第49回

-戦後日本のアジア復帰~バンドン会議とは何だったのか~-

木村>  先週の放送では「普天間混迷が教えてくれたこと」というテーマでお話を伺って随分考えさせられるところがありました。このことについてはもっともっと深めていかなければならないと感じました。
 今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「戦後日本のアジア復帰~バンドン会議とは何だったのか~」です。バンドン会議というのは1955年にインドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議です。この時に、我々は戦後生まれなので歴史として学んだことですが、スカルノ大統領の「新しいアジア・アフリカよ、生まれ出でよ」という開会演説がとても新鮮で鮮烈な印象がありました。寺島さんは何故いまバンドン会議を取り上げて、これについて語ろうと思われたのでしょうか。

寺島>  アジアと位置関係が日本の宿命のテーマと言ってもよいと思いますが、日本はアジアの国でありながらアジアではないというような空気で生きている歴史を背負っています。これはどのような意味なのかというと、明治維新を迎えて誰もがよく知っている福沢諭吉の『脱亜論』がありました。これは1885年(明治18年)に出ているのですが、福沢諭吉は周りの隣国の開明を待って、つまり、混乱している国々の目が覚めるのを待って、共にアジアと歩んでアジアを興すという考え方は手間取るし、そのような猶予はない、と論じました。日本は西洋列強をひたすら学んでアジアに手を煩わされずに、そのようなアジアから脱して生きていこうという考え方です。
 しかし、その同じ頃に樽井藤吉が『大東合邦論』を書いていますが、これはアジア主義の典型的な本で、アジアを1つの国家のように統合していこうという考え方の走りのようなもので、アジアと力を合わせてこの国を生きていくという考え方の中心であるような本が出たのです。このように対照的な論文が2つあったのです。
 要するに、日本の近代史は福沢諭吉の『脱亜論』と樽井藤吉が『大東合邦論』が、糾える縄の如く、バイオリズムのように繰り返されてきたと言ってもよいということです。極端にいうと、西洋、アメリカを含む欧米との関係がまずくなるとアジア還りになるというバイオリズムのようなものを繰り返してきました。日本はアジアの中で最も前に出て近代化を進めるために富国強兵を進めて、この番組でも何度か「親亜」という表現を使いましたが、親しむアジアが「侵亜」=侵すアジアに変わり、日本も遅ればせながら列強の一翼を占めるという形によって、アジアに軍事的な侵攻をするという方向に傾いていき、大東亜共栄圏の夢を追いかけて一敗地にまみれて挫折をしました。大東亜共栄圏の挫折の中から、1945年の敗戦を迎えて、戦後日本は何処へ向かうのかという時期に向き合ったのです。そこで、1945年から、先ほど話題に出た1955年に行なわれたバンドン会議までの10年間が日本の戦後の進路にとって大切な時期だったのです。
 日本は1951年にサンフランシスコ講和条約で日米安保という路線に入っていって、世に言う「吉田外交」でアメリカとの同盟関係を軸にして日本を復活、成功させていく路線に向ったのです。
敗戦後、日本はあの戦争をアメリカへの敗戦と総括したのですが、厳密に言えば、中国とアメリカとの連携に敗戦したということが第二次世界大戦=アジア太平洋戦争の正確な認識であるべきなのです。しかし、日本はアジアに負けたとは一切思わなかった、思いたくなかったのです。日本は、アメリカの物量にねじ伏せられたのだと思い、アメリカのような物量豊かな国に復活しようとして「アメリカとの同盟関係を軸に」という路線を歩もうとしたことも不思議ではなかったとも言えます。
戦後の日本の視界からアジアが消えて、ひたすらアメリカとの同盟を踏み固めて戦後復興、成長するという路線に入っていこうということが1951年のサンフランシスコ講和条約においての日本の選択でした。その時に、この番組でも話したことがありますが、インドがサンフランシスコ講和条約には署名しなかったのです。日本に対しては「あなたたちはわずか6年前までアジアの解放とか、大東亜共栄圏と言っていたのに、もうすっかり忘れてアメリカの一翼を担う形で戦後復興という方向にお進みになるのですか」と言わんばかりのメッセージを発信していたのです。もしも、日本に駐留している米軍が全部引き揚げるならばインドはサンフランシスコ講和条約に署名してもよいという変な条件を出して署名をしなかったのです。翌年、インドは日本との単独講和に応じてくれたのですが、このインドのスタンスが日本のボディに物凄く効いているわけです。
