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ピーコ(ファッション評論家)

 
現在もベストセラーになっているという著書『片目を失って見えてきたもの』。ファッション評論家ピーコが、失った代償として、めぐり合ったものとは何だったのだろう……。

歌うということ
八塩 「(ピーコさんのCD)『恋は一日のように』聴かせていただきました。それぞれ丁寧に歌っていらっしゃってて、本当に切ない感じですよね」
ピーコ 「なんかアルバム作る時って、だいたい楽しい曲だとか、テンポの早い曲だとか、バラードとか分けたりするでしょ。でもそういうことをしないで、全部みんなの気持ちが落ち込んじゃうほど悲しい歌だけを集めて作ったんです。スタンダード・ジャズにはビリー・ホリディやカーメン・マクレエといった歌手のトーチ・ソング(恋を失ってしまった歌)があるんですが、そういうのをシャンソンで作れたら良いねって作ったアルバムなんです」
八塩 「10年くらいコンサートでは歌われてきて、ここで初めてCDを出されたのは、正に満を持してという感じですか」
ピーコ 「そういうことじゃないの。ずーっと永六輔さんにつけていただいたのが、『シャンソンかす』っていうあだ名で。でアルバム出すと歌手になれるよって言われたんで(笑)」
八塩 「このアルバム聴いていて、普段のファッション・チェックなどされている堂々とした印象とは違って、とっても初々しい感じがしたんですけれども」
ピーコ 「同じように(堂々と)歌えば、美川憲一さんみたいになっちゃうのね(笑)」
八塩 「歌を習うきっかけは、なんだったんでしょうか?」
ピーコ 「きっかけは永六輔さんですけど。片目をガンで摘出しましたから、その時に永さんが『歌でもやったら』っておっしゃったので。初めはねジャズやりたかったんですよ。でも英語の発音とリズム感がなくて、友達からあまりの酷さに、『もうやめて』と言われて、それでリズム感がなくても歌えるシャンソン、って言っちゃいけないんですけど(笑)で始めたんです。でもやっぱりリズム感ないとダメなんですけれどもね」 
八塩 「シャンソンって音程の問題と、あと呟くように歌うじゃないですか」
ピーコ 「はじめジャズを歌いたいと思ったのも、シナトラとか見ていて、ミュージカルとかでもしゃべっているうちに歌にすーっと入っていくでしょ。で、そういうのやりたいと思ったんです。でもしゃべっているように歌うっていうのは、もとがちゃんとなっていないとダメなの。だからシャンソンの場合も楽譜通りに歌って、それが身に就いてからじゃないと上手く歌えないんですよ。で、それをやるとやっぱり10年かかっちゃうんですよね」
   
シャンソンにこめる思いとは
八塩 「(シャンソンを歌っていて)1番難しいのは、覚えたものを自然に崩して(歌って)いくっていうことですか?」
ピーコ 「いろんな人生が3〜5分の曲の中にある訳ね。で、その中に歌われているものをどう解釈して歌うかっていうのが難しいのよね。だからCD入れたときの気持ちと、今コンサートなんかでやっている時の(曲への思い入れの)気持ちも違うんですよね。シャンソンの詞って1歩間違えれば演歌みたいなところあるでしょ。そこに気をつけるっていうことと、あと今の人の歌って言葉が乱れているっていうか、リズムの方に言葉がいくので、どこか変なところで切ったりするでしょ。それがなるべくないように、言葉が素直に伝わるように気をつけてますね」
八塩 「歌には色々な思い入れがあるんでしょうか?」
ピーコ 「いや。私(歌詞の内容のような)こんな色々なことしてないもん(笑)」
八塩 「(シャンソンって)歌詞が重いじゃないですか。それは自分の体験だったりが反映しているんでしょうか?でもシャンソンにあるような(恋の)ストーリーを体験している人は少ないですよね?」
ピーコ 「具体的なことは書いてないですけれど。でもね、片思いの経験とかはあるじゃない?片思いは恋の中では1番良いと思ってるんですよ。私は好きになるんですけれど、好かれるのが嫌なのね。自分に自信があれば良いんですけど。まあ長い間汚いおかまの兄弟でしたから(笑)。それがトラウマになるわけで。だから向こう(相手)におしつけたりしないんですね。一緒にご飯を食べて欲しいとは思いますけど、一緒に住みたいとか、セックスしたいとは思わないんです。何かしてあげることが好きなのね」
八塩 「尽くすタイプですか?」
ピーコ 「自信のない人で歳が上だったら、で(私に)多少収入があったら、お金かけるしかないわね(笑)。私はあげ魔ね(笑)」
八塩 「いいですね(笑)」
ピーコ 「ごめんなさい。女の人に興味なくて(笑)。」
八塩 「なんかシャンソンから随分話が逸れてきてしまったみたいですが」
ピーコ 「シャンソンってこれで良いんですよ。だって愛の歌だから」
   
