第48回

-普天間混迷が教えてくれたこと-

木村>  今朝のテーマは「普天間混迷が教えてくれたこと」です。この番組では普天間基地の移設問題について寺島さんに何度かお話を伺ってきておりますので、私たちの問題意識としては、いまメディアが伝えている「とにかく5月末までに結論を出さなければならないから時間がないのだ」という論調と、もう1つはキャンプ・シュワブだ、ホワイトビーチだ、徳之島だという、「候補地はどこになるのか」という論調の2つに絞られています。私たちはこのメディアの報道に幾分、違和感を感じながらずっと見てきましたが、寺島さんは「普天間混迷」ついてどのようにご覧になっているのでしょうか。

寺島>  私は普天間基地問題をどれだけ柔かく考え新たな構想力を燃やせるかどうかが日本の将来に関わっていると思います。自ら制限時間付きのジグゾーパズルのようなものにしてしまった政権の愚かさについて日本人として真剣に考え直さなければならないと思います。
そもそも普天間問題は、普天間基地の安全に関わる問題です。2004年8月に沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜ちたという事件が起こりましたが、あまりにも住宅密集地に近いところにこのような基地があって危険であるということが背景になっているのです。仮に、普天間基地の中に現在のまま海兵隊の戦力が留まっていようが、アメリカ側にこの基地を安全にオペレーションする責任があるということは間違いないのですが、「移ってやってもよいから自分たちも納得ができて、満足できる代替案があったのであればもってきて下さい」という懐で、安全を確保するための挙証責任さえ、日本側が背負う形となって、日本があちらへ行き、こちらへ行きとジグゾーパズルをやっているようになってしまいました。本当であればアメリカも一緒になって並走して安全という問題をどのように解決すればよいのかというところで、最後の最後まで責任を共有していなければなりません。しかし、いつのまにか日本側だけが全部背負って走り回っているという変な空気になっているということです。
 この6ヶ月間にわたる迷走劇をじっと見ていて、私は問題の本質で確認できたことがいくつかあります。まず1点目は、「アメリカは本気で日本に基地を持ち続けたい」という気持ちがあるということです。これはどのような意味かというと、いままでは、もし、日本側が基地の縮小や地位協定の改定等についてごちゃごちゃ言ってくるのであれば、我々はいつでも日本から引き揚げてもよいというくらいの恫喝のシナリオとも言えるようなものを効かせていたのですが、政権が代わって、もしかしたら日本側が基地の縮小のようなことを言いだしてくるかもしれないと感じとった瞬間に、米軍がいま日本に存在していることがいかに重要であるかという、世に言う、抑止力論を持ち出し、極東の安全のために、或いは、日本の安全のためには米軍が基地をここに持っているということがいかに大事なことなのかということを、あたかもキャンペーンをするかのように日本側に訴え始めてきました。
そのことによって「なるほど」と思いました。アメリカは日本に基地を置き続けたいのだということが見えています。その判断の後ろには日本側が米軍の駐留コストを7割も負担しているという構図があるわけです。つまり、ほぼ、占領軍の基地のステータスのまま、占有権を持った基地を、受け入れている日本側が7割もコストをもってくれて、基地をもっていられるというのは既得権からいっても、居心地からいっても、こんなによい基地はないわけです。つまり、アメリカの本国に基地を置いておくよりも日本に基地を置いておいたほうがコストを7割ももってくれるので一番安上がりな基地をアメリカとしては展開できるということです。
また、その間、新たな基地のもつ意味も見えてきたように思います。いま第三海兵隊が普天間に駐留していて約70機のヘリコプターをもってオペレーションしているといいますが、実際はおそらく半分以上がアフガニスタンに展開していて、ほとんどもぬけの殻に近いような状態になっていると推定されています。実際に沖縄第三海兵隊の所属の人たちがアフガニスタンに出ていって、かなりの数の戦死者まで出していると言われています。これがどのようなことを意味しているのかというと、沖縄の基地、もっと言うと日本に展開しているアメリカの基地全体が、抑止力のためにと言うけれども、「日本を守るために」とか、或いは、「極東の安全のために」という文脈をとっくに通り越して、「不安定の孤」という表現がありましたが、まさに、アメリカの米軍再編の中で、ユーラシア大陸を睨んだ、つまり、中東から中央アジアまで睨んで、アフガニスタンのオペレーションにも大変に大きな役割を果たしていて、完全に日本の基地がアメリカの戦争に組み込まれているということを、この間より鮮明に示してきたと言ってよいと思います。
しかも、先日、キルギスタンで革命騒ぎが起こりました。キルギスタンの米軍の空軍基地はアフガニスタンのオペレーションにとって大変に重要な意味がありましたが、ここも失いかけています。このようになってくると、今後ますますアメリカにとって、日本における米軍基地が大変に大きな意味をもってきていることは間違いありません。
ここで1点目を整理しておくと、当り前のように聞こえるかもしれませんが、アメリカは本気で日本にこれから先も長期にわたって基地を展開し続けたいのだということが確認できました。
2点目は先程木村さんがおっしゃったメディアの論調にも関わることですが、この間、私が日本のメディアの報道や色々な人との議論を通じて感じていることは日本人国民の中に、「米軍にいて欲しい」と言いますか、「米軍にいてもらわないと不安だ」という気持ちがあるということです。例えば、北朝鮮問題があり、中国が軍事力をつけてきている状況下で、「もしもアメリカがいなくなったら日本が困る」という空気が漂っているのです。つまり、冷戦が終わって20年も経ち、戦争が終わって65年経って、政権も代わってこれから21世紀の日本とアメリカの軍事的な協力関係をしっかり見直して、新たな方向性を求めようという考え方をとるのではなくて、「いままでのままがよいのだ」という考え方で、現状を変えることよりもなんとか穏便に落ち着かせたいというだけの空気が漂っているということです。極端に言うのであれば、新しく出来た日本の政権にアメリカと向き合って、「冷戦後の新しいアジアの秩序のために日米のどのような軍事協力関係が必要なのか正面から向き合え」と言うのではなくて、「何もしないでいままで通りに落ち着かせろ」というような空気が漂っているということを我々は確認したのではないのかと思います。更に、別の言い方をすると、それほどまでに日本人は戦後65年という米軍基地に関する不変の構造の中に浸りきっているということです。
私が盛んに論文で書いてきていることなのですが、「ひとつの独立国に外国の軍隊が駐留し続けているということは不自然なことなのだ」ということさえ不自然とも思わなくなって、「抑止力」という言葉にしがみついて、そのためにはいてくれたほうがよいという空気のほうへ日本人のかなりの部分が傾斜しているということを私はこの間に確認したのではないかと思います。

