第2回目

「ガラスの地球を救え」
木村>  寺島さん、先月の第一回目の放送では、「この番組では何を目指すのか?」ということに始まって、「松前重義と内村鑑三の精神に何を見るのか?」というテーマでお話を伺いましたが、今朝のテーマはなんでしょうか?
寺島>  今日は地球環境ということですね。「洞爺湖サミット」も迫ってきて、地球環境問題が我々の大変大きな問題になっていますが、その地球環境問題を考える時の基本的な視座といいますか・・・・・・、ものの見方という点で、私が考えていることをお話しして参ります。
木村>  「洞爺湖サミット」のお話がでましたけれど、その前に既に地球温暖化を防ぐために二酸化炭素等の温室効果ガスを具体的に削減していくための京都議定書の実行段階に今年から入ってきているわけですね。
寺島>  今年の4月から入ったんですね。
木村>  世界にとって、地球環境問題というものは、メディアの言葉でいうと「待ったなし」のテーマになっていると・・・・・・。
寺島>  そうですね。・・・・・・それで地球環境ということを考える時、私のイマジネーションの中で、「地球」ということを問い返したいと思っています。
木村> ええ。
寺島>  手塚治虫さん。「鉄腕アトム」の作者である手塚治虫さんが、「ガラスの地球を救え」という本を書いているんですね。(光文社新書)。その中で彼は、「地球は奇跡の星だ」「命の空間なんだ」ということを言っているんです。
 地球っていうのは、直径13,000kmの球体ですね。その地球を想像力で、1,000万分の1に圧縮して、小学校の運動会で使う「玉転がし」の玉くらいのものとイメージすると、大気の層はわずか2mm、そして水の層というのはせいぜい  1.6mmくらいしかないんです。つまり玉の上にわずか数mmの膜を貼り付けたようなことになるんですが、その3.6mmの薄い膜の中に我々人間も含めて総ての生命が棲んでいるということになります。言ってみれば、「ものすごくきわどい空間」に我々は生きているというわけです。もし何かの事情でその酸素がプチュッと抜けてしまったら・・・・・・と考えると、なんと言いますか、誠に脆い! ということに気づきます。それが、「ガラスの地球を救え」という彼のイマジネーションになっているんだと考えられます。
木村>  もう既に、オゾンホールなんかも出来てしまっているといいますからね・・・・・・。
寺島>  そうそう。あらゆる動物、植物がわずか数mmのところに共存しているというところから地球環境という問題を考えてみるというイマジネーションが、僕は非常に大事ではないかと考えるわけです。
ところで、我々が地球というものを「ひとつの星」だということを認識したのは一体いつだったろう? って考え直してみるんですが・・・・・・。

木村>  いつ頃のことでしょうね?


「グローバルとインターナショナル」
寺島> ここできっちり考えておかなくてはいけないのは、我々は最近盛んに「グローバリズム」という言葉を使いますが、「インターナショナル」と「グローバル」という言葉の違いということです。
 「インターナショナル」というのは、「国」と「国」との「際」に視点をおいたもので、その前提には、「国家」が存在していて、国家と国家を繋ぐ際をよく見つめて、その際を越えて行ったような概念というものを考えるのが、「インターナショナル」なんです。
 では、「グローバル」というものは何かというと、「グローブ」、つまり「地球を一つの球体だと認識する」イマジネーションからくるものです。「インターナショナル」と「グローバル」という言葉は根本的にそういう概念の違いがあるのです。
 そこでさっき話しかけた、「いつから人間は地球を一つの星だと考えるようになったのか」ということですが・・・・・・。まあ、世に言う「コペルニクス的転回」という、コペルニクスの「地動説」が発表されたのが1543年頃と言われていますから、(1543年にニコラウス・コペルニクスは『天球の回転について』を発表し、この中で『地動説』を唱えた)16世紀の中頃から、なんとなく人間は、「どうも地球というのは宇宙空間にある一つの星らしい」というぐらいのことはイマジネーションとして共有していたわけです。
 ところが、現実問題として、もう誰もが理屈を越えて、「ああ、やっぱり地球も宇宙の中の一つの星なんだ」ということを理解した瞬間というのは、1969年に「アポロ11号」が月面に着陸して、「アースライズ」と言って、地球が昇る・・・・・・、月の地平線に地球が昇ってくるというシーンを全世界の家庭のテレビが映し出した時の事だと思うんですね。その時、あらゆる議論を越えて瞬間的に誰もが理解したんだと僕は思うんです。 


