090201「佐高信特集」要旨

2009年2月1日OA分 佐高信

湯野>   今朝はどのようなお話をお聞かせ頂けますでしょうか?

佐高>   年越し派遣村が話題になりましたが、「日本の貧困と格差」の話をさせて頂きたいと思います。
 
<飢える自由>

湯野>   年末から今年にかけて今もまだ雇用、貧困、格差等が大きな問題となっていますね。

佐高>   「派遣切り」と最近はよく言いますが、「派遣切り」は経営者側から見た言葉です。放り出されるほうから見れば「派遣切られ」なのです。
 派遣はそもそも、ある特殊な専門分野の人にそのような形態での労働をさせるという事で始まったものですが、製造業にまでそれを及ぼしてしまい経営者にとっては非常にやり易い形になってしまったのです。普通、人件費というものは固定費として考えます。これだけは確保しておかなければなりません。しかし、流動費になって行くわけです。つまり、苦しい時には切られる。そして、忙しい時には増やせるというように自由自在に経営者にとってだけ凄く都合の良い方法を小泉、竹中の「規制緩和」という話の中で製造業にまで派遣を認める事を通してしまったのです。派遣は「いつ切られるか分からない」という非常に不安な状況に働く人間を追い込むわけです。
 例えば、秋葉原の無差別殺人事件がありました。あの時に、「派遣はそもそも、あまり働きたくない人間がフラフラやっているのだろう」というような発言を総務省の中の政務官がしました。しかし、それは違います。派遣というものを望んではいなくて正社員として雇ってもらいたいけれども、経営者側の都合で派遣にするのです。派遣にされた人たちは常にいつ切られるか分からないという物凄く不安な状況の中で日々働いているという事です。
秋葉原の事件はとんでもない事件ですが、犯人の加藤という人も、正社員、或いは、派遣と正社員の間にある期間工になりたいと言っていました。そして、この事件の新聞の取材で「派遣が切られるという話があったが、実はそうではなかった」と出ていました。しかし、派遣というものはいつ切られるか分からないという不安な状態なのです。したがって、それは嘘だったとしても次にまた来るわけです。そういうものを日本の社会として広げてしまった。つまり、経営者にとっての自由を物凄く拡大した分が働く人間にとっては非常に不自由な、「飢える自由」「餓死する自由」「貧乏になる自由」とういうものだけが増えていくのです。これを小泉と竹中は生み出してしまったのです。

湯野>   飢える自由ですか・・・・・・。

佐高>   そうです。飢える自由はあるのです。しかし、働く自由はないのです。

湯野>   働いているけれども飢えてしまうという事ですか。

佐高>   働いているけれども、それが続かないわけです。経営者にとっては首を切る自由が常にあります。つまり、経営者の自由を規制緩和の名のもとで拡大してしまい、このような不安定な状況をつくってしまったという事です。したがって、小泉、竹中、特に小泉さんに「何かやってくれるのではないだろうか?」と言ってしまった人たち・・・・・・、ある種、若い人たちに多かったのだと思います。自分で自分の首を絞めたという事です。

湯野>   先ほどのお話にもありましたように、小泉政権の下で製造業への派遣労働者の派遣が法律改正で解禁になったわけですが、いまはその政策は間違いだったのではないのかという声も出始めています。佐高さんは、どのようにこの派遣切りの問題を解決していけばよいとお考えですか?

佐高>   やはり、製造業には認めるべきではなかったと思います。あくまでも特殊な専門的な分野だけに認めるべきです。簡単に言えば、経済は誰も物を買わなければストップします。それぞれが「物を買う力」=「購買力」、個人消費が大きくならなければ経済は回って行きません。しかし、派遣のように年収200万未満の派遣の人たちがどんどん増えると、そのような人たちは物を自由に買う力がないのです。そうすると、個人の購買力が大きくならなくて経済は活性化しなくなります。竹中が特に会社の自由、経営者の自由を拡大したけれども一番根本の「購買力」、つまり、いろはの「い」を忘れた改革だったのです。それが、日本社会を物凄く荒れ果てさせたという事だと思います。

湯野>   いまの佐高さんのお話を伺っていると、失礼な言い方かもしれませんが、それほど難しい事をおっしゃっているわけではないと思いました。凄くシンプルで経済を知らない私たちにも分かるようなお話でした。一方で、製造業では派遣労働者を解禁した結果、企業が発展して儲かったという面もあり、これは成長で間違ってはいないのではないかという意見もありますが、この辺りはいかがでしょうか?

