第8回目

木村>  寺島さん、今朝のテーマは何でしょうか?

寺島>  まず、国際連帯税のことについて触れておきたいのです。これは洞爺湖サミットに向けての首相を取り巻く温暖化の懇談会において、私が大変こだわった論点で日本は「国際連帯税構想」に参加していくべきだという趣旨のことをこの番組でお話したことがあります。この問題をもう一度きちんと最近の状況等を含めて大きな前進があったのでお話ししたいと思います。

木村>  最近の状況というと、何か近いところで動きがあったのですか?

寺島>  はい。そうなのです。9月29日に「国際連帯税を促進する議員連盟」(註.1)の国会議員約50人位が参加して、参議院の議員会館で一種の研究会を行いました。その会合には私も講演者として出席したのですが、そこで報告があります。私自身も前向きに喜んでいるのですが、9月26日には日本が国際連帯税を促進するリーディグ・グループという54カ国の国際連帯税導入のために旗を振っている国に正式参加することを表明して一歩踏み込んだのです。これは大変大きなことなのです。

(註1、2月28日、『国際連帯税創設を求める議員連盟』設立される)

<国際連帯税>

寺島>  「そもそも国際連帯税とは何だ?」という話なのですが……。
いま世界が直面している二つの問題をちょっとイメージしてもらいたいのです。一つは、明らかにいま我々が首を傾げながら苦しんでいるのは世界のマネーゲーム化です。要するに実態経済から乖離した、お金がお金を生むような経済構造、サブプライム問題そのものがまさにそうなのですが、つまり、欲と道連れの金融資本主義が物凄く歪んだ形で肥大化していって、食糧価格とかエネルギー価格の高騰をもたらしています。いわば過剰流動性を引用しているようなマネーゲームの人たちが、どこにお金を持ち込むのかによってあるときは食糧価格が高騰したり、あるときはエネルギー価格が高騰したりするのです。アメリカの住宅市場にはお金が向かわなくなったため、その分エネルギーや食糧といった先物取り引き市場に投機マネーが流れて、価格を高騰させたということは明らかなのです。例えばそういうお金を運用しているファンドの人たち全てとは言いませんが、多くの場合に本社を「タックス・ヘイブン」=「税金のかからない地域」に置いて、世界の出来事とか問題に対して「責任を共有していく」という視点ではなくて、「自分だけの目的のためにそのお金を活用していこう」という流れのなかに世界経済があると言っても決して誇張ではないのです。そういう人たちをどう制御するのか? マネーゲームをどう制御するのか? という議論もあります。それはまるで液体を紐で縛るような議論で、「そんなものは難しいでしょう」という話であまり関心が持たれてこなかったのですが、例えば世の中には「トービン・タックス」という議論がありました。

木村>  たしか1970年代でしたね。

寺島>  トービンという人はハーバード大学やイエール大学で教壇に立っていた経済学者ですが、1972年にこのジェームズ・トービンが、投機目的の短期的な取り引きを抑制するために提唱した税制度で、それを「トービン・タックス」=「国際連帯税」といいます。現在世界の為替取り引きは年間450兆ドルあると言われています。その取り引きに0.005%程度、本当に薄く課税したとしても、年間250億ドル以上の財源を国際社会で確保できます。それを国際機関が、例えば環境の技術を発展途上国に移転するためのコストにするとか、地球環境問題のなかでも北極とか南極とか何処の国が責任を持って問題解決に対応していいのか見えない地域に対する環境対策のコストの財源にしたりします。要するに環境問題は国境を越えた問題です。ところが、環境問題に対する対策を議論すると、国境を越えた問題であるはずの環境問題を再び国境の中に取り返して来て、「自分の国よりもあなたの国のほうがより責任を負うべきである」というような国家間のせめぎ合いになります。結局世界が当惑しているのは、先進国が責任を持つのか途上国も一緒に責任を持つのかということも含めて再び国家間の揉め事になっている現状についてです。

木村>  まさに「京都議定書の次を考える」という議論はその対立の場になっていますね。

<環境問題をどう認識するか>

寺島>  本来、環境問題というものには国境線が無いのです。日本海の生態系が問題だという話がもし見えてきたとしたら、それを良好なものに保つために日本だけが歯を食い縛って頑張って京都議定書の目標を達成していけば無事問題は解決しましたという話にはなりません。当然のことながらロシアも北朝鮮も韓国も中国も一緒になって日本海の生態系という問題に向き合わなければならないはずで、「一カ国が責任を大きく担って頑張れば問題は解決する」なんていう話ではないのです。そういうときに、まさに「国境を越えた問題には国境を越えた新しい仕組みが必要だ」という考え方に基づいて登場して来たのが「国際連帯税」なのです。これはフランスとかブラジルが中心になって旗を振っています。世界でも54カ国が「リーディング・カントリーズ」というものを形成して、いままで推進してきていたのです。