木村>  それは、ちょっと溜息をつきながら確認したと言わざるを得ませんね。

寺島>  そのようなことを踏まえて、どのような方向へこの話をもっていけばよいのかということになってくるのです。
 この局面で日本人が腹を括るべきことは、まず、普天間問題の解決は、先程申し上げたように、ジグゾーパズルがどこかにはまって決ればそれで一件落着という話ではなくて、21世紀の日本という面で考えたのであれば、戦後というものを終わらせるためにも、日本における基地のあり方の問題を根本的にいま見直して、そして、その見直しの方向をアメリカ側にしっかりと見せて、日米の戦略的対話という仕組みを提案して基地の使用目的や地位協定のあり方等をしっかりと提起する方向づけしていかなければならないということなのです。しかし、まず、いまのような空気を前提にしたのであれば、アメリカも居続けたいと思い、日本人もいままで通りのほうがいいのではないのかと思う人が多いかもしれないという局面の中で、日本が独立国である限り踏み込まなければならない方向は少なくとも何だろうかと私自身も考え始めています。
それは何かというと、日米地位協定においては、理論上3つのタイプの基地が存在することになっています。1つ目は米国が占有権を持って利用している基地で、日本にいま駐留している米軍の大部分の基地はこの性格の基地だと思います。これはほとんど占領軍のままのステータスを確保していて、日本人はアメリカが海外で展開しているほとんどの基地がそのようになっているのだろうと思いがちですが、実はそうではなくて、極めて稀なタイプです。2つ目は米軍が管理権を持っていて、自衛隊が共有しているというステータスの基地です。3つ目は日本側が管理権を持っていて、そこに米軍が駐留しているというタイプの基地、或いは、利用しているというタイプの基地です。具体的に言うと、北富士演習場は米軍が使ったりしていますが、日本側が管理権をもっている基地です。これは世に言う「シンガポール方式」というものです。フィリピンに駐留していた米軍がフィリピンから引き揚げさせられたことがありましたが、その当時、シンガポールのリー・クアンユーは東南アジアに軍事的空白が起こってならないと、まさに抑止力を働かせるために米軍基地があったほうがよいということでシンガポールが受け入れたのです。ただし、管理権はシンガポールが握ったまま渡さずにいて、いまでもシンガポールにそのように米軍が駐留している基地があります。
ここで、問題は抑止力が必要であると双方で思っているのであれば、この3つのタイプの基地のうち段階的に基地のステータスを第3のタイプの基地に近づけていき、少なくとも日本が独立して自立した国民国家であり、自立自尊の精神をもって向かわなければならないのならば、占有権を外国の軍隊に与えているというステータスは不自然であるということに気がついて、いっぺんにではなくてよいから、日本側に管理権をもったタイプの基地に切り替えていくという方向に踏み出すことが、フェイズ1として日米の軍事的な同盟関係を変えていく時の一歩なのではないのかと思います。抑止力をお互いに認識し合っている関係において一歩改善して踏み込むために、この段階の基地に近づけるということは反対のしようがないリアリティーのある話なのです。
今度はフェイズ2として、日本にある米軍基地の施設のそれぞれの使用目的をしっかりテーブルにつけることを考えるべきです。1993年の冷戦が終わった後、ドイツは、自国に駐留している全米軍基地の使用目的を個別にしっかり吟味して優先順位をつけて段階的に縮小していく方向に踏み込みました。そして、基地の地位協定を改定してステータスをドイツが主権をもつ形にもっていったのです。しかし、日本は1990年代にそれを行なわないまま21世紀に入ってしまって、冷戦が終わって20年も経っているのに冷戦を前提としてつくった日米安保の仕組みのままに固まってしまっているのです。したがって、フェイズ2として今度は個別の基地を目的ごとに吟味して段階的に日本から米軍基地を縮小していくプロセスに入っていくことも大いにあってよいと思います。
フェイズ3として何十年かかるかわかりませんが、仮に、どんなに時間がかかろうが、最終的にはアジアの情勢をよく見ながらバランスがとれた形で日本という国に外国の軍隊が駐留している状況をなくしていくのです。これは偏狭なナショナリズムで言っているのではなくて、国家が国家である限り、この意思を失ってはならないということが大変大きなポイントで、国際社会の常識なのです。