そして、1949年に中国共産革命、中華人民共和国が成立して周恩来とネルーの間に協定が結ばれて中印関係が復活し、アジアに中国とインドの存在感がじわっと高まってきました。先程、木村さんが話題にしましたが、1955年にインドネシアのバンドンに中東からエジプトにかけて我々からすると胸が躍るような戦後世界史の中心に立ったようなリーダーたち、ネルー、周恩来、スカルノといった、まさにヒーローとも呼べるような人たちが一堂に集まりアジア・アフリカ会議が開かれました。アジア・アフリカが当時冷戦構造によって東と西にどんどん分断されていく中で、第三極といいますか、中立主義を保っていこうということを掲げたインド、或いは、アメリカのアジアにおける影響力に対して一線を構えて新たな国づくりを始めていた中国等がそれぞれの思惑の中でアジアに新しい胎動を引き起こさんがために、一堂に介するという会議でしたが、その招待状が日本に届いて、その時に日本はどうしたものかと迷ったのです。この話が過去のものではない不思議な因縁を感ずるのですが、その時の日本の政権は、鳩山政権だったのです。つまり、いまの鳩山由紀夫首相の祖父の鳩山一郎政権だったというわけです。外務大臣は重光葵さんでした。先程、不思議な因縁を感じると申し上げましたが、その時に、鳩山外交が目指したものは前任の吉田外交とは違って、対米自主外交、つまり、アメリカから一定の距離をとって中国、ソ連との国交を回復していこうとすることと、アジアとの関係を重視していこうとする考え方をじわっと示そうとしたのです。しかし、既に日米安保体制の中に組み込まれ、サンフランシスコ講和条約を終えて日本がある路線のもとに歩み出していましたから、バンドン会議に出てよいかどうか、アメリカに了解をとろうとしていました。
最初、アメリカはバンドン会議の開催そのものに反対だったのです。何故ならば中立主義、共産主義等のアメリカに敵対してくるか、アメリカの利害にそぐわないような人々が主導していくようなアジアになってはよくないのということで、バンドン会議そのものに対しては物凄くネガティブな雰囲気で構えていたのです。したがって、日本もそのような会議に出ていって大丈夫なのだろうかということで、アメリカに御伺いを立てたのです。しかし、インドや中国等を牽制するために、アメリカの同盟国である国がバンドン会議に出ていくことによって、インドや中国等が主導していってしまうことを中和する、流れを変えるために日本が出ることをダレス国務長官の判断によって、むしろ、大いに結構なのではないのかという形で後ろから支援するような空気が存在したのです。日本は実に及び腰でしたが、そうは言いながらも日本がアジアに復帰する最初の会議になったわけです。本当であるならば、先程申し上げた、周恩来やネルー等に対応していくためには鳩山首相自身が出ていくべきだったのかもしれません。せめて、重光外相が出ていくべきだったのかもしれないのに、日本が及び腰だったために、後に日中関係において大変活躍しますが、当時の肩書は経済審議庁(経済企画庁の前身)長官であった高碕達之助氏をバンドンに送りました。しかも、物凄く制約を与えて、羽交い締めにして、あまり目立った動きをしないように「おとなしくしていろ」というくらいの指示によって送り出されたのです。
バンドン会議が重要なのは、まず、中国が共産中国になってから初めて国際社会に周恩来が登場してきて存在感を示し始める最初の会議で、世界史的には非常に大きな意味をもっていたからです。1971年に国連で台湾が追放されて、中華人民共和国が中国の正当な政府だという形になるまでには微妙な情勢だったのですが、バンドン会議において、台湾を一切呼ばずに中国の周恩来だけを呼んだというところに大きな踏み込みがあるのです。中国が正面をきって国際会議に登場してきた最初の舞台でした。
日本にとっては、戦争に敗れた後、国際社会に復帰する大きな舞台になりました。冒頭に申し上げたように、日本自身が日本はアジアの国なのか、アジアの国ではないのかわからないような、つまり、御都合主義的にアジアに関わってきていたにも関わらず、アジアは日本を忘れなかったといいますか、少なくともバンドン会議に日本を招き込んでくれたのです。そのことによって日本が極端に言うとアジアに復帰することができて、その後のアジアにある種の経済関係等を確立していくことができる大きなきっかけとなったといいますか、道をつけてくれたような会議だったわけです。
しかも、その時に高碕達之助と周恩来が秘密会議を開きました。これが後の日中国交回復の伏線になっていくという意味合いにおいても、バンドン会議は大きな意味があるといえるのです。更に、私が話してきた文脈の中でおわかりのように単なる過去の思い出話だけではなくて、今日でもこのテーマを引きずっているのだと思います。皮肉にも鳩山政権という流れの中で対米協調を軸にしながらもアジアとの位置関係をどのようにとるのかということに向き合っていて、東アジア共同体という言葉が出てきたりする大きなポイントなのです。
私は先月、インドネシアのジャカルタを訪れてASEANの事務局の人たちとも色々と議論をしてきました。ASEANは、結束を固めて2015年迄にASEAN共同体をつることを目指しています。ASEAN・インドの自由貿易協定が1月に発効しました。ASEAN・中国の自由貿易協定も1月に発効し、つまり、ASEAN=東南アジア諸国連合がどんどん結束を固めつつあるという状況下の中で、日本が東アジア共同体と言おうが言うまいが、まず、東南アジア諸国連合の共同体が出来あがっていくであろうという状況です。アメリカとの関係や先週この番組で議論をしたような日米同盟をどのようにするのかというところを考え込みながら、アジアとの位置関係をどのように重層的に結びつけていくのかということで、極端に言うならば、15年前のバンドン会議の時に日本自身が悩みながら踏み出していった状況から考え直してみても、いま抱え込んでいるテーマと基本的にはそんなに差がないのです。
そのような中で、まさにアジアダイナミズムが噴き上げてくるような時代に、「さて、日本はどのようにしていくのか?」という時に、バンドン会議の歴史をしっかりと調べて考えるということは物凄く参考になると思い、私はいまバンドン会議関係の資料をたくさん集めていて、ひとつ書きあげてやろうと思っています。

