第41回

木村>  先週の放送ではPHP研究所から出版されたばかりの寺島さんの新刊『世界を知る力』をめぐって、世界に対して我々がどのように向き合うべきなのかという事を具体的な例を踏まえながらお話を伺いました。リスナーの多くの方々も世界の見方について随分刺激され、触発されたと思います。

        <寺島実郎が語る歴史観〜『坂の上の雲』>

 今回は「寺島実郎が語る歴史観」で、テーマは「坂の上の雲」という事でお送りします。現在、同じタイトルでNHKのドラマが放送されているところですが、司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』も書店には山のように積まれていて、関連の書物だらけです。
司馬さんの歴史観に対しては色々な意見がありますが、さて、寺島さんはいったい『坂の上の雲』にどのような眼差しをもっていらっしゃるのかという事に、まず、第一の興味と関心があります。

寺島>  私は以前、PHP研究所の新書で『われら戦後世代の坂の上の雲』という本まで出しています。国家の目的と自分が所属している組織、秋山真之にとっては海軍だったのですが、更に、個人の人生の目標が連なっているように何の矛盾もなく連なっていた明治という時代の思いと、いま我々が生きている時代において個人が個人に向き合って国家のテーマや自分のテーマに帰属している組織のテーマ等さえもずれ始めている時代の目的意識のとりかたの難しさを悩みながら考えた事があります。
 いずれにしても我々は明治という時代をもう一度キチンと認識し直す事が凄く重要です。NHKは3年にわたって年5回ずつドラマをつくっていくそうなのですが、本木雅弘さんが秋山真之で阿部寛が真之の兄役の好古を演じています。私は大変に興味深くこのドラマがどうなっていくのか注目しながら観ていきたいと思っています。
 私の秋山真之に対する関心は必ずしも司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』の影響ではありません。島田謹二の著書に『アメリカにおける秋山真之』という有名な名著があって、それによって私は秋山真之という存在に非常に関心をもっていたのです。例えば、秋山真之は日露戦争の日本海海戦の天才参謀と呼ばれて、あの時に「天気晴朗なれども波高し」という電信を日本の艦隊全部に発信しました。軍人が書いた文章として、「本日天気晴朗なれども波高し。皇国の荒廃はこの一戦にあり、各員憤励努力せよ」という文章が浮かんだという事に私は非常に驚きました。つまり、軍人が指令を出す文章としてあまりにも美しい文章なのです。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の衝撃は何なのかというと、秋山という軍人になった人が少年だった四国松山の時代から、正岡子規と大変な親交を深めていたという事実があったということです。更に、正岡子規と一緒になって大学予備門から東京に上京してきて、生活をして正岡子規の影響を受け、文章や文化的教養等に対して物凄い人が軍人として生きた時代なのだという事も衝撃を受けました。お兄さんの好古の存在、こちらは陸軍のロシアのコザックと戦った日本の軍を率いた責任者だったのです。

