2010年2月6・7日 「小沢VS検察」の真相を探る

<座・対談〜ゲストに郷原信郎さんお迎えして「検察問題」>

暁 >  「座・対談」のコーナーです。今回は郷原信郎さんをゲストにお迎えしました。

高野>  郷原さんは元検事で現在は弁護士をしておられますが、その中でも企業のコンプライアンス、訳すと企業の法的責任でしょうか?

郷原>  私の場合は社会的要請に適用することです。

高野>  郷原さんはそのような問題をたくさんのところでアドバイスをしてコンサルティグをする御立場ですが、昨年春の小沢さんの西松建設事件以来、なかなか言う人がいない検察批判をされて、「検察のやり方はおかしい」と一人で論陣を張っていらっしゃいました。
郷原さんにはテレビ朝日の「サンデープロジェクト」に度々登場して頂いていますが、他のマスコミは危険人物視をして、記者が「郷原さんのところへ取材に行ったら検察庁の出入りが差し止めになる」と言われたりしていますが、私は郷原さんに大変学ぶところが多くて、私と意見を同じ部分も多いのです。そして、「The JOURNAL」においても、ご登場して頂いたりもしました。
今回の放送は1月28日の収録のためにタイミングがなかなか難しくて、来週に入ると逮捕された3人の起訴がどのような形、内容になるのか、或いは、小沢さんまで波及するのか、しないのかというところを迎えています。

暁 >  毎日、いろいろと進んでいきますからね。

高野>  新聞によると進んでいるということですが、本当に中身が進んでいるのかどうかはわかりません。検察側が毎日あることないことをリークして盛り上げようとしているのです。

暁 >  検察側がですか?

郷原>  必ずしもそうではないと思います。というのは、リークという問題に関して言うと、一番典型的な形のリークは検察側が意図的に特定のマスコミに情報を出して、それを報道させるというものです。このようなそれぞれ独立の当事者によるものではなくて、検察側とそれを取材するマスコミ側が一心同体のような関係が実態だと思います。
したがって、マスコミ側からすると、「リークで書いているのだろう」と言われると、非常に心外だということです。リークされているつもりはないのです。むしろ、一心同体で彼らも彼らなりに色々と調べていて、それが検察側の意向に沿ったものだという結果でこれはかわりがないとしても、「リークをされている」という認識はあまりないのかもしれません。

高野>  それは、例えばサンデープロジェクトに毎日新聞の岸井成格さんが出演されてそのことを聞かれた時に、新聞のほうはいろいろ調べていて、それを検事にぶつけた時にニヤリとしたとか、「顔色」をみて判断をして踏み切って書くというような主旨のことをおっしゃっていました。
 結局、両方とも後に引けなくなってしまったということです。検察も後に引けなくて、マスコミもこれだけあおってきてしまって、例えば、小沢さんが立件されないということになると、新聞が恥をかくことになります。このような点が一心同体になっているのではないでしょうか。

郷原>  ここまでくるとそのような雰囲気かもしれないですね。

暁 >  国民は検察に対して不信感を抱くのではないでしょうか?

高野>  だんだんその行為が増えてきましたからね。

郷原>  ある意味においては、検察というものは何なのかということをあらためて考えてみるよい機会ではないかと思います。一般的に検察は殺人や強盗、窃盗等の刑事事件を警察からの犯人の送致を受けて、必要に応じて自分たちのところでも調べをして証拠を集めて証拠がそろったら起訴をします。このように刑事司法の判断権を独占しているのが検察なのです。その一番中核となっている一般の犯罪については、検察官は客観的に証拠があるか否かをみて、裁判にかけた時にそれをキチンと立証していくので、検察官自身が価値判断をする要素はあまりありません。

