第37回目

<中国建国60周年の日本にとっての意味>

木村>  先週の放送では「政権交代の夏を振り返って~自民党は何故大敗したのか? 世界潮流の中での日本の選択~」というテーマでお送りしました。
 私たちが、これからの日本をどのようにしていくのかという事により重く責任を負った事になるとわかってきました。
 今週のテーマは「中国建国60周年の日本にとっての意味」です。国慶節の10月1日で軍事パレードもあって、これが大きなニュースになりました。私は10年前の国慶節のパレードを現場で見ていました。今回はニュースでパレードを見ていて、巨大に成長していく中国に私たちがどのように向き合うのか、なかなか難しい問題だと思いました。

寺島>  私はあらためて、中国建国60周年を考えてみる時だと思っています。1949年に毛沢東の中国と言いますか、共産中国が成立しました。まず、この事が日本にとってどれだけ重い意味があったのかという事を歴史的に総括したいと思います。
 1949年という年は終戦からわずか4年後ですが、この年に中国が2つに割れたという言い方もできます。それはどういう事かと言うと、それまで中国のリーダーとして、日本が戦った蒋介石の中国と言いますか、蒋介石率いる国民党の中国が毛沢東率いる共産党の中国に敗れて、蒋介石は台湾に追い詰められたという見方が出来るからです。そこで、日本人にとってこの事がいかに重かったかという事をよく考えてみる必要があります。
歴史に「たら」「れば」はないけれども、もし、蒋介石が戦後の中国で本土の政権をバッチリと掌握し続けていたのならば、日本の戦後復興はおそらく、後ろに30年ずれただろうと言われています。それは何故かと言うと、それまで戦前から戦中、戦後にかけてアメリカのワシントンにおいて、蒋介石の国民党を支援して日本と戦うという一群の人たちがいたのです。それを我々は「チャイナ・ロビー」と呼んでいますが、ワシントンで中国支援派として、蒋介石と手を携えて日本と戦った人たちです。その頭目がヘンリー・ルースというタイム・ワーナーの創始者で、「タイム」や「ライフ」という雑誌等を生み出した人物で、彼が中心になって旗を振っていました。彼が何故そのような事をしたのかと言うと、ルースは中国で生まれて14歳まで中国で育ったのです。彼の父親は長老派プロテスタント教会の宣教師でした。同じく、日本で長老派プロテスタント教会の宣教師の子供として生まれたのがライシャワー(元駐日大使)でした。ライシャワーは学者になり、ヘンリー・ルースはメディアの帝王になっていきました。ルースは自分が生み出したメディアを使って日本の危険性、つまり、自分が生まれ育った中国にひたひたと攻め寄せてくる危険性をアメリカ人に知らしめる必要があるという異様なまでの使命感に燃えて、例えば蒋介石の夫人の宋美齢をアメリカに呼んで反日キャンペーンのヒロインに祀り上げて全米ツアーを行ないました。アメリカの厭戦世論を反転させて日本を真珠湾に追い詰めていった男とも言われていたわけです。
 しかし、わずか4年で自分が支援した蒋介石が毛沢東に敗れて、台湾に追い詰められました。その事に衝撃を受けたチャイナ・ロビーの人たちは、今度は日本を西側陣営に取り込んで戦後復興をさせるべきだという流れをつくっていったのです。これはヘンリー・ルースとダレス国務長官の間に行き交っている書簡等を分析してみると見えてくるのですが、要するに、日本を西側に取り込んで日米安保条約を結び、本土の共産中国を封じ込めるという立場から「台湾ロビー」へと変わっていったという事です。そこからアメリカの対中国政策は、1972年のニクソン訪中というところまで、本土の中国を承認しないままに台湾を支援するという形で走りました。そして、その間、アメリカのおぼえめでたさを一身に浴びて、復興成長の流れの中を生きたのが日本だったのです。
 したがって、もし、戦後の中国に蒋介石の政権が続いていたのならば、アメリカの支援も投資も、まず、中国に向かって日本に回ってくる余地は30年後ろにずれただろうという事から先程の話になるわけです。
1949年の共産中国の成立が日本にとってどれだけ大きな意味があったか。日本にとって僥倖にも近い形で中国が内紛によって2つに割れ、その間隙を縫う形で日本の復興が始まったという事を考えたならば、いかに中国という要素が日米の関係の谷間に挟まっている要素なのかという事がよく見えてくるはずです。
したがって、共産中国成立、つまり、中華人民共和国成立から60年という節目を迎えて、日本人がいま考えておかなければならない事は、米中関係、日米関係、日・米・中のトライアングルの関係であり、いかに日米関係が二国間関係では解決しない、中国という要素が絡みついているのかという事をまず知らなければならないのです。これは私が今回の60周年という意味において、原点として確認しておきたい事なのです。