木村>  寺島さんのお話に「段階的」という言葉が出てきたという背景について後半でお伺いします。

<後半>

木村>  寺島さんのお話の前半で、3つのフェイズということで段階的に接近するというお話を伺いました。この番組で我々が寺島さんからお話を伺ってきた重要な点は、冷戦から、或いは、冷戦が崩壊して終焉して、これだけの時間が経った時に我々は脅威というものを一体何なのかと考えるのかということです。更に、寺島さんが連載されている月刊『世界』(2010年2月号・岩波書店)の「常識に還る意思と構想」の中で、「自分のおかれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな表情」と書いていらっしゃるのですが、これは我々にあってよいのかという警鐘の部分をいま敢えて3つのフェイズでと言わなければならない背景は一体何なのでしょうか。

寺島>  「核抑止力」という言葉がありますが、よく日本人は溜息をつきながら、そうは言っても日本はアメリカの核の傘によって守ってもらっている国だからというところで、じっと手を見るという空気があるわけです。しかし、3月5日にオバマ大統領自身が「核抑止力という考え方そのものが冷戦の時代の遺物であって、時代遅れだ」と言い始めていました。そのような発想に立って「核なき世界」に向かって、まさに、ワシントンにおいての核サミットのようなものをアメリカが主導して世界を変えていこうとしている時に、日本自身が抑止力という枠組みの中にじっと収まっているのではなくて、一番前に出て核抑止という発想自体に強い問題意識をもって検証しなければならない局面にきているはずなのです。
 事実、核抑止論は冷戦の時代の産物であるということは全くその通りで、要するに、西と東が向き合っていた時に核で先制攻撃をしたのであれば、相手からも核で自分のところに報復攻撃をされるかもしれないという恐れがあったために、お互いに核攻撃を自制すると言いますか、ためらう状況がありました。それによって均衡が成り立つので核の傘にいればむこうが核攻撃をしてこないだろうという理論が核抑止論というものです。
 しかし、核抑止論は相手が正気であるということが前提になければ成り立たない議論です。つまり、相手が先に攻撃してしまったら反撃されてしまうかもしれないという正気があるために攻撃をためらうということです。しかし、例えば、北朝鮮問題や核によるテロ等というものは相手が正気の沙汰ではないから危ない話なのです。そのような狂気の沙汰かもしれない国が核を持つことの危うさとか、テロリストが核を持つかもしれない危うさをどのように制御していかなければならないのかという時に核抑止論というのは原理原則論から言っても成り立たないのです。
 日本が核の傘の中にいれば安全だとか、アメリカが守ってくれていればこの国は安全なのだというところから、本当は頭を柔らかくして自分の主体的努力によって極東の安全をつくり、自分の国をしっかりと守っていくという意思をもたなければならないのです。
アメリカに対して過剰な期待と過剰な依存によって、この国は安全で豊かな国としていられるなどという状況ではないために話は複雑になっているのです。
 そのような状況であるにもかかわらず、先程、「溜息まじりに」という言葉を我々は使っていますが、それでもなおかつアメリカの軍事力に依存して生きていたほうがこの国はよいと、その方が金がかからないと議論する人が日本には多いのです。つまり、この国には軽武装経済国家で日本が自前で防衛することよりも金がかからないためにアメリカに任せた方がよいのだという人さえ白昼堂々いるわけなのです。このような状況であることの現実をしっかり踏まえて、ここは溜息を抑え、先程申し上げた、まず、フェイズ1に向かうのです。「戦略的曖昧さ」という表現がありますが、つまり、抑止論というものは、剥いても、剥いても中身が見えない玉葱のようなもので、本当に抑止力があるのかどうかはわからないけれども、それでも日本には米軍がいたほうがよいと思っている人がそんなに多いのであれば、せめて一歩踏み込んで日本国の国家としての威信にかけても民族としての自律心にかけても、まずは第一歩として少なくとも日本が管理権を持った形の抑止力の方向に一歩近づけましょうという考え方が先程申し上げたフェイズ1なのです。
 現実的に還って、本当は抑止力論の虚構ということにある段階で気がつかなければならないのですが、その前に、それでもなおかつ、そのようなことにしがみつきたいと思っている人が多い現実を踏まえたのであれば、段階的に接近して国民世論をつくって進み出していくしかないということが本日私がお話ししている趣旨です。