「地球環境問題とグローバリズム」
寺島>  1972年にローマ・クラブが「成長の限界」という大変有名な本を出したんですね。(『CLUB  OF   ROME』=アウレリオ・ベッチェイ博士が、資源、人口、経済、環境破壊等の全地球的問題に対処するために設立した民間のシンクタンク。     『成長の限界』は、ローマ・クラブが地球の有限性に着目してマサチューセッツ工科大学のデニス・メドゥズを主査とする国際チームに委託して取りまとめた研究報告)。この報告書で初めて地球全体の資源が枯渇してしまうのではないか? とか人口の爆発がもたらすインパクトだとか、今日でいう環境問題、いわゆる汚染問題等ということを指摘したわけです。それによって地球全体がそういう問題を抱えているんだということを我々も理解し共有しました。しかし70年代80年代と過ぎていく過程で、技術によって地球環境問題とか食料問題だとかいうグローバルな問題は克服できるのではないかという楽観論が流れて、その後の「グローバル」という概念に大きな影響を与えることになりました。
 特に、1990年代に入り冷戦が終わったということもあって、1989年に「ベルリンの壁」が崩れ、1991年にソ連が崩壊して、東側と西側に世界が二つに割れていた構造がなくなったことで、社会主義圏といわれていた国々が市場経済に参入してきた結果、国境を越えて「ヒト・モノ・カネ・技術・情報」の移動がより自由に行き交う時代が来たということが盛んに言われはじめて、そこで意味合いを変えて出てきたのが「グローバリズム」という言葉だったわけです。
「グローバルとは何ぞや?」というと、現在では、がぜん経済的な意味が強くなり、国境を越えて「ヒト・モノ・カネ・技術・情報」等の移動がより自由に行われるバラ色の未来が開けてくるのではないかという文脈で「グローバリズム」という言葉が使われていますが、そのように使われはじめたのが1990年代だったと思うのです。
 ところが、我々がまさに生きている21世紀初頭に於いては、必ずしも「グローバリズム」がプラスの意味だけではないぞということに気づかされたのです。極めて具体的に突きつけられはじめたというのが、「ENVIRONMENT」=「エンバイアランメント」。つまり環境問題が、地球全体の過熱経済の中で問題になってきたわけです。つまり、経済が成長するということは必ずエネルギーの消費を増やしますから・・・・・・。エネルギーの消費が増えればCO2の排出が増え、そのことによって地球環境全体に重大なインパクトが出て来て、気候変動だとか温暖化だとか、どんな人でも気づきはじめざるを得ないような状況になって来ているわけです。
 例えば、中国の環境汚染問題は、中国だけの問題ではとどまらずに我々にも襲いかかって来るわけですよね。
木村>  黄砂ですとか、それにはじまって天候、いろんな気象上の影響を受けるようになって来るわけですからね。
寺島>  そうそう。日本海の生態系を守ろうということに問題意識を高めたならば、それはロシアとか中国とか北朝鮮、韓国も巻き込んで一緒になって解決していかなければならない。まさにそういう意味で「グローバルな問題」なわけですよ。     
 ところが現実は、グローバルな問題であるはずの環境問題をもう一回「国民国家」、つまり国家間の利害調整の問題に持ち返してきて、誰が一番責任をもつべきかということでお互いに押しつけ合っているわけですね
木村>  責任だけじゃなくて誰が利益を上げるというところまで・・・・・・。(ET=EMISSIONS TRADING=排出量取引。これが、投機の対象になりかけている)。