次に、視界を今度は1989年の天安門事件に転じたいと思います。今年は、中国建国から60年でもあるが、天安門事件からもちょうど20年が経ったのだという事です。1989年という年は、ベルリンの壁が崩壊した年であり、翌年1990年に東西ドイツの統合、更に1991年にはソ連が崩壊しました。中国が何故、天安門に集まっていた学生をあれだけ大きく弾圧したのかと言うと、東欧圏からソ連と言われた地域を睨んで、ひたひたと盛り上がってくる民主化運動に対する恐怖心と言いますか、中国もソ連崩壊に至ったプロセスと同じ様な方向に向かっていくのではないのかという恐怖心があったからです。中国の指導部の意識としては、天安門事件にあれほどまでの過剰反応をする事で国際社会からの批判を浴びる事を承知しながらも民主化運動を弾圧せざるを得なかったのです。それがいかに非道な事であっても、冷戦が終わった局面における社会主義陣営の中にあったそれほどまでの恐怖心が伝わってきました。
今回の60周年記念で胡錦濤主席が話した言葉の中で私が非常に気になった事は、冷戦が終わった後の中国は「社会主義的市場経済」だという言葉です。これは社会主義の本質は残すけれども、世界の潮流である市場経済に合わせていくという事です。かつて、多くの人たちは「社会主義市場経済」という言葉自体がブラック・ジョークだと言って、それ自体が矛盾をはらんでいるのではないかとからかっていました。しかし、政府が根底のところでコントロールしている中国経済の仕組みの方が、行き過ぎたマネー・ゲーム経済によって躓いた資本主義の総本山と言われているアメリカと比べると安定した舵とりをしていられており、社会主義的市場経済は必ずしもブラック・ジョークではないという状況になってきています。
そのような中で、今回の胡錦濤主席のメッセージでは「社会主義というものを基軸に大事にしなければならない」という方向にウエイトがいって、市場経済という言葉が話の中から少し消えました。これは世界の動向を微妙に反映していると思います。いま、全般的に見て、新自由主義の行き詰まりという流れの中で、政府なり公的な経済のコントロールが有効であり、重要なのではないのかという事に世界の目線が向かっている事を微妙に反映しているのです。
私は日本の今年の1月から8月までの貿易統計を見て、驚きました。日本の輸出と輸入を足した貿易総額の相手先の国の比重を見ると、中国との貿易比重が20.5%で、米国との貿易比重が13.5%でした。ちょうど20年前の冷戦が終わった頃、日本の貿易に占める中国との貿易比重はわずか3.5%しかありませんでした。つまり、いま、日本がいかに中国との貿易によって景気を下支えしているかという事がわかります。1990年のアメリカとの貿易比重は27.4%でした。それが13.5%まで落ちてきています。
日本という国がこの20年間で経済の基本性格を変えたと言ってもよいくらいです。どのように変わったのかと言うと、「通商国家日本は主にアメリカとの貿易によって飯を食っているのだ」と言っていれば当たらずとも遠からずだったのですが、いまや、「中国との貿易によって飯を食う日本」という姿に大きく変わってきているという事です。
更に、中国の発展を考えた時に、何度かこの番組でも話題にして参りましたが、「大中華圏」という切り口が一段と重要になってきているのです。日本は貿易の30.4%を中国を中核とするグレーター・チャイナとの間で行っています。つまり、中国と香港と華僑国家と呼ばれるシンガポールと台湾で、政治体制の壁はあるけれども、産業的には連携を深めているゾーンなのです。かつて香港、シンガポール、台湾と中国との関係は、海外に展開している華僑という人たちが親類縁者に送金をする程度の関係だったのですが、中国の成長力に合わせてビジネスモデルを一緒に創り出していく関係になっていき、中国も中国本土単体としてではなく、華僑圏をジャンプ・ボードにしてネットワークの中で発展していくのです。
例えば、シンガポールは中国の発展エネルギーをASEANに取り込む起点となっています。大中華圏の医療センターという言い方があるのですが、要するに、中国の金持ちになった人たちはシンガポールに行って最先端医療の病院に入院したり、検診を受けたりするという事で、それが年間に10万人近くになっているのです。つまり、それぞれが役割を果たしながら相関し合って、グレーター・チャイナのエネルギーを盛り上げていくという事です。
したがって、中国建国60周年という時に、我々の視界の中に捉えなければならない事は、「中華人民共和国が60年経って物凄い勢いでGDPを拡大していますよね」というイメージだけではなくて、そこを起点とするグレーター・チャイナが有機的に連携を深めながら躍動しているので、中国という存在がより大きな存在に見えるという力学の中に我々がいま身を置き始めているという事です。しかも、それに大きく依存して飯を食う日本と言いますか、つまり、分かり易く言うと、日本は貿易の2割を中国と行ない、貿易の3割を大中華圏の国々と行なう国になってしまっているわけです。これからますますこの流れは日本の産業の基本性格となって、一段とその中に組み入れられていくと言いますか、このような視界を持っていなければならないのです。私は「中国建国60年になったのですよね」という視点から、そのような視界に我々の目線を広げていきたいと思っています(註.1)。

