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鮫島有美子(ソプラノ歌手)

 
ソプラノ歌手というと西欧のオペラや歌曲を歌う人というイメージが強いが、鮫島有美子は、デビュー当時から日本の歌を積極的に歌ってきた。
初めてレコードに吹き込んでから、今年で20年。そんな彼女が今回挑戦したのは、作詞家で訳詞家の岩谷時子の世界だった。

日本語の持つ美しさ 〜 岩谷時子との出会い
八塩 「(ポピュラーな)みんなが知っている曲というだけに、歌うことの難しさってあったりしますか?」
鮫島 「1番最初(デビュー盤)に入れた曲も、「この道」とか「赤とんぼ」とか、皆さんが知っている曲で難しかったんですが、今回のようなポピュラー音楽なんかは、その曲をお歌いになっている方のオリジナルのイメージがものすごく強いと思うんですよ。ですので、なるべくそういうイメージの少ないものを(選曲として)選んだんですよ」
八塩 「鮫島さんらしさっていうのはどんなところで出すことが出来ましたか?」
鮫島 「私、とても日本語の詞っていうものが好きなんですが、ポピュラーの方がお歌いになるのとわれわれクラシック畑の歌い手が歌うのと、ちょっと違うのかも知れませんけれども、歌う心は一緒だと思うんですよね」
八塩 「オペラとは違って、ポピュラー音楽を歌う時は、やはり声を抑える感じなんでしょうか?」
鮫島 「声の分量は抑えるんですね。ただその分発音なんかは、自然にこのままお話をしているように歌えるのではないかと思います」
八塩 「本当に鮫島さんって、日本語を美しく話されるんですね」
鮫島 「いやーそうですか(笑)。なんか“日本語の化石”なんて言われますけど(笑)」
八塩 「それは小さい頃から身に付いていたんでしょうか?」
鮫島 「多分歌うことで、日本語じゃなくても、他の言葉でも歌うことが多かったので。歌を練習する時は子音をどういう風に発音しなさいとか、母音をこうしなさいとかいうことを、発声練習の時に言われたんですよね」
八塩 「日本語の歌を歌う時の方が、言葉が分かるということもあって、感情移入をしやすいこともあるんでしょうか?」
鮫島 「でも日本語って、イタリア語等と比べますと、感情を発散するっていうのは余りありませんよね。演歌の方等はあるのかと思いますけれど。外国語ですと、例えば『好き!』とか『悲しい』とか、オペラ等では、大きな声で叫んでいますよね。で日本の歌では情景を歌ったもの、または情感を歌っても、なにか行間に詰まっている思いを自分の中で大事にするような歌が多いので。気持ちとしてはすごくついて行き易いんですけれども、歌う時にはそんな発散するっていうことは余りないような気がするんですが」
八塩 「あいまいなところを表現するみたいなところがあるんでしょうかね。そして今回、作詞家・訳詞家でもある岩谷時子さんと、アルバムを作る上でお会いになったそうですが、どんな印象でしたか?」
鮫島 「どんな方だろうって、お名前だけで存じ上げていたので、興味津々という言い方は可笑しいんですけれども、お会いするのを楽しみにしておりました。とてもお元気で、その感覚がとてもつややかで、若々しくって、瑞々しくって、たおやかでびっくりしました」
八塩 「岩谷さんの詞も、こういう方だから書くんだなっていう印象ですか?」
鮫島 「見かけだけですととっても細くって、素敵なお婆ちゃまって感じなんですけど、話を伺うと『だからこんな感覚をお持ちなんだな』というのが、よく分かりました」
八塩 「岩谷さんの詞の特徴というのはどういう風に捉えていらっしゃいますか?」
鮫島 「ある意味では、とても平易な優しい言葉をお使いになりながら、それでも歌っても美しい、そして情景を描けるような詞だと思うんですね。そして口語でもなく、かといって昔の古語や文語でもなく、丁度何か身近な感じがして、歌う方にも聴いて下さる方にも、しっくりくるところが沢山あると思うんですね」
八塩 「アルバム『アマリア』を作るにあたって、岩谷さんからなにか忠告みたいなものはあったのでしょうか?」
鮫島 「例えば加山雄三さんの曲なんかでも、岩谷先生が詞をおつけになる前に、(加山さんから)曲のメロディが送られてくるんだそうですが,そんな時に作曲の方から『だいたいこんな感じ』という指示がある場合もあるんですが、だいたいは先生が、頭の中で情景を思い浮かべられるんだそうです。そこで言葉を探して組み立てて、もう産みの苦しみでなさるらしいんですね。ですから私が歌う場合には、岩谷先生が描かれた絵を、今度は私の言葉とメロディで再現しようと思って、歌っていたんですけど」
   
