第10回目

木村>寺島さん、先月の放送では国際連帯税構想というテーマで日本が2007年以降、オブザーバーで参加していた開発資金のための連帯税に関するリーディンググループに9月26日に正式に参加することを表明したというこの動きを捉えて国際連帯税の仕組みと重要性についてお話をうかがいました。そこで今回なのですが・・・・・・。

<ご託宣を仰ぐ日米関係>

寺島>日本にとってオバマ大統領なるものがもつ意味、つまりオバマが大統領になることによって日米関係が果たしてどのようになって行くのか? あるいは日本はどうすべきなのか? というこのあたりの話を深めておきたいと思います。

木村>日米関係、日米同盟にどうこれから我々が向き合うべきか・・・・・・。

寺島>オバマ政権になり民主党政権になることによって、日本のメディアが「果たして今後、日米関係はどうなっていくのだろうか?」という記事だとか報道だとかをする際に、必ず登場して来るパターンというのは、民主党政権は労働組合の支持を背景に出来上がっているので、どうしても産業の保護主義的な動向に踏み込みやすい傾向があるのでまた日米の通商摩擦や、アメリカの保護貿易主義にぶち当たっていくのではないかという事に不安が高まったり、あるいはクリントン政権の時の日本にとってはちょっとドキッとするような悪夢だったのですが、中国中心のアジア外交、つまり「ジャパン・パッシング」というものが再び始まるのではないか等ということが話に上ります。つまり、日本が無視されて中国に関心が向かって行くような外交になるのではないかという不安材料ばかりがよく議論されて、日米同盟は大丈夫なのか? という話がよくされがちなのです。
 事実、ここのところの報道を見ると、やはり論調はそういうものですから、ここをやはり日本人が越えていかなければいけないのだという気持ちが非常に強いためにそういう切り口からお話をしておきましょう。
 要するに、そういう不安感を抱えると日本人の指導者もメディアの人もご託宣を受けにインタビューに行くのです。つまり、それはアメリカが保護貿易主義になるのではないかとかジャパン・パッシングになるのでないのかという問題意識を背負って、ワシントンで日米関係で飯を食っている人のところにインタビューに行くのです。

木村>テレビの番組でも、このあとの日米関係のキーマンは誰だろうかと色々な人にインタビューするシーンがありましたね。

寺島>はい。例えば、日米関係というと必ず登場して来る人物の代表格はアーミテージ(註.1)で、事実、何社ものテレビ局がインタビューを録っていました。その他、ケント・カルダー(註.2)は日本問題でいうとジャパノロジストと呼ばれています。CSIS(註.3)にいるマイケル・グリーン(註.4)だとか、マイケル・グリーンのボスだったカート・キャンベル(註.5)だとかが日本通として知られている人たちです。私はワシントンに6年以上もいましたし、東海岸に10年以上生活してきた人間ですから日米関係で飯を食っている人とは必然的に親しくなって、そういう人たちとのエールや意見の交換によって日米関係を議論しようという傾向が必然的に深まってしまいます。そこで忘れてはいけない事があります。例えば、イラク戦争で緊張感が高まっている頃、あるいは「9.11」が起こったという時に必ずインタビューを録りに行く人がアーミテージだったのです。アーミテージのインタビューを録りに行った時にアーミテージが「Show the flag」と言いました。「9.11」が起こった直後にインタビューに行ったときの事です。それは湾岸戦争の時に日本は130億ドルのお金を出したけれどもちっとも感謝もされなかったという日本人のフラストレーションがよくわかっていて日米関係で飯を食っている人だから「Show the flag」=「旗を立てろ」というご託宣を下すわけなのです。インド洋にいち早く自衛隊を送って補給活動しなければいけないという焦りによってわずか1カ月もかからないうちに国会でテロ特措法を成立させて「遅れてはならない」ということでアーミテージのご託宣を受けて、「Show the flag」にいち早く呼応するという行動パターンをとったのです。
 そして、今度はイラク戦争が迫っている頃にまたアーミテージにインタビューに行ったら今度は「Boots on the ground」と言いました。要するに、「土に足をつけてやれ」と言ったのです。これは「金だけ出したのではダメだ。イラクに陸上自衛隊を送って汗を流さなければダメだ。アメリカはそれを期待しているのだ」という事を先回りして捉えました。そして日本は憲法の改正さえしないでイラクという海外に軍隊を送るという事にまで解釈改憲という形で踏み込んで行ってしまったのです。つまり、日米関係で飯を食っている人は日本サイドにもいるわけです。そういう人たちとのエールの交換で日米関係が組み立てられていることの限界を突き破っていかないと新しい日米関係は築けないという事です。

