第24回目

<46年前の鹿島守之助氏に宛てた手紙と寺島文庫>
 
木村>  先週は「ベルリンの壁崩壊から20年~ベルリンで考えた事~」というテーマで、私たちが欧州でいま何が進んでいるのかキチンとした認識を持つ事の大切さとその事が世界と日本にどのような意味を持つのか、そして、いま欧州ですすむ「三つの実験」という事でお話を伺いました。
今朝は「寺島実郎が語る歴史観」のコーナーを拡大して、テーマの設定が「46年前の鹿島守之助氏に宛てた手紙と寺島文庫」となっています。「寺島文庫」は4月から寺島さんが文庫を開設されたという事は分かるのですが、このお話はどういう事なのでしょうか?
 
寺島>  自分の学校の庭に子供たちがタイムカプセルを埋めたりしますが、自分が埋めたタイムカプセルを46年経って掘り出したような奇妙な気持ちで私はこの話を語りたいと思います。
1963年、東京オリンピックの前の年ですが、私は15歳の少年として札幌の高等学校の一年生でした。私は変わった少年で、やたらに色々な本を読んでは先週お話をした欧州統合のように、欧州では地域統合が進んでいるのか等について高校の先生たちに難問をぶつけて悦に入っているという不思議なタイプでした。
当時、私は何かの記事で、その地域統合の思想の原点にオーストリア出身のクーデンホーフ=カレルギー(註.1)という人物がいる事を知りました。この人は「パン・ヨーロッパ」という本を書いて「ヨーロッパ統合の父」と呼ばれた人物です。彼は「ヨーロッパは統合されなければならない」と戦後に大変主張をしていたオピニオン・リーダーのような存在でした。そして、私は彼に関する本をいくつか読みましたが、クーデンホーフ=カレルギーの翻訳本は高校生が買うにはとても高価なもので手が出ませんでした。それらの本の出版元を調べたら「鹿島出版会」でした。これは、鹿島建設の中興の祖と呼ばれていた、元外交官で鹿島建設の創業者の一族に引っ張られて婿養子に入って鹿島を支えるという人生を送った鹿島守之助(註.2)さんが創立したものです。その鹿島出版会からクーデンホーフ=カレルギーのヨーロッパ統合の思想に関する本を出版したのです。
札幌の高校生だった私はずうずうしく鹿島守之助さんに手紙を書きました。その手紙に何を書いたのかというと、「私はこのような事で一生懸命興味をもって本を読みたいのですが、私たちにはとても手が出ない本なので古本でもよいから私に送ってもらえないか」というような内容なのです。それを鹿島さんに送ってしまったのです。そして、手紙を出して半月くらいが経った時、鹿島守之助さんがクーデンホーフ関連の色々な本を箱に詰めて送って来てくれました。
この話を他の人が聞くと、「ああ、そうかいな」という程度の話なのですが、実は、鹿島守之助さんのお孫さんの渥美直紀さんという現在鹿島建設の副社長で、私にとっては友人となっている人がいて、彼に「実は、あなたのおじいさんの鹿島守之助さんに私が高校一年生の時に手紙を書いて、クーデンホーフの翻訳本を貰ったのだ」と話をしました。40数年前の話なので、最初はにわかには信じないで「へーっ」という感じくらいでした。
しかし、そこから話が大変面白くなって、鹿島守之助さんの秘書をやっていた幸田初枝さんという女性が今でも御健在で、渥美さんが彼女に「私の友人に寺島という男がいて、こんな事を言っている」と話したら、幸田さんはありありとその事を覚えていたのです。つまり、北海道の少年に本を送った事実です。しかも、ここから木村さんは驚くと思いますが、幸田さんは、その40数年前の手紙をいまでもファイルして持っていたのです。よっぽど整理が良い人だと思うのですが、彼女は「この少年は面白い。やがて、何か仕事をしてくる男だろう」と思ったようです。
そして、40数年前の手紙を渥美さん経由で、自分の目で自分の少年時代の字を見る事になったわけです。しかも、本を送って来てくれたので私は御礼状も書きました。その御礼状と共に2通の手紙が出て来たのです。私はこんなずうずうしい事を書いたのかと正直申し上げて恥ずかしくて赤面するような手紙なのですが、色々な思いがあり、鹿島さんという人はある種の恩人なのです。よく北海道の少年なんかに本を送ってやろうという気持ちになったなという事と、私の受け止め方としては、自分が今日まで色々な事で歩んできたけれども、思えば色々な人たちに支えられているのだという事をあらためて思い知る大きなきっかけにもなったのです。
その時に送ってくれた「パン・ヨーロッパ」、「ヨーロッパ国民」等の本を私はいまでも大事に持っています。まさにそのように少年時代から集めて来た本がその後世界中を動きまわる事になって、特に「地歴」=「地理や歴史」に関する社会科学の本、例えばアメリカ論やヨーロッパに関する本、中東に関する本等、更には未来論、日本の社会構造や世代論等の類の本3万冊を世田谷の駒沢にある父の家を引き継いだ家に庭に書庫を建てて収納し、そこが私の物書き場でもあり、ものを考える場でもあるという事で今日まで過ごしてきました。
そして、ここ何年間で、若い人たちを育てる場として寺島文庫のようなものをつくって、そこで研修やものを考えたり研鑽を励む等の磁場を形成する事ができたら非常に意味があるという想いが段々とふくらんで来ました。
東京電力会長、経団連会長をやられた平岩外四(註.3)さんという立派な方が、4万冊の本を残して亡くなりました。その本をどのようにするのかという事で、残された人も含めて大変悩まされたという話があります。よほどの稀少本だったらともかくとして、いまは古本屋でもそんなに本は引き取りたくないという時代です。そんな中、例えば、東大阪の司馬遼太郎記念館もしっかり見せてもらって、それらを参考にして実際に若い人たちがそれを使える磁場として、あるいは一緒になってものを考える研修の磁場として「寺島文庫」というものをつくってやろうと思いました。
 そして、「寺島文庫」を開設し、九段下のちょっとした規模のビルの中にその3万冊の本を移して研修、研鑽の磁場にもするという構想に思い切って踏み込んでみたいと思っています。実はいまはまだ途上で、まだ半分も書籍を運び込んでいません。
 