寺島>  フランスは非常にユニークで、前倒しに国際連帯税という名前で航空税のような形で徴税します。例えば飛行機でフランスに来たりフランスから去っていく人たちに対して税金をかけているんです。その税金で、例えば途上国の貧困対策とかフランスという国が国の政策意志によって税金を取って途上国対応にそれを使っているということになります。だから国際連帯税とは厳密には少し意味が違うのですが、国際連帯税のファースト・ステップとして「航空税で税金を取って途上国に対応していく財源にしよう」ということをやり始めています。
しかし、フランスが興味深いのは、国会で国際連帯税をもう可決しているということです。ただし、現実問題としては、EUの加盟国全てが国際連帯税に関する法案を可決して全員が轡を揃えたときに発行するという条件になっていますが、複雑な状況ではあるけれども、分かり易く言うと段階的にコンセンサスをつくっていこう、ということです。環境問題は何処かの国が責任を負うべきものではなくて、地球全体の問題ですから国境を越えたグローバルな仕組みのなかで税金を取って国際機関のようなものが活動していける仕組みにしたほうがいいという考え方が次第に台頭してきて54カ国がリーディング・グループを形成するくらいにまでになっていたというのが現状です。

<国際連帯税に向けて日本の取り組み>

寺島>  2月に日本の国会議員の中にもその構想に参加していくべきだと主張する人たちが出て来ました。まず36人が超党派で、この超党派というのが凄く重要なのですが、自民党も民主党も含めて超党派の国会議員が参加して「国際連帯税創設を求める議員連盟」を設立しました。委員長は津島さんという青森出身の税制調査会の会長をやっている自民党の長老格の議員です。このあいだまで防衛大臣をやっていた林芳正さんだとか、民主党の広中和歌子さんだとか仙谷由人さんとか、若い議員も名前を連ねていますが、そういう超党派の議員で推進していこうという人たちが出てきたのです。そして、ついに9月26日、日本国として正式に外務省がリーディング・グループに55番目の加盟国として参加するということを表明しました。(註.2)このことが大変大きな意味があるとだんだん伝わってきていると思います。

木村>  「ついに」と言うのは、それまでに曲折というか、必ずしも「いいね」という話で一直線ではなかったということですね。

寺島>  はい。そして、日本の主張すべき論点を何にするかいうことで、環境省にこの国際連帯税に関する研究会みたいなものも正式にできたのです。これは洞爺湖サミットを越えた日本が、政府主導で国際連帯税の方向に超党派的な流れの中へ踏み込んで来ているということは、日本の進路にとっても凄く意味があります。というのは、まさに全員参加型秩序と呼ばれているような世界秩序が求められている状況のなかで、アメリカやかつての超大国だとかが「右だと言ったら右」という方向に向く時代ではなくて、皆が知恵を出して地球の進路を決めていこうという流れが次第に出て来ているわけです。そういう流れの中で国際連帯税構想は、全員参加型秩序のルールづくりの一つの実験みたいなものです。

(註.2、2003年3月、「革新的開発資金源に関する閣僚会合」<パリ会議>の開催を機に、<1>開発のための革新的開発資金調達メカニズムに関する各種イニシアティブの促進、<2>航空券連帯税の実施、<3>その税収の使途を含む制度構築の推進等を目的として、フランス主導で立ち上げられた、国を参加単位とする協議のための会合。2008年2月末現在、54カ国が参加。我が国による正式参加の意図表明後、事務局による所定の手続きを経て、他の参加国より特段の反対がない限り、我が国の正式参加が認められる見通し。
1.我が国は、2007年以降、「開発資金のための連帯税に関するリーディング・グループ」にオブサーバーとして参加してきたが、9月26日、正式参加の意図を同グループ事務局<フランス大使館>に通知した。
2.正式な参加が認められれば、年2回の総会を含む同グループの全ての関連会合に発言権を有する形で参加することが可能となる)

<新世界秩序の象徴>

寺島>  ここのところを振り返ってみると、それこそアメリカが背を向けているけれども国際社会が一歩づつ踏み込んで行っている大きな流れの話の一つに「ICC構想」という「国際刑事裁判所」の構想があります。(註.3)