木村>  いま、我々がグレーター・チャイナというものをキチンと見る事ができるのかどうか、となると、中国の存在感は大きくなって、日本の中には中国を遠ざけるのか、牽制するのかという論がすぐ起きるのですが、そこについてはもう少し我々は冷静に世界、アジアを見る力が必要で、そうしないと日本は生きていけないという事になりますね。

寺島>  「しなやかな」という言葉がありますが、拒否反応や拒絶反応等で生きていくのではなくて、アメリカに対しても同じ事だと思いますが、脅威と捉えるのではなくて、それ自体に日本が関わる事によって変えて行く事だと思います。
 中国という巨大な力を持ちつつある国を、とにかく世界のルールに従う国に引き込む事が重要です。知財件の問題や環境問題等において、中国が世界のルールの外にいる事はやはり、まずいわけです。中国が世界ルールに準拠して行動する国にしていくための役割としての日本というのは物凄く重い話です。要するに、苛立って罵倒したり、拒絶したりするのではなくて、世界のルールに引き込んでいくのです。私はそのような役割をニコニコしながらやっていくくらいの胆力がなければ、この巨大な存在と向き合えないだろうという事が中国の我々にとっての意味であると思います。

木村>  命題としては、ますます重くなると思いながら寺島さんのお話を伺いました。

<後半>

木村>  番組の後半はリスナーの方からのメールに対して寺島さんのお話を伺います。北海道のラジオネーム「うに丼」さんからです。
「先日、自民党の中川昭一元大臣が突然お亡くなりになりました。中川元大臣は農業政策に関して、また、経済問題に関しても非常に長けていらっしゃった方であったと記憶しております。今回の事は非常に残念で仕方がありません。寺島さんは中川さんの訃報にどう感じていらっしゃいますでしょうか」というメールです。
 寺島さんは中川さんとは随分親交もおありになったとお聞きしていますが、いかがでしょうか?

