第35回目

<ハンガリーという国に思う~原爆との因縁~>

木村>  前回の放送は「中東の新しい局面~ウィーン中東会議で講演して~」というテーマでした。中東への日本の眼差し、日本の立つ位置がどのようなところにあるべきなのかという事に触発されましたが、アメリカのオバマ政権がいま中東の問題をめぐって、或いはイスラエルをめぐっていかに緊張した状態にあるのかという事でも寺島さんのお話の中で随分発見がありました。
 寺島さんは中東協力現地会議が行なわれたウィーンからハンガリーのブダペストに行かれたという事で今週のテーマは「ハンガリーという国に思う~原爆との因縁~」です。

寺島>  ウィーンから列車で3時間くらい東に向かったところにハンガリーの首都ブダペストがあります。
司馬遼太郎さんが亡くなる前に、最後に行きたいと言ったところがハンガリーでした。彼はモンゴル語を学んだ人だったのですが(註.1)、ハンガリー人には赤ちゃんのお尻に蒙古班が出るという事で、それが言わばモンゴロイドが一番西に踏み込んでいった境界線のようなイメージをもっておられたのだと思います。
 今回あらためてハンガリーに行った理由を簡単に言うと、ヘッジファンドの帝王と言われた有名な投機家のジョージ・ソロスと関連があります。彼はハンガリーで生まれたのユダヤ人で、ナチの迫害を逃れてアメリカに渡って世界一の金持ちと言われるところまでのし上がっていったのですが、彼はハンガリーのセントラル・ヨーロッパ・ユニバーシティに個人のお金を寄付して、かつて東側と呼ばれた東ヨーロッパの市場経済界に対して大きく貢献するために踏み込んでいたのです。そのような事がきっかけでもあってブダペストに行く事となったのです。調べてみると東ヨーロッパにおける民族の隆替や移動等が物凄く複雑な歴史を形成していて、ハンガリーという国を非常に特色づけています。それが最後のところでお話しする「日本とも宿命的な因縁を背負っている」という伏線となりいます。
 我々がヨーロッパとの歴史を考える時に、意外なほど重要なのが「川」です。
北欧のヴァイキングが黒海の辺りまで川をつたって南下をしました。ヴァイキングと言うと、ノルウェイやスウェーデン等のイメージがあると思いますが、実はバルト海と黒海とは川の流れによって繋がっていて、冬場は凍結しているので3、4人乗りのカヌーの様な船を使って激しい移動をしていたという事が歴史的にあったそうです。分かり易く言うと、黒海とバルト海は繋がっているし、黒海とフランスとイギリスの間の海までは繋がっていると考える事が正しいのです。ヨーロッパを繋いでいる川の流れについては語るときりがない程複雑です。
 ヴァイキングが南に押し出してくる事によって、いまのイメージで言うロシアの南の部分にマジャール人という騎馬民族の一群が押し出されてそれがハンガリーにやって来たのが898年で極めて正確に記録が残っています。つまり、9世紀の終り頃に騎馬民族のマジャール人がハンガリーに入って来たという事です。そこから1241年から1242年にかけてモンゴルの蒙古が一大勢力となってユーラシア大陸を席巻していた頃、西はハンガリーからウィーンのところまで迫っていて、ハンガリーの王だったベーラ4世がブタペストを捨てて逃げなければならないという事まで起こっていました。一方、東では日本に蒙古が押し寄せて来たのは御存知の通り1274年(元寇・文永の役)なのでそれから30年くらい後なわけですが、西と東に大きく蒙古が張り出していた時代にハンガリーは蒙古=モンゴルの大きな影響を受けるのです。
 その後、1526年オスマン=トルコがやって来て、イスラムの支配の下にあったという時代がありました。そして、1697年からは隣のオーストリアのウィーンを中核にしたハプスブルグ家の支配の下に置かれて、1867年、19世紀の後半からはオーストリア=ハンガリーの二重帝国の時代がありました。
 このようにざっとお話をしてきましたが、ヴァイキングが動き、マジャール人が南下し、モンゴルの影響を受け、トルコの影響を受け、はたまたハプスブルグの影響を受ける等、要するにユーラシア大陸はこのようにして物凄い民族の隆替の中で形成されていたという事がわかります。
 第一次大戦の時にハンガリー=オーストリアの二重帝国が解体させられて、歴史的な意味においてハンガリーは終わったと言われているのは1920年です。面積を3分の1くらいまでにされて、ナチと連携して動いていた時代があり、第二次大戦が終わると今度はソ連の支配の中に、東側と言われている陣営の中に取り込まれていたという歴史がありました。
 そのような流れの中で、ハンガリーの人たちは忍耐に次ぐ忍耐、その中での反抗に次ぐ反抗と言いますか、ソ連統治の中で1956年のハンガリー事件(ハンガリー革命)等がありました。要するに、このような反抗の中で多民族の抑圧を受けながら生き延びる術を持ち、ハンガリー人であるという人の3分の1以上が海外に亡命して住んでいると言われているくらいで、海外に大きく展開していかざるを得なかったわけです。
ここからが本日の話の趣旨となるのですが、「どこを見てもハンガリー人だ」という言い方があるのですが、びっくりするくらいハンガリー人が海外に展開しているわけです。欧米でもハンガリー人が多くて、例えば、私自身も大変に影響を受けた社会学者のカール・マンハイム(註.2)という人がいますが、この人もハンガリー人です。そして、ジョージ・ルカーチ(註.3)というマルクス主義の哲学者もハンガリー人なのです。音楽家で言うとバルトーク・ベーラです。一番驚くのはアメリカのジャーナリズムの賞でピューリッツアー賞がありますが、このジョーゼフ・ピューリッツアーという人もハンガリーから亡命してアメリカで成功したジャーナリストです。先程、話題に出したジョージ・ソロスもハンガリー人です。このように海外で活躍している色々な人たちがハンガリー人だという事をまず、頭におかなければなりません。