木村>  寺島さんはずっと力説なさっていましたね。

寺島>  はい。オランダのハーグにある国際刑事裁判所で国境を越えた組織犯罪、例えばテロや拉致等ですが、そういうものに対して国際刑事訴訟法的な手続きで所管していこうという流れがICCだったわけです。国際司法裁判所とは別に国際刑事裁判所が出来て、日本も去年これに超党派の議員連盟が力を発揮して入っていったわけです。これも大変大きな流れです。つまり、アメリカが参加しようとしないような「自国利害中心主義を固持して、世界のルールで自分を縛るな」という空気のなかで、アメリカが反対したくなるような話を、日本がアメリカを飛び越えてICC構想に参加しました。国際連帯税もまた、アメリカが物凄く渋っている話です。何故ならば金融資本主義が柱の国にとって、金融資本主義の動きに縛りをかけてくるというのはとんでもない話だということで拒否しているのです。私はやがてそれは拒否しきれなくなるだろうなあと思いますが……。そういう流れの中で、世界の大きなうねりのような一つの動向であるこの国際連帯税の構想に日本が踏み込んでいったということは、日本もICCと並べて考えていったら物凄く重要な動きのなかに踏み込み始めていったと言えます。
日本人が本当に気をつけなければいけないことがあります。「自分の国は国連を大事にして国際協調主義を生きている」というふうに私たちは思いたいし、思いがちなのです。
ところが、実態は違います。ついこの間まで私は欧州を動いていて、「なぜ日本は国際刑事裁判所に入らないのですか?」という素朴な疑問をぶつけられました。今回も欧州が震源地になって、環境問題、連帯税構想においても新しい全員参加型の時代のルール作りをリードし始めているわけです。だから私たちが頭を切り替えなければいけないのは、世界の金融不安の中で、アメリカの求心力が急速に衰えている状況で、新しい世界秩序のルールを作る、いわゆるせめぎ合いは、「何処でどういうものが芽生えてきていてどういう動きがあるのか?」ということについてよく考えなければいけないということです。そして我々、戦後という時代を生きてきた人間というのは、アメリカに対する過剰な期待と依存のなかで生きています。アメリカを通じることでしか世界を見ないということが身についてしまっているのです。私はこの固定観念を突き破って行くということが物凄く重要なテーマだと思います。だから「国際連帯税」というあまり耳慣れない言葉かもしれないけれども「大変に新しい時代を象徴している動きなのだ」ということを是非強調しておきたいです。

木村>  はい。リーディング・グループに日本が加わるという決意をしたかぎり、今度はアメリカに尺度を求めるのではなく、世界のなかで何をすべきか? ということをまさにこの場でこれから問われていく時代に入ってきているのですね。

寺島>  そういうことだと思いますね。

(註3、国際刑事裁判所<ICC>は、個人の国際犯罪を裁く常設の国際司法機関である。International Criminal Court、正式な略称はICC-CPI,通称ICCとそれぞれ表記される)

<日米関係史に於けるキャプテン・クーパー>

木村>  さて番組の後半は寺島さんの歴史観というものに基づいてお話をうかがっていこうと思います。

寺島>  はい。キャプテン・クーパーという人が日本にやって来た歴史的な事実について紹介しながらアメリカと日本の歴史的な関係をこれから私は何回かに分けて、我々の立っているところを確認して行くような話をしたいと思います。
 私は1987年から97年までアメリカの東海岸で仕事をしていました。そのとき、「ロングアイランドに、初めて日本に行った船長の家が残っているんだよ」という話をある人から聞かされたのです。アメリカ人として最初に日本に行った人物というふれこみでした。薄っぺらな歴史観しかない人間だと日本に最初にやって来たのは、1853年のペリーの浦賀来航ではないかと思いがちなのですが、実はそれよりもほぼ10年近く前にキャプテン・クーパーという人が日本を訪れているのです。我々は、開国の門を叩いたのは4隻の黒船を率いてやって来たペリー艦隊であり、大砲で脅かして日本に開国を迫ったという、いわゆる 「砲艦外交」がはじまりだと認識しておりますが、ところがそうではないのです。実は我々が思っている以上に伏線があって、ペリーが浦賀にやって来た前後に日本の太平洋側には毎年、数百隻以上のアメリカの捕鯨船がやって来ていたのです。

木村>  捕鯨船ですか? ちょっと待って下さい。いまアメリカは日本の捕鯨に反対していませんか?

