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1月31日(月)オーストリア

今日はオーストリアからフミ・コッツエンマッヒャーさんのレポートです。


今年は日本にスキ-が伝承されて100年目というと年に当たっています。
明治44年にあたる1911年の1月12日上越市高田で当時オーストリアハンガリ-帝国の軍人 レルヒ少佐がスキ-を教えたのが始まりとされてます。 
一本杖スキ-で 途中滑って転んでも失格にならなかったというものです。


レルヒ少佐がスキーを習ったのがオーストリアでアルペンスキ-の創始者といわれるマティアス・ツダルスキ-氏です。 
 
彼が住み、スキ-技術を発明した小さな町リリエンフェルトはウィ-ンから80キロです。。このリリエンフェルト市はレルヒ少佐がスキ-を教えた新潟上越市と30年前から姉妹都市関係を結んでいてたいへん密な交流が両都市の市民の人々で行われています。
2週間ほど前のジャスト100年めにあたる1月12日の記念日にはリリエンフェルト市長も来日。
日本にスキ-を伝えたレルヒ少佐の功績を讃え、スキ-発祥を記念してレルヒ祭りが開催されてますがリリエンフェルト市長も参加されたそうです。 


ここオ-ストリアでスキーが大変さかんなのはオ-ストリアの西側地域です。
ウィ-ンの町はウィ-ン盆地に町があり北から南にかけて東アルプスが走ってます。
ところがウィ-ンで東アルプスが始まりますからせいぜい500メ-トルの高さです。 ウィーンの人々がスキ-をするときは近くても車で2時間ぐらい走らないとスキ-場がないんです。

オ-ストリアのスキーの創始者ツダルスキ-氏がスキ-を工夫したリリエンフェルトの山は こうしてウィ-ンからはじまった東アルプスでまだまだ1000メ-トル級の山です。
やがてもっと西のザルツブルクでは2000メ-トル級のアルプスとなります。
サルツブルクに住んでれば冬ともなればスキ-場はあちこちにあり また優秀な選手も出ています。長野オリンピックで活躍したヘルマン・マイヤ-選手もこのサルツブルク地方の出身です。
サルツブルクからさらに500キロ西には冬季オリンピックで有名なインスブルックがあります。
ここまでくると3000メートルの山々に囲まれた町です。
そしてさらに200キロあまりでスイスとの国境でスイスにはいるとすべてではありませんが4000メ―トルのアルプスとなります。


ちょうど2月にはいるとオ-ストリアの小、中、高等学校では学期末休みに入ります。
昔1970年代の石油危機のとき石油で暖房していた学校を一週間でも休みにすれば石油消費が減少するということで始まった学校休みです。
普段からスキ-に馴染みのない特にオ-ストリアの東にある地域ではウィ-ンもそのひとつですがそれが子供たちのスキ-を習いましょうというスキ-週間にもなりました。

地域によって休みに入る時期がずらしてあります。これは高速が込まないように、スキ-場が込み過ぎないようにという配慮とスキ-場がシーズンを通じて客を受け入れられるようにというものだそうです。
この辺はとてもオ-ストリアらしい政治と思います。この学校からのスキ-週間はもちろん義務でなくまた親の負担をすくなくということも重要なことでした。

ユ-スホステルや州で管理している山の家といったところが宿泊先。
スキ-場には 国家試験に合格したスキ-の先生がいます。
引率の担任以外にオ-ストリア国家試験もライセンスのある先生にも習えます。
初心者 中級 上級とグル-プわけはもちろんあります。
スキ-はウェアや靴にもお金がかかります。スキ-ウェアは自分で調えますが、スキ-場にはもちろんスキ-靴やスキ-板のレンタルも用意してあります。

学校の用意したスキ-週間に参加せずもちろんこの休みを利用して家族で行くこともできます。我が家も周りにスキ-場がないところに住んでますから息子が小さいときオ-ストリアに住む以上スキ-はできなくっちゃとはりきって3歳の息子をスキ-の幼稚園にいれました。
さすがスキーはオーストリアの誇るお国芸ちゃんと幼稚園も用意されてるんですね。
スキ-のはきかたからはじまって、まずスキ-をつけて歩くことから教えてくれました。
6日目にはなんとレースまでありました。
今年は12月の大寒波と大雪のヨ-ロッパでここウィ-ンでもホワイトクリスマスを楽しみにしていたのが12月23日ころから気温があがり雪が溶け始めてしまいました。
一月半ばで春を思わせる日中10度以上にもなってます。
これだと2000メ-トル以上の高い所のスキ-場にいくか人工雪のスキ-をすべるかということになります。

