第40回

<『世界を知る力』>

木村>  今月15日に寺島さんがお書きになった『世界を知る力』がPHP研究所から出版されました。今回はこの本に触れてお話をお伺いしたいと思います。
 まず、この本を開くと「はじめに」というところで、「いま、あなたが百数十年前の日本にタイムスリップしたと想像してみて欲しい。場所は東北のとある山村地帯。あなたはそこで暮らす一人の若い女性に着目する。毎朝にわとりの鳴く前から起きだして、川に山に畑に休む間もなく働く女性。とんでもない労働量だなとあなたはきっと目をむくことだろう。けれど何カ月、何年と観察するうちに一つの疑問が脳裏に浮かんでくる。この人、この村から出たことがあるのだろうか?」と『世界を知る力』の書き出しに書いてあります。私は「東北のとある山村地帯の光景を思い浮かべて欲しい」という意表をつく書き出しに引き込まれて、これはどのような展開になるのだろうかと思いました。つまり、いま寺島さんがこのような書き出しで、『世界を知る力』を何故書かなければならないのだろうかという事なのです。

寺島>  私はいままで本をだいぶ出してきていますが、「難しい」とか「わかりにくい」とかと言う声もありました。この春から大学の学長という形で多摩大学に関わっていて、若い人たちと語る機会が増えていますが、自分がいままで見てきた世界やいま進行しつつある世界の事等を若い人たちに向かってしっかりと語りかけてみるとしたらどうだろうかと思いました。
いま、木村さんが読んでくださった部分ですが、一生のうちに一度も自分の村から出たことがなかったという人が大半だったというのが、いまから100年前どころか戦前の日本の東北の現実だったと思います。しかし、今、我々の行動圏が思いもかけない程のスピードで拡大してきていて、極端に言うと「アジア日帰り圏」と言って、羽田空港から1日8便ソウル便がでていますが、ソウル辺りは日帰りで行く事ができるようになりました。ただ、我々はいま世界中に旅行だ、ビジネスだと動くようになったにもかかわらず、本当に世界認識が深まっているのだろうかという時に、必ずしもそうではないのです。我々がいかに固定観念と言いますか、ある枠組みの中でしかものを考えない、見ないというところから突き破れないでいるのです。それをどのようにしたらよいのかという問題意識が私の心の中に非常に強くありました。
私自身もそうですが、戦後の日本を生きた日本人は、我々の先輩たちが体験した事がないようなテレビの登場やインターネットの登場等の情報化という時代を生きて、先輩たちよりも世界を見る見方が広がっていると思いがちですが、実はそうではなくて、却って極めて限られた固定観念の中でものを見るようになってしまいました。もっとズバリと言えば、戦後の日本人はアメリカを通じてしか世界を見ないという事で、この番組でも何回か話題にしてきました。
この本の冒頭の第1章が「時空を超える視界」というタイトルで、自分の固定観念を脱却していくためにはという事で話題にしていて、ロシアの話をしています。これはどういう事かと言うと、日本近代史は1853年のペリー浦賀来航から始まって、日本近代、開国、明治維新という時代が来るのだと思いがちなのですが、実はその思いこみ自体が極めてある意味においては戦後的なものであり、そのような事よりも150年も前からロシアの日本への接近があったのです。かつてこの番組でもお話した事があるように日本の国際社会への緊張感をもたせたのは、開国を迫ってくるロシアであり、ロマノフ王朝の極東に対する野心でした(註.1)。その野心に呼応する形で私の故郷である北海道の蝦夷地を守らなければならなかったわけで、世界史の中で日本がまるで世界から離れた島のように見えるけれども、後の北海道開拓等という事が極東ロシアと双生児のように見事にユーラシアの歴史と相関しながら生きてきたという事を視界に入れなければならないのです。