木村>  ともに多彩ですね。

寺島>  そして極めて優秀です。そこで問題は、アメリカにおける原爆の開発と広島、長崎の話に繋がっていきます。
「ハンガリー・マフィア」という言葉があるのですが、ドイツに亡命したり勉強に行って核等を研究していた原子物理学者たちはハンガリー系のユダヤ人が多かったのです。それらの人たちがナチに虐待されるという事を拒否して、アメリカに亡命しました。その中心にいた男が有名なレオ・シラード(註.4)でした。これがコロンビア大学の実験室で友達から借りた2,000ドルのお金を梃に、ドイツが原子力爆弾の開発をしている、つまりヒットラーが開発をしているという事に危機感を感じて自分の研究室で核の基本的な実験をやり始めて、ある程度見通しを立てたのが1939年3月だったと言われています。ユージン・ウィグナー(註.5)というプリンストン大学出身で1963年にノーベル賞を受賞したのもハンガリー・マフィアの一翼をしめる原子物理学者だったのです。水爆の父と呼ばれていたエドワード・テラー(註.6)という有名な人もいますが、この3人組がロングアイランドにあるあの有名なアインシュタインの家に働きかけに行って、「アメリカも原子力爆弾を開発しないとヒットラーにやられてしまう」とフランクリン・ルーズンベルトに提言してもらい、国防省から6,000ドルの予算をとって、1942年12月に初めて実験に成功しました。それがニューメキシコのロスアラモスに持ち込まれて実際の原子力爆弾をつくり上げるというプロセスに入っていったわけです(註.7)。
 つまり、整理して申し上げると、ハンガリーからアメリカに亡命した3人組がナチス・ドイツに対する拒否反応から力を合わせて開発のきっかけをつくったのがアメリカの原爆だったという事です。その原爆が広島、長崎の上に落とされました。
ハンガリーは日本にとって何の関係もない国だと思いがちですが、実は全くそうではなくて、ハンガリーの背負っていた歴史、つまり、民族の隆替の中で常に抑圧される側の中にいて、故郷を捨てて海外に展開しなければならなくなった人たちがたどついたアメリカにおいて先程の3人組の人たちがつくった原子力爆弾なるものが日本に襲いかかってきたといわけです。歴史の因果と言いますか、歴史の相関性、連鎖性という事です。誰が悪いとかそういう話ではなくて、歴史のなんともつかない因果性を感じながら私は今回ハンガリーを後にしました。
こ歴史を考えた時に、この種の相関性をたどりながらイマジネーションを働かせていく事が歴史をたどる妙味であると同時に、我々を非常に刺激して、そのような中で我々自身が生きているのだという事を感ずるのだと思います。
ハンガリー=オーストリアの二重帝国の時代に初めて日本はこの国との外交関係をつくり上げたのですが(註.8)、非常に不思議な因縁を背負っているという事を少し話題にしておきたかったのです。

