第26回目

木村>  先週の放送では、「地球温暖化~二酸化炭素等の温室効果ガス排出削減の中期目標をめぐって~」というテーマで、私たちが数字だけではなく、ここで何を考えなければならないのかという重要な問題提起のお話を伺いました。
 今週も、エネルギーと言えばエネルギーがテーマで、「戦後日本のエネルギーの歴史的変遷~石炭から石油、そしてグリーンエネルギーへ~」です。ここに「自分史の中」とサブタイトルがふられています。つまり寺島さんの歴史観に触れて伺う事になります。

<戦後日本のエネルギーの歴史的変遷>


寺島>  エネルギーと環境問題を歴史的な脈絡の中で、しかも自分にひきつけながら考えてみようという事です。
私自身、生きて来た人生そのものがエネルギーと環境に絡み合っていたと思います。それは何故かと言うと、私は1947年に北海道の炭鉱に生まれたのですが、戦後間もなくの頃、日本にとって石炭は大変な意味があって、「黒いダイヤ」と言われていました。「傾斜生産方式」(註.1)という言葉があって、日本の戦後復興を石炭の増産にかけたのです。

木村>  戦争で疲弊した日本の産業をどのように復興するかという時に重点的に重化学工業に向けるための経済活性化計画ですね。

寺島>  その源泉が石炭でした。しかも、石炭にとって九州の筑豊には大きな意味がありました。満州からの引き揚げ者が大量に日本に帰って来ざるを得なくなり、その人たちにとって九州の筑豊に炭鉱があったという事が戦後の日本において大きなバッファになっていたのです。まずは本土に帰って来て、筑豊で仕事を見つけて炭鉱で働く事が出来た事が日本の戦後の出発点として大変に意味があったと言えます。
 私自身が1947年に北海道の炭鉱で生まれてから、父親が九州の筑豊の炭鉱に移った時期がありました。私は小学校低学年の間の1956年から1957年頃、筑豊にいました。直方(のおがた)や飯塚の辺りです。五木寛之が筑豊を舞台にした作品「青春の門」で描いた世界ですね。
 その頃、土門拳という写真家の「筑豊のこどもたち」という写真集が1冊100円で発売され、大きな話題を呼びました。そして「にあんちゃん」(註.2)という本が映画化をされたりして筑豊が大きな話題の焦点でもありました。私が目撃した筑豊は、「黒いダイヤ」の時代から石炭が傾いて行く方向に向けて流れが見えて来て、どんどん小さな炭鉱が潰れていく時代でした。
土門拳の「筑豊のこどもたち」の中に象徴的な写真「弁当を持ってこない子」という作品があります。教室で弁当を食べている子もいるけれども弁当を持って来られない子が子供たちだけで生活をしているという人が現実にいました。私自身、お姉ちゃんがザリガニを採って来て妹や弟に食べさせているというシーンを見た事がありますが、その弁当を持って来ない子供は本を読んでいるのです。

木村>  なるべく弁当を食べている横の子供を見ないようにしている風景でしたね。

寺島>  私の母親が給食運動をやらなければならないと言って走り回っているのを横目で見ながら、子供心に「不条理」という世の中には努力をしても解決出来ないような途方もない困難な問題が横たわっているのを本能的に感じていました。「何故この子は弁当を持ってこられないのだろうか?」という矛盾を意識した瞬間だったのです。
 私は石炭というものに大きく巻き込まれて少年時代を送ったわけですが、日本の一次エネルギー供給において、石炭と石油の比率がクロスして反転したのが1961年で東京オリンピックの3年前です。そして、この頃に、ついに石油が石炭を超えて一気に石炭が斜陽産業に転がり落ちて行きました。私の父親が潰れて行く炭鉱の労働問題を抱えて企業ぐるみ閉山という世界をどのようにマネージメントしていくのかと苦闘していた時期に差し掛かって行くわけです。

