苛立ちがあります。先程、中国を中核とする大中華圏という議論を組み立てましたが、日本を中核とする、日本のネットワークということでいうと、韓国、台湾もそのような文脈においては、日本のネットワークの中で動いている産業構造だともいえるのです。そこで、日本人の狭量さと言いますか、心の狭さなのですが、韓国が成功を収めると、嫉妬心や猜疑心の中でムラムラしたり、苛立ったりするという構図が働きがちで、あまり余計なことは申し上げるつもりはありませんが、引いて言うと、先程の大英帝国の話と結びつけながら考えて頂きたいのは、韓国、台湾は、かつて、日本のテリトリーの中にあったのです。これは歴史上の事実として、良い悪いは超えて、ファクトとしてということです。かつて、靖国神社には5万人以上の韓国、台湾籍の人たちも眠っています。変な言い方になりますが、日本の軍人として一緒の戦いの中で死んでいってくれた人たちです。日本人の感覚の中に、そのような感覚がないということが恐ろしいのです。要するに、共鳴心が働いていないということなのです。これから本当に日本の発展、東アジアとの連携等を考える時に、結局、東アジアの繁栄が日本に大きな恩恵をもたらしていて、その中で自分たちも進んでいくという構図が日本の針路として有り得るべき方向なのだという感覚が浮かんでこないとならないわけで、隣の人の成功を妬む構図の中でしかものを考えないような国が発展するわけがないのです。
日本を取り巻く人流の変化として、日本人の出国者、訪日外国人の2009年の数字をみると、日本がいま、いかに大中華圏と韓国からの来訪者によって支えられているのかということを最近、皆さんも実感していると思います。銀座や秋葉原等に殺到してきている近隣の国々の人たちの購買力に支えられている部分があります。これらの人たちの購買力を内需というのか外需というのかと議論することも意味がないというほど、アジアの連携は進化し、その関係も深まっています。やたらに、中華系の人と韓国人が温泉に行っていたり、銀座を動いていたりするのが目立つなあと感じるのが数字の意味なのです。昨年、アメリカから日本にやって来た人たちは7万人減って、ついに70万人になってしまいました。一方、大中華圏からやって来た人たちは263万人で全体が2割近く減っている中で、韓国159万人でした。韓国からの来訪者がウォン安によって前年と比べるとグッと減ったように感じますが、昨年11月から反転してきていて、いま、物凄い勢いで増え始めてきているのです。
したがって、日本にとって、これらの人たちが持つ意味がいかに重いのかということがわかるはずです。それについて、日本人出国者を見ながら触れていきたいと思いますが、月刊誌『世界』(岩波書店出版)の私が書いている連載の中で、日本人出国者1,545万人という構図の中身を分析しています。これは、御存知のようにこの数字はどんどん減ってきていて、その理由に新型インフルエンザの影響や、9・11以降、海外に出ることのストレス等、いろいろとあって、2000年という年に日本の海外出国者がピークで、1,782万人だったのです。しかし、そこからどんどん減って、1,545万人にまで減ってきているというのが現下の日本人出国者なのです。
ここで、少し確認しておきたいことは、アジア太平洋研究所構想に繋がっていく問題意識についてです。皆さんが、どれほどそれを感じておられるか、違和感を感じておられるかどうかわからずに私はお話をしていますが、日本という国は、いま物凄く内向きになっています。内向する日本になっているということです。この1,545万人の海外に出ていった人の内訳を見てみると、約2割が団塊世代よりも上で、定年退職を終えた60歳以上の占める比重が多いのです。次に、若い女性です。若い女性が元気で、中年も含めて、毎週末、韓国のアイドルグループの<東方神起>を追いかけてソウルに行く女性もいて、出国者の数を稼いでいるのは若い女性なのです。同じ若いジェネレーションの中でも、男性の比重が凄く小さく、数字でいうと65対35くらいで女性のほうがアクディヴです。ここで肝心なのは、壮年男性、つまり、働き盛りの男性が世界を見ていないということです。これは日本の特色なのです。見ていたとしても仕事のために出張で行っているのです。経済状態が悪くなると出張が減り、昨年も16%くらい減っています。要するに、会社がお金を出してくれる形での海外出国のチャンスは壮年男性にはあるのですが、経済状態が悪くなるとこの数字がグーンと圧縮します。いま、壮年男性で自分のお金で自分の趣味や目的意識のために海外に出るという人はほとんどいないと言ってもよいくらいなのです。何故なら、そんな暇もないし、お金の余裕もないということで、世界を見ていないのです。実は、このことが日本の空気を物凄く内向きにしている一因です。グローバル化だの、国際化だのと言葉は飛び交うけれども、実際は完全にグローバル化疲れ、国際化疲れに入っているというのが日本の現実だと言ってよいと思います。海外に出て行ってストレスを感じるくらいだったら、国内の温泉に行っていたほうがよいというくらいの空気が漂っているのです。
私が長い間、育てられてきた商社の世界でさえも、現実問題で海外赴任を好まずという人たちが出てきているのです。商社で海外に行かなかったらどうするのだと思います。このようにまるで世の中が変わってきているのです。

(註1、Original Equipment Manufacturer。他者ブランドの製品を製造すること)