そして、中国との2000年以上に渡る歴史がいかに我々の体内時間のごとく体の中に埋め込まれるように日本人、日本文化の中に存在しているという事を理解してくると、自分たちがいかに戦後なる時代、アメリカの影響をあまりにも受けてしまったがために、アメリカを通じてしか世界を見ないという見方を身につけてしまっているかという事に気がつき始めると思います。私はその気づきのきっかけになるような本を出してみたいと思った事が理由の一つでもあります。
もう一つは、日本人は地政学的にものを見る事が凄く好きで、世界が力比べをしていた東西冷戦の時代を生きているために、ユーラシア大陸の地図の中の陣取り合戦のようなイメージによって世界を考えがちです。しかし、いま我々が世界を見る時に認識しなければならないのはネットワーク型の世界観で、例えば、中国を中華人民共和国とイコールで捉えてはならないという話をこの番組でも話してきましたが、「大中華圏」という中国を基点にして中華民族の香港、シンガポール、台湾等の人たちがネットワークによって相関し合いながら中国のダイナミズムのようなものをつくりだしている構図等を理解していく必要があるのです。このようなネットワーク視点によって世界が動いているという事に気がついてくると、例えば、大英帝国は憔悴しつつあるように見えるけれども、以前お話しした大英帝国が埋め込んだ「ユニオン・ジャックの矢」という話のように、ロンドンと中東のドバイと、IT大国化して一段と力を見せ始めているインドのバンガロールと、シンガポールとオーストラリアのシドニーが地図で書くとちょうど一直線上になっているという事がこの本でも描かれていますが、その相関が世界の動きの中においてどのような意味があるのかという事が見えてくると、世界の見方が変わってきます。更に、世に言うユダヤ・ネットワークが世界をどのように動かしているのだろうかという事が見えてくると、メルカトル図法の平面地図の中で世界の国々という形で配置されている国と国との関係だけではなくて、ネットワークによって関係をもちながら世界が動いているという事に気がついてきて、それだけでもものの見方や考え方が変わってくるのです。
そのような中で、私がここで若い人たちに刺激を与えて考えてもらいたいと思った事は、自分たちのものの見方や考え方を柔かくして、虫の目と鳥の目という言い方がありますが、虫が地べたを這うようにフィールドワークをして自分の足元にある問題を見つめて、鳥が大空から世界を見渡すように世界を大きく見渡して、鳥と虫の目を持ちながら世界認識を深めていくと日本がどのようなところに置かれているのかという事や、日本国で生きてきている一人の若者である自分がどのようなところにいるのかという事等が少しずつだけれども見えてくるということです。このような気づきがやはり大事なのだという事を私はこの本によって色々と語りたかったのです。
そして、それをできるだけ分かり易い話し言葉で、若い人たちにとって手に取りやすい新書本にしました。私にとっては少し実験的だったのですが、いままでの作品の中では少し毛色の変わった口述型、つまり、喋り言葉型の本として、『世界を知る力』というタイトルでまとめてみました。それが年末にかけて皆さんの近くの書店でも販売していると思います。若い社会人の人たちや、いま自分たちが生きている時代が何やらよく分からない人たちに手に取ってもらえると、書いた私としては非常にやりがいがあったと思います。

木村>  本の「はじめに」の終末の部分で、「私自身、約40年間にわたって世界を知る試みに次ぐ、試みの中で生きてきた。その中で実践してきたことを問わず語りに語り始めようと思う」とあります。まさに、いまお話しになった事が語られ始めるというところで、一つ一つは具体的に世界で起きた事や歴史上の事実等を取り上げながら、それらを寺島さんのお話を聴きながらそこにずっと引き込まれていくうちに、ものを見る見方であったり、ハウツーではなくて、ものの考えかたであるという事が問わず語りに伝わってきます。このように本ができているのですね。