木村>  ちょうど三池争議(註.3)という大きな炭鉱の労働争議がありました。

寺島>  戦後日本の資本対労働の闘いの総本山のようなものでした。1962年に日本が石油の輸入を自由化して、石油がどっと入って来ました。1960年代の高度成長期に入って行く日本にとって「流体革命」という言葉がありました。要するに、石炭から石油という液体にエネルギーの源泉が変わって行く時代が1960年代だったのです。
 そして、日本はこのような流れの中から1973年に中東での紛争をきっかけにして石油危機にぶつかって行くわけです。大阪万博を超えて、まさに1970年代は日本が高度成長期を石油というものを梃にしてさかのぼっていったと言いますか、上り調子に上がっていった時期だったのです。
同時に、1972年、石油危機の前年にローマクラブが「成長の限界」という本を出しました。この本で、ある意味では我々は世の中には環境問題が地球規模の問題として横たわっているのだと自覚したのです。環境汚染問題や資源の枯渇問題や人工爆発の問題等が提起されていて地球規模においての問題という意味でのエネルギーと環境問題にはたと気づき、しかも翌年に石油危機にぶつかり、大きなパラダイムの転換が起こり始めました。
 そこで第一次環境ブームとなったのです。エコというものはいまに始まった事ではなくて30年以上前にも再生可能エネルギーブームがあったのです。いまで言う再生可能エネルギーによってエネルギーを賄って行くという考え方も世界にはあるのだと知ったのが1970年代でした。
1973年の石油危機の年でさえ、日本の中東に対する石油の依存度は78%だったのです。そして、中東にばかり石油を依存していたのでは危ないので多角化しようという事で一生懸命に動き始めて、一時期は石油の中東依存が6割台に落ちた事もありました。しかし、その後1990年代に入って冷戦が終わり、グローバル化の時代に惹かれ始めて、気がついてみると日本の石油の中東依存が90%になっているわけです。これは何が起こったのかと言うと、グローバル化と言いますか、その世界の人たちは石油の「コモディティ化」(註.4)という言葉を使って説明します。これはどういう事かと言うと、石油は1973年の石油危機の頃に盛んに議論をした政治的戦略的商品ではなく、OPECの価格カルテル等で囲い込んで、エネルギーを高くして来る人たちに対して、消費国が連携して戦わなければならないという政治的な商品というイメージがありました。しかし、グローバル化という言葉が聞こえて来て、石油もOne of themの国際商品で市場に任せて石油を調達したり、使ったりする流れの中に既になってしまったのです。OPECが価格カルテルを組んで石油を高くして行くような時代は終わったという感覚が冷戦後の世界の中に広がって行きました。
このような事によって日本においてエネルギー戦略上、どのような方向に流れて行ったのかと言うと、一番安きに流れるという事ですが、1セントでも安い石油を効率的に調達するという方向に向かいました。
エネルギーのサプライソース=供給源を多角化して、日本のエネルギーの安定化を図る事を行なったのであればどんなプロジェクトでもリードタイムが10年かかり、先行投資が何兆円もかかります。そんな投資を組んで例えば、中東だけに依存していたのではダメなので、他に多角化するようにして行くと物凄いコストと時間がかかるのです。それならばなみなみ積んだタンカーを中東から数珠繋ぎにして日本に持って来た方が効率的で、とりあえずは安く石油が調達出来るという流れに特に1990年代あたりから入って行きました。そして、気がついてみると、石油危機と言われた1970年代でさえ、78%くらいだった中東依存度があっという間に9割になって、日本のエネルギーの安全保障の意味において物凄く不安定な状況になり、自分自身の首をどんどん絞めて選択肢を狭くして来ているというエネルギー政策の中に嵌ってしまったのです。
 振り返ってみると日本のエネルギーは戦後の世界の大きな変化を背景にしながら、色々とバイオリズムのように動いているのですが、日本自身のエネルギーがおかれている状況はますます不安定になって1970年代に吹き荒れた再生可能エネルギーブームも結局は尻つぼみになりました。それは何故かと言うと、私はこの番組のグリーンニューディールの話題の時に、「モータリゼーションを変える事が出来なかったからだ」と言った記憶がありますが、要するに、車を動かすエネルギーとして再生可能エネルギー等で供給するという事に展望が開けずに、結局はガソリンを焚いて走る車の方が便利だという流れをつくって来てしまったわけです。そして、いま我々が一番注目しなければならない事は自動車がガソリンを焚いて走る仕組みから電気自動車の方向に流れを取り始め、電気自動車に電源を供給するスキームとして、化石燃料で電力をつくる事から、再生可能エネルギーのようなもの、例えば太陽・風力・バイオマス等で賄って行く流れをつくれるのではないかという事が見えて来ており、大きくパラダイムが変わり始めているのです。
 このような意味で、戦後のエネルギーの流れの中で私の頭の中にある記憶を話して来ましたが、別の言い方をすると、1970年代にやりかけて失敗した再生可能エネルギーについて新しい視点で、つまり、自動車のモータリゼーションを支える仕組みとしてうまく結び付かなかった自然エネルギー、再生可能エネルギー等がモータリゼーションを支えるエネルギーとして使えるのではないのかという事です。
しかも、その後、IT革命が吹き荒れて情報ネットワーク技術革命を走って来ました。例えば、その先頭にあった企業として、「グーグル」という会社があります。我々が日常的に検索エンジンで利用しているグーグルがいま、まさにITを使って電力をきめ細かく双方向で運ぶようなネットワーク型のシステムをつくろうとしています。これが世に言う「スマート・グリッド」(註.6)です。スマート・グリッドのようなITの技術を小型分散型の再生可能エネルギーを効率よく利用して、余っているところは融通し合うような仕組みが出来て、それを有効な電源として電気自動車のようなものを支えて行くという仕組みをつくる事によって、エネルギーの体系を変えようとしているのが、分かり易く言うとグリーンニューディールの大きな体系とも言えます。
これがうまく行くかどうかはまだ見えませんが、少なくとも、本日ずっと話して来た、石炭から石油へ移行し、そしてまた、石油から再生可能エネルギーにかけようとしたけれども必ずしもうまくはいかなかった1970年代を踏まえて、その後ますます日本自身が化石燃料から脱却できないまま1990年代に入って来て、しかもそれが中東という特殊な地域に依存しているという不安感が日本の安全保障上の問題だという事にあらためて気が付き、再生可能エネルギーと自動車を結びつけて大きく世界を変えて行くチャンスが来ているという発想で見た時に、「エネルギーのパラダイム転換」という言葉を思い出すわけです。
そして、いま、我々が直面している時代をどのように認識するのかという事です。つまり私が冒頭に「歴史的脈絡の中で考えよう」と申し上げたのはそういう意味です。このような視点で我々がいま立っているところを考える必要があるという事を私が本日お話ししたかった事なのです。