「国際連帯税」
寺島>  ところが、あくまでもこの問題はグローバルなんだと・・・・・・。これは、世界の新しい動向なんですけれど、「グローバルな問題はグローバルな新しい仕組みによって解決していかなければ、解決出来ないのではないだろうか」ということで、いわゆる、国ごとの環境税をどう取るかなんていう話じゃなくて、地球全体の環境税といいますか・・・・・・、最近の言葉で言うと「国際連帯税」と言いますが(『トービン税』とも言う。1970年代にノーベル賞経済学者=ジェームス・トービンが国際為替取り引きに課税することを提案したのが最初であり、2005年の『ダボス会議』でフランスのシラク大統領が提案して注目された)、分りやすく言うと、国境を越えたマネーゲーム、例えば、国境を越えた為替の取り引きなどに広く薄く課税していくという考え方ですね。何故なら、地球全体に過熱をもたらしている一因に投機マネーがあるからです。エネルギー価格の高騰の背景にも投機マネーがあると盛んに言われていますけれど・・・・・・。
木村>  食料などもそうですね。
寺島>  食料もそうですね。そういう国境を越えた為替の取り引き。これが、年間300兆ドルとも400兆ドルとも言われているんですけれども、それに0. 05%くらいの薄い税をかけて、北極圏の問題だとか南極の問題、或いは、途上国の環境対策だとかに国際機関が直接徴税して地球全体の問題、途上国の貧困問題等も含めて解決していく財源にしようという考え方を「国際連帯税」というんです。
 今世界53カ国、特に中心となっているのがフランスとブラジルなんですけれど・・・・・・。この「リーディング・カントリーズ」が世界に「国際連帯税問題」をアピールしているのです。
 今、お金の移動の問題を例にとりましたが、それ以外に国境を越えた人の移動、例えば、飛行機を使った人から広く薄く税をとったり、海運、航空燃料へも課税して、国境を越えた問題解決のための財源にしようという全く新しい発想が話題になっているんです。   僕はね、「洞爺湖サミット」で日本がこれを持ち出せるかどうかは別にしても、少なくとも、国際社会で一歩前に出て、誰が責任をもつのかなんていう押しつけ合いではなく、地球全体の問題を地球全体の仕組みを考えることによって解決していく方向に向かうべきだと考えているのです。


「ICC=国際刑事裁判所」
寺島>  これは、是非日本人として注目しておくべきだと思うんですが、去年の10月に日本は105番目の加盟国として、「ICC=国際刑事裁判所」に参加しました。
 僕は、欧州とかよく動いていて、去年まで大変からかわれたのは、「日本は、国連中心主義だとか国際協調主義だとか言っているけれど、なんで、『国際刑事裁判所』に入らないんだ」ということなんですね。ところが「国際刑事裁判所」に入ったことによって大変面子が保てるようになったわけです。しかも、今、日本が「国際刑事裁判所」の財源を負担するトップの国になりました。GDPの規模からの割当でですね。
 これはどういうことかと言うと、「国際司法裁判所」というのが、オランダのハーグに今までもあったということを知っている人は多いのだけれど、国境を越えた組織犯罪、テロとか例えば、日本にとっては「拉致問題」などという国境を越えた組織犯罪というものに対して、各国ごとの刑事訴訟法で対応するのではなくて、国境を越えた刑事訴訟法的な仕組みをつくることによって処断していこうという人類社会の願望みたいなものですね。
 ここで僕が何を言いたいのかと言うと、まさに「国際刑事裁判所構想」も「国際連帯税構想」もそうなんですが、世界がいまどういう仕組みで環境問題(ENVIRONMENT=自然環境に限らず広義の意味に於ける環境)に立ち向かっていこうとしているかということですね。ここのところはよく知らないといけないなと僕は思っているわけです。
 発想を変えて、頭を柔らかくして「『グローバルな問題』を『グローバルに解決』していくための仕組みというものがないのかな」と考えて、そういう中で、現実に欧州を発信源として、「国際連帯税」みたいな全く新しい発想での挑戦が出て来ているということを日本人はしっかり認識しておかなければならないと思っています。
 例えば、今年のサミットは、昨年の夏にサブプライム問題が爆発して、マネーゲームが行き過ぎるとどういうことになるのかということを思い知った後の最初のサミットであるわけですよね。また環境問題ということに、より正面から取り組んでいこうということがアジェンダ(課題)になっているサミットでもあるわけですよね。
 その二つを結びつけて、現実にどうやってマネーゲームを制御して、しかも、地球全体で悩み込みはじめている環境問題というものにどうやって立ち向かうのかということを、多次元方程式を解くような柔らかい頭で考えていかなければならないタイミングだと思うのです。
木村>  はい。来月には「福田ビジョン」というサミット前の地球環境問題に対するビジョンも発表されると言われています。さて、寺島さん。私たちもじっとこの問題を見つめてみたいと思います。


