第22回目

木村>  先週は「G20を経た世界」、そこから見えて来るものという事でお話を伺って、「G2」という事がキーワードになりました。つまり、アメリカと中国の存在というものがこれからの世界を見る時に非常に重要なキーワードだというお話でした。
 
<北朝鮮ミサイル問題と北東アジア非核化を考える>
 
 
寺島>  また、その事に追い打ちをかけるように4月に目撃をした事は、「北朝鮮のミサイル問題」です。私はあの出来事の本質もアメリカがいかに中国に配慮をして動き始めているのかという事を日本人として思い知らされた事だと言ってよいと思います。おそらく、多くの人たちが同じ思いだと思いますが、「あれは一体何だったのか?」と言いたくなるような経験をしたわけです。日本は北朝鮮が人工衛星という名前のミサイルを打ち上げるという事で異様な雰囲気になって、臨戦態勢だとか、迎撃用のミサイルだとか言って大騒ぎをして、岩手や秋田の人たちはハラハラドキドキしてどうなる事やらと、まさに、息を飲む思いで待ち構えていたのに、誤探知をする等とんでもない醜態を晒していました。
 私はこの件が盛んにメディア等で報道されていた時に、自分の意見として「ミサイル騒ぎに右往左往するのではなくて、国連制裁の動きをよく見抜く必要がある」という事を言ってきました。北朝鮮がミサイルを打ち上げた時に、制裁に関して決議をしようとしてもロシアや中国等が拒否権を発動して制裁に協力をしないという動きをするのではないのかという点よりも、アメリカ自身の本音を認識する事が重要でした。アメリカが国連においてどのようなプレーをするのかという事、まさに私はそちらの方を息を飲むように見ていたわけです。
 アメリカと日本は日米連携で「制裁決議」に持ち込もうという事を盛んに言っていたわけです。しかし、「アメリカには、本当に制裁決議にまで持ち込むという本音があるのだろうか?」という事が私の注目点であったという意味なのです。
 案の定と言っていいと思いますが、いつの間にか「日米連携で北朝鮮を制裁する」という流れはスーッと後退して、アメリカと中国の連携、米中の主導によって落とし所を見つけて、むしろ日本は梯子を外されたと言ってもよいような状況になりました。そして、なんとか議長声明という形になりましたが、日本は振り上げた拳が下ろせないために自分たちの主張が盛り込まれた議長声明だとして、「まあ、よかったではないのか」という雰囲気をつくっています。けれども、実際は北朝鮮に対する実行ある制裁も何もないものを議長が「非常にこの事態は遺憾である」と声明として出したというだけであって、本来、日本が主張し、アメリカと共にやろうとした事から見ると、期待外れと言うか思惑違いの方向に動いたと言ってもよいと思います。
この事が一体何を意味しているのかと言うと、まさに、これはG20の時の話もそうでしたが、いかにアメリカが中国に配慮をして、中国の顔を立てる形で北朝鮮問題を制御しようとしているのかという事がはっきりとしたという事です。
したがって、「北朝鮮に対して強いメッセージを送る」と言っていたのにこのような状況になって日本としては一体この先、北朝鮮問題をどのように制御して行くのかという事についてしっかりと考え直さなければならないのです。
北朝鮮はこのような状況に味をしめて、むしろ「テポドン」よりも「ノドン」というもっと射程距離の短いミサイルに小型化した核をも搭載出来るようなシナリオをちらつかせながら、より鋭い恫喝外交を展開して来る可能性が大いにあるわけです。そのような時に、日本としてやらなければならない事は、アメリカに過剰な期待をして、国連によって制裁決議に持ち込み、北朝鮮を追い込もうという発想を一歩前に出して行く事です。
北東アジアの安全保障について、より大きな構想力が問われている局面、分かり易く言うと、潜在的には北朝鮮を支援している中国、更にはロシアと北朝鮮との間にしっかりとした楔を打っておく必要こそが重要だと考えます。そのためには、「北東アジアの非核」というものが日本にとっての最大の利得なのです。つまり、核を廃絶して行く事です。
幸いにしてロシアの今回の事態に対するメッセージの中にも、「朝鮮半島の非核化」というような表現も出て来ています。中国も建て前としては、「朝鮮半島の非核化を目指す」と言っています。つまり、北朝鮮が持っている「核」なるものを実際には使えない兵器にしてしまうという事が日本にとって一番良いわけです。あれほど経済が立ち行かなくなっている国なのに、これだけのミサイル開発を行なうという事は国民に大変な負担を強いている事になるわけですから。
 