寺島>  そうです。当時のアメリカは捕鯨国の先頭を走っていたのです。アメリカにとって鯨の脂=鯨油というものが大変な貴重品だったわけです。話をキャプテン・クーパーの話に戻しましょう。
 キャプテン・クーパーは捕鯨船マンハッタン号の船長としてロングアイランドのサグ・ハーバーという港町を1843年に、つまりペリーの浦賀来航の丁度  10年前に出航して大西洋からアフリカの南を回ってインド洋から太平洋へと入ってきました。千島列島の近くで4ヶ月あまり捕鯨をして18頭の鯨を捕まえてハワイに行きました。捕鯨船の供給基地となっていたのがハワイだったからハワイに3ヵ月ほど立ち寄って、再び鯨獲りのために北方漁場に出たとき、鳥島に漂流民として漂着していた11人の日本の漁民を救助しました。更に、偶然に南部藩の佐野から難破して漂流している別の船があり、そこにも11人の漁民が乗っていて合計22人の日本人を漂流民として助けたわけです。そして、そこから浦賀に送り届けに来てくれたのです。つまりこれが「キャプテン・クーパーの来訪」だったわけです。

寺島>  まずここで確認しなければいけないのは、初めてアメリカ人が日本にやって来た時は砲艦外交という恫喝でも脅迫でもなく、極めて人道的な理由でやって来たということです。そして、浦賀にやって来たクーパー船長に浦賀奉行が対応するというまさに、その後ペリーがやって来たときの予行演習みたいなことが行われているわけです。それに対応したのが老中、阿部正弘でした。
 このときの記録を調べてみると大変面白いのです。幕府は浦賀にペリーがやって来たときにびっくり仰天して右往左往してどう対応してよいのかパニック状態に陥ったというイメージがありますよね? しかし、それは全くの嘘でいかに システマティックに対応したのかということがキャプテン・クーパーの対応によくにじみ出て来ています。非常に組織立って、このときは人道的な理由で日本人を送り届けて来てくれたということでまず感謝の意を表しました。但し、日本は鎖国時代ですから大変ありがたいけれども上陸を許すことはできなかったので、食糧とか薪等色々なものを御礼としてプレゼントしているのです。物凄く善意に満ちた、アメリカの最初の日本に対する来訪だったと言えます。その後、キャプテン・クーパーは友人を介して日本に自分が訪問したときの詳細な情報をペリーに伝えているのです。クーパーが入手して来た日本の地図もありました。これを直接渡したかどうかというのはまだ議論の余地があるようですが、捕鯨船マンハッタン号が浦賀にやって来たということが、後のペリー来航の伏線であり導線になっているということは間違いないのです。つまり歴史がそういう脈絡で繋がってきているということでしょうね。日米関係というものを考える時に、アメリカの捕鯨船が最初に日本の扉を開いたという事実をどう認識するのかということが重要になって来ます。木村さんがまさに言っていたように、いま反捕鯨国の先頭を走っているアメリカが、捕鯨国の先頭を走っていた時代があったのです。しかも、ペリーが浦賀にやって来た理由としては、捕鯨船に対して薪とか食糧とかを供給してくれる補給基地としての日本を期待したということが第一にあり、その先に中国との貿易を視界に入れてあったのです。つまり、アメリカがどんどん西に開拓を伸ばして行って、西海岸にたどり着いてアジアが見えて来たという時代と重なり合っているわけです。しかも1870年代までですからまだ130、140年位前まであらゆる灯りだとか産業用の資材として鯨が物凄く貴重で、灯りの根源が鯨油だったのです。こういうあたりの歴史的な脈絡を非常に正しく認識する必要があるという話です。(註.4)

木村>  日本の人たちからしてみると、初のアメリカ発見だったわけですね。しかも、なんとか帰りたいと思っていた人たちを日本に送り届けた。日本にとってのアメリカという存在をこれからどう考えるべきか……。まさにそういうところに立っているだけに寺島さんのこれからのお話の展開が楽しみになって来ました。

(註4、アメリカ合衆国は、建国当初からヨーロッパの動乱に巻き込まれないよう孤立主義の外交政策をとって来た。その方針は第5代モンロー大統領による「モンロー宣言」として明確にされているが、ヨーロッパの紛争を回避しながら、その分西部開拓や中南米への進出に力を注いでいた。西部開拓がほぼ完了すると中南米諸国に侵略をはじめ、1845年メキシコから独立した『テキサス』を併合し、1846年には「米墨戦争」を起こし、その勝利によって『カリフォルニア』『ユタ』及び『ニューメキシコ』『ワイオミング』『コロラド』『ネバダ』の一部を割譲させて西海岸に到達した。その時点で、アメリカは、大西洋、太平洋をまたぐ大陸国家となり、捕鯨船の活動基点の確保と中国という目標に目を向けていたという時代背景がある)