(註1、ロナルド・レーガン政権の国防次官補。政策コンサルティング会社『アーミテージ・アソシエイツ』代表。ジョージ・ブッシュ政権で国務副長官を務める。知日派として知られる)
(註2、ジョン・ホプキンス大学院教授。『CSIS=ワシントン戦略国際問題研究所』日本部長。『エドウィン・O・ライシャワー東アジア研究センター』所長兼務。著書『米軍再編の政治学』『自民党長期政権の研究』他)
(註3、Center for Strategic and International Studies=戦略国際問題研究所)
(註4、政治学者。専門は日本政治、特に日本の安全保障政策。現在はジョージタウン大学外交政策学部教授。CSIS上級顧問)
(註5、CSISの諮問委員会メンバー。アジア問題、国際安全保障の専門家。国際関係学者として博士号を受ける。元米国防省東アジア太平洋副次官補。現米国新安保センター所長)

<新しい日米関係構築に向けて>

寺島>  そこで何が言いたいかというと、日米関係を日米関係の利害で飯を食っている人の関係から越えて、本当にワシントンでアメリカ全体の外交戦略だとかアメリカ全体の世界戦略を議論している上院の外交委員会とか、そういうレベルの政治家や政策立案に参加しているシンクタンクのアメリカの外交戦略、アジア戦略の専門家たちに日本とアメリカとの関係の重要性を正しく認識させて次のもっと生産的な関係というものに話を引っ張っていくという事をしなければなりません。そうしないといつまでたっても日米関係というものは、特殊な利害で飯を食っている人たちだけがつくり上げて行く関係から脱することが出来ないまま、トラウマのように、「保護貿易主義は大丈夫なのでしょうか?」、「我々はパッシングされないでしょうか?」というような不安の目線で問いかけていく事になって日本の心の中を読みきっている日米関係で飯を食っている人に「心配しなさんな。私がいるかぎり日米関係は安泰だ」というところのみに話が落ち着いてしまうわけです。
そこで問題はそれを越えて客観的に言うとアメリカが保護貿易主義というものを展開していかざるを得ないような背景にあろうが、クリントン政権の時のように中国を戦略的パートナーだと位置づけてアジア外交を組み立てて行く方向に行こうが、肝心なのは「日米関係がどうなるのか?」ということを予想したり、不安を抱いたりすることではなくて、「どうしていかなければいけないのか?」という事について、むしろ我々の側に、つまり日本の側に強い戦略意思や構想があるのかという方が物凄く重要になって来るわけです。「自分がどうしたいのかという事をしっかり持っていない存在が相手にとって尊敬されるわけがない」という事が物凄く重要で日米関係をそういう位置関係のものにしていかなければならないのです。
そういう意味で、私はいま凄いチャンスだと思います。いよいよアメリカ自身もオバマというリーダーを選んで世界との対話とか協調とかというものを図っていかなければならない時代に入って来て、誰が本当に信頼できる同盟国であり、本当の友人なのかを真剣に考えなければならないわけですから、日本がアメリカにとって重要であると認識させるためには、アジアに影響力を持った日本でなければダメなわけです。アメリカの言う事をなんでも聞いてくれる「便利屋さん」ではなくて、アメリカにとって日本が大切であると思わざるを得ない日本の存在を示す必要があります。つまり、アジアを束ねてアジアに対して大変な影響力と発言力を持っている日本を確立することが、アメリカにとって重要なのです。アメリカにとってのアジアの力学は、「日本も大事であるが中国も大事」だという事は明らかですから、日本は、そういう大きな流れを先取りして行かなければなりません。日本がパッシングされるのではなくて、日本は日本として同盟関係は大事だけれども中国の存在も重いという事を見据えた上で、中国とのいわゆるステークホルダー(Stake Holder=掛け金の保管人)の役割を果したり、中国も一角の存在として認識して、多角的な関係によってアジアというものを見ていかなければならない局面にある事だけは間違いないのです。そういう時に本当に役に立つ日本なのかという事です。
また、経済の問題で言えばオバマ政権がスタートする前に我々の目の前に突きつけられて来るテーマは、「GMはどうなるのか?」という事です。GM(ゼネラル・モーターズ)という、ビッグ・スリーの一角を占めていた、我々からすれば見上げるような自動車メーカーがまさにいま風前の灯になっています。このGMを、1月20日の政権の発足よりも前にオバマはなんらかの形で手を差し伸べなければならないような状況になっています。