日本の歌を歌うことについて
八塩 「もう日本の歌を歌われて、20年とおっしゃっていましたが、日本の歌を歌われようと思ったのには何かきっかけがあったんでしょうか?」
鮫島 「(その時)ドイツの劇場の方で、歌を歌っていたんですけれども、レコード会社の方から突然手紙が舞い込んで『企画があるんで、どうでしょうか』ということで、始まってしまったんですね」
八塩 「実際やってみてどうでした?途中で辞めたくなったりしませんでしたか(笑)」
鮫島 「もう無我夢中で。レコーディングするということ自体初めてでしたし。こんなに大変なものかとやっておりまして。ですから、アルバムをどこかで耳にする度に、もう胸が詰まる感じでしたね(笑)」
八塩 「でもそれ以来、ライフワークのように、コンサートでも日本の歌をお歌いになっていらっしゃいますよね」
鮫島 「長くなってしまいましたね(笑)。でもお客さまが親しまれた曲が多かったので、コンサートでも聴きたいというご要望がすごくありまして、こんなにも日本の歌を、ステージで歌うようになるとは思ってもみませんでした」
八塩 「客席で泣いている方もいらっしゃると聞いたんですけれども」
鮫島 「(来ている方の)ご自分の思いが、きっとそこに係わってくるんだと思うんですね。ご自分で口ずさんで歌える曲がほとんどですので。でもそんな声を聞かせていただくと、歌い手冥利だなという気がしますね」
八塩 「歌っていて、鮫島さんがほろっとしてしまう時もありますか?」
鮫島 「時々コントロールしないと、自分で胸が一杯になるということがあるんですけれど。私たち自分たちが泣いてしまうと、声が出なくなってしまうじゃないかということで、最後の瞬間までがんばります(笑)」
八塩 「今年でデビュー20年ということですが、振り返ってみていかがでしょうか?」
鮫島 「レコードが出てから20年。日本の歌を歌い始めてから20年という感じだと思うんですが。最初は難しいとか好きとかということとはかけ離れて、とにかく一生懸命歌ってしまったっていうナイーヴさがあったと思うんです。それが1つの良さだったと思うんですけれども。年を重ねるごとに、色々なことを考えるようになったり、どんな曲なら自分は歌えるのかなとか、こんな曲なら合うかなとか、これは無理だなということが分かるようになりました。試行錯誤ですね(笑)。ただ1番は、日本の歌を歌うことによって、お客さまとの距離が縮まったと思うんですね」
   
ウィーンの生活から見えてくるもの
八塩 「現在は日本とウィーンを行き来しながら活動されているということですが、ウィーンってどんな街なんでしょうか?」
鮫島 「日本でいうと京都のような街ですね。ですからハプスブルグ時代頃からの建物などが残っていて。ウィーンの人たちって自分の街とか歴史とかにすごく誇りを持っていて、よく知っているんですよね。それから石造りの街ですから、日本の家屋と違って壊れることが少ないですよね」
八塩 「街並が昔のままってことですよね」
鮫島 「街に塗装をかけようとすると、すごく時間がかかるんだそうです。街のトーンと同じ色でなくっちゃいけないとか」
八塩 「音楽でもウィーン国立歌劇場もあって。今小沢征爾さんがご活躍されていますが。音楽の都なので、歴史そのもの文化そのものを体験できているという感じでしょうか?」
鮫島 「そうですね。何か日本にいると音楽って“音楽道”というか、堅苦しく真面目なものというイメージがしてしまうと思うんですけれど、ウィーンの人というか音楽の良さっていうのは、そこに遊びというか、心地の良いだらしなさがあるんですよ(笑)。そういうふくよかさみたいなものが感じられるんですよね」
八塩 「海外に長く住まれていて、海外にいるからこそ見えてくる日本の良さって何か感じますか?」
鮫島 「やはり自然と。日本って食べ物が美味しい国ですよね(笑)。日本に来るといつも『本当に豊かな国なんだなあ』と思いますね」
八塩 「これからも残していきたい日本のものって何かございますか?」
鮫島 「最近若い方たちも、自分の国の持っている伝統文化とか、その特徴とかそういうものに目覚めてきたというか、大切さが見直されてきたかなっていう気がするんですね。私が音楽大学にいた頃は、邦楽っていうのは名前は知っていましたけれど、触れたこともないようなもので。ある意味では片寄った音楽教育だったような気もするんですが。ヨーロッパに出てから、現地の方に(日本のことについて)聞かれたりするんですよね。そうしますと、自分で初めて意識して色々なことを発見していきたいなと思ったり、考えたりするようになって。その中で、若い方たちが古い文化を見つめ直すということはとても素敵なことなので、続いていったらいいなと思いますね」

美しい言葉を前にすると、自分の使っている言葉がいかに粗野なものか、ということに気づかされる。「とてもつややかで、若々しくって、瑞々しくって、たおやかで…」。彼女が、岩谷時子を評した言葉は、そのまま彼女に当てはめることができる。
現在は日本とウィーンを行き来しながら音楽活動を続けているという鮫島。海外暮らしから見えてきたものは「豊かな国・日本」の姿だという。その豊穣な国はまた、抒情的な歌を産出する土壌でもあるのだ。鮫島の美しい日本語がホールにこだまする時、人々は心を動かされる。
そして時に、その歌声が涙を誘うのである。
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<鮫島有美子>
東京芸術大学大学院を卒業後、75年ニ期会オペラ『オテロ』のデズデモナ役でデビュー。その後76年にベルリン芸術大学に留学。
85年に『日本のうた』でレコード・デビュー。その日本語の美しさ、発音の自然さが絶賛され、一躍スター歌手の地位を獲得。90年に日本ゴールデンディスク賞、91年度大阪ザ・シンフォニーホール・クリスタル賞受賞。
 
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