木村>  フランスでその当時ではもしかしたら傍流かもしれないというところへ行って騎兵について学んだのですね。

寺島>  司馬遼太郎さんの長い、長い『坂の上の雲』の小説のラストシーンとして、好古が死ぬ瞬間が描かれているのですが、それに私は本当にしびれました。彼は死ぬ間際、歳をとって四国に帰って先生をやっていた好古が死ぬ間際に「奉天へ」と叫んで死んでいったのです。この「奉天へ」の意味は何かと言うと、好古がロシアのコザックと戦い合った中国の地名の「奉天」なのです。自分の若い時代の事が一時も頭から離れなかったのだという事なのです。つまり、それくらいの思いを込めて日本国の運命を背負っていたのだという事で、一番心に沁みるシーンの一つとして死ぬ瞬間に「奉天へ」と叫んで死んでいった男がいたという衝撃があったのです。これには私はとても驚きました。
 そして、真之についてですが、私は変な縁があって引きずっているのですが、ワシントンにいた頃に秋山真之について調べていたことがあります。秋山真之は、ワシントンに駐在武官としていたのです。その時に、マハン大佐というアメリカの海軍戦略論においては名だたる人がいて、1892年に「海上権力史論」という日本でも訳された本を出した有名な海軍戦略の大家といわれている人を秋山真之はわざわざニューヨークまで訪ねて行ったりしていて、とにかく必死になってアメリカの東海岸において勉強していた秋山真之を私自身が興味をもって追いかけていたのです。それは何故かというと、私は商社の人間として情報の仕事をしていた立場だったのですが、彼は海外戦略の情報というところで生きてきた人で、彼が明治の時代を生きた生きざまは全く時代は違うけれども、組織における情報の責任を担わされてワシントンに配置されていた私の心に共鳴するところがあってとても興味をもっていたわけです。
私が勤務していた三井物産のワシントンのオフィスはホワイトハウスの斜め前にありました。「1701ペンシルヴァニア・アベニュー」といって、ワシントンで名刺を出すと「1600ペンシルヴァニア・アベニュー」がホワイトハウスで誰もが知っている事なので、「えっ? あなたはホワイトハウスの隣にオフィスを持っているのですか?」と驚いた反応がワシントニアンほど返ってくるような場所に私は毎日いたのです。私のオフィスのビルの斜め前に「オールド・エグゼクティブ・ビルディング」という重厚なビルがホワイトハウスの横にあって、これは昔、海軍省だったのです。その海軍省のビルの3階に海軍文庫というものがあったのだそうです。そして、秋山真之が古今東西の海軍戦略、戦術に関する本を毎日のように通いつめて勉強していた場所がその海軍文庫だったのです。
私が夜、残業で遅くなってクルッと椅子をひっくり返してライトアップされている「オールド・エグゼクティブ・ビルディング」を眺めながら、あの3階のあのコーナーに海軍文庫があって、あそこに秋山真之が100年前に通いつめていたのだなあという思いがいつもあったのです。
秋山真之が言い残している驚くべき言葉があって、現代人からすると非常に違和感のある言葉に聞こえるかもしれませんが、秋山真之は、「自分が1日怠ければ日本が1日遅れる」と言っているのです。もし、私がいま同じ言葉を言ったのであれば、「この人は誇大妄想ではないのか?」と思われるくらいみんなが驚くと思います。
その後、秋山真之は翌年の1898年に米西戦争、つまり、アメリカとスペインとの戦争が起こった際、キューバに対するアメリカの攻撃を観戦武官としてアメリカの戦艦に乗ってずっと目撃していました。この事が日本海海戦において彼のバルチック艦隊を迎え撃つ閃きとして物凄く意味があったのです。しかも、その後、勝利を収めたアメリカが今後、カリブ海を支配していくぞと言わんばかりに展開をして各地を訪れました。秋山真之は、その船に同乗して半年間一緒に生活をしています。例えば、最初にベネズエラを訪れた日本人は誰かを調べてみると秋山真之なのです。つまり、秋山真之の体験はどのような事かというと、物凄い集中力によって古今東西の海外戦略論を読み込んだ文献研究とフィールドワークのように現場を自分の目で見て体験した報告書を頭に叩き込んだ事が日本の運命を変えたと言ってもよいくらいの大きな意味をもってしまったという事です。
したがって、一人の人間が歴史に果たす役割は限られているけれども、明治という時代の「坂の上の雲」という事を何故、司馬遼太郎さんが書かねばならないと思ったかという話なのですが、まさに、「自分が1日怠ければ日本が1日遅れる」という思いを込めて、研鑽に励み文献を読んだ人物を描く必要があったからだと思います。ここで笑える話が1つあるのですが、当時、日本大使館の駐在武官で現在の大使にあたる公使がいて、有名な星亨でした。彼は物凄い文献を集めたり、書物を買う事が好きな人で自分のライブラリーをつくっていたらしいのです。しかし、秋山真之が黙って本を持っていって読んでしまうために、係の人が「黙って本を持ち出さないでくれ」と注意をしたのです。そして、彼は「星公使が忙しすぎて、とても本をお読みになれないだろうから代わりに読んであげているのです」と言ったらしいのです。つまり、それくらいのある種のずうずうしさも含めて、彼が読み込んだ文献と体験が日本を変えたという事です。私はそのような時代だったという事が明治時代を理解する上にとっては非常に意味があると思います。それを我々にまたひきつけて考えた時に、どのように見えるのかという事が私の思いなのです。

木村>  先週、寺島さんにお話を伺った『世界を知る力』の本の中においても、この事が触れられていますが、つまり、「知」というものと、それに立ち向かう時の覚悟と志というものに非常に深く関わる秋山真之のエピソードもあれば、彼がドラマの中、或いは小説の中では「どのようにすれば喧嘩に勝てるのか考えているのだ」という「考える」部分においての深い思考について寺島さんのお話から随分触発されるところがあります。
 後半では、もう少し司馬遼太郎さんの歴史観に触れてお話を伺いたいと思います。