<日米産業協力という関係>

この間、オバマが初めてホワイトハウスに行ってブッシュ大統領と面談した時に、彼はブッシュに「自分の政権がスタートする前にGMの事は頼みますね」という形の発言をしています。それぐらい切羽詰って来ているのです。しかし、微妙なのはトヨタがもしもGMを買うとか、GMを救済するという事になったとしたらどうだろうか? という事を少し考えてみました。もう、切羽詰まっているからそれでも「サンキュー・ベリー・マッチ」と感謝してくれるだろうと言う人もいます。しかし、やはりアメリカ人の深層心理を考えてみると、例えば韓国のヒュンダイという自動車メーカーがトヨタを買うというような事態が将来起こったとしたら日本人のプライドは大きく傷つくでしょう。そのように、物凄く歪んだナショナリズムに火をつけて「GMさえも買収する日本」みたいな事になってしまうと、それこそかつて「アメリカを買い占める日本」ということで対日批判が起こったようなアメリカ人の神経を逆なでするような話のきっかけになってしまうかもしれません。

木村>昔、日本は有名なビルをたくさん買いに行きましたよね。

寺島>そうです。そこで、私は本当の意味での日米産業協力というか、つまり日本のメーカーがアメリカの、いわゆる虎の子産業とも言える自動車メーカーさえも買い占めてしまったという寒々とした物語にするのではなくて、GMを自動車メーカーとして再生させる協力をするという物語にしなければなりません。GMという会社は自動車をつくる機械のメーカー企業のように見えるけれども、何故こんなに急速にダメになったのかと言うと、利益の半分近くをついこの間まで金融で上げていたからです。つまり、業態はいかにもメーカー企業のように見えるけれども実際は金融子会社で上げた利益によって支えられていたわけです。それを切り離して本当の自動車メーカーとして生き延びられるのかどうかという正念場に立たされているわけですから、ハイブリッド・カーに象徴されるような環境に優しい車が出て来るときに、日本のメーカー企業がアメリカの自動車会社を買収するという仕組みではなくて、産業協力という大きな仕組みの中で次世代の自動車の共同開発だとか、そういう類の仕組みをつくる事によって、要するに、政治的な紛争を避けて産業協力の実績を上げて行くという仕組みをむしろ日本サイドから積極的に語りかけるべき局面に来ていることを認識しなければなりません。
 つまり、ここで最後に確認しておきたい事は、日米同盟を戦後60年以上も続けて来ていると言いますが、「軍事片肺同盟」で日米安保という同盟関係はしっかりした条約でもっているけれども、経済の関係については「自由貿易協定」の一つも出来上がっていないのですから、日米関係において経済協定は物凄く弱いのです。だからそういう意味合いにおいて日米の関係を経済における、あるいは産業における協同プロジェクトというものを仕組んで行く本当の意味での同盟関係を構築して、防衛安保における関係というものを21世紀のアジアの秩序の中で相対化して行くというか・・・・・・。多分、こういう関係を日本はしっかり構想しなければいけない段階が来ているのだろうと思います。

木村>寺島さんがおっしゃったように、「軍事片肺同盟」に60年間慣らされて来た、あるいは慣れて来ているわけですからこれを本当に脱却して何かを構想して行くという事は大変な努力とあるいは何かやはり日本の国内で認識が広く共有されないと出来ないのではないかと・・・・・・。

寺島>インド洋での補給問題も「いままで通りでいいのではないか」というのが日本にとっては、一番楽なのです。それを変えて行くという事になるといま語って来ているような構造そのものを大きく転換していく力仕事が必要です。自分の頭で深く考え抜く力が必要です。そういう力が無くて、「お任せ民主主義」という言葉の通り、お任せで生きて来ている人間にとって「自分の力で政策を考えてみろ」というのは非常に苦痛な事なのですが、それに立ち向かっていかなければ21世紀の日本は開けないのだという事が私が一番言いたい問題意識です。

木村>つまり、オバマさんが「Change!」という言葉を掲げたその変革というものは、まさしくアメリカに新しいオバマ政権が生まれる時に日本も変われるかどうか? という意味で重要なところに今日本は立っていると言えるでしょう。

<ペリー来航とは何だったのか>

木村>「寺島実郎が語る歴史観」です。このコーナーでは寺島さんのものを見る、ものを考える基礎になっている歴史観というものについてお話をうかがっているのですが、前回は「キャプテン・クーパー」という事で1853年にペリーが浦賀に来る8年も前に日本人はアメリカと出会っていたという大変興味深いお話でした。