木村>  寺島さんがおっしゃるように、いまアジアは世界で経済の成長、発展ということにおいては最もエネルギーに溢れた地域です。そこで、バンドン会議が、戦後日本が戦後のアジアと再会するということを通して、我々がこのアジアで日本がどのように生きていくのかということを考える時に、非常に示唆するものが深いということがわかりました。そして、いま改めてバンドン会議を見つめ直してみたいと思いました。
<後半>

木村>  今週の後半はリスナーの皆さんから頂いたメールを御紹介してお話を進めたいと思います。
 寺島さんがお出しになった『時代との対話』という対論集に対して、プレゼント募集もしまして、「是非私も欲しい」というメールも含めて、たくさんのメールを頂きました。
先ず、東京でお聴きの女性のリスナーの方からでラジオネーム「アンアン」さんからです。「東京の大学に通うため昨年4月長崎から上京しました。前回の放送を聴き、一番心に残ったのは就職についてです。今の時代就職氷河期で、これから先、自分の将来を決めていかなければならない私は自分の未来に漠然とした不安を感じていました。そんな時、このラジオを聴き、『稼ぎのためではなく、自分を高めていける仕事をみつけること』というコメントがとても心に響きました。現在、モラトリアム期で自分の将来について模索中ですが、自分を高めていける天職に出会えるよう充実した大学生活を送っていきたいです」という内容のメールです。
もう1人のリスナーの方のメールも御紹介します。岡山でお聴きのラジオネーム「焼きニンニク」さんからです。
「3月27日放送の中のリスナーからのメールで『就職先が決まらない。景気がよくなったら就職も容易にみつかるのか』という問いかけに対する寺島さんのお話に実に感動、賛同できました。僕はトラックの運転手をしていますが、仕事をしていて配送先のお客から『御苦労様』、『ありがとうございます』と言われるのが一番嬉しい瞬間です。この時世、決して給料も多くなく、なんとか生活している状況ですが、僕がしている仕事が人に感謝されているとわかった時、この仕事をしていてよかったなあと思います」
お2人のメールを読んだ私の感想なのですが、ある意味ではこのように放送を届けている側の我々も心励まされます。

寺島>  私も大変やりがいがあります。盛んにこの番組でも何カ月に渡って話題にしてきた私の書いた本『世界を知る力』が若い人たちに読まれていることを実感する瞬間が多いのです。

木村>  数だけ言うのはよくありませんが、既に20万部に迫っているようですね。

寺島>  要するに、「知」は力なのです。私は御紹介したリスナーの方のようにトラックの運転をしながら生きている人も、学生さんでこれから自分の就職や仕事等を考えようとする人も、やはり、「知る」ということが凄く大事だと思います。知れば知るほど自分がやらなければならないことが見えてくるのです。これが教養であり、知性であって、謙虚な気持ちになって人の意見に耳を傾けながら吸収すると、少しずつだけれども物事が見えてきて、更に、物事と物事の関連性が見えてくるのです。そのような中から自分に相応しい生き方とは何なのかとか、生活を成り立たせなければならないので稼ぎも大事だけれども、努めとして世の中の役に立つ仕事とどのようにバランスをとっていくのか、納得ができるものをどのように手ごたえのあるものに創り出していくのかというところなのだと思います。
 私は教育にも関わってきていますが、この辺りのことで若い人たちが力をつけていって、自分の人生を自分で創造していってくれることを本当に切望しています。

木村>  その意味においても『世界を知る力』は、つまり、世界を知るということは全体をトータルに地球規模によって物事を考えるということと、その力が1つ1つの生活の1コマ1コマを深く考えることになります。これが繋がった大きな力になってくるということがとても大事なところになると思います。

寺島>  本当にその通りです。知ることによって自分がわかってくるのです。

木村>  その意味においては、このようにリスナーの皆さんからメールを頂くと、このように寺島さんのお話を皆さんに届けているという放送の意味を我々も改めて確認することができて、是非とももっともっと多くの皆さんからこのような反響も頂きたいと思います。
 実は、リスナーの方からは他にも「スマートグリッド」や「環境問題」等の内容のメールも頂いているのですがテーマが大きいので改めて、これらを1つのテーマにしてどこかで取り上げて寺島さんにお話を伺いたいと思います。

寺島>  腰を入れて話しましょう。