<経営者とは>

佐高>   つまり、「会社が儲かる事」と「働く者が潤う事」が全くズレて来たのです。例えば、自動車会社の派遣切りが大きな問題となっていますが、その自動車会社は内部留保があって、まだ余裕がたくさんあるのです。ついこの間まで物凄く儲かってしようがないと言われていました。その内部留保を抱えたままで派遣切りをやるわけです。そうすると、「何のために内部留保をとっておくのか?」「このような時のためにとっておくのではないのか?」という話になります。一方では、株主に対する配当が増えているのです。そして、経営者が受け取る報酬も減っていません。それでは一体、どこへ厚くなっているのか・・・・・・。働く者に対して割り当てる分を会社をリードするものと言うか、株主として会社に関わっているものにだけ厚くしてしまっているのです。それが物凄くはっきりしています。私は経済記者を長くやっていますが、以前は首切りをする場合には社長は自分の首も切るのが当然だったのです。しかし、いまは自分の首は切らないで派遣切りや正社員の首を切る事が優秀な経営者であるというように評価が安易になって来たのです。私はその転換点が日産のカルロス・ゴーンだったと思います。彼を物凄く持ち上げていましたが、本当は持ち上げてはならない人だったのです。経営者にとって、首切りは最低な事で以前は恥とされていました。「雇用を守ってなんぼ」という話なのです。首を切ったら利益が上がるというのは簡単な話です。

湯野>   首を切ればそれだけ人件費が減るからですね。

佐高>   「首切りはやってはいけない」という話だったのが、「首切り」=リストラによって、ゴーンのような経営者がメディアに持て囃されました。これはメディアの方もおかしいのです。したがって、その辺が経営者に対する評価が変わって来たという事と逆に経営者天国、株主天国になっているわけです。

湯野>   個人の経営者が自由に出来ると言いますか・・・・・・。

佐高>   それは、先ほど申し上げたように個人の購買力を痩せさせたわけですから今度は自分の首を絞め、物が売れないというようになって行くわけです。
 そして、竹中などは「会社がなんとかすればなんとかなる」という物凄く安易な考え方なのです。

湯野>   「会社が潤えば働く者も潤う」という考え方ですね。

佐高>   しかし、それはそうではないのです。つまり、一番基礎の「個人の購買力」が大きくならなければダメなのだという事です。
 例えば、作家の城山三郎さんや内橋克人さん、そして私などは個人の購買力が一番大事だと思っていますが、それに対して長谷川慶太郎や堺屋太一や竹中平蔵などは「会社がなんとかすればなんとかなる」という非常にバブル的な考え方で、そのような考え方は王道では全くなかったのですが、メディアがカルロス・ゴーンや竹中を持ち上げてしまったからこんな変な事になってしまったのです。
 私は小泉とは同じ大学で同じ年に卒業をしました。彼が首相になる前には何度か食事もしましたが、「小泉単純一郎」と言われるくらい、ほとんど何も考えていない人です。彼は竹中に丸投げをしたわけです。そして、竹中という人は大学の先生であったため、机上の空論のようなもので現実を何も分かっていなかったのです。私は竹中平蔵の「竹中教授のみんなの経済学」という本を読んで吹き出してしまいました。その本には「総会屋をなくせば問題は解決する」という内容が書かれていたのです。しかし、何故、総会屋がいるのかと言うと、会社が変な事、つまり、粉飾決算や派閥抗争等をやっているから総会屋がいるわけです。それをやめれば総会屋に金を渡さなくてもよいのです。したがって、問題は総会屋よりも会社側にあるのです。しかし、竹中は「総会屋が問題だ」と言うのです。総会屋をなくしても会社が同じ事をやっていると第二、第三の総会屋が出てきます。
 総会屋を蝿に例えてみると、蝿は汚いところがあると出て来るから、「蝿の発生源」=「会社」を綺麗にする事が必要なのです。つまり、問題は会社にあるわけです。しかし、竹中は現実を知らないために総会屋は悪い奴だと思ってしまうのです。したがって、竹中は本当に何も知らないで経済政策をいじくっていたのだと思います。

<小泉・竹中時代は政治不在だった>

湯野>   佐高さんは以前から批判、提言と言いますか・・・・・・、アドバイスをなさって来ていたわけですが、結果としてはいま、派遣切りも含めて色々と雇用が社会問題化している状況になってしまっています。佐高さんが対策を一つ打つとしたらならば雇用問題についてどのように対処されますか?