ファッションとのかかわりについて
八塩 「もともと小さい頃から、洋服やファッションには興味があったんですか?」
ピーコ 「私もおすぎも、横浜の西口に、戦争中に生まれまして。今と違って何もない頃で。われわれのところには男の子がいなかったんですね。それで母親があまりちゃんばらとか、めんことか好きじゃなかったんですね。母は花街でそだった板前さんの娘だったんで。そういう意味ではかけ事が嫌いで。なので家にいてFENのような外国語放送で、ビング・クロスビーとかを聴いて。あと貧乏だったので、姉の『少女倶楽部』とか『女学生の友』とかを読んで、イラストなんかをトレースしていたんですよ」
八塩 「それで漫画家になりたいとは思わなかったんですね」
ピーコ 「ん〜ん、ファッションだったんですよね。あと1953年っていうと、もう8歳くらいなんですけど、外国のミュージカルとかラヴ・ロマンス映画なんかを(親に)見せられて、グレース・ケリーやジューン・アリスンとか見ていたり、その50年代のファッションが素敵でね」
八塩 「で、ファッションを生業としようと思ったのは、いつごろからだったのですか?」
ピーコ 「姉がずっとお針子さんやってたんですよ。進駐軍の奥様たちの洋服を作っている先生に姉はついていたので。だから例えばローリング20の頃の服を作ったりする時は、ビーズを通したりするお手伝いをしていたんですよ。で、高校卒業して大学へ行こうと思っていたんですけど、父が大病を患って、それでおすぎと2人で大学行くのは辞めようということになって、就職しちゃったんですね。でも初めて就職したところは、高校の先生に紹介された自動車会社だったの。でも全然自動車には興味がなくって、部品の部署に回されちゃったので、どこがキャブレターなのか知らないまま(笑)仕事していて、嫌になっちゃって。
それでまた浪人して入ったのが、神田のアパレル・メーカーだったんです。で、そこで足掛け5年間営業やっていたんです。でもどうせ入ったのなら洋服の勉強をしようと思ったので、学校に入りなおしたんです」
八塩 「それが文化服装学院だったんですね」
ピーコ 「でもぜんぜん駄目でした。そのころアルバイトもしてましたから。月給2万7500円で会社辞めたんですよ。で、アルバイトで月に3万円もらっていたんですよ。だから他の人よりもお金がいっぱいあったので、学校の提出物は、他の人にご飯食べさせてやって、作らせたりしていたんです(笑)」
八塩 「あれ?勉強するために入ったんですよね(笑)」
ピーコ 「でもその代わりパターンを見て、このパターンで作ると、この絵の通りにはならないよということは覚えたのと、あと先生につきっきりで、6ケ月間仮縫いばかりしていたので、それで仮縫いを覚えて出来るようになったんですよね。で、初めての仕事は、レコード会社から宣伝用のベイ・シティ・ローラーズの服を8枚作ってくれと頼まれまして、で生地書いたりして作ったりしたんですよ」
八塩 「面白いですね。普通の服じゃなくて、ステージ衣装みたいなものを初めに作っていたんですね」
ピーコ 「おすぎが、映画の制作会社にいて制作やっていたので、足りないものがあると電話をかけてきて『すぐ作れる?』とか言われて、そういうの作っていたんですね」
八塩 「素敵ですね。何か夢のある仕事ですよね」
ピーコ 「いやー、花は綺麗だけど、(花屋の)仕事は大変っていうのと一緒よ(笑)。考えてみたら作る才能がなかったのよね。だから(今の)人の作ったものの悪口を言おうという職業に変えたのよね(笑)」
   
ピーコの恋愛観
八塩 「ところで、ピーコさんが思う日本文化の美しさ、忘れてはいけないものって何ですか?」
ピーコ 「私ね、お友達と旅をすると、路地を歩くの。夕方とか歩いていると、烏賊を煮てる匂いとかするんですよ。そういうところを『ああ。烏賊煮てるね』とか言いながら通るのって変ですけど、好きなんですよ。でもそういうところって大勢で行きたくないんですよ。2人とかで」
八塩 「しっぽりとですか?(笑)」
ピーコ 「しっぽりはないわね(笑)。好きな人とそういうところ行くと、(風景に)浸れないのよね。気をつかっちゃうから。どうでもいい人と,本当に友達と」
八塩 「なんかとてもうぶなんですね。可愛いですね」
ピーコ 「だめね恋愛は。私は男の人を好きじゃない人を好きになるから、そういうことを望めないのよね。ずーっと女のことを好きな人のことが好きになってしまうの」
八塩 「何か切ないですね。まさにシャンソンの精神じゃないですか?」
ピーコ 「何でも商売にしてると思わないで欲しいの(笑)。ただ一緒にいてね、邪魔にならないとか。だから年中電話をしたりはしないのね。できるだけ重くならないようにして、で、欲しいものはあげるっていうことにしてるの(笑)」
八塩 「引き続き、陰ながら応援させていただきますので」
ピーコ 「なんか草葉の陰から、みたいな言い方しないでちょうだいよ(笑)」

おすぎとピーコ。この奇妙な双子がお茶の間に登場してから、もう随分経つ。辛らつでありながら、とってもナイーヴな感性が、お茶の間の人気をさらった。そんな人柄が伝わる対談となった。
ピーコのシャンソン。決してうまいとは言えない。しかしそのひたむきさ、その真面目さ、歌に向かう心意気が、胸を打つ。
腐った日に、偶然立ち寄ったバーで、もしピーコのそんな歌声が流れていたら、ひょっとしたらひょっとして、グッときて、泣いちゃうかも。
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<ピーコ>
1945年横浜市生まれ。高校を卒業後、アパレル会社、文化服装学院を経て、衣装デザイナーとして芸能界へ。現在はファッション評論家やジャーナリスト、タレントとして活躍中。
89年、左目のがん摘出手術。その時の手記を綴った『片目を失って見えてきたもの』は、生きることの意味を見つめた1冊として、現在もベストセラーに。映画評論家・おすぎとは一卵性双生児の兄弟。
 
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