寺島>そうなのです。しかもそれが世に言う「砲艦外交」ではなくて、捕鯨船の船長が日本人の難破した船の乗組員を助けて連れて来てくれたという事から日米関係は始まったという話でした。
 今日は歴史意識を深めるために日米外交の原点である「ペリーが浦賀に来た」という事実を少し掘り下げてみようと思います。
アメリカは1848年、ペリーが浦賀に来る5年前に「米墨戦争」といってメキシコとの戦争に勝利して、ついに西海岸まで領土を拡大して来るわけです。メキシコからニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアという州を割譲させて手に入れたことによって、アメリカ合衆国は、西海岸に辿り着いたわけです。西部開拓史に幕が下りたのです。そして、西海岸に辿り着いて初めて目の前に太平洋が見えて来たのです。
その頃のアメリカに、まさに「キャプテン・クーパーは何故、日本の周りをうろうろしていたのか?」という捕鯨船が日本近海に来ていた話をしましたが、それは灯りに使用する鯨油が必要だったからです。ペンシルバニア州で石油が発掘されたのは1859年ですからペリーの浦賀来航よりも5、6年後です。1870年に「スタンダード・オイル」という会社が設立されて、石油というものの時代が到来する以前は、アメリカの灯りはほとんど鯨からとった脂だったという話を前回しました。したがって、米墨戦争で太平洋に辿り着いたという背景の中で、それでもなおかつペリーが浦賀に来た頃は捕鯨というものがいかに重要だったかが分かります。まさに捕鯨船が日本の周りにやって来て鯨をとっていたわけです。
そして、そこで「ペリーが何故、日本に来たのか?」と言うと、捕鯨船の、薪とか水を確保する補給基地としての必要性、さらには太平洋を越えた中国との貿易を睨み始めたアメリカが日本に中継点としての役割を担わせようと考えたからです。つまり、中国というキーワードと捕鯨船の寄港地としての日本を期待したという問題意識が日米外交の原点にあったという事は非常に興味深い事実なのです。そういう背景があって、1853年にペリーが浦賀にやって来ました。しかし、ここには途方もなく奇怪な史実が横たわっているのです。私はこれを物凄く詳しく調べました。ペリー来航とは何だったのかという歴史的事実です。自作自演の芝居がかったドラマを見せられたような面もあります。何故かと言うと、ペリーは、フィルモア大統領の国書を持って開国を迫ったということになっているのですが、厳密に調べてみると、国務長官が海軍長官に宛てた1852年11月5日付の訓令を持ってやって来ています。大統領が国書と呼んでいたものがまた不思議で、その書類には1852年11月13日付のフィルモア大統領の署名がありますが、ペリーがバージニア州ノーフォーク港を出港した時、既に大統領選が終わっており、大統領はフィルモアから民主党のピアースに交代することが判明した後での出港です。ですからペリーが浦賀に現れた1853年7月8日の段階では、フィルモアは大統領ではなかったのです。したがって、日本に開国と交易を求める国書とされたものは、厳密には前大統領による添え書きのような性格のものであり、ペリー自身がそれを承知していたとされています。仮にその受け取りが拒否され交渉が決裂しても、日本と交戦するために艦船がアメリカから派遣されて来ることは期待できないような状況の中で、いわばハッタリで演技しきったようなものなのです。

木村>フィルモアはもう大統領でもなんでもないということですね。

寺島>はい。そしてそういうものが恭しく差し出されて、日本人は権威に弱いという事をペリーは聞いていて、もし開国しなければ攻撃をしてでも日本を開国するぞと脅したという事になっていますけれども実際は、後ろ盾などは全く無くてハッタリだったわけです。このように日米関係が揺さぶられるという構図は番組で話題にして来た話にいつも通ずるものがあって絶えず、賽の河原の石塚のように繰り返されている構図なのです。そこでこの話を少し集約しておくと、私の本の中に「脅威のアメリカ、希望のアメリカ」があります(岩波書店)。私のアメリカ論なのですが、絶えずアメリカという存在は日本にとって「脅威」であり、「希望」であるという二重構造になっています。それは、ペリーの来航の時から恫喝して砲艦外交で力で押さえつける抑圧というロジックと日本を開放し平和をもたらし開国をもたらす使者としてのイメージがあって、この番組でも話題にしてきたマッカーサーの存在感と全く同じで、やはり二重構造になっているというわけです。つまり、アメリカという国の存在そのものが日本にとって「脅威」であり、「希望」であるという構図は、実はこのペリー来航の時から今日に至るまで引きずっているのだという事を申し上げておきたいのです。
この二重構造をしっかり理解した上で建設的な関係をどうつくっていくのかという方向にしっかり腹をくくらないと次なる日米関係が見えて来ないと思っているのです。

木村>なるほど。どうもありがとうございました。