木村>  キム・ジョンイル総書記自身がロケットを打ち上げて、「国民にそのような耐乏を強いている事はすまない」と言ったとか……。
 
寺島>  別の冷静な見方をすると、キム・ジョンイル体制がめいっぱいになっていて、間もなく持ちこたえられなくなるだろうという状況に来ている事だけは間違いないのです。
 かつて、東西冷戦の終り頃に軍拡に耐えられなくなって東側が崩れて行ったように、国民に負担を強いて軍拡に出ている体制は持ちこたえられるわけがないのです。したがって、そのような兵器を使えないものにするという事が実現出来るかどうかという話は別にして、日本がひたすら主張すべき事は、北東アジアの非核条約なのです。東南アジアが「非核地帯条約」(註.1)というものを既に実現しているのですが、それと同じように北東アジアも「非核」という原則を確認し合い、中国もロシアも日本も韓国も巻き込んで安全保障の問題において多国間でもっとコミュニケーションを深めて、相互に色々な交流をし合いながら北東アジアの安全保障の仕組みについて信頼感を高めようと呼びかけて、実際問題として北朝鮮がスッポリと孤立して行くような構図をつくる事が日本のとるべき戦略なのです。
 国連を舞台にして制裁決議を目指して、実際には制裁に協力しない国が多く出ているような状況に過剰に興奮しているのではなくて、そのような新しい仕組みをつくって行くという事に頭を転じて踏み込んで行かなければならないのです。日本は外交の面ではまさに、肝試しをされているようなものです。ここは大きな構想力を持って、深呼吸すべきところであり、熱くなってしまって、まなじりをつり上げて迎撃だなんだと言っているその空気の作り方が国際社会の大きな流れを読み間違えているのではないのかと思います。
自分が一番期待しているはずのアメリカが、とっくに向こう岸でプレーしているような状況になっているのだという事を認識し、アメリカを通じてアメリカに過剰期待して世界に関わろうとする前提から、自分の頭で考えるという方向に意識を変えていかなければこの話は流れが見えてこないと私は言わざるを得ません。

木村>  これは、おそらくメディアのあり方もその意味では深く問われるという事なのかもしれませんね。そして、今日はこのお話をより深めて行く時間が無いかもしれませんが、寺島さんのお話を注意深く伺っていると、「朝鮮半島の非核化」という言葉と「北東アジアの非核化」というところで、つまり、日本は日米安保によって「アメリカの核の傘の下にある」。この問題にも我々はどのように向き合うのかという相当大きな問題になって来るという事で、必ずしも朝鮮半島だけの非核化という事ではなくて、寺島さんがおっしゃっているように「北東アジア全体の非核化」を日本がキチンとやっていけるのかという事なのですね。
 
寺島>  それをどこまで主導して行く事が出来るのか……。それには大変な度胸と粘りが必要です。そのような時代が来ているという事なのです。
 
 
<後半>
 
 
木村>  ここで、お話を「寺島実郎が語る歴史観」に転じて行きたいと思います。前回は、戦後の日本の代表する知識人と言える加藤周一さんのお話を伺いました。その知識人との出会いという事も含めて、知識人が歴史や世界とどのように向き合うべきなのか、或いは、人は世界とどのように向き合うのかというところにお話が展開しました。
今朝のテーマは「戦後のメディア環境~テレビが生まれた頃~」です。

寺島>  これは先程まで議論していた話と繋がるのです。「問いかけとしての戦後」というテーマで私は話を続けているつもりなのですが、我々自身が生きて来た「戦後」、約60年を越す時代に、いつの間にか我々自身が身につけてしまっているものの見方や考え方、価値観が、戦後のテレビ草創期の文化状況と言いますか、世界状況でもあるのですけれども、それらからどのように影響を受けたのかを確認したいと思います。
 日本でテレビ放送が始まったのは、敗戦後8年の1953年でした。まず、NHKが2月にテレビ放送を開始して、その年の8月に日本テレビが民放として初めてテレビ放送を開始しました。そこからテレビの時代が始まりました。
 1958年にNHKの受信契約数が100万を越して、100万世帯を越すほどテレビが普及したと言われていました。しかし、わずか2年後にこれが500万になったのです。そして、更に2年後の1962年には1000万を超えたのです。
 
