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VOLUME 02

トレード・マークの“黒ドクロ”は生きる証とペンを持って闘う戦士の象徴 松本零士(漫画家) 聞き手 八塩圭子(2004.4.30収録)

 
松本零士さんのトレード・マークといえば、黒ドクロ・マークの帽子。
黒ドクロは、松本さんの生きる証。そしてペンを持って闘う戦士の象徴を表わしている。
生まれたからには、人それぞれ生まれた理由があり、生き抜くための使命があるのだと言う。その人生観と松本哲学に迫ってみた…。

松本漫画の原点
八塩 「この独特の世界観というか宇宙観っていうのは、どこからきているんでしょうか?それをずっと伺いたかったんですが」
松本 「小さい時から星を観るのが好きで、ずーっと(宇宙に)行きたいと思ってたんですよ。で、この年になったら、火星か金星に行っている予定だったんですけどね(笑)。その夢と、自分の描きたかったスペース・ファンタジー、そのファンタジーと願望が入れ重なってこういう形になったんですね」
八塩 「科学者や学者になるという夢もあったかと思うんですが、でも漫画家を選ばれたというのは?」
松本 「夢を見るのが好きでしてね。童話やメルヘン、虫の世界、自然の世界…。虫がしゃべったり、山が語りかける話とかも描いたことがあったんですよ。もともと本当はパイロットになりたかったんですよ。自分の父親がパイロットだったもんですから、ところが近眼になってしまって、これになったらもうアウトです。その後は機械工学者にしろ物理学者にしろなりたいと思ったんですが、自分の成績では何ともならないなあと思って。パラパラ漫画とか描けるんですよ。で授業中やっていたら先生に捕まってしまいましてね、首根っこつかまれて立たされたんですよね。でも“おまえが漫画(映画)を作ったら、俺を招待しろよ”とそれだけで許してくれたんですよ。私漫画を描いても良いっていう環境にずーっといられましてね」
八塩 「環境のおかげですね」
松本 「そうですね。今もパラパラ漫画は幾らか残してあって、小学3、4年に描いた漫画以降のものは残ってますね」
八塩 「もともと器用だったんですか?」
松本 「いや?。これは出会いもありましてね。私は七人兄弟の真中ですから、上の兄弟が持っていた(本物の)パラパラ漫画を、ミッキーマウスのスケートの漫画、それから機関車が煙をはいて去っていく漫画を一緒に見てたんですよ。さらに姉がいましたから、科学小説から少女小説なんかを読ませてもらった記憶がありますね。それから字が読めるようになってからは、少女小説で泣いてしまったら男子たるもののしめしがつかないと思って、電球を引いて、布団の中で読んだりしましたね(笑)。それから戦争が終わって明石から四国へ疎開して、そこでは自然とさんざん戯れながら、そこでは横山隆一さん(の漫画)と出会い『フクちゃんの潜水艦』というのを見て、自分でも『潜水艦U13号』というものを最初に描いたんです。なんで13号かというと昭和13年生まれなんで」
八塩 「それはお幾つの時ですか?」
松本 「それが六歳ですね。それから亀の首を引っこ抜いたり、蛇を生殺しにしたり、蜂や蜻蛉の頭を引っこ抜いたりなんかしてましたが、その間も、小学校時代はずーっと漫画を描き続けたんですよね。それからお父さんが帰ってこなかった同級生の家がね、いかに悲惨なものか。私が本を返しに行ったら、昼間は陽気だった友人のお母さんが、仏壇の前で泣き崩れているのを見てね、黙って後ずさりして帰ってきたことがあります。そいういうのを見ながら、今度は終戦直後、四国から北九州小倉に移って、終戦直後の阿鼻叫喚する大混乱期の中で過ごして、そんな環境の中で、勝手に海に飛び込んで撃沈された輸送船まで泳いで、そこで魚を取ってきたりと。親が見たら気絶するようなことを小学生がやっているわけですよ」
八塩 「すべてが漫画家を作るための環境なんですね」
松本 「そうなんですよ、それから戦後の漫画ブームも直撃を浴びたんですよ。流通が北九州は非常にしっかりしていましたから、手塚治虫さんをはじめとする名だたる漫画家の本が揃っているんですね。それから進駐軍、朝鮮戦争にいたるまでの国連軍が持ってきたアメリカン・コミック。これの山とも遭遇したんです。これも今でも持っておりますが、『スーパーマン』『バットマン』といったアメリカン・コミックから、フランス、イタリアの漫画を、少年期に見ているんですよ。そこで描き方、(ストーリーの)運び方の違いを学んだんですよ。それから英語ができないくせに、意味が知りたいから一所懸命翻訳するでしょ、それが本に書き込んであるんですよね。その時(日本と海外)両方の漫画を見られたのはハッピーでしたね」
 