「正義の経済学 ふたたび」
木村>  寺島さん、前回一回目の放送をしましたら、リスナーの皆さんから感想ですとか、意見が随分寄せられています。その中から一つ寺島さんに答えて頂きたいのですが・・・・・・。東京在住のヒロサワ タカシさん、男性の方からの質問ですね。
 「私は、寺島さんの本はだいたい読んでいるのですが、寺島さんの著書の中に『正義の経済学 ふたたび』というのがありますが、『ふたたび』というのは、それに先立つ本があるのではないかと思って探しましたが、ありませんでした。何故『ふたたび』と題につけたのか教えて下さい」。
 なるほどね、そういう疑問を持つのでしょうかね。
寺島>  これはね、1997年に僕がアメリカでの10年間の生活を終えて帰って来て、アメリカ経済に進行しつつある「マネーゲーム化」の傾向というか、そういうものに対する危機感を感じて、「経済って一体なんだろう?」ということをもう一回問い返してみたところから出て来たものなのですね。
 この「経済」という言葉は、「経世済民」という言葉から出て来た言葉なんです。
 つまり、「経済学」というものには、「どうやって世の中を治め、人民を救うか」という問題意識が背景にあるということです。マルクスを持ち出さなくとも、常に、世界の貧困だとか時代が抱えている不条理だとかいうものをどう解決したらいいのだろうかという強烈な問題意識を持った学問が「経済学」なんです。
 ところが、その経済学がいつの間にか迷い込んで、極端に言えば、金儲けの方法論とかひねりにひねった金融工学で、どうやって金を儲けるかという類の話にどんどんスライスして来て、そういう流れの中で、「経済学って、古い言葉だけれども『正義』ということを心に抱いていた学問でしたよね」っていうことを問い返すために、「正義の経済学 ふたたび」という題名に敢えてしたわけです。
 この本を2001年に出したんですけれど、その後の展開の中で僕は、まさに我々が目撃した「サブプライム問題」というものによって、悪知恵の資本主義がどこまで行き詰っているか、経済学が道に迷っているかということを見せつけられたと思っています。
 この10年くらい日本は、「新自由主義」ということで、アメリカ流の「競争主義」「市場主義」を取り入れていくことが、日本の経済に活力を与えるんだということで走って来たし、世界もさっきの話ではないですけれど、「グローバリズム」ということで、まさに「新自由主義」の流れの中を走って来たと思うのですが、いま世界中を見渡してみると、甚だ皮肉なことに、「新国家資本主義」と言いますか・・・・・・、要するに、国家がコントロールした経済、そういう経済の方が成功しているということがあります。そういう流れの中で、自由とか民主主義という概念はものすごく大事だけれど、規律のない「競争主義」「市場主義」だけを発していっていいのかという問題に出くわしているわけです。まさにそういう問題意識を込めて書いたのが、「正義の経済学 ふたたび」という本だったのです。
木村>  つまり、もう一度経済学、或いは、世界のあり方を考え直してみよう。かつてあった「経済学」のあり方を思い出してみようという呼びかけとして「ふたたび」ということですね。
寺島>  ええ、なんのための「経済学」なのかという時のね。