寺島>  まさに、木村さんに言っていただいているのですが、私は1973年の石油危機の年に日本の商社の三井物産に入社したのですが、この会社が直面したイランの石油化学の大きな問題、いまでも戦後日本の最大の海外プロジェクトである石油化学コンビナートのプロジェクトがありました。1979年にイラン革命に襲われて、イラン・イラク戦争に襲われ、悲劇のプロジェクトとなった「IJPC」(註.2)の問題です。この問題をどのように解決していくかという時に、私は若い時代ですから末席で情報活動に参画し、世界中の中東問題の専門家、とりわけイランの専門家を訪ね歩いてイスラエルのテルアビブ大学のシロア研究所に行ったのですが、その時の話もこの本の中に書いています。分かり易く言うと、世界中をとぼとぼと動き回り、まさにフィールドワークで当って砕けろの精神で入手できる情報やネットワーク、人脈等にあたりながら手ごたえを感じた事、メモをとったり等してやってきた事を思い出しながらキチンとまとめたのです。
 これは体験的なアプローチでもあり、何か文献を読んで頭の中で頭でっかちに描いたものではなくて、私が足腰を使って感じとってきた事の本音の部分ですから、そのような意味においても面白いだろうと自分でも思います。何故ならば、戦後の日本の社会科学が世界を分析する手法は演繹法と帰納法という言い方がありますが、分かり易く言うと、一つの理論があって、その理論、例えば、マルクス主義という理論があって、その理論によって世界を説明してみせる方法論か、自分が日常的に体験したり現場をフィールドワークしたものの中から一般原則のようなものを見い出して、原則やルールを描き出そうとするアプローチ、二つに一つしかないアプローチによる社会科学の方法論に慣れ切ってきた部分があるわけです。

木村>  演繹と帰納は切断されていましたね。

寺島>  そのような意味において、勿論、両方のアプローチを大事にしながら、なおかつ、仮説法と言いますか、閃きによってひょっとしたらこの事とこの事は関係があるのかもしれないと思って、自分が動き回る事で段々気がついてくることがあります。例えば、私がイスラエルに何度となく行っていて、ある時にイスラエルのテルアビブからダイレクトにニューヨークに飛行機で飛んだ事があります。その時に、ニューヨークタイムズの記事とテルアビブのエルサレムポストの記事は殆ど同じだった事に気がつきました。つまり、全米600万人存在するユダヤ人の内の240万人がニューヨークに集中していると言われていて、ニューヨークは「ジュー(=ユダヤ人)ヨーク」と言われるくらいユダヤ系の人たちが多いのです。ニューヨークはいかにユダヤ系の人たちが文化的にも情報的にも大きな影響力を持っている地域なのかという事に気がつくと言いますか、そのように様々な事に対して相関が閃いた瞬間がいくつかあるわけです。その関係性というものに気づいていくと、段々、探偵小説の謎解きのごとく少しずつだけれども世界がわかってきます。おそらく、それでも私自身がもっている世界認識は極めてまだまだ断片的なものであり、だからこそ必死になって全体知と言いますか、全体をどのように捉えたらよいのかという事をまだまだもがき苦しまなければならないと思っています。しかし、これが一つのものの見方や考え方の方向性を若い人たちに提案できるのであれば、それはそれで意味のある事だと思います。

木村>  そこで、どんどん心がときめいてくるところなのですが、もう少し後半にお話を続けて伺いたいと思います。

<後半>

木村>  今回は寺島さんがお出しになったばかりの本『世界を知る力』に関わってお話を伺っていますが、これまで見えていた世界や身の周りの社会にもう一つの社会が見えてくると言いますか、違うものが見えてくるというような実感がありました。つまり、これまでもっていた、形づくられていたイメージや観念等が「はたしてそうなのだろうか?」という思いに揺さぶられる体験をこの本によってできるのです。