こちらの スキ-場の楽しいところは一枚のスキ-券でひとつの山だけでなく隣接している隣の山にもすべっていけるというところです。
また 山小屋での食事のあとベランダにおかれた寝椅子に横たわり日光浴してる人を大勢見かけます。これなどは私たちからすると他人事ながら皮膚がんや日焼けの心配をしてしまいます。
でも晴れた日の雪をかぶった山々の眺めはすばらしいの一言です。
余り上手でない私には少し霧のある日ののほうが滑りやすいです。
晴れてると滑っているコ-スから深い谷間が見えたりして足がすくんじゃうんですね。
スキ-場での食事は昔は簡単なスープ、ソ-セ-ジ、サンドウィッチ クレープ グラーシュとかあまり期待できませんでしたが 最近は新鮮なサラダもちゃんとあります。
ウィーンは今年の期末休みは2月5日にはじまります。

ウィーン市は 毎年市役所まえ広場に人工スケ-ト場を設置。


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ウィ-ンっ子が楽しみにしている催しです。 


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リリエンフェルトでのツダルスキ-氏は1899年に当時有名になったノルディックスキ-を取り寄せています。
極地探検家 ナンセン博士が書いた“雪靴でグリーンランド横断“ を読んでノルディックスキ-に興味がわいたのです。
ところが取り寄せたスキ-は通常使われていた横方向指示がない弓型ビンディングのスキ-でした。このスキ-がなだらかな斜面ではよくてもアルプスの急斜面には余り役に立たないことをわかりました。
それからツダルスキ-の工夫が始まり1890年から6度目のの冬を1896年かかとが横方向に動かないよう固定できる革命的な金属のビンディングを作りました。
こうしてこのビンディングとノルディックよりず-と短いスキ-を用いてアルペンスキ-と呼ばれる新しい技術を発明しました。
ちなみに旗を立てておこなうレ-スはこのツダルスキ-氏が研究をしたリリエンフェルト市のムッケンコ-ゲル山で1905年3月19日に第1回目が開催されてます。
ツダルスキ-氏は1003年から軍人の為のスキ-講座をひらき、その中の生徒の一人がテオド-ル・フォン・レルヒ少佐です。
1919年に退役軍人となってから3年後1922年53歳で結婚します。
お相手の女性は二人の女の子をつれての再婚でした。
レルヒ少佐はいまウィ-ンの中央墓地のレルヒ家の墓に眠ってます。
1945年12月24日なくなりました。


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長野オリンピックで活躍したオ-ストリアの選手。
ヘルマン・マイヤーさんは選手生活からは引退しましたが去年12月南極点までの徒歩とスキ-で400キロを突破する冒険を達成しました。これがなんとまた100年で重なってるのですね。1910年から1912年にかけてイギリスのスコットとノルウェイのアムンセンが南極点一番乗りを目指したのです。

今回マイヤ-選手はオ-ストリアチームとドイツチ-ムで南極点を目指しました。
南極は夏に当たるのが12月から一月。太陽は常に地平線のうえにあって完全な白夜が始まります。24時間太陽が出てるけれど気温はマイナス20度からマイナス40度。
夏だとブリザードとよばれる雪嵐の心配が少ない。
オ-ストリアチームはマイヤ-選手のほか、オ-ストリアラジオ3のアナウンサー・トニ- ヴァレックさんを中心に合計4人で構成されてます。
出発前には緻密な計画と準備です。 
極限な条件に耐えうる体力精神力のほか氷の平原地でのオリエンテ-ションのつかみ方。雪嵐に見舞われたときのテントの張り方などいろんな準備がされての出発です。
12月19日に出発したチ-ムはスキーでほぼ毎日40キロ進みました。気温はマイナス30度。さらに60キログラムの荷物をひっぱています。睡眠は毎日4時間ほど。一日に18時間移動にかけたそうです。
このドキュメンタリ-が3月にオーストリア放送、ORF、ドイツテレビ、 ZDFで放送されますがそのときまでどちらのチ-ムがいちばんに南極点に到達したかは伏せられています。

マイヤ-選手は長野オリンピックでの大転倒の3日後にス-パ-大回転で金メダル獲得。
さらに大回転でも金メダルという活躍で不死身のマイヤ-とさえいわれていました。
その2年後、自宅に向かう途中バイクに乗っていて交通事故にあい重傷。右足切断かとまで言われてましたが 驚異的な回復は奇跡的です。
私たちでは想像もできないような強烈な忍耐と意思で過酷な治療運動や筋肉回復運動をしたのでしょう。
このあたりがが単なる発明者でなく山小屋で質素な生活ではあるけど仙人かとおもわせる自己鍛錬の生活を実践し56歳のときになだれ遭難者を救助中、2次なだれで全身80箇所も骨折しながら高齢になるまで体を好調にたもち80歳でもまだスキ-をはいていたツダルスキ-と重なるところがあります。
ツダルスキ-さんは 1940年6月104歳でなくなり、晩年をすごしたリリエンフェルト市内 自宅のアルプスの見える庭に眠っています。