漫画への目覚め
松本 「私は5歳くらいで漫画とアニメーションの両方に目覚めたんですが、そっちの道に行ったのにははっきりとした理由があるんですよ。自立強迫観念にかられて道を急いだんですね。大学まで行きたかったのは事実ですが、家の極貧の状況を見ると親父からもはっきり言われたんですよ。“大学進学は諦めてくれ”と。私は“分かった、そのかわり弟たちは行かせてくれ。俺が行かせる”と大見得をきったんですね。ですから早く自立して生計を立てていかないと大変だと思ったんですよ。だから高校1年の『漫画少年』の入賞を機会に、毎日新聞の方で高校時分、連載をやりましたけれどもね、学用品から授業料一式、すべて自前ですんだんですよ。それは全部親に渡すんです。自分では使う気はないんでね。もし自分が大学に行って機械工学部に入っていたら、どんな漫画を描いただろうか?行かなかったからこういう漫画を描いているのか、それは分からないですよね。でも一つだけ理解していただきたいのは、行きたくても行けない青年男女がいるという厳しい現実があるんだということです。(私もそうだったので)行きたくても行けないということが、どれほど無念の思いか。その血が逆流するような思いは一生忘れられないですね」
 
生きるということ?未来に向けて
八塩 「昨年漫画家生活50年を迎えられたと言うことですが、50年で変わったこと、また変わらなかったことはありますでしょうか?」
松本 「変わらないことは…。この仕事は“これで良い”という終わりのない仕事なんですね。いつ路傍に屍をさらしてもしょうがないです。それは覚悟のうえでこの世界にはいったんですから。キャリアとは何のものの役にも立たないです。手だけが頼り、ペンだけが頼り。だから宮本武蔵が好きなのはそれだけでしか生きてゆくしかない、ということです。だから死亡(自殺)する若者にも言うんです。“墓はないぞ。それでも良いかと。それでも決めたんならやれ!”と。人生と言う名の戦いですよね」
八塩 「でもここまでいろんな作品を描いていらっしゃって、ファンも沢山いるのに、まだ充分じゃないと」
松本 「自分が描きたいものが強烈にあるわけです。でも出し惜しみをするわけではないんですが、それを描いてしまったら終わりになるような気がしてね。ずーっと押さえているんですよ。まず何のために自分が生まれて、何のためにこれを描くかという、自分自身の持っているテーマですね。小さい時から自分はこれが描きたかった、アニメーションにしたかったというテーマがあるんですよ。それにそろそろ挑戦する時期が来たかなと」
八塩 「それはいつ頃からスタートするんでしょうか?」
松本 「今実は、そのスタートの企画の段階までにきたんですが、スタートの時につまずくことが多いので、何度も何度も挫折していますから、でも志を捨てなければ必ずできると信じています」
八塩 「はい。それから漫画以外では、日本宇宙少年団(ヤング・アストロノウツ・クラブ)の理事長もされていますが、こちらではどう行った活動を?」
松本 「これは、宇宙に夢をかける子供たちの国際的な交流機構ですね。そこで子供達たちと一緒に未来への夢を語る。これはあくまで夢で良いんですね。でも私自身も飛びたいですしね。高校生までが入れるんですが、国際交流をしているとお互いの確執みたいなものはないですね。すぐ和気あいあいとなって活動していますよ。そういう輪が拡がっていけば、掴み合いはなくなるだろうと思うし、また漫画・アニメーションとも世界中確執のない世界だと思うし。この二つがうまく実現出来れば楽しい未来が来るんじゃないかなと思っていますね」
八塩 「どんな世界になってほしいと思われますか?」
松本 「私は、時間は必ず夢をかなえてくれると思います。したがって夢も決して時間を裏切ってはならないと。その二つが握手した時に、夢はかなうと思います。それからもう一つは、人は生きるために生まれてきたんだ、人は死ぬために生まれてきたのではないと。そしてその後があるんです。誰が死にたくて生まれてくるかと。生きていれば何とかなる、だから最後まで諦めるなと思うんですよね」

今後の予定としては、ネット連載『ニーベルングの指環』での『神々の黄昏』パートの完成、また『超時空戦艦まほろば』、『児女英雄伝』、などの再開が待っているという。そしてインタヴューの中でも出てきた自分がやりたかった作品への着工と、更なるアイディアがふつふつと溢れ出てくるのだそうだ。 TOP

<松本零士>
1938年福岡県久留米市生まれ。54年、16歳の時に雑誌『漫画少年』の第1回長編漫画新人賞を受賞。72年『男おいどん』で講談社出版文化賞受賞。以後、『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』といったSF作品で、時代を越えて、多くの読者を魅了。78年に漫画家協会特別賞、そして小学館漫画賞を受賞。さらに2001年には、学術・芸術上の功績が認められ、紫綬褒章を受章。現在は漫画の活動以外にも、日本宇宙少年団理事長、宇宙開発事業団参与などを兼任。
HP:www.leiji‐matsumoto.ne.jp
 
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