木村>  歴史に「もしも」とか「こうであったら」という様な事はないのですが、このように考えてみると歴史の中でハンガリーに住む人たちがどんなに苦難の時代を過ごしたり、翻弄されたりという事がなければという事から考えていくと、さて、原爆はあったのか? という話になり、いまあらためて我々が地球上の国と国との関係やここに戦乱を起こしてはならないというところに実は問題意識として発展していくという事でもあるのですね。

寺島>  イマジネーションなのです。日本人はなんだかんだ言いながら、天然の自然条件によって守られてきた島国としての部分があって、なかなか民族や歴史の相関性等に対して目が向かないのです。私はハンガリーからロンドンに出て、ロンドンで宿泊したホテルでハンガリーの王宮で手に入れたハンガリーの国旗に少し手が加わったデザインのバッチを帽子につけていたら、ホテルのドアのところに立っていた山高帽を被った男性に呼びとめられて、「あなたはハンガリーのバッチをしているが、何故だ?」と聞かれたのです。その人は「自分はハンガリー人だ」と言って、私はこんなところにもハンガリー人がいるとのかとびっくりしました。彼らはバッチ一つを見てもビビッとくるものがあるのでしょう。

木村>  なるほど。これは地球規模で我々がどれほど歴史に対するイマジネーションを持つことが出来るのかという事においてもとても触発されるお話でした。我々はハンガリーと言うと場所もなかなか地図上で指し示せなかったりします。或いは、ハンガリー狂詩曲やハンガリー舞曲等というところでとどまっていましたが、あらためて歴史の深さを感じる事が出来ました。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方からのメールを御紹介して寺島さんにお話を伺います。ラジオネーム「なかや工務店」の50歳台の方からです。
 「この間の総選挙で民主党が圧勝していわゆる55年体制が初めて実質的に崩壊しました。これによって日本はどのような変革をする事ができるのでしょうか? 来年は60年安保改定から50周年を迎えます。その事も踏まえて日本は今後、国際社会においてどのようなポジションを目指すのか、目指すべきなのか寺島さんの御意見を是非お伺いしたいと思っています」というメールです。