佐高>   まず、第一歩としては製造業には派遣を認めない。つまり、派遣業法を根本的に改める事です。そして経営者には、首切りは最後の最低の手段であるという事を世論と共に巻き起こし、訴える事です。政治はそのためにあるわけです。
 経済は競争がエネルギーになっています。競争の結果は勝者と敗者、強者と弱者が出てきます。その格差を少なくする事が政治なのです。小泉と竹中は経済の格差と競争を更に推し進めるという政策を行なったわけですから、彼らの時代には「政治はなかった」=「政治不在」という事です。フィーバーの中で政治があったように錯覚されたけれどもあれは「不在」だったのです。格差は経済の競争を命としている限りでは生じるけれども、それをなだらかにしてせめて格差をなくす方向へ持って行く事が政治なのです。しかし、それを推し進めたために、あの時代に政治はなかったわけです。

湯野>   政治が本来、成すべき事を出来ていなかったのですね。

佐高>   年越し派遣村の人たちに対して、少なくとも色々な批判をあびたとしても麻生首相は派遣村に行くべきだったでしょう。いまの貧困・・・・・・、貧困というものはまさに政治の貧困です。それを象徴したところに出掛けていくべきだったのです。

湯野>   野党は行きましたね。

佐高>   はい。政治家たるものは与野党を超えて行くべきだと思います。私は派遣村に「政治の不在」が象徴的に出ていたと思います。

<雇用される側の心構え>

湯野>   最後になりますが・・・・・・・、今年は景気の状況も厳しいだろうと言われています。そのような中で、雇用される側の人たちはどのような心構えで行けばよいのでしょうか?

佐高>   ある意味で心構えだけで解決するレベルは超えていますが、一人一人の問題であると同時に、一人一人の問題ではありません。派遣村の話においては、寄り集まって訴える、そして、いま働いている人間、これから働こうとしている人間も含めて、労働組合を自分たちがしっかりとものにするという事です。
 それから、政治の力、政治に訴える事が必要です。私は派遣の問題で雨宮処凛さんと一緒に色々な活動をしていますが、仲間と集う事の必要性とか考え方とかが重要です。そして自己責任だと思わない事です。社会の責任もあるのです。つまり、社会の責任を自己責任だと思わされるわけです。まさに政治の貧困でそれを誤魔化すために自己責任だと言うのです。そして、総務政務官が「本当に働く気持ちはあるのか?」というような発言もありました。彼らの考えている事は、自分たちの責任を「自己責任」という言葉でカムフラージュをしているのです。したがって、自己責任だと言われたならば、「お前たちの責任は果たしているのか?」と逆に突き付けて行くのです。
 そして、自分と考えがそぐわないとしても手をつないで何かを訴えて行く事です。いまは一人一人の訴えだけでは既に解決出来なくなっている状況です。いまの若い人たちは引きこもりになってしまったりもしますが、それでは問題は解決しません。

湯野>   自分一人でなんとかしよう、逆になんとか一人で出来なければダメなのだという意識があるように思うのですが、そうではないという事ですね?

佐高>   いまの首相や前首相の安倍さんのように首相になってから勝手に放り出す人から自己責任とは言われたくありません。このような人たちが首相になっているのに自分だけが自己責任を感じる必要はないという事です。

湯野>   今朝は、小泉と竹中路線の批判も出ましたが、来週も引き続き色々な批判も交えてお話を伺いたいと思います。来週はどのようなテーマでお話いただけますか?

佐高>   「日本の後ろにはアメリカがある」とよく言われますが、アメリカとの絡み、そして、竹中もよく言っている「新自由主義」とは何なのか? その破綻があらわになっている現状についてもお話をしてみたいと思います。