寺島>  友人という言葉は当たらないと思いますが、つい6月末に北海道新聞の関連で帯広に講演をしに行った時に、帰りの飛行機の中で彼が隣に座って、羽田までの1時間半くらいの間、二人でじっくりと話し込んだという事がありました。更には、安倍内閣の時だったと思いますが、ワシントンから飛行機で帰ってくる時に、中川さんと一緒になり、飛行場の待合室にいる時からずっと話し込んでいたこともありました。
 彼も私も北海道の縁がベースにありますが、私がまだワシントンにいた頃、彼が農林水産大臣になるかならないかの頃の時に、私が日本に戻ってきて彼と会って、バイオマス・エタノール、例えば、とうもろこしから抽出したエタノールをガソリンに混ぜて車を走らせるという動向にアメリカが舵を切り始めようとしていた頃だったので、私が「これからバイオマス・エタノールという流れがきますよ」という話をしました。その後、中川さんは日本で「E3ガソリン」という3%のエタノールを混入できるような制度設計や流れをつくりました。彼は言葉に実があって、いい加減な人ではなく、本気で真剣に取り組む非常に責任感のあるよい持ち味の政治家だったと思います。
 彼も私に対して感じていたと思いますが、思想信条の違いと言いますか、私は彼と共鳴し合っていたのかと言うと、全く違っていました。例えば、彼の「日本も核武装をすべきだ」というニュアンスに近い考え方に対して、「途方もなく間違っている」と率直に言い合った事が何度もあります。私は「AGREE TO DISAGREE」の関係だという言い方をよくしますが、どのような意味かと言うと、私は全くあなたの意見に賛成は出来ないけれども、あなたがどのようなロジックと、どのような論点で主張しているのかという事だけは正確に聞き届けようというスタンスだという事です。DISAGREEである事をAGREEする、つまり、賛成しないという事を了解するのです。中川さんと私は、まさに、この関係だったと言ってよいと思います。したがって、親友でもなければ、友人でもなく、彼もおそらくそのように思っていたと思います。しかし、彼は政治という世界で飯を食っている人間の中で、いい加減さのない、ある面では非常に真剣に生きた人だったと思うのです。それ故に、最後の段階で彼が消耗していって、あのような形で燃え尽きたかのように亡くなったという事は物凄く悲しいです。そして、もう一度彼と本気で核について「何を言っているのだ」と言い合いたかったのです。
 そのような意味で、何と言いますか、思い出深い人間でした。先程、彼とは北海道の繋がりがあると申し上げましたが、彼は父親の地盤を引き継いで北海道の政治家になりました。日本興業銀行から父親の後を継ぐ形で政治家になっていった人です。そして、私と日本興業銀行は大変縁があったので、彼がそのような面で非常に経済の現場で若い時に鍛えられていたのだという事もよくわかりました。
 そのような意味でも彼は素材としても非常に重要な人物でした。自民党の中でもリベラル保守という谷垣禎一さんに象徴されるような、宮澤派の流れをくんだ人がいて、私は比較的に近い部分があります。
一方では自民党における保守派のロジックも大切だと思っています。どのような国においても、健全な保守というものが必要なのです。守るべきものの基軸というものが必要で、そのような意味合いにおいて、彼がどのような政治家として大成していくのかという事が日本には物凄く大事だと思っていたのですが、自民党の保守の軸の部分の歯が1本欠けたような印象があるのです。

木村>  中川さんの年齢からすると早すぎる逝去だったと言えるでしょう。寺島さんがお話になった、これから自民党がどのように再生していくのかという命題を担う一人でもあったと思いますし、そのような意味では我々にとっても本当に突然の死というものが衝撃的な出来事だったと思います。

(註1、大中華圏に関しては、2004年10月に岩波書店から発売された『大中華圏-その実像と虚像』(渡辺利夫、寺島実郎、朱建宋編)参照)