木村>  あらためてお話を伺っていると、エネルギー革命と言われた1960年代の初め、その後、日本の社会は高度成長によって大きく変わって行きますね。寺島さんのお話ではエネルギーから社会や世界がどのように変わるのかという事でしたが、もう一つ、ふと思い浮かんだのは、言論の世界でも日本の近代化論等、いろいろなものが出て来て、そのようなものがすべて未解決で、あらためて寺島さんがおっしゃる「再生可能エネルギーへのパラダイム転換」が哲学や歴史観等を総合して問われて、そのような意味で大きな転換点だと思いました。

寺島>  エネルギー問題はある種の思想だと思います。自分たちの生き方の問題でもあるために思想の根底のところとぶつかり合って来るのです。だからこそ、この問題は非常に刺激的なのだと思います。

<後半>

木村>  後半はリスナーの方からのメールを元に寺島さんのお話を伺いたいと思います。
東京のラジオネーム「マスオ」さんからです。
「日本の政治不在に不安を覚えています。政権が交代する事で現在のような不況は改善されるのでしょうか?」。これはただ単に政権交代、或いは不況が改善されるのかという事だけではなくて、マスオさんのメールから、政権交代があるのかないのか、解散がいつになるのかという事は別にしても、既に衆議院議員の任期が3カ月を切ったのでいずれにしても我々の選挙があるわけで、政権選択を迫られるという問題が見えてきます。その時に、我々はこの政治状況をどのように考えて、何を見るべきなのかというテーマとして伺いたいと思います。