<後半>

木村>  あらためて、いま、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』がこのように社会に注目されているという事について寺島さんはどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。

寺島>  司馬さんの歴史観は、明治時代の日本はある意味においては成功モデルだったのですが、昭和という時代に入って歪み、増長し、転がり落ちるようにして無謀な戦争に駆り立てられて、日本を敗戦という形で一旦は破滅させてしまったという事に対する深い、深い反省という思いがその底辺にありました。極端に明治という時代や幕末維新時代等に光を当てて、結局、「昭和史は失敗の歴史」であり、「明治史は成功の歴史」であったという事で司馬史観というものには少し歪みがあると批判をする人がいるくらいなのですが、それでも戦後の日本人の教育を思い出していただくと我々が日本近代史を理解した理由は極端に言うと、司馬さんの本によって触発されて目を開いていったという部分もあるという事です。
それは何故かと言うと、戦後の日本において、社会科の教育、特に歴史教育は縄文や弥生時代から始まって、大概は江戸時代くらいで息切れをして、先生は近代史をほとんど語らなかったからです。更に言うと、時間がないからという理由だけではなくて、語れなかったのです。近代史の評価があまりにも難しすぎたからとも言えます。
日本近代史は二重構造になっていて自分自身が西欧列強の圧力の中で追い詰められて、植民地にされてしまうかもしれないという不安感の中で開国、明治維新を迎えました。今度は殖産興業だ、富国強兵だという形によって力をつけてくると、自分自身が新手の植民地帝国へと変わっていき、アジアに対して、親しむアジアの親亜から、侵すアジアの侵亜へと反転していくという二重構造を持っているのです。したがって、日本近代の評価は物凄く難しいという事になるわけです。
そのような中で、彗星のごとく東洋の小国を上昇させた明治の人たちがどのような日本をつくりたかったのか、また、どのような思いで国づくりに関わっていたのかという事をできるだけ目を開いて知るという事は凄く意味があります。
私は秋山真之を調べていて、凄く面白い彼の言葉に出くわしました。彼はワシントンに駐在の後、日露戦争を戦う旗艦となった船のほとんどはイギリスが建造していて、その建造した戦艦を引き取る、或いは、それをチェックするためにイギリスに半年間くらい駐在していました。その時に、パリにも行っていて、1900年5月12日に彼はエッフェル塔に上っています。その後に、軍人たちがエッフェル塔にまず度肝を抜かれて、海外に来て日本の貧しさを語りました。欧州の国々に比べて日本はいかに資源がなくて、大工業国になるといっても大変であろうと。しかも、日清戦争には勝ったけれどもロシアとの戦い等が目の前に迫っているという状況下において、軍人たちがいまおかれている状況で、はたして戦争ができるのだろうか? というくらいの話だったのです。その時に、秋山真之が語っている言葉があって、それは島田謹二さんの秋山真之研究の中で書き残している言葉にも出てきますが、日本のインテリのあり方に通じて、「わしたち日本人のインテリは、どいつもこいつもみんな狭い意味の小専門家なのだ。海軍の仕事をしている奴は海軍だけで他の事は顧みない。海軍以外の事は何も知らない。日本人の持つ特徴はつき合っていれば西洋人にはすぐわかるのだ」と言っています。これは何かと言うと、先日から議論している「全体知」の事なのです。先程、秋山が「天気晴朗なれども波高し」という文章を書いたと申し上げましたが、天才参謀と呼ばれた軍人としての能力が優れていたというだけではなくて、人間としての全体観と言いますか、そのような人が日本の運命を担って、その瞬間に立ったというわけです。したがって、私は明治を支えた人たちの教養の深さに驚嘆しますし、正岡子規のような友人と心から共鳴し合える軍人がいたという事実のほうが日本の力という事を語る上において非常に重要なのだと思います。私は彼がエッフェル塔に上ってこのような言葉を言い残している事は凄い事なのだと思っています。

木村>  物事を本当に深く突き詰めるという事は、日本の言葉では「突き詰める」と言うと何か狭くなっていくようなイメージをしてしまいがちですが、実は、突き詰めるとそこには広い世界が広がるという意味になると思います。そのような意味において寺島さんのおっしゃる「全体知」に、随分考えさせられながらお話を伺いました。