高野>  一般的な事件は基本的には警察が捜査をしているわけで、そこから検察に上がっていく形ですね。

郷原>  しかも、殺人の場合は犯人をみつけたら処罰するのは当り前のことで、それをやるなという人はいないわけです。ここのところ検察に関して色々と問題が出てきているのは、そのような伝統的な犯罪の問題ではなくて、例えば、ライブドア事件のような証券市場をめぐる違法行為の問題や医療過誤の問題、そして、今回のような政治をめぐる問題で、これは伝統的な犯罪とは違って、それらを本当に社会的にどのように評価するべきなのか、犯罪として処罰するに値するものなのかどうかという判断が必要になってきます。
 仮に、そのようなものが一応悪いのだとしても、そのような行為は色んなところに、色々な形によって違反行為が存在しているのです。政治の世界においても同じで、与野党ともに色々な問題があります。その中でどのような行為を刑事罰の対象として検察が取り上げるのかということが価値判断で、検察自身の判断が働くわけです。そのような検察の判断が正しいのかどうか、ということの検証が必要ということです。
 しかし、多くの人が一般刑事事件における検察を常に正義によって悪いものを懲らしめる存在と同じ存在を前提にして、政治の問題等を考えるのです。

高野>  特に、地検の特捜部が手掛ける事件はそのような一般ではない性格のものですね。

郷原>  社会の周辺部分と言いますか、少しアウトロー的な犯罪現象ではなくて、まさに社会の中心部で政治家や経済人等の行為を問題にすることが特捜部の役割です。
 そこは、世の中に対するしっかりとした理解が必要で、更に、検察の判断の適正性が求められるのですが、それを日本においては無条件に検察が組織として判断することが正しい、正義であると思い込んでしまっています。
 しかし、本当にそのように思い込んでいることが間違いないのかということをあらためて立ち止まって考えてみなければならないのです。検察は人間が集まってできた組織で、2千人、3千人いるわけですからその中で1つの事件を担当している検事たちがいて、上司がいて、更に上の上級長という検察のトップがいて、みんなで結論を出していくわけです。その中で、最初に考えていたことと違うようなことがわかってくることがあるかもしれません。見込み違いで大変な捜査のリソースを突っ込んで時間をかけて捜査してしまったとしたら、世の中にとんでもない影響を及ぼしてしまったら、「今さら後には引けないじゃないか」ということになります。その時に、組織というものはどのようにするのかというと、普通、多くの世の中の組織の場合は、そのプロセスの開示を求められます。つまり、結果に対しての説明です。しかし、検察という組織は元々検察の中だけで判断をしていて、説明もしなくてよい、証拠資料も出さなくてもよいということになっていますから、検察の中で「これ正しい」と言ってしまったらそこでおしまいなのです。

高野>  チェックが働く余地がないわけですね。

郷原>  本当にそのような検察の中の判断が常に正しいのか、正しくないことも起きてくるのではないか。それは多くの人たちが検察の中でどのように意思決定がされているのかは知らないので、せめて、ある程度外から「ちょっとこれはおかしいのではないか?」ということが推測できるのであれば、我々のようにある程度の期間検察の中で仕事をしてきた人間しか指摘できないのです。したがって、私は自分の検察での23年間の経験に基づいて、更に、出来る限り色々な材料に基づいて、客観的に見ていこうとしているわけです。
 しかし、多くの検察の勤務経験をもったOBの人たちの考え方はそうでもないようで、世の中の人以上に検察の正義を前提にしていて、常に正しいと思っています。
 先日の「サンデープロジェクト」においての、宗像紀夫さんと私とのやり取りがありました。宗像さんは同じ検察OBで、勿論、宗像さんのほうが遥かに検察の組織の中で上の方までいった人ですが、同じ検察OBでもここまで考え方が違うのだというところがわかってもらいたかったのです。