寺島>  ちょうど4年前に、郵政選挙が行われて、小泉郵政選挙と言われている選択で日本人は与党に3分の2以上の議席を与えるという選択をしました。
私はあの時に、朝日新聞のインタビューで「いま我々が直面している状況は『生類憐みの令』だ」と言いました。江戸時代に将軍様が「生類憐みの令」を出しましたが、これは歴史的に考えてみて、100%間違いだとは言えません。むしろ、生き物を大事にしようという事は先端的な問題提起だったのかもしれません。しかし、その時代の優先順位、軽重判断からすると最重要課題として取り組むべき事だったのか、民衆心理ではナンセスだと思う人もいたと思います。同じ様に我々はやがて歴史を振り返る時が来た時、「郵政民営化こそが改革の本丸だ」と絶叫していた事は、生類憐みの令のようなものだと言ってもいいでしょう。
実は私のコメントは4年前に顰蹙を買ったのですが……。しかし、あらためて思い起こしてみると、私は郵政民営化が一体何だったのかという事は昨今のかんぽの宿等の問題や総務省の進退問題にまで溢れ出て来て、日本がこの4年間、本当に国をあげて行なうべきテーマだったのかどうかは甚だ疑問に思います。日本が郵政民営化をして競争主義においた方がよいという事は、行なった方がベターな議論かもしれませんが、マストな議論だったかと言うと必ずしもそうではなかったと思われます。日本として、もっと真剣に立ち向かわなければならない問題はたくさんあったと思います。
 何故、このような話題を取り上げているのかと言うと、「政治は怖い」という事だからです。要するに、途方もない方向性に向かう事があるという事です。
 いまは選挙、そして政治の選択の季節が来ているわけですが、我々が本当に常に重心を下げて、日本がいま問われるべき事は一体何なのだろうかと問い返していかなければならないのです。
非常に危険なのは「お任せ民主主義」です。政権が変われば日本はよくなるだろうという考え方はあまりにも単純で、誰かに改革を任せてその人たちがうまくやってくれるだろうというタイプの発想では政治においては本当の意味で関われないのだという事を4年前に学ぶべきだと思います。
 日本のよくない点は、この国の問題だと言いながらも本当に大きな世界史の構造転換に対して、並走しているのかという事をしっかりと見極めて、その流れに沿った選択をしてこの国の政治体制をつくっていない事です。それはある特殊な政党や政治家に期待するのではなくて、自分たちが大きな構造転換の中でどのような方向を目指して行くべきかという事をよく考えて、そのような主張に耳を傾け、メディアもそのような主張を聞き出そうとするのが大事なのです。しかし、そうではなかったために今日に至っているわけで、今日の段階で私が申し上げたいのは、平板なメディアが提示して来る選択肢ではなくて、大きな構造の変化=世界の構造の変化の変化の中での日本をよく考えた上で選択しなければならないタイミングが迫って来ているという事です。日本が大きな世界史の潮流から取り残されてはならないという事なのです。

木村>  「重心を低く」という寺島さんの言葉が胸をついてきます。そして、最後にお触れになったメディアのあり方というところでは相当覚悟をもって考えなければならないという思いでお話を伺いました。

(註1、戦後の経済復興、経済活性化を図るために吉田内閣によって1946年に立案された計画。基幹産業に傾斜的に資金を集中して生産力の増加を図った)
(註2、安本未子著。2003年、西日本新聞 復刻版出版)
(註3、1960年に始まった戦後最大の労働争議。総資本対総労働の争議と呼ばれた)
(註4、commoditization。ある商品の分野において、主に価格、量を判断基準に売買が行われるようになること。高価な商品が低価格になることをコモディティ化というケースもある)
(註5、smart grid。集中、単方向だった電力網を双方向=分散型に置き換える概念。これにより再生可能エネルギーの大幅な導入等が出来るようになる)