寺島>  今回の選択によって日本人が腹を括らなければならない事は、本当の意味で日本の戦後を見つめ直して戦後に積み残してきたり、ごまかしたりしたものに対して、戦後生まれの日本人があらためてしっかりとしたけじめをつけなければならないと言いますか、方向性を持たさなければならないという事だと思います。これはどういう意味かと言うと、日本の人口の8割以上が戦後生まれになって、概ね民主党の中核は戦後生まれ世代が占めてきているという事です。そこで、戦後なるものの日本が引きずった冷戦型の世界観からどれだけ脱却出来るのかというところが本当に問われているのだと思います。我々は戦後という日本に生きてきて、しかも、歴史的にみて日本の歴史の中でこれだけ平和で安定して幸せな時代を通過してきたわけです。つまり、国家が我々に強制してくるとか、徴兵制があるだとか、「お前はこのように生きろ」等と全体が我々に命じてくるような時代ではなくて、安定して平和な時代を過ごす事が出来たという事です。それらの人間が我々の後に来る世代にどのような日本を託して繋げていくのかという非常に重要なところにきていて、そのためには冷戦型の思考によってつくり上げた日本の防衛安全保障のシステムや日本の経済・産業の仕組み等の全体をしっかりとあるべき方向に向き直させるという事をいま実行しなければいけません。いままで通りでよいという事ではとても生きていけないのです。何故ならば我々を取り巻く環境が冷戦中とは大きく変わっているからです。例えば、中国が大きく力をつけて台頭してきていたり、世界のそれぞれの国が小国とはいえ自己主張をし始めて黙っていなくなったりしているのです。アメリカだけが一極支配で世界を束ねている状況だったのならば、ある面ではアメリカと轡を並べて一緒になって進んでいれば概ねそれほど大きな間違いはないという時代がついこの間まであったかもしれないけれども、世界は冷戦が終わった後20年間で大きく構造が変わってしまったのです。
 そのような中で自分の足元を見つめ直してこの国の生き方を再構築しなければなりません。一言で言うと、「脱冷戦型思考」です。これをどのような形で健全に取り戻していく事が出来るのか考え、考え、考え抜いて思慮深く日本をどのようにつくっていくのかという事が我々に問いかけられているテーマだと思います。
 防衛安全保障の問題については、いま出ている雑誌「文藝春秋」(10月号)に、日本のこれからの防衛安全保障に対する一つの切り口をかなり踏み込んだ形でロングインタビューを受けたものが掲載されています。関心のある方は読んで頂きたいと思います。
同時に、もう一つ問いかけられている事は、「日本の資本主義のありかた」だと思っています。政治だけが変わればよいという事ではなくて、経済界、産業界も大きく突きつけられているものがあると思います。
いま岩波書店から出ている「世界」という雑誌の10月号の「脳力のレッスン」の連載で私が書いているのが、「ビル・ゲーツの『創造的資本主義』」です。私はIT革命のフロント・ランナーだったビル・ゲーツは立派だったと思います。彼はアメリカの金融市場資本主義の行き詰まりに対して強い責任を感じていて、経営者としていったい経営というものはどのようにあるべきか、つまり、創造的資本主義を掲げて市場メカニズムでは解決出来ない格差や貧困等の問題を自分たちはどうすべきなのかという事を真剣に問いかけていて、私は非常に感激しました。日本の経営者の中に、特に次の世代の経営者と言っていいと思いますが、日本の資本主義のありかたはアメリカのウォールストリートの論理によって1990年代以降を走ってきたけれども、それが非常に大きな行き詰まりを見せているいまこそ、どのような経済産業社会をつくっていくべきかという問題意識を共有すべきなのです。まっしぐらに見つめなければならない事は政策の軸だと思います。

(註1、司馬遼太郎は旧制大阪外語大学<現在の大阪大学外語学部>のモンゴル語科を卒業している)
(註2、1893年ハンガリーのブダペストに生まれる。知識社会学の提唱者として知られ、著書に「イデオロギーとユートピア」等がある)
(註3、1885年ハンガリーのブダペストに生まれる。哲学者。著書に「歴史と階級意識」等がある)
(註4、1898年ハンガリーのブダペストに生まれる。ユダヤ系アメリカ人物理学者)
(註5、1902年ハンガリーのブダペストに生まれる。ユダヤ系物理学者)
(註6、1908年ハンガリーのブダペストに生まれる。ドイツのライプツィヒ大学等を経て、アメリカに亡命したユダヤ系物理学者)
(註7、ロバート・オッペンハイマーがリーダーとなって開始されたマンハッタン計画)
(註8、1869年日墺修好通商航海条約締結)