高野>  私自身が最初に「検察は本当に正義か」ということについて考えたのは1976年のロッキード事件がきっかけで、これは初めに「防衛疑惑」ということで事件が始まりました。日本の海上自衛隊がP3―Cというロッキード社の対潜哨戒機を100機も購入するという決定が行なわれたのですが、その前提に佐藤内閣最後の防衛庁長官だった中曽根さんが兵器国産化の大方針というものを打ち出しました。つまり、「次期対潜哨戒機も国産でつくる」という方向を打ち出したということです。それをロッキード社がひっくり返すために中曽根さんが尊敬する児玉誉士夫という右翼の大物と秘密代理契約を結んで、結果的には輸入することになりました。このようなことが最初は事件本体のはずだったのです。
 しかし、マスコミは「防衛疑惑」、「P3-C疑惑」と書いていたものが、たちまちスーッと消えて、「トライスター疑惑」となって、全日空がトライスターという新しい旅客機をいれるにあたって田中角栄が口をきいたと。「そんなことがあるかいな」と、これは変だというところから、防衛に触れていくと日米関係の問題にもなってしまいます。中曽根さんはその当時は与党の大幹事長であるのでこれは大変なことになると思ったのです。トライスターのほうだけにして、それによって大物の田中角栄前首相を捕まえておさめようというようになったわけです。そのような事を我々は、例えば田原総一朗さんや私等がよく書いたのですが、「おまえらは検察がやっていることにケチをつけるのか」という批判を散々浴びました。

暁 >  それはマスコミがケチをつけるということですか?

高野>  色々な人たちがいました。名前を挙げると、例えば立花隆さんとは論争になりました。当時、彼は、検察は正しいと言っていました。それに対して我々は「田中角栄は悪いことをして5億円をもらっているかもしれないけれども裁くのならば正しく裁かないとおかしい」と言いました。そうすると、彼は「一罰百戒ということがあるのだから、検察は色々な法律的テクニックを使って倒してしまえばそれでよいのだ」と言ったのです。このようなことが当時、朝日ジャーナルという雑誌の中で私や田原さん等の間で論争が繰り広げられていました。
その時に、私が一番腹が立ったことは、当時の社会党総評が、提灯に「検察がんばれ」と書いてデモをやったことです。これがいわゆる世論というものだったのです。

郷原>  そのように検察の正義は絶対だという世の中の確信をつくり上げる一番大きな原因になったことは造船疑獄の事件で、これは造船業界や海運業界に政府が助成をすることについて業界から当時の自由党に多額のお金が流れたということを特捜検察が、疑獄事件として沢山の政治家たちを逮捕して捜査を進めていました。その捜査の手が自由党の幹事長の佐藤栄作に伸びようとした時に、当時の犬養法務大臣が指揮権を発動して捜査をストップさせたのです。それが世論やマスコミの大反発を買って犬養法務大臣は辞任、吉田内閣も崩壊しました。
 この事件のことを多くの人たちは検察の正義が不当な政治的圧力によって行く手を阻まれたと理解しています。「このようなことは世の中にあってはならない、正義が負けるなどということはあってはならない」。したがって、指揮権は絶対に行使させてはならなくて、封印しておかなければならないということになったのです。
 しかし、その指揮権発動の内幕が歴史の中でだんだん明らかになってきました。そのことを一番詳しく書いたものは共同通信の記者であった渡邉文幸さんの本で、その中で「この指揮権発動は既に検察捜査が暴走で、行き詰っていた。どうにもならない状態でこのままだと検察の面目が立たなくなって特捜検察が崩壊してしまう。それでなんとか検察の面子を保つために総理大臣側に働きかけて、法務大臣に指揮権を行使させた」という内容です。この説は検察内部では定説となっていて、間違いないのです。それくらい滅茶苦茶で暴走だったわけです。

<後半>

郷原>  普通であったならば、特捜検察が崩壊してもおかしくないような状態であったのに、全く逆になりました。

高野>  悪いのは政治だと。

郷原>  これによって特捜検察の行く手は二度と政治は阻んではならないと。「とにかく、政治は神妙にしていろ。特捜検察にやりたいだけやらせろ」というような世論をつくり上げたのです。

高野>  「指揮権発動」ですが、御存知のない方のために御説明すると、検察庁法の14条に規定されていて、検察の捜査に対して法務大臣が検事総長を指揮できるということです。