寺島>  私は今月の初めにアメリカ東海岸を動いてきたために、いま木村さんがおっしゃった話によって敢えて申し上げるのですが、いまの一番生々しい話題で、直近の日米の関係について言うと、私は日米同盟によって飯を食っている人たちが当り前だと思っていることを飛び越えなければならないと思います。日米関係等には極端に言うと何の関心もない人に、常識にかえって「いまの日米の同盟関係の軸になっている日米安保に基づく米軍基地がこのような状況になっていますが、あなたたちはどのように思いますか?」と客観的に偏見でも余談でもなく、事実を事実として示した時に、はたして世界的なインテリ、或いは、知識人、ジャーナリスト等と呼ばれる人たちがどのように思うのかという事を色々と語りかけて議論をしてみると、殆どの人はあらためてそのような事を質問するとびっくりするのです。アメリカ人でさえも、「えっ! そんな事になっていたのか」とびっくりするような状況があるのです。
具体的に言うと、戦後65年が経ち、冷戦が終わってから20年が経とうとしているのに、冷戦を前提とした仕組みであった日米安保をベースに、日本に4万人の米軍兵力が存在していて、その家族と軍属を入れると9万人になります。広さは1010㎢なので東京23区の1.6倍の米軍基地が現在も存在しているのです。しかも、米国が世界に展開している大規模海外基地の内の上位5つの基地の4つが日本にあります。それが、横須賀、嘉手納、三沢、横田です。全土基地方式という言い方があって、日米の政府代表による日米合同委員会がどこを基地として提供するのかを決める事になっているために、国会においての承認なしに、全国どこにでも基地が提供できるという状況になっているのです。横田、横須賀、座間、厚木等をはじめとする米軍基地が首都圏を取り巻く形で、いまだに存在しているという事実があります。
そして、駐留経費の7割を受け入れ国である日本側が負担しているのですが、本来の地位協定においてはそのようなっていなかったにもかかわらず、7割日本側が負担するという状況におかれています。しかも、在日米軍の地位協定上のステイタスは、「行政協定」(註.3)をそのまま引っ張っているために、日本側の主権が極めて希薄で歪んだ状態になっています。極端に言うと、不平等条約と言いますか、地位協定にもない日本側コスト負担がどんどん増大していくようなプロセスがありました。私も日米安保は当り前の事で今後も日米間の同盟関係が大事だと思っている立場の人間で、これを「いますぐ止めてしまえ」というような話のために言っているわけではないのです。しかし、いままでのこのような仕組みがいつまで続いても当り前だと思っている感覚から、(アメリカを通じてしか世界を見ないという事の一つの話題でもありますが、)我々自身が陥っているところから踏み出す勇気もなく、議論をする勇気もないのがこれまでの日本の姿です。日米同盟が崩れるという不安感によって、例えば、本来ただしていかなければならない筋道さえも議論の俎上に乗せないまま、我々は60数年間を過ごしてしまったわけなのです。我々の子供たちの時代に引き継いでいくという事に思いを寄せた時に、本当にこのままでよいのかという気持ち、つまり、アメリカとの本当の意味においてのこれからの長い友好関係を大事にする人間だからこそ、ただして筋道をしっかりと求めていかなければならないという事に気がつかなければなりません。
この事を何故今日の話題の中でお話ししているのかと言うと、つまり、固定観念から脱却していくために問題を解決していく時に視界を広げる事がどうしても必要だからです。私はその事が語りたいのです。

木村>  変わる世界という中で、我々がどのように世界を見ていくべきなのか、そこに非常に深い示唆を私もこの本によって得ただけに、是非、若い人たちにもこの本を手に取って紐解いてもらいたいと思います。

(註1、ロシアの使節団が初めて訪れたのは1792年のことで、漂流民の大黒屋光太夫の一行を日本に帰国させるためという事と、日本との通商を求めるためであった。この時、使節団の団長であるアダム・ラスクマンは親書を携えて来航したが、幕府老中の松平定信は受取を拒否。第二次遺日使節団は、その約束の履行を求める目的で1804年ニコライ・P・レザノフを団長としてロシア皇帝アレクサンドルⅠ世の親書を携えて来日している)
(註2、Iran-Japan Petrochemical Company。日本側の事業会社である「イラン化学開発」とイラン側の「イラン国営石油化学」が50%・50%の出資比率で創った合併事業)
(註3、行政協定は、「日米安全保障条約」に基づく具体案を示したもので、1952年に締結されて、1960年の「日米安保条約」改定に伴い、「日米地位協定」として正式な条約となった)