木村>  3万冊ともなると大変ですね。
 
寺島>  2度にわたって運び込み作業を10人位の人たちが手伝ってくれました。ヘトヘトになってしまいましたが、このように一歩ずつやって行くつもりです。
日本に来ている留学生のような立場の人たちが大学院等に来て研究しているのですが、実際にその人たちは止まり木として研鑽したり論文を書いたりする場すらないのです。私の夢は段階的に特にそのような人たちの止まり木になるような磁場をつくれればよいと思っています。そして、「クラスター」=(cluster=房)という言葉がありますが、様々な研究のクラスターをつくる、つまり、葡萄の房のようなものをいくつもつくりだすのです。例えば、北東アジアや中央アジア等の研究会、そして私がメディアの人たち等とやっているメディア会という勉強会等がそれぞれ房をつくって、梁山泊のように溜まって議論をしたり、時代を深めて認識し合ったりするという場をつくる事には大変に意味があると思っています。
 勿論、文庫の中には46年前に鹿島守之助さんから貰った本も私が世界中を動いて集めて来た本も集約して置いてありますが、そのようなものが出来てくるという事がちょっとした夢なのです。思えば46年前に鹿島守之助さんが本を送ってくれ、その後、(1975年)初めてロンドンにビジネスマンとして赴任して、イギリスがECの仕組みに参加する時代が来て……。段階的接近法のように欧州が変わって行く姿を並走してみて、いつも原点にクーデンホーフの思想があって、欧州の統合は、そのように実現していくというプロセスを自分は見ているのだと思っていました。理想は必ず実現するというのはクーデンホーフの「実践的理想主義」という考え方でもあったのです。
ドラマや本にもなっているので御存知の方もいると思いますが、クーデンホーフ=カレルギー氏のお母さんは日本人です。有名な青山光子さんです。クーデンホーフのお父さんがオーストリア・ハンガリーの二重帝国の外交官として日本に来ていた時、早い話が一人の美人を見染めて惚れこんでオーストリアに連れ帰ったというところから始まっているのです。青山光子さんは、その後、クーデンホーフ・光子という名前になって、その間に生まれた子がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーで、皮肉な言い方をする人たちは、「ヨーロッパ統合の思想の母は日本人だ」と言うような表現もするくらいです。これは無駄話のように聞こえるかもしれませんが、要するに、一種の連想ゲームのようなものの中で物事の考え方は成熟して行くものだと思ったのです。
 
木村>  15歳の少年が送った手紙が鹿島守之助さんの胸を揺さぶり、琴線に触れるものがあった……。やはり、そこが動かしたというところと、もう一つは、立場を変えて、そのようなものを貰った時に、後々の若い人たちにある年代にきた人たちが何を出来るのかという事も問題になりますね。
 
寺島>  このような類の話は誇張であったり、ハッタリ話が多いのですが、私自身が現実に46年前の手紙が出て来てしまってギョッとなったという事が本音なのですが、そのように話は進むものなのです。
 
木村>  現在の寺島さんを鹿島守之助さんがご覧になったら、きっととても喜んでその時の事を思い出される事でしょう。
寺島さんがいつも使っていらっしゃる「磁場」という言葉遣いは、つまり、「知」の磁場というものをつくる事ですが……。
 
寺島>  磁力線の「磁」という字と場所の「場」という意味で私はよく使っています。引きつける力です。
 
木村>  このようなものは日本ではまだつくられていませんね。
 
寺島>  全く気負う気持ちはありませんが、そこが一つのいい意味での溜まり場になったらいいなと思います。我々の歳になると、これは大概の酒飲み話で「そういうものがあるといいなあ」と話をしますが、要するに、それを一歩ずつでも半歩ずつでもいいから実現して行こうという一種のノリです。
 