木村>  倍々ゲームですね。
 
寺島>  まさに、2年ごとです。1958年から1962年、つまり1960年前後に日本は一気にテレビの時代に入って行ったのです。
 実は、我が家にテレビが最初にやって来たのは1958年だったので結構早いほうでした。当時、私は北海道の札幌にいました。私はそこから何に衝撃を受けたのかと言うと、テレビで放映されているアメリカの「テレビドラマ」=「テレビ映画」というものにです。
これには色々と背景があって、1956年に最初にNHKが「ハイウエイ・パトロール」というアメリカのテレビ映画を放映して、同じ年に「KRT」(株式会社ラジオ東京テレビ。現在のTBS)で「カウボーイGメン」や「スーパーマン」を放映していました。日本語吹き替えが始まって、スーパーマンが日本語を喋るということで、おばあちゃんが「やけに日本語の上手い外人だ」と言ったという笑い話が伝わるくらいに日本の茶の間にアメリカのテレビ映画が放映され始めたのです。そして、続々とアメリカのホームドラマ、「ビーバーちゃん」、「パパ大好き」等がやって来ました。
それを観て我々はアメリカというのは豊かな国だと思いました。例えば、冷蔵庫から物凄く大きな牛乳瓶を出してガブ飲みにしているとか、高校生なのに車でデートに女の子を迎えに行く等、「こんな国があるのか」という衝撃を受けたのです。そして、カウボーイ映画が続々とやって来て、「ララミー牧場」等が大変なインパクトを与えて、「アメリカ人というのは結構男気があって正義感の強い奴がたくさんいるのだなあ」と物凄く共鳴したりしました。更には「コンバット」のような第二次大戦を舞台にした戦争もののテレビ映画が放映されて、サンダース軍曹等がやけに人気者になって、ついこの間まで敵対国だったアメリカの軍人を一生懸命に応援しているような空気まで出て来ました。
問題はこれらのテレビ映画が日本のテレビ局で放映された背景なのです。調べてみるとびっくりしますが、ほとんどタダ同然で日本のテレビ局に放映させてくれたと言ってもよいような条件でした。1本が200ドルとか300ドル位で滅茶苦茶安かったのです。これは何故かと言うと、まず、アメリカでもテレビ時代が来て、テレビでハリウッド映画を放映する事に対して、はじめは協力しなかったのです。したがって、テレビ会社が自主制作でテレビ映画をつくって、そのテレビ映画はテレビで放映後、二次使用で配給するのは安くてもよいという前提があったわけです。
実はもっと政治的な要素もあって、ちょうど1950年代は「マッカーシー旋風」と呼ばれた、反共主義者運動が展開されました。つまり冷戦の時代に入って行って、1949年に共産中国が成立してソ連という国がまだ光を失っていない時期で、アメリカの共産主義に対する恐怖心が物凄く大きくなっていた時代です。そういう背景があって、マッカーシーという上院議員が、「共産主義者が国務省の中に紛れ込んでいる」という発言をして以来、「反共」や「赤狩り」が吹き荒れました。(註.2)
 
木村>  「非米活動」という言葉がありましたね。
 
寺島>  そのような共産主義者みたいな人たちを血祭りに上げて行くという空気が横溢している1951年、日本はサンフランシスコ講和条約によって独立しました。しかし、1950年に始まった朝鮮戦争という大きな要因もあり、アメリカは共産主義に対する恐怖心から、日本を反共の砦にして行こうという政策をつくって、日本人を親米化しようとしたわけです。日本人のものの見方や考え方の中に「アメリカを好きになるという空気をつくろう」と、物凄く腐心していたのです。ホワイトハウスをはじめ、多くの民間団体までがアジアの共産化を防ぐために、ファンド等をつくって日本に様々な文化キャンペーンを行ないました。アメリカを好きになってもらおうという意図から番組のソフトの提供なども含めて大変な活動をしていたのです。そのような影響で、我々はアメリカの生活に憧れて、アメリカのカウボーイ映画に拍手を送りながら、いつの間にか身につけてしまった価値観として、よく私が言う、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という姿勢が出来てしまったのです。私自身も実際にアメリカでその後十数年生活をしてアメリカ人と議論をして、「お前は日本人のくせに何故そんなにアメリカのテレビドラマの事をよく知っているのだ?」と言われました。また、マイアミに行ってもシカゴに行っても、何処かで観た風景と感じ、やたらに知っているわけです。マイアミに行けば、例えば、これは「マイアミ・バイス」に出て来たあの辺りだとか、「ルート66」の類の世界をほとんどアメリカの国民と同じくらいに共有してしまった時代を過ごしています。
  我々はいつの間にか日本人であるのに骨の髄まで戦後のアメリカの文化を吸収して、ある意味では飲み物としてのコーラからTシャツ、ジーンズ等の衣服文化にいたるまで、いつの間にか「アメリカ的なるものはカッコいい」という、世界でもまれに見る民族になってしまったと言ってもよいと思います。その事から、ある意味では抜け出ていないという事が日本の現在の状況なのです。そういう背景から「異様な日本人」というものが登場して来ました。
4月5日以降に我々が体験し、目撃して来た事も結局は自分の頭で考えたりする事をしないで、「お任せ民主主義」という言葉がありますが、総てアメリカにお任せにしていたわけです。つまり、「アメリカのテレビドラマによって洗脳され、アメリカを通じてものや世界を見ていれば間違いない」というような時代を過ごて来てしまったために、いつの間にかそのような日本になっているのだというところをしっかりと踏み固めないと駄目なのだという事です。私の言いたい戦後なるものから今日問いかけてみなければならないという問題意識なのです。
 
木村>  日本人の心の中に深く埋め込まれた「アメリカ」というものを見つめ直す、一つの非常に重要な鍵になるところだと思います。そして、メディアのあり方も含めて改めてアメリカとの関係を我々は見つめ直す必要があり、大変重いお話だと思いました。アメリカのドラマを思い出してうかれているわけにはいかないという気がしました。
 
(註1、東南アジアの非核化を定めた条約。1995年にバンコクで開催されたASEAN首脳会議において、東南アジア10カ国の首脳により署名された。1997年発効。バンコク条約とも称する。核兵器の開発、製造、取得、保有などを禁止している)
(註2、マッカーシー旋風。マッカーシズム。1948年頃から1950年代半ばのアメリカで起こった。反共産主義者運動。メディア、映画産業、政治家、軍隊に所属するさまざまな人々の中で共産主義に共感を持っていると疑われた人たちがパージされた)