郷原>  一般的には検察庁も行政ですので、法務省の中にある一組織で、そのトップは法務大臣となります。法務大臣が検察庁の職員に対しても色々な指揮監督をすることができるということは、普通であれば当り前のことです。
 やはり、検察は起訴する権限等をできるだけ独立して行使をしたほうがよいということによって、検察庁法は個別的な事件については法務大臣が検事総長のみを指揮することができることになったのです。要するに、重大な事件の場合には、そのようにして「これは非常に影響が大きいからやめておきなさい」と言えるけれども、日常的な事件においてはこまごまと干渉をしないで自由にやらせておくということです。
 したがって、社会的、経済的、政治的に重大な事件に関しては原則に戻って法務大臣がある程度責任を持たなくてはならないのです。法務省の組織もキチンとそのような面で、法務大臣が必要に応じて適切に指揮権を行使することをバックアップしてあげなければなりません。過去の例に照らして、法解釈に問題はないのか、今回の捜査が本当に間違いないのか、処分に間違いはないのか確認する必要があると思います。
 しかし、法務省の組織は検事で占められています。検事が要所、要所を全て占めています。そのために、検察と法務省は基本的には一体で、法務大臣だけが浮き上がっている状態なのです。
 したがって、指揮権発動が法務省対検察の問題にならないで、法務・検察対法務大臣の問題になっていて、政治の問題になってしまっているのです。それが非常に不幸なことで、それによって検察の権限がとにかく検察内部で独立したものになっていて、正義はすべて検察組織が担っているということになってしまっているということです。

高野>  それは、そもそもから言うと、戦前は現在の特捜部そのままという形はなくて、検事局が全体として巨大な権限を持っていて、ある意味においては軍部と並ぶような非常に強権的なことを行ないました。戦後になって、GHQはそのような検察の機能をなくして、冒頭に郷原さんがおっしゃったような検事検察、つまり裁判との繋ぎ役のようなものに限定したことに対して、検察側が強力にGHQに働きかけて「アメリカにもFBIというものがあるでしょう」ということで地検をつくりました。
 しかし、つくったのだけれども、それに対する戦前の検察権力のようなものが蘇っては困るという懸念があるために指揮権の発動の項目ができたのだと思います。

郷原>  ある意味において、それは当り前のことなのです。行政の長が最終的にそのような指揮権を持っているということはそれが制約されているだけのことなのです。つまり、日常的に重大な事件に関しては検察庁から法務大臣に報告があがるのです。そして、更に、本当に重要な判断をする時には「請訓(せいくん)」というものがあって、事前に報告しなければなりません。今回の石川議員の逮捕についても、法務大臣は事前に報告を受けているはずです。

高野>  逮捕の8時間前に受けていると聞いています。

郷原>  それでよく分からないうちにOKと言ってしまったのです。

暁 >  そこで、「ちょっと待ってください」と言えば、もう少し吟味できたのでしょうね。

郷原>  本当にこのような事実によって通常国会の3日前に現職の国会議員を逮捕してもよいのかということをキチンと言うべきだったと思います。

暁 >  国会は物凄く重要ですから、なにか法律があるのだと思いました。

郷原>  重要です。昨年の8月末に総選挙が行なわれて政権交代となり、10万人以上の有権者の支持を受けて当選してきた石川議員です。十勝、帯広の有権者の人たちの期待を背負って、通常国会において石川議員が代表して出席することによって果たされるべきであったのです。

高野>  それを奪った訳ですからね。

郷原>  そのような理由があるのかどうか、逮捕事実がどのような事実なのか、どのような根拠で、何故逮捕しなければならなったのかということころをキチンとすべきです。そして、逮捕された事実に関しては全く国会議員を逮捕する事実ではなかったのです。それは、2004年の政治資金収支報告書の収入総額が4億円少なかった、支出のほうも少なかったという事実でした。
 普通は家計簿等においても購入したものを個々に欄に記入していき、一番下に合計の欄があって、最近ではexcelという便利なソフトがありますから自動的に合計額が表示されます。収入総額とはそのようなもので、個々の収入を全部積み上げていったものになります。その収入総額が4億円少なかったといっても、何を、どのような悪いことをしたのかさっぱりわかりません。

高野>  本日はありがとうございました。この問題はずっと議論していかなければならないと思いますのでまた宜しくお願いいたします。