木村>  このお話も鹿島守之助さんに是非、電波で届けたいものです。
 
<後半>
 
木村>  後半はリスナーの方からのメールを取り上げたいと思います。
 寺島さんはこの4月から多摩大学の学長に就任されたという事を踏まえてのメールとなります。ラジオネーム「ぜんざい」さん、30~39歳の男性のリスナーの方です。この方はポスドク問題(註釈.4)について、あるいは日本の大学政策についてお伺いしたいという事です。
「私自身が文科系の大学院を出て、現在とある小さな研究所に研究員として勤めております。しかしながら、勤めていると言っても実質的には研究歴を途切れさせないために席をおかせてもらっているだけで生活費、研究費は別のアルバイトをして賄わざるを得ない状態でして、いわゆる『高学歴ワーキングプア』そのものといったところです。それでも研究機関に席をおかせてもらえている私などはまだいい方で、私の周りには大学院まで出ていてまともな職にも就けず、将来の見通しも全く立たないという人がゴロゴロしています。悲しい事ですが、そのような状況を悲観して自ら死を選んだという人も何人か知っています」。
という事で、文部科学省の大学院政策というものについて、あるいは学位というものについてもメールが続きます。「国は一体、大学院の学生、あるいは院卒の人間をどうしたいのでしょうか? 20代後半から30代前半の働き盛りの若者を大量に囲い込んでおいて挙げ句、腐らせてしまうなどというのは愚の骨頂だと思います。学問レベルも今後、衰退の一途を辿るでしょう。さて、この問題を寺島さんはどのようにお考えになるでしょうか?」というメールです。
 
寺島>  この「ポスドク問題」ですが、博士号は持っているけれども……、という形で本当に大問題なのです。したがって、まさに彼の話は全く正しくて、国として高学歴にもかかわらず、ワーキングプアになっている人たちを今後どのように活用して行くのか、制度設計をどのようにするのかという事はとてつもなく重要も問題です。私自身、そのような人々の受け皿づくりの方で力を尽くしていかなければならないという事もあって、アジア太平洋研究所というシンクタンク等、より磁場を広げて、日本だけではなくてアジア太平洋地域の若い研究者が力を発揮出来るような場をつくって行くという努力をする事が我々の歳格好の人間の責任でもあり重要だと思っていて、そのための旗振りもしているし行動もしています。
ただし、ポスドクの立場にある人たちと面接をしたり面談をするという事も仕事の内にある中で、その際に私が感じる事があります。私自身も文科系の大学院を出た人間として、当時、社会がそんな者を喜んで受け入れてくれる土壌が無い状況で社会参加をして行った若者でした。厳しい言い方をする気持ちはないですが、太刀持ち、露払い式の人生なんてないわけです。つまり、「あなた、頑張って下さいね」と言って一生懸命に盛り立ててチャンスを与えてくれて、やれ育てと言ってジョーロで水を与えてくれて太陽まで燦々と照らしてくれる人生を期待するという事は、現在の社会のでは満たされません。
要するに、何が言いたいのかと言うと、「セルフ・ヘルプ」という言葉がありますが、自分で一体何がしたくて、そのためにどのような準備をしてどのような努力をしてネットワークをつくっているのか。江戸時代や幕末の人たちを見ていればわかりますが、それこそ履物を履き潰す思いで友達、先生、社会の先輩等、多くの人を訪ねて胸を借り、自分を鍛える……。このように力をつけて行って、辛うじてチャンスを与えられて、「こいつならやれるな」という評価を高めていくような努力が必要です。本当によくやっているけれども残念ながら世の中に受け入れられずに悶々としているという人には滅多に出くわしません。つまり、私たちから見ていて、何か心の弱さと重大な欠陥を背負っているように見えるのです。
どのような欠陥かと言うと、今言ったような意味での努力が出来ない才能と言いますか、キャリアが上がるほど博士号を持っているというある専門領域を深めているのかもしれませんが、それだけでは人生は生きて行けないわけです。やはり、本当に頭を下げ、努力をし、人から吸収し、他流試合をして色々な意味で自分に力をつけていって初めて人間としてしっかりと目を見て、「お前、一緒に仕事をしないか?」という人が出てくるわけです。
 したがって、私はポスドク問題というものは制度設計をしっかり行なって、そのような人たちを受け入れて行く基盤を充実させるという努力も勿論大事ですが、自分の努力の延長線上でしか人生は開けないのだという事を厳しいようですが噛み締めなければならないと思います。「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」という言葉がありますが、踏まれても、踏まれても出て来る者は力をつけて出て来ます。その事を私は申し上げておきたいのです。
 
木村>  是非、ぶつかって行って欲しいという思いですね。

(註1、リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー<1894年―1972年>。東京生まれのオーストリア政治家。汎ヨーロッパ運動を展開。後世の欧州連合構想の先駆けとなった)
(註2、1896年―1975年)
(註3、1914年―2007年。愛知県常滑市生まれ。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会<経団連>会長を務めた)
(註4、ポストダクター。大学の博士号を取得後の研究者。主に博士号取得後も正規ではない(任期付の)研究職や教育職に就いている人々。ポスドクの